東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編   木ノ花前編 第3話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編

公開日:2016年02月03日 / 最終更新日:2016年02月03日

五./赤面の狒々(西暦1179年)

 見附の怪異を追い払ってひと月、射命丸は三尺坊に命じられた通り、天邪鬼の探索を続けていた。
 池田宿の宿の一つへ逗留しつつの調査。宿の主人は勧進の為であろうと怪しむ事は無かったし、辺りは栄えた宿場町で不自由も無かった。
 ただし、範頼との連携は取っていない。
「一貫坊殿、今日は随分と早いお戻りですな」
 部屋で寝転んでいると頼景が姿を見せる。
「昼に村々で聞き込みをしたら猿の群れの話が聞けたので、夜になってから向かおうと思いまして」
 死人の様に、仰向けに手を組んで目を瞑りながら答える射命丸に、彼は難しい顔をして唸る。
「それなら俺達を呼んでくれてもよいでしょうに」
「いえいえ。状況も定かで無いのに神明宮から呼び出して無駄足になったら、それも失礼ですから」
 頼景が宿を取るのは宿場ではなく蒲神明宮。渡し賃をケチるぐらいの彼の事、当然に思えた。
「左様ですか。では時が来たらば、蒲殿と一緒に迎えに参りますでな」
「え、ええ」
 あれ以来、範頼達と会うのは何故かいつも池田荘司邸になっている。なるべく苦労をさせまいという彼の心遣いからであったが、射命丸には有り難くも何ともなく、逆に会い辛くなってすらいた。二十年も焦がれていた人物であったのに。
 辛うじて間が持つのも頼景が居るからである。
 彼は範頼と違って自由に動き回り、やはり初めて会った時と同じく、彼自身も天邪鬼の探索を行っていた。今彼が天邪鬼を探そうとする理由は「手負いの獣は危険である。それは、手をかけた者が責任を持って狩らねば」との考えからであった。
 当然あの物怪は、野山の獣とは違う。生きたいという欲求を満たす程度の知恵はあるだろうし、そうであれば下手に動かぬというぐらいは賢しかろう。しかし力を残した手負いの者が厄介なのは人間でも同じで、武士である頼景はそれをしてこう言ったのだ。
 今はそこまでに至っていない、調査の段階である。しかし今日の彼は刀を帯びていない、何の用で来たのか、射命丸にも心当たりは有った。
「それにしても、今日はお酒ですか? よく酒代が続きますね」
 宿代までケチるのにと言外に含め、目を開け、体を起こして射命丸は言う。
 彼はちょくちょく射命丸に面会に来ては、偶に酒などに誘ったりもしていた。僧であれば通常断る事だし、誘われる事も無さそうなものである。だが三尺坊本人が酒をすぐに枯渇させるほどの笊呑みのため、射命丸もそれなりに嗜んでいた。
 頼景も俗気を承知しており、彼女を――破戒僧とも生臭坊主とも呼ぶでなく――誘ったのだった。
「だから宿を節約するのです」
「なるほど」
 金銀こそ持っていないが、彼は相良の榛原(はいばら)郡海老江(えびえ)村(※1)で採れるという燃水(もゆるみず)(※2)や燃土(もゆるつち)を、竹筒に詰めて持ち歩いていた。これに希少価値や実用価値を見出せる商家等に持ち込み、対価を得ている。
――燃水は強い匂いを放つ文字通りの燃える水で、植物の種から絞った油よりもよく燃える。燃土も匂いがあって燃えるが、こちらは膠(にかわ)より強く物をくっつける事が出来るため、燃料よりそういった用途でも使われる。ただ相良では、燃土の方はあまり採れないらしい――
 元領主だからか彼の元からの性分か、ともかく適度に羽振り良く、適度にケチっている。
「夜に出るのですか、それでは景気づけに一杯如何かな。俺もそちらに付き合いますで」
「両方とも結構です。それより、本当に兵などは用意できないのですか?」
「動かせぬ事はない。ですが平家の目もありますから、と言うよりそちらの方が気になりましてな」
 相良からここまで、大幅に迂回しなければ国府の目に付かずに兵を運ぶのは難しい。国衙の求めなく戦の準備と見られる真似を、それも西向きに進めれば、どんな事になるのかは想像に難くない。
「それにしても、国衙は本当に猿や妖の討伐を行っているのですかな?」
「三尺坊権現の、いえ、秋葉寺での話では、そういう事になっていたのですが――」
 実際に聞き込んでみれば、国衙が兵を動員したのは最初の二・三度の襲撃の時ぐらいで、その後は各地の土豪が自らの本拠で動いているのみ、彼らが地元で動くのは国衙も黙認していた。
 そもそも国府は妖の事をどう考えているのか。賊がそう騙っていると見ていても、当然と思える。
「ふむ、あまり芳しくないようですな。ときに、本日は酒に誘っただけでは無いのですが」
 それなら早く言えば良いのに、無駄話ばかりで寝る時間も無駄になった。
 射命丸が嘆息して続きを求めると、彼はそれを気に留めずに応じる。
「蒲殿が会いたがっておりましてな」
「何か分かったのですか?」
「いえ、単に会いたいと」
「からかうのはお止め下さい。源氏の御曹司が、こんななりをした女など相手にする訳がありますまいに」
 会いたいと言うならあちらから来るべきだ、との考えは無い。だが池田荘司邸で会うのは御免だ。
 頼景は射命丸のそんな思いなどお構いなく、ふと漏らした一言に食いつく。
「おお、やっぱり知っておられたか」
「え?」
「いや、蒲殿が源氏の御曹司と」
「あ、やや……」
 彼らも察していたのだ。いや、見附からこちら、射命丸の態度からして思わない方がおかしい。
「害意も無ければ他意もありません。ただそちらから明かさぬうちに、こちらは知っているぞ、などと言い出してはと、そう思って控えておりましただけで……」
 しどろもどろと言い淀む。
「そう言えばですな。ところで、ご存知の通り蒲殿のお父上は故左馬頭義朝様ですが、お母上はどなたかご存知ですかな」
「蒲氏の、どなたかの娘ではないのですか?」
 蒲御厨で生まれ育ち、京でしばらく過ごした後また同地に戻って来た。そう考えるのが当然と、射命丸は疑問を持っていなかった。
 しかし今聞いて思い返せば、“鴉”は養生している間、彼の母を見た事が無かった。
「貴種のご落胤ということで預けられたのでしょうな。この宿(しゅく)のかつての長者の娘が、蒲殿
の母だそうです」
「へぇ……」
 意外と言えば意外な事だが、言う程でも無い。宿場の長者などの娘が、その様な人物に遊女として供されるのはよくあること。むしろそれを望んでやっていた。そういった者は芸能も身につけていたし、範頼の母など神事舞を納める事もあった、と聞いたと彼は言う。
 また義朝には、この様にしてもうけられた子もあちこちにあると伝えられる。それにこの宿場の規模なら、長者も裕福な者であったろう。
 平家の世となった今、その様な関係が裏目に出たかも知れないが。
「いやまあまあ、それはともかく、理由が何かは知りませぬが、会いたがっているのは本当ですぞ」
 それは真実であろう。だが頼景の表情がどうにも信用しかねる、面白がっている風な笑みが。
「分かりました。求めがあるなら応じぬのは失礼でしょう。ただ今日の所は、調査の方を優先させたいと思いますので、それはご容赦を」
「それは構わんでしょう。俺も付き合いますで」
「いえ、ですから結構。と言うか無理です」
「ほう?」
 何か理由があっての言葉であろうと、頼景は気分を害すこと無く興味深げに声を漏らす。
 射命丸は東の方を指差して言う。
「やはり磐田でしたので、神通力で飛んで行きます」
 目撃情報が有ったのは磐田の郊外。渡しを使わず、夜陰に紛れて天竜川を渡ると言うのであった。
 ただし彼女は飛ぶと言ったが、現実は“跳んで”である。

