東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編   木ノ花前編 第4話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編

公開日:2016年02月10日 / 最終更新日:2016年02月10日

六./令旨廻国(西暦1179~1180年)

 荘司邸まで戻った射命丸は、三河国でのヤマメ吶喊(とっかん)の顛末、そして宗盛の帰京の隊を逃がしてしまった事を、淡々と範頼達に伝える。
 あの場ではそうするしか無かった、他に出来る事は無かった。範頼も頼景も、射命丸が如何に強力な法力を操ろうともそれだけの兵を相手に出来るとは考えておらず、むしろヤマメの無謀を嘆いた。
「ですが、これはあの天邪鬼も絡む事と分かりました。調伏に手間取った私の不始末でもあります」
 真実はとても話せない。太郎も、己の不祥事で奴に射殺された事とした。
 射命丸の胸には、もはや誰をやっかむ心もひがむ心も無い。それを自覚した今、むしろ普通にそうするより倍して、悔やんでいた。
 ゆやを助けねば。範頼の元へ戻し、二人を幸せにせねば。そう心の底から思った。
 ヤマメの事も胸を刺す。なぜあそこまで純粋にゆやの事を想い、命を投げ出したのか。百年か、それ以上は間違いなく生きたであろうに、ただの人間の娘一人の為に、それを投げ捨てるとは。
 己の異常を気付かせてくれた彼女にも報い、それに続かねばと心を定める。
「それを言われては、俺達も立つ瀬が無いです。そも一貫坊殿などは、物怪退治以外の事についてはその責もありませんから」
「それに物怪が絡んでいるのであったとしても、実際に兵を寄せたのは平家です。それ以前に、女子一人を攫うのにああもするなど、誰が予想できましょう」
 二人が感情を抑えているのは射命丸にも見て取れる。それでも叱責も八つ当たりも何もして来ないのには、却って胸が苦しい気もしていた。
 範頼が言う通りであるのは事情が真っ当な場合だけ。今次のこれはそうではないのだ。
 彼は先のように言いながらも、考えを巡らせていた。
「……頼景殿、ゆやを取り戻すには、どうすればよろしいと思いますか」
 唐突に範頼が言い放ち、射命丸も言葉を失う。
 頼景も彼と同じくしていたのか、すぐに答える。
「より上等な女を寄越して、なんとか返してもらうようにする。それか京への伝手で以て、この無法を訴え出るか。いや、お主の事だ、その様な案は既に考えているであろう」
「はい」
 範頼には都に伝手がある、それも並ならぬ場所に。
 季範の娘であり義朝の正室であった由良御前の求めに応じ、都にて範頼を養った人物。院近臣(いんのきんしん)(※1)にして、藤原摂関家九条兼実(くじょうかねさね)の家司(けいし)(※2)、従五位下藤原範季。(ふじわらののりすえ)
 彼は平家とも関わりを持つ。今の案を実行するならうってつけの人物。
「そうだな。だが、故左馬頭様の子のお主がここに在る事、平家には表立っては知られておらぬはずだ。その訴えをすれば表沙汰に……考えたくも無いな」
「となればやはり――」
 ゆやの事は諦めるしか無いのか。言葉を詰まらせながら、射命丸は己の行いを深く悔いる。
 範頼は彼女の言葉など聞いていない風に頼景に持ちかける。二人が思いもしなかった事を。
「頼景殿。相良より兵を挙げるなら、何騎が集まりますでしょうか?」
「はぁ!? 御曹司、それは正気で言っておるのか? 正気だと言うなら、いよいよ信じんぞ」
「……本気です」
 静かに、強く言う彼に、頼景も頭を掻きながら考える。
「ああ、信じよう。信じるから待て」
「はい」
 何を待てと言うのか、頼景は目を瞑って考え込み、しばらくしてから目を開いて言う。
「駿馬百二十に荷駄馬は五十、米は……動かせるのは二十石まで。金銀は手持ち出来る以外は無し、布も絹も無し。兵糧は、引っ張り出さないと分からんな」
 彼の口からスラスラと物資の概算が出て来るのに、射命丸は驚く。相良の殿様と言われていたのは伊達では無いのかと。
 ただこれは範頼が求めていたものではないらしく、更なる問い掛け。
「あ、いえ。人は――」
「それが一番難しいのだ、それが」
 兵はそのまま農民であり大事な人手、戦に出てしまえば働き手は女だけになる。農繁期は特に戦が避けられるのは、この道理だ。
 それに彼は家督を譲っている、まだ若くはあるものの隠居の身と言えた。
「これが皇家なら、逆に上皇(※3)の方が動けるのであろうなあ」
「頼景殿、不敬です」
 彼もはたと口をつぐむ。
 今言ったのはそれこそ院政の事であろう。天子(※4)に代わり、治天の君(※5)が実効的な施政を行う事だ。普通隠居した者は大人しくしているもの、彼の場合は無理矢理そうさせられている。それへの不満。
「少なくとも、一人は居るな」
「頼綱殿ですか」
 頼景の弟の一人、無理にでも連れて来る気だ。
「ここにも、居るぞ……」
 改めて傷の手当てをしたばかり。襦袢のままの次長が現れ、おっくうそうに歩む。
「勝間田様、寝ていては如何か」
「だまらっしゃい。蒲殿が兵を起こすと言うなら、従わぬ者のあることか」
「いえ、大抵は従わないと思いますが」
 本人がそれを言ってしまうのだから身も蓋もない。
「ワシは従う」
 痛々しい姿でよく言うと、頼景は白けた風にしている。それに加えて、その想いは己の方が強いのだという自負も彼には会った。
 しかし次長も、保元の乱より前から、頼景達がまだ胤でも無い頃から戦っている。もし加わるとなれば心強い存在である。
「すいません、勝間田様、頼景殿。時期は決められませんが、算段だけはして頂けますでしょうか」
 これに次長は首を振ってから応じる。
「さて、ワシには手勢が無い、本家では身一つである。だが――」
「ではこちらの者達の説得に、ご助力願いたい」
「うむ、承知した」
 勝田(かつまた)氏の本領は相良と燐する榛原(はいばら)郡勝田荘、東遠の周囲のいくつかの氏族と並び、相良との縁も古い。現当主、勝田平三郎成長(へいざぶろうしげなが)の弟である彼も、相良の地には親しむ者が多い。そのためだ。
「蒲殿、一応兵は募ってみる。しかしいつ、どの様に動くかについては、俺達にはどうとも――いや、勝間田様は如何ですか?」
 次長は元滝口武者、京に居た事もある。そちらに縁か伝手は無いかと頼景は尋ねた。
「蒲殿に一任いたす」
 実際はどうか不明であるが、やはり方針は範頼に任せたいのだ。
「はい、承知しました」
 余りに急な話であるが、今の彼らはこうでもないと居られなかったのだ。側で聞いていた射命丸はそれについて行けず、話の展開を見守るしか無かった。
 実のところ、範頼にも何か明確な見通しがあった訳では無く、しばらくを鬱々と過ごす事になる。
 そして時は過ぎ、年も明け、季節は巡る。

