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木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編   木ノ花後編 第6話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編

公開日:2016年09月08日 / 最終更新日:2016年09月08日

 卅一./退魔滅怪(西暦1189年)

 奥州入り、特に平泉に頼朝が入って以降は、何の因果か大雨の降る日が続いた。
 天の愁いというのであろうか元々の気候か、はたまた頼朝が雨を呼びやすい男であったのか、残敵掃討は中々捗らなかった

 平泉陥落の後、奥州軍は分散して遊撃戦を繰り返していた。それに加えて泰衡は、地の利に任せて方々を転戦し、蝦夷ヶ島(※1)への遁走を企図していた。
 また泰衡は幾度かに渡り、義経推戴の事は父の所行であり、自身は義経を討ち取った由を投げ文にて鎌倉軍に伝え、有り体に言えば命乞いを繰り返した。
 だが、奥州藤原氏の最後は、実に呆気なく訪れる。
 月が明けてすぐの事、転戦していた泰衡を、譜代の郎従であった河田(かわだ)次郎が長年のよしみを変えて郎党らと謀り、泰衡の首を取ったのである。
 その河田次郎はこの首を以て鎌倉に下ろうと、すぐに志波郡陣岡の鎌倉軍本営にはせ参じたのであった。だが彼にも、彼自身が思いもしなかったであろう末路が待っていた。
 囚人に首実検をさせ、それが泰衡の首に相違無い事を確認した頼朝は、景時を遣わして河田次郎にこう言い含めたのである。
 曰く、この行為は功が有る様に見えるが、譜代の恩を忘れて主人の首を上げた事は、八虐の罪(※2)に値すると。
 これをして頼朝は、河田次郎の沙汰を朝光へ任せ、朝光は主の心を汲みつつ後人への戒めにし、河田次郎に身の暇(※3)を与えたのであった。
 これはかつて頼朝の父義朝が、落ち延びた先で長年の家人であった長田忠致の親子に討ち取られたという過去があったからでもある。
 志を翻しての恭順は懐広く迎えて来た頼朝も、主殺しの上の裏切りは、断じて許さなかったのであった。

 目まぐるしく動いた情勢も一段落し、奥州平定の準備と共に奥州勢の余党追討に当たる鎌倉軍。その本営はついに厨川柵(※4)にまで至っていた。
 かつての前九年の役の折、俘囚の長安倍貞任が拠点として、源頼義と八幡太郎義家の親子との最終決戦を繰り広げた地であった。
 幾度かの雨やこの地独特の寒風に見舞われつつ屯する鎌倉軍、その本営。そこでこれらの気候に辟易しつつ、鎮西の時同様に奥州平定の準備を始める範頼。
 その彼の元へ、鎧直垂に腰刀だけを携えた頼朝が、完全武装の武者を一人率いて現れ、言う。
「蒲殿、遠出などせぬか?」
 珍しい、と言うよりは初めての頼朝の誘い。彼の側には供回りが一人、朝光が控えるだけ。
 断るも受けるも易い。ただ、まだ奥州藤原の余党がそこらに潜んでいるかも知れない現在、頼朝が殆ど単独で動き回ろうと言うのには、不審にも不安にも思う範頼。
「我が手勢も奥州勢残党の捜索に掛かっている今、御殿をお守りする兵がありませぬ」
「それも必要は無い。この朝光も居るし、行くのはお前とワシだけであるからな」
 大々的に動かなければ却って安全であろうとの事。
 己は構わないが、果たして頼朝の身に万一があったら――範頼のその不安を朝光が代弁する。
「御殿、やはり拙者が申し上げた通りでございましょう。単独で駆け回るなどお控えになられた方がよろしいかと」
「ならば朝光、お前は残れ」
 その言葉に朝光は折れ、行くのであればどこへでもと腹を括る。
 範頼も不安がないでも無いが、頼朝があえて己を誘ったのに加え、彼がこの情況下でどこに赴こうとしているのかに興味を覚える。
「三河守範頼、お供仕ります」
 よりにもよって源氏嫡流の者が二人、満足な供も連れずに半ば敵中とも言える地を駆けるという異常事態。
 しかし頼朝が言ったとおり、敵にも味方にも察知されずに、この小旅行は始まるのであった。

