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木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編   木ノ花前編 第1話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編

公開日:2016年01月20日 / 最終更新日:2016年01月20日

木ノ花前編 第1話
一./今は昔(西暦1160年)

齢百を、とうに超えた鴉が居た。
 鴉が常の在所とするのは信濃国(しなののくに)(※1)であったが、ここまで齢を重ねたこの鴉は、興味の赴くままにあちらこちらと見聞するようになり、時には熊野(くまの)の社の使いとして飛び回っていた。
 ある日、使いを仰せ付かった鴉。その役目を終えた帰りの事であった。
 遠江国(とおとうみのくに)(※2)の中程にある山際の社の上を飛んでいた鴉の耳は「びょう」という風を切る音を捉え、刹那、その翼は酷く斬り付けられた。
 矢が掠めたのだと理解した時には、満足に羽ばたくことも出来なくなっており、西風に任せて東へ身を運ばれていた。
 眼下の神社でのお狩り神事の流れ矢だとは思いもしていなかった鴉。清められた矢は、神使ではない、妖に近い生を得ていた鴉を、その思う以上に傷つけていた。
 かくて川の畔に鴉は落ちる。
 川の名は天竜川(てんりゅうがわ)と言い、遙か信濃国の諏訪湖(すわこ)から流れ出で、遠州灘(えんしゅうなだ)に注ぐ大きな川であった。
 己はここで死ぬのだろうか、流れ矢に当たっただけなのに。その様に、鴉が無念と苦痛に震えながら河原に身を横たえていると、その上に影が覆い被さった。
「どうしたんだい?」
 腰を落とした人間の、少年。目がかすんでしまい、一寸先も見えない鴉にもそれは分かり、年嵩のため言葉も分かる。だがそれに答える事は鴉には出来なかった。喋るのには相当に難しい訓練が必要だからだ。
 少年は鴉の身を見分する。鴉はそれを、自身が喰うに足りるのを見るためかと観念しつつ、
(我が身は、そう肉も無いぞ)
 心中で自嘲する。
 少年はすっくと立ち上がると、そこらへ点在する草むらの一つ向かって行く。河原の石を踏みしめる音が遠ざかるのを聞いた鴉は、喰われることはなかったかと安心するが、彼はすぐに戻って来た。
 手に持った草を川の水で洗うと、そこら辺の石にそれを打ち合わせ始める。
 ガチンガチンと鳴る音に、少しずつ青臭い匂いも強くなる。鴉にはそれが何か分かったが、それ故に不可思議にも思っていた。
 少年が鴉の傷付いた翼に叩いた草をすり込む。痛い、と鴉は一度だけ身をよじるが、辛抱する。
「痛かったかい。ごめんよ、でも私にはこれぐらいしか出来ないんだ、我慢しておくれ」
 血止めの草。ただの禽獣なら暴れて台無しにするだろうが、鴉は痛みを堪えて拙い治療を受ける。
 決して満足な物ではない、それでも痛みは和らいだか。鴉が少し安心すると、少年の小さな手が鴉をそっと包む。彼になら無体な真似はされないだろうと、鴉は己が身を彼に委ね、意識が遠のくのに任せた。

 気が付くと、鴉は立派な普請の門の前に居た。もちろん少年の腕の中にありながらの事。佇まいと門の脇に立つ神人(じにん)(※3)の姿を見て、神社であるのを認識した。
 少年が神人に頭を下げると、神人は鴉に目を留めつつもうやうやしく頭を下げて迎える。
 高貴な身の者なのかも知れない、そう鴉は察するが、彼が辺りを窺いながら足を運ぶのには違和感も覚えた。
「若、これは如何いたしたのです?」
 少年の身体が強ばるのを、その腕の中の鴉も感じる。声を発したのは明るい藍色の袴を穿いた壮年の男、神職であるのは鴉にもすぐに分かった。
 穏やかな声色の男に、少年は怖ず怖ずとだが明瞭に答える。
「河原で弱っていたのです。放っておけず、つい連れて来てしまいました……申し訳ありません!」
 言って深く腰を折る少年。その手の中の鴉も少し圧されて流石に息苦しいと暴れ、鴉の訴えに少年は慌てて身体を起こす。
 少年が頭を上げた先には、男の優しい貌があった。
「いえ、咎めているのではありません。若は、熊野三山の神使――神様のお使いをご存知ですか?」
 これは鴉こそがよく知る事。心持ち具合も落ち着き、二人の話を聞く余裕も出て来た。さてどう答えるのだろうと期待して待つ。
「すいません、教わったかも知れませんが。本宮大社の御祭神ならば八咫烏(やたがらす)、カモタケツノミコト様の化身と覚えておりますが……」
「熊野の事はあまり教えておりませんでしたよ。ですが、八咫烏様の事、よく覚えておいででした。そうです、それ故、熊野の社の御使いは鴉なのです」
 少年はまだ十に満たない様にも見える。それにしてはよくもこう答えるものだと、鴉は感心した。
 男もその答えに満足そうに目を細め、講義を続ける。
「他にも例えば、ここより北の秋葉寺(しゅうようじ)の神使は、三尺坊(さんじゃくぼう)権現を導いた白狐の眷属、ウカノミタマ様のお使いと同じく狐であります。また、あの富士のお山――」
 男は、手前にある山脈の彼方にあってもなお高い霊峰を指差す。
 彼の峰は常に強い風が吹きすさび、鴉ですらも頂に至ったことは無く、侵すべからざるとするのを知る地。
「あちらにお住まいの浅間(せんげん)様の神使は、真っ赤な顔の猿(ましら)であったりします」
 そう言えばそうだったかなどと感心した鴉は、つい「クワァ」と声を上げる。それを不具合の訴えと受け取った少年は、思い切って男に言う。
「當麻(たいま)様、ご教授は有り難いのですが、急いでこの子の手当てをしたいのです……」
 子という歳では無い、この當麻とやらより歳を重ねているのにと、鴉は少し可笑しく思ったが、人間からすればそう見られるのもしょうがないとも思い直した。
「いえ、若、これは私こそ大変な失礼をしました。すぐに準備をいたしましょう」
 當麻と呼ばれた男は軽く頭を下げると、参道脇の建屋へと少年を誘い、共をする。
「若、私は鴉を神のお使いだとお話ししましたが、しかしそれを知らずとも小さな命を大切にするお心、この當麻五郎、大変嬉しく思いますぞ」
「ありがとうございます。ですが、無闇に拾ってくるのは……自分で世話が出来るだけにします」
 この當麻なる人物が少年の教育係である事、加えて彼がどの様な教育を少年に施しているのか、全てではないが大体は鴉も察した。
 何より少年自身の気質。分別は教えられながら、それでも手の届く所に居た己を無視できなかったのだろうと、助けられた鴉はそれを有り難いと思った。

       ∴

「今日は田でドジョウを獲って来たんだ。この子達なら、君も普段食べるだろうから」
 いや、自分で魚を捕ることは無いんだが、悪くない。
「粟はどう? 米はあげられないけれどこれも美味しいから。ミミズも居るけれど、あの子達が居ると土が良くなるから、捕っちゃダメなんだって」
 粟は食べるのが面倒だ、ミミズの方が良かった。
「傷は、まだふさがらないね。薬と布を替えてあげるからじっとしていておくれ」
 痛い! 布を剥がす時はゆっくりやってくれ。
「河原でこんな物を拾って来たよ。碧い石なんて初めて見た、君達はこういう物が好きだろうから」
 これは硬玉じゃないか。いくらなんでも勿体ない、自分で大事にするがいいよ。
「今日は望月で空が綺麗だよ、一緒に見よう」
 うん綺麗だ。でも夜は余り目が見えないから、こう月が明るいと戌星ぐらいしか見えない。それより眠い……
 
 若と言われた少年は鴉の具合が落ち着いたと診ると、籠で囲って田畑に連れたりもした。その傷は彼の献身的な治療――貴重であるはずの膏薬や清潔な布は當麻らの用意した物――のお陰で順調に癒え、あと十日もすれば羽ばたくこともままなるだろうというまで回復した。
 身を守るための籠の中、鴉が住居側の日なたで陽光を満喫していたある日、牛車と馬が参道手前まで寄せ、薄紅の水干(すいかん)(※4)に烏帽子の男が馬から降りる。男は静々とした足取りで少年の住まいへ入って行った。
 鴉が何者だろうと見守っていると、少年が姿を現し、鴉の籠に歩み寄る。
「ごめんよ。飛ぶまで待ってあげたかったけれど、私はこれから都へ行かなければならないんだ」
 本当に残念そうに籠に手を差し伸べる少年。鴉はそれに驚き、それなら自分も連れて行って欲しいと、籠の中で翼をばたつかせる。
 少年はその訴えを素直に受け止めたのか、別れを惜しむ言葉と仕草を繰り返しつつ遠ざかる。
 鴉は置いていかないでくれと叫ぶが、それは「ギャアギャア」という、ひどく煩い鳴き声でしか届かない。別れの際の今更に、己の心に並ならぬ思いが芽生えていたのに気付いたのであった。

