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木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編   木ノ花中編 第7話

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公開日:2016年05月11日 / 最終更新日:2016年05月11日

 廿二./子午線の奉り(西暦1185年)

「宣明暦元暦二年三月二十四日、現行グレゴリオ暦一一八五年五月二日――」
 東経一三〇度五八分、北緯三三度五八分の関門海峡の上に広がる天球を。月齢二十三.七日下弦の月が、南中時約七〇度の高さ、角速度毎時一四度三〇分で東から西へ移行していった約三時間後にこの海峡の張り潮は落ち潮へと変り始め――
「――東流最強、最強箇所の時速三.二ノット」(※1)
 手元のメモ帳を読み上げる文。何の事だろうとヤマメが問いかけようとするのに先んじて、また言う。
「これは平家物語を元に、新たに起こされた戯曲の一節です。義経を大将とした船団が東より、平家の船団が西より壇ノ浦(だんのうら)に至り、これから戦おうとする。そんなシーンです」
 その場に居なかったヤマメでも壇ノ浦の合戦の事は知っている。船戦というのは経験が無いため、今の言葉に何が込められているのかは分かっていないが。
「三.二……ノットって?」
「一ノットは時速約一.八五キロメートル、一時間に半里弱進む事。ですので三.二ノットは、一時に約三里の距離を進む速度となります」
「スピードは分かった。で、今のお話の意味は」
「海戦は潮流を味方に付けた方が優位に立てます。地上で、坂の上から攻めるのと坂の下から攻めるの、どちらが有利かは当然は分かりますね?」
「うん」
「潮流を背に受けた軍団は、素早く自在に、強い衝力を生じさせる事が叶います。足下は常に流動するのですから、地上よりも有利不利は顕著になるのです」
 なるほどと納得したヤマメの頭には、次の疑問が湧いていた。
「当時の潮の流れなんて、よく記録に残ってたね」
「残ってませんよ」
「えっ?」
「さっき言った数字は、スーパーコンピュータって言う、物凄い計算機に計算させて弾き出された当時の気象状況なんです」
 聞いたヤマメは、そういうのは苦手だと、嫌そうな顔をする。しかし文の話の肝要な点は更に先にある。
「ただしこれは、尋常な気象条件下でのものです」
 迂遠に、あえて“尋常な”以下と注釈した意味はしかし、ヤマメにもすぐに理解出来た。
「……普通じゃ、無かった?」
「はい」
 当初、義経率いる熊野水軍や河野水軍、そして先に西国へ入っていた景時や実平が現地で調達した船に、三浦党で編成した水軍を以て寄せた。
 作法に則り矢合わせの日までは決まったが、寄せる刻限は未定のまま。であれば、攻め寄せる側が主導権を握り、潮を見極め、それを背に受ける時分に会敵すれば良い。義経は観察眼に優れた男、戦の申し子と言って過言の無い人物であり、それは当然彼の戦術の中に有った。
 そして敵が打って出るのを見込み、西向きの潮流が流れる時間に合わせて船団を出発させたのだ。しかし、
「本来ならば西からの潮流が東から流れる時間になっても、その潮目は変わらず、むしろ平家の後押しをする様な渦までも生じはじめたのです」
 瀬戸内という、外海の影響を受けにくい海域での事。その半ば内海と言える海域で一体何があったのか。ヤマメがそれを求めるのと、舞台で『八島』が始まるのはほぼ同時だった。

       ∴

 熊野水軍との同盟を結んだ義経が、常識外れの速度で八島へ進撃したと鎮西の鎌倉軍へもたらしたのは、兵船の調達で彼と協議していたはずの景時であった。
「――この様に、九郎判官は折からの大風を逆手に取り、戦船五艘、兵百五十騎で四国へ渡りました」
 曰く、本来なら阿波国勝浦への、三日はかかる道程を僅かふた時でこなしたとの事。
 上陸した義経はその後、事前に協力を取り付けていた現地の豪族から情報を得て、平家軍の配備の手薄な点を突き、一挙に八島まで平らげたのであった。
 河野氏征伐に兵を割いていた上、誰もが想像し得なかった神速に平家は対応し切れず、敗れたのであった。
 それらを淡々と語る景時。諸将はまたもや義経に先駆けられた悔しさを滲ませたり、義経の圧倒的な武力に驚いたりしている。
 それより範頼には、景時が反りの合わない義経と一時行動を共にしていたのにしては随分平静なのが不思議であった。
 景時がそれを語るはずも無いが、これについては、諸将の集う屋形とは別の場所で語られていた。

