東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編   木ノ花中編 第1話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編

公開日:2016年03月31日 / 最終更新日:2016年03月31日

あらすじ

 ある時、怪我を負い、幼少の『蒲冠者範頼』に助けられた鴉が居た。鴉は秋葉山の三尺坊権現の下で鴉天狗に転化し、『射命丸』の名を与えられる。
 二十年の時が過ぎ、磐田見附の天神社に現れるという怪異を退治しようと赴いた射命丸は遠江相良の元領主『相良頼景』と出会い、大きな山犬『太郎』を連れた範頼との再会も果たす。
 怪異『天邪鬼』の退治は成らなかったが、射命丸と太郎の奮戦で撃退には成功し、太郎を飼い主の下へ連れて行く一行。飼い主は池田荘荘司の娘、『ゆや』という少女であった。
 ゆやは、遠江の国府へ逗留していた『平宗盛』に謁見するが、その後宗盛の帰京と共に攫われてしまう。太郎がそれを救おうとした時、射命丸が範頼とゆやの仲への横恋慕から邪魔し、結果太郎を死なせてしまう。
 直後、ゆやに助けられて池田荘司邸に居た妖、土蜘蛛の『ヤマメ』が彼女を救わんと吶喊するが、叶わず、行方知れずとなる。
 何とかしてゆやを取り戻そうとする範頼。正気に戻った射命丸は、彼の思いを成し遂げさせる事に一身を捧げることを決意する。
 兵を起こして平家を倒し、ゆやを救う決心をした範頼。これを頼景の弟『頼綱』と、かつて範頼を京へいざなった老武士『勝間田次長』が助け、鎌倉の忠臣『藤九郎盛長』のもたらした令旨を受けると、鎌倉に在する範頼の兄『源頼朝』の下へ参じる運びとなった。
 鎌倉入りの直前、一同は番兵を勤める囚人の『梶原景時』とその嫡男『景季』に止められるも、盛長によって事なきを得る。その鎌倉ではお目付役の名目で、範頼と頼朝ら兄弟の父にも仕えていた侍、悪僧土佐坊昌俊こと『渋谷金王丸常光』が参じ、彼らは頼朝から賜った領地横見へ向かう。
 季節の巡ったある日、横見に近い石戸観音堂。境内の桜の木の下に、獣の耳と尾を持った少女が現れ、範頼達はそれを太郎と認めた。彼女は望み通り直後の戦に加えられると、めざましい活躍を見せたのであった。
範頼から当麻の氏を授かった太郎は、郎党として彼らに伴われ鎌倉に入ると、頼景と共に、頼朝の供回りである『結城朝光』、そして『木曾義仲』の嫡男『清水冠者義高』と出会い、交流を深める。
 だが鎌倉は、後白河法皇より義仲の追討院宣を下されると、それに従って彼を討ち滅した。
 その陰で射命丸と太郎は、ゆやを救い出すのであった。






 十六./箙の桜・前(第129季,西暦1184年)

博麗神社の能舞台で演じられる能。
 ここまではシテもワキもそれ以外も、こころの独演であった。今その舞台には椛が上がっている。
 四拍子の囃子は、堀川雷鼓とリリカ・プリズムリバーの二人の能力と技巧に依る。
 演目は、勝修羅『箙』。本来の番立て(※1)を崩したこの舞台の意味が、居並ぶ観客達にもようやく分かってきた。それらはかつての源平の合戦の足跡を追う物であったのだ。
 ただしどれもがその時その場面を追う物では無い。例えばこの箙などは、全てが終わった後の事。シテでもあるその武者の霊が、過日の戦を語る物である。
 また修羅物(※2)はおおよそが負け戦を扱った物であり、その内で勝修羅は僅かに三題だけ。
『箙』の他、征夷大将軍として戦った坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を謡う『田村』、そして――この後上演が予定されている――『八島』。その屋島で武を尽くしたのは、悲劇の英雄源義経。
 いずれも歴史に大きく謳われる武人。それに並んで、華々しく駆けた“彼”が、箙では謡われる。
(今、それを己が――)
 椛は思い浮かべながら、かの武人さながらに水干を身に纏い、しかし面(おもて)は付けず、囃子の響く中を一歩踏み出す。
 客席には妖怪の山から報道名目で下りて来ている文が、またその横には、彼女が無理を押して地下から招いたヤマメの姿もある。
 舞台の椛は、腰を落として片膝になり、目を閉じる。

 昔、むかしの話。
 椛と文ではない、当麻の氏を授かった元山犬の太郎、そして飛び始めたばかりの鴉天狗、一貫坊射命丸。彼女達がかの人々と共に駆け抜けたのは、遙かに八百年以上も前の事である。