 範頼も頼朝の乗馬姿は見たことがあったが、あくまでも鎌倉での調練の場での事であり、見ず知らずの地で自在に駆けるのを見るのは初めてであった。
 その上、辺りは少しばかりぬかるんでいる。頼朝が出陣して以来、彼の行く先で雨が降ることが多かったが、この辺りは雨も雪も昨日今日に振った様子は無い。
 いつも水気を帯びた地なのであろうと範頼は察した。
「御殿! 行く先は確かなのでありますか!?」
「朝光! 今から帰っても咎めぬぞ!」
 無論、それで戻る朝光では無い。
 宿場を出て、山中に僅かに開かれた道を行き、更に辻もいくつか曲がった。もう何里駆けたかも分からない。今まで辿った道程すら怪しくなり、珍しく不安がる朝光。範頼は逆に開き直ってただついて行くのみ。
「なぁに後もう少しだ! しっかし蒲殿、なんだかんだと言いながら見事な手綱裁きではないか!」
「郎党に馬に長けた者が居りますゆえ!」
 手勢の大半を次長の指揮の下に残す端で、残党の捜索を名目に本隊から外れた頼景達を思い出していた。
「それはなるほど! 朝光、あと少しだ。しかと付いて参れ!」
 あと少し。
 果てること無く駆けると思われていた小旅行は、頼朝が言ったとおりにしばらくして往路を終え、山中の小さな寒村に三人は到着する。
 僅かに数戸が建ち、集落としての体を成している。田畑は見えない、狩猟で生計を立てているのであろうとはすぐに分かる。
 それもそのはず、周囲は本格的に湿地帯が広がり、乾いた土地は山に入らなければ無い。畠を耕すには不適当であるし、田は拓く事は出来ようが、ここらは恐ろしく冷えた風が吹き、寒すぎた。
 馬に乗った三人の武士を見て、家の一棟から子供らが数人歩み出て近寄る。
 頼朝は朝光が止めるのも聞かずに彼らに近付き、なにやら話し込む。今の頼朝のなりは、とてもこの国の武士の頂点とは思えぬありきたりな様。侍である他、子供達は特段の反応を見せない。
 彼らが頼朝に道を示すと、頼朝は手を振って別れを告げ、すぐに馬に乗る。
「よし、やはりこの先の様だ」
 この先、軍兵が群れなして通る程では無いが、確かにまだ道は続いている。
 これが奥州藤原の余党追討に関わる物かと予想していた朝光は首を傾げ、範頼は少し納得した風に「ああ」と声を漏らす。
 己が知る、この道を辿ったもう一人の人物を範頼は思い浮かべていた。
 少し山に踏入ると、不思議な場所にたどり着いた。広がる湿地、それを囲う緑の屏風の杜。湿地の端に岬の様に突き出した平地があり、そこに祠が建っている。
 ここが目的地なのは分かったが、何を祀る地なのか、範頼にも確かな見当が付かない。
 かつての鎮守府に招かれていたという荒ぶる客神、荒覇吐神(※5)か、それをも併呑した八幡大菩薩がここにもおわすのか。
 もう一人、朝光の不安な貌はもう晴れていた。ここがどんな場所であれ、頼朝に確たる目的が有り、それにたどり着いただけで彼は安心出来ていたのだ。
「蒲殿」
「はい」
「我らより以前、ここに誰が訪れたのか、知っているかな?」
「はい、九郎殿が辿った道であるかと」
 義経が逃げ延びようとした道程。これは鎌倉が掴んだ情報であった。鎌倉からも京からも追われ、果ては奥州からも追われる身となった義経、逃避行に何を思っていたのか。範頼は答えながら当時の義経の心情を推し量っていた。
 平家との戦いであれだけの活躍をしたのに、誰にも受け容れられずにこの様な地で最期を迎えるなど、なんと寂しい事であったろうと。
「そうだ。九郎は更に北を目指し、蝦夷ヶ島へ渡ろうとしていた、と聞いたな」
「はい」
 そう言えば、と範頼は思い返す。
 二ヶ月近くも経って到着した首、あれは本当に義経の物であったのか。そして、わざわざ首が届くのを遅らせるよう言い付けたのは頼朝であった。もしかして頼朝は彼を行かせ、義経は生き延びたのでは。そう僅かな希望が範頼の胸中に浮かんでいた。
 否、頼朝にそれは許されない。
 それが露見すれば、鎌倉はあっという間に瓦解する。盤石に見え、奥州十七万の風聞にも臆さずに前進した鎌倉は、未だ砂上の楼閣の如き体制に過ぎない。
 頼朝がその楼閣の要石となっているからこそ、今そう在れるだけだ。もしかしたら、頼朝の知る外で義経が生きているのでは。
 これも否。義経の首実検には彼が、義経を嫌う景時が立ち会ったではないか。
 全ての希望的観測は、範頼自身が鎌倉でずっと浮かべては消して来た。今考えていた事も、幾度となく考えては消えた物を反芻しているに過ぎない。
「御殿、蝦夷ヶ島とは如何なる地でありましょうか」
 朝光が問う。彼は若いが、武と共に十分に学を積んでいるはず。全く知らない訳では無かろう。
 頼朝はすぐに答えずに二人に下馬を促す。
「そうだな、、、ここより先、馬ではぬかるみにはまりかねん。あの祠までは歩いて行くか」
 言って、自身も一面苔むした大地に降りる。
 大の男達が一歩一歩と足を運ぶたび、緑の薦の様な苔の下からは、じわりと水が滲み出す。
「朝光、蝦夷ヶ島とはな、お主が思っている様な地では無いぞ」
 堂々と決まった歩幅で歩きつつ、頼朝は先ほどの問いに答える。
 朝光が思う蝦夷ヶ島、これは範頼にも察しが付いた。
 蝦夷、俘囚達の大地、化外の地。坂上田村麻呂が平定するより以前から朝廷に逆らい続けた者達が居り、八幡太郎義家やその父、鎮守府将軍頼義により完全に服従させられた俘囚達が居た。
 その様に、反逆者達の大地だと朝光は思っているのであろうと、範頼はそう推察した。
「追われた九郎殿が辿り着く土地としては、おあつらえ向きだと思っていましたが」
 朝光が不遜に言ってのける。未だ彼の中で義経への憎しみが消えないからこそ、頼朝の言葉でそれを再認識したかったのか。また範頼は推し量る。
 だがそこに、頼景が以前言っていた様な嗜虐的な様子は見えない。
「朝光、清水冠者の事はワシが下した命令が全てだ。九郎を恨むな、別の誰かに、押しつけるな」
 彼が義高の件でずっと苦悩しているのを、鎌倉の主は知っていた。だから真っ先にその言葉が出て来たのだが、朝光は否と首を傾げて応じる。
「清水冠者の事は、今は関係無いかと」
 どうやら今のこれは本心からの言葉の様だと、範頼は――頼朝も、彼を侮って安易に考えていたと若干反省する。
 朝光の問いへの答えを保留し、頼朝はしばし黙ったまま歩み、祠の前へ立つ。
「さあ、着いたぞ」
 それは近づいてみると意外に大きく、人が内に入れるほどの社にも見える。
 頼朝はその前で手を合わせ、拝む。ここにおわすのが何者かは知らないながら、範頼と朝光もそれに倣う。
 手を合わせたまましばし黙想していた頼朝は、それより直ると同じく体を戻した朝光へ言う。
「蝦夷ヶ島に済む者達とはな、人間よ」
「人間?」
「ああ、彼らの言葉では彼ら自身を『アイヌ』と呼ぶ。その意味は『人間』だ」
 言葉の通じぬ彼らとの接触の中で、何者かと問うて返って来た答えが人間(アイヌ)であったのかとも考えられるが、頼朝の考えはまた別の所にあった。
「土蜘蛛という名の民を、知っているか?」(※6)
 頼朝が不意に、範頼と朝光、いずれにも問う。
 土蜘蛛。妖のそれであれば範頼も絵巻物語りの中で目にした記憶があった。だが頼朝が言うのは民、人だと言っているのであった。
「物怪であれば、存じております」
 範頼は正直に言う。京において、摂津源氏の祖である源頼光(よりみつ)を病脳させ、返り討ちにされた妖だ。
 範頼のその答えに、頼朝はやおら首を振る。
「彼ら彼女らは、お仕着せの威力にへつらわず、誇りを持って抗う武尊(たける)であった。それもこれも夷狄だ朝敵だと括り、化外にある民として虐げた。そして――」
 彼は目の前に広がる湿地を見つめ、何かを思う。
「そして、彼ら彼女らは、ヒトでは無くされた」
 為政者の意図にそぐわぬ者は妖へ。また、それ以外の者も実は大して変わらないのだと、頼朝は続ける。
「我ら武士は、長らく権門の爪牙(※7)などと呼ばれて来た。それこそが武士の誇りだと考える者も居る。だがな、そこに人としての扱いは無い。否、この国の体制において、公家どころか公卿でも無ければ、ヒトでは無いのだ」