「それはもう、帆柱も折れん程の大風のうえ夜半だったので、手練れの水夫でも怖じ気づいていたのですが、九郎殿は彼らに弓を向け強引に船を出させたのです」
 語る景季に、聞くのは頼景と太郎、それと射命丸。彼は義経の驚くべき進軍の裏側を、自身の知る限りの真実を語る。
「正直に申しますと、私もあの大風は恐ろしかったので、あの海に漕ぎ出さなかったのは幸いと思っていたのです。他の方々も、九郎殿には無茶無謀と思い止まる様に言っていましたし」
 それはそうだと皆一緒になって頷く。義経は、誰もがそう思うその常識を覆したのだ。
「九郎殿は無事に到着したのみならず、我々が到着する前に、八島はおろか、そこから退いて讃岐国の寺へ立て籠もった敵勢をも討ち果たしていたのです。そこまではまだ良かったのですが――」
「が?」と、一同がずいと顔を寄せると景季もそこへ顔を寄せ、何故か小声になって続ける。
「我々本隊も予定を繰り上げ、結局三日と経たずに到着したのです。しかし九郎殿は、到着した諸将に――特に父上に向かって、[六日の菖蒲]などという言葉を投げ付けられまして……」
 五月五日の端午の節句に用いる菖蒲を六日に持って来ても意味は無いという、役立たずの揶揄、どころか直喩となる言葉。
 あの景時がそんな悪口(あっく)を受けてただで済ませるとは思えない。と、一同は――今の次点ではもう既に過去の話ではあるが――戦々恐々とする。
「で、乱闘にでもなったのかな?」
 墨俣での範頼との乱闘の後、景時から散々に説教を食らった頼景が、興味深げに問い掛ける。
「それならまだ分かり易いのですが……余りの物言いに私達兄弟も揃って憤ったのですが、父上はそれを押し止めたうえ一切の反論無く、参州殿の元へ、と」
「それは確かに、怖いな」
 普段なら相手が誰であろうと食ってかかる景時。その彼が、どう考えても言い過ぎの義経に何の行動も起こさないのだ。これは逆に怖い。
 いっそ諸将の前でそれを口にして溜飲を下げれば、そこでこの件は終いになるかも知れない。そんな事より平家との決戦が最重要なのだから。
 射命丸は、景時の件についてもそれなりに興味を示したが、それより義経が僅か数時で渡海した件の方が気にかかった。本当に彼の力だけであったのかと。
 義経については、かの太公望(たいこうぼう)の兵法『六韜三略(りくとうさんりゃく)(※
2)』を修めている故に、その奥義である神通力を用いて戦を進めただの、眉唾にも過ぎる話すら飛び交っていた。しかし、大風を自由に御したかも知れない要素に、射命丸にはいくつか心当たりがあった。
 一つは、熊野で会った鴉天狗、彼女の通力。
 そしてもう一つは、天邪鬼の妖術。
 前者が義経とどの様な縁があるか分からないが、彼に協力的であるため意図もよく分かる。しかし後者の可能性もあるのだ。その場合、あえて義経に攻めさせようとしたのかも知れない。
 それかそのいずれでもなく、余程強烈な天運が味方をしていたのか。
 決戦を前に、また別の思惑が絡んで来る、それだけで射命丸は不安になった。何が起こるのであろうかと。
 よく考えれば景時達もとんでもない速度でこの陣に来たものだと、射命丸は思い返す。八島で戦があってから、まだ十日と経っていないのだ。そして義経は、その彼らですら付いて行けぬ速度で、今も駆けている。

 範頼の軍議、それに頼景達の雑談も終わり、それぞれに語られた事を話し合う。
「九郎殿が平三殿にそんな事を!?」
「ああ。それで、梶原殿の様子はどうだったのだ?」
「どう、と言われても、極々普通でしたとしか……」
 これはいよいよ怖い。
「本当に怒れる人というものは、それを表に出さず、腹の内深くに押し込めますからね。梶原殿の性情では、それがどれほどになるか」
 射命丸がそう評すると、そこでふと頼景が次長に視線を向け、何故か他の面々も一斉にそちらに視線を集める。
「これは、どういう事かな?」
 額に青筋を浮かべながら次長は言う。普段から彼を怖がっている太郎などは、すぐに目を逸らしていた。
「いや、勝間田様では参考にならないでしょう」
「今王丸殿、それはどういう意味か」
 なるほどこれは参考にならないと射命丸は納得しつつ、怒りを向けられ愛想笑いを返す頼景と常光を見る。
 景時の腹の内もであるが、平家滅亡を宿願としていると言いながら、鎌倉より距離を置きつつある義経の腹の内もいよいよ分からない。決戦も間近だというのに味方同士でのこの体たらくに、範頼も射命丸も不安を募らせるのであった。

 阿波国(あわのくに)(※3)、そして讃岐国からも撤退した平家は、周防や長門、筑前並びに豊後までを範頼達に固められ、ついに行く先を無くした。
 三々五々に一門を散らして逃げるならばどこへなりとも行けたであろうが、平家に残った最後の勇将知盛がそれを頑として拒み、赤間関と門司関を結ぶ海峡、大瀬戸の水道に血路を開いて、彦島へ幼帝と平家本営を迎えたのであった。
 鎌倉軍と義経の行動も、これを以て定まる。
 平家を討つべく、熊野水軍、河野水軍、それに摂津渡辺水軍を主体とし、更に周防国の船奉行から提供された兵船を以て三浦党が臨時編成した水軍が加わり、彦島に寄せる事が決まったのだ。
 八島の合戦よりひと月余り。戦の準備を終えた義経の水軍がついに動き出す。

       ∴

 四国や周防などから瀬戸内に漕ぎ出した鎌倉側の水軍は、海上で会合して彦島へ向け西進する。
 総数は八百数十艘、古今希に見る大水軍である。
 連合船団の先頭に立つのは、意外にも義経の手勢ではなく三浦水軍。範頼の麾下で赤間や門司の関に足を運んで地の利に明るかった事から、水先案内を兼ねる運びになったのであった。
 彼らはまず海峡の手前の、海況の穏やかな壇ノ浦奥津(おきつ)の小島に船団を寄せ、一陣二陣と梯隊(ていたい)を組み、船団を再度編組する。
 明けて払暁、主導権を握るべく連合船団は前進を開始する。一陣の主体は三浦水軍、二陣に義経が座する本隊が入る。
 連合船団の動きを察知した平家は、壇ノ浦にてこれを邀撃(ようげき)せんと前進を始める。当初より水軍同士の衝突は必至であると見積もられていたが、この時点でそれが決定的となった。

