東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編   木ノ花中編 第2話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編

公開日:2016年04月06日 / 最終更新日:2016年04月06日

十七./箙の桜・後(西暦1184年)

 丑三つ時、突如上がった咆哮や怒声に、大手勢は一時騒然となった。
 範頼も慌てて状況の確認にかかる。平家勢が打って出たのだとしたら、こちらは押し返して、生田口をこじ開ける手間を省く。これも腹案の一つであったが、現在の情況はそうではなかった。
「蒲殿、大鎧ぐらいすぐに着けませい!」
「今着けました!」
 次長が急かすのに、ちょうど今と答える。
 一体何が起こったのか、範頼の在する陣幕に大手勢の諸将が集う。そんな中、本来あるべき人物の姿が無いのに、一同は気付く。
「平三殿は、いずこにおわすのかな」
 誰かが言う、景時が居ない。当初は虚勢半分の冗談交じりに色々と言っていた諸将であったが、事態が判明すると皆顔を蒼くする。
「注進! 梶原勢が生田口へ攻撃を仕掛けた模様!」
 抜け駆け、あの景時が。まさかとしか言いようのない出来事であった。
 困惑する範頼であったが迷っている暇は無い。情況が動き出してしまったのだ、何かしらの判断を下さねばならなかった。
 兵の続かない先陣――抜け駆けには、功も何も無い。最悪見捨てられても文句は言えないのだ。これは景時こそよく知っているであろうに。範頼は決断した。
「我が軍はこれより前進する! 先駆けた梶原勢に後れを取るな!」
 木曾勢との戦では搦め手勢、今回は景時の後塵を拝す。何の因果か己はこんな戦ばかりかと苛立ち、肩を落としつつも、範頼には兵を進める他無かった。

 一方、搦め手勢も全く別個に動き始める。
 静かであった山中の平家の陣に火の手が上がり、瞬く間に燃え広がった炎が、人と言わず馬と言わずに襲いかかり、焼いたのだ。
 義経の仕掛けた火計か。一旦木に降り立って休止していた射命丸も驚いて飛び立ち、状況を確認する。火に巻かれた平家勢が逃げ惑い、辺りは阿鼻叫喚の様相となっていた。
 空気も森も乾燥している、瞬く間に火は燃え広がって行く。搦め手勢が火を付けたとしても、自らがこれにやられたのでは愚かの極み。そうなっていない事を祈りつつ行方を捜す射命丸、しかし彼らが本来掲げている松明すらも上空から見えない。否、隠れてしまった、もっと大きな光に。
 三草山その物が巨大な続松(たいまつ)(※1)として、赤々とした灯りが空にまで映じるほどに、燃え出したのだ。
 ともかく搦め手勢の安否を確かめねば、跳び回るしか無かった。

 大手勢では、何故景時達が抜け駆けをしたのか、ようやく状況が判明しかかっていた。
「蒲殿!」
「どうしました!?」
 頼景が太郎を伴って現れる。太郎が梶原勢のおおよその動きをつかみ、それを頼景が確認して持って来た。
 実際に抜け駆けをしたのは梶原勢全体ではなく、彼らの郎党の一部であったのだ。それが生田口で逆茂木(さかもぎ)(※2)や戸口で阻まれ、更に返り討ちにしようとする平家方まで打って出てきたため、それを迎え撃ちつつ攻める羽目になっていたのだった。
「何という……では今、梶原殿達は!?」
「太郎が言うにはそのまま生田口に踏み込んだと」
 彼女が“言った”というのは、実際には何かで示すか記すかしたのであろう。しかし今頼景が言った内容はそれどころでは無い。
「ちょっと待って下さい。今現在、戸口は閉じていると聞いています」
「だから、孤立しているのだ!」
 今以て、城壁から櫓から、矢の雨が降り注いでいる。後に続こうとした大手勢は、最初に抜け駆けした梶原の郎党と同じく攻めあぐねているのだ。
 今度は平家も迂闊に打って出たりはすまい、こちらからこじ開けるしか無い。