 特権階級によって振るわれる爪牙、そこにはそれ自身の意思など無いのだと頼朝は解く。
 清和帝嫡流の後胤たる河内源氏ですら、血で血を洗う戦いを多く繰り返してきた。その大元にあったのは、公卿達の思惑であったのだ。
 義仲の父義賢と義平の戦いも。義朝とその父為義との戦いも、その後多くの兄弟を誅したのも。そして今、頼朝が義仲を討ち、義高や義経を死に追いやらざるを得なくなったのも畢竟、爪牙であるが故。
「そう、この国は呵責を受ける者を必要として来た。それが俘囚であり、蝦夷であり、、、土蜘蛛や鬼と呼ばれた者を始めとした、ヒトであったモノ達、だ」
「ヒトであった、モノ達……」
 爪牙たる武士も、このままであったならやがてはそこに堕ちる定めであったのだと、頼朝の愁いの半ばはそれであった。
 そして範頼は気付く、鎌倉という地が、組織が作られた意思の発端に。鎌倉の原型を形作った自身の祖の、祈りでは無い、明確な行動に。
「そして、人扱いされぬ者達も、公家らがそうしたモノを作り出したように、また呵責を受けるモノを生み出すのだ。ここは、それが極まった地だ」
 こことは奥州か、それとも今立っているこの不思議な土地か。控える二人には判じかねたが、頼朝が言ったのは両方であった。
 彼は目の前の湿地に目を向け、また言う。
「蝦夷の地の言葉で、この様な湿地帯を『ヌタトリ』と言うそうだ。丹取(にとり)の地の由来でもある。そして、陸奥においてはこの様な水の溢れる地には、ある物怪が現れるそうだ」
「夏の払えの穢れを受けて流された人形(ヒトガタ)に生(ショウ)を受けて、現れる、と」
かつて、頼朝が鎌倉で御所に招いた諸国放浪の僧、西行との話にそれが上がっていたのを範頼は思い出した。その物怪の名は――
「確か、河童」
 その妖は、八幡神が大八洲の何処にも在るのと同様に、津々浦々に現れる妖であるのだと、そう聞いた。
「そうだ、奥州ではこの様な地や河原に河童が現れるという。だがな、蒲殿。その流された人形とは、ヒトその物であったのだ」
「えっ?」
「賦役に供されて道々に倒れた人々、兵役に沈んだ人々、そして、父母に流された子供達」
 それらこそ、呵責を受ける器として人々の間に生まれたモノ、作られた妖であった。
「公家が化外の者を妖とし、良民とすらならぬヒト扱いされなかった人々がまた妖を生み出し、武士は爪牙である事に甘んじてきた。この大元を、私は取り除きたいのだ」
 これは優しい心であろうか、範頼はこの様な頼朝の姿を見た事が無かった。
 あくまで規律を守り、兄弟であろうと陪臣であろうと容赦しない冷血な人物。ずっとそう思っていた。範頼がそう思い続けた底には、鎌倉に参じる前に箱根で知った、自身の子を淵へ投げたという話があった。
 側に在った朝光はしかし、これに否と唱える。
「貴方様はそんなに優しい人であってはならない! 何故今更、その様に語るのです。そんな貴方なら何故、義高殿を助けてやれなかったのです……」
「あの時はあれ以外、方法が無かった」
 朝光もそれは分かっている。分かっているが、やりきれずに声を上げたのであった。
 頼朝はその後、義高の従者を鎌倉に迎え入れたりもした。あれも、もしかしたら贖罪の一環であったのかも知れないと、範頼は願った。
 うつむき、一時ではあったが親しんだ友人を悼む朝光。彼に掛けるべき言葉は無かった。
 範頼は、同じく義高と親しんだ太郎や頼景達の心も如何であったかを思い浮かべながらも、頼朝に話の続きを投げかける。
「鎌倉殿、ヒトを妖に落とした、その原因とは?」
「ああ、それは一つ二つでは無い。だが大きな物を挙げるとすれば、それは大陸より輸入された体制、律令、それに権威と権力の合体だ。そうワシは考えた」
「ならば、鎌倉の意義は」
「我が国に合わせた改造が限界になり、桓武帝の頃には瓦解が見え始めた律令に止めを刺す。そして、治天の君なる存在を、権威と権力の合体を除くのだ」
「それは、皇統を断つ、という事ですか?」
 上代からの怨恨を断つならばそうなる。いくら優しい心からでも、それは余りに恐れ多い。
 範頼はその危惧を頼朝に問うた。だが頼朝は、それも当然であろうなと、微笑みながら答える。
「真に皇統を断てというなら、多くの豪族が消滅しなければならぬな。また皇統はこの国の人々を繋ぐ紐帯(ちゅうたい)だ。ワシが除かんとするのはあくまでも治天の君よ」
 今の院を指して“日本国第一の大天狗”とまで称した頼朝の、それが心底であったのだ。
 範頼はそれを理解し、得心した。
 思えば坂東での決起も、平家を倒すのでは無く体制を覆す事から始まった。そうでなければ、今の坂東の主軸である平氏の者達は応じなかったであろう。
「鎌倉殿、鎌倉がその様な偉大な事業を行う場所だとは、私は気付きもしませんでした」
「偉大かどうかは後々分かろうが、そうであろうな、これを知るのは極々一部の者であるし、、、何せ、舅殿にも知らせてはおらぬのだから。だがな蒲殿、これは独りで考えたのではない――」
 そこには誰彼の意思があったのか。亡父義朝か、それとも頼朝に恭順する公家達か。
「“鎌倉”には、お前の考えだって入っている」
 己の考え、範頼はその言葉に驚く。
 ただの御厨の住人、武士としては未だ未熟で、今ここに居る事にすら違和感が伴う。そんな己の如何なる考えが頼朝に拾われたのであろうか。範頼には不思議であった。
「だからこそワシは、お前とゆや御前が結ばれる様にしたのだ」
 今何と言ったのか、範頼は我が耳を疑った。そして朝光も、それが誰の事か見当が付かず、困惑している。
「鎌倉殿、それではゆやと私の事はご存じで……」
「ああ、重衡殿から聞いた。ゆや御前が源氏の筋の娘であるともな。さすがは時の支配者であった平家だ。お陰でワシはその裏を取るだけで済んだのだからな」
 真の事の次第はこうであった。
 鎌倉に召し出された重衡は、己の現世での最後の善行として彼女を救う事を望み、それを――彼女が思い人である範頼と結ばれるのを願ったのだ。
 無論、源氏嫡流の範頼にどこの馬の骨とも知れぬ娘を正室とさせる訳にはいかない。それは重衡も分かっており、予めゆやの本当の親を調べ、十分な血筋であるのを確かめていた。
 ゆやは歴とした家系を持っている。だからこそ頼朝は、範頼の正室に彼女を迎える事を認めたのであった。
「そうだ、盛長達が「我ら夫婦の娘として扱いたい」と申し出てきた時には、ワシも流石に驚いた」
「では北斗丸の事も……」
「ああ、そうだ」
「そうでありましたか。しかしだからこそとは一体」
「北条の、舅殿の息のかからぬ者が、必要であった」
 範頼は気付く。
 頼朝の妻政子は――父との仲は良く無いが――時政の娘。全成の妻阿波局もそうであるし、武蔵武士でも殊に大きな源氏、足利義兼の妻時子もまた同じく。それ以外にも、畠山重忠や稲毛氏、平賀氏ほか有力御家人と、時政は広く婚姻関係を結んでいる。
 それらとの関わりの薄い者も、頼朝は欲していたのだ。範頼と朝光の脳裏にもう一人の人物が思い浮かぶ。
 義経。彼に郷御前を迎えさせたのも、監視の目というだけで無く、その考えの下での事でもあったのだと。
「伊豆より立つ際、北条の與力はどうしても必要であった。だが鎌倉が出来た後、舅殿はその様な方法で無くてはならぬ立場を築き上げたのだ」
「北条殿の何を危惧されているのです?」
「舅殿は恐ろしく狡猾であるが、鎌倉の考えを理解する頭など無い。政子ですらもそう言っておったのだ」
 万一には、鎌倉に取って代わる何かに成るかも知れない。それが鎌倉の主、頼朝の懸念であった。
「あの様な方が狡猾、ですか」
 朝光が言うと、頼朝は一瞬苦笑してから眉を寄せる。
「あの軽薄さ、分かり易さに人は油断するのだ。だがな、真に恐ろしいのは、裏すら見せぬ者だ」
 あの見た目の浅はかさに騙されるな、頼朝は二人にそう警告する。
 鎌倉の、頼朝の真意を知った範頼。その心中には、未だかつて得た事の無い喜びが静かに踊っていた。同時に、己の行く末も定めたのであった。頼朝の鎌倉を助け、その意思を人々に広めようと。