       ∴

 蝉の鳴き声も騒がしくなって来た。
 夏を迎えようとする蒲御厨、畑仕事を終えて神明宮に帰り着いた範頼を迎える者があった。
「蒲殿! 聞いたか!?」
「五日前には」
 何事かと聞かずとも、彼が持って来た話は分かった。
「なんだ、やはり早いな」
「頼景殿に兵をお願いしたのです、私が自分の領分を果たさなくてなんとしましょう」
 頼景が感心するほどに、範頼は都から多くの情報を収集していた。ゆや奪還に直接そちらを使えずとも、己が身を保全するためと口実を作って、普通に流れる情報なら優先して得る事は叶った。
「して、どこまで聞いた?」
「以仁王(もちひとおう)より令旨が(りようじ)下され――」
「そうだ!」
「源三位(げんさんみ)、頼政(よりまさ)入道が、宇治川(うじがわ)の平等院(びょうどういん)で討ち果たされたとまでは」
「なんだと!?」
 源頼政。
 平治の乱以来、ひたすら冷遇を受け続けた清和源氏にあって、清盛の覚えも良く、従三位(じゅうさんみ)にまで昇った摂津源氏の古老である。
 源頼光以来の辟邪の武の一門に相応しい武人で、その矢は、内裏にまで現れた鵺(とらつぐみ)(※6)の如き奇怪な声を鳴らすおぞましき凶獣をも射貫いた。また、そうでありながらも、歌仙とも称される程の雅なる人物。で、あった。
 その頼政が、あの宗盛との間でひょんな事から生じた諍いに端を発し、清盛に皇位継承の道を閉ざされた以仁王を推戴(すいたい)し、王に令旨を下させたのだ。
 そして、天子の詔たる“勅”とも称された宣下の内容は、源氏の一族のみならず、坂東の平氏諸氏もが待ちに待った物であった。
 本旨は「清盛法師並びに従類反逆の輩を追討すべき事」との事。
 これが義朝の弟十郎行家(ゆきいえ)の手により、日本各地の源氏の元を廻国したのだ。
 頼景が知っていたのは、ここまでの事であった。
「おい、源三位入道が討たれたとは初耳だぞ?!」
 都で兵を挙げた頼政は、宇治川を挟んだ平等院にて平家と対峙し、一族郎党の大半と共に討たれたのであった。その後更に令旨を下した本人、以仁王までも斃れていた。
 範頼がそこまでの顛末を簡潔に語ると、頼景の興奮も見る間に冷め、一言も発さずに消沈した。
 放心から覚め、口を開く頼景。
「なあ、それはどこから聞いたのだ?」
「都の範季様達と、一貫坊様から」
 情報の確度は高いかと、頼景はふてくされた風に寝転ぶ。
「だーっ! 令旨は廻っても星の廻りが悪いのお!」
「……ですが、伊豆の武衛(ぶえ)様、右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝(よりとも)様の元にも宣下され、今東国はそれで沸いていると」(※7,8)
 頼景も、範頼が坂東の様子まで押さえているとは思っていなかった、起き上がって調子を戻す。
「そうか、お主の兄上殿がなあ」
 母は違えど兄は兄、そう言って間違いは無い。
「兄ですか、あまり実感は無いのですが……」
 それも仕方の無い事、今まで一度も会った事が無ければ文(ふみ)を交わした事も無い。ただ彼の母、由良御前の事だけは知っている。
 熱田神宮周りの関わりから、範頼をあえて京に招き、擁護を図ったのが彼女であったからだ。
「血筋が明らかな武衛様と違って、私などはどこの馬の骨とも知れぬ母の子ですから」
 苦笑いを浮かべる範頼、とても寂しそうにも見える。
 彼の母は池田宿の遊女。長者の子ではあっても名は知れず、すぐに親元から離された挙げ句、都へ行って帰ってみれば、母は既に他界したとも聞かされたのだ。
「言うな蒲殿、似たようなものであろうに」
「はい」
 寂しげな顔は微笑みに変わる。
「しかしそうか、武衛様が動くのであれば、俺達はどう動くべきであろうな」
 大きく三つ、選択肢がある。
 人情では真っ先に頼朝の下へ参じるべきだろうか。しかし範頼は知っている。頼朝の身分は流人、罪人、朝廷からは敵と見なされたまま。
 それに比べて、駿河国の平家と摩する甲斐(かい)源氏には、武田(たけだ)氏という有力な一族がある。惣領の武田信義(のぶよし)以下武田党は将も十分に揃い、兵馬の質も高い。
 もしくは信濃源氏、範頼らとは従兄弟に当たる人物、木曾冠者(きそのかじゃ)源義仲(よしなか)がまとめ上げ、士気は高い。しかしこちらは義朝の血筋との間に不和の種が潜在する。
 主な所はこれ。他に近江(おうみ)では近江源氏山本義経(やまもとよしつね)なる人物も立ち、摂津源氏もまだ畿内に潜伏するなど、各地で源氏は蜂起の準備を始めている。
 普通に考えれば頼朝に付くべきと人は言う事であろう。だが範頼達には、ゆやを助けるという目的がある。これを叶えられる、即ち確実に上洛の成る勢力の下へ、――望む通りの戦列に加わるために――可能な限り早い内に参じなければならない。直ぐに決めなければならない、しかし安直に決められる事では無い。
 考え込む二人。そこへまた訪れる者があった。
「一貫坊様ですか?」
 気配を察して言う範頼、一瞬晴れた表情はすぐに沈んだ。
「蒲殿、そこまで露骨な態度は非道いです。兄者、頼綱ただ今参った」
「見れば分かる」
「勝間田五郎まかり越しまして候」
「……見れば分かりますて」
 次長と共に現れたのは、頼景の弟頼綱。頼景より更に背が高く体格に恵まれ、しかし対照的にハッキリとしない、団子鼻の目立つぬぼっとした顔立ち。
「失礼しました。お久しぶりです、頼綱殿」
「大変ご無沙汰しておりました、蒲殿。この一年、取りかかっておりました相良の切り取りも順調に運び、恥ずかしくないだけの兵馬は揃えられそうです」
「知っての通りこいつは頭が回るからな、面倒な事は任せた。その方が御曹司も安心出来よう」
 頼綱の背をばんばんと叩きながら頼景が言う。
「それは、頼景殿でも十分だと思いますが、頼綱殿なら尚。しかし切り取りとは、不穏な事で……」
 領内で戦を起こすと言うなら、これは範頼も望まない。頼綱が次長と顔を見合わせ、話を代わる。
「ご隠居との不和が無ければ、そうしなくてもいいのである。しかし抗争にまで至っている訳では無い、事は穏便に進んでおるので安心されたい」
 あくまでも、兵馬物資をかき集めているだけで、領内で事を起こそうとしている訳では無い。ただし、もし事が露見すれば話は別。
 次長の言葉に、範頼も一応は納得する。
「ところで蒲殿、一貫坊様とは?」
「俺達より先に様々な情報を掴み、蒲殿に教えて下さっている、秋葉山の法力僧よ」
 頼綱の問いかけには兄が代わって答える。射命丸は逐次範頼の所を訪れて今回の様な話をもたらしているが、本日はまだ来ていない。
「今後会う機会もあろう。まあ見て驚け、中々の美人であるからな」
「ええ、そうですね」
 範頼が同意すると、何を勘違いしたのか頼綱が言う。
「蒲殿と兄者にそんな趣味があるとは知りませんで」
 すかさず頭が叩(はた)かれ、髻(もとどり)がずれる。
「お主は何を言っとるんだ、一貫坊殿は女だ」
「僧と聞けば男と思うであろうに!」
 抗議の声を上げて髪を整える頼綱に、更なる口撃。
「だからお主はいつまで経っても嫁が取れんのだ」
「あっちこっちに子供を作っておいて、身も固めずほっつき歩いている兄者に言われとうない!」
「なんだとぅ?!」
「あの……お取り込み中でしたか?」
「噂をすれば何とやら、ですね」
 今度こそと明るい声の範頼。
 兄弟がしょうもない言い合いをしているうちに、当の射命丸が訪れていた。