       ∵

 義仲との合戦の最前線となった瀬田の遙か後方、源氏の軍が後陣を構える草津宿。そこでも一等大きい宿、源氏勢が前進する前に本営を構えていた長屋。
 ゆやを六波羅館の焼け跡から救い出し、そのままここにいざなった射命丸。今は一人黙想し、自省していた。
 ゆやが、己が身のあらゆる不具合を押して、ただただ会いたい、生きている姿だけでも見せたいと願っていた人物――他でもない範頼との再会を、自ら拒んだのだ。
 池田荘に居た頃は天真爛漫としていたであろうゆや。六波羅館の焼け跡で邂逅を果たした彼女は、今は痩せ衰え、かつての見る影も無い姿になっていた。何より心に負う傷は大きいであろうことは、例え本人が話さずとも、射命丸には嫌でも分かっていた。
 憤りと自身への呵責を胸に押し押しんだ射命丸は、あと少しでゆやに会うためにここに訪れる範頼、共に来るであろう頼景ら、――今やとても親しい仲である彼ら――を、じっと待つ。
 長屋を囲う簡素な壁の向こうで数頭の馬の蹄の音が鳴る。夜が明けて未だ一刻も経っていない時分、範頼達であろうかと身構える射命丸。しかし蹄の音はそのまま遠ざかって行った。
 連絡に走る兵も多い、それらの音が聞こえる度、いちいち身を固くする射命丸。いつの時も側に在りたいと願っていた彼の来訪が、今は堪らなく恐ろしかった。
 恐ろしいのは己の行く末では無い。
 秋葉山の三尺坊権現から与えられた天邪鬼調伏の命令など、もはやどうでもいい。ゆやは救い出した、後は人間の世のやり方、合戦で平家を討ち果たせばそれでよいであろう。あの日の過ちをここで白状し、己はここで討たれてもいいのだ。
 射命丸は本気でそう考えてすらいた。怖ろしいのは、ゆやと範頼の仲が、望まれぬ結末を迎えることであった。穢され切った彼女を、あの優しい彼が拒むことを。
 また馬の足音。今度こそ宿の側で止まった。馬を厩に繋いでからここに現れるのは誰か。範頼である事を信じる射命丸。
 そして今度こそ、その通りに彼らが現れた。
「御免。おお、如何しました、一貫坊殿」
 入ってすぐに、宿の者よりも先に射命丸を目にした頼景が、そう驚くのも当然であった。
 彼は昨日憔悴していたのが嘘の様に、いつも通りにおどけた風にしている。
 義仲との戦の直後、次長とも同道してゆやを迎えに行った彼は、ゆやがどんな有り様なのかを目の当たりにしていたし、それ以前から非道く沈鬱な様子を見せてもいた。それでもだ。
「頼景殿、蒲殿は?」
 静かに問う射命丸に、彼もまた静かに答える。
「すぐ来ます、今は緊張で息を整えている所だで」
 大津に構えた陣で、軍監の景時に散々なじられながらもここに来た事を、頼景は人相の悪い彼の男の顔や声を真似た上、身振りを交えて伝える。
 そこまで期待しているのだ。射命丸は堪えきれなくなるほど胸が苦しくなるのを感じる。
「そう、でしたか」
 当然の事。この時の為に鎧を身に纏い、弓を携えて蒲御厨より立ったのだから。
 話し込みながらも宿には上がろうとしない頼景。彼も待っているのだ。
 そしてその後ろから、ついに範頼が現れた。
「一貫坊様、お話は頼景殿から聞きました。本当に、有り難うございます」
 ゆやを攫わすに任せ、太郎を死なせた張本人である己には、その様な言葉を掛けられる謂われすら無いのに。それに、今からその喜びを打ち砕く事になるのに。
 射命丸は意を決して口を開く。
「蒲殿、ゆや殿には、会わせる訳にはいきませぬ」
 彼女自身が拒んだ事は伏せ、己の勝手でそうするかの様に言う。
「一貫坊殿、それはどういう事ですか?」
 頼景が範頼に先んじて問い糾す。ゆやはボロボロの体で、――射命丸の助けを借りてではあるが――馬に乗ってまでしてここに来たのだ。彼は責めるのではなく、不思議に思って問うている。
 理由ならいくらでもでっち上げられる。だが射命丸は、一切偽らぬ道を選んだ。
「今、そうする訳にはいきませぬ」
「一貫坊殿、ゆやの身に何かあったのですか!?」
 昨日以上に何かあったのか、頼景はそう不安がる。
 射命丸はすぐに首を振ってから、落ち着いて答える。
「いえ、お食事もとっておられますし、お体にも不自由はありません。それに太郎も側に付いております。しかし――」
 それ以上の事は無いのだ。
「会わせる訳には、いきませぬ」
 頼景も薄々察していた。
 昨日は、ゆやが意地でも範頼に会いたいと言ったのは分かっている。あの時は彼に会える嬉しさが勝っていたのだ。しかし一夜明けてみて、落ち着いて己が身の上を省みる事が出来たのであろうと、そう考えた。
 何の縁があってかは分からないながらも、あの堅物の年寄りの次長が、ゆやの姿を見て怒りの余り半狂乱になったほど、それほど惨い有り様であったのだ。
「な、蒲殿、だから言ったであろう、そう急(せ)いてもしょうが無いと」
 苦笑しながら言うが、その貌は範頼以上に悲しげでもある。ここは一旦退散しようと続けて言う。
「分かりました。一貫坊様、ゆやの事、何卒、何卒よろしくお願いします」
「はい、承知しました」
 射命丸には、三つ指突いてそう答えるのが精一杯。それをして範頼達は、踵を返して厩へ向かう。
 厩に止められた彼らの馬や武具を見た宿の者が慌てて出て来た頃には、二人とも出て行くところであった。

 射命丸の行動がどこから出て来たものか、読み取れぬ範頼では無かった。無理を押して来たのに会えずじまい。彼はその様に腹を立てる事も無く、寂しげにただ手綱を握って馬を歩ませる。
 抜けた所がある人物ではあるが聡い、やはり悟った事であろう。こちらもまたそう察した頼景から、ここに至って詫びの言葉が紡がれる。
「蒲殿、すまぬな」
「何がですか」
「その、ゆやが壮健であるなどと偽って。一貫坊殿は、ゆやの事もお主の事も思って、あの様に言ったのだ。だからな、俺の事はどう思おうとも、一貫坊殿は嫌ってやるな」
「承知してます。頼景殿だって、そうでしょうから」
 無理に微笑んで言う範頼。
 射命丸の心遣いは通じていた。頼景はそれを知れただけで、少し救われた気がした。

 範頼達の帰りを見送り、ゆやの元へ戻る射命丸。その顔を見る事すら辛かったが、目を背ける訳にはいかなかった。
 部屋の隅で小さくなって座るゆや、側には太郎が寄り添っている。
 射命丸は腰を落として言う。
「ゆや殿、蒲殿と頼景殿はお戻りになられましたが、これで、よかったのですか?」
 その言葉を聞き、ゆやは身を強ばらせる。静かに、務めて優しく言ったつもりであった射命丸は、より気遣って続ける。
「二人とも、貴女の事をとても気に掛けてらしたご様子。であれば、ここは落ち着いて養生なさって下さい。そうすれば平家との戦が終わる頃には会えるでしょうから」
 射命丸にだけ見える様に太郎が歯を剥き、射命丸もそれを認める。
「よくも、いけしゃあしゃあとそんな事が言えるな」と言う代わりの無言の抗議。当然の怒り。
 その太郎が、ゆやが攫われようとした時の、池田荘で己が天邪鬼に射られて死んだ時の顛末を伝えたのか否か。射命丸には分からなかった。伝えていたとしたら、この怯え方にも納得がいくか。射命丸は、いずれであっても今はともかくと続ける。
「宿の者にはいつでも風呂を使える様にするよう言いつけております、よろしければそちらを」
 ゆやはゆっくりと一回だけ頷くと立ち上がり、太郎がそれを支える。
「太郎、お前は――」
 彼女はそう言おうとした射命丸に顔を向け、今度は思い切り牙を剥き、眉間や鼻っ柱に皺を寄せて威嚇する太郎。
 お前に何も言われる筋合いは無い、と言う事か。射命丸はそう理解して黙って見送り、二人が風呂(※4)に入った頃を見計ってから、同じくそちらへ向かった。