       ∴

 範頼が頼朝と会談をしている頃、奥州勢余党掃討の任を受けるその手勢、騎馬武者ばかり十名足らずの頼景らの隊は、ある山の山裾で土地の有力百姓の家で歓待を受けていた。
 彼らも新たな支配者である鎌倉に取り入る考えもあるのか、鎌倉勢は西国の様な不自由も無く残敵掃討を進めていた。
「さあ、たくさん召し上がって下され」
 供されたのは菜物が多く入った汁と、坂東でも余り口にしない姫飯。この米一杯で「まるで京での暮らしの様だ」と誰とも無く言い出す。
 京から見れば鎌倉も田舎扱いである上、今ここに居並ぶのは相良から上って来た――いよいよ田舎者と言っていい者達であったからだ。
「かたじけのうござる、それに馬草も頂けるなど」
「いくら馬でも、そこらの草ばかり食べていては力が出ないでしょう。お侍様の様に立派な鎧を着た方々を背負っては、それこそそれこそ」
 名主らしい翁が言う。今は農繁期も過ぎ、家で囲っている所従の他は郷に帰っているとの事。その所従にしても、今は四・五歳程の小さな女童がせせこましく動き回っているのを見るのみ。後はさっき飯を運んで来た、翁の妻らしき媼(おうな)ぐらい。
 この辺りに奥州勢の姿は無いのかを聞き出した頼綱が、太郎に目配せをする。本当に山中に残党は居ないのか、確認のためだ。
 太郎も己の役割を承知しており、そちらを視る。そしてやはり居ないと首を振る。太郎が探すのは残党だけでは無い、己の眼の本来の使い意味も忘れていない。奴も居なかった。
「兄者、大丈夫そうだ」
「うむ」
「何か、ございましたか? ああ、私どもが藤原様の手の者ではと疑っておられるですな。そうでしょうそうでしょう、しかしご安心召され、私自身が毒味を致します故。ああいえ、別に腹が減っているからお侍様の食事にかこつけて、という訳ではありませんよ」
 翁がそうまくしたてると、――随分離れながら――囲炉裏を中心に居並んでいた衆はどっと笑う。
 冗談半分で言った翁であったが、その通りに毒味をして問題の無い様子を見せる。安心した一同は、すぐさま飯に汁に、並べられた菜物にと箸を伸ばす。
 その時、太郎は別の知覚で異常を捉え、頼景に訴える。彼女も飯に興味が無い訳ではないが、今起こっている異変を知ってはそれどころでは無い。。
 頼景はそれに気付くと差し出した箸を引っ込め、彼女の所作を伺う。
「どうした、太郎」
「ヲフ……」
 厩(うまや)を指し示す太郎。そちらで何かあったのだ。
「頼綱、少し外すぞ」
「どうした兄者」
「馬達に何かあったらしい……」
 俺も行くぞと言う頼綱を止め、太郎と二人だけで席を立つ頼景。
 翁がそれを認め、問いかける。
「どうかなされましたかな?」
「いや、この者が催しましてな。ついでに拙者も」
 飯の場で汚いと、郎等達が笑いながら避難する。頼景は同じく笑いながら皆に謝罪すると、立てかけてあった太刀を手に取り、太郎と共に勝手口から出て厩へ向かった。

 そこにあったのは、凄惨な光景であった。
「誰がこんな事を……」
 轡すら千切らんばかりに歯を噛みしめ、息絶えた馬達。まだ死んだばかりだ。太郎はまず耳と鼻でこれを捉え、視たのであった。
 数頭を選んでその亡骸を検める。何があったのかは想像が付いていた、そして検めた結果もほぼその通り、馬草に毒が仕込まれていたのだ。
 ではあの翁達は奥州勢の手先か、ならば頼綱達が危ない。頼景はすぐに戻ろうと土間から上がり込もうとする。だがそこにもまた悲惨なものがあった。
「これは、どういう事だ……」
 戸を開けた土間には、血だまりに沈む二人の老人の姿があった。先程まで談笑していた翁と、すぐに下がって行った媼。その二人に間違いなかった。
 頼景の馬達同様、事切れて間もないのか亡骸にはまだ熱が残っている。
 頼景も太郎も、今度は遺体を検めずにす郎等達の元へ駆ける。頼綱達は無事か、それが気がかりであった。
「頼綱! 皆! 大丈夫か!?」
 遅かった。
 皆、一様に倒れ、もがき、ある者は口から泡を吹いて既に死んでいる様にも見える。誰かが血を流しているという様子は無い、馬と同じく一服盛られたのだ。
 誰がこんな事をしたのか見当も付かない。それよりもと、倒れている弟の側に膝をつき、様子を窺う頼景。
「おい、頼綱! しっかりしろ!」
 その身体を揺さぶって、呻く彼の意識を取り戻す。
 目を開くがその焦点は定まらず、口の端から涎を垂らしている。それでも兄の呼びかけに答える。
「兄、じゃ……」
「なんだ、気を確かに持て!」
「あの、女童だ。あの童が、白湯を、持って来た」
 それを呑んでこうなった。頼景達が厩に行ってからの、ほんの僅かな間での凶行であったのだ。土間に倒れていた翁達もその童にやられたのだと理解した。
 だが何故、五歳にも満たない程度の子供が、誰に言われてこんな惨たらしい行いを。頼景が恣意を廻らす側で、頼綱の方が先に答えに辿り着く。
「兄者、達が言っていた、天邪鬼。そいつの前髪、赤くはなかったか?」
「見たのか!」
 頷く頼綱。
 頼景が、月下で一度だけ見た天邪鬼の顔。角やそこにあった何よりも、あの化物の舌の様に赤々とした前髪が印象に残っている。
 間違いない、奴だ。
 頼景はしかし、すぐに立ち上がれなかった。今際の際に立とうとしている弟を置いて行くなど、出来ようはずが無い。
 だが頼綱は力を振り絞り、声を上げる。
「行ってくれ、ゆやと、太郎の、仇であろう……」
「何を言う! 太郎に走らせれば助けも間に合う」
「今まで、今まで、多くの郎党を、親兄弟と、分かたせ、己だけ、身内を救おうなどと、思うな。兄者!」
 頼綱の言葉にはっとする。もう相良から付き従って来た者もずいぶんと少なくなってしまった。それでも己は生き残ると、頼綱も生き延びると、根拠も無しに信じていた。それが今、訪れたのだ。
「行け。行って、皆の仇を取ってくれ!」
 その叫びと共に彼の側に寄る太郎。
 彼女は、どの様な毒を盛られたかは分からないながらも、手当てをしようと思ったのであろう。ともかくと井戸から水をくみ出して持って来ていた。
「太郎、それを竃へかけておけ。頼綱、出せる物は全部出してしまえ、それで白湯を呑んで凌げ」
 肚は決まった。
 頼景の目の奥に決心を認めた頼綱は、少し息を吐き出して軽口を叩く。
「もう少し、言い方が、あるだろうに」
 呼吸を落ち着ける頼綱に、頼景は苦々しそうな貌で伝える。そして太郎も。
「戻る、必ず……」
「ヲンッ!」
 頼景はギリッと歯を鳴らし、戸の向こう、外の様子を見た。蹄の跡などはそこに無い。彼がすぐに装具を整え、地面に降りると、後に胴丸を付け直した太郎が続く。彼女の眼や鼻はどう観るか。
「太郎、奴が飛んでるか否か、それだけでも分からんか!?」
 彼女は少しばかり上を見上げた、すぐに山へ繋がる道の先へ視線をやり、そちらを指し示して――
「ガウッ!」
 吠える。確かに奴だと知覚出来る要素は掴んだ。だがしかし、肝心の眼は依然として利いていない。
「よし、追うぞ! 太郎!」
 はっきりとした姿は見透せなくとも、奴が地を行くならば追える、追う他無い。
 頼景の檄に太郎はすぐさま応じ、山中へ駆け出した。