 一方、陸の鎌倉軍。範頼達も長門国赤間関、筑前国門司関を中心にして沿岸を固め、大瀬戸の水道を東進する平家水軍を牽制する。
 この海峡は最も狭い場所で約五町。坂東武者が両岸より自慢の強弓を振るえば、この五町は実質数十間にまで狭まる。
 大型の唐船や小回りの効く和船など、大小様々な兵船が両脇に盾を並べて東進してゆく。
 範頼らの鎌倉軍本営は筑前側、門司崎よりやや内に入った小高い丘から平家の水軍を俯瞰する。
「射てぇい!」
 沖を睨むの和田義盛の声が、馬上より断続的に響く。
 隊で同じ目標へ指向し、一斉に射撃を行う事で確実に被害を与えようという目論見であったが、両岸から矢の届かぬ位置を見極めて進む平家には効果が薄い。
「何をやっておる! 弓とはこう射る物ぞ!」
 業を煮やした義盛は、五人張りとも言われる強弓を易々と引き分ける。
 番えた矢は、白箆に鶴の本白(もとじろ)、鴻の羽根を割り合わせて矧いだ十三束二伏(ふたつぶせ)(※4)もある長き物。
 確かに彼も戦場では、侍別当などと言う役目は何のそのと駆け回っていたが、ここまでの豪傑とは範頼も知らなかった。
 その側に控える射命丸も、直線に近い低く伸びる軌道で飛翔する矢の行方を見守る。一町二町と、海峡の半ば以上も飛び、それは兵船の一艘に吸い込まれた。
「凄い……」
 届くだけでも十分であるのに、盾を貫いてその後ろに居た兵の胴丸まで撃ち抜いたらしい。義盛が射た兵船には、明らかな同様の気配が見える。
「なんのまだまだぁ!」
 檄を飛ばされ見せ付けられ、麾下の兵も負けじと弓を引き絞り、放つ。
 今度は兵達の矢も届くがしかし、当たらない。
 義盛はここで兵達の練度とは別の原因、異常に気付き、唸る。
「御大将、潮の流れが尋常はござらぬ。今以て潮は西より流れ、しかも異様に速うござる」
 それ故に、いくら兵達が狙っても当たらないのだと彼は範頼へ報告する。彼は遙か彼方の僅か一点を狙っており、それを外したのでこう言ったのだ。
 義盛自身は少なくとも的となる兵船に当てたのであるから、この言葉は言い訳などではない。彼も三浦氏の一族であり、海を多少なりとも知っている。そのため潮の流れに気付いたのであった。
「潮流が? 払暁の奥津進発を決定したのは、会敵に前後して潮流が反転するからであると、三浦介殿直々に九郎殿に仰ったからではありませんか」
 三浦党が先陣兼水先案内を勤めるのも、事前にこうした海況を掌握していたからこそ。それが狂っているのだと義盛は見ていた。
 彦島に至る前の会戦は織り込み済み、そうであっても確実に潮流を味方に出来る頃合いに前身を開始したのだ。それが――
「は、左様であります。ですが実際、陸からの援護もご覧の通りの有り様。この潮流では船戦に慣れた三浦党と言えど、平家の船団を破るのは難しいかと」
 いくら精兵の三浦水軍であっても、これだけの潮流を切り上がりながら戦うのは、陸地で坂を駆け上がって戦うよりも困難。ではこの後は如何様な戦術を採るべきか。海戦の運びについては、今陸に在る範頼がいくらそれを考えても下知する術は無い、全て船上の将兵に任せるのみ。
 義盛が範頼にわざわざこれを言ったのは、読み違えた海戦はもはや負ける公算が高い、かくなる上は地上の軍勢で善後策を。そう意図しての進言。
 しかし範頼はこれをすぐに受け容れなかった。
「三浦党であれば、徒にこのまま進む様な愚は犯さぬと思います。ここは一旦退き、九郎判官らの本隊と合流するかと。私でもそう考えますが」
 船戦など机上でしか知らない己ですらそう思うのだ、三浦党や義経であれば、この想定外の天象にも臨機応変に立ち向かうであろう。範頼はそう考えて言った。
「潮目は既に変わっていなければならないのです、これは全て尋常であればこそと。ですが見た通り潮流も、今以てそれが反転しない事も、某か天象の異常があっての事。ここはもはや次の策に移るべきかと」
 義盛があえて下手に回って献策する体で言うのは、総大将の範頼も無下に出来ない。
「大風でも大潮でも無く、何故……」
 猶予は無い、ここで決断を下さねばならない。
 それは範頼も承知しているが、それでも考えるのを止められない。今ひとつ、彼には引っ掛かっている事があった。同時に射命丸も考える。
 宗盛に憑いた天邪鬼。奴は藤戸以来姿を見せず、平家はずっと負け続けて来た。奴が一門に与する行動を取るとすれば、今のこの決戦こそがその時である。否、単にそれだけに留まらない。
(奴の企図が伊吹童子の語った通りなら、平家にとって有利な今の潮流は、戦を長引かせるためのものかも知れない)
「一貫坊殿、こちらへ」
 範頼が呼び寄せる。彼女は求められるままに、そのまま耳打ちを受ける姿勢になる。
「一貫坊様。この潮の流れが奴の仕業だと考える事は、出来ませんか?」
 潮流を反転させるなど、川の流れを変えるよりも無理難題というもの。どれ程の力をつぎ込めば可能になると言うのか。だが奴の力が実質無尽蔵だとは、射命丸自身が先に聞き、伝えてもいた。
 言われた射命丸ははたと見返す。己も考えていた、可能だとは思う、確信は無い。視線と共に認識が重なる。
「そうです、太郎であれば奴の姿を見通せるかと」
 それを受けた範頼、今度は頼景と共に立つ太郎を呼び寄せる。
「太郎、奴は、今どこに居る?」
 太郎はその言葉を問うた意図と共に理解し、すぐさま遙か彼方の、船団があるべき方向を見回す。しかし視えない。それでもあの戦場に奴の姿があるのを信じ、絶対居るはずだと視線を走らせる。
 東方の水上からの払暁の光が太郎の目を射す。これを避けて視線を上げる彼女の眼に、あの姿が映った。
 他の将兵の目がある。太郎は口は一切開かず、範頼と、射命丸に対しても雲居を指し示す。
「奴は、あそこに居るのか」
 射命丸の問いに無言で頷く。今度はそれを受けた射命丸が、範頼の前に膝を付き頭を垂れる。
「ついに、役目を果たす時が来た様でございます。この潮の異常、並ならぬ怪異の仕業に相違無し」
 今度はあえて周囲に居る者皆に聞こえる様に言う。物怪だ怪異だと馬鹿げていると言う者も居れば、それもあり得ると同意する者もある。それらを意に介さず、頭を下げたまま射命丸は求める。
「参州殿、下知を」
「一貫坊。お主はその法力を存分に振るい、我らの行く手を阻む怪異を除くべし!」
「はっ!」
 すっくと立ち上がり、すぐさま岬の方へ駆け出す射命丸。それを少しだけ見送って、範頼は周囲へ命じる。
「和田殿、今の事は卜占(ぼくせん)(※5)の如き次善の策でござる。我が軍は、海戦の如何に関わらず平家を一網打尽にすべく、直ちに全勢力を以て沿岸を固める」
 本営はこの場から東へ移して戦況を見極め、長門に駐留する全軍に、彦島との間を走る小瀬戸の水道を固めるよう、陣地変換を命じる狼煙を上げる。最悪、数少ない船での彦島攻めも視野に入れて。
 こうなれば勝たない限り帰りの糧秣にすら困窮する、それも承知の上。それでもこうせざるを得ないのだ。
 範頼が命じると同時に、待っていたとばかりに義盛は動き、郎等らにつぶさに命令を発し始める。
 陣が慌ただしく動き始めた。その中心に在って、落ち着く事に務める範頼。頼景がその彼に耳打ちする。
「御曹司、一貫坊殿を見送って来てもよいか?」
 何がおるかも知れぬ。万が一もあり得るのに、あのまま一人で征かせるのは寂しすぎる。範頼が一番に思っているのだろうが、彼にはそれが出来ないのは分かっている。ならばせめて己だけでも。
 そう、頼景は範頼の思いを汲み、範頼は頼景に託して鷹揚に頷く。頼景は、「よし」と小さく呟くと、すぐさま馬に跨がって駆け始め、その横には太郎もついて行く。
「参州殿、拙者も行くのをお許し願いたい」
 次長が、頼景が駆けるのを見て求める。
「しかし、手勢をまとめる者が――」
 範頼直属の麾下、――まだ三河の者を引き連れている訳では無いため――従来通り相良や横見の衆の事。それならばと、諦め顔の頼綱が言う。
「また俺が居残りですな」
 それを受け、では御免と次長もすぐに駆ける。彼らは己の思いを体現すべく走るのだ、今度は範頼も彼らの後ろ姿をずっと見送る。
「頼綱殿、毎度すいません」
「勿体ないお言葉。それにもう、慣れました」
 苦笑を浮かべる頼綱に、袈裟頭巾の下からいつになく優しい目で、大変穏やかな声で常光が言う。
「頼綱殿、ご安心を。拙僧も徒ではあの御仁らを追いかけられません、こちらにお供しましょう」
 頼綱と常光につられ、範頼もはにかむ。三人が今思う事は、平家との戦に勝つ事や、宗盛と天邪鬼を討ち果たすよりも、射命丸の無事だけになっていた。