 さしもの射命丸にも、天竜川は一跳びで渡るには広すぎた。いくつか中洲を経由して渡り、そこか
ら先は、木や杜があればその頂を、無ければ平野を兎のそれを千倍にもした跳躍。馬にも勝る、歩くのとは格段の違いの速度。磐田にはあっと言う間に辿り着いた。
 見附を過ぎた先の邑で、一刻二刻と待ってみる。
 妖はおろか、目撃されたはずの猿すら出て来ない。特段起こった事と言えば、彼方での、犬同士の
遠吠えの掛け合いぐらい。
「さて、これは今回も外れかな」
 月は雲に隠れているが、子の刻は回ったぐらいか。
 射命丸は、まずは一気に高く跳び上がって周囲を確認、ほぼ垂直に十丈も跳ねながら地上を見やる。まだ宿場には灯りが点り、国府の方ではより大きく篝火が照っていた。
 その側、国府に燐する屋敷もまた、篝火が焚かれているのに気付く。
 いずれも警備の兵を置いていることであろう。あんな所に何かあっただろうか。距離にして十町。射命丸は地上に降り立つと、僅かに興味を引かれたそちらへ、小刻みに跳びながら近付く。
 近寄ってみても、そこが何か分からなかった。
 質実かつ質素な国府の建屋に比べ、まるで京から移して来たかの様な、豪奢な佇まいの屋敷。いくら遠江が上国とはいえ、これはここに似つかわしくなかった。
 思い付いたのは当地に長逗留しているという宗盛の事。彼の仮の邸宅というなら――これが税で建てられた物であるのについてはさておき――納得がいく。
 ただ、射命丸は妙なものも感じていた。頼景に嗅がされた燃水の様な、鼻を突く何とも言えぬ匂いがする。篝火にそんな物でも使っているのかとも思われたが、鼻をつまんでみてもこれは消えない。
 この不思議な知覚はしばらくして収まった。
「まさか、なぁ」
 よくよくすれば感じ慣れたものではあったか、妖の生じる気配、としか言いようが無いもの。自身も生じさせているがそれは抑えている。池田荘司邸に居たヤマメも、抑えながらも質の違うそれを生じさせていた。
 この様な場所にそんなモノが居るのか。まさか、であった。

 射命丸は収穫も無く宿に戻ると、そのままぐっすりと眠り込んでいた。寝巻にしている小袖ではなく、修験者装束のままで。
 ふと、気配を感じて飛び起きる。
「誰か!」
 誰何(すいか)し咄嗟に構えると、目の前の木戸がゆっくりと開く。そこには頼景が立っていた。
「流石は一貫坊殿。蒲殿、寝顔を見損ねたなぁ」
 部屋に入り込み、座りながらそんな事を言う。続いてもう一人、範頼が後ろに続いていた。
「……やはり殴ってでも止めるべきでした」
 らしからぬほど物騒な事を言い放つ。
「頼景殿、勘弁して下さい。昨日の探索で、いや、今日まで差しかかっていたぐらいなのですから」
 実際は何も出なかった、それでも緊張感が心身を捕らえていた。それは国府側の邸宅での、不可思議な知覚によるところが大きい。
「いやそれは申し訳ない。しかし、蒲殿を連れてくればそれも収まると思いましてな」
 どこを押したらその様な考えが生じるのか。射命丸は、身だしなみを整える暇も無く、顔をこすりながら呆れた風に頼景を見る。
 彼は気にした様子も無く、釣り人に釣果を尋ねる様に問い掛ける。
「で、何か出ましたかな?」
「何も。猿は一匹も居ませんでしたよ」
 それよりも寝起きだ。目やにや涎だのの方が気になると、雨の前の猫の如く、射命丸はしきりに顔をこすり続ける。
「左様ですか。出て来るなら出て来る、出て来ずにそのまま死んでいるなら、それでいいのですが」
 それもそうだと頷く。
 顔をこするのを止めて、今度は範頼に向き直る。途端に彼は姿勢を正した。
「どうしたのです!?」
「素性を隠していた事、平(ひら)にご容赦願いたく、こうして参った次第です」
 板間に叩頭しながら言うの彼に、射命丸は驚いて同じく叩頭する。
「あ、やや、私こそ知らぬふりをしていたのですから、何より蒲殿の事情を勘案すればやむを得ない事でありましょうし」
 頼景はそれを見ながらクツクツと笑っている。範頼が会いたいと言っていたのはこの事だったのかとは思いつつ、たかが僧一人に、そんな事だけで会いに来るであろうかとも考えた。
「さて蒲殿、まずその件は解決として、本題だな」
 双方頭を下げたままでは始まらないだろうと、頼景が二人の頭を上げさせる。
 やはりそうか。射命丸も仕切り直して姿勢を正す。
「その、ゆやの事で、少し」
 表情はそのままに、射命丸の心が凍てついた。