 平野が少ない事は承知していたが、少し進んだだけですぐに傾斜も険しくなり、足下には獣道が走るだけの山中へ。ここは地元の者でも生業を持つ者が無い、入山するのは修験者が精々という場所であった。
 完全武装での前進は頼景にも堪え、兜や大袖を外して投げ棄てる。箙の矢は僅かだが、弓は携えたまま。
 太郎が先導して前を行く。頼景には彼女の眼がどれだけ奴を捉えているか定かでは無い。普段の太郎であれば、山や谷も構わずに馬よりも速く駈けるのに、それをしないからだ。ただ近付つつある事は分かる。
 歩度を緩め、周囲への注意も慎重になっていた。接敵状態での前進、いつ何が起こるか。
 奴が逃げの一手を打つなら、こちらはひたすら追い、いずれかが力尽きた時点で勝敗が決するであろう。もし相対すれば無論倒す。ただ奴が尋常に挑んで来るとは、こちらから挑んで真っ向から受けるとは、二人とも考えていない。
 先程目にした奴の姿は齢四つ五つというぐらい。山道にこの二人の脚でなら、奴の身が尋常な童の物であれば、そろそろ追いついても不思議は無い。そう言えるほど深くにまで、山中に踏み入っていた。
 しかし辺りには霧、待ち伏せするにも罠を仕掛けるにもうってつけ。当然追う側には不利。
「太郎、どうだ?」
「ウウゥ……」
 鼻を鳴らしながら唸る太郎。頼景はそれを、いつ奴が現れてもおかしくない兆しと取る。
 太郎の能力で得られるはずの視野は攪乱されているのか機能は怪しく、奴の居場所が絞れない。
 辺りは鎌倉の切り通しをずっと広くした様に、尾根の一部が抉れた風になって道を成す。弓で狙うなら左右いずれの高みからも上手くいく事であろう、出来れば迂回したいと頼景は思う。奴が弓を携えているのかといえば、その可能性は低いが。
 このまま前進だ、太郎と顔を見合わせながら決心する。
 その切り通しに踏み込む二人。しかし頼景は自身の考えの甘さを思い知る。
 十数間行った所で、頼景はとっさに太郎を突き飛ばした。
 突然突き飛ばされて地面に手を着いた太郎は、すぐに起き上がると頼景の方を向く。油断していた、何と言う事だと後悔しながら。
「ヲフ! ヲン!」
 彼は答えず、左脇を押さえている。そこには矢が刺さっていた。
「ヲン!」
「大丈夫、だ」
 頼景は声を殺して答え、すぐさま周囲に隠れられそうな場所を探す。だが見当たらない、日の当たらない場所であるためか、低木かシダの類が茂るのみ。突っ立っていてはいけないと、頼景は僅かな窪地を見付け、傷ついた身で太郎の腕を引きながら滑り込む。
「ヲフ!?」
 太郎は、本当に大丈夫なのかと酷く心配そうな顔を向け、斜面に仰向けになっている頼景の顔を覗き込む。頼景は自身の脇の、羽ぶくら(※8)を飲む程の傷を押さえる。太郎にも、己の身代わりになったのだとは嫌でも分かった。
「ぐ、ぬ……ッ!」
 頼景は自分で脇の矢を引き抜く。鏃によっては下手に抜くと命に関わるが、抜くべきだと判断した。何より矢が刺さったままでは、奴を追うなど出来ない。
 幸いにも傷は浅かった。大鎧の防御もあったからかと、頼景は抜いた矢を手に取る。そして彼は納得し、太郎も少し安心した。
 よくよく見れば小さな矢であった、この短さ故、深手を負ったのだとも錯覚したのだ。
 手を当ててみれば八束ほど、二尺程度しか無い、粗末な山鳥の矢羽根に歪んだ竹の箆(の)。子供が練習用に射る物と見え、当たったのは運が悪かったとすら思えた。
「太郎、傷はどうか?」
 彼女はまたも応じない、痛みなど無いと言わんばかりに首を廻らせ、周囲を捜索する。奴が射掛けて来た方角は分かっていたが、霧の向こうにそれらしき姿は居なかった。
(まだ、それだけの力があるのか)
 術を使っている、拙いと頼景は思った。宙を飛ばない事から妖としての能力など殆ど無いだろうと、そうこれも勝手に見積もっていた。甘かった。
 丑寅の方から、嘲笑うかのように再度矢が飛来する。これはその速度が遅いのもあって、太刀を抜いてしかと警戒していた頼景が切り落とした。
 傷も有り、集中力は保たない、続けて射られては難しいであろう。しかしこれは、二人にとって幸いとする要素でもあった。
 射命丸が藤戸や壇ノ浦上空で奴と対峙した時、気弾の飛礫を飛ばして来たと語っていた。それが本当なら一方的に撃たれる恐れもあったが、弓矢に頼る所を見ると今はそれが出来ないらしい。楽観は禁物だがそう判じる。
 射手の姿は見えない、太郎にすら。
 頼景ははたと思い出した、奴の本性と性質を。奴は歪曲と回天の妖だ。
「太郎、逆の斜面だ。矢が飛んで来た方の真逆を見ろ、気取られぬよう注意してな。見付けたら、俺が射る」
 より声を落として指示。頼景は得物を持ち替え、太郎は視界の端ぎりぎりに、彼に示された方角を収める。
 頼景も探していないわけで無く、警戒する。
 身を隠しながら肩を合わせる二人。弓を手にしていた頼景の正面に一矢、再び禍つ矢が迫る。これを弓でいなし――
「せぇいっ!」
「ヲンッ!」
 左に身を翻す。
 返す刀ならぬ弓を構える頼景、身体を沈ませる太郎、二人は一体となって戦う。彼は、彼女が見据えて大太刀で示す先に、奴を捉えた。
 一瞬息を止め、引き分けた弦を放ち、射ると、矢は一町と四十間余りも斜面を射上がって行く。
 引き替えにまた次の矢が迫るのを頼景は見た。咄嗟、残心から応じるが間に合わない。
 しかし今度は、太郎が守る。
「太郎!」
 射線に立ちはだかって盾となる。正確に頼景に迫っていた矢は、太郎の大太刀の下げ緒を切り、その腰に刺さった。
「ヲフ!」
 だが彼女は「大丈夫」と言う代わりに吠え、落ちた大太刀の鞘を拾い上げて携える。矢は胴丸で止まり、彼女は無事であった。
 そして頼景を導く、天邪鬼はそこに居ると。手応えなど確かめる余裕すら無かった彼の手を引き、斜面を駆け上がる。
 岩場の陰が僅かに開けている。そこかと頼景も察する、他に居られそうな所は無かった。