 その後、鴉の世話も治療も、少年から申し受けたであろう者により過不足無く行われた。
 傷は癒えても、暫く飛んでいなかった鴉は幾度か練習を繰り返し、その度に彼の姿を追って付近を飛び回った。彼は都へ行くと言っていたのだから、近くに居るわけが無いのは分かっていたが、そうしなければおられなかった。
 また暫くして、鴉は元通り自在に飛べるようになると、當麻らの見守る中無事飛び立ち、社を後にした。
 鴉はしかし住処の信濃国へ戻ることは無く、そのまま天竜川を十里(※5)ほど遡った先、秋葉山(あきはさん)へ向かった。

     * * *

 平治(へいじ)元年(西暦1160年)末より、清和天皇(せいわてんのう)(※6)の後裔に当たる清和源氏の嫡流河内(かわち)源氏と、桓武天皇(かんむてんのう)(※7)の流れを組む伊勢(いせ)平氏即ち平家との間に、平治の乱が勃発した。
 遡って四年前、保元(ほうげん)の乱ではそれぞれの一族を割りつつ共闘した、源氏の棟梁源義朝(みなもとのよしとも)と平家の惣領平清盛(たいらのきよもり)。それが、各々が側に付く公卿(※8)の求めと利に従って敵味方に分かれて争うことになったこの戦は、永暦(えいりゃく)と改元される翌年の正月に大勢を決し、義朝をはじめとして河内源氏は一族郎党その血の多くを失った。
 義朝の庶長子(※9)悪源太(あくげんた)義平(よしひら)、その異母弟の次男朝長(ともなが)もその中で亡くなり、助命されたり見逃されて生き残ったのは、熱田神宮(あつたじんぐう)大宮司藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘の由良(ゆら)御前を母とする、嫡男の鬼武者(おにむしゃ、のちの源頼朝(よりとも))以下、また別の母を持つ幼い者ばかりであった。

 鴉が少年に救われ、彼が侍に誘われて都へ向かったのは、保元、平治それぞれの乱の合間、結果的に束の間となってしまった平静の一時のことであった。
 彼はしばらく都で過ごしたのち、元服すると遠江国に戻り、生地に近い同国長上郡(ながかみのこおり)に所在する伊勢神宮(いせじんぐう)の御厨(みくりや)(※10)の神明宮(しんめいぐう)にて庇護を受けることになる。






二./博麗神社の能舞台(第129季)

 桜も散り、藤と椿の満開を待つ幻想郷。
 この半端に閉じられた郷を成す要の一角、博麗神社。その境内には臨時の能舞台が設えられ、観客も開演を今か今かと待ち侘びる。
 裏方では、リリカ・プリズムリバーと堀川雷鼓が、各々の受け持ちを確認している。本来必要な四つの楽器をそれぞれに二つずつ。それが可能なのも、和太鼓の付喪神である雷鼓と、電子合成音源(シンセサイザー)をはじめとし、大抵の楽器を手も触れずに奏でられる騒霊リリカならでは。
 そして控えるシテ(※11)は、これも付喪神。面その物でもある面霊気、秦こころ。彼女は先の二人より難儀な事に一人でワキまでも演じる。演目の一つでツレを勤めるのは、
「本当に大丈夫でしょうか?」
 白狼天狗の犬走椛。妖怪の山の勤めは休みを取り、いつもの修験者風の装束は真白な水干に換えている。
「大丈夫だ、問題無い」
 椛の問いに、ぶっきらぼうかつ妙に自信のある答えが――藤色の水干に身を包んだ――こころから返る。
 大丈夫かと聞いたのは自分の事だったのだがと、椛は確認しようとして、やめる。自分の問うた意図通り、こころは今までの演練を通して見て言ってくれたのだろうと。だが不安は募る。そもそも椛がこの様な舞台に上がることなど、まず無い。全く機会が無いわけでは無いが。
 雷鼓とリリカの準備は終わり、こころは既にいつでもという構え。椛は覚悟を決め、不安げだった面持ちをキッと引き締め、こころに向かってうなずいた。

 観客の中でも、舞台の設営に関わった者から枡席に案内されていた。その中には、この様な場に居るのも珍しいと思われる者、地下の住人、土蜘蛛、黒谷ヤマメの姿もある。
 そこに同席する――
「――それ以降の演目は、まず『箙(えびら)』、『敦盛(あつもり)』、『藤戸(ふじと)』、『八島(やしま)』と来まして『熊野』、『吉野静(よしのしずか)』と続き『西行櫻(さいぎよ
うざくら)』と。あ、演目の組み立てについてはちょっと、これはヤマメさんなら歳を経てますし、当然ご存知かと思いますが、てんでバラバラなのはご容赦願いたく――」
 鴉天狗の射命丸文が、求められてもいないのにべらべらと喋りまくる。
 舞台の設営に当たっては彼女の寄進もあり、自前で出版している新聞にも、わざわざこの宴の広告を掲載している。一応はここに居る資格もあるのだが、それは置いてもこの調子の良い物言いに辟易するヤマメ。
「あのね、文さん。私はずっと辺境の暮らしだったし、自分で言うのもなんだけど教養なんてこれっぽちも無いの。それが能なんて……紹介してくれたあなたやにとりの事が無ければ、ここにだって来なかったし」
 商売相手として親しい河童、河城にとりの名を挙げつつ、能も何も観阿弥(かんあみ)(※12)も世阿弥(ぜあみ)(※13)も名前ぐらいしか知らないと、さも鬱陶しそうに答える。
「そうですか。でしたらこの舞台だけは、あえて知らずに見て頂いた方が良いかも知れません」
 へらへらと笑っていたかと思えば、急に神妙な貌を覗かせ、舞台の方へ顔を向ける文。ヤマメも空気の緊張を感じ取り、「えっ」と呟いたきり、倣って視線を同じ方へ向けた。

 太鼓と笛の音が響き始めると、こころが舞台に上がり、シテとして歩法(はこび)を踏み始める。静動一体、静かな一歩から途端にドドンと強く踏み込み、謡う。
 大半の演目は彼女の独演。それに場合によっては、演目一つで半刻にも及ぶ。それでも演じ切れるのは、面を三・四向かい合わせればそれぞれに話し始めるという、面霊気であるが故。
 ワキ側で謡っていたと思えば、その存在を残したままシテ柱の側に移ったり、また入れ替わって、つい先程までそこに居た自分に語る風に演じる。
 だがやはり一人は一人。ヤマメが「こういう物なの?」と声を潜めて問うと、文は「今回は一部を除いてこんな物です」と答える。
 椛はこれをどう演じるだろう。文が思いを巡らすのは技量の点ではない、これらの題材について。舞台裏に控える彼女の心を推し量りながら、文自身も、その目で見た懐かしい日々に思いを馳せた。

 全ては千年近くも前、遠く古い日の事。

 かつて、ただの鴉だった頃の終わりから、妖としての姿をとって駆け抜けた、結晶と化した日々。
 人の世の、時代の大きな変わり目にあって、多くの人々と共に在り、そのありようを見届けて来た懐かしき日々の事である。






三./見附天神の怪(西暦1160年、1179年)

 信濃国に帰らずに秋葉山秋葉寺に向かった鴉には、ある考えがあった。
 この寺に祀られるのは三尺坊権現。元は信州出身の修験者で、越後(えちご)(※14)での修行の後、神通力を得て天狗となった男。密教の数々の秘術も操り、その法力を以て殊に火防(ひぶせり)の御利益を人々にもたらしている。
 そして鴉の目的は、彼の駆使した秘術の一端を授かり、天狗となる事。鴉の身より転化(てんげ)する事であった。
 人の身としては既に入寂したとされる三尺坊。修行していた時の僧坊からそのまま名乗った『三尺』とは名ばかりの、大丈夫の彼。今も山頂付近の奥の宮にて健在であり、鴉の言葉を――これも神通力を以て――聞き、術の行使もあっさり受け容れた。行を修めるという条件付きで。
 彼には、歳を経過ぎた鴉がよからぬモノに変じるよりは、と思うのもあったのだ。
 人の姿を採るのは鴉が考えていたよりあっけなく為ったが、後の修行には難儀する事になった。

