東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編   木ノ花後編 第10話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 後編

公開日:2016年10月20日 / 最終更新日:2016年10月20日

卅六./木ノ花疾風に咲く(西暦1198年)

 桜の季節も終わった頃。昼も夜も心地良い風が吹き、穏やかな季節。空が宵闇の中にありまだ明ける様子も無い時分、蒲神明宮の射命丸と太郎の寝所に訪れる者があった。
 その気配に気付き、まず太郎が、ついで射命丸が目を覚ます。
「ゆや、一体どうしたの?」
「実は、射命丸様にお願いがあって参りました」
「お願い?」
「はい。私を、あの山の頂上まで連れて行って頂きたいのです」
 ゆやが指差す山。その先は見えないが、何があるのかは分かる。日の本で最も高い山嶺、富士山だ。
 何故今時分なのか射命丸は悟る、その時が来たのだ。太郎も同じくそれを悟った。
「私達の下に太郎を遣わして下さった方々に、少しでも近い場所でお礼を言いたいのです。と言う建前で」
 月明かりの中、はにかむゆや。
 もう限界なのであろうか、最近は伏せりがちになっていた。それでも藤姫は十分に育った。
 だから今行くのか。射命丸と太郎は顔を見合わせて、彼女の最後の願いを叶える決心をする。
「ではゆや、手伝うから思いっきり着飾って。空の上はとても寒いの、富士山には雪だって積もってるし」
「はい!」
 満面の笑みで言う彼女。これから死に行く者とはとても思えないのに、そこには死相が浮かんでいるのだ。射命丸らには、その一挙手一投足、一言一句が愛おしく、哀しかった。
 三つ小袖に細長を着込んだゆや、それでもまだ足りないと射命丸は更に上衣を被せる。
「こんなに着込んでしまって大丈夫ですか?」
 射命丸が抱いて飛べるかと言うこと。それに対して射命丸は不敵な笑みを浮かべて言う。
「大丈夫よ、問題無い」
 言うや、さあ行こうとゆやを抱きかかえる射命丸。彼女の意外な膂力を初めて知ったゆやは、驚き、子供の様にはしゃぐ。
「うわ、結構力持ちなんですね。それと、天狗様と飛ぶ時は負ぶってもらうものだと思ってました」
「でもそれだと、ゆやが大変だから」
 そう思っての事。風は通力で凌げても、背負うのについてはどうにもならない。
「ヲフ」
 二人がやりとりしている内に、太郎も準備を終えていた。射命丸が常にしているような修験者装束、今の彼女は射命丸の伝手で修行に入っていたのだ。
「なんだ、お前も行くのか?」
「ヲフヲフ」
 当たり前だと声を上げる太郎に、果たして付いて来られるのかと挑戦する射命丸。
 仲が良いのか悪いのかと、射命丸の腕の中で苦笑するゆやはおどけながら言う。
「ご両人、ここは私の顔に免じて、ですね」
 その強がる姿が却って辛い。だが笑顔を返して、射命丸と太郎は一つの方向を向く。
「さあ、ゆや、行こう」
「ヲフ!」
 僅かに暁の気配の見え始めた空に、八咫にも広がる黒い光の翼が駆ける。その後を白い風も追う。
 十丈ほどの高度を飛ぶ射命丸、太郎がしっかりと付いてきているのを確認して海道沿いを飛ぶ。今の時分、真っ当な者は往来には居るまいと、二人は衆目を気にせず飛び、駆ける。
「太郎! 山の方に行くがいいか?」
 通力で地表の太郎に語りかけると、彼女は馬鹿にするなとばかりに射命丸の前に跳ね上がる。