 西へ向けて走る射命丸には、頼景では無くまず太郎が追いついた。彼女が全力で駆ければ馬よりもずっと速い。そしてその姿を見て射命丸は驚く。
「どういう風の吹き回しだ?」
 仇の姿を見納めにでも来たのか。射命丸は、それもよかろうと太郎を併走させる。
 だが太郎は、通じない“言葉”で叫ぶ。
「ウゥ、ヲフ、ヲンヲン!」
「なんだ!」
「ヲフ!」
「太郎、いくら何でも分からんぞ」
 まず追いついたのは頼景。言葉が無くとも太郎と多く心を交わす彼であっても、今の太郎の言わんとする事は解し得なかった。
「一貫坊殿、俺達は鳥とは違う。お許の様に空を駆ける通力も無い。不甲斐ないが、全て任せました」
「ヲン!」
「ええ、承知です!」
 もう辺りに兵の姿は無い。人家も無いし、この様な時に漕ぎ出す漁師も居ない。いつでも飛び立てる、そこにまた次長が追いついた。
「一貫坊殿! ゆやの仇、必ずや取って下され!」
「もとより!」
 ただの悪鬼調伏であれば、己がここまで身を尽くす事は無い。これは己の非道を雪ぐため、ゆやの無念を晴らす為なのだ。射命丸は彼らの、彼らには果たせぬ願いを一身に負う。
 松林が開けて林道が途切れ、海が見えようとしてる。岬に出たのだ。
 直ぐ先には浜が見える。そこに至る前に射命丸は走りながら強く地を蹴ってから、常の目線と同じ程度の高さを飛ぶ。太郎以下の三人も浜が続くまでそれに併走し、とうとう海に至った。
「一貫坊殿! 何卒、頼みましたぞ!」
「ウヲン!」
 汀からの、頼景と太郎の一際強い声を受け、射命丸は殆ど垂直に空を駆け上がり始めた。
 朝陽の中へ入るその影に、次長は語りかける。
「やはりお許は、あの子を導く鴉でありましたな」
 射命丸の、二十数年前に翼を消した背には今、それが再び顕れていた。しかしそれは風をはらむ事も無く、純粋な推力で彼女を高層へと推し上げる、八咫に及ぶ黒い光の翼であった。
「御武運を――太郎、お前は一貫坊殿に何を言いたかったのだ?」
 別に大した事では無い、頼景にはその様な表情で応える太郎。しかしその胸中にある射命丸への思いは強かった。
 あいつは気に食わない。だがあいつは、ゆやにとっても範頼様にとっても、今は無くてはならない支えだ。だからどんなになっても、生きて帰って来い。
 通じる訳の無い言葉だからこそ、思いっきりそれをぶつけていたのであった。