 下手に攻めれば大手勢は壊滅の憂き目に遭う。
 しかし、
「蒲殿、止められても俺は行くぞ」
「ヲフ」
 景時はどうとでも、あの気持ちの良い若者を、景季を死なせたくはない。感情の赴くままの話であるが、太郎もそれに賛同してここに居る。
 範頼にしても、見捨てる気は無かった。
「分かりました、まずは生田口を破りましょう」
 それによって却って大きな損害を被るかも知れない。それを押しても行くべきだと、彼は己の意思で判じたのだった。

 景時とその一族郎党およそ五百騎は、閉じた戸口の内側で孤軍奮闘を続けていた。しかし四方八方敵だらけの中、その数は、勢力は徐々に減じてゆく。
 そんな時であった。
「生田口が破られたぞ!」
 平家の兵の、悲鳴に近い声が響く。
 しかし大手勢も逆茂木や壕に阻まれ、企図した様に戦力を投入出来ないでいた。
「親父殿! 兄者! 俺はまだまだ戦えますぞ!」
 僅かなながらでも味方の後続が侵入しからか、気を大きくして言うのは景時の次男、平次景高(へいじかげたか)。父親似の人相の悪さを持ち、兄に劣らぬ武を振るう悪漢である。
 言うや更に奥へ向かって進もうとする彼を景時が諫め、踏みとどまるよう諭す。
「景高! これ以上の深入りは危険だ、退いて本隊に合流するぞ!」
「何を仰います! 一度引いた弓の矢がただ放たれるが如く、今こそ駆けるべきです!」
 聞かぬか。そう独り言ちてから、止む無しと景高に続く景時。それに景季、三郎景家(かげいえ)も続く。親子兄弟四人の決死行であった。
 一体となって太刀を震い、縦横に駆け、瞬く間に十人二十人と討ち取った。景時は深入りし過ぎたと見るや、一旦取って返すように息子らに叫ぶ。
「景高! これ以上は許さぬ、退くぞ!」
 辺りから突き出される徒武者の薙刀を巧みに払いながら言う。多勢に無勢どころではない、鱶(ふか)の満ちる海を泳いでいる様なものだ。
 それだけの大立ち回りをしながら生還した景時であったが、後に続く者を確かめ、顔色を変える。
「景季は何処か!」
 はぐれたか。子の中では最も武に長じ、乗る馬も誉れ高い名馬。討たれたとは景時にも信じられなかった。
「景季を探し出す! ゆくぞ!」
 轡を返す景時に、ピシャリと怒声が浴びせられる。
「平三! 退かぬか!」
 そう言い放ったのは、大手勢の総大将、範頼であった。間違いなく彼である。
「我が子、景季が敵陣にて孤立! 我々はこれより助けに向かうものである!」
 範頼の言葉に背いて言う。しかしそれには更に強く返る。
「常ならば構わぬ、だが戦場に在っては総大将の言葉、鎌倉殿の命(めい)と聞け!」
 ここまで言われては、景時も黙るしか無かった。
「先駆けた梶原勢を後送する! これ以上勇士を失うな!」
 景時は口惜しそうに、戸口から侵入し続ける大手勢に逆行し、後陣へ向かう。頼朝の命令と切り出されてはそうするしか無かったし、軍監としてこれ以上軍紀を乱す事は自身でも許せなかったのだ。
 その彼らの側を、頼景が駆けて抜ける。
「梶原殿、源太殿は俺達が!」
 それだけ叫ぶと、太郎や次長を始めとした横見や相良の衆を率いて前進する。頼景が頼るのは太郎の先導であった。
「太郎、どうせ乱戦だ、構う事は無い存分に駆けろ」
「ヲンッ!」
 見えない手綱から解き放たれた太郎は、頼景から譲り受けた三尺五分の大太刀を引き抜き、景季の姿が視える方へ一直線に駆ける。立ちはだかる兵は瞬く間に切り捨て、射掛けられる矢は残らず叩き落とす。露払いを行いながらのため速度は落ちているが、本来であれば馬にも勝る足、徒武者には次々と遅れる者が出始める。
 太郎が走る限り、景季は生きていると見てよい。頼景がそう考えながら見据える正面に、平家本隊の第一陣と見られる隊列が姿を現す。迷う事無く突撃する太郎。
「おうりゃ!」
 頼景らも太刀を振るいながら続く。敵陣の向こうで、体のあちこちに矢を受けながら戦う黒馬、それに若武者の姿を見る。