 鴉は僧坊と名を与えられた。
 妖の事であり人間の僧とは一部を除いて共に修行することはならず、三尺坊の座する宮付近に単独で与えられた僧坊は一貫坊(いっかんぼう)とされ、名は射命丸を授けられた。
 坊はどうでもいい、ただし名については抗議。
「聞く所、神事の流れ矢に射落とされた事があったとか、見合った名を与えたつもりだが」
「心は射られっぱなしになりそうですがね。それにしても“丸”とは何ですか、私は男児ではありませぬ」
 鴉は雌であり、それより転化した一貫坊射命丸も無論、女と成った。
 変じて後、彼女は昔からそうであったかの様に流暢に人語を操っている。
「嫌ならば尼寺に身を寄せればよかろうに、ワシは構わんぞ。それに丸と加えたは、“童(わら
し)”即ちヒト未満の者を意味するより転じ、半人前の幼子の名となる丸として授けた物だ。これでも気を使ったつもりだ」
「むぅ……」
 口をすぼめ不満げに唸る射命丸。だが名乗りなどいくらでも変えられる、それより目下の問題は修行の事。
 日日の行も経も、門前の小僧など目でも無いほど長く寺社に出入りしていた彼女。要領はよく知っており、ちょっと面倒だとは思いながらもこなせた。
 山地での過酷な修行も、野生に居た時の自然の厳しさをこれ以上に知っており、これしきは苦にはならぬと言わないまでも黙々と続けた。
 普通の僧が修めるべき事は特に問題無かった、普通の修行は。何に難儀したのかと言えば、天狗として修めるべき法力や通力、神通力について。
 翼をその背より失ってから、射命丸は飛んでいない。本来ならばまず飛行自在の神足通(じんそくつう)を身に付け、空を駆けることになる。三尺坊もこれを以て霊狐に導かれたことから、天狗としての射命丸に真っ先に授けたが、彼女は上手く飛べなかった。
 百年以上も翼で風を受け、大気を叩いて飛んでいたのが災いした、魂までそれに慣れ過ぎていた。
 普通天狗に転化するならここまで歳を経ることも無い。中途半端に妖に近い生を受ける前に、神通力で飛び始めるからだ。
 三つ子の魂百まで、スズメ百まで踊りを忘れずなどとは言うが、彼女の場合これが枷となった。

       ∴

 射命丸が秋葉寺に入り、修行を始めてからはや二十年近くが経った。下界へは使いの折に降りる程度で、殆どの時をこの山中で過ごしていた。
 山頂付近、木々の生い茂る森をその頂から頂へ渡る影。他でもないとしたい、彼女。
 実は射命丸の後にも数人、鴉天狗となって修行を始めた者も居たが、皆彼女より早く修行を終えてしまい、方々へ勧進に出たり、より過酷な修行に挑んだりしていた。だが彼女は未だに木々を飛び移るのが精一杯の跳躍しか出来ないでいる、飛行自在などほど遠い。
《一貫坊、今どこにおるか?》
「そちらのお宮の近くを飛び、見回っております」
《跳ね回って、の間違いではないのか?》
「飛んでおります!」
 三尺坊から術での呼び掛け。射命丸は口に出して答え――少しばかり怒り――ながら、三尺坊の居る宮への道程を思い浮かべる。呼び出しかと思ったのだ。
 多くの鳥がするのと同じ様に脚を弾いて飛び立つ、否、跳躍しようとする射命丸。その動きは次の三尺坊の言葉により止まる。
《ならば今から房に戻り、出立の準備をせよ》
「……承知しました、ですが一体何事が?」
 突然の下命、尋常ではない。術越しで声音は分からないものの、穏やかな様子でないのは射命丸も感じる。
 三尺坊の返答を、射命丸は自身の僧坊へ跳躍しながら聞くことになった。
 
 曰く――
 遠江の国府も在する磐田郡(いわたのこおり)見附宿(みつけしゅく)に、良からぬ怪異が跋扈(ばっこ)しているとのこと。
 何よりその怪異の中心が由緒も古い矢奈比賣(やなひめ)神社、勧請された天神様は正五位上の神階(しんかい)も授けられている。これは神仏のありようにとってゆゆしき事でもある。
 怪異は生娘を求め、それに応じないとそこここの田畑を猿が荒らしに来るのだという。
 当然国衙(こくが)(※15)もこの対応に当たっているが、人より遙かにすばしっこい彼奴らに手を焼き、単独では数を寄せられ返り討ち、数を揃えればすり抜けられるうちに同士討ちという、散々な有り様であるとの話。
 それだけの猿を統べ、娘を求める怪異の正体はしかし、一向に掴めずにいる。

 これらは三尺坊も直接見聞きした物でなく、あくまでも伝聞。だが事実とそう大きな開きは無いらしい。
 聞きながら僧坊へ辿り着いた射命丸は、これが本当なら妖の所業であろうと考えた。三尺坊も同様に思っているからこそ彼女に伝え、命じたのであった。
 だが何故、未だ飛ぶ事もままならぬ己にその様な役目を授けるのか。射命丸が腑に落ちず問うと、
《お主なら、あの辺りは昔から飛び回ってよく知っているだろうし、偶に下界にも使いにやっているから、ある程度は勝手を知っているだろう。何より――》
「何より?」
《――他に動ける者がおらん》
 なんとも身も蓋もないことか。しかし渡りに船とは、土地の様子と合わせて射命丸は思った。
 しばらくぶりに“彼”を探す口実が出来た、役目はしかと果たす心づもり。だが期待に胸は踊っていた。

 一目では男と見紛う修験者装束に身を包み、手には金剛杖を携える。槍や薙刀こそ扱った事は無いが、棍術なら修行の一環で修めていた。加えて祭具を兼ねた独鈷杵(とっこしよ)を腰に差す。足下も山中の行動に有利な一本歯の下駄から、平地向きの八目草履に履き替える
 三尺坊からの命令の肝は、先ず怪異の正体を見極めること。また積極的には求めないが、敵うならばこれを除くことであった。
 これを受けた射命丸は、猿の大群の相手は厳しいが、それを統べる者だけならば狒々(ひひ)だろうが猩猩(しようじよう)(※16)であろうが、どうにかなりそうだと見積もった。
 金銀は無いが絹や布は持たされたし、これも足りなくなれば托鉢すればよい。この様な時、僧という身分は便利でもあった。
 事が無事に治まればしばしの暇も許すという三尺坊の言葉もあり、射命丸は意気揚々と山を下る。ただし神通力を用いての下山は中腹の秋葉寺までで、それより下は二本の脚。そのため下山までに日は暮れ、麓の里で軒先を借りてから川を下ることになった。

       ∴

 天竜川の東岸を下って行くと川幅は桁違いに広くなり、堤も設けられるようになっている。
 まだ春先であるため水量は大したことは無いが、これが夏に入る頃になると、こちらから向こうの堤まで、一面が水で満たされる。今も夏に比べれば穏やかなだけで、人の足のみで渡るのは困難。
 朝から歩みを進めたが、休み休みと来ていればいつの間にか日も傾いている。見れば若干覚えのある辺りに差しかかっているのに射命丸は気付いた。
 堤の下には渡しの船場、対岸は船頭らの本拠であろう池田宿(いけだしゅく)(※17)。ここを東に一里余り行けば目的地の矢奈比賣神社だが、もう少し下れば、かつて少年に救われた河原に着く。どうせ目的地に着くのは明日になるのだからと、思い出を求めてまた河原を下り始める。
 これも一里ほど行った地点で、射命丸はふと対岸の人影を目に止め、人間より若干遠くを見通せる眼で遠目に見る。
 もちろん人間の、青年。着ているのは狩衣(かりぎぬ)(※18)か、少し良い暮らしの人物に見える。何故目に止めたのかは分からなかったが、“彼”も今はあのぐらいの年恰好か若干歳を重ねているだろうと思い起こす。
 青年の側に別の小さな影が歩み寄る、頭二つほど小さい、垂れ髪がさらりと風になびく少女。
(私も、あの様に“彼”の側に並ぶ時が来るのだろうか。髪は飛ぶのに邪魔で小芥子(おけし)頭に近いけれど)
 この姿を得ようとした理由、あの“彼”への憧憬が胸の内に沸き上がる。まったく不純な動機で天狗になどなったものだと、射命丸は頭を振る。今はそれよりやることがあるだろう。自身に気を入れ直し、明日に備えて早々に宿を求めることにした。