 間を置いて射命丸が訪れた湯殿の前には、ゆやが着ていた襦袢と太郎の直垂が畳まれていた。脇には湯帷子がもう一式。太郎が来てしまった分足りなくなったかと考えていたが、彼女は湯帷子を着ていないらしい。
 昨日までは着古した襤褸を纏っていた、今は上等な絹の衣が潤沢にある。絹布(※3)は遠征の先で必要物資を揃えるための鎌倉勢の持ち物であったが、それを拝借して衣と替えたり、その物を仕立て直したりしていた。
 ゆやはどうやって六波羅館の焼け跡で生き延びていたのであろう、射命丸の当初よりの疑問であった。ただ、少なくとも火に巻かれた様子が無いのは、僅かに安心した点でもあった。
 小袖を脱ぎ、湯帷子(ゆかたびら)(※5)に着替えて湯殿へ歩み入る。
「失礼します」
 戸を開けると、風呂の蒸気が外まで漏れ出す。窓からの光で暗くはないが、焚いたばかりの存分な蒸気が視界を塞いだ。しかしその向こうで何かが激しく動き、小さな悲鳴が上がったのを聞き逃さなかった。
「ゆや殿、どうしました」
 湯気を払って近付く射命丸に、ひとかたまりになったゆやと太郎の姿が目に入る。
 ゆやは怯え、太郎にしがみついていた。
「ゆや?」
 問い掛けるものの答えは返らない。ただ口元は動いている、何を言っているのだろうと射命丸が静かに近付き、聞き耳を立てる。
 彼女はひたすら「ごめんなさい」と、何かに詫びていた。
 宗盛に――だけでは無いであろう。
 男女の別を問わず、ゆやの様な身の上に陥った者が受ける仕打ちなど決まっている。彼女と同じく連れ出された少女しずも、同じ目に遭った事であろう。
 射命丸は胸が悪くなり、思惟を止める。
 ゆやはそれ故に、頼景も次長も男という男は誰も、一定の距離より近付くのを酷く拒絶した。あれほど望んでいた範頼との面会を拒んだ理由の一つでもあろう。
 彼女がこうなった責任の一端は己にもあるのだ。射命丸は、今日だけでも何度目か分からぬ悔恨の念にかられる。しかし、
「ごめんなさい、一貫坊様、ごめんなさい……」
 不意に名を呼ばれた射命丸は、困惑しつつ「え?」と声を漏らすのが精一杯であった。
 何故己に詫びるのか。池田荘での事を知ったなら、そこらにある得物を持って己を害そうとするだろうに、心のどこから詫びの言葉が出て来るのか。ゆやは錯乱し、認識がおかしくなっているのかも知れない。射命丸はそう思い、また一歩近付いて問う。
「ゆや殿、安心なさって。ここには太郎も居る。貴女を守る者は在っても、害そうとする者は決して居ないのですよ」
 それを聞いた太郎は遠慮無しに唸る。「グルル」とどんな獣よりも低く思い声を、細い喉から発していた。
「違うの、一貫坊様、違うの……」
 違う? 何がであろうか。射命丸が問おうとする前に、彼女は続ける。
「私は、熊野の神様から命を授かったのに、そのお使いの一貫坊様を、蔑ろにしたりしたから」
 ゆやはいつの間にか泣き出していた。射命丸が最後に見た時と幾分と変わらぬ、成長せぬままの背格好ながら、顔立ちだけは随分と大人びていた。それが今は、あの時より幼い童の様に、泣きじゃくっている。
 やはり錯乱しているのだろうかと、射命丸は不安になる。
「熊野の神様から? 何を言っているのですか?」
「一貫坊様は、鴉の天狗様なのでしょう?」
 それについて恐れを抱いている様子では無い、射命丸の困惑は深くなる。
「え、ええ、そうですよ。ゆや殿――」
 彼女の名を呼んで、はたと気付いた。
“ゆや”の名、“湯屋”などではなかったのだ。
「そうか、貴女の名は、熊野(ゆや)……」
 泣きながら頷くゆや。太郎は唸るのを止めて口を結び、睨むのを止めてジッと射命丸の目を見る。今更気付いたのかと、責める風な眼差しで。
「ごめんなさい、一貫坊様。熊野の神様のお使いなら、ちゃんとおもてなししなきゃいけなかったのに、私、範頼様と仲良くしているのを見て、だから……」
 かつてのゆやの態度。何のことは無い、年頃の娘が抱く恋慕と、年相応の、それ以上の深い意味など無いただの意地悪でしかなかったのだ。
 不幸があったとすれば、遠江国に宗盛が長逗留していたこと、射命丸が天邪鬼の気に当てられた事、宗盛に天邪鬼が憑いたこと。発端はそれだけであった。
 思えばこの子は優しい子だ。太郎の懐き方を見ればよく分かるし、何より、さ迷っていたヤマメを救ったのも、襤褸を纏い飯にも困っていたしずを庇って飯と良い名を与えたのも彼女であった。己の手の届く限りだけでもなんとかしたいと思ったのだ。