 日も当たらぬ斜面の中腹、かくして天邪鬼はそこに居た。先の百姓宅で見た通り、かつてよりも幼い女童。本当にこの身で山を登ってきたのかと疑いたくなる。その様に、以前とは殆ど異なる容姿であるが特異な前髪と角はそのまま。見間違えようが無かった。
 その左の脇腹には、矢羽根辺りまで刺さり背中に突き抜けた矢、頼景の物に間違い無い。それによって大地に縫い付けられ、仰向けで斜面に倒れていた天邪鬼は、呻きながら身体を起こす。
 頼景は腰に手をやり、太郎も刃を納めた鞘を両手で持って突き付ける。
「く、ふふふ、可笑しいねぇ。本当に可笑しいよ」
 間違いなく追い詰められているにも関わらず、嘲笑を続ける天邪鬼。顔の作りは――ゆやの元に在る北斗丸の様に――愛らしい童の物なのに、邪悪でしかない笑みが、そうであると信じさせる。
「俺達を覚えているか? 見附、いや池田以来か」
 それももう、十年余りも前になる。
 太刀の切っ先をちらつかせながら言う頼景の背を汗が伝う。先の戦闘のためでも怖ろしいからでもない、完全な優位に居ながら動揺していた。
 目の前に居るのは間違いなく醜悪な妖怪なのに、その表情を除けばただの童にしか見えないのだ。それはある予想が正しいのを示していた。
 またそうであれば、飛ばず、飛礫も放たないのに納得できた、納得してしまった。
「ウ、ウゥゥ……」
 太郎も同じく困惑している、そのため刀を抜いていない。
 それを見た頼景はハッとして、柄にかけた手に力を込める。太郎は仕方ない、だが己がこうではならぬと。
「どうした、天邪鬼よ。一貫坊殿と同じ方法で人間にやられたのが堪えたか?」
「一貫坊? ああ、あの小鴉の名か」
「一貫坊射命丸殿。我らの友邦だ。あの方にやられたお前は、何故そんなになってまで蘇った?」
 答えたくなければそれでいい、どうせ斬るのだから。ピタリと切っ先を突き付ける。
「お前、私が誰だか分かる?」
 傷のためか脂汗を流しながら、それでも不敵な問い掛け。頼景には分かっている。そのとてつもなくおぞましい想像は大分前に、既に終わっていた。
「九郎義経殿の子であろう」
「ヲン!?」
 太郎、そうだ、この童の今はそうなのだ。そしてそうであれば、今この天邪鬼は北斗丸の妹でもあるのだ。だからお前は手を出すな。
 頼景は、心の中で呟く。
「どうやって潜り込んだのかなどはどうでもいい、何故に今、今更蘇った」
 重く、深い怒りを湛えた声。確かに義経の事は好かなかった、彼が倒れても構わないとは思った。だが倒そうなどとは断じて思わなかった、常光の事があるまでは。
 あれにも、この妖が関わったのだとしたら。
「今、じゃないよ。私は母上の胎から生まれたんだ」
 義経の妻、彼と運命を共にした郷御前は、ゆやともそう歳は変わらなかった。
「母上と言うな」
「でも覚えているのは、、、そうねぇ、坊主もどきが父上に食って掛かってきた時かな」
 常光の死にも一枚噛んでいたのかも知れない。それを示唆する言葉。
「父上と言うな」
「だってねぇ、私は胤を受けた胎から生まれて来た。その二親を父よ母よと呼ぶのはおかしい?」
 射命丸は、壇ノ浦ではこの物怪が潮流すら狂わせたと言い、放っておけば天地開闢の頃の神に比肩するまでになるかも知れぬとも言っていた。そこまでではないにしろ、郷御前の胎に在ったが故、今までとは違う力を振るえたのかも知れない。
 そう、頼景は思い返す。
「その坊主もどきを殺さなければ、大人しく鎌倉に戻っていれば、父母は死ななかったかも知れん」
 もし頼朝が腹の底から義経を滅するつもりであったなら、常光ではなく大軍を遣わしたであろう。彼の迎えを拒んだが為、河越氏まで誅されなければならなくなったのだ。
「私に言われても知らないよ、でも――」
 知らない。では捕縛に当たった常光を殺した件は、義経の確固とした意思であったと言うのか。いや、その言葉は信じられない。
「父上は捨てられたんだよ、頼朝に。非道すぎると思わないかい?」
「お前には理解出来んだろう。弟御であろうが、鎌倉殿の命(めい)に従わぬ者が鎌倉におられる道理は、無い」
 頼景は知っている、鎌倉殿と言ったが鎌倉殿ではない。鎌倉としての命令が頼朝の名で発せられるだけ。彼が巧みであるため、大抵その意向が立つだけだ。
 その中で義経は、戦の時もそうでない時も、気ままに行動してしまった。そして御家人達の不和の種を播き、頼朝はそれを未然に刈り取るために、処断しなければならなかった。
 頼朝の真意、真に彼に望むのは何であったのだろうと頼景は考えたが、どのみち、もうどうにもならない。
「はいはい、そうだね、だから大人しくは戻れなかった。そうなるしか無かったんだ、あの二人は。で、私は京で産まれて――キツかったよ、産まれ直すのは」
 だから何だ、お前はこれより直ぐに死ぬのだ。
「苦労して人間に生まれて、ようやくそういう風に暮らせるかと思ったんだけれどねぇ。泰衡の奴が攻めて来なければ」
「来なければ、どうできた」
 逆恨みに頼朝追討の宣旨まで引き出して、謀反を起こした義経が悪いだろう。義経追討の宣旨に逆らい、義経を推戴した秀衡が悪いだろう。父の遺志を半端に継ぎ、宣下に折れて手の平を返した泰衡も悪かろう。
(それとも《頼朝》か、《治天の君とのたまうただの人間》が――俺は今何を考えていた)
 頼景は己の不遜な思惟を自覚し、それを止める。
「さあて、もっと静かに暮らせたかも」
「無理だな。お前達がここに来た事によって、奥州はこの通りだ。災いを振りまいたのはお前だ」
 今この地を、藤原氏の奥州を消滅させようとしているのは他でもない自分達、鎌倉の者だ。義経が早々に捕らえられていたら、頼朝は彼を赦免したか、奥州は討たれなかったか。
 頼景にはそこから先は分からないまでも、大きな切っ掛けが義経であるのは理解していた。
「結局そう落ちるのか。そうだ、ねぇお前、今の私は義経の子だけれど、もう一つ二つ前は何だったか知ってる?」
 幼子が親に対して、己が新たに見知った事を己だけが知るものとする、そんな謎かけの様に、天邪鬼は問いかける。その顔は嗜虐心に充ち満ちている。
 知らなければまだよかった、だが、頼景は知っていた。それを天邪鬼は知りながら、謎かけをしていた。
「それ以上、口を開くな」
 太郎も頼景と同じ答えに辿り着いて、信じたくないと思いながら彼と天邪鬼を交互に見る。
 頼景が見附天神で斬り付けた傷は癒え切らず、天邪鬼は入城する前にその躯を捨てていたのだ。そう、瀬戸内の高空で射命丸が射返して墜とした天邪鬼は――
「宗盛が湯屋とか言う小娘を孕まして出来た子だなんて、知らないよねぇ?!」
 目を大きく見開き、口の端を下弦の月の如く持ち上げた邪悪な笑みを浮かべ、地に縫い付けられたまま顔を突きつけようとする。
「黙れと言った」
 頼景はかすれた声で言う。
 天邪鬼の謎かけはまだ終わらない。
「その前もあるんだよ。なあそこの犬っころ、私の体、何か匂わないかい? 匂うよねぇ、お前の眼を盗んでやったのに、それでも追って来れたんだから」
 射命丸ですら知覚できたもの。遠江に居た頃、頼景が偶に持ち歩いていた燃水の如き刺激臭。それを匂わす妖気。それは当然、鼻の利く太郎も認識していた。
 太郎はしかし喋れず、困惑したまま唸るだけ。
 頼景には何の事か分からない。だがその先を知りたいとも思わない、どうせろくな答えではない、心をねじ曲げるものであるのは分かっているのだ。
「燃水の匂いがするだろう?」
「黙れ!」
 頼景は切っ先を向けて黙らせにかかる。
「そうそう、お前が孕ませた女の中に、油屋の娘は居なかったかい?」
 これを聞いた頼景の、天邪鬼に向けた切っ先が震え始める。天邪鬼の言葉の先を、理解した。
「あれぇ? 居なかったか。そうだよねぇ、一度も子の顔を見に来ないお前の娘など育てるのが面倒で、貰える物だけむしり取って、燃水を掛けられてとっとと焼き殺された赤児なんて、知らないよねえぇぇ?!!」
 思い当たる者は居る。だがその子は今も生きて居ると思っていた。一度も顔を見た事は無いが、いい歳になっているであろうと――そう思い、今も養育のために物資を送っている。
 それが本当なら、遠江で斬ったのは――
「熱かった! 痛かったよぉ! 父上えぇぇぇ!!」
 その叫びに、太郎が刀に手をかける。これ以上頼景を奴と話しをさせてはいけないと、直感した。
 天邪鬼は己を大地へ縫い付けていた矢を抜き、その場に立つ。だがそれ以上は動けず、足を震わせて立つのが精一杯の様子。
 天邪鬼は叫び終わると、打って変わって静かに語り始める。太郎は機を失し、またも戸惑ってしまう。
「ヒトならやり直せるんだろうねぇ、ヒトのままなら。でも私はただ一度誰かを好いただけで、誰かを受け容れられる事も永劫赦されぬ、モノにされたんだ」
 耳障りな声で喋る天邪鬼の脚を、頼景の刃が横薙ぎに一閃。腿の前側がばくりと骨まで裂け、天邪鬼は腰から地面に落ちた。
「もう喋らなくていいぞ、俺には関係ない」
 頼景は白刃を剥き、太刀を正面に構える。その目には一片の憐れみも無い。憎み忌み、怒っていた。
「殺せよ! でも私は、私達はどこにでも生まれ出て来て、捨てられる! 殺せ!」
 天邪鬼が本心と共に呪詛をぶつける。
 頼景はたちどころに太刀を振り上げ、大上段から唐竹に振り下ろす。真っ向からの頭頂への一撃に、天邪鬼の頭は乾いた竹の様にあっけなくに割れた。
 斬撃はそれで終わらず、崩れ落ちた天邪鬼に、やたらめったらに太刀が振り下ろされる。腕は真っ先に切り落とされ、頭と胴となく何度も何度も。
「お前が、お前さえ現れなければ!
 ゆやは!
 御曹司は!
 一貫坊殿は!
ここまで来なくても済んだんだ! なぜ俺達を巻き込んだ! お前はなぜ俺達をこうしたんだ! なぜ頼綱達を――太郎を!」
 ただ叩き付けられ、骨に当たる度、刃はこぼれて太刀はひしゃげてゆく。面(つら)などは既に、肉を挽いた様な惨たらしい有り様。刃を振り上げる毎にまき散らされる血を浴びながら、吠える。
 その横で太郎も叫ぶ。私はここに居るのに、何を言っているのだと。そしてすぐに気付く、天邪鬼の最期の呪詛に込められた物に。奴はそれを以て、彼を引き込もうとしているのだ。
 頼景は言葉にもなっていない罵声を浴びせながら、なおもひたすら曲がった太刀を振り下ろす。天邪鬼は最初の一撃で絶命してた、痛みなど微塵も感じなかったろう。痛々しいのは、彼の方だった。
 ついに太刀がへし折れた。まだ刃は止まらない。
 しばらくして折れた太刀を亡骸に投げつけると、振り返って一歩踏み出し、太郎の方に手を伸ばす。彼女は頼景の凄惨な様に怯えきっていた。
「太郎! そいつを寄越せ!」
 後ろ手に彼女の携える大太刀を抜き放とうとする頼景の手に、柄越しに妙な感触が伝わる。一瞬で彼の頭は冷え、振り返る。太郎が刃を止めたのだ。彼女のその右手からは血が滴っていた。
 視線を交わし合い、しばしの間があって太郎と頼景は同時に大太刀を取り落とし、彼は息荒く立ち尽くす。
 頼景は、ただの犬の太郎が死んだ事を嘆き、蘇ったのを誰より喜んだ。そうして今この場に共に在る。それを己が傷つけてしまった事に、彼はおののいた。
 彼女は頼景を抱きしめる。あまり強く抱きしめては彼の心身に障るからとそっと、もう決してさっきの様に、怒りも憎しみも何もかもない交ぜに刀を振るわないように願って。
 それをしたら、彼は彼ではなくなってしまうから。
 頼景は力の限り叫んだ。咆哮は山々にこだまし、どんな獣の雄叫びよりも遠くに響いた。