 景季は健在であった。しかし今以て何者かと対峙している。頼景らは一騎打ちではないと見て救援に走る。

 景季は敵の武者と馬上で打ち合いながら、互いに何事か言い合う。それは戦場に似つかわしくない、歌であった。
 その武者は、景季が箙に挿した桜に感じ入っていたのだ。
「東風なくも
     見ゆるものかは
           桜狩り――」
 その意味する所、不作法を承知で生け捕りせんと言うこと。討ち取るよりも難しい事をやってのけようと、大胆にも歌に乗せて宣言する平家の武者。
 景季はその言葉通りに辺りから差し出される熊手を払いつつ、返して聞かせる。(※3)
「――生捕り取らむ ためと思えば!」
 やれるならそうすればいいと、不敵に言う。
 聞いた武者はにんまりと微笑んで薙刀を振るう。凄まじい速度で、振られた薙刀の柄が景季に迫る。あわやそれは、景季に届く直前に断ち切られた。
「なんと……」
 薙刀を打ち棄て、追いつき払って太刀に持ち帰る武者。薙刀を破壊したのは――
「当麻殿!」
 徒武者の割っては入れる状況ではない、しかしそれは並の者の話。辺りの兵馬はことごと叩き伏せられている、太郎にとっては造作も無い事であった。
「景季殿! 無茶をなさるな!」
「頼景殿! すいません、しかし無茶もしたくなります。敵の、平家の大将を目の前にすればこそ、鎌倉の武士として!」
 大将、それも『平家』の。誰であるかについては、景季が答えを発する。
「平三位中将、重衡殿です」
「平重衡、あれが、南都を焼いた男……」
 暖かで穏やかそうで、しかしその眼からは景季を止める圧力を発する。だが今の様に、切り結びながらも歌を披露するほどの人物。
 彼の姿を知らぬ者は皆が皆、衆徒大衆諸共に南都を焼いた悪党、恐れを知らぬ大悪人としてしか見ておらず、一体どの様な醜男(しこお)(※4)かと想像していたのだ。風雅でありながら肝の据わった、そんな好漢と見える。
 景季を山桜と言うのなら、さしずめ彼は牡丹か。頼景は駆けながら冷静に思う。景季の相手として余り在る好敵手であろうとも。
「蒲冠者範頼が郎党! 相良四郎頼景に当麻太郎これにあり! 景季殿、助太刀申す!」
「頼景殿、ここは手出し無用に――」
「勇猛と蛮勇を履き違えなさるな! 太郎、磨墨を引き摺ってでも下がらせろ!」
 彼にはまだ次がある、だのに死なせるなどさせてなるものかとそう叫ぶ。武士としての恥辱など、後でいくらでも雪げる。太郎は太郎で、思わず吠え上げそうになるのを懸命にこらえ。磨墨と顔を突き合わせる。
 磨墨も景季と同様、まだ戦えると強い眼光を放っていたが、太郎が「言う事を聞け」と言う代わりに「グルゥ」と低く喉を唸らせると、観念して、しかし彼女を振り払って退き始めた。
 太郎は彼らを見送ると、大太刀を肩に担ぐ形にして敵兵に向き直る。間を置かずに駆け出した。
「太郎!」
 曲射での、頼景も近付けない矢の雨が降る中、俊足で敵陣の懐に殴り込み、瞬く間に弓を持った兵を切り捨て、あるいは打ち据える。
 あっと言う間に弓矢は沈黙する。太郎は踵も廻らさず、今度は驚きの貌を浮かべる重衡に向かう。
 駆ける勢いのまま太郎が白刃を翻して一撃を加え、逆にこれをいなした重衡の太刀が突き出される。太郎は身のこなしで反撃をかわし、馬上の彼の脇腹目がけて拳をくれた。
 重衡が落馬しそうになるのを支えた太郎は、大鎧を着たままの彼を両肩に担ぐ。右手には大太刀を持ったまま。
 長居は無用と、頼景は後に続く手勢に一方的に射掛けさせつつ、隊を本隊に合流させようと導く。それに重衡の後送も。
「太郎! 何故そんな無茶をした!」
 当然の疑問。あの勢いに任せれば危なげなく退けられたであろうに、あえて生け捕りにしたのは何故なのか。
「クゥーン、ヲフ」
 太郎はすまなそうに鳴き、詳しい訳は後で伝えるからと、懇願する眼差しを頼景に返す。彼も今はそれ以上言わず、太郎以下の手勢と共に隊の先頭に立ち、先導する。