       ∴

 射命丸達三人は、連れ立って池田の荘司藤原重徳邸、即ちゆやの家に到着した。
 いつもと同じ様に藤が迎えに出て、範頼と頼景、それに射命丸にも丁寧に挨拶をする。毎度の事でもその物腰には射命丸も感心する、さりとて“かのご婦人”の印象を良くするものではなかった。
「ゆやは、野良仕事ですか?」
「はい、何やらあれ以来、一層精を出している様でありまして」
「私も手伝って来ましょう」
「では俺も」
「いえもったいない、どうぞゆるりとなさって下さい」
 藤が去るのを三人は見送る。
 あれ以来。恐らくはゆやの悩みであり、範頼の悩みの種であろうと射命丸は推察する。それも女性でなければ難しい事なのであろう。ただ、人間の女性の心の機微に応えられるかは、射命丸自身も怪しく思っている。
 前にここを訪れてから五日と経っていない。その間に何があったのであろうか、いまいち思い浮かばない。
「ゆや殿の身に何かあったのですか?」
「はい。平家の跡取り、平宗盛様が磐田見附に逗留されている事、覚えておられますでしょうか?」
「ええ」
 つい昨日、それらしき佇まいの屋敷を見たばかり。今の問いに――この時の射命丸の認識に依る所では――僅かの誤謬があるのはさておいて、当然と答える。
「その宗盛様に、先日ゆやが重徳様と共にご挨拶に上がったのですが……」
「重徳様の仰るには特に何かがあったわけではないのだが、帰って来てから、ゆやが何か悩んでるか
怯えてるかしている風でありましてな」
 なるほど、おおかた宿場の長老の娘よろしく、供されそうにでもなったのだろう。湯屋(ゆや)(※3)の名にお似合いではないか、何をそう厭がるのだと射命丸は思う。
「ガフ! ヲン! ヲン!!」
 突然、庭の隅に居た太郎が綱一杯に駆け寄って吠え、歯を剥いては唸り、吠えるを繰り返す。
「どうした太郎。気持ちよさそうに寝ていたから声をかけなかったのだぞ。構ってやらなかったのは悪かったが機嫌を直せ」
 頼景がすぐに庭に降りてなだめると、太郎は激しく吠えていたのが嘘の様に彼の言葉に従い、悪びれた風に耳と尾を垂らして黙る。
「よしよし悪かった。だが大事な話をしておってな、後で遊んでやるから大人しくしておいてくれ」
 言って、頭をグシャグシャと掻きむしってやると、太郎は心細そうな鳴き声を上げながらも、すごすごと元の場所に戻って行った。
 やはりあの犬は己の正体に気付いているのでは。射命丸は不安に思い、背に伝う汗を意識する。
「あいつは一体、何に対して怒っておるのだろう」
「どうしました?」
「いや、あそこまでカンカンに怒っている事など、今まで無かったで」
「太郎も歳ですから」
「ヲフ!」
 壁の側の日陰に入りながら軽く吠える太郎。歳だと言った事への抗議であろうか。
「すまない太郎。お前もゆやと同い年だったね」
 犬なら年寄りに違い無いだろうに生意気な事だ。それより話の腰が折れたと射命丸は続きを促す。
「それで、本人は何かそれについて話を?」
「私達には少しも話してくれません」
「ご母堂が問うても同じでしてな」
 女同士なら話すと思ったら間違いだ。そして誰より、己がどう聞こうが彼女が話す訳が無いと、射命丸は首を捻る。
「私に話すなど、とても思えませんが」
「いや、うってつけの女がおりますから、その者を交えてというのが蒲殿の策です」
 頼景に視線を向けられた範頼は、無表情に言い放つ。
「浅知恵は策ではありません」
 彼もそこは自覚していた、苦し紛れであると。そうではあっても一応の理由は有るとも言う。
「あのヤマメという妖の女房、一貫坊様も“そう”とご存知との事ですね。実はゆやの方こそヤマメ殿に懐いております。藤様にお話し出来ない事も、彼女になら話すのではないかと」
 母子で話せない事が、全くの他人になら話せるのか。人間はそうなのか。射命丸にはそれが実感できない。
「……私が居る意味とは?」
「ヤマメ殿は女であっても妖である、という事で、果たして人間と同じ認識を持ち得るのか疑問です。それと、藤様には要らぬ心配をかけたくありませんので。何より一貫坊様なら、信用できると思った次第です」
 射命丸は何か安堵した気分になるが、同時に彼に対する良心の呵責も感じた。

 真昼にかかる頃、間食と休憩にと、これもいつも通り、ゆや達は田圃から一旦帰って来た。家人の中には前に紛れ込んだあの襤褸の少女や、当然ヤマメも居た。
 範頼がゆやに「食事の後に話がしたい、ヤマメも連れて来なさい」と言うと、ゆやは喜びすぐに盛る飯を少な目にし、ヤマメを急かしてまで食事を早く終わらせ範頼の元へ来た。
「しず、私の分もたぁんと食べて」
 襤褸の少女は駿河国の賤機山(しずはたやま)(※4)で生まれ、今は孤児なのだと、射命丸は範頼から聞いた。そのため彼らは少女を『しず』と呼んでいるが、字は『賤』ではなく、相良荘の北にある浜『静波(しずなみ)』から『静』としていた。
 土にまみれた格好であるのを気にしていたゆやであったが、ヤマメ共々上がり込むと、すぐに破顔して彼の側に寄り添う。あからさまに射命丸を意識して。
「範頼様、お話って何ですか?」
 目を輝かせて言うゆやに、範頼は申し訳なさそうな、困った貌をして言葉を詰まらせる。またそうだとは言い出せない。それにはヤマメが助け船を出した。
「ゆや。蒲殿は多分、お前様の事を心配してるんだ。蒲殿、宗盛の所での事ならオレがゆやから聞いている、オレから話そう」
 察しがよい。ゆやが話すのは辛かろうと、鳶色の瞳を向けて言う。
 ヒトならざる者ではあるが、やはり悪逆非道な物怪には見えない。そして、その様なよからぬ事があったのかと範頼らは身構える。
「そうでしたか、それなら話が早いです。ゆや、少し外し――」
「やだ、それなら私から話す」
 奮然とするゆや。ヤマメもそれ以上は言わずに、彼女が言うのに任せる事にした。