 射命丸が加わった所で、話は仕切り直しとなった。
 頼朝か甲斐か信濃か、はたまた奥州藤原や坂東平氏の諸氏など源氏以外の勢力か。いずれにせよ、具体的な行動の準備は整えなければならない。
「そこで、一貫坊様のお考えを聞きたいのですが」
 これまでもまで多くの情報をもたらし、見識も明らかと見ているのか、範頼が問う。
「すいません、情報を集めるのならばいくらでも出来ますが、それを以て確かな判断を下す事は、私にはいたしかねます」
「いえ、あくまで意見だけでも伺いたいと」
 そう言われても難しい、彼にはいい加減な事は言いたくないのだ。
 弱る射命丸に頃合い良く救いが訪れる。
「蒲冠者にお客人であります」
 神明宮に使える神職がそう伝えに現れ、この話は一旦止めになる。
 だがこれは、彼らにとっても大きな動きと判断材料をもたらすものであった。

 神職に連れられて現れたのは、見るからに厳つい男、四角四面の性格が顔に表れたかのような侍であった。
 男は範頼に礼を尽くし、名乗る。
「蒲冠者範頼様、初めてお目にかかります。拙者は右兵衛佐頼朝が臣下、安達(あだち)の藤九郎盛長(とうくろうもりなが)と申します」
 ついに来たか。皆が思い注視する中にあっても眉一つ動かさない盛長、その堂々たる様に範頼は圧倒される。
「蒲冠者範頼であります。武衛頼朝様には、伊豆で長らくお仕えしておられる忠臣がいらっしゃると聞き及んでおりますが、藤九郎殿の事ですか」
「はい、武衛配流の時より使えております。ですが臣下が忠義を尽くすのは当然の事、忠臣とは過ぎたお言葉です」
 これは相当な堅物だと皆一様に思う、唯一次長だけは感心して頷いている。
「そ、それはご無礼を。して藤九郎殿、はるばると伊豆からお出ましになられたのは?」
 時節が時節、言わずとも分かる事。だがここはあえて、無知な御厨の冠者を演じる。
「しかとお聞き下され」
「はい」
 曰く。都にて、最勝親王(さいしょうしんのう)の名を以て以仁王が勅を宣下されたとの事。それ以外も、ほとんどが範頼達も知る話であった。
「坂東の多くの者達はこれに賛同し、武衛の下に集う事になっております。そして――蒲殿は、ご自身が何者であらせられるか、ご存知でありますな?」
「はい」
「故に武衛は、貴方様に是非参陣願いたいと」
 期待した通りの話だ。だが、二つ返事で答える訳にはいかないのは、先程から皆で交わした話でも明らか。
「それは、すぐにでも参じるべきでしょう。ですが今の私はしがない厨の居候です、しばらく身辺の整理をさせて頂きたく存じます」
 ひとまず答えられるのはここまで。
 盛長はこれを良い返事と受け取ったのか、表情は替えず、しかし声音を良くしていた。
「では何とぞと。故左典厩(さてんきゅう)(※9)様の御子である貴方様が、同じくあられる武衛様の元へ参られるのであれば、身一つであろうとも心強い事であります」
 そう言って頭を下げ、この話は一旦終いとなった。
 その後は歓待と共に、居合わせた各人の紹介と歓談の場が設けられ、翌日早々に彼は伊豆への帰途についたのであった。

 一夜明け、盛長を見送った後の蒲神明宮。昨日から集っていた面々は、涼しい内から顔を見合わせて参陣について話し合っていた。
 やはり頼朝か信義、いずれになろうと固まった。
「蒲殿、いずれにせよ、戦には参加するのだな」
「はい」
 強く答える。
 頼景も、これを受けて次の動きを決めていた。
「ふむ、ようやくか、久しぶりであるな」
 腕が鳴るとばかりに言う次長。残る頼綱は不安げな貌をしている。
「では私も、準備をせねばなりませんね」
 射命丸も言う。
 三尺坊の命令に従い天邪鬼を討つ事。それは未だに彼女の使命であったが、宗盛と共に京へ行った奴を討つためには、源氏と動くのは都合が良かった。建前は。
 本心は天邪鬼退治よりもまずゆやの救出、そして範頼の為に尽力する事を望む。
 ゆやの救出も天邪鬼退治についても、範頼達も同じ気持ち。だが射命丸の言葉には異議を唱える。
「一貫坊様、貴女はここにお残り下さい」
「何を、仰るのです?」
 意外な拒否の言葉に射命丸は困惑する。ここに至って参陣を拒否されるとは。
「天邪鬼退治は私達にお任せ下さい、必ずや平家と共に討ち果たしてご覧に入れます。それまでは、当家で留守をお守り下さい」
「おい、蒲殿」
 頼景もこれには憤る。
「一貫坊様を、戦いに巻き込みたくないのです」
 それは己が女であるからか。射命丸は無礼を承知で反駁する。
「お言葉ですが、かつての見附で、私は蒲殿に負けない力量をお見せした覚えがあります。今ではより力を増したと、自負しております」
 だから連れて行って欲しい、でなければ、事を成して帰って来た貴方の側には居られない。
 そう、心中では懇願する。
「いえ、お願いします……」
「御曹司!」
 次長も頼綱も、黙って二人を見守る。いずれに道理があるかなど、決め付けられない。頼景だけは、彼女の心を汲んでやれと言い募る。
(ならば、いっそのこと――)
 乾坤一擲の告白を、心に決める。
「それでは、仕方がありません」
 立ち上がり、庭に歩み出る射命丸。そのまま去ってしまう気かと頼景は後を追おうとする、範頼はあえて動かない。
 射命丸は数歩だけ歩んで振り返ると、その場に金剛杖を立てる。
「私が如何なる者か、とくとご覧下さい」
 仗から手を離し、垂直に立てたその上に飛び乗り、ピタリと止まって立つ。それが法力によるものだと、範頼と頼景は見附で見て知っていた。
 そうでなければ、軽業程度には思うか。次長と頼綱はそのぐらいの感心の様子を示す。
「それが、戦いに通用するものでしょうか……」
 なお拒絶する範頼。
「頼景殿」
「おう」
「持ち上げて下さい」
「うん?」
 射命丸はやや痩身、それでも十貫(※10)はあろうと考え、腰に力を入れて踏ん張りながら杖を掴んで持ち上げる頼景。あまりに呆気なく持ち上がるそれに驚く。
「これは、どういう事だ!?」
「どうした次郎殿」
「軽い……」
 射命丸は更に見せ付ける。
 トンと仗の天辺を蹴って跳び上がり、十丈ほどの高度へ至ってから、滞空する。跳ねるのが精々だった射命丸は、あの日から飛べるようになっていた。
 少し平衡を崩してよろついた頼景だったが、それどころでは無い。
 彼女の跳躍は見たことがあったが、飛翔は初めて見る。否、人型をした者が自在に宙を舞うのを見るのも初めて。
「これは、なんと……」
 彼女は数拍おいてふわりと降り立つと、頼景から杖を受け取り、範頼の方へ進み出て膝を着く。
「身の軽き事、ほんの数貫ほど。故に、僧坊の名には一貫坊を与えられました――」
 範頼は驚きも恐怖も無く、射命丸を見つめている。
「――鴉天狗です」
 そう、己は人よりもずっと強い妖だ、だから何の気兼ねも無く使って欲しい。そうでなくば、いっそこの場で斬って捨てて貰っても構わない。
 射命丸は首を差し出す風に膝を着き、ずいっと前のめりになって言葉を待つ。
 貴方に救われた命だ、貴方に使われるか、貴方にこそ討たれたい。そう願っていた。
「蒲殿、一貫坊殿は何としてもお主を助けたいのだ。だからこうまでするのであろう。お主の心配も分かるが、ここは飲み込め」
 その手で尋常で無い事を体感した頼景が、まず言う。
 頼綱は射命丸にも兄の言葉にも驚きを隠せないでいる。彼女が空に飛び上がった時点で、既に腰が抜けていた。
「な、何を行ってるらよ兄者。それは物怪だら、それを蒲殿の手下(てか)に? 自分で何を言っているのか分かってるだか!?」
「一貫坊殿に向かって“それ”とは失敬な奴だ」
「全くである」
「勝間田様まで何を! 京では物怪とも対峙した事があるのではなかったのですか」
 次長は逆に、頼景ほども動揺していない。
「確かに、滝口の武者として勤めていた時には、いくらか怪異に遭遇した。が、一貫坊殿は、恐れるべきモノとは思えぬのである」
「そんな――蒲殿は!?」
 物怪である事自体恐れるべきであろうにと、頼綱は彼にすがるような目を向ける。
「一貫坊様が正体を明かしたのは、これが赤心であるからでしょう。分かりました。ですが、御身を第一に考えて下さい。それが、条件です」
「蒲殿まで……」
 ここにはまともな人間など居ないのでは無いか、愕然とする頼綱に兄が言う。
「諦めろ頼綱。そうだ蒲殿、もしかして一貫坊殿の事、始めから見破っていたのか?」
 ヤマメの正体にも一目で気付いたという彼、射命丸の事にも気付いていても不思議は無い道理。しかし範頼はきょとんとして言う。
「いえ全く、その様には」
「その割りには驚きが少ないな」
 己でも少しは驚いたのにと頼景が続けると、範頼は先程とうって変わって極めて暢気に答える。
「だって、射命丸様は、射命丸様ですから」
 理由になっているのかいないのか、少なくとも彼は射命丸の事を受け入れ、その思いも同時に認めたのだ。
 その後しばらくの間おっかなびっくりとしていた頼綱も、言葉を重ねる内に射命丸の存在に馴染んでいくのであった。
 かくして範頼の元にも僅かながら人は集い、次は誰の下に参じるか、見極める段に入るのである。