 目の前には、主人を気遣ってか速度を落として走る磨墨、景季に追いついたのだ。
 手綱は握っているものの、苦しそうに前のめりになっている彼に、頼景は語りかける。
「桜など挿しているから桜狩りなどと言われるのだ、挿すならせめて梅にしなされ」
 さても傷の具合もさることながら、落ち込んでいるかもとおもんばかり、冗談半分に言う。景季はしかし、苦しげではあるが笑顔を向けて答えた。
「いえ、山桜の白い花が、当麻殿と重なったので」
 なるほど、憧れゆえか。
 頼景はそう納得し、しかし少し残念そうに、この無茶無謀な若武者を後陣まで誘うのであった。

       ∴

 空が白み、辺りは払暁の時を迎えつつあった。
 依然として搦め手勢の姿を求め続けていた射命丸は、いつのまにか一ノ谷まで流れて来ていたのに気付く。
 その眼下、一ノ谷の山側。射命丸の目が何者かの姿を捉えた、次の瞬間であった。
「怯えろ! 竦めぇっ! 兵馬の力を活かせぬまま死んでゆけっ!」
 突如、怒声が天を突く。射命丸がその主を確かめようとそちらに目をやると、闇に輝く白馬に乗った騎馬武者が高らかに叫んでいた。梓弓の弦の音の如く、邪気と魔を払うほどの清々とした声が、天に地に響き渡る。それは声だけで射命丸を射落としそうになる程。
 何処からの、誰の声か。射命丸は高度を下げて観察する。そして「まさか」という言葉がその口を突く。一ノ谷の平家本営の背後、屏風の如く切り立ち断崖絶壁と表すべきその場所に、小兵の若武者が数十騎の武者を引き連れて堂々と戦場を俯瞰していた。
 誰であるかは射命丸に分からぬはずも無い、搦め手勢の大将、義経。何故ここに居るのか、疑問はこれだ。
 赤々と燃える三草山、やはり搦め手勢が焚き付けたのに相違無かった。であれば、それを率いる彼は塩谷口に居るべきはず、なのにである。
(また独歩か……)
 これがどっちに転ぶにしろ、手放しで褒められた事では無い。
 まだ包囲が済んでいない。もしここで攻めれば、義仲と時と同様、彼らを逃がす恐れが高い。いや、ここでこれだけの兵で攻めれば、間違いなく平家は逃げ出す。義仲の寄せ手を前にあっさりと京を捨てて福原、太宰府へと落ち延びた、宗盛を惣領と頂く今の平家であればこそ、である。
 射命丸、そして義経らの眼下にある平家の陣では、松明が右往左往している。絶対安全な断崖の上に敵の姿があろうとは、想像すらしていない。依然として燃え続け、空に赤く炎の映じる三草山の方に、目を奪われてもいた。
 宇治川渡河の際には、義経が邪魔だった民家を焼いたとも聞き、単に火付けが好きなだけかとも思っていた射命丸。今はあの大続松に納得せざるを得なかった。
「我は! 清和帝九代の後胤、左典厩義朝が子! 源九郎義経なり!」
 射命丸の口から再び「まさか」の声が漏れる。
 馬も人も尋常では空を飛べぬ、ならばこの断崖は迂回して降りるのが道理。その道理は義経の無理無謀によって引っ込められた。
 騎馬ばかりの数十騎は、猛然と駆け下り始めたのだ。
 己の恐怖を払拭し敵を威圧する喊声が、蹄の音と共に響き渡る。ここに至ってようやく平家の陣も彼らの存在に気づいたのか、篝火がそちらに寄せられ、松明の動きもまばらながら一方向に向かい始める。
 喊声に混じって悲鳴が射命丸の耳に届く。案の定、降り切れずに落伍――転げ落ちる馬が出た。一騎転げ、その下に居たもう一騎も巻き添えに落ちて行く。助かるまいと彼女が察する必要すら無く、馬も武者も、首から何からひしゃげていた。
 それでも断崖を逆落としに下る勢いは止まらない、止まる術も無い。彼らは征くしか無いのだ。
 降り切るまでにどれだけ残ればあの陣を脅かせるのか、そう思っていた射命丸であったが、その考えは大きく裏切られた。
「敵だ! 山の手に源氏の兵の姿があるぞ!」
 今更ながらに平家の陣から声が上がる。
 そこに襲いかかるのは、僅かに三・四騎を失っただけの騎馬武者の一団。彼らは駆け切ったのだ、その先頭に義経を戴いて。