 ならば一直線だ。射命丸は富士山へ向かい変針する。
「ゆや! 見てご覧!」
 これを忘れる所であったと射命丸は叫ぶ。月の明かりと僅かな暁の光を同時に受け、遠州灘が青く黒く輝いている。ゆやは首を廻らせ、ただの人には目に出来ない光景を眺める。
「凄い、海の向こうが丸く見える。あの向こうには何があるの?」
「ずっと、ずっと海が続いていた。私も果てまでは言った事が無いの!」
 空を飛ぶ者ですら届かぬ世界、渡り鳥たちが征く遙か向こうにもまだ海が続くことを射命丸は知っている。多分、この世の頂きに上るのと同じぐらい、世界の果てに辿り着くのは難しかろうと、そうゆやに教える。
 二人の話を聞いていた太郎は、またも跳び上がって二人の目線の先を眺め、満足して滑空して降りて行く。
 海から離れると今度は山稜を超え始める。
 足下にはひたすら緑の森が広がる、人家も畠も殆ど無い。そんな場所でも太郎は依然として付いて来ていた。その彼女の後ろに、射命丸はある異変を見る。
 多くの花は既に散った、だからこそ今眼下に広がるのは碧い山々なのだ。だがその緑の大地が、太郎を追って色づき始めていた。
「太郎、そのまま富士山に向かって駆けろ」
 速度を落とし、太郎の僅か後ろを追って飛ぶ。
 彼女を追う様に、花が咲き誇っていた。散ったはずの梢に、次々と新たな花が開く。草であるも木であるも問わず、また高木も低木も目に見える限りの全てが。
 それは山桜であったり、
 梅であったり杏であったり、
 ズミも、椿もつつじも、
 そして藤も。
 名も知らぬ多くの花が、三人の後を追う様に、否、後押しする様に咲き誇る。
 三人は迎えられていた。もしかしたらこの世を壊すかも知れない妖の企みを挫いた彼女らを。それに巻き込まれ、不幸な身の上で懸命に生きた彼女を。
 迎えるのは、近付きつつある芙蓉の峰。
 富士の山は女神、木ノ花咲耶姫その物。ゆえに常は女人禁制ではある。だが今だけは、女神は三人を迎え入れようとしていた。
 花を咲かすのはかの女神だけでは無い。名も知れぬ草花の名の知れぬ神々も、三人の後を富士の山へ誘っているのだ。碧かった山々は今、あらゆる色に覆われていた。
「射命丸様、これは?」
「私にも、分からない」
 射命丸ですら初めて見るこの風景は、彼女らを迎えると同時に、長らく続いた戦で虚空に溢れた魂の結んだ姿でもあった。
 いくつかの山を、川を越え、富士川まで辿り着く。ここから先、富士山の周りには遮る物は何も無い。平野の裾野から、スッと登る美しい姿がそこにある。
「太郎、後れを取るな!」
「ヲフ!」
 元通りに太郎の前に出る射命丸、負けじと太郎がそれを追う。
 対地高度はそのままでも、絶対的な高度は十丈二十丈と上がる。高度が上がると共に気温も下がり、鼓膜が僅かに張る。射命丸は腕の中のゆやを気遣った。
「ゆや、耳が痛くなったら欠伸を繰り返して! 頭が痛くなったりしたら言って!」
「分かりました!」
 草木の姿もまばらになり、地表を見れば礫が目立つ。山の半分以上まで上がって来ていた。
 頭上には雲がかかっているが大した問題は無い。己が濡れれば済むだけだと射命丸はゆやを庇う。暫くすると雲居を抜け、辺りには雲海が広がる。
 東の空からの光が強くなる。
 最初で最後だ、とびっきりの光景を見せてやろう、射命丸は気遣いつつも急ぐ。その後ろには、雲居を足場にしたかの如く、太郎も迫る。
 そして三人は、この国の頂へ到達した。