     * * *

 時流は範頼や射命丸の想いよりも早く馳せ、彼の参陣を待つ事無く坂東は動き始める。

 治承四年八月十七日、頼朝が以仁王の令旨を奉り、ついに伊豆の地より立ったのだ。
 緒戦においては伊豆国(いずのくに)(※11)の目代(もくだい)(※12)、判官(ほうがん)山木(平)兼隆(やまきかねたか)や、その後見の堤信遠(つつみのぶとお)を攻めてこれを討ち果たし、令旨を根拠に東国施行(※13)を下した。
 しかし直後の同月二十三日、事態は急転直下する。
 平家に与する相模国(さがみのくに)(※14)の大庭景親(おおばかげちか)と、頼朝とは浅からぬ縁を持つ伊豆東岸の伊東祐親(いとうすけちか)が、伊豆から打って出た頼朝の軍勢を相模の石橋山(いしばしやま)で挟撃したのだ。
 頼りであった――盛長同様に頼朝が流人であった時代から仕える――佐々木盛綱(ささきもりつな)ほかその兄弟らは、折からの風雨で山木攻め直前の遅参のため疲弊。
 また、三浦(みうら)半島を支配する平氏の豪族三浦氏の一族郎党も本来駆け付ける事になっていたが、やはり風雨のため水軍が出せず、陸路でも甚雨(じんう)に遭い酒匂川(さかわがわ)で増水のため足止めを受けて合流できずと、まるで天に見放されたかのような状況下での戦であった。
 それでも、流人の時より頼朝をよく助けた狩野茂光(かのうもちみつ)を始めとした将の犠牲、そしてある人物の思惑により、彼は兵を散逸させながらも九死に一生を得、三浦の一族と相模の海上で奇跡的な会合を果たすと、安房国(あわのくに)(※15)まで落ち延びた。

 命からがら逃げ延びた頼朝であったが、東国は彼の祖先八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)や父義朝と深い縁を持つ地であり、坂東八平氏(桓武平氏良文(よしふみ)流)と称される諸氏が進んで彼を推戴し、多くの兵が集ったのであった。
 普通であれば殲滅に近い敗戦を喫して手勢を失った将に従う者など現れない。盛り返す事が出来たのは、彼が源氏の嫡男であり、源頼朝であるが故と言えた。
 その後彼は将兵をまとめつつ、義家の父頼義(よりよし)以来の源氏ゆかりの地である鎌倉(かまくら)に本拠を据える運びとなるのであった。






七./蒲冠者立つ(西暦1180年)

 範頼の伝手で届く東国の様子は一旦都を経由しての物ばかり、そのため時期の前後に翻弄された。
 頼朝が相模国で討ち取られたと聞いて動揺した直後には、彼が三万にも及ぶ兵で鎌倉に入り、八幡宮(はちまんぐう)の造営を始めたなど、何が本当か混乱するばかりであった。
 射命丸はまずその混乱を正す事で彼を助けた。
 彼女は寺社筋からの情報と、自身の足で積極的に情勢を見て回る。遠江の隣、駿河国でも源平対決の戦火は上がっていた。
 信濃国の平家勢を討ち果たし、取って返して南下を企図する武田信義と嫡男一条頼忠以(いちじょうよりただ)下、甲斐源氏(かいげんじ)(※16)武田党。この討伐に駿河国目代、橘遠茂(たちばなとおもち)が官軍として進発し、返り討ちに遭ったのもその一つ。
 この様な時勢に範頼も決意を固めるかと思われたある日、三河国の上を跳び回る彼女は、その考えを覆されかねない光景を眼下に見る。
「これが平家か……」
 そう呟き、後は沈黙する。平治の乱以来の各勢力全力を挙げての戦、この姿に変じてから初めて眺め、脅威のほどを知った。
 ざっと見た辺りでも四・五千を数えるであろう兵馬、尋常ではない。
 頼朝麾下の東国勢はこれに対して既に出発しているとも聞いている。公称二十万という、冗談も大概にしろと言いたくなる数が聞こえていた。
「なるほど、それぐらいの数をでっち上げないと、逃げ出されるか」
 累代の武家で無い限り――いや、そうであっても付くべきは実利を得られる勢力であろう。有り体に言えば勝ちそうな側に付くものだ。
――範頼が平家方に与する事など、偽りであっても無論あり得ない事である――
 射命丸は直ちに範頼に知らせようと、蒲神明宮への帰途についた。

 範頼、そして頼景にも平家勢進軍の報を伝えると、やはり二人の貌は曇った、せっかく持ち直した源氏勢も、これでひとひねりにされて終わりであろうと。
「どうする、御曹司」
 後はお前次第だと尋ね、問われた範頼はうつむいて考え込む。
 しばらくの沈黙、決めかねるのも当然の事、ここで射命丸が口を開く。
「蒲殿の今後の動きはどうとでも、まずは姿を隠すべきかと思います」
 その助言に彼は頷いた。
「すいません、余りの事で何をどうしていいものか、全く考えが思い浮かびませんでした」
 無理も無い。物語の中でなら十万百万という数もよく見るが、実際に目の当たりにすれば、千の軍勢であっても圧倒される事であろう。
 相良が動員できる数ですら、いち土豪としたら満足なものであるのに、これは文字通り桁違い。
「身を隠すのであれば、天竜川を上がってしまえば大丈夫だと思います。必要なら秋葉山でもその奥の山でも準備できますが」
 わざわざ寺社を漁るような真似はしないであろう、頼景もその案に同意して頷く。しかし範頼の考えは違った。
「一貫坊様、すいません。鎌倉勢や武田勢はどれほどの兵を寄せているのでしょうか?」
 伝え聞いたところ、鎌倉には三万が集結したという。その内から果たしてどれだけを遠征させられるのか、兵糧から輜重(しちょう)(※17)から、これは地力がものを言う。そして鎌倉の地力は、射命丸には計りかねた。
「新しい情報は入ってません、実際に見てみないと」
「では、見て来て頂けないでしょうか」
 何を以てそこまで強いるのかと、範頼を咎める様に頼景が顔をしかめる。しかし求めを受けた射命丸は深く首を縦に振る。
「承知しました」
 彼の望む事ならなんなりと、むしろいくらでも使って欲しい。それが今の射命丸の心のであり、範頼も彼女の心を知っての事であった。