 範頼とよく似ている。素直にそう思った射命丸に、ゆやは己の生い立ちを少しだけ語り始める。
 彼女の母の藤が、子を授からないことから、熊野へ詣でた時に願を掛けたのが始まりであった。それから間もなく藤は身籠もり、池田荘司邸にてゆやは生まれたのだ。太郎と時を同じくして。
 しかしここでまたひとつ、範頼を彷彿とさせる出来事が語られる。
「父上は、本当の父上ではないと、母上から聞きました。本当の父上は、この世に亡いと……」
 宗盛に刺殺された池田荘司、故藤原重徳の事。だからこそ、ゆやを宗盛に差し出したのか。
 いや、重徳も悪人ではなかった。これもまた近隣の百姓の姿を見ればよく分かる。ゆやを宗盛に差し出したのは、飢饉を察知していた彼が何かしら便宜を宗盛から引き出す為でもあり、また妾でも京でなら良い暮らしが出来ると考えていたからであろう。
 範頼は生まれて間もなく母から離され、京の――今は院近臣を務める――藤原範季の元で一時期を過ごし、帰ってみれば母は死んだと聞かされた、と言っていた。
 いずれも何と辛い星廻りに生まれたのであろうか。射命丸はこの様な人物に為した己の余りも愚かな行いを更に恥じ、同時に忸怩(じくじ)たる思いを覚える。
「だから、だからごめんなさい、一貫坊様」
 その言葉を聞いた射命丸は、堪らず彼女を抱きしめ、語りかける。
「大丈夫ですよ、ゆや殿。本当に神様が怒っていたら、私が蒲殿と一緒に助けに来る事も無いでしょう?」
「……はい」
 己は太郎共々、本当ならゆやを守るために知らず知らずのうちに遣わされたのかも知れない。だのに、あろうことかあんな物怪になぞやられて“ひっくり返されて”しまった。
「それに、私は鴉天狗ですけれど、鴉であった頃は熊野権現様のお使いもしたことはありますけれど、こうなる前は死にかけていた、少し長生きしただけの鴉だったんです」
 ありふれた妖怪もどきの一羽だっただけだから、大した事は何も無い、安心させるつもりで言い添える。
「でも、やっぱり失礼な事をしたのだから、一貫坊様はお怒りになって……」
 やはり心根の良い娘なのだ。どうしたらこの気持ちをほぐすことが出来るだろうかと考えを巡らす射命丸、不意にある人物が思い浮かんだ。
「そうです、私が怒っていない事の証拠に……私の事はこれから、射命丸と呼んで下さい」
 神事の流れ矢に射落とされた事、それに半人前という意味の“丸”を加えて三尺坊が付けた名。本当は嫌いな名、でも範頼が「良い名ですね」と褒めてくれたから少し好きになれた名。彼がごく希にそう呼ぶ他は誰も、名付けた三尺坊ですら滅多に呼ばない名。それをこの娘には呼ばせようと。
 これは頼景が、誰に対しても己の事を相良殿や四郎殿などではなく、ただ頼景と呼ぶ様にと言っているのを思い返し、考え付いたのだった。
 浅はかかも知れない。しかし今、彼女に対して出来ることはこのぐらい。今の射命丸が尽くせる、精一杯の心であった。
 そしてそれは、ゆやに通じた。抱きしめる射命丸の腕の中で、彼女の身のこわばりが解ける。
「有り難う、有り難うございます、射命丸様」
「様はいらないですよ。と、私も貴女の事を、ゆやと呼び捨てにしても良いですか?」
 太郎に対しては端(はな)からからそうしている。こちらは――とてもでは無いが――敬称など付ける相手だと思えないからだ。しかしゆやには、最大限の親しみを込めてそうさせて貰いたい、故にそう願った。
 これは射命丸こそ許しを得たいからであった。あの時の顛末は知らせていない、そして太郎からも知らされてないであろう。そう、卑怯であると自覚しつつも。
「射命丸、様。駄目です、やっぱり射命丸様とお呼び致します。でも、私の事は呼び捨てにして、太郎に話す様にお話しして下さい」
 彼女は射命丸と太郎の仲を誤解していた。喧嘩するほど仲が良い、では無い、その間柄は仇とそれを討つ側。平家との戦いの間の今だけ、天邪鬼を討つまでの間だけ共闘しているに過ぎない。
 スンと太郎は鼻を鳴らし、困惑の眼をゆやに射命丸にとそれぞれ向ける。己はコイツと親しい訳では無いのに、そう言いたげではあったがそれも束の間、
「クゥーン、ヲン」
 何を言いたいのかは分からないながら、ただその顔が安堵した風なのだけは、二人に読み取れた。
 元から姉妹の様であったゆやと太郎、そこに今、射命丸も加わったのであった。