 かつては聖徳王や役行者が登ったという峰。幾度となく噴火を繰り返した山には、大きな火口が開いていた。空を飛ぶ者でなければ分からない姿だ。
 あの天邪鬼が蹴り飛ばしたとも、木ノ花咲耶姫の姉の石長姫が嫉妬の余りそうしたとも言われていたが、真実はどうであろう。
(まさか……)
 一つの思惟が射命丸の脳裏に浮かぶが、それももうどうでもいいことだと頭を振る。全て終わったのだと。
 一見すれば礫にまみれ荒涼とした地であるが、そこからの眺望はそれを全て忘れさせる。
「見て。東の空に明るみが、朝が来る」
 射命丸の腕から降り、己の足で歩くゆや。空気が薄いせいかその足取りは少し危うく、太郎がその横に立って支える。
 遙か彼方の山稜から出で、雲海を越えて現れる太陽。眼下には花々の咲き誇る大地。遙か彼方まで広がる海。
 およそ、人間が目に出来るあらゆる光景が、そこに集約されていた。
「どんな歌人でも、この光景を詠うことは出来ないでしょうね」
 見るだけで全てが分かる、見なければ分からぬ、ただただ素晴らしい景色。それを今は、この山の女神とその眷属がより飾っていた。
 火口の周りを東の端から廻り、西の端へ向かう。三町ほどもあるそこを、ゆやは自身の足で行った。一歩一歩、名残惜しそうに踏みしめながら。
 射命丸と太郎が交互に助ける、寒さを凌ぐためにさせたとはいえ、嫁入りの様な装束では重かろうと。
 三人は西の端から下界を見渡して、遙か南西を見る。
「池田荘や蒲御厨はあの辺りでしょうか?」
 優に三十里は飛んで来た、見えるであろうか。だが射命丸には、雲海の裾の更に向こうに遠淡海が見えた気もした。
「そうだね、遠淡海があそこなら天竜川があそこらへんで、池田荘は――」
 本当に、ここに立てばどこまでも見通せる気がする。見える者全てを目に留めようと、三人はあちらこちらと指差してはしゃぐ。
 そして、その様な時も終わりを告げようとしていた。
「射命丸様、ありがとう。でもちょっと疲れちゃいました。眠っても、いいですか?」
「ええ。でも忘れていることがあるよ、ゆや」
 二人は哀しそうな貌をする太郎に笑顔を向ける。
「太郎、貴女のために、射命丸様と私で名前を考えたの。こんなに可愛いのに、いつまでも太郎なんて呼んじゃ、可哀相だから」
 太郎は首を振る。
 そんな事は無い。今までずっとそう呼ばれて来て、死んで、また蘇ってもそう呼ばれたのだから。これはあなた達との絆なのに。太郎はそう、今のままで構わないと思った。
 しかしもう、それを呼ぶ者も居なくなる。頼綱は相良に残るであろうが、彼もやがては。
 腰を下ろすゆや、その側に太郎と射命丸も膝を付く。
「椛、貴女の新しい名は椛よ。木ノ花咲耶姫から木ノ花と頂き、秋に咲く枯れない花、椛と……」
 椛、それは樺(かば)でもあり、蒲(かば)にも重なるのだ。
 新たな、ずっと消えない彼ら彼女らとの絆。
 太郎の眼から、涙が流れる。哀しいだけでは泣けなかったのに、何故今。太郎にはそれが分からなかった。
「射命丸様、もう、いい?」
 子供の様に言うゆやに、射命丸は優しく答える。
「ええ、ゆっくり、お休み……」
 自身の膝の上にゆやを寝かせる射命丸。声を震わせながらも耐えていたが、ゆやの顔を見下ろしてとうとう涙が零れる。
「椛、射命丸様、有り難う、有り難う……」
 何故あなた達は最期に礼を言うのだ。射命丸は声を上げて泣いた。範頼の時ですら必死で堪えたのに、今はもう、童の様に涙を流し、泣いていた。
 その横で太郎も、涙を流しながら天頂に向かって吠え続け、ゆやの魂を悼み続けた。