 鎌倉勢は既に伊豆国との境の駿河国の宿場、黄瀬川(きせがわ)宿まで前進し、兵を留めていた。
 果たして彼らがどれだけ平家に対抗できるのか。
 そう考えながら、黄瀬川の本流である狩野川(かのがわ)の対岸、小高い香貫山(かぬきやま)からその陣容を俯瞰する射命丸。ここで彼らを全く侮っていたのを思い知る。
 二十万はさすがに無理なのは分かっていた、互角の数を準備できれば大したものだと。であったのに、鎌倉の軍勢は、平家勢の数倍にも及んでいたのだ。
「しかし――」
 平家の軍勢は精強。しかも率いる総大将は重盛の嫡男、雅な舞で桜梅(おうばい)少将とも称される美丈夫、平維盛(これもり)。また侍大将には坂東の事情にもよく通じる古強者、上総権介(※18)伊藤忠清(いとうただきよ)も在る。加えて、官軍たる平家勢が、会戦までに兵力差を覆す可能性もあり得た。
 ただ源氏は、鎌倉勢の他に甲斐源氏も本格的に前進を開始している。
 射命丸はまた考えた。
(付くならどちらだ……)
 源氏に与すること自体も、まだ賭の要素が高い。しかし鎌倉か武田、いずれかに走る事になるであろうと先行きを思い浮かべる。
 盛長を遣わせた鎌倉の頼朝か、負けを知らず進撃する甲斐武田か、いずれにせよ日和見に徹していては今後大した役割も与えられなくなる。
 範頼が地位を得たい訳では無いのは分かっている、問題は上洛の軍として参陣できるかであった。
(範頼様、すいません)
 射命丸は心中で彼に謝り、黄瀬川の宿へと滑空した。

 山から見下ろして見ていたのが鎌倉の本隊でないのに気付いた射命丸は、改めて驚嘆する。本営はまだ数町先に置かれていたのだ。
 陣幕で囲われた長屋、長者の構える物であろうと見られる宿の前に来た射命丸は、立哨に立つ兵達に向かって話しかける。
「御免、小僧(しょうそう)は秋葉山の僧、一貫坊と申す。藤九郎殿は――過日、遠江蒲御厨に参られ、我が主蒲冠者範頼に接見された藤九郎殿はこちらにおわしましょうか」
 兵達はそれぞれ顔を見合わせ、ああでもないこうでもないと言い合っている。ただの旅姿であれば門前払いの所、僧である強みが活きた。
「しばし待たれよ」
 一人がその場を離れて陣幕の内側へ入って行く。
 暫くして、忘れようも無い、四角四面のままの面構の武者が、鎧直垂姿で現れた。
「お待たせ致しました、一貫坊殿」
「すいません、藤九郎殿自らお出ましになるとは」
 何用かを尋ねられて渡す物を渡せばそれで終い、そう考えていた射命丸は少し戸惑う。
「今し方軍議が終わった所でござった。して、用向きは如何な事でありましょう?」
 言われて、懐から書状を差し出す。
「蒲冠者より授かって参りました」
 これは真っ赤な嘘。墨も乾いて間もない物だ。
 ある程度時間が経ち、真偽定かで無い形で渡って欲しかったのが、彼が直々に出て来た事でそれは厳しくなった。
「御殿への書状、でありますかな?」
「いえ、あくまで藤九郎殿に宛てての物であると」
 射命丸は背に汗が伝うのを感じながら、導かれるままに陣幕の内側に入る。
「では拝見します」
 盛長は一旦それを掲げてから、隅々に目を走らせる。
「おお、蒲冠者は鎌倉に参じると!」
「はい、大意はそうであります。ただ、今現在は間近を平家が大軍を進めており、行動を起こすのは難しい、それをお許し願いたいとの旨も」
「それは仕方ありませんな」
 表情は固まったままであるが目は笑っている、それが本心。彼は範頼の参戦を心から喜んでいる。
「あと、これはあくまで内々の打診であり、花押(※19)などを付していない事もご容赦をと。しかしこの陣の様子を持って帰れば、そんな慎重な考えも吹き飛びましょう」
 わざとらしく言うものの、こちらも半分は本音であった。
「そうでしょうそうでしょう。武田党に負けじと繰り出した精鋭であります、必要ならば、まだ後ろに兵はありますからな」
 まだ余力があるのかと、射命丸も素直に驚く。
「なるほど、これならなお安心出来ます。して、どの辺りで合戦になる予定ですか?」
「む、それは如何な蒲冠者のお使いといえども、話す訳には――」
 盛長が言い淀むのが見えていた射命丸は、すかさず言葉を繋ぐ。
「ちなみに、武田は富士川(ふじかわ)で当たる模様であります」
 これは陣中や周囲からの情報ではなく、射命丸自身の観察の結果。進軍の速度と地勢から、それだけの兵を展開できるのは富士川の両岸かその東側の湿地帯、浮島ヶ原(うきしまがはら)ぐらいであろうと、素人目ながら見ていた。
 それを聞き、ここまで表情を崩さなかった盛長の顔が、初めて変化を見せた。
「それは、誠でございますか」
「寺社筋の情報でありますので、完全に定かな事とは言えませんが」
 盛長の様子を見て確信した。彼らもその近辺で当たる気でいたのだ、当然武田より先に。
「もし武衛様が富士川での合戦に臨むのであれば、蒲冠者も寡兵ながら挟み討ちには出来ましょう」
 これも、そういう事にしておく。
「呼応して兵を起こすと?」
「情勢の許す限り、ですが」
 よくこうもでっち上げられるものだと、射命丸は己の口八丁ぶりに呆れながらも言う。
 実際に兵を寄せられなくとも、この時点で意思表明しておけば、頼朝の古くからの側近の盛長の覚えは良くなる事であろう。そう期待する。
 盛長は満足そうに何度も頷きながら、射命丸の来訪に改めて礼を尽くすのだった。

       ∴

「――との事であります。独断の責めは、いくらでもお受けします」
 蒲神明宮にて黄瀬川での事を聞いた範頼と頼景、それに次長や頼綱も揃って難しい顔をする。
「一貫坊殿、勘弁して下され……」
 車座の中、頼景が腕組みのまま、隣の頼綱に寄りかからんばかりに体を傾げながら言う。実際に起こす兵は彼らの領地の住人だ、それは至極妥当な苦言。
 続けて次長が言う。
「確かに、軍規に照らせば斬罪に処されても文句は言えぬ。だが一貫坊殿はあくまで僧であり、我々はまだ軍ではない」
「そりゃ“そう”ですがな」
「兄者、下らぬ事を言っている場合では無いぞ」
 頼綱の頭頂に八つ当たりの掌が飛ぶ。
「ったく。少し相談して下されば良いのに」
「痛つつ、時間の暇が無いのだから、しょうが無いだろうと思うがな。僭越ながら俺は妙案だと思いますて、一貫坊様」
「右に同じく」
 頼綱に、意外にも次長も異議無しと続ける。それを聞いた頼景は益々顔をしかめる。
「御曹司はどうだ?」
 彼の決断次第だと、そちらに尋ねる。
「頼景殿は怒ると思いますが、私は、一貫坊様の判断を……信じたいと思います」
 しばらくの沈黙が辺りを包む。
 遠くでは鴉が鳴いている。
「分かった。だが蒲殿、今後肝に銘じてくれ。兵馬はただの数字ではない、郎党は、肉親より重いものだぞ」
「……はい」
 背筋を伸ばして答えるが声に力が無い、迷っているのが見て取れる。
「決断したならしたで自信を持たぬか。この一年、出来る事はして来たであろうに」
 頼景がその背を強く叩き、範頼は咳き込む。先程までの重苦しい様子はどこへやら、いつも通りの二人に射命丸は安堵した。