 午から未辺りの刻、大津宿(おおつしゅく)に移された鎌倉勢本営に、草津宿から帰り着いた範頼と頼景。
 彼らを先ず迎えたのは、範頼の遠出を訝った景時や侍大将の常胤ではなく、口うるさい次長でも頼頼綱でもなかった。
「一貫坊射命丸、ただ今戻りまして候」
「ヲフ!」
 馬よりも早く飛び、あるいは駆けられる二人は、彼らに先んじて太陽が上がりきる前には戻って来ていた。
 ゆやは、己はどうでもいいから存分に駆けて来て欲しいと、二人に範頼の助けとなる事を願った。
「射命丸様……」
「朝は本当にすいませんでした。しかし、ゆやは強い娘であります、大丈夫です」
「……はい」
 範頼は静かに目を閉じる。
 幾度思った事か。これは彼が望む事でもあり、しかし望まざるべき事でもあった。相反する気持ちが彼の胸中に反響する。
 ただ一つだけその胸の内で確かな事は、嬉しいという感情であった。

       ∴

 義仲追討の後、後始末と言うべき事が多く残っていた。
 まず取りかかるべきは治安の回復。朝廷が機能不全に陥り、治安を維持するための実効的な組織も、民草から公家、武家をとりまとめる行政も、一切がまともに動いていない有り様。
 辛うじて京に止まった院が――平家が幼帝と共に持ち去った三種の神器も無いまま――新帝を践祚(せんそ)(※6)させて今に至るが、そもそもその中枢機能自体の多くが、清盛存命の内に平家にすげ代わっていたのだ。
 当面、武士崩れの野盗の跋扈が最も厄介で、鎌倉勢の柔い腹――重要な輜重の隊にも実害を与えかねない。まずはその取り締まりが必要であり、本来検非違使(けびいし)(※7)の役目の一つであるこれには義経が当たっていた。
 木曾勢を破った後、真っ先に参じて院の身を確保した義経。彼は搦め手勢の中でも特に頼りとする手勢と共に、警護名目で院御所に止まっていた。
 ここで、もう一人の総大将である範頼の他、数名の主立った将も院参する運びとなった。
「源朝臣、九郎義経にございます」
「同じく、範頼でございます」
 範頼、義経共に無位。相手が天子であり、内裏の清涼殿であればそもそも立ち入る事すら許されないが、幸いにしてここは法住寺という寺であり、彼らの目の前に居る院は実質的に国を治(しら)す治天の君、仏門に帰依した法皇。
 範頼らが参じるより前に、院と近臣は合議を持っており、その宣下を直にしようというのだ。
「うむ、大層ご苦労であった」
 言ったのは院本人ではない、その側に控える三位中納言藤原朝方(ともかた)である。院本人はニコニコと範頼達を見回す。それに対して範頼は、平伏しながらも妙な感覚を覚えてもいた。
 姿勢を直すと、院の視線は義経に釘付けになっている。範頼はそういう事かと一人納得する、院の好みがそちらであるのには安心しながら。
「蒲冠者とは、そなたの事かな?」
 義経に向いていた視線が向き、声が掛けられる。今度は院直々にだ。
「はっ、仰せの通りにございます」
 また伏せながら答える範頼。院は鷹揚に頷き、問い掛ける。
「確か、範季の元に居った事があるとか」
「もう二十年も前の事でありますゆえ――」
 範頼もこの話題は想定していた、しかし好ましい事とは思わなかった。鎌倉軍の総大将という立場で、院近臣の一人と懇意などという話になればあらぬ疑いもかかろう。あちらにもこちらにも。
 己自身と郎党の事だけに止まらず、範季の事も考えて答える。
「――もう、随分疎遠となっております」
 半ば真実、半ば嘘。鎌倉に参じる前までは、彼より京からの情報をよく受け取っていたのだから。
「左様であるか。では、九郎殿」
「はっ!」
 これで終わりかと、範頼は内心ホッと胸をなで下ろす。
 そして次は義経。九郎殿は己より京に縁が深いはずだがと、範頼は少し他人事になって見守る。
「お主の母、常磐(ときわ)の方の事であるが」
「母上の!?」
 常磐の方――常磐御前とは義経の実の母。
 母か。範頼は一抹の寂しさを覚えるが、そこで思い出すのは、ゆやの母の藤。母同然に親しむ彼女を思い出せばこそ、寂しさも和らいだ。
 義経の母がずっと京に在していたのも知っていた。平治の乱の後、清盛の妾になっていた事も。
「常磐の方は、一条長成(いちじょうながなり)の元で今も壮健であるぞ」
 長成は正四位下大蔵卿(※8)、十分な立場。それは何よりの事だと、範頼だけでなく居並ぶ将は心中で祝う。
「それは、真に嬉しい事でございます」
 平伏しつつ、その話をもたらした院に心から感謝する彼に、更に声が掛けられる。そしてそれに、範頼は肝を冷やしていた。
「もしそなたが会いたいと欲するなら、朕が取りなしてもよいぞ」
 己に掛けた言葉といい、院はこちらを懐柔しようとしているのか。そう疑いたくなる。考え無しの老婆心からの話であっても、今の言い方では断るのは憚る。
「それは望外の事、是非とも会いとうございます!」
 迷う事無く言ってしまう義経に、範頼は本当に大丈夫なのかといよいよ不安を募らせる。他の鎌倉の将も、似た様な心持ちになっている。
 範頼はしかし思い直す。戦では、まるで敵の心を見透かした様な戦術を立て実行する義経の事、そこまで己が心配する事は無いのではと。
 義経の答えに院は満足げに頷くと、それをもってやや不穏なものをはらんだ世間話は終わった。
 ここからが、鎌倉の将としての本題である。ここで彼らに事を申し渡すのは、控えていた朝方。
「宣下致す」
 皆、およその内容は想像が付いていた。

 一つ、悪逆非道な振る舞いにて帝を意のままにした平宗盛を追討し、持ち去られた神宝御璽(しんぽうぎょじ)(※9)を奪還せよ。
 一つ、暴虐武人に都を闊歩し、洛中を混沌とせしめた木曾義仲の一派の残党があれば捕縛せよ。

 大意は以上の通り。
 下された院宣は本来は鎌倉の主、即ち鎌倉殿である源頼朝に対する物。そのため正式な動きは、頼朝に院宣が届き、それを以て発せられる命を待つ事となる。
 ほぼ予想の通りであったが、これにもう一つ付け加えられる。
「源九郎殿にあっては、引き続き洛中の警備に当たり、治安の維持に務められたい。との、院のたってのご希望にございます」
 当然それは次の戦、平家との戦いまでの事。必要な役目ではある。
 しかし九郎殿は色々な意味で好かれたものだなぁと、範頼はやはりどこか他人事になって、役目を仰せ付かり平伏する彼を見る。
 このまま院に懐柔される事は無いと思うが、やはり都は怖い。普段はのほほんとした範頼ですらそんな気持ちになる。それは戦とは違う怖さであった。