       ∴

 雲居の向こうを目指して飛ぶ射命丸は、大小の兵船が往来する海上を睥睨し、戦況の一端を把握する。やはり潮の流れが悪いのか、先行する三浦勢らしき白旗の船団が一旦取って返している。本隊へ合流して再度の前進を試みるのだろう。
 その時までに潮流が本来あるべき方向に戻っていなければ、いくら義経でも勝つ事は難しい。どれだけ沿岸の要所を固めても気休めにしかならない。
 奴を討っても、すぐに潮流は戻るのか定かでは無い。それより己は奴に勝てるのか、射命丸の心に不安が募る。策は既に腹にある、それでも不安全ては拭えない。
 様々な思いを胸に、全力を以てその身をこの国の頂よりも上に推し上げた射命丸。太郎の指し示していた方角に正確に変針し、水平のまま、薄い空気の中を今までより速く飛ぶ。
(この匂い……)
 やはり奴は居る。燃水の匂いを放つ妖気を発する、奴が。
 独鈷杵を右手に携え天邪鬼を捜索する射命丸。彼女の正面に、帯の様に連続した光弾が襲いかかる。
「来たな!」
 速度を殺さずに左に横転し、気弾の掃射を避ける。彼女を追いかけて射線が指向方向を変えるが、それは射手――天邪鬼の姿を暴露させる結果に繋がった。
 雲間から続く気弾を避けきると、射命丸は高度を上げながら右旋転し、気弾の中心に躍り掛かる。
「食らえ!」
 奴はそこに居た。的を違える事無く順手で斬りかかる射命丸に、天邪鬼は建制の気弾を放って突進を阻む。
 急降下のまま身を逸らしてそれを避けると、再び旋回、上昇を始める射命丸。そこに、酷く耳障りな声が響き始めた。
「あの時の小鴉か、こんな所まで大変だったなぁ」
「お前は! 何故こうも人の世に手を出す!」
 上昇しつつ一合。射命丸は手応えを感じるが、天邪鬼の身には傷も何も見られない。
 どれだけの法力を、あるいは通力か妖力を尽くせばこいつを斃(たお)せるのか、射命丸は見積りながらもそれは期待していない。それでもこうして己が奴と対峙する事で、海上の異常を少しでも殺げる可能性はある。
(それも奴次第か――)
 乾坤一擲の一撃を。その機会を得るために再度旋回し、気弾を掠らせつつまた降下する。
「それは私が言う事だ。お前こそなんで人間に、武士に与する?」
「お前の企みを! 潰すためだ!」
 天と地を覆す回天の、黄泉をこの世に溢れさせる、それを断つため。
「大したモンだ、気付いたか。だが良いのか? あの義経って奴、神器がどれだけ重要か理解してるのか? 神器の回収も考えずに源氏が勝てば、宗盛はアレを海に沈めるぞ?」
 それがこの戦場の、もう一つの意味。
 天邪鬼からすれば、平家が勝って、宗盛の手中に玉体と神器が残るのが最上。後はゆるりとに料理する。そうでなく源氏が勝つなら、神器も何もかも海の底へ。どっちにしろ皇統を害するのを目的とする天邪鬼にとっては都合が良い。
 海戦の如何は、範頼が信じる義経の手腕を、己も信じるしかない。どのみち己は天邪鬼を倒し、宗盛を斃せる様にしなければならないのだ。
 射命丸は自身にそう言い聞かせ、全法力を込めて斬り付ける。
「オーム マユラ キランティ ソヴァハ!!」
 今度はどうか。進路をそのままにそう振り返った射命丸。その彼女に対し、今までその場を動こうとしなかった天邪鬼が動き、後を追いながら気弾を放つ。
 慣性を無視して、通力による機動頼みに、全力で体を左右に振り気弾を避ける。数発が射命丸を捉えるが、彼女はそれでも飛び続ける。
 効いている、潮の操作にその力を大きく割いている為か。だが今のままでは有効な一撃が無いのは承知。
(撃って来い!)
“それ”を誘いながら飛ぶ。
 その速度差に気弾は殆ど当たらず、幾度も射命丸が斬り付けるのに苛立ってか、天邪鬼が次の行動を取る。
「“ようもオラを楽しませてくれる。別れるのは残念だが、ここは苦しめずに殺してやろう”」
 ぞくりと背が粟立つのを射命丸は感じる。並ならぬ妖気が虚空に充ち満ちる。
(私も、安穏と蒲殿の傍に居たわけじゃないんだよ)
 怯まずに気を張り、あえて次の一撃を待つ。
「天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)、天壌の現(うつつ)一切を夢と為せ。天を根の国底の国とし根の国底の国を天とし、中津国(なかつくに)に秋津洲(あきつしま)に常世を溢れさせ――ゆらゆらとふるべ」(※6~8)
 天邪鬼の手には弓も矢も無い。それでも、射命丸の行く手には、雲間から無数としか表しようの無い、数多の矢が打ち上がって来た。
 ついに来たか、しかしここまでとは思わなかった。池田荘で太郎を射殺した時の様な、ただの一矢を予想していた射命丸。脂汗もかけぬほど緊張し、翼の推力を頼りに高度を急速に上げて相対速度を殺しながら、天に向かって降る矢の雨をかいくぐる。
 しかしまだこんな物ではない、本命は――
「あがぁっ!?」
 一本の矢が彼女の左脇腹を貫いた。それは長さ十八束にも及び、素槍と見まごう一尺を超える鏃を持ち、箆が鉄製なのではと疑う程の重量。
 飛行速度は急に落ち、背からも黒い光の翼が消える。
 天邪鬼は「ざまあみろ」と言いながらケタケタと笑い、勝ち誇る。もはや飛べず落ちるだけ、頭から落下し始めた射命丸を見て天邪鬼はそう思い、術も既に止めていた。
 だが射命丸の意識は途切れていない。宗盛に憑いていた天邪鬼が、――弓箭(きゅうぜん)に携わる事を知らぬ――彼同様に残心も知らない事を、幸いと考えてすらいる。(※9,10)
 飛ぶのは己の意思で止めたのだ、全力を結集するために。射命丸は静かに祝詞を唱え始める。
「かけまくも畏、恐れ多くも高御産巣日神(たかみむすびのかみ)に奉る。此の矢をもって天羽々矢(あめのははや)の形代とし――」(※11)