 腹を決めた頼景は早速相良へ戻り、参加する者をとり纏めようと、頼綱と供に奔走した。
 次長も自身の本家に走ったが、勝田氏は先んじて彼の兄の勝田平三郎成長(へいざぶろうしげなが)が率い、甲斐源氏に与しようと動いていた。
 そして射命丸も、当然と出発の準備を整える。
「一貫坊様、腹巻(はらまき)(※20)は如何いたしましょう?」
 範頼が、神人の為に備えている鎧の中でも、最も小さな物を持って現れる。それでも大きいうえ、飛び回るのには邪魔だと彼女は感じた。
「いえ、今はいいです。それにこう見えて、妖は人間より体が頑丈なのです」
 斬ったり突かれたり、焼かれたり溺れたりすれば当然死ぬだろうが、それでも人間よりはしぶといのだと、彼を安心させようとして言う。
 これを聞いた範頼は、射命丸の意図とは真逆の表情をする。
「縁起でも無い事を言わないで下さい。腹巻もそれ以外の事も、出来るだけ早く見繕いますからね」
 いつも楽観的な彼らしくないと射命丸は苦笑いをしながら、それ以上は拒否せず応じる。それに心の底では、己は気を使われるような立場では無いという思いが強かった。
「蒲殿こそ、頼景殿のお古の大鎧で大丈夫ですか?」
「新しく仕立てるとなると、結構しますからね」
 射命丸は彼が大鎧を着ている姿を思い浮かべようとする、しかし思い浮かばない。そもそも太刀を下げるのすら似合わないのだからしょうが無い。
 彼は紛う事無く義朝の子、源氏の御曹司。なのに、である。
「本当に大丈夫だろうか」
 射命丸は小さく呟く。
「如何しました?」
「あ、いえ、何でもありません」
 能力への不安と言う以前、こんな彼を――彼自身の決断の上とはいえ――戦に駆り出していいものなのかと思ったのだ。しかしこれは範頼が射命丸に対して思うのと同じ事、どっちもどっちである。

 射命丸は黄瀬川宿での盛長との再会の後、手を尽くして矢合わせの期日を掴んでいた。それによれば合戦まであと三日と無い、相良の衆と合流して進発し、間に合うかどうか。
 平家の官軍はやり過ごしていた。ただし国府に睨まれる恐れはあったため、蒲御厨からは範頼と射命丸だけの出発になる。清倫以下神明宮の者への出立の挨拶はあえてしない、彼らに迷惑は掛けられないという配慮からであった。
 しかし範頼は、池田宿の重徳邸、今は藤と下男らが住むそこへ行こうと言う。ゆやの母である藤に、彼女を救いに行くという誓いを立てようと。
 藤の宅に着くとすぐに彼女が迎えに出た。もう門衛も居ないが、今は下男だけでなく近辺の村人も、彼女を助けに来ている。
 これは重徳が辺りに施した事への恩に報いてであろうかと、射命丸は考えた。自身の娘は献じたとしても、彼らには慕われる荘官であった、決して、私利私欲にまみれた悪徳の人ではなかったのだ。
「藤様、蒲冠者範頼、これより鎌倉へ参ります。そして、必ず上洛を果たし、ゆやを平家の手より救い出して来ます」
 まるで母に言う様にして、誓う。
 これを聞いた藤も、彼の母であるかの如くおののき、戸惑う。
「なんと仰います、蒲殿。御身が無事だけでも何よりと、何故思いませぬ。あの子の事は、何か別の方法ででもどうにかなりましょうに」
 これを受けた範頼は、少し間を置いて答える。
「考えました、多くの方法を。ですがこうでなければ、ゆやを助けられないと、そう思うのです」
「あの子を諦めようとは考えなかったのですか?」
「……藤様が諦めない限り、私は決して」
 こうまで言って貰えるとは、彼女は余程範頼の事を心配しているのだろうと、射命丸にも分かった。だが藤も「諦める」とだけは言えなかった。
「決意は固いのですね。やはり貴方様も頭(こう)殿(※21)の血を引くお方、この運命は避けられなかったのでしょうか―― 一貫坊様」
「はい」
「蒲殿の事、何とぞ、何とぞお守り下さいませ」
「分かりました。一命を賭してお守りし、悲願成就をお助けします」
「一貫坊様。一貫坊様のお命は、私が守ります」
「え、あれ? あの……」
 それではいけない、あべこべだ。射命丸は困惑する。だがここは問答の場ではない、それ以上は言わない。
「お二人とも、武功を上げるより、あの子の事より、ご無事でお帰り下さいませ」
 彼女は、どうなっているか分からないゆやの身より、今ここに居る二人の無事を願っている。二人ともそれは分かっている。だが行く他に、行って事を成す他には、思う事は無い。
「藤様」
「はい」
「あの桜の枝を、頂いてもよろしいでしょうか?」
 太郎の亡骸は、あの後布にくるまれてその桜の根元に葬られた。
 太郎と、その母兄弟が共に眠る山桜を指差して言う。葉も散って寂しい姿を晒すそれは、藤の心を表しているようでもある。
「はい、それは構いませんが」
 何をする気なのか、射命丸も不思議に思う。
「太郎の仇も取るのです。そして、太郎へも誓いを立てたいと思います」
「なんと、なんとお優しい事で……」
 感極まった藤はさめざめと泣く。範頼はそれを慰めてから桜の側へ行き、大ぶりの枝を選んで折る。そして、これを鞭にして携えるのだと伝える。
「ゆや共々、太郎には何度助けられたか分かりません。それなのに私は……」
 違う、死なせたのは私だ。射命丸は心の中で叫ぶ。
「では藤様、名残は惜しいですがこれにて。必ず、必ずや、ゆやを取り返して参ります」
 堂々と立ち、それから礼をして踵を返す範頼。全てを振り切る様に前を向いて歩み、射命丸もそれに続く。
 その後ろでは藤が、彼の歩みを止めようと手を伸ばしかけ、しかし引いて、見送っていた。

       ∴

 射命丸は徒歩で荷駄馬を引き、範頼は馬上に。騎乗の彼を見るのは初めてだと彼女は何気に思う。
「では蒲殿、行きましょう」
「本当に徒でよろしいのですか?」
 範頼の気遣いは射命丸に正しくと伝わる。しかし彼女は、やんわりとこれを辞する。
「僧は普段歩くものですし、私は馬より速いですよ」
 はにかんで言う射命丸に範頼もこれ以上は言わず、初めての二人旅を一路相良へ向けて出立した。

 朝一番の渡し船で天竜川を渡り、ほぼ海沿いの道を東進する射命丸達。その他にも幾度か渡しを使う予定、どの渡しも着く頃には開いていることであろう。
 冬の入りのこの時期、十里を越える道程に遠州特有の空っ風(※22)、平地ではあっても決して楽な道程では無い。それでも雨に降られないだけましだと二人は進む。
 道中では、とりとめの無い話にこそ花が咲く。
 射命丸は秋葉山での修行の事や術の事を、範頼は主に都での事を、それぞれに縁は無くとも、これなら相手も興味があるだろうという事を選んで語った。
 それでも、互いに身の上をここまで長く話すのは初めてで、話は尽きなかった。
 ただ射命丸は、鴉であった時の事は話さずにいた。何かを期待しての事ではない、むしろ逆。
 己がゆやと太郎にした事はやがて範頼が知る日が来るであろう。その時に、あの鴉が恩を仇で返したのだとは知られたくなかったのだった。
 いくら恨まれても構わない、それだけの事をしたのだ。しかし己があの鴉であった事を知れば、彼は非情な人間になってしまうだろうからと。