 平家の対応は間に合わない。意外な場所からの急襲に加え、義経らの陣容も明らかにならず、迎え撃つ兵も及び腰。そもそもここは、生田及び塩谷、並びに夢野の口が破られなければ絶対安全な陣でもあったのだ。
 百騎にも届かぬ騎馬だけではあるが、この情況にあっては――やはり敵を蹴散らすだけなら――十二分な戦力であった。
 陣幕が裂かれ篝火が倒れる。たちまち火の手が上がり、平家本営の混乱に拍車がかかる。
(このままでは――)
 塩谷口の方に搦め手勢の姿は見えない。義経が宗盛を討ち取れるならまだよし、しかしこの兵力では蹴散らす事は可能でも、主立った将を逃してしまう。
 取るべき手立ては――この混乱に乗じてならば宗盛を討てるか。
 射命丸は獲物に食らいつく猛禽の如く、彼らの逆落としにも負けぬ勢いで降下する。

 射命丸は、火を上げる幕府の合間、平家本営のただ中に降り立つ。彼女が空から下りて来た事を気に留める者すら居ない。真っ先に宗盛を探そうと、金剛杖を両手持ちし地を這わんばかりに体を前傾させて駆ける。
 僅かに視線を上げて浜の方を見ると、既に撤退の狼煙が上がったのか、沖合の船団から無数の小舟が漕ぎ出していた。
 急がなければ。そう焦燥感が胸に湧く。
 ただ走り回っているだけでは味方の騎馬にすらやられかねない。彼らの頭では味方に徒武者は――ましてや僧兵は――居ないはずなのだ。適当な平家の兵を見付けては突き倒し、法力で弾き飛ばしと、源氏勢である事を主張しつつ兵馬の間を抜ける。
「我は鎌倉の悪僧一貫坊! 内府は何処に在りや!」
 言いつつも、その居場所はおよそ分かっている。防禦の態勢を敷いて浜へ向かう騎馬の一団、それに相違無かろうと一直線に。
 居た。
 右折れの萎烏帽子に、異常に膨らんだ胴の大鎧を着込み、白粉にお歯黒と戦場には不似合いな風体で、他の者より二回りも幅の広い男。あれからより肥えたか、射命丸は池田荘司邸で見た姿を思い出して重ねる。
 馬は彼を重々しそうに背負い、その足取りは牛歩の如く遅々としている。彼が馬に不得手であるのか、はたまたその重さ故に思うように駆けられぬのか。いずれにせよ射命丸には好都合であった。
 宗盛の馬に合わせて動いていた防禦の騎馬も、追いすがる射命丸、そしてその後ろに迫る義経らの一団を目にして一部が轡を返した。
「どけぇいっ!」
 今はヒトの戦の渦中。飛んで避けたい衝動を抑え、真っ向から金剛仗で立ち会う射命丸。突き出された太刀を絡め捕り、騎馬武者の脚と馬の腹に刺突の連撃を加える。一人また一人と落馬させては追い撃ちをかけ、悶絶させるが、息つく間も無く今度は薙刀を手にした徒武者が彼女に斬りかかる。
 一々相手にしていられぬ。そう判断し、薙刀も届かぬ程度に跳ね上がると、天地を逆にして体を捻りつつ寄せ手の頭上にその身をかわす。
「宗盛いっ!」
 叫びながら躍り掛かる射命丸に、前後左右に死角無く矢が射られる。既に杖を片手持ちし独鈷杵を抜いていた彼女は、己に迫る鏃を見極め、次々に叩き落とす。
 あと数歩。仗でも独鈷杵でも仕留められるよう、全力で踏み込み、法力を込める。
 馬上で怯える宗盛の貌を認め、ギリッと歯を噛み鳴らしながら、最後の一歩を踏み出す。
「覚悟っ!」
 片手で突き出した仗は――届かなかった。何者かが射命丸の行く手を塞いだのだ。
 槍で突いたのと大差なく鎧を貫かれ、それでも立ちはだかる武者。金糸威の、錦をあちこちにあしらった大鎧、平家の血筋の者であろうとはすぐに分かった。
 杖を引き抜こうとするもそれは成らない、その武者が片手で仗を握りしめていたのだ。それでも射命丸の膂力であれば引き抜けなければおかしい。彼女はまだ、異常に気が付いていなかった。
「邪魔だ、どけっ!」
 他の兵馬に守られて逃げおおせようとする宗盛。金剛杖を捨て、独鈷杵を持って跳び付こうする彼女にその武者がしがみつき、射命丸はもんどり打って大地に転がる羽目になった。
(何が起こった!?)