     * * *

 射命丸達はその後、鎌倉に戻ることは無かった。
 その鎌倉では、景時の変を始め多くの政変事変が繰り返され、京以上に苛烈な政治の場となったそこで、御家人達は淘汰されていった。
 そこで最終的に実権を握ったのは北条氏であったが、それは時政ではなく、夫と子を失い、犠牲とした果てに時政を引きずり下ろした政子であった。
 頼朝の鎌倉は、彼女に継がれることとなったのだ。

 そして時を下って嘉禄三年、ユリウス暦一二二八年。
 政子の死後より二年、鎌倉の政争の小さな余波が意外な形で蒲御厨に訪れる。
 北条時房(ときふさ)の下文により、吉祥の子、即ちゆやの子である藤姫が地頭職に補任されたのであった。
 これは鎌倉での政争の中、時房が取り込みに掛かったものであったのかも知れなかったが、以来蒲御厨は、細く長く、その命脈と血を継いでいったのである。

 彼と彼女の、その血脈を。






 卅七./今は今(第129季)

 文は思い返していた。

あの時――
 鴉が少年に救われなければ。
 一貫坊射命丸がゆやより先に範頼と出会っていたら。
 ゆやと宗盛の出会いが穏やかなものだったら。
 太郎が遣わされなければ。
――どうなっていたのだろうか。
 蒲冠者は三河守範頼として死ぬこと無く、御厨で穏やかに一生を過ごせただろうか。
 ゆやは内府の愛妾として、末永く、豊かに暮らせたかも知れない。

 小さな藤棚。そこに垂れ下がった藤の花に一匹の揚羽蝶が止まり、羽根を休める。
 一匹の蝶の羽ばたきが、やがて台風になる事もあるのだという。それは数理の話を単純化した例の一つだが、あの時代の中で、彼らとの出会いはどれ程の意味があったのだろうか。
 蝶の羽ばたきよりも遙かに直接的な働きだが、大きなうねりの中にあっては全てが呑み込まれ、些事を除けば、結局同じ所に収まったのかも知れない。
 それとも、今もこの国は、平家の臣が政を執り行い、この幻想郷すら存在しなかったかも知れない。
 
 止そう。文はそれらの思惟を投げ出す。全て終わった事なのだと。
 妖怪の一生にも長短あるが、人間の生は妖怪に比べて短い。皆そこに、己の全てを賭けて駆け抜けた。そして、今ここに在ることは、すべからくしてそう在る。
 歴史にifは無い、時間は絶対にひっくり返らないのだから。

 また演目が終わり、しばらくの休止が訪れる。そこへ、何やら売り歩く妖怪が一人、文とヤマメの側に近付く。
「へい毎度」
 寄って来たのは河童の河城にとり。
 最近あちこちで商売しているのを見る河童、神社でのイベントは実に最適な場だった。巫女の霊夢は間違いなくショバ代を取っている事であろうと、文もヤマメも思い浮かべる。
「何してんの、にとり」
「何って、見ての通りだよ。上演の間はちゃんと遠慮して、こうして幕間を選んで商売してるんだから」
 よくこんな舞台の時に商売をと、自身も一応は商いをしているヤマメは、若干呆れる。
「あのね、にとりね……ま、いいか」
 少しばかり己も思い出に浸っていたからそう思っただけかも知れない。別にこのぐらいはいいなと思い直すヤマメ。その同意を受け、にとりは商品を差し出す。
「そうそう、良いでしょ。麦酒にお冷やに肴も弁当も各種。冷酒も有るけど、どうするね」
「じゃあ、私はビールを」
「はい天狗様はビールと、ヤマメは?」
「ああ、うん、どうしようかね……」
 ヤマメが注文を迷っていると、にとりの胸ポケットがバイブレーションで振動する。彼女がそこから取り出したのは、ハガキぐらいの大きさの、樹脂で出来た板。アドホック通信をメインで行う、液晶画面を備えたデータ及び音声通信端末だった。
 ヤマメもそれを扱ったことがあり、話し相手が限定されているのも知っていた。相手は誰であろうと会話に耳を傾ける。
「うん? ちょっと待って。もしもし? 魔理沙。今日は商いの時間が限られてるんだか――なによ、あんたら。は? ラジオが壊れた? そんなの自分達でどうにかなるでしょうが。あと三十分で直さなきゃいけない? 知らないよ……ゑ、ひゅいっ!? ……あい、あい、わかりまひた、すぐいきます」
 普通の人間の魔法使い、霧雨魔理沙に始まった通話。それが、誰と彼と順繰りに変わっているらしい事が文にも分かるほど、その応対も表情も目まぐるしく変化する。ヤマメには話し相手が誰々であるかも分かっており、その様子を微笑ましく眺めている。
 画面をタップして通話を終えたにとり、蒼くなった顔をヤマメが受ける。何やら喫緊の事態があったのは分かり、それが、この場ではにとりにとってだけの事なのも知るため、少し意地悪く構えていた。だが、
「……よろしく!」
 油断していたヤマメの手に、提げていた肩掛け箱を中身ごと手渡すにとり。剛力の河童とそれを上回る土蜘蛛だから、ひょいと軽そうに渡し、受けるが、酒も飯も浅い箱の上で大量に唸っている。
「ちょっと、どうしろってのよ、これ!?」
「あたしが行ってる間に売り上げた分、ギャラはずむから任せたよ」
 言って、土埃をまき散らしながら飛び立ち、ひんしゅくを買いながら場を後にするにとり。
 ヤマメは半ば呆れてその後ろ姿を見送る。
「まったく、あいつは……」
 肩掛け箱を提げたヤマメは、そのままの体勢で文に向き直り、礼を述べる。中々にシュールな光景であるが、文もヤマメもそんな事は気にしていない。
「射命丸さん、今日は、ありがとうね」
 短く、しかし心からの謝意。
 文は、貌を明るくしてそれに応える。
「喜んで頂けたなら何よりです。でもこの後もまだ続きますからね」
 目配せして言う文、ヤマメの視線は下を向く。
「それは楽しみ。これさえ無けりゃね……」
 そう言いながら、クツクツと押し殺した笑いがヤマメから、それは文にも伝播する。
 笑い合う二人に、出演を終えた椛が舞台裏から出で、水干姿のまま小走りに駆け寄る。