――天邪鬼。範頼はその由縁を次の様に語っていた。

   かつて上代に、この様な事があった。
   高天原(たかまがはら)の天照大御神は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するため、天菩比神(あめのほひのかみ)を葦原中国の王大国主神(おおくにぬしのかみ)の元へ遣わされた。だがいつになっても天菩比は帰って来ない、彼は大国主の家来となっていたのであった。
   次に、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子天若日子(あめのわかひこ)を遣わすのがよいとされ、彼に天之麻迦古弓と天之波波矢(あまのははや)を賜い、大国主の元へ遣わされた。
   だが彼も帰らない。あろう事か彼は、大国主の娘の下照比女(したてるひめ)と契り、葦原中国の王となろうとしていたのであった。
   天照大御神と高御産巣日神は、帰らぬ理由を問うため雉鳴女(きざしのなきめ)を遣わした。
   問わんとする事の大意はこうである。
  「汝を葦原中国に遣わしたのは、荒ぶる神達を平定するためであった。何故八年も帰らぬのか」
   雉鳴女が天若日子の家の木にとまりこれを宣(のたま)おうとすると、これを見ていた天佐具女(あめのさぐめ)が言う。
  「この鳥の鳴き声は大変不吉である、射殺してしまうのがよい」
   彼はそそのかされるままに天之麻迦古弓と天之波波矢を引き、雉鳴女を射貫いてしまう。
   神託は曲げられ、彼は天に弓引いたのであった。
   矢はそのまま高天原まで射上がり、天之安川(あまのやすかわ)におわした天照大御神と高御産巣日神の元まで届く。
   血の付いた矢羽を見た高御産巣日神は、
  「もし天若日子が勅を誤ること無く、悪しき神を射た矢がここに着いたのであれば天若日子には当たらず。もし彼に邪心があればこの矢に当たれ」
   と宣い、矢を投げた。
   かくしてその矢は、寝床にあった天若日子の胸を射貫き、彼を死に至らしめた。
   ここから、摂理に逆った者への覿面の罰として還し矢という言葉が生まれ、また行ったきり戻らない事を雉の頓使(ひたづかい)と言うようになった。

 すっとん、おしまい。

 天邪鬼とは天佐具女で、かつてその様な者ではなかったのかと範頼は思い、話したのであった――

 秋葉山にて、社僧としての素養も修めた射命丸であればこそ、ここにその神威を顕現するすべを知っていた。その因果が、天邪鬼を射貫く物であるのにも辿り着いた。ここまで力を持ってしまった妖を討つには、この一撃に賭けるほか無い。
 射命丸の考えが正答であるのを肯定するかの様に、彼女の意図に気付いた天邪鬼は叫びながら反転して、太陽へ向かい逃げ始める。
「よせ、止めろ! その呪詞(のりと)を今すぐ止めるんだ!」
 落ち行く射命丸は天邪鬼を見据えながら、祝詞から方術が発効するのを待つ。
「――畏み、畏み、白す」
 同高度に至り、彼女の腹わたを箆が走り羽ぶくらがくすぐり、矢は背から貫(ぬ)けた。
 十八束の矢は雷光の如く鋭い軌道で反転すると、天邪鬼目がけて飛翔し、肉を裂き骨を砕く音をさせてその胸を貫いた。
「鴉は、雉より高く、飛ぶ」
 息を吐く度に脳天にまで走る痛みを耐え、射命丸は言葉を絞り出す。二の矢は無い、墜ちろと祈りながら。
「あ、お……冗談じゃ、ないぞ。よくもやってくれたな、ようも。これで終わりと思うな、すぐに――」
 西からの突風が二人を襲う。天邪鬼はそれに乗ってか飛ばされてか、遙か東に向かって消えて行った。追いかけて末路を確認する事もできない。射命丸は僅かな力を絞り出し、壇ノ浦へ変針する。
 戦いながらだいぶ東に流されていた。潮流は戻っただろうか、合戦の行方は。血は身体の前後二つの傷口から流れ続け、認識は曖昧。その彼女の眼下では、白旗が赤旗を食い荒らす様に襲いかかっていた。
 戦には勝つだろう、そう確信した。
(しかし私は帰り着けるだろうか。いや――)