 日も傾いて夕暮れから闇の迫る中、若干海沿いから離れ、台地に挟まれた平野を行く。
 右手側の向こうに見るのは、かつて朝廷直轄の牧場(まきば)――官牧(かんのまき)が置かれた白羽(しろわ)の台地。左手の急速に隆起した、台地は相良も含めてずっと奥地まで続く。これが官牧が閉じて以来の私牧(しぼく)群がある牧之原(まきのはら)、相良私牧(さがらのしぼく)もここに属する。
 あと数町で駿河湾にぶつかって北上すれば、相良荘もすぐそこ。その二人の前方に灯りを掲げた馬が迫る、乗っていたのは頼綱。
「蒲殿、少し問題が起こったようです。急ぎ当方の館へお越し下さい」
 範頼は多くを言わず一言だけ了承と伝えると、射命丸の方を見る。
「ここまで暗くなれば見られる事も無いでしょう。私も飛んで行きますので、馬の足の続く限り」
 荷駄馬は己がと、頼綱が引き綱を受け取る。馬借(ばしゃく)の真似事も軽くこなすのは、馬に慣れた家の彼らしい。
 相良荘の頼景らの館に三人が着く頃には、とっくに日も暮れていた。篝火(かがりび)を頼りに立ち入ると頼景が迎えに出ていた。
「足の汚れなど後で落とせばいい、上がってくれ」
 こうまで急がせるとはただ事ではない、範頼が事情を求める。
「一体、何があったのですか?」
「ああ、予定より早く……平家が破れた」
 当然驚く、黄瀬川での陣容を拝んだ時から源氏勝利の期待を強くしていた射命丸も。こうなると矢合わせの日付が間違っていたのか、その点は己にも責任の一端のある話と、彼女は詳細を問う。
「話によると本日の未明には平家は富士川沼の陣を引き払い、今は東海道を西進しているとの事だ」
 曰く。
 矢合わせに先だって、富士川両岸で鎌倉勢と平家の官軍が睨み合っていたのだが、夜半、突如水鳥の群れが飛び上がり、それに驚いた平家勢は着の身着のままで逃げ出してしまった。
 そして実は水鳥の群れの側では、軍勢が動いていた。
 実のところ平家勢は対岸の鎌倉の陣容に圧倒され、既に兵の脱落を防げぬ状態になっており、そのため早々に撤退したのだとも聞こえていた。
「問題はまだあります」
「今言った事が全てであろうが」
 頼綱が口を挟むのを兄が咎める、だが話は止めずにそのまま言わせる。
「俺は一貫坊様のもたらした情報、期日を信じます。ですがそうなると、鎌倉の振るまい、もしくは別の懸念があるのです」
「と言いますと?」
 そこへ、話を聞いていたであろう次長が現れて言う。
「東国武士が戦の作法も知らぬ者達か――」
「はい、それか……別の者が動いたかと」
 陣中の作法については、平家こそが先に犯したのを射命丸は掴んでいたが、今はあえて言わない。その故のある者達が、この話の答えであろうかとも見たからだ。
「武田党、ですか」
「然り」
 範頼が気付き、次長が肯定する。射命丸も、そして相良の兄弟も同じ考えであった。
 過日、かの軍団は平家陣中へ送った使者を無礼との咎により斬られていた。使者の態度に問題があったのではなく、不遜な内容の書状に腹を立てた侍大将の忠清が切り捨てたのである。
 軍使を斬るなど、当然あってはならぬ事。
 武田はしかしこれを奇貨とし、平家勢への意趣返しとして道義を以て作法を無視、また鎌倉勢を出し抜く一挙両得の進軍に出たのではないか。その武田勢の唯一の不運は、敵の虚を突こうと迂回しているうちに営巣している水鳥たちを脅してしまったことであろうと、射命丸は顛末を想像した。
 こうなると、鎌倉と武田のいずれに付くべきかの判断を白紙に戻さなければならないかも知れない。やはり武田の勢いは強い、己の独断が裏目に出たかと射命丸は唇を噛む。
「すいません、やはり私の行動はよからぬ結果につながりそうです」
 射命丸はそう言って、今度は隠さずに武田と平家の陣の間に起こった出来事を話す。これを聞いては皆、武田の働きであるのを疑うべくも無かった。
「確かに独断はよろしくない。だが今まで身の振り方を決めかね、日和見を決め込んでいた蒲殿こそ、一番問題がある。責任は、一貫坊殿よりも蒲殿にある」
「え、いえ、ちょっと待って下さい」
 次長の意外な弁護に射命丸は戸惑う。そこは己の所為なのだ、それに彼の日和見は決して責めるべきでは無い。
「はい、重々承知しております、一貫坊様が私のためにとお話を進めて下さったのも」
 今回の事は想定も困難な事であったのだからしょうが無いと、範頼本人も射命丸を庇う。
「確かに、鎌倉の藤九郎殿がお越しになった時に、すぐに参陣を打診すれば良かったのかもな」
「慎重に過ぎて、よく事をし損じる兄者が言う事か」
 頼綱の頭に拳が落ちる。
「痛つつ……いや、俺も同意です。何と言っても蒲殿は鎌倉との方が縁が深い訳ですし」
 畢竟(ひっきょう)これは既定の方向だったのだ。範頼をはじめ、各人は考えを固める。
「蒲殿、改めてご決断を」
 頼景がうやうやしく言う、いつものようにふざけているのでは無い。
 その眼差しは範頼を刺し貫く。全てを預けるのだ、任せたぞと。
「はい。勝間田様、頼景殿、七郎殿。それに射命丸様。鎌倉へ、参りましょう!」
 皆静かに「応」と発する。
 決意を新たにする、後は進むだけ。
 彼らは各々に、かつて無い心の高鳴りを感じていた。

 明くる日、事前に頼景に従う旨を表明していた者達を参集させ、出発準備は整いつつあった。
 平家の動きについては射命丸が偵察に出て、命からがら落ち延びつつあるのを見る。兵は散り散り、維盛や忠清以下、当初の本営に従うのは僅かに十数騎。
 これは範頼にとって好機のはず。
「平少将殿を捕らえ、ゆや殿を取り戻す交渉の材料には出来ないでしょうか?」
 範頼はこれに首を振って答える。彼の目線の先でも、頼綱が眉をひそめて手を振っていた。
 道義を気にしているのかと訝る射命丸に、次長が彼らの懸念を補足をする。
「官軍を率いてこうもあっけない敗戦を喫した将を、平家はどの様に扱うのでありましょうな」
「はい、私も同じく考えます」
 よく考えればなるほど道理だと、射命丸も納得する。死罪か、良くて遠流に処せられるであろう。
 維盛の父重盛は既に亡く、また彼は庶長子で、元々は嫡男の扱いでは無い所、本来の嫡男右近衛権少将平資盛(すけもり)が、都で摂政松殿基房(まつどのもとふさ)との間に騒動(※23)を起こしたためそうなっただけ。
 清盛の嫡孫ではあっても、やや軽い立場なのだ。
 忠清などは元々東国の住人、いよいよ論外。その他の将にしても、人質としてめぼしい者は無し。
「さてお歴々、雑談はよいが、平家の軍勢の憂いが無くなったのならとっとと出てしまおう」
 馬を引きながら頼景が言う。
「兄者、やはりそいつは連れて行くか」
「おう、鎌倉に連れ出すに値する奴は多く居るが、こいつは別格だからな」
 彼が引いていたのは、墨をかぶった様に黒い青鹿毛(あおかげ)の若駒。体躯はまだ小さいが面構えは堂々としており、坂東の駿馬にも劣らない眼光を放っている。
 頼景曰く、駿河国の安倍川(あべかわ)の奥の方から引き出されてきた馬で、甲斐駒(かいごま)(※24)であろうとの事。軍馬としての資質は十分にありそうである。
「いや、それはいいから急ぐぞ」
「兄者から話し出しておいてそれか」
「お前の問いの方が先であろうが」
 引き出物として相良の財政を困窮させない程度の馬を連れ、それに働き盛りの男共まで刀を持たせて駆り出すのだ。家族連れも少なくない。
 領内を掌握した訳ではないため、彼ら兄弟の父頼繁の意を受けた郎党が寄せた場合、大変な悶着になるのは目に見えている。ここまでも、大人しく事が運んだのは運が良すぎたとも考えられる。
「ただし、東海道まで出ると武田と当たる恐れがありますから、それだけはご注意を」
「なんと、もう進軍しているのですか」
 鎌倉勢は東に転進したが、武田は西へ進路を取ったのを、射命丸は確認していた。
「一貫坊殿、お許(もと)の判断、やはり良い方向に転んだかも知れませぬな」
「えっ?」
 次長が小さく呟いた言葉の意味を、この時の彼女は量りかねた。
「それでは、行きましょう」
 範頼が穏やかに号する。
 軍勢と言える程では無い隊列であったが、それでも率いるのは源氏の御曹司。