 院御所を出でた面々は、三々五々に、大津の陣まで戻るか、洛中に止まるかという辺りになる。
 範頼はといえば、総大将の一人の義経が京に残るのであるから戻らねばならない。行きも帰りも当然一人ではない。手勢の横見の衆に加え、いつも通りに頼景、それに太郎の姿もある。
「ついに宗盛追討か、長かったな……」
「ヲフッ!」
 ゆやは助けたが仇の宗盛はまだ生きているし、太郎を殺した天邪鬼もまた、彼に憑いている事であろう。天邪鬼退治は当初より射命丸に課せられた役目であるが、彼らは自身にとっても同じ事と受け止めている。
「ええ、しかしまた、色々とありそうですが……」
「何かあったのか?」
 院参した時の事。
 範頼はあえて意識の外に置いていたが、彼の叔父でもあり、鎌倉を出奔して義仲と共に上洛していた十郎行家改め新宮行家が、当然の事の様な顔で御所に居た。
 また参じた鎌倉勢にすら、いつの間にか、抜け駆けに上洛していた安田義定が居並んでいた。
 意識の外に置いていたと言うより、深く考えるのを放棄したと言ってもよかったかも知れない。
「……俺達が言ってよいものか分からんが、節操が無いのお」
「クゥン」
 太郎も呆れた風な顔で小さく声を漏らす。
 それはさておき、平家は西国で盛り返した勢力、特に東国勢が未だこちらで揃えるのに苦慮している水軍を多く擁し、摂津国、清盛の夢の跡福原の周囲に布陣を進めている。そういった事を踏まえ、今後の動きなどについて世間話代わりざっくりと話しつつ、歩みを進める。
 洛中には義経麾下の隊しか置けない。兵はよく飯を食う。数万の大軍が飢饉と戦にあえぐ都に在しては、義仲の二の舞になる。それ故本営は大津に下がったままである、しかし前進の準備は進められていた。
 その先遣となる隊が、今範頼らが遡っている東海道の途中に布陣していた。
 彼らは折角だからとそこを見舞う事にする。ここでまた、二人はある人物と再会した。
 まず声を掛けたのは頼景。
「おお景季殿、磨墨共々覇気に満ちておられますな」
 磨墨を止め、寒空の下で額に汗を流して陣幕を張る景季。
「頼景殿、それに御大将!」
 総大将自らこんな所にと、向き直って威儀を正す。これには範頼の方が緊張してしまい、姿勢を崩す様に求めた。
「そう言えば、御大将は鎌倉入りの時、頼景殿と同道されておられましたか」
「ああ、蒲冠者とは昔馴染みよ」
「そこまでの仲とは存じませんでした。鎌倉入りの際大変な無礼を働いた事、申し訳なく思っております」
 深々と腰を折って謝罪する景季に、範頼はそんな事もあったなと、半ば忘れかけていた事を思い出す。しかし、彼がすぐに案内をしてくれようとした親切な人物であるのは覚えていた。
「いえ、お勤めであれば当然の事と思いますから。ねえ、頼景殿」
「そうだな。ただし蒲殿、今は己がそういった役目を担う者を従えているのを忘れるなよ?」
「はい、それはもちろん」
 範頼を押し止めつつ「これが役目だ、例え勅使であっても通すな」とその時番兵をしていた景季達に対して堂々と言い放ったのは、彼の父景時であった。景時は己が責任で言ったのであろうが、そこでいざ何事かあれば、その責は更に上に昇って来るであろう。
 範頼も迂闊に物を言った訳では無かったが、頼景の言葉は重かった。
「それにしても、相良牧から黒馬を一頭引き連れて来たのは覚えていますが、ここまで立派に育つとは思いませんでした」
 脇に止められ草を食む磨墨を見ながら言う。
「うむ、とりあえず俺の見立ては間違っていなかったみたいだし、鎌倉の調教は流石だ。ようやっと勇姿を間近に見られると思うと、俺も嬉しい限りだな」
 満足げに言いながら頼景がその首筋を掻いてやると、磨墨も嬉しげに喉を震わせる。覚えているかは分からないながらも、己にとって善い人物と認めているのか。
 景季はその様子に感心しながら答える。
「その様に言われては緊張致します。しかし磨墨の勇姿だけは、お目に掛けられるよう全力を尽くします」
 先陣の好機であった宇治川越えの際には、鎌倉一の名馬池月を駆る佐々木高綱に謀られて後塵を拝し、磨墨の力を活かしてやれなかった事を悔やんでもいた。
「いやいや磨墨の事は、田舎の牧の馬が坂東の駿馬に負けずに駆ける姿を見られるだけで十分ですて。ときにお父上、平三殿もこちらの陣におわすとか?」
 軍監として、範頼の陣に義経の陣にと忙しく駆け回っていた景時。義経が院参して後は、彼とその郎党以外は在京を控えているため、景時も範頼ら同様に近江に在った。
 義仲を倒した今、平家との戦を前にして、鎌倉からは戦力を更に充実させんと有力御家人とその一族郎党、数多の将兵も東国より上って来ていた。
――ではあるものの、範頼と義経が総大将なのは変わっていない――
 鎌倉の行動は基本二人一組、総大将が二人立てられたのもこの原則のためである。しかし今までそこに軍監は一人しか居なかったため、景時が奔走する羽目になっていたのだ。
「はい、ようやく腰を据えられた様でございます。それと――」
「うん?」
「ここだけのお話、先遣の九郎殿とは最初の合議から諍いが絶えなかったらしく、こちらもようやく落ち着くかと」
 聞いた頼景は、墨俣での範頼との乱闘とその後の説教を思い出して、何故かクツクツと笑い出す。範頼も顔を綻ばせて言う。
「なるほど、平三殿のご気性で九郎殿の相手とは」
「ええ、苦労していた様です」
 普段から大変大人しく年長の者の言う事は特に真摯に受け止める範頼と違い、我が道を行く義経。景時が何を言おうと、軍監としての言葉以外――の献策や諫言――には聞く耳を持たなかったであろう事は、容易に想像出来た。
「結果として、あれだけの戦果を上げてしまえば後はどうとでも言えるし、困ったものですなぁ」
 言いながら深く頷く頼景。その横で範頼が軽い異常に気付き、問い掛ける。
「ときに太郎は、何故あんな所に居るのでしょう」
 範頼が頼景に誘われて磨墨に近付く側で、太郎が景季の後ろ側に回り込み、距離を取っていた。
「あー、磨墨に悪戯されて、嫌っているのであろう」
 実際は近付いた所をいななかれて悲鳴を上げてしまったのだが、そこは彼女の誇りのために黙っておいてやる頼景であった。