 結局私には、あいつだけか。

 二人はそれぞれに思いながら、各々の想う方へ視線を向けた。






 終幕./霊犬伝説(西暦2014年/1308年)


 あーもう、なんでこんなのが直せないの!

 こいつらじゃアナログすぎて分かんないんだとさ

 って、あんたらこれ、バリコンぐらついてるだけじゃん! パッと見て気付きなよ!

 口より手を動かさないと、そろそろ時間だぜ?

 んなの分かってるよ! えーと、周波数は――

 確か1400キロヘルツぐらいだっけか?

 またアバウトな、、、おっと、来た来た。


《――っとんしずおか昔話の時間がやって参りました。今日は磐田市見付に伝わる『悉平(しっぺい)太郎』について、お話しして参ります》

     * * *

 鎌倉時代の終わり頃、今の天竜川東岸にある磐田市の見付天神での事です。
 いつの頃からか、ここの神さまが若い娘を求めるようになりました。
 無視すれば田畑が荒らされますので、人々は仕方なく娘を差し出すしかありませんでした。
 白羽の矢が打ち上げられ、それが屋根に落ちて立った家の娘が生贄として捧げられます。その親達は泣く泣く、娘を人身御供として差し出していました。
 ある時、一実坊(いちじつぼう)様という名前の、お坊さんと神主さんを兼ねた社僧という身分の人が旅で通りかかって、そのように嘆いている娘の両親を見て思いました。
「神さまがその様な事をするはずが無い」
 そして、その正体を確かめる事にしました。
 夜になり、見付天神に潜んで様子を窺っていた一実坊様の前に現れたのは、神さまなどではなく大きな怪物でした。
 怪物は何匹も居て、口々にこう言います。
「今宵この場におるまいな、信州信濃のしっぺい太郎に知られるな」
 言いながら、やはり怪物達は娘を攫って行きました。

 一実坊様はすぐさま怪物達が言っていた信州――今の長野県へ向かい、しっぺい太郎を捜し回りました。
「誰か、しっぺい太郎という人を知るまいか!」
 叫んで回っても、聞いて回っても、誰も知りません。
「誰か、しっぺい太郎を知るまいか!」
 そうして探し回っていると、ある村人が言いました。
「駒ヶ根の光前寺に、しっぺい太郎という名の大きな犬が居ますよ」
 なんと、しっぺい太郎は犬だったのです。
 一実坊様は光前寺に急ぎます、早くしなければ次の娘が生贄にされてしまうからです。
 光前寺に着くと、住職様に言いました。
「もし、私は旅の僧、一実坊と言います。しっぺい太郎はここにおられますか」
「はい、しっぺい太郎はここにおりますよ」
 住職様に連れられて出て来たのは、仔牛ほどもある真っ白くて大きな山犬でした。
 とても賢そうな顔をした太郎を見た一実坊様は、
「この犬こそ、怪物達が言っていたしっぺい太郎に違いない」
 と確信して、住職様に事情を話します。
「実は遠江の磐田見付の北野天神に、神様を名乗る怪物が現れるのです。怪物達はしっぺい太郎を恐れていました、なんとか貸して頂けませんか?」
「分かりました。太郎や、行って来なさい」
 住職様は快く応じて一実坊様に太郎を預け、一実坊様達は磐田見付に戻りました。