 今ここに、蒲冠者範頼は立ったのである。

     * * *

 武田党は富士川の戦の後、早くに鎌倉への恭順を決めていた。このため鎌倉軍は追撃を掛けなかったのだ。
 次長が言った通り、射命丸の判断は結果的に正しかった。
 甲斐源氏は本領を確固と整えることが出来たうえ、遠江国と駿河国へも駐留を進められたため、名も実も十分に取れた模様でもあった。
 頼朝が西へ上らなかったのには他にも理由があった。
 東国平定はまだ成らず、遠征軍に多く兵を差し出していた上総介(かずさのすけ)(※25)広常(ひろつね)の他、坂東の武士の多くが足場固めを望んでいたのである。
 加えて、奥州藤原(おうしゅうふじわら)の動きも警戒していた。

 そしてその奥州(※26)からも、ある人物が数十騎の手勢を引き連れて訪れる。
 頼朝や範頼の異母弟にして義朝の末子、九郎義経(くろうよしつね)。この時、齢二十二歳。
 平治の乱の頃、牛若丸(うしわかまる)の幼名で呼ばれた当時二歳の彼は、他二人の同母兄(いろえ)(※27)と供に助命されていたのだ。その後は鞍馬山(くらまやま)に預けられ、出家する前に辛くも奥州に逃れたのだという。
 この様に、坂東の血を受け継ぎ、西国で生まれ育ち、奥州で学ぶという、数奇な道程を辿って来た若武者である。
 母は近衛天皇(このえてんのう)(※28)の妃藤原呈子(ていし)に仕えた雑仕女(ぞうしめ)(※29)常磐(ときわ)御前。義朝の側室でもあった彼女は、池田宿の遊女であったという範頼の母よりもまだ身分は明らかと言えた。
 その義経は、富士川の勝利から引き返した鎌倉軍の屯する黄瀬川の宿で、頼朝と邂逅を果たしたのである。範頼よりも先に。
 二人はお互いに泣いて喜び、その様子は周囲の者達にも滂沱と涙を流させたという。

 その義経には、鞍馬山で天狗に稽古を受けたとの噂もあったが、これについては射命丸も、その天狗が何者であるかは知らなかった。

第4話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 院近臣:院とは仏門に帰依した上皇(※3)、即ち法皇。法皇の周囲で実務を行う官僚などを院近臣言った。
※2 家司:律令により定められ、親王及び内親王や公卿の家に設置、家政庶務一般を負った。『いえのつかさ』とも。
※3 上皇:太上天皇(だじょうてんのう)の略。譲位により位を退いた帝にこの尊号が贈られた。
※4 天子:天皇、皇帝を指す語。天帝の意を以て天下を治める、天帝が己の子と認めた君主との意味。読みは同じだが、『比那名居天子』と混同されないよう注意
※5 治天の君:実権の上では天皇の上にあり、事実上の君主と言える存在。基本的には院政を敷いた上皇や法皇の事
※6 鵺:『ぬえ』。頼政の鵺退治の逸話は、恋歌に秀でた彼の武勇の面を謡うための創作であるとも言われる。
  (余談でありますが、本作はこの逸話を取り扱った東方二次創作『悲しきかなや身は籠鳥』(折葉坂三番地/銅折葉氏)に大変強く影響を受けています)
※7 武衛:『ぶえい』とも。兵衛府(※8)の職名を唐(中国)名で呼んだもの。
※8 兵衛佐:大内裏の警護を受け持つ兵衛府での官職。“佐”は四等官の内で上から2番目、上は“督(守、かみ)”、下に”尉(じょう)”その他が続く。
※9 左典厩:左馬頭の唐名、同役職。ここでの故左典厩は、源義朝を指す。
※10 貫:重さの単位、作中では便宜上、1貫3.75キログラムとしている。本来は一貫文(銭貨千枚を束ねた物)の重さ。
※11 伊豆国:現在の静岡県伊豆地方。平安時代は流刑地として機能していた。
※12 目代:国司の官職、四等官の“目”の代官(代理として派遣された官吏)
※13 東国施行:東国とは主に関東の国々、ここでの施行は支配を敷く事。頼朝は以仁王の令旨を正当として拡大解釈し、関東における自治権を主張、行使した。
※14 相模国:現在の神奈川県の大半。唐風の呼び名で相州(そうしゅう、三河国の参州や遠江国の遠州などと同様の号)
※15 安房国:現在の千葉県南房、房総半島の南側
※16 甲斐:甲斐国(かいのくに)、現在の山梨県
※17 輜重:軍事行動を取る上での需品一般。劇中では別にしているが、本来は兵糧(野戦糧食、行動食)もこれに含む。
※18 権介:国司の官職、四等官の“介”の権官(定数外の任官)
※19 花押:名を草書から更に図式化したサイン。代筆された文書の最後に、責任を負う者が記す場合もある。劇中の時期に範頼が花押を用いていた史実は無い。
※20 腹巻:僧兵や神人(先述)の着用する小型の胴丸。僧衣や白衣(びゃくえ)の下に着込む場合や、上に纏う場合もある。
※21 頭殿:ここでは義朝の事。左馬頭の“頭”に由来する、近しい者達からの呼び名
※22 空っ風:冬の乾燥した時期に、山から吹き下ろす下降気流。『遠州の空っ風』以外に『赤城おろし』等も。
※23 騒動:『殿下乗合事件』、平家の横暴の始まりとして描かれる事もある。発端は基房側にあり、重盛が強硬な態度で応じた。最終的には清盛が事を収めた。
※24 甲斐駒:日本在来馬の一種で、現在は血統が途絶えている。サラブレッドなどの競走馬に比べて小柄だが、山岳地での行動や重量物を扱う際の脚質で勝る。
※25 上総介:上総国(かずさのくに、現在の千葉県中部)の国司。権介(※19)と異なり定数内の官職
※26 奥州:陸奥国(むつのくに)の唐名呼び、みちのく(道の奥)。現在の宮城県から青森県にかけての、太平洋側の地域
※27 同母兄:字義に同じ、弟の場合は同母弟(いろど)。古くから、母を同じくする兄弟姉妹が『イロ――』と表記されており、古事記にもそう書いてある。
※28 近衛天皇:保延5年~久寿2年(1139~1155)。第76代天皇、在位永治元年~久寿2年(1142~1155)
※29 内裏や、公卿の家に仕える女性の召使い。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

この小説へのコメント

一覧へ戻る