       ∴

 月も明けて二月、平家との戦、矢合わせの日取りも決まり、鎌倉軍も着々と準備を進めていた。
 敵方の目に見える限りの陣容は、太郎の“眼”と射命丸の“脚”の連携によって、概ね得られた。二人が揃って注目したのは宗盛の行方。これは鎌倉の作戦にも、彼女達の目的にも重なる。
 宗盛に天邪鬼が憑いている、故である。
 平家が布陣をするのは摂津国の海岸線。福原の先、一ノ谷(いちのたに)に本営が築かれ、太郎の眼によれば天邪鬼もそこに居るのだという。ただ正直な話、彼女らには――能力を以てそれを見透した太郎自身すらも――宗盛が陸に居るとは思えなかった。
 清盛亡き後、平家惣領となった宗盛の采配は、これまで逃げの一手。西国で立て直せたのは、まだ平家に残る勇将らの意地によるものであった。
 京から見て正面の生田(いくた)の森は厳重な防禦が敷かれ、一ノ谷の先の西の手、搦め手の塩屋(しおや)にも生田口ほどではないにせよ、十分な防禦体勢であった。
 そしてその一ノ谷は、山の手側は崖に守られ、海側は言うまでも無く平家の水軍が固めている。東西二方向からしか攻められない道理である。
 その様な地勢の要害であっても、宗盛ならば、連れ回っている幼帝と共に絶対安全な海上に居るのではないか。射命丸達にはその方が納得出来た。
 天邪鬼と宗盛の動向はともかくと――これに対し鎌倉勢は義仲との戦同様、大手勢と搦め手勢に戦力を分ける事を選んだ。
 加えて、搦め手勢には義定も途中まで同行し、大手勢に対して二番目の壁となる平家中衛の陣に、横から打撃を加える事となった。
 軍議ではここまでが固まった。この時点で範頼ほか諸将が気にしたのは、搦め手勢の進軍速度であった。
 矢合わせの日取りまで、あと三日と無い。搦め手勢は摂津国を迂回して丹波国(※10)を西進し、丹波路より播磨国にまで行かねばならない。騎馬のみでの行軍でなければ無理、それも馬が潰れる前提での強行軍。東西同時に攻められなければ、数の道理で各個に撃破されるだけの事。
 ただでさえ余裕の無い計画、軍議の終わった陣で一人思いふけり不安に苛まれる範頼も、それでも彼ならばやってのけるであろうとも期待する。
 そう、搦め手の大将は当然と言うべき人物、義経。
 平家の兵力は増員した鎌倉勢にも匹敵し、水軍に控えた勢力も加えればそれすら上回る。まず陸の上に在る軍勢には圧勝せねばならない。
 考えを巡らせる範頼の側に影が降り立つ。
「蒲殿、周囲に人影がありませんでしたので、直接こちらへ参りました。どうぞご容赦を」
 春は近付いているはずであるのに、空は曇り、寒々しい。幸いにして、皆暖を取ろうと自陣へ戻って行ったのであろう。それよりも範頼には、珍しく直接陣に降り立った射命丸の、焦った表情が気になった。
「何かあったのですか?」
「念のため搦め手勢の進軍経路を太郎に視させたのですが、やはり先を読んでか、播磨国に平家勢らしき姿があると。私は今からこれを確認して参ります」
 ただでさえ窮屈な日程、いや時程での搦め手勢の動き。そこに平家の陣があろうものなら、当初の作戦遂行は困難。代案はあれど、勝利の望みは薄い。
「一貫坊様」
「はい」
「よろしく、お願いします」
「はい!」
 かくて射命丸は再び飛び立つ。
 しばらくして彼女がもたらした偵察の結果、平家は播磨国三草山(みくさやま)に布陣している事が分かり、急ぎ搦め手勢に早馬が出された。
 今更軍議の結果を覆す余裕は無い。しかしこの偵察結果を何とかして義経に知らせれば、十分に対応しうる事であろう。
 彼の元には土肥実平や武蔵国の熊谷直実(くまがいなおざね)ほか、多くの有力御家人の姿もあり、源三位頼政の余党であった摂津源氏の一派も率いられている。範頼は義経の戦の手腕と、歴戦の猛者達に期待した。する他無かった。

 生田口へ前進する大手勢には、畠山に梶原、千葉、それに山名氏や小山氏、また河越氏や三浦氏といった、これもかなり有力な勢力が隷下にある。それらを擁した数万の大軍、足りない物があるとすれば、やはり水軍。
 三浦氏は東国有数の水軍を整えているし、梶原氏にしてもある程度は揃えている。船と水先案内人さえ居れば、海流や気象、暗礁の習熟だけで戦える様になる。その船が集まらない。戦う前からここが平家の勢力圏内であるのを、嫌でも思い知らされる。
 範頼らに先行して、手勢の横見や相良の衆、頼景と頼綱の兄弟と次長、当然太郎も共に進む。そこへ梶原の一隊が並行して歩む。梶原の隊を率いるのは――彼らにとっては幸いにも――景季。
 完全武装の接敵行進ではあるが、攻めるべき地も刻限も先の事。小休止しては兵糧を口にし、馬は草を食む。雑談を交わしながら進む余裕もあった。
 その道すがら、景時は道ばたの木に目を止め、しばし磨墨の脚を止めさせる。
「山桜、こんな時期に花を付けるのか」
 梅の花は咲き始める時期でも、桜はまだまだ。そんな時に咲いたそれが景季の目に止まった。
「どうしたかな? 景季殿」
 頼景が問い掛けるが、答えを得るまでも無く、視線の先を見て納得する。ただ景季は、単に花を愛でようと寄ったのでは無かった。
「平家の者は戦場に在っても雅を忘れぬと聞きます。それを軟弱であるとそしる方も多いですが、私はその心持ちこそ、剛胆のあらわれであるとも思います」
 言いながら、彼は蕾がほころび始めた枝を手折り、箙へ矢と共に納める。
「しかして坂東の雅も、それに負けぬものであると、見せ付けたいのです」
 その言葉には得心し頷く頼景。しかしなぜ桜を選んだのか、これは不思議に思った。
「それは然りとして、桜などはすぐに散る花ですから、携えるなら梅花の方がよろしいのでは?」
 あっさり散ってしまうなど、見方を変えれば縁起でも無い事。それ故に問うた。景季はこれに澱む事無く答える、彼には相応の理由があったのだ。
「いえ、これで良いのです。寒中に咲く桜は花も長く咲くと言いますし、それに――」
「それに?」
「いえ、何でもありません。いつまでもここに居たら置いて行かれてしまいます、行きましょう」
 将が隊に置いて行かれるなど笑い話にもならないと、言うや磨墨を歩ませる景季。彼自身の姿もまた、寒中に咲く桜の様に、鮮やかであった。
「まあ、桜でも梅でもそう変わらんか」
 続けて馬を進める頼景は白髪頭の侍烏帽子が付いて来ないのに気付く。太郎が留まっていた。
「おい太郎、どうした、行くぞ」
 呆けて居たのか、その言葉にハッとして「ヲフッ」と返事をし、慌てて後を追い始める彼女。
 それを認めた頼景は、「まさかな」と小さく漏らし、まんざらでも無い風な笑みを浮かべるのであった。