 平家のお偉い方、貴人にお会いするからと、ゆやは精一杯着飾って重徳と共に国府へ赴いた。
 謁見は国府の広間。奥が暗かったため、始めは米俵みたいな、ずいぶん肥えた方だと思っただけだった。しかし近付いてみれば、聞いていた通りの貴人には見えず、思わず後ずさってしまったほど。
 眉を引いて口に紅を塗った、公卿の様な風体。公家であればこれはその通りなのであるが彼は武家、ゆやをしても奇妙に思えた。
 しかしそれだけなら拒絶することは無い。それ以外、顔が酷く醜悪であったとか、その他に人が忌避するものがあったのでもない。ただゆやにとって、彼の醸し出す多くのものが不快であった。
 不敬を押して言えば欲ボケ、色欲と食欲にまみれた様にも見えた。そしてとても、知的な感は無い。多感な年頃の娘だからそう感じたのかも知れない。
 何より問題なのはその後、ゆやを娶りたいなどと言った事であった。

 言う以上におぞましく思ったのか、ゆやは若干顔色を悪くしている。
「尊い人と言うから、お坊様や範頼様みたいな方だと思ってたのに。あれは何か、分からなかった」
「ゆや、無理をしなくてもいい」
「ヤマメの言うとおり、それだけ聞けば十分だよ」
 二人がそうして止めるのを、ゆやはある限りの語で表そうと続ける。
「そう、狒々だ。あの宗盛様って方は、なんかの話で聞いた、毛むくじゃらの狒々みたいだった」
 顔色はなお悪くなる。よろしくないと見たヤマメは、庭で休んでいたしずを手招きし、連れ出させる。今度はゆやも大人しく従い、席を立った。

 大の男二人に妖の女二人、射命丸は奇妙な感を覚えながら、さっきの話を反芻する。
「娶るだなど、そのくだりは流石に一大事であろうに、重徳様は何も言っておられなかったぞ!?」
「相良の殿様、声を落とした方がいいぞ」
「頼景でいい。本当に頼むから殿様は勘弁してくれ」
「ヤマメ殿、ゆやのその話、本当だと思いますか?」
 範頼は冷静に問う。
「それは、あの子の言う事を疑っているのか?」
 ヤマメが怒気のこもった声音で問い返す。
「あの年頃の子であれば、注意を引くためにそんな事を言っても不思議は無いですから」
「では蒲殿の言うとおりだとするのなら、あの子は何に思い悩んでいると思うんだ?」
 少なくとも自分が聞いた彼女の言葉は真実、なぜ信じてやらないのだとヤマメは静かに憤慨する。
「私も蒲殿が言うようなきらいは、あると考えます」
「おいおい一貫坊殿。蒲殿、何を根拠にそう疑う」
 射命丸は感情の赴くままに述べたが、範頼には理屈があった。
「先程、頼景殿が仰った事が、それです」
 重徳が言っていなかった、その事だ。
 頼景にも言っている事は分かる、しかし得心がいかない。頼景が知る限り、ゆやは範頼の前で飾る事はしても偽ったりするような事は無い。これは範頼もまた彼女に対して同じである、絶対とは言えないが。
 ヤマメの貌もなお険しい。さて双方ともにどう説得しようかと頼景が気を揉んでいると、また一人新たな人物が訪れた。
「御免。蒲殿、ご無沙汰しております」
 鎧直垂(※5)を着こなし、頭にも眉にも白い物が混じる男。
 彼を目にした頼景はあからさまに厭そうな貌をし、範頼もそれ程ではないにせよ表情を曇らせる。ヤマメは初対面なのか、太刀を携えた彼がゆっくりと上がり込み座るのを、ただ見守るのみ。
 射命丸には見覚えがあった。二十年も前の事であるが、鴉は今と大して変わらぬ彼の姿を覚えていた。範頼が京へ向かう際、車を寄せて迎えに来たのが彼だ。
 名は――
「勝間田(かつまた)、五郎様。どういたしました」
 勝間田五郎次長(つぐなが)、そう名乗っていた。
 範頼が強ばった声で問うと、矍鑠と答えが返る。
「なに、所用のついでに挨拶に伺っただけです」
 相良に燐して親交を持つ武家のうちの一つ勝田(かつまた)氏、その家の年寄り。
 皺も深く見た目の歳は三尺坊ぐらい、人間なら六十歳――人間なのだからその通りかと射命丸は見積もる。その割りには範頼よりも数段逞しく、わざわざ肩を怒らせなくとも十分に角張っている。性格もその様なところかと、二人の反応を見ながら思った。
 見た目に反して静かにあぐらをかく彼に、ヤマメは丁寧に頭を下げる。それに対し、最初はヤマメを訝っていた彼も、軽く挨拶を返した。
「さて、外のゆやは浮かぬ顔。蒲殿と次郎殿、加えて尼僧に下女とは、一体何事ですかな」
 誤魔化しも隠し立ても通用すまい。範頼らは最初から観念してゆやの話をそのまま伝える。加えてその後の会話も。
 逐一に頷きながらこれを聞き終えた次長は、おもむろに一同を見回してから頼景に視線を止める。
「次郎殿」
「今は四郎であります。なんでござろう」
「失礼、四郎殿。お主が重徳殿の立場だったとしたら、平家の跡取りにゆやを娶らせるか?」
 重徳が、平家の跡取りの――そうでなくとも正二位右大将に嫁がせたいと思うのは当然。側室であっても田舎の下級役人には望んでも無理な機会。普通であれば逃すわけにはいくまい。
 宗盛個人の質がどうあれ、過去これ以上無い隆盛を極めた武門の一族。平家への輿入れは願ったり叶ったり、これが当たり前。
 頼景もその点は理解している。そのため答えなくても分かるだろうと、本心とは違う考えを思い浮かべ、顔に手を当て頭を振る。
「勝間田様、勘弁して下され……」
「そうだ、分かるであろうに」
「いやしかしですなぁ。ならば今、宗盛殿の求めに応じ娶らせるのが筋と、そう仰るのですか?」
 殆ど子供の様な屁理屈で反論する。するとたちまち、怒号が辺りに響いた。
「誰がそんな事を申した! 誰が!」
「勝間田様、お声が大きいです」
「元気なお方ですな」
 言われた頼景は、さも鬱陶しそうに目を瞑って首を横に折り、彼に代わり範頼が諫める。
 怒鳴った本人もヤマメにまで言われたのが恥ずかしかったか、咳払いして改めて所見を述べる。
「今ワシが言った事の本旨は、ゆやの言葉を信じるべし、といういうことである」
「では、重徳様はそれを望んでおられると?」
「それも、然り」
 親でもあるまいに、険しい面持ちの次長。
 娘など嫁に取らせてこそなのだからそうすれば良いのに、射命丸はそう考えながら範頼を見やる。ゆやの事はどうとでも、彼の心情がどうなのかが気になった。
「それが、ゆやが望む事であれば良いのですが」
 そうであればああも懊悩すまい。親子がそれぞれどう思っていようと、結局は家長の胸三寸であろう。それに宗盛にしてもどこまで本気なのか怪しかった。
 次長は――盛大に引っかき回した――話もそこそこに暇乞いし、ヤマメは野良仕事の続きにと去って行く。
 悩みの理由がこれであっては取り除くのは難しいと、残った三人もいたずらに時を過ごす。
 結局この日は事実確認に終始し、また後日集おうと約束して、各々の住処に帰って行った。