≪力はもう、無い≫
≪でももうそれも、いらないのかも知れない≫
≪だって、そこには……≫

       ∴

「――この海峡の満潮時は始まり、やがて十三時、潮はおもむろに西へ走り始めている」

       ∴

 陣で情況の変化――潮流が反転し義経らが反攻に転じた事を聞いた範頼は、射命丸が天邪鬼を調伏したと確信していた。
 事を成したなら早く戻って来て欲しい。そう願いながら、本営で水平線を睨んで待つ彼の前に、頼景と太郎が現れる。
「御曹司! 行きますぞ!」
 何の前置きも無く放たれた言葉を範頼はすぐに理解し、今ばかりはと即座に応じる。
「分かりました。和田殿、申し訳ありません。しばし陣を空けます」
「勝利はすぐそこですぞ!? こんな時に何処へ」
「卜占の結果を見に。もし万一梶原殿がおいでになったら、適当に言いくるめて下さい」
 止めようとはしない義盛であったが、景時の名を聞いて、大変厭そうな表情を浮かべる。
 範頼はそれを尻目に頼景の用意した馬に跨がり、太郎の先導を受けて駆け出す。
「蒲殿、拙者も参りますぞ!」
「勝間田様、行きましょう!」
 飛び立ったのとは別の浜に向かって駆ける。陣に直接降り立てないのは分かっている、どこに降りたのか。浜を見渡しながら範頼が太郎に問う。
「太郎、一貫坊様はどこに!?」
「ヲフ!」
 目を左右に走らせてから、太郎は少し沖の方に視線を止める。波間に人の影があるのを男達も認めた。
「どこかから舟を――おい待て、御曹司!」
 範頼が太刀を下ろし、大鎧まで脱いで鎧直垂姿になる。何をするのかは問わずとも分かった。
「射命丸様!」
 馬上に戻って叫びながら、馬を泳がせ沖に漕ぎ出す範頼。頼景がそれを見守る側で、今度は太郎が胴丸を剥いで海に入る。
「太郎お前まで、よさんか!」
 頼景や次長が止めるのも構わずに、二人は射命丸の元へ向かう。
 一町も無い距離ではあっても、海上でのそれは遙か彼方。範頼は波に阻まれ潮に押されながら、この様な中で戦う義経達の事を頭の隅に思いつつ、射命丸の側まで辿り着いた。
「射命丸様、しっかりして下さい、射命丸様!」
 太郎の助けを受けてその身体を馬の上に引き揚げると、頬を軽く叩きながら呼び掛ける。脇腹と、背に抜けた傷も同時に確認した。
「蒲、殿……」
「射命丸様!」
「ヲフ!」
「奴は、討ちました……」
 それだけ言って気を失う射命丸。範頼は動揺しながらもその身を支え、すぐに浜へ馬を戻す。
 浜に敷いた鎧の上に彼女を乗せ、範頼と次長が手当てをする。頼景は車が必要になるであろうと、既にこの場からは姿を消していた。
 太郎に手を出す余地は無く、ただ見守る。
(コイツの傷は決して浅くない。でも今の私と同じ、妖の身のコイツなら、これだけの手当てをすれば助かる)
 太郎はそう考えながら胴丸を着け直し、次に水平線の向こうに目を向ける。
 射命丸の活躍があってか否か、戦況は好転し、鎌倉・義経軍はもう残敵掃討に移行しつつある。
 四国ではこの戦に呼応した動きがあったが、これも景時らの采配によって鎮まった。
 己と、彼ら、彼女らの戦いは終わったのだ。思いの丈を込めて、太郎は力一杯に吠えた。

       ∴

 海戦の大勢が決し、平家の戦船は大小問わずに散り始める。上陸できる陸地は範頼麾下の鎌倉軍が固め、海に沈むか矢衾の前に身を晒すかの二択となった。
 義経の戦は、釣り糸が水面を貫くが如く、易々と相手を打ち破るもの。しかして裏を返せば、敵戦力を討ち果たすだけに特化し過ぎていた。
 故に義経には、頼朝が特に重々に下した命令を成す事は叶わなかった。否、それは彼にとっては予め、勝ちの次の事であったのかも知れない。
 内侍所と神璽は辛うじて確保するも、宝剣は二位尼が幼帝と共に抱き、海に没した。頼朝が「身の安堵を」と重ねて下していた玉体は、水底の楽土に至ったのである。
 しかし宗盛などは、平家の勇士が武の程を見せつつ沈む中、子の清宗と共に波間を遊弋(ゆうよく)し、事もあろうに義経の郎党――義仲を討った――伊勢義盛にすくい上げられたのであった。

 本営の範頼の側で、陣幕一つ隔てて板に寝かされた射命丸は、その向こうから聞こえる範頼への報告を聞きながら思う。
(天邪鬼の企みの半分は、叶ってしまったのかも知れない)
 ただし平家一門には――生き残った者もあるとはいえ――再起の目は無い。頼朝の思惑を超え、義経の願ったとおり、平家は滅亡したと言って良かった。
 だが範頼はどうか、射命丸は思う。
 ゆやは取り返せた。しかし彼女は酷く傷付けられ、彼女をそうした張本人はここで誅される事も無く、鎌倉へ送られる。
 八つ裂きにしても足りない。事の発端の一つは己であったのも射命丸は自覚している。それでも宗盛に対する怒りは、湧き続けていた。
 出来れば今から義経の陣へ飛び、丁重な扱いを受けながらも戦々恐々と過ごしているであろう宗盛を襲い、この手でくびり殺してやろうかとも考えていた。もしかしたら、助命されてしまうかも知れないのだ。
 陣幕を隔てた向こうの範頼の顔を、心を、射命丸は見たかった。