 天竜川が極端な増水などで川止めになると、西に向かう者は見附宿に、東に向かう者は池田宿に留まることになる。池田宿の対岸にも急な川止めに備えて小さな宿場は存在するため、射命丸はそこに宿を取った。
 ついでに件の怪異について情報を集めようと歩き回るが、酒も女も買えないような粗末な宿場に旅の者の姿は殆ど無く、地元の者ではあっても百姓でない彼ら彼女らは怪異については無頓着。それより国府が税を吊り上げてああだ、何やらお偉い方が来たお陰でまたこうだと、平家の横暴へ恨み言が雑談の端々に混じる。
 かと言って、それに討ち滅ぼされた源氏が良いと言うわけでは無い。戦が起これば税はつり上がるし、百姓は鍬を投げて駆け付ける事になるから働き手も減り、米も何も無闇に高くなる。
 御厨や寺領の荘園であっても、今度は“そちら側”の胸先三寸で税が上下するからこれもろくな物ではないと、射命丸にも耳の痛い話が聞こえて来たりもした。
 実は人々の暮らしにこそ、妖の事などはどうでもいいのであろう。結局税と飯次第なのだと認識を新たにしつつも、日が落ちてもなお情報を求めて歩き回る。

 ある宿の軒先。聞き込みに入った射命丸が、泊まり客でないならと宿の婆にぞんざいな扱いを受けていると、奥から客であろう直垂(ひたたれ)(※19)を着た男が姿を現した。
 灯りが少なく顔は影に沈んだままだが、身の丈は五尺と七寸を超える、一寸五分(※20)も行かない射命丸よりだいぶ高い。上背もそうだが肩幅も広く鍛えられているのが見て取れ、侍であろうかと推察出来た。
「おう、そこの坊様、見附天神の怪異がなんとか言っているように聞こえたが」
 堂々と立ち野太い声で横柄に言う男に、ようやく事態を知る者に会えたかと期待する。
「ええ、物怪(もっけ)か何かは分からぬのですが。お侍様とお見受けして申し上げます。私は秋葉寺の僧、一貫坊と申しまして――」
「社僧(しゃそう)殿が他の神社に怪異調伏か、珍しいのお」
「寺社には寺社の、事情というものがあるのです」
 言葉を遮られても愛想笑いを浮かべながら答える。宿の婆はとっとと姿を消しており、二人きりになっていた。
 縁側に腰を下ろす男、手招きされた射命丸も同じ様にする。
「さて、そちらの事情はどうか知らぬが、俺もその怪異を追っていましてなぁ」
 らしいことだ、どうせ妖退治で名を上げようという魂胆だろう。実に分かりやすいが、私のことも見抜けずに妖退治とは恐れ入る。
 射命丸は思いつつ、心の内で悪い笑みを浮かべる。
 しかし男の次の言葉は、その気持ちを覆させた。
「聞けば猿の群れに田畑を襲わせるという話ではないか。国府もやる気があるのか無いのか、税だけ取り立てて物怪の方は未だ暴れ回っているという、ったく」
 どうやら民百姓を思っての事らしい。見直しはするが、この様子では知っていることに大差は無さそうだ。そう考えた射命丸に、男はまたも言葉を続ける。
「そこでだ、大元を絶とうと探ってみたのだ。怪異は生娘を求めると言うが、これだけは猿共だけに攫わせるではなく己で出向いて来るらしい。そこを斬る」
 手刀で逆胴を切り払う所作をする男に感嘆する、心意気に実力が追いつくかはさておき。
「つい先日、見附の外れの邑のある家に、奴らの求めを示す矢が立ったのを知ってな。娘を差し出さぬよう説得して来たところだ。物怪も恐らくは近いうちに姿を現すだろう、だがな――」
「だが?」
「正直、自信が無い」
 射命丸は失笑し、男はその堂々たる姿に似合わず肩を落とす。力不足かも知れないのを自覚しているのには却って感心した。
「それでは、どうするのです」
 初動はともかく、その慎重さから、何の考えも無しに出張って来たわけではあるまいと尋ねる。
「今のところは旧知の伝手で、と言うよりはその者に手勢を連れて来てもらおうと文(ふみ)を送っている。でだ」
 ずいと顔を突き出す男。
「秋葉寺に尼僧が居たとは知らなかったが―― 一貫坊殿は尼と見たが、間違っておらぬか?」
「ええ、尼ではありませんが女です。この方が色々と動きやすいのでそうしております」
「そうか。いや、法力に男女の別は無かろうかと見込んで頼みたくてな」
 この話、多分乗っても良いのだろうが妙な雲行きだと、その続きを察しながらも促す。
「物怪退治の、加勢を願いたい」
 目的は同じである。己の体裁に拘らず助けを求めるのは良いが、これは先の旧知の人物の面子を潰すことになりはしないか。応じる前にそれを問う。
「はあ、私はやぶさかではありませんが、その手勢を頼んだお連れの方は、私をどう思いますでしょうか?」
「それはそいつの見栄がどうとかいう事か?」
「はい、私一人であるとは言え」
「ああ、それは全くです。そいつはそういう事にはとんと頓着せんでな。むしろ『物怪相手にお坊様とは頼もしいですねえ』とか、ぽやっと言うに違いない」
 ぽやっとそう言われるのもなんだし、引き連れられて来た手勢もまたどう思うか分からない。
 まあそれならそれで、こちらが助けを求めたことにすればいいかと射命丸は考え直し、応じることにした。
「分かりました。協力して事に当たるなら、私としても願ったり叶ったりです、お引き受けしましょう」
「おお、有り難い。おっと申し遅れておった。俺はここより東の佐野郡(さののこおり)相良(さがら)の住人、相良四郎頼景(よりかげ)と申す」
 聞いてなるほどと、射命丸は納得した。田舎者らしさも含めて。
 相良荘、ここより九里か十里東、駿河湾(するがわん)西岸に位置する東遠(とうえん)地域の荘。苗字からしてそこを所領とする一族か荘官の類縁か、彼の名乗りで思い出したのだ。
「こちらこそよろしくお願いします、相良殿。ときに決行はいつのご予定で」
「ああ、俺のことは頼景と呼んで下され。決行というのはまあ近日中としか言えぬが、助っ人のことも勘案し、早ければ一両日中の、今時分からになるだろう」
 刻限については、怪異が現れるのが夜だからだ。それなら、先に現地へ行って見張っていようかと射命丸は決心する。もし明日にでも現れてそれを見逃せば、次を待つのにどれだけかかるかも分からない。今日にだって出て来るのかも知れないが。
 それを頼景に伝えると、不安そうにしながらも了承。
「何度も秋葉山から出張るのは大変だろうがなぁ、俺が言うのもなんだが無理はなさるな」
「承知です」
 話が固まれば行動に移せる。落ち合うのは一両日中の夜に現地でと決め、射命丸は自分の宿へ戻ろうと暇乞いをした。