       ∴

 池田荘司邸での会合から三日と置かず、払暁に射命丸の宿を訪れる者があった。土蜘蛛のヤマメ。
 決して歓待などできぬ来客に、射命丸は身支度を調えながら邪険に応じる。
「私も暇ではないのだが、何事かな」
 話は聞いてやろうと直垂姿の下男に言ってやる僧、と見せれば、傍からは十分情け深く見える事であろう。
「オレは蒲殿の遣いを申し出ただけだ。そして、オレは反対したんだがな」
 最初にそう言ってからは、道すがらに詳細を聞こうとしても一向に答えないヤマメ。範頼の頼みであるというのなら聞かない訳にもいかない。
 果たして池田荘司邸には、先の会合の面々が集っていた。範頼と頼景は黙想し、次長は一目で分かるほど怒っている。射命丸にもゆやの事とは察しが付く。
 朝から集う不穏な一同の前に藤が現れ、真っ先に次長が口を開き、重々しく問い掛ける。
「荘司重徳殿はいずこか」
「一昨日国府に出仕したきり、戻っておりませぬ」
「出仕? ゆやを献じに参って、ではないのか!」
 強く床を叩いて吠える。藤は強ばった様子を見せるが、毅然として反論する。
「勝間田様が口出しなさる筋合いは無いはずです」
 それもそうだと射命丸だけは納得。
 実は言い放った藤ですら、この件に納得していない。
 宗盛は今日明日にも京へ帰るらしく、国府ではその準備が進んでいる。そこへ幾人かの男女が連れられ、ゆやもその中に加えられたらしい。
 妾未満、やはり相応しいではないかと射命丸は思う。それでも暮らしに不自由はしないのだから。
 動きの性急さから平家に何か大事があったのではと頼景が呟くと、範頼が「やはり」と言う。
「小松殿のお体の具合が芳しくないと、そこまでは聞き及んでおりましたが」
 小松殿、平重盛。おごる平家において、勇猛かつ情けも知る人格者として知られている。範頼のほか、義朝の子らが今も生きていられるのは、清盛に対する彼の説得はじめとし、彼の継母池禅尼(いけのぜんに)(※6)とその家人の平宗清(※7)の嘆願による所が大きい。
 平家の次代は彼が担うと見られていたが、この前年より病気を理由に既に政(まつり)の中枢からは身を引いていた。
 今や宗盛こそが平家の跡目なのだ。
(なら一層、迷う理由などないじゃないか)
 それもやはり、射命丸だけが思った。
「オレの役目は一貫坊様をお連れする事だけだったな、それでは野良仕事があるから失礼する」
 しばらくそこに居たヤマメは、部屋にも上がらずにそう言って立ち去る。
「ヤマメは何とも思ってはいないのだろうかな」
「それこそ、その筋合いは無いでしょう」
 自棄にも思える、範頼の突き放した言葉には、誰もが違和感を覚えた。