       ∴

 二日を費やしての行軍。大手勢はまだ余裕もあるが、搦め手勢にはかなり過酷であるはず。範頼は不安を覚えるが、太郎と射命丸の偵察ではそちらも――無茶とも思える速度ではあるが――順調との事を聞き、迷う事無く大手勢を前進させる事が出来た。
 しかしここから搦め手勢は正念場に差しかかる、三草山の敵陣だ。
 平家の陣容は射命丸がほぼ明らかにした。
 三草山の山中に在るのは、本来ならば清盛の嫡孫と言われるべき平資盛と、その弟の有盛(ありもり)と師盛(もろもり)。そして兵力は、一万を数える搦め手勢の約半分。
 これが平地であったなら単純な兵力差で押し切れる。しかし三草山は平家の荘園にもかかり、言わば庭とも言える地、急峻を持つ要害で守りに有利な地勢、この場合に働く数の原理は大きく異なる。攻めを守りの三倍にして、ようやく為る見積もりである。
 それに加え新たな問題が発生。これも、ひたすら飛び続けた射命丸がもたらした。
「平家勢が、搦め手より援軍を差し向けた模様です」
 義経が強行軍を敢行する搦め手側の情況で、兵力差がひっくり返れば勝ち目は無い。そして搦め手からの攻撃を欠いたなら、主攻の鎌倉勢は果たして福原すら超えられるか否か。
「一貫坊様、引き続き、お願い出来ますか?」
 彼女の負担を重々承知で範頼は問う。
 搦め手勢に万が一の事態があれば撤退も考えねばならない。損を切り、鎌倉全軍としての被害を最低限に抑えるためにはそうするしか無い。
 またこの求めは、状況判断については太郎より射命丸の方が優れているためだ。
 そして彼女は、当然とそれに応える。
「はいっ!」
 京を出てから何回、範頼の元と一ノ谷や搦め手勢の上空を往復したか、射命丸本人すら覚えていない。飛ぶ上がるのも降り立つのも、陣から距離を置いてせねばならない。術での消耗だけにとどまらず、単純な体力の消耗も激しい。しかしその全ては射命丸の苦では無く、喜びであすらあった。
 三草山の情況は不明なれど、兵は従前の通り進めなければならない。
 そしてついに夕刻、大手勢は生田の森に到着する。
 森を抜け、生田川を挟んだ先には、平家が築いた城壁と戸口、生田口が姿を表す。そこまで行ってからの撤退は追撃の恐れから不可。征くべきか退くべきかの判断の機会は、ここで最後になると言ってもよい。
 兎も角も射命丸の偵察次第。範頼は各隊へ、明日に備え布陣しつつ大休止を取る様に下知する。
 後は搦め手勢次第、そのはずであった。
 そこで、風に乗るが如く、妙な噂が流れ始める。「現在、平家は清盛の三回忌の法要を行っており、軍の動きは極めて鈍い」と。
 それが本当であれば絶好の機会。しかしこれはただの噂であると、範頼は他の諸将と諮って断じ、従前の通りの行動を取る事を選んだ。
 そう、根も葉もない、風に流れた話であった。

       ∴

 搦め手勢が暗中も進軍し、射命丸がそれを上空から見守る。空から見えるのは、篝火や松明の明かりのみ。
 暗ければ思いっきり高度を下げても気付かれない。だが調子に乗って下げすぎると今度は木に当たったり、酷ければ山の斜面にぶつかるかも知れなかった。せめて月が出ていればと祈るものの、それも暗い上弦の月。戦場の様子を見るにはいよいよ難しい条件。
 矢合わせは夜明け以降、払暁(ふつぎょう)(※11)までにこちらの形勢を範頼に伝えられれば間に合うか。
 そう判じた射命丸は、引き続いて偵察に当たる事にした。
 しかし夜半、大手及び搦め手事態はそれぞれに、情況は急変する。

                             (後半へ続く...)

第11話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――――

※1 番立て:上演形式の事。『五番立て』が正式で、鬘物(かずらもの)や修羅物、翁物と言った演目と、狂言を交互に、ある程度定まった順に上演していた。
※2 修羅物:能の演目の一種で武人が主役となる物。修羅道に落ちた後(死後)の語りが主なため、大半は負修羅(まけしゅら)
※3 絹布:生糸を織った布。貨幣が主流で無かった時代には、生糸や絹布も銭貨代わりに用いられた。この場合『准絹(じゅんけん)』として価値が定められた。
※4 風呂:劇中の時代では風呂と言えば蒸し風呂が主。本作中、浴槽に湯を張る場合は『湯風呂』と区別して呼んでいる。明治に入るまで混浴が当たり前だった。
※5 湯帷子:麻で出来た単衣。基本的に上流階級の者が入浴時に着用していた(中流以下は褌や腰巻きが主)が、のちに一般化した。浴衣の語源ないし原型
※6 践祚:譲位あるいは崩御した天子の位を継ぐ事。三種の神器を受け継ぐ事が至上の条件で、その上で即位式と大嘗祭(現典範においては)が執り行われる。
※7 検非違使:検非違使庁に属する官人。平安時代には、現在の警察や検察の業務をはじめ、裁判の庶務や刑務にまで携わった。
※8 大蔵卿:大蔵省の四等官の筆頭、正四位下相当官。大蔵省は財務や税の出納一般を取り扱う機関で、名称自体は奈良時代から21世紀初頭まで用いられた。
※9 神宝御璽:ここでの神宝は十種神宝(とくさのかんだから)で、この中に三種の神器全てを含んでいる。同じく御璽は、天皇が用いる印章
※10 丹波国:現在の京都・大阪・兵庫に跨がる、山地と盆地で形成される地域。また丹波路は、街道としての山陰道の一部
※11 払暁:夜明けの意。明け方
※12 続松:正しくは“ついまつ”と読む、松明の原型。平家物語諸本等いくつかの物語系本では『三草山の“大続松”』として書かれる。
※13 逆茂木:打ち込んだ杭の頂部を尖らせた物。これを大量に並べ、陣地防御に用いた。
※14 返して聞かせる:返歌。本来はお題としての歌や贈られた歌(短歌)への、返答としての歌(同左)。劇中では連歌の形式(鎌倉以降)を取っている。
※15 醜男:字面通りの意味も持つが、作中では逞しい男の意。後者の意味で、古事記にもそう書いてある。
※16 真言:サンスクリット語(梵語)、転じて経典に書かれた仏の言葉。密教の呪文。意味の解釈より音が重要で、仏の名と祈りを表音文字で記している。
※17 白拍子:芸能一般に通じた遊女、歌舞の種類としての意味もある。男性の白拍子も存在した。平家物語では、静御前の他にも祇王や仏御前などが著名

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