 明くる日、射命丸は昼のうちに見附宿に着くと、その外れの街道沿いにある現場、見附天神矢奈比賣神社に足を運ぶ。かつての様な鳥目ではないが、さりとて得に夜目が利くわけでもない、昼のうちに現地を偵察しておこうと赴いたのだった。
 着くなり、辺りを見渡してみて惨憺たる様に驚く。
 石畳は割れているし、境内にある建物は原形こそ保っているものの壁も屋根も軒並み穴だらけ。外郭に当たる植え込みは刈り込まれずに伸び放題、雑草は生えていない所を探すのが難しいほど生い茂る。極めつけに鳥居の一部が切り崩されてすらいた。
 いつからこうまで荒れ果てたのか、とても天神を祀る社ではない。宮司や氏子が投げ出したから、矢奈比女様とやらか勧請された天神様が祟ったのではないか、何より後者ならばよからぬ実績もある。(※21)
 射命丸は目の前の有り様を嘆きながら、そこらに草むした、今は無駄に大きい境内を行く。
 本殿も拝殿も、無宿人か賊がねぐらにしていても不思議は無い。と言うより、ここに現れる怪異の正体はそいつらで、付近を荒らす猿の群れはたまたま山から下りて来ただけなのではないかとすら考えられた。
 その本殿の裏手に回ってみた彼女は、何やら奇妙な物に気付く。陽が高い今時分でも陰になっているそこで、何かが蠢いている。
(さて、人間の方が厄介だが)
 そうならば問答無用に手を下すわけにはいかない。草で浮いた玉砂利の上を慎重に歩を進め、その正体を見極めようとする。刹那――
「ガゥ!」
 その影が膨らみ、獣の吠える声が短く響く。
 咄嗟、金剛杖を構え、突進に合わせ叩き伏せようと振りかぶる。刹那、白い影が射命丸の左側に潜り込む。
(しまった!)
 ゾクリと全身が粟立つ。
 辛うじて、両手で持った金剛杖を水平に突き出すと、白い影が開けた真っ赤な口が見事にそれを捉え、砕かんばかりに噛み締める。襲いかかって来たのは大きな犬、山犬か狼かも区別はつかないが、とにかく大きい。
 法力で弾くことは出来るか。凌ぎながら射命丸は頭の芯を冷やして、次の手を打とうとする。だがその必要は横からの声で無くなった。
「太郎! 待て!」
 その声を受けた犬――太郎は、パッと口を開けて跳び退ると「グルル」と低い唸り声を発しながら長い吻の先に皺を寄せ、射命丸を威嚇する。
 体高は二尺五寸を超える程、離れて見てもやはり大きい。尋常な、少なくともそこらの犬とは違う。体高に相応しく大きい身体は、真っ白い毛で覆われていた。
 幸いなのは飼い主らしき人物が居て、その者の言うことは聞くらしい事。未だに射命丸に対して唸りを上げているが。
 飼い主の声は聞く限り男。姿が見えないため何処に居るのかと見渡すと、その人物は本殿の下から這い出て来た。
「すいません、本当に申し訳ありません。お怪我はありませんでしたでしょうか?」
 二十代半ばぐらいの優しげな細面の青年が、射命丸と太郎の間に入って言う。射命丸より頭一つは高く、おっとりとした風ではあるがなよっという感じは無い。
 ほんの少し前まで、飼い主諸共どうにかしてやろうかと思っていた彼女もにわかに毒気を抜かれ、ハッとして答える。
「ああ、いえ、ご心配なく。それでは!」
「あ、もし!」
 呼び止める声を振り切って駆け出す射命丸。彼女自身何故そうしたのかよく分からず、逃げ出した後に、あの犬に正体を見透かされたのを恐れたのだと、己を納得させていた。
 これから戻って先の青年と鉢合わせになってもばつが悪い、事前の現地調査はかくも半端に終わってしまった。今日の昼はこれで切り上げて宿に向かい、夜に備えて仮眠を取ることにした。

 日は暮れたものの、見附宿は昨日射命丸が宿を取った簡易な宿場と違い遊女も酒も有るからか、夜になっても灯りが点り賑わっていた。
 その歓楽を尻目に、射命丸は見附天神に向かう。
 街を外れると辺りは信じられないほど暗い、これが普通の夜なのだとは知っているが、宿場のお陰で却って暗さが目立つ。そして到着した神社の境内は、それにも増して、月明かりも届いてないのではないかと思わせるほど暗かった。
 昨日会った頼景も、今日中に現れなければ明日か。空気は暖かく待つのはそれほど苦ではない、さても、どの辺りに潜もうかと彼女は思案していたが、人らしき気配が近付いてくるのを感じてそちらを注視する。
「おお、そこに居られるは一貫坊殿か?」
「かく言う貴方は、頼景殿ですか?」
 下界で一貫坊との名を知る者は、秋葉寺に関わる者か天狗でも無ければ、他には彼ぐらいのもの。それは正解だった、だが昨日言っていた連れの姿が無い。
 射命丸がそれについて問うと、
「ああ、奴か。じかに話をしたら現地で落ち合おうという事になった。本殿の裏手で待っていると言っておったが、しかし本当に来ているのやら」
 顎に手を当て、首を傾げながら答える頼景。射命丸はともかくそちらへと、昼間に頭に入れた経路を辿り、境内の脇から回り込む。
 そこで彼女ははたと思い出す、昼間の青年の事を。今の時分に居はしないだろうし、まさか彼が怪異の正体というのも――あの太郎とかいう凶悪な犬はともかく――無さそうだ。
 だがその考えの半分は裏切られる。
 本殿の裏に回り、月明かりの中抜き足差し足で進む彼女らの前に、突如昼と同じ白い影――太郎が現れた。
 警戒していた射命丸はすぐに金剛杖を構えたが、
「頼景殿! 危ない!」
 太郎は彼女を無視し、あろう事か、そのすぐ後ろに居た頼景に躍りかかる。
 彼の身体は腰から落ちて声も無い、一撃でやられてしまったかと駆け寄る射命丸。そこにあったのも、彼女が想像だにしなかった光景であった。
「おお太郎、元気そうだな。で、ご主人はどこだ?」
 座った頼景の顔をなめ回そうとする太郎、それを止めながら嬉しそうに語りかける頼景。まさかとも思いもしないこと、この山犬こそ加勢の一端だったのだ。
 太郎は彼から離れると、導く様に玉砂利を小さく鳴らしながら本殿下、昼間に青年が這い出して来たのと同じ場所で止まった。
 射命丸にとってこれもまたまさか。そしてそのまさかが、自ら姿を現す。
「次郎殿、おいででしたか」
「おう、参っておった。それより俺はいつも、頼景と呼べと言っているはずだが?」
「貴方がよかろうと、他人の前では相良次郎殿とお呼びしますと、私も言ったはずです」
「いらぬ、そこな僧、一貫坊殿にも含めてある。あとな、今の俺は四郎だ」
 普通に呼ばさずそうさせるのは、余程気を許した相手だからであろう。ただ頼景の場合、射命丸にもそうさせているのは信を置いた証なのか単に気にしていないのか、彼女も判断しかねた。
 頼景は這いずったままの青年に近付いてしゃがみ、床下を見回してから話しかける。
「おい、加勢の姿が見当たらぬが」
「そこに居るではないですか」
「ヲフ!」
「……太郎だけではないか」
「そうですよ?」
 頼景はしれっと言う彼の首に手を伸ばすと、そのまま掴んで起こして左右に揺すり始めた。
「だから、兵を寄越せと言っただろう! それが御身と太郎だけとは、どういう事だ!」
「そもそも、私の所に兵はおりませぬと、前に言ったではないですか!」
「神人でも何でもいいから寄越せと言ったぞ!」
「ですから、私の自由になる人手もありませんと、重ねて申し上げました! 頼景殿こそ、郎党を引き連れて来ればよろしいではないですか」
 半ばふざけている風に射命丸には見えるし、実際ふざけていた、話の内容はある程度真っ当と言えるが。また双方に何か事情があるのも彼女は拾い上げる。
「私は秋葉寺の僧、一貫坊と申します。神人をお手元に置くとは、一体いずこの――」
「こんの、莫迦の冠者がぁぁぁ」
 射命丸の名乗りと問いをよそに、いい歳の男共は戯れ続けている。主人がこれだけの目に遭っているのに太郎が手を出さない所を見ると、お互い、いや三者余程に気心の知れた間柄なのだとは彼女にも分かった。
 しかしこれには苦笑するしかない。それにこんな馬鹿騒ぎをしていては、出て来るモノも来ないのではないか。
「あの、頼景殿。今のこのお方のお話では、あなたも郎党を引き連れる様な立場の方なのですか?」
「ぬ……」
 射命丸の言葉に、頼景は青年を振り回すのを止めて手を離す。それからちらりと彼の方を見やり、次いで射命丸の方を向いてから嘆息する。
「ちょっと前までの話です、家督は弟に譲ったで」
 聞いてはいけなかったかと射命丸は焦ったが、頼景はさして機嫌を害した様子も無く言う。
「まあ可愛い弟のことだ。元々、親父との約束だったしな。しかしそれを云々するなら――」
 頼景は青年の方に首を巡らせ、
「お主だ、御曹司」
 御曹司、射命丸はその言葉にどきりとする。
 いや、御曹司などと言われる者はそこここに居るではないか、下界に下りて来て浮かれているのか、意識し過ぎだ。それに“彼”はこんなに若くは無かったはず、昼にチラッと見た印象を射命丸は思い出す。若いと言うよりは幼い顔、そうであって欲しいが、そんな訳は無い。
「私がなんです? 私など、しがない御厨の居候ですからね」
「よく言う」
 御厨の居候、それにいずこかの御曹司。こんなに符合する話があるだろうか。あの面影を思い出そうとしても二十年前のこと。なんとか“彼”の素性は調べて居場所までは分かったが、今の時勢ではその存在は表沙汰に出来ないらしく、幾度かそこに赴いてみても、誰がそうであるか今まで分からないでいた。
 胸が早鐘を打つのを射命丸は感じ、堪らずに問う。
「あの、あなた様はもしや、蒲(かば)の――」
「はい、蒲神明宮(かばのしんめいぐう)に住まいます範頼(のりより)と申します。が、大変申し訳ありません、一貫坊様。名乗りは後で改めて、させて頂きます」
 彼は目の色を変えて言葉を遮り、声を落として姿勢を低くするよう促す。
 射命丸は驚き、恥じる。浮かれていて某かのモノが現れたのに気付かなかった。対して彼はそれに気付いたのだ。
 太郎は狩りの本能からか既に息を潜め、全身を小さくしつつ、いつでも跳べるように構えていた。頼景もようやく何かあったのか気付き、今まで陰になっていた腰の物に手をかけている。
「よく気付いたな」
「注意が足りません。まあ、あれだけうるさくしていたら、現れないのではとも思ったのですが」
 肝心の供物、女も無い。常なら女は白木の柩(ひつぎ)に入れて供されるという。頼景は当初はそれに潜もうとも考えていたが、ばれて柩ごと討たれてはかなわないと言う範頼の言により、その案は取り下げられていた。
 それにしても注意が足りないというのは、射命丸の耳にも痛い話であった。