 馬らしき足音が壁の向こうで小さく響き、門衛が止める間も無く、一頭の馬が駆け込む。
 装具から見て軍馬であるが、乗っている者は衣(きぬ)を被(かず)いた女房。いや、梅色の細長を纏ったゆやであった。上手く馬を操り、衣を取り去ってひらりと降りると、履き物はそのままに範頼の側へ寄る。
「ゆや、何故ここに……」
「範頼様、私、京になんて行きたくない。あの宗盛とかいう人の所になんて行きたくない!」
 もう宗盛達は国府側の屋敷から出発していたのだ。その隊列はそうそうたるもので、天竜川を渡すだけで時間を費やしている。驚いた事に彼女はその隙を見て軍馬を――それも駿馬を選んで――掠め取り、ここまでこうして駆けてきたのだった。
 範頼の顔は苦渋に満ちている、やはり宗盛の所へ行かせるのは反対。藤も気持ちは同じあるが――
「ゆや、これはあなたの為と、お父様が決心したのですよ。その気持ちを無駄にしてはなりません」
 その表情とはあべこべの言葉。次長はどうしているかと思えば、藤に言われてからは両手の拳を膝に乗せ、うつむいたきり。
「しかし、なかなかの無茶をしたのぉ……」
「そう、ですね」
 平家の軍馬を奪うなど、それだけで――
「それ、言った側からおいでだ」
 頼景と次長がまず気付いて太刀を手に取って立ち上がり、範頼もそれに続く。
 門の前には騎馬武者一騎と胴丸の徒武者(かちむしゃ)(※8)が二人、門衛と問答をしている。国衙から出されたか京から来た者かは不明だが、平家の者に違い無かった。
 棍を立てた門衛二人が主人の帰りと待たれたいと言う側で、徒武者がそれぞれに薙刀を突き付ける。門衛はあくまでも国府からの派遣であるし、これ以上は逆らっても得をする事は無く、立場にも身にも危害を被るしかない。徒武者らも同僚であったのか、極まった行動には及ばない様子。
 彼らの前に、平服の侍二人が歩み出る。
「御身らは何者か?」
「当家で世話になっておる、遠州の浪人である」
「右の者の子である」
 しれっと言う次長と頼景。二人揃って、範頼に下がれと目配せをする。
「荘司宅に斯様な兵を寄せるとは、一体何事であるか。訳を聞かせて貰おうか」
 次長がずいと前に出る。年寄りとはいえその威圧感に、平家の者はたじろぐ。
 入れ替わって兵達の後ろから、一人歩み出る。
 射命丸は初めて見る人物。中背でやや細身の、覇気の無さそうな中年男。
「勝間田様、一体何事でありますか?」
「何事か、はこちらの言うことである。重徳殿」
 これが重徳か、ゆやとは似つかないと射命丸は見る。彼女は母親似なのであろう、あの態度はさておき。
「勝間田殿には関係ありません。それにこれはゆやのため、池田荘のためであります」
 池田荘のため、やはり人身御供にでもするつもりか。それこそ奴に、あの天邪鬼に娘を差し出した風に。射命丸はそれはそれで、と黙って見守る。
「こんな、軍馬まで奪い取って逃げて来るぐらい厭がっている子を……お主に親の資格など無い!」
「子のわがままなど一々聞いてはおられませぬ。それに、親の資格などと、勝間田様などには言われとうございません」
 何か事情がありそうであるが、二人の諍いはゆやによって止められた。
「父上はあんまりです! 私だけでなくしずまで。なんでこんな惨い事をするのです!」
 しず、あの襤褸の少女か。宗盛というのは何でもありの余程の好き者なのかと、射命丸は思う。己であったら身の毛もよだつところだ、とも。
「お前は大人の事情に口を突っ込むな!」
 父に叱責され、身を強ばらせるゆや。それに追い討ちをかける様にまた一人、今彼女が最も忌避する人物が現れた。
「重徳、これは何事かな?」
「宗盛様……」
 ゆやが語った通りの風体の男――宗盛はゆっくりと重徳に近寄り、鷹揚に頼景達の方を向く。
「これはまた、田舎武士が揃いも揃って」
「田舎武士とは、ワシのことですかな?」
 既に太刀の柄に手を掛けている次長、これが災いした。
「ガッ!?」
 突如、彼の両側から徒武者の薙刀が振り下ろされる。刃ではなく柄で叩き伏せられた。
「大丈夫ですか! かつ……親父殿!」
 人事不省に陥りかけながらも、片膝を立ててふんばる次長。
「う、ぬ、尋常に――」
 そこまで言ったところで、前に突き出していた左腕に刃が振り下ろされる。
「グアっ!」
 やったのは、太刀持ちから太刀を受け取った宗盛。
 振り方が悪かったのか骨で止まったが、次長は十分に深手。頼景がすぐに前に出ようとするも、今度は彼が徒武者二人に薙刀で打ち据えられ、あえなく倒れた。
「む、宗盛様、これはやりすぎで……え?」
「便宜を図る、と言ったのに、これだから」
 範頼が駆け出すのと、重徳が崩れ落ちるのは同時であった。宗盛に刺されていた。
「重徳様! 気を確かに!」
「ああ、何という……」
 騒動を聞きつけた藤が表に現れていた。夫が害される現場を見て、動転しながらも手当てを試みようと歩み寄る。範頼は重徳の身を藤に預けると、毅然と宗盛の前に立つ。
「宗盛様、この無体は何ゆえでありますか!」
 拙(まず)い。
 そう思った射命丸が前に出ようとした時には既に遅く、またも薙刀の一撃。それが彼を地に突っ伏させた。
「蒲殿!」
 重徳は駄目だったのか、そちらの手当てを放棄して範頼に駆け寄る藤。射命丸もすぐにそれに加わる。
「いやぁっ! 父上! 範頼様!」
 しかし藤は、ゆやが連れて行かれるのを見て、そちらへ行こうとする。範頼の介抱は射命丸が続ける。
「ゆや! なぜです! なぜこんな!」
 門衛までもが彼女を押し止める。その向こうで宗盛は牛車に乗り込み、縛り上げられたゆやもそこに押し込められる。
 叫び声の漏れ続ける牛車が出発すると。藤はその場にへたり込み、さめざめと涙を流し始めた。
 まるで嵐のようだ。射命丸は範頼の傷を確認しながら思う。幸い彼の外傷は軽い、頭さえ打っていなければ大丈夫そうである。
 しかしまだ嵐は去っていなかった。
「ガウッ!」
 どこに居たのか、否、この様な事に至るのを警戒されて閉じ込められていたのであろうか。
 太郎が、風を纏って駆け抜ける。牛車が相手ならすぐに追いついてしまう事であろうと射命丸は判断し、太郎に続いてその後を追い、駆ける。
 牛車はまだ数町ほどしか離れておらず、すぐに追いついた。
(この畜生は、要らぬ事を)
 護衛の騎馬が気付く直前、あろうことか射命丸は太郎に向かって術を放つ。猿を弾いたのと同じ、衝撃を加える法力だ。
 術を察知したのか、疾走を止めてそれを避け、射命丸と対峙する太郎。唸りながら牙を剥き、彼女を明らかな敵対者と認める。
 太郎が飛び掛かろうとした刹那、その柔らかそうな横っ腹を矢が貫いた。
「ギャンッ!」
 太郎は牛車に向き直る、屋根の上に“奴”が居た。
 護衛の武者は気付かない、弓こそ携えない天邪鬼であったが、明らかに目立つのに。何故誰も反応しないのか、簡単なことであった。
「全部、奴の術か!」
 宗盛は本物であろう、その凶行がだ。
 叫んだ射命丸にも矢が飛翔する、やはり弓を持った者は居ない。しかしそれは明らかに奴が飛ばしていた、これも奴の術。
 射命丸の右腕を矢が掠める。対峙していた太郎は彼女を無視して駆け出し、傷付いた体で追いすがろうとする。
 だが追いつく直前、その背を天邪鬼の矢が貫いた。太郎はもんどり打って転がり、それでも起き上がると、よろよろと前に進み、やはり倒れた。
 肺の腑を打ち抜かれたのだろう、射命丸が追いついた時には、血の泡を吹いて事切れていた。
 呆然と牛車を見送る射命丸。それは待機していた本隊と合流していた。
「私は、何をした?」
 足下に転がる、大きな山犬の亡骸を背負い上げる。太郎からは鼓動も何も感じない、毛皮で少しばかり温かかった熱も、徐々に失せつつある。間違いなく死んでいた。
 己が、死なせてしまった。