 見付では、またある家に白羽の矢が立てられていました。それを見た一実坊様は家の人に言います。
「このしっぺい太郎を、娘さんの身代わりにします」
 その夜、太郎は娘の代わりに柩に収められ、見付天神社に供えられました。一実坊様も近くに潜みます。
 しばらくすると、前と同じ様に怪物が現れました。
「今宵この場におるまいな、信州信濃のしっぺい太郎に知られるな」
 すると柩の中から太郎が飛び出し、怪物に飛びかかりました。それに一実坊様も加勢します。
 一実坊様も怪我をしましたが幸い無事です。夜が明けるとそこには、白い身体を血だらけにした太郎と、息絶えた怪物達の亡骸がありました。
 怪物は真っ赤な顔をした猿の様な妖怪、老いた狒々(ひひ)だったのです。
 その後、一実坊様は太郎と共に傷を癒し、光前寺へ向かいました。

     * * *

 全編梵字の大般若経の写経を終えた椛は、筆を置くと少し伸びをする。
 あれから百年以上の時が経っていた。
 射命丸の伝手で光前寺へ預けられ、一実坊との名の僧坊を与えられた椛は、鎌倉とこの国の趨勢を耳にし、その眼で見ながらも、修行と写経に勤しんでいた。
 また時代が変わるのだろう。無心に写経しながらも、そんな予感が浮かんでは消えていた。
 随分と、時が過ぎた。
「もう、約束の日は過ぎているはずなのに」
 呟いて伽藍の天井を見やる。と、そこへ、彼女を覗き込む逆さまの顔。
 長めの小芥子頭が、悪戯っぽく見下ろしながら言う。
「何を言っているの、修行が終わらないと」
「とっくに終わりました。まったく、来るのが遅過ぎますよ――」
 椛は言い、覗き込んで来る彼女と微笑み合う。
「――射命丸様」

 百年の時を超えて生きている人間は少ない。あの時生まれたばかりだった子でも、生きている者は皆無だ。鎌倉すらも今、その命脈が尽きようとしている。
 それでも人々は、血をつなぎ続けている。彼や彼女の子らも、静かに、あるいはかつてより激しく生き、子を産み育て、死んで行った。

 射命丸は、ずっとしたため続けている懐の文に手を当て、静かに思う。
 かつてなら、一人残されるのは辛かっただろう。
 でも今は側に居る、とても生意気だが一人。範頼とゆやの妹であり、頼景の娘であった彼女が。

 二人一緒なら、いつまでも。






 解説『悉平太郎』./(AMラジオ放送1404kHz)

――その後、しっぺい太郎は一実坊様と共に無事に光前寺に帰ったとも、途中で怪我が原因で死んでしまい、山住神社という、秋葉山より更に山奥の神社の近くに葬られたとも伝わっています。

すっとん、おしまい。

      ∴

今回のお話、いかがだったでしょうか。
光前寺には大般若経という六百巻にもなるお経が残っています。これはお話に出て来たお坊さん、一実坊様が見付天神を通して納めた物で、しっぺい太郎を借りたお礼か、供養のために奉納したのだそうです。
またこの一実坊様、本によっては一貫坊様となっていることもあります。いずれにせよ、お坊さんが活躍したのでしょう。

さて、このようなお話は、猿神退治として日本全国に残っています。しっぺい太郎のお話はその中でも特に有名で、今も駒ヶ根の早太郎と対になって語られているのです。
最近では磐田市が、この説話を元に『しっぺい』という名前のマスコットキャラクターを作ったりしているのは、皆さんもご存知でしょう。

ところでしっぺい太郎の“しっぺい”とは、一体何なのでしょうか。
これにはいくつか説がありまして、疾風のように速いから、それが訛ってしっぺいになったとか、疾病、つまり病魔を退治する事からそう呼ばれるとも言われます。
また早太郎という名ですが、これは先程の疾風と同じ具合の意味で、駒ヶ根や光前寺で伝えられる物です。

お話の中では大きな犬という言葉が出て来ましたが、しっぺい太郎は実は狼ではなかったのか、とも言われています。これは遠州、つまり今の牧之原市から浜松をはじめ、各地で見られた狼信仰、あるいは山犬信仰によるものと見られます。

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この小説へのコメント

  1. 連載お疲れ様でした。
    東方のキャラと実際の歴史を上手く組み合わせていて
    とても楽しめました。
    もし他の構想がありましたら、是非作品化を!

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