 一同はひとかたまりになって本殿の東側面に回り込む、足の運びは極めて静か。本殿の角から南側の正面を窺う、誰も居ない。高欄も崩れた濡縁の下、木階(きざはし)まで三・四間(※22)、その下に身を隠しながら移動。
 木階の両側から本殿正面を見渡すが、境内にはそれらしき影が無い。
「おらぬではないか」
 声を潜め、柄に手をかけたまま頼景が言う。
 確かに誰も居ない、範頼も射命丸も見渡しながら思う。だが気配はある、それは射命丸が特に敏感に感じ取っていた。
「建物の中か、上に居るのかも知れません。気配は消えておりません」
 頼りにと彼女を連れて来た手前、頼景もその言葉を疑うわけにはいかず四周を警戒しながら歩み出す。射命丸らも続いて本殿から少し距離を取り、振り返る。
 月の明かりも射し込まない建屋の中、居ないらしいことだけは分かる。では屋根はどうか、太郎まで揃って首を上に向ける。
「……弓も持って来るんだったな」
 居た。人の形をした、明らかにヒトではないモノが。
 そのモノ――女童(めわらわ)にも見える妖(あやかし)は、忌々しげに舌打ちすると、所々穴の空いた屋根の上で立ち上がる。
「またオラに逆らうか。大人しく娘を渡していればよいのに、身の程を知らん奴らだ」
 月明かりの下、その頭に蛇の様な赤い舌が覗く。射命丸らはそこで気付く、立ってはいるが背を向けている、舌の様に見えたのは上半身をくるりと巡らせて見せた房になった前髪、頭頂には一対の小さな角。やはりヒトではないか、その容姿も加味して判断する。
 背はだいぶ小さく射命丸ほども無い。痩せこけた感はそれ以上。地獄絵図の餓鬼にも見える。
「おう、お前がここらで悪さを働いてる物怪か。悪いことは言わん、大人しく下りて来て斬られろ」
 相手が小兵と見るや強気に言う頼景。だがそれも道理、弓も無いため降りて来なければ話にもならない。ただし話と言っても刀と牙と法力と、妖術か何か。
 そうだ、範頼はどんな得物を、そう思ってそちらを見た射命丸は肩を落とす。彼は匕首(あいくち)を手に取って毅然と構えていた。そこへ、同時にそれを認識した頼景から怒声が飛ぶ。
「お主は! 物怪相手に匕首一丁とは! やる気があるのか舐めとるのか!」
「太郎だけでなく頼景殿もおられるし、一貫坊様もおられるし、大丈夫だと思ってます!」
「クゥーン……」
 他力本願、いや殺生を嫌っているからなのか、どのみちこれは拙いと射命丸は先手を打つ。
 物怪すら二人のやりとりを呆れた風に見ている。その隙を突いて射命丸は飛び、否、跳び上がる。
「せいっ!」
 屋根に足が付く前に、高さに任せて大上段から金剛杖を振り下ろす。
 妖はすんでで飛び退り一撃目は外れ、屋根に穴を増やしただけ。射命丸はすぐさま、避けた妖へ二の撃の突き。
「ぐげぇっ!」
 屋根の状態を勘案したため踏み込みは浅かったが、上手く頼景の近くへ突き落とした。後の始末は彼がやってくれるだろうと、割れた瓦を踏みしめながら文字通り高みの見物。
「人違いがあってはいかぬから、一応聞いておこう。女を攫ったり、あっちこっちの田畑で猿を使って悪さを働いていたのはお前か」
 一瞬うずくまり上体を起こす妖。そこへ頼景が一足長の間合いまで詰め、太刀の切っ先を突き付けつつ詰問する。彼の横から回り込む太郎、範頼も反対に回って包囲に加わる。
 ここで、範頼の要らぬ一言。
「頼景殿、武士とは名乗りを上げてから立ち会いをするものではないのですか?」
「御曹司……物怪相手に作法も何もあるか!」
 その言葉には納得しながら、どうにも居心地を悪くする射命丸。それは仕方ないことだが、頼景が彼の事を「ぽやっとしている」と評したのにもまた納得。
 妖は、射命丸に突かれた腹を押さえながらも、にたにたと笑って頼景を見返す。
「まさかいきなりオラを追い詰めるとは、大したモンだ。オラは猿など率いちゃいねぇよ、ああ女共は不味かったっけかなぁ」
 その言葉に頼景の感情が弾けた。
 一言も発する事無く、一歩踏み込んで必中の間合いで太刀を降ろす。
 妖がかわそうと身を翻した次の瞬間、その左の肩口から鮮血がほとばしった。それを見て、物怪ではなく範頼が「ウッ」と呻く。当の妖は脂汗を光らせながら、依然にたにたとした貌のまま。
「ひひひ、大したことは無いなぁ、やっぱり田舎侍なんぞこんなモンか」
 左半身が深く裂けている。人間なら致命傷でおかしくない深手、やはりヒトでないのは明らか。それにつけても強がるものだ、これがこの妖の性(さが)なのかと、射命丸は見下ろしながら思う。
 上への逃げ道を塞ぐために彼女はそこに留まっていたのだが、数拍をおいた今それが幸いした。
(何か、居る)
 また別の気配、太郎も目の前の妖に注意を払いつつ聞き耳を立てる。男二人はまだ気付かない。
「ひひひ、存分に参るがいいさ、どうせ――」
「蒲殿! 頼景殿! 周りに何かおります!」
「ヲン!」
 射命丸と太郎が同時に叫ぶ。
 だまし討ち。射命丸はすぐさま飛び降り、太郎共々謎の寄せ手に相対する。六頭ばかりの猿が、月明かりに赤い顔を映して別個の方向から躍りかかって来た。
 頼景がようやく気付くも、妖から目を離すわけにいかず、範頼ほか一人と一頭に背を任せる。
「謀りおったな……」
「物怪相手に作法も何も要らぬ、ではなかったか?」
 太郎が一番手近の猿の喉を一噛みで潰し、射命丸は杖を捨てて、襲って来た別の猿を独鈷杵で斬り払い、突き殺す。
「蒲殿!」
 射命丸こそ修練と身体能力でこれだけ応じられるが、刃渡り一尺も無い匕首と彼の組み合わせでは、拙い。
「ぬぉあああっ!」
 やむを得ずと見た頼景が防御に回り、範頼に飛び掛かった猿の面を振りかぶった左拳で打ち抜く。
「すいません!」
「だから言ったであろう!」
 威嚇する猿に向かって構える頼景、視線もそちらに合わせる。残りの三頭は――
「ガウッ!」
 また一頭、回り込もうと横飛びした猿を、太郎が喉笛を食い潰して仕留める。射命丸は猿たちを無視し、元凶であろう妖に迫る。左手の拳から中指と人差し指だけを立てて絡め、印を結んで法力を行使しようと、
「喰らえ」
 正面に捉えた、傷付いたそいつにそう呟く。
 しかし梵語を唱える刹那の時をおいて法力に飛ばされたのは、哀れな猿。妖が頼景と対峙していた猿の首根っこを掴み、射命丸に放って寄越したのだった。
「なんということを!」
 範頼が憤慨する横で、頼景が妖に向かい上段に太刀を構えて歩を詰める。その僅かな間に、妖は塵風(じんぷう)を纏って身体を宙に浮かせていた。それを見た残る猿も遁走を始める。
「まったく面白いなぁ……この借り、返してやらぬでもないぞ」
 言うや、塵風に姿を眩ませながら妖も飛び去った。
 もし自在に飛べたならと射命丸は舌打ちし、それを見送るしか無かった。