       ∴

 射命丸は太郎の亡骸を担ぎ、池田荘司邸へ戻る。やはり重徳も死んでいた。
 次長は傷こそ深いが意識も有り、自分の手で手当てもしていた。一緒に脚まで傷を受けたらしく、歩くのにも難儀している。
 範頼は。射命丸は太郎を降ろすと、藤の介抱する彼の側へ寄る。頼景共々意識は戻っていない。
「蒲殿、ああ、なんという事……」
 藤が鳴きながら手当てをする。その手の中で、範頼は幾度も「ゆや」と、その名を呼んでいた。
 本当に、己は何をしていたのだ。頭を抱え、おののく射命丸。
 数刻ほど、次長の傷を絹糸で縫ったり、範頼の意識が戻るのを待つ。

 頼景が先に気が付き、惨状に呆然とした後は、太郎の亡骸の前に膝を付いて身じろぎすらしない。
 そこへ、ただならぬ気配を感じたのか、門衛の居なくなった門にヤマメが戻って来ていた。
「これは、何があった!?」
「平家だ、宗盛が厭がるゆやを攫って行きおったわ」
 縫った刀傷を押さえながら、呻くように言う次長。ヤマメはキッと射命丸に向き直り、
「お前様は何をしていたのか!」
 強く叱責する。
 お前ならどうにか出来たのではないか。ヤマメはやるせない貌で問い詰める。だが彼女はそれ以上は何も言わずに、射命丸に対する怒りは取り下げる。
 彼女は悟ったのであろう。それが無謀で、そうまでする故あるかと言えば、余りに薄いのにも。
 しかし己が実際にやったことを知れば、どんな行動に出て来ることか。射命丸が命の危険を感じるほど、彼女は強い怒りを催していた。
「勝間田様、馬を借りるぞ」
「乗れるのか?」
「一応は」
 並ならぬ跳躍で馬の背に収まったヤマメは、鐙を打ち付けてすぐに駆け出した。
 後に残された射命丸は、辺りの有り様を呆然と見回し、そして範頼を見て省みる。
 己は一体何をしたのだ。彼を傷つける心など決して無かった。
 だのに彼はここにこうして倒れ、なおもゆやの事をうわごとで呼んでいる。頼景にしても認識をおかしくしたままだ。本当に何をしたのだと、射命丸は自問自答する。
 ゆやを攫わせ太郎を死なせた。いや、太郎は間接的に殺したと言ってもいい。
 違う、そうではないのに何故こうなったのか。本当に根本的な事が違っていたのに今更気付いた。
 そもそも彼への憧憬はその様なものでは無かった。ただ彼が幸せになるのを見守るだけで良かった。ゆやとねんごろになるのがそうならば、それを助けるべきであったのに。
 前を見据えて駆け出す、追うのはヤマメの乗る馬。彼女の考えは見当が付く、理由は定かでないが、ゆやを救うための行動であろう。
 野良仕事に出る前の態度から察するに、尋常な人の営みの中での事ならこうは動かなかったかも知れない。宗盛が異常とも言える凶行に及び、この様な事態になったからこそ彼女は駆けて行ったのだと解した。

 昼であるのにはお構いなしに、射命丸は通力の限りに飛び跳ねて往来を目指す。
 彼女が馬より早く跳べる時間は限られる。街道に出る前の、建物や畦の成す辻の多いうちにヤマメに追いつかなければ、後は離されるだけとなる。
 一跳びで二町、三町と跳んで、また跳ねる。飛蝗にも及ばぬ情けない通力、修行不足だと悔やむ。
 追いついてどうするのか。決まっている、ゆやを救い出す。救い出して範頼の元へ帰してやる。土蜘蛛のヤマメとの合力であれば出来るであろう。
 合流してどうすればそれが可能か。知らない、そうしてから考える。ともかく今は、彼女に追いつかねば。
 不意に、その身が大気をはらみ、持ち上げられる感を射命丸は覚えた。
 まるで飛んでいる時の様な――様な、ではない。
(こんな時に……いや、こんな時だから!)
 彼女は二十年ぶりに、空へ舞い上がる。
 ヤマメと合流し、ゆやを助けるために。