       ∴

 遠出から戻った範頼が目にしたのは、手勢の中核である頼景達の隊を襲った事態と、鎌倉に居るはずの射命丸の姿であった。
「参州殿、情けない姿をお見せして申し訳ござらん」
「いえ、七郎殿が生きていただけでも幸いです」
 輜重隊の到着に時を合わせ中軍の本営に到着した射命丸は、すぐに頼綱達の異常を知り、持てる限りの知識と物資で彼らを救ったのであった。
 ただ全員を救えたわけでは無い。致死量の毒を飲んだ者や体力の無かった者は助からなかった。
「頼景殿が奴を討ったとのお話、伺いました。この犠牲、西国で奴を仕留め切れなかった私の責です」
 苦渋に満ちた表情で告げる射命丸に、範頼も頼綱も、優しい顔を向ける。彼らのその優しさが射命丸には堪らなく有り難く、そして辛かった。
「そう言えば、太郎や頼景殿も奴との戦いで怪我をしたと聞きましたが、一体二人はどこに?」
「さあ、なんでも行く所が有ると」
 一体どこへ行ったのか。誰に知られる事も無く、二人は陣から這い出ていたのだった。

 厨川の本営を出た頼景と太郎はひたすら東に走り、ある山を登っていた。決して低くは無い山だが、獣道を巧く駆け上がって二人は山頂に到着する。
 頼景は馬を休ませつつ、所々に雪が積もり始めているそこで、太郎と共に下界を睥睨する。
「この山は、俺達が奴と対峙した山の姉妹だそうだ。本来ならば女人禁制だそうだが、神使の娘のお前なら、許して貰えるだろうな」
 大丈夫かな、大丈夫だろうな。太郎はそんな風に逡巡してから、彼に笑顔を向ける。
 頼景は東からの陽光の中で輝く笑顔を、目を細めて眩しそうに見ながら言う。
「太郎、この度の戦い、全てが俺の過ちから始まったのだとしたら、お前が命を失ったのも、俺の所為なのだろう……」
 何を言うのであろうかと太郎は思う。天邪鬼がたまたま頼景と関わりのある所に生まれただけの事だ、彼が気に病む必要は無いはずなのに。
「もっと、子らに目を向けていれば、こんな事にはならなかったのかも知れぬのだ」
 彼が何故子達から顔を背けていたのか、太郎には察しが付いていた。
 未だに確執を持つ父との間柄、幼少の頃からずっとそうだったのだろう。それが己が子への希薄な愛情に繋がったのでは、と。
 天邪鬼に係る事柄、一つでも頼景の所為にするのは馬鹿げていると、全てを知った今でも太郎は思う。それを掘り下げて彼の父頼繁の所為にするのもまた同じ。
 それに、ただの山犬であったなら、この身は今頃土中で骨と化しているであろうし、何より頼景は今の己を育ててくれたのだ。太郎はそう信じていた。
「太郎、お前が許してくれるなら、お前を俺の娘と呼ばせてくれ。少なくとも俺が死ぬまで不幸にさせん」
 太郎は笑顔のまま、今更何を言うのであろうかと可笑しくなる。
(だって貴方は、私をずっとそうして扱って来てくれたじゃないか)
 それはずっと、喜んで受け容れて来たのだから。今までと同じ様にこれからも、戦も何もかも終わった鎌倉か、遠江に帰っても、共に。
 決して血の繋がらない父と娘は、血よりも深い絆を確かめ、蒼空に誓った。

     * * *

 平家滅亡まで、鎌倉や平家と共に三極を成す一角であった奥州藤原氏。一時大陸の三国時代の様相を呈したのも、もはや過去の話。
 頼朝が坂東を平定し、信越を平らげ平家を滅ぼして後は、いよいよ奥州と鎌倉の対極のみとなっていた。
 その奥州藤原氏がこの合戦でついに滅び、日の本の武は、頼朝ら鎌倉の元に統制された事になる。
 未だ鎮西は完全には治まらず、西国を始めとして平家の残党はある。また、奥州より北に朝廷の権威が及ぶのも、相当先の事。
 それでもこの戦を以て、産声を上げたばかりの鎌倉にとっての大きな戦いは、終わったと言って良かった。
 