 一時の喧噪も去った境内には三人と一頭、それに四頭の猿の亡骸が残されていた。
 実際に対峙してみれば分かるが、猿の暴力には素手の人間では敵わない。はしこい彼奴らには得物を手にしてようやく五分。幸いなのは、こちらに即座に致命傷を負わせる術が首に牙を立てるだけ、というぐらいのこと。
――もっともこれは、太郎にも同じ事が言える――
 よくもこれだけ凌いだものだと、自身も二頭仕留めながら射命丸は思った。それより太郎、この体躯で以て素早く立ち回り、こちらも二頭を屠った。
 しかし残る男二人。
「こういう可能性もあったから手勢を揃えろと言ったのだ。あと得物、匕首で猿の群れの相手など、俺だって頼まれても御免だ」
 重ねて文句を言う頼景、立ち回りより緊張で汗びっしょりになっている。言われた範頼は、その言葉には恐れ入りつつも落ち着いた様子。
「もちろん、揃えられればそうしてました。ですがやはり、それを言ったら頼景殿こそ同じでありましょう」
 凌いだのはよしとしても、お互い一頭も仕留められず物怪まで逃がしてしまい、その上言い合い。
 武士としては情けないかも知れない。けれど射命丸にとっての範頼は、こういう人物でも構わなかった。また、太郎を見れば、今の彼がどんな人物であるかも分かる気がした。
 もっとも太郎自体は、これも射命丸にとっては、非常にいけ好かない奴ではあったが。
「い、いつまで言っていても仕方ない。こうなったからにはもう、奴はここに姿を現さないだろう。仕留め損なったのは痛恨であった」
「いえ、貴方様のお手前で深手は負わせられました。あの物怪もしばらく悪さは出来ないでしょう」
 射命丸が褒めそやすのを聞いた頼景は、誇るでも無く緊張を解いて「ふう」と息をつく。
 今言った通り、当分は襲撃も出現もまず無いだろう。ひとまず宿に戻って善後策の算段をと、川沿いの仮宿場に戻ろうということになった。

       ∴

 範頼の提案で、猿の亡骸を――射命丸は難色を示したが――境内の隅に埋め、これも範頼の頼みを受けた彼女が簡素に経を上げてから、一同は神社の境内を後にする。
 誰一人怪我を負っていないのは幸いであった、最も果敢に戦った太郎も同じく無傷。
 道々に今回の事を振り返る中、範頼があることを口にし、頼景は驚いて聞き返した。
「なんだと? 遷座(せんざ)してあそこにはどなたもおられぬだぁ!?」
「はい、つい先日の話だそうで。御祭神は新しく造営されたお社に遷られたのですが、そちらに手一杯で、未だに古いお社がそのままになっていたらしく――」
「そこにあの、よく分からん物怪が住み着いたと」
「はい。そこまでの経緯は分かりかねますが」
 確かに荒れ果てた神社であったが、遷座からそうは経っていない。範頼も荒れすぎだと見立てる。
「あの物怪が住み着いたから遷座したのか、それとも遷座したから住み着いたのかは、いずれとも」
 彼は言うが、その別はさして重要でないとも付け加える。射命丸もそれに同意。
「あそこからは神性の跡すら感じ取れませんでした。あの妖にそんな力があるとは思えませんが、これは私としても気になります」
 あくまで僧としての所見を述べる。より気になるのが、あの物怪が猿の群れを引き連れているということ。
 野生に在る者ほど力の強弱に敏感なのだ。何の故も無く、あの――手下を投げ付けて盾にする――様な痴れ者に従うとは思えなかった。
 奴はしらばっくれてはいたが、猿を率いているのは間違いない。しかし彼奴自身はさほど強くない模様。これはどう解釈したものか。
「どうも、気になりますね」
 いくらか思惟を巡らせてから再度呟く。
「その件は後ほどじっくり話そう。それより一貫坊殿、お許(もと)、こや……御曹司を知っておられるのか?」
 劇的な再会ではあったが、余りにも劇的に過ぎてまともな名乗り合いすらもしていなかった。
 射命丸の顔に、本人が自覚できるほど血が多く通い、熱を発する。これが太陽の下であったら、紅潮しているのが二人に見えたことだろう。
 唐突な頼景の問いで戻って来た胸の高鳴り、発しようとする言葉も詰まる。
「あ、はい、いえ、蒲、殿。私は……」
 何と言って良いのだろう、ずっと姿を求めていた彼と、偶然に偶然が重なって、いつの間にかこうして共に歩いているとは。それに昼間にあのようなことまであって、本当に何から言い始めれば――
 その様にどぎまぎとする射命丸を頼景は不思議がり、もう一度声をかける。
「どうしたのだ? 一貫坊殿」
 それを助けにして、彼女は深く呼吸をする。
「失礼しました。蒲御曹司とお見受けし、改めてご挨拶をと。私はあの場にて申し上げましたとおり、秋葉寺の僧、一貫坊。名を射命丸、と申します」
 あまり気に入っていない名まで伝えたのは、これが彼との縁を結ぶ物でもあるからであった。そして彼女の心のどこかには、気付いて欲しい、貴方が助けた鴉はここに居るのだ、と期待するものもあった。無論、妖だと知られれば側には居られない。そう知れるのが拙いのは、普段から当然承知している。それが不明になるほど浮かれてしまっていた。
「射命丸様、良いお名前ですね」
 また何かが射命丸の胸を突き上げる。気に入っていなかった名も、彼に褒められて好きになれる気もした。
「確かに良い名ですが、そう言えば俺には名乗って下さらなかったな」
「頼景殿、そこはまあ事情もおありでしょうから」
 範頼はにこりと、頼景はしれっとした様子で言う。
 傍目には彼ら二人は言葉は普通に交わしている様に見える。しかし裏腹に、発言の度に互いの注意を寄せつつ、目配せで別の気持ちを通じていた。
(合力を仰いだのは俺だが、平家の者かも知れぬ)
(大丈夫でしょう。ここはひとまず……)
 これには射命丸も気付かない。それほどまでに目配せは自然で、所作も僅かであった。
「昼は大変なご無礼をいたしました、お怪我されなかったかと案じておりました。これ以上ご挨拶が遅れるのも失礼でしょう。私は蒲範頼(かばのりより)と申します」
 射命丸は知っていた、知らないはずが無い。あえて本当の氏を伏せる理由も分かっている。翼を捨ててこの姿に変じ妖となった事、その後の長きに渡る修行。この二十年の全てが報われた。
「範頼様、本当に、本当に良い御名です……」
 顔色こそ見えずとも彼女の異常に頼景は気付き、初々しいことだとにやにやする。彼は、御曹司という人物かこの甘い面にやられたのだろうと誤解していたが、初々しいことに変わりは無かった。
 また、射命丸に害意は無いであろうことを、これは範頼と頼景が先程と同じ方法で確認し合った。

 当たり障りの無い歓談を交わしつつ宿場に着いた頃には、既に夜半を回っていた。今夜は各々の宿へ、夜が明けてから渡しの船場で落ち合おうと範頼が提案する。射命丸も同道したかったが、それには三尺坊の許しも要る。
「私は所用もありますゆえ、もしかしたらご一緒できないかも知れません」
 その時は二人で天竜川の向こう岸へ、殆どその前提で射命丸は内心諦めて言う。範頼の顔は知れたのだ、彼女にはこれだけで十分であった。次に機会があれば、誰彼と違える無く会えるのだから。

       ∴

 粗末な宿で払暁の時を迎えた射命丸は、そこらに居た鴉を呼び寄せて三尺坊への使いを請う。上空に雲はあるが、風は殆ど無い。預けた文は道程が尋常であれば、半刻余りで秋葉山の三尺坊に届く。
 飛べばすぐ、かつては己もそうであったのにと、彼女は少し懐かしく思った。
 予想よりも早く、およそ半刻もしないうちに三尺坊から術が飛ばされて来る。
《先ず、件の妖の始末については分かった》
 ここしばらくは当地周辺に留まり偵察を続けるか、共闘した侍に付いて回ることが可能ならそうせよ。恐らく彼らもそいつを除くために動くであろうから。
 射命丸にとっては願ったり叶ったり。ただし、そこまでさせる理由があるということでもある。
 あの妖は一体何者なのだろう。
 秋葉山は遠い。さしもの三尺坊も射命丸の声は聞けないし、彼女はこの術が扱えないから使いを飛ばしたのだ。それを尋ねるにはまた一手間を挟むことになる。
 しかし指示に続けてそれはもたらされた。
《その妖の正体、何故猿を率いていたかは分からぬが、お前の報告が確かなら恐らく天邪鬼だろう》
 天邪鬼、それを聞いて醜悪な性分とろくでもない所業には納得。ただ、そこまで重く見るべき相手とは思えなかった。
 姿さえ現せば退治は容易であろうか。それがいつになるか、無期限にこちらに留まることになりそうだ。そう期待と不安半々に、今後のことに思いを巡らせた。