 目の前にヤマメを見た射命丸、併走して飛ぼうと飛行の速度を上げる。急に、逆に速度が落ちるのを感じた。全く理由が分からない、このままでは追いつけるか否か。それでも辛うじて追いつくと、ヤマメのすぐ後ろ、鞍の空いた面に足をつける。これ以上は飛べなかった。
 ヤマメは気付き、首を僅かにめぐらせて視界の端で射命丸を認めると、また前に向き直る。
 射命丸は、かつての、翼を羽ばたかせて空を飛んだ時より消耗しているのに気付いた。何が消耗しているのか分からないが、筋の力がとか息が切れるとか、その様に表に現れるものでないのか、自覚出来ずに力尽きる所であったのだ。
「私ならば大して馬の負担にならない、一緒に連れて行ってくれ」
 心の底から、素直に願う。しかしヤマメは怪訝そうに問い掛ける。
「一貫坊殿。お前様、己が身に何か感じんのか」
「何を言うのか知らないが――」
 急になんだ、それどころではないであろうに。そう言い返そうとしてた射命丸は、ヤマメが何を言わんとしているのか気付いた。
 国府の隣の、恐らくは宗盛が逗留していたであろう館の前で嗅いだ、あの匂い。
 ヤマメがその答えを述べる。
「とても匂う。土の中で暮らしてきたからな、オレには分かるんだ。そうだ、相良で嗅いだ燃水の様に酷く匂う。お前様の胸からだ」
 胸から。匂うのは分かるため、射命丸はそこを押さえながらどういうことなのか問うと。
「お前様には分からないのか? そこに奴が憑いているのが……」
 人であったら、その魂と融け合わさって、そんな事も分からなくなっていた事であろう。妖である射命丸であるからこそ、明確な不具合を惹起させつつ辛うじて己と奴を切り分ける事が出来ていた。
 ようやく正確に認識する、ヤマメが言った通りのモノ。吐き気を通り越し、凄まじい刺激を生じさせる、燃水や燃土などよりおぞましい匂いを放つモノが巣くっているのを。
 真言を唱え、これをあっさり消散させた。そして、こうもあっけなく散るモノにとらわれていたのかと、歯噛みする。
 これはいつから、そこまでは射命丸にも分からなかった。ヤマメは分かる限りの事を伝える。
「始めにお前さんと会った時はそうでもなかったが、幾度目かで明らかに分かるようになった」
 であればその直近に原因が。あれがそうなのかと歯噛みし、ヤマメがそれを裏付ける。
「天ン邪鬼に、小汚い鬼に会わなかったか?」
「見附に現れた怪異が、まさしく」
 そして、太郎を直接射殺したのもそう。
「やはりか」
 思わせぶりな、何かを匂わせる呟き。
「ゆやの事も天ン邪鬼も、出来ればオレがどうにかしたいが、これは無理かな」
 池田からはもう五里以上も北西に進み、既に三河国に入っている。前方には多数の兵馬が整斉と進む。宗盛帰京の後陣であった。
 さすがは平家の次代を担う人物、ただの移動の隊列であるのにしんがりだけで騎馬三・四十騎、徒武者も加えれば優に百を数える。どう足掻こうが、鬼でも無い限り単騎でここを推し通るのは無理。
 それでもヤマメは馬を進め、射命丸に言う。
「一貫坊殿、ひとまずお別れだ。お前様は蒲冠者の元へ戻るといい」
「何を言わっしゃるのか?!」
「オレは行ける所まで行く、付き合う必要は無い」
「いかにお許(もと)が強力(ごうりき)を誇る妖とはいえ、死ぬるぞ!」
「ゆやを攫うに任せたのはオレが側に居なかったからだ。それにオレは、死なねばならん」
「何故!」
「あっちで、苦しんでいる子が居るんだ。早いところ行ってやらないと、可哀相でな」
 何の事かはさっぱり分からない。ただ何か不幸があったというのは聞いた、それに係る事かとは認識する。
「いや私も加勢しよう!」
「……有り難うな」
 不意に、射命丸の身体が宙に浮いた。

 飛んだでも跳んだでもない、己の意思に関わり無く、地面に叩き付けられた。そう気が付いた時には、射命丸の体は街道の脇の草むらに横たわっていた。気を失っていたのだ。
 ヤマメに突き飛ばさされたのだと理解するまで、しばらくかかった。そして、そのしばらくの遙か前に、事は終わっていた。
 少し先に進むと、辺りは人馬もあわせ死屍累々。激しく叩き付けられた亡骸もあれば、斬り付けられたり、槍より太い何かに鎧ごと胴を貫(ぬ)かれた者も多々あった。
 子細は不明だが、ヤマメが奮戦し、平家の勢が激しく応戦した事は分かった。
 彼女の姿はどこにも無い。ここは生き残ったのか、しかし今から追いかけても間に合うか否か。彼女が早馬のように乗り継ぐのでなければどうにか、そう考える射命丸の足下には蹄の跡も多い。生きているでなければ、馬蹄に砕かれたか。
 生存を示す物は見当たらない。やはり駄目だったか、そう思うより他無い。宗盛らを追っても、一人ではどうにもなりそうに無かった。
 ここに倒れている兵だけを見ても、本当に死力を尽くした所で、犬死にであろうと。

     * * *

 宗盛の周辺に、否が応にも平家中枢に復帰せざるを得ない状況が起こっていた。
 この時より遡った治承三年七月の末、病で内大臣を辞し伏せっていた平家の嫡男重盛が、齢四十三にして薨去(こうきよ)(※9)したのであった。
 清盛の嘆きは大きかったが、それに追い討ちをかける沙汰が院より下る。
 重盛の知行国であった越前国(えちぜんのくに)(※10)は没収されて院の近臣が越前守に(えちぜんのかみ)当てられ、また遡ってその先々月逝去していた清盛の娘盛子(もりこ)が亡夫より受け継いで管理していた所領を、これも院が没収していた。
 ただでさえ平家、殊に清盛と――後に後白河法皇(ごしらかわほうおう)と諡号(しごう)される――院の間には酷い軋轢が生じており、清盛と院を取りなしていたのが故重盛であった。それがついに決裂したのだ。
 宗盛が帰京して間もなく、都はまたも混乱を迎える事になる。

 宗盛の遠江下向は公の事ではなく、それ故ゆやの事もそこで死した兵馬の事も、公になる事は無かった。
 ただ、東海道を東から三河国に入って一里。江戸時代に一里塚が置かれ、後に一里山(いちりやま)と呼ばれるこの地には、大蜘蛛の伝説が残る。
 大っぴらに語られ始めたのはやはり江戸の世に時が下ってから。茶屋の宣伝のためとの事であるが、いつからその話が伝えられていたのか、定かでは無い。


第3話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 榛原郡海老江村:現在の牧之原市(旧相良町)大江。史実の油田整備は明治5年、世界でも稀な軽質油(ガソリン等)田で、今も毎年5月に採取が実施される。
※2 燃水:石油全般の事。精製技術の無かった頃の原油をこう称し、また沈殿したタールやアスファルトは燃土と言って、それぞれ実用や神事に用いるなどした。
※3 湯屋:共同浴場(当時は蒸し風呂が一般的)。宿における飯盛女(めしもりおんな、飯売女とも)などと同様、性的なサービスを提供する場合もある。
※4 賤機山:現在の静岡市、駿府城公園北西にある標高171メートルの山で、『静岡』の名称の由来ともされる。南側を『浅間山(せんげんさん)』と称する。
※5 鎧直垂:鎧の下に着る直垂、武士が略装としても使用
※6 池禅尼:清盛の継母、本人も実力者であったと評される。子の平頼盛(よりもり、通称池大納言)は源頼朝に厚遇され、清盛の男兄弟で唯一生き残る。
※7 平宗清:平頼盛の家人。頼朝を捕らえた当人であるが、助命嘆願を行ったことから後に頼盛と共に鎌倉に招かれる。しかし招きに応じず一門と運命を供にした。
※8 徒武者:徒歩の武者の意。歩兵、雑兵
※9 薨去:皇族や三位(さんみ)以上の公卿が死没する事
※10 越前国:現在の福井県北部から石川県の南部の一部

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