 そして彼女らの本来の戦いも、終わったのであった。






 卅二./吉見の子(西暦1190年)

 奥州統治の奉行もおよそが決まり、鎌倉軍はその大半が年内に帰還する。
 また、奥州征伐についての朝廷の沙汰は滑稽なもので、追討院宣が後出し発せられ、次いでそれに対して褒賞を下すとのお触れが鎌倉に届く。あくまで鎌倉が朝廷の下にある事を示すためであろうが、頼朝はこれを辞退し、いよいよ鎌倉がその真価を成す時が近づきつつあった。
 年も明け、奥州では義仲の子や義経を名乗る奇妙な残党が現れたりもしたが、鎌倉は常胤や義兼などを遣わして、これを淡々と排除した。
 それらも、春の終わり辺りには完全に沈黙するのであった。

 そんな初夏のある日、吉見の館へ逗留していた範頼の元へ、朝光が訪れる。
「参州殿におかれましてはご機嫌麗しく。結城七郎朝光であります」
 奥州征伐での功を以て陸奥三郡を拝領し、誰もが認める武人となり、しかしそれ以上の野心を持たない彼。範頼にすれば頼景のよしみもあり、安心して話せる相手であった。
「遠路はるばるとようこそ、結城殿」
 いずれも平服の狩衣姿。かしこまる事は無いと範頼は応じる。
 僅かに姿勢を崩すが威儀を正したままの朝光に、範頼は苦笑して言う。
「相良四郎や当麻太郎は畑仕事に行っておりまして、昼に大休止を取りには戻ると思います」
 それまではゆるりと過ごすといい。範頼がそう申し出ると、朝光はやおら首を振ってから答える。
「いえ、本日は相良殿達への用件で参ったわけではありませんで」
「それでは私への用、ですか?」
 頷いて肯定する朝光。
 なんであろうか、やり損ねている事は無いはずであるが。そんな風に役目の過誤についてがまず気になる。
 その二人の側に、水干に侍烏帽子を被った小さな武者が現れる。
「結城殿、北斗丸にございます」
 ちゃんと蹲踞の姿勢を取り、礼を尽くす北斗丸を指して範頼は言う。彼はまだ、自分がどの様に振る舞うべきであるかなど分かっていない。ただ範頼やゆやに言われたとおりに動いているだけ。
 だがそのギクシャクとした動きが、却って幼子らしい愛らしさを際立たせる。
「大きくなりましたね」
「ええ」
「それに、お父上にも似てきた」
 範頼が「えっ」と一言、驚きの声を発する。
 そうだ、彼は北斗丸の父に、義経に恨みを抱いていると聞いていたではないか。迂闊な事をしたと、範頼は肝を冷やす。
 だが朝光の顔にはそんな風に北斗丸を見ている様子は無い。ただ成長を喜んでいる様に見えた。
「結城殿、暫くぶりです。北斗、ご挨拶が済んだなら、お邪魔にならぬよう下がっていなさい」
 白湯を持って現れたゆやがその退出を促す。
「はい。結城様、父上、母上、失礼します」
 現れた時同様、拙い礼でたどたどしく言うと、北斗丸は小さな足音をさせて場を後にした。
「吉祥御前、いえ、ゆや御前、暫くぶりであります。実は本日は、ゆや御前にも大事な用があって参じた次第であります」
「私に?」
 朝光は頷いて応えると、別室に控えていた供の者を呼び出す。現れたのは女房二人、そしてその腕に抱かれた幼子達であった。
 まだ生まれて間もない赤児と、一歳を迎えた頃辺りの子。いずれも、範頼もゆやも知らぬ子であった。
「この子達は?」
 途端、その場にひれ伏して、天子への奏上の如く朝光は懇願する。
「恐れ多くも参州殿に御願い奉ります。この子らを何卒、何卒ご夫妻に育てて頂きたく!」
「訳を、聞きましょうか」
 範頼はゆやにも同席を促し、彼女は白湯を差し出してからその場に膝を着く。
「実はこの子らは、私とある娘との間に出来た子であります。ですがその娘は身分卑しく、当家で育てる事ままならぬと、父や兄に……」
 その卑しい娘の子を何故己に、とは範頼は問わない。
 範頼が頭を上げる様に求めるのを拒み、そのままの姿勢で続ける朝光。声音から、顔を隠したいのが範頼にも分かる。
「それに、今年中の上洛を前に、伊賀氏から嫁を取らせると、そう鎌倉殿からも聞いていましたね」
「はい……」
 朝光と誰の子であるか、範頼には分かった気がした。なぜ自分達の所へこの子らを連れて来たのかも。朝光が奥州征伐で最大限に武を奮ったのも、その娘に己を認めさせようと思ったからであろうとも。そこから帰納して、その娘が誰であるかに気付いたのだ。
「ゆや、北斗の世話が大変なのは承知しています」
「二人ぐらいなら、女房衆の助けを借りれば全然」
 阿吽の呼吸で応じるゆや。彼女も範頼と同じ答えに辿り着き、ならば己が育てなければと決意していた。
「かたじけのう御座います、誠に、かたじけのう御座います……」
 範頼はゆやと共にその女房らに退出を促し、自身も席を立つと、
「結城殿、有り難うございます」
 その一言を残し、未だ顔を伏せたままの朝光を残し、部屋を後にした。

       ∴

 穏やかな日々が続いた。
 もう、大きな戦の気配も無い。ほどよく緩やかで、しかし日々にやることはあって、皆それぞれに役目を全うしていた。
 範頼も頼景も、射命丸も太郎も、次長や頼綱そして多くの郎等達も。
 全てが、穏やかに過ぎていった。

     * * *

 奥州征伐を終えた頼朝は冬には上洛し、権大納言、右近衛大将への任命を受けた。だが頼朝はこのいずれの職も辞し、年末には鎌倉に帰還する。
 彼が真に望むのは征夷大将軍であった。彼が求めるのは、あくまでも日の本の武の頂点であったからだ。

 それから一年を空けた建久三年。後白河法皇が崩御して半年も経たないうちに、頼朝は、征夷大将軍に任じられた。
 ここに頼朝の鎌倉は、その成立を見たのであった。


釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 蝦夷ヶ島:北海道の旧称。他にも、渡嶋(わたりのしま)等とも呼ばれた。
※2 八虐の罪:律令上、始めに記された重大な罪。謀反、謀大逆、謀叛、悪逆(尊属殺など)、不道(悪逆より広い尊属への罪)、大不敬、不孝、不義の八つ。
※3 身の暇:安らぎを与えるとの意。有り体に言えば処刑。因みに長田親子は「美濃尾張(身の終わり)」を賜ったという。
※4 厨川柵:岩手県盛岡市に所在したとされる城柵(要害)。作中に記したとおり、『前九年の役』決戦の地である。
※5 荒覇吐神:文字通り荒ぶる神とも、本邦より外から来た客神(マレビト、渡来系の者)ともされる。巨大戦艦や超巨大ドリル戦艦でもない。
※6 土蜘蛛:無論、黒谷ヤマメ達妖怪の一種族ではあるが、ここでは人間としての土蜘蛛の意味でも言っている。詳しくは、喜田貞吉氏の著書を参照されたい。
※7 権門の爪牙:権門とは、特定の権力を有する家(門閥)の意。爪牙とは文字通りに爪であり牙である存在。これは、武士の長者の誇りとしての言葉であった。
※8 矢ぶくら:実際は羽ぶくら(矢羽根)と言う。羽ぶくらを飲むとは、深々と矢が突き刺さっている様子という成句。

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