 夜が明けて一刻ほど、船場の開く前にそこへ集う範頼と頼景、それに太郎。彼らはなるべく射命丸を待つつもりでいたが、彼女は一番の渡しが出る前に合流。
「こちらの用は済みました。それと秋葉寺からは引き続きあの妖の探索をせよとのお達しが下っておりまして、ここしばらくはこちら側にもと」
 言ってから射命丸は、はてと思う。何故三尺坊は彼らに付いて回れと言ったのか。
 範頼は天竜川西岸の住まいだし、頼景は東遠。天邪鬼の根城を見附周辺と見るなら、己を彼らに同道させず磐田に止めるべきだったのでは、と。使いに託した文には記したのに、三尺坊には二人の事が伝わっていないのか、彼の思慮不足かとも疑う。
「お、渡しが出るようだぞ」
 もう一つ、何故この渡し船にその頼景も乗るのか。船頭が河原を棹で押し、船が川に漕ぎ出しても彼が乗っているのを見て、射命丸は思った。

 他に十人ばかり客を乗せ、船は無事対岸に到着する。
 渡し船では、巨大な山犬の太郎は注目を集めた。これは客が皆旅の者ばかりだったからだ。却って船頭などは慣れた風で、気にも留めていない。
「御曹司、まずは太郎を主人の元へ帰しに行くか?」
 帰しに行く。その言葉に射命丸は首を傾げる。なかなかの凶暴ぶりなのに、範頼の言う事はあれだけ聞くのだ、当然彼が飼い主であると見ていた。
「そうですね。持参したい物もありますので、神明宮の、門前まで行ってからすぐにそちらへ。そう言えば頼景殿、今日は徒(かち)ですか?」
 常は徒歩ではなく馬、武家であればそうだろう。
「渡し賃もかさむからな。こっちではいつも、馬を借りるでなければ徒だぞ」
「いっそ馬で渡ってしまえば良いでしょうに」
「そんな事をして捕まりたくはない」
 実に現実的な理由に、なるほどと射命丸はうなずく。そして、そんなこんなと雑談を交わしているのを聞きながら、頼景という人物についても大体は分かってきた。
 相良氏は相良荘を拓いた古い家。長子の彼は、父であり今から先々代の家長であった相良三郎頼繁(よりしげ)の跡を一旦は継いだ。しかし頼景は庶子であり、その後、今もって存命の父と血筋明らかな後妻との間に生まれた弟が嫡男とされ、家督を譲らされたのだ。
 射命丸もそれを聞いて、彼が次郎が四郎だと言っていたのが納得できた。
 その弟はまだ生まれて間もない赤児だが、既に名が与えられ、父頼繁の三郎も継いで三郎長頼(ながより)とされている。彼はそれと同時に次郎から四郎へ、頼景と長頼の間にももう一人弟がいるが、その弟などは元は三郎だったのが七郎になってしまっている。
 七郎のくだりは範頼も知らず、驚く。
「三郎殿、そんな事になっていたのですか」
「混乱するからあいつも名で呼んでやってくれ。あと、頼綱(よりつな)の奴は相変わらず元気だ、気にしてやるな」
 本来長男である太郎や、六男まではどうなったのか。異腹の兄弟なら頼景の知らない時分に亡くなっていても不思議は無いが、それは射命丸も聞くのを憚った。
「ときに一貫坊様」
「は、はい!?」
 範頼に急に話しかけられ、声をうわずらせながら応じる。
「率直に伺います。あなたは平家の者ではない、これは間違いありませんね」
「それは無論、天地神明にも、我が山の開祖三尺坊権現に誓っても」
 これは何ら謀る事も、憚る事も無く言えた。
「良かった」
「お主、ここまで来てそれを問うか……」
「クゥーン……」
 やはりどこか抜けているのでは、射命丸も不安がる。
 渡しから上がり東海道(とうかいどう)の往来を西進して半刻、正面に分岐路、往来は若干南へ向折れる。この分岐路を真っ直ぐ行けば、十町(※23)も行かずに彼の住む神明宮に着く。これは彼女も知る道程だった。
 脇道――とはいえ広い――に入ると何故か太郎が先頭に立って進む。まるで案内役でも勤めているかの様に。
(そう、ここだ)
 射命丸は、見え始めた、幾度か訪れた神明宮の外郭を、今日だけは特別な心持ちで見る。
 かつて彼に救われた時の事を、今こそ強く思い返していた。

     * * *

 当地は蒲御厨(かばのみくりや)と呼ばれ、源姓流蒲(かば)氏を御厨の責任者である惣検校(そうけんぎよう)とし、この神明宮も同じくそれを冠して蒲神明宮とされる。
 また、遡って二十年前の宮司は藤原季範の類縁、前勘解由丞(かげゆのじよう)(※24)の季成(すえなり)が勤めていた。
 かつて鴉であった頃の射命丸を助けた少年は、元服した後ここに戻り、蒲冠者(かばのかじゃ)とも称されるようになった。

 左馬頭(さまのかみ)(※25)源義朝が六男、源氏の御曹司たる蒲冠者。
 源範頼と。



第1話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

※1 信濃国:現在の長野県周辺、信州と同義
※2 遠江国:現在の静岡県西部地方
※3 神人:雑役を行う下級神職。僧兵の様に、神社における武装勢力としての役割も担う。
※4 水干:平安時代に男子が着た簡素な装束
※5 里:ここでは便宜上、1里は約4キロメートル。10里で約40キロメートル。
※6 清和天皇:嘉祥3年~元慶4年(西暦850年~同881年)。第56代天皇、在位天安2年~貞観18年(858~876)
※7 桓武天皇:天平9年~延暦25年(737~806)。第50代天皇、在位天応元年~延暦25年(781~806)
※8 公卿:大臣あるいは三位以上の官位を持つ、公家の中でも特に位の高い人々
※9 庶長子:正室では無い、もしくは父と正式な婚姻関係に無い母から生まれた長男。跡継ぎとしての優先順位が低い。
※10 御厨:神饌(しんせん)を調進する場所。ここでは転じて、有力な神社が持つ荘園(神領)の事を言う。
※11 シテ等:能や狂言の演者。シテ(仕手)は主役。ワキ(脇)は準主役か主な脇役。ツレは助演者、もしくはシテの相方
※12 観阿弥:正慶2年~至徳元年(1333~1384)、室町時代の猿楽師。能を大成した人物
※13 世阿弥:正平18年~嘉吉3年(1363~1443)、室町時代の猿楽師。観阿弥の息子
※14 越後:越後国(えちごのくに)、現在の新潟県周辺
※15 国衙:国府の中核にあり、官人や役人が行政を行う役所群
※16 狒々・猩猩:狒々は大型の猿の様な妖怪。猩猩は人の顔と足を持ち、2本足で歩く妖怪
※17 池田宿:旧池田宿の地域は、現在天竜川東岸に位置しているが、かつては川の流れの関係で西岸にあった。
※18 狩衣:狩りの際に着る事から名付けられた、平安時代の貴族の普段着。やがて神職の常装となった。
※19 直垂:当時は主に武家の、男性の普段着。時代を下ると正装として扱われた。
※20 尺等:1尺は約30センチメートル、1寸は約3センチメートル、1分は約3ミリメートル。身長(恐らく男性の)は5尺を基準に、足す分だけを数えた。
※21 天神:ここでの天神様は菅原道真の神格。非業の死を遂げたため、祟って内裏の殿舎(清涼殿)に落雷させたとされる。
※22 間:1間は約1.8メートル。
※23 町:ここでは便宜上、1町は約110メートル。
※24 勘解由丞:勘解由は地方行政の監査官。丞は判官(はんがん/ほうがん、四等官のうち上から三番目、従六位下相当の官)に当たる。
※25 左馬頭:軍馬、兵馬を飼育する左馬寮を統括する官職。従五位上相当官で、源義朝が拝命した当時としては、事実上武家の最高職

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この小説へのコメント

  1. 今までの方と違い、歴史要素が強く新鮮でした。次回も楽しみにしています。

  2. 信濃の疾風(しっぺい)太郎の伝説の裏にこんなやり取りがあったんだなあって思うと続きが気になります!楽しみにしてます!

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