 夜になり、行き交うのも歩哨や交代の立哨ぐらいになった範頼の陣。まだ平家の残党が潜んでいるかも知れず、戦勝の乱痴気騒ぎも無い。
 頼景ら郎党も既に眠りに就いた時分、範頼が射命丸の寝る陣幕の内に現れる。
 傷の手当ては、太郎が寝る前に行っていた。しかし荒っぽい彼女の手当に、射命丸は痛みで覚醒し続ける羽目になっていたのだ。
「お体の具合は如何ですか?」
「太郎の奴めに、憂さ晴らしをされた様で御座います」
 彼女が射命丸を好いていないのは範頼も承知している。それでも手当自体はちゃんとするのだから、射命丸の言葉を受けた範頼も判断に迷う。
 射命丸の血色は悪いが、顔色は明るい。彼女の苦笑もあって、太郎の事も半分は冗談なのだろうと、範頼は少しほっとする。
「もっとよく手当の出来る宿場へ後送できればよいのですが」
 残念ながらそれに割く人手は無いし、射命丸もそれが分かっているため固辞していた。自身にも多少は僧医としての心得があるからと言い添えた上で。
 身体の傷などは人間よりも早く治るし、すぐ動けるようにもなる。その方が範頼達への負担が少ないと見積もり、今しばらくの足手まといに甘んじていた。
「天邪鬼を討った代償だと考えれば、安いものです」
 努めて気丈に振る舞う射命丸。しかし範頼の相貌は暗く沈んでいる。
 その様子に射命丸は気付き、彼の心情を推し量る。
 三尺坊の六年越しの命令通り、天邪鬼は己が討ち果たした。後は範頼率いる鎌倉軍が宗盛を倒せばそれで終わりとも思っていた。
 頼朝からの命令はあった、宗盛を捕らえよと。とは言えど戦場であれば、幼帝や非戦闘員である女官らとは違い、武将の首が上げられる事はやむない事とも捉えられよう。宗盛が誰かに討たれても、さして問題にはならなかったはず。
 やはり、それが成らなかったのを悔いているのに他無いと、射命丸は察した。遠江を出でて、ここまで至った経緯を思えばそれが当然だ。
 ところがその範頼から、射命丸が想像もしなかった言葉が飛び出す。
「鎌倉殿のご命令通り内府の身柄は確保しましたし、後は主上と、それに宝剣が無事であれば」
 宝剣と、重衡が切に願っていた玉体の安堵は絶望的、なれば宗盛を生け捕れただけでもよし。それは宗盛が生き残った事を、頼朝の命令を遂行出来たのだとして納得するものだ。
 それでいいのか。射命丸は戸惑う。
「蒲殿、私は蒲殿が奴の首級を上げるのを、これまで、夢にまで見ました」
 ゆやの事は口にしない、天邪鬼調伏の対ともなる責を果たせ――などとは、そんな言葉すら射命丸には思い浮かばない。
 湖沼の澱みにも似た物だけが、その胸中に溜まる。
「一貫坊様」
「はい」
「ゆやは、どう思うでしょうか?」
 彼女の父と、彼女自信の仇を討つことも出来ずに戻る己を、どう思うであろうか。範頼は――妖ではあれども――射命丸であるからこそ、それを問うた。
 決してゆやの事を忘れて物を言っている訳では無い。それが分かっただけで、射命丸のわだかまりは和らぐ。
「蒲殿の心が、ゆやの心だと思います」
「私の心……私には、私の心が分かりません」

     * * *

 元暦二年三月廿四日。
 源平の戦いは、この日の払暁より始まった海上での決戦で幕を閉じた。
 陸地を範頼率いる鎌倉軍が固める向こうで、義経は不利な状態から海戦を開始し、やがて打ち破る。
 義経は潮流が反転するまで、非戦闘員である水主を射殺させるなどの非常手段を用いて、不利な状況を打開した。これは機略奇策を用いて来た彼にこそ為せた業であり、戦であった。
 しかし非情に余りある戦の運びは女官らを恐怖させ、それは安徳天皇や国母建礼門院、並びに二位尼の恐怖ばかりをかき立て、勇将が死にもの狂いで戦う後ろで、彼女らは次々と入水する。
 その腕に剣璽や神鏡、神璽、そして玉体を抱いて。
 幸いにも神璽を抱いた女官はすぐに救い上げられ、神鏡も取り戻された。だが剣璽(けんじ)は玉体と共に海の底に沈んで行ったのだった。
 天邪鬼の企みは打ち破られたがしかし、皇統には大きな疵が残った。

 鎌倉は戦勝の祝福よりも神鏡と神璽の還御を第一とし、次に宗盛の鎌倉への護送を行う。そう、鎌倉にとっても、決して祝える状況では無かったのだ
 生け捕られた宗盛は息子清宗(きよむね)共々、義経の護送の元鎌倉へ送られる。
 そして一方、大将軍を勤めた範頼は鎮西へ残り、剣璽捜索の命を受けながら、当地の戦後処理と平定に取りかかる事になる。

 彼らの帰郷はまだ先。戦いも、まだ続くのであった。

第17話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 潮流:海流。義経の出撃時刻がいつ頃であったかは今も論争があるが、彼らは最初に不利な状況に陥り、後に盛り返した事が物語系諸本で描かれている。
※2 六韜三略:周の軍師呂尚(太公望)の兵法書。『義経記』では、これを修めると神通力が会得出来る描写があり、鬼一法眼の娘の皆鶴が義経にこれを見せた。
※3 阿波国:現在の徳島県。穀物の粟がよく採れた事からついた国名
※4 束・伏:束(つか)は数量の単位で、ここでは長さの単位として使用。1束で親指を除く拳一握り、8cm強を表す。伏せも長さの目安で、およそ指一本の幅
※5 卜占:“卜”はトランプやタロット、クジ引きや亀甲占いなど、占う事象を偶然性と共に事物に落とし込んで見立てる物。単に占いという意味でも使う。
※6 天之麻迦古弓:劇中で語られた通り。天若日子が授かった弓。天鹿児弓とも表記
※7 秋津洲:広義には大八洲(前述)と同じ。古事記や日本書紀からの狭義では、『大日本』『大倭』(おおやまと)と前置し、日本列島本島(本州)を指す。
※8 ゆらゆらとふるべ:十種神宝の祓祝詞の一節、由良由良止布瑠部と表記。“鎮魂(たましずめ)”で人等に定着させた魂(みたま)を活性化させる“魂振り”
※9 弓箭:弓と矢。これに携わる者とは、即ち武士そのものを指す。
※10 残心:敵を倒す等した後、油断せず構え(戦闘態勢)をそのままにする事。現代でも武道の仕合においてこれを怠ると、有効打と見なされない場合が多い。
※11 天羽々矢:劇中で語られた通り。天羽々矢と天之波波矢は同一で、出典により表記が異なる。
(章題は劇中で文が語った戯曲『子午線の祀り』(作:木下順二)から。知盛と影身という名の侍女、重衡の群像劇。ゲーム『聖剣伝説2』の同曲名の元ネタとも)
紺珠伝で、ほぼそのまま『天探女』のサグメ様(まさかの天邪鬼2人目)が登場しましたが、ひとまず本作には影響有りません。有りませんでした。

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