 確かに己の身は軽い、振り回すのも易いであろう、しかし法力を以て跳ぼうとするのを阻む事は困難。そこまで思い至って、ようやく射命丸は気付いた。
「何者――」
 言葉が途絶え、背筋が凍る。辺りの人馬の足音も遠くなる。
 射命丸を捕らえたのは若武者。若いと言うよりは幼く、ゆやよりも年下、知る限りの者ならば結城朝光ぐらいの年頃であろうかと見た。
 腰には刀でなく蒔絵をあしらった笛を差し、優美で線の細い顔。尋常であれば、美少年と言えるであろう。しかし、尋常では無いのだ。
 その面は蒼白で、左の首筋が深々と裂かれて鮮血が流れきった跡が見える。刀による傷であろうとすぐに分かった。一目で、絶命しているのも。
 立っていられようはずが無い。他の斬られた兵共々、そこらに転がっているのが道理。
(まさか、反魂など、あり得ない……)
 いや、奴の前では“あり得ない”という事こそあり得ない。理を覆し歪める、回天の妖の前では。今まで姿を表さなかった天邪鬼は、倒すべき邪鬼は、やはりここに居たのだ。
 動揺する射命丸に屍の若武者が抱き付く。亡霊でもただの屍でもない、えもいわれぬおぞましさに、思わず声を上げそうになる。しかし彼女はこれを堪え、持ち替えた独鈷杵を脇楯(わいだて)(※5)の隙間に滑り込ませる。術の行使の準備。
 別の方から、しめたとばかりに四・五人の兵が近付く。しかし彼らにとっては最悪の頃合い。
「オーム ヴィシュラ マナーヤ ソヴァハ!」
 射命丸が真言(マントラ)(※6)を発すると、辺りの兵諸共、屍武者が弾き飛ばされた。兵達
は慌てて退散するも、吹き飛び倒れた屍武者は起き上がり、また駆け寄ろうとする。
 邪鬼調伏の必殺の一撃であったのに、死なぬのならばいつまでも相手にしておられない。射命丸は焦る。こうしている間にも宗盛は船に乗り込もうとしていた。
 ソレを無視し、射命丸が方向転換しようとすると、別の方向から騎馬武者が迫る。こちらは射命丸にも見覚えがある、源氏方の、搦め手勢の者であった。
 彼は逆落としの一団の中には居なかった、とすれば塩谷口より辿り着いたとしか考えられない。要はそちらを破ったのだ。
「この野郎ぉっ! いい加減に往生せいやぁ!」
 荒武者はそう怒声を上げながら、駆け抜けざまの薙刀の一閃で屍武者の頭と胴を切り離す。当初
の、屍となる前のこの武者を討った者であろうとは、射命丸にも察する事が出来た。
 さすがに完全に首を切られては動くのも不可能なのか、ついにソレはただの屍に戻る。
 それよりも宗盛。
 射命丸は浜を向く。浅瀬を行き、馬を桟橋代わりに小舟に乗り込む宗盛の姿が見えた。
「返せ! 戻せ! 後ろを見せるは卑怯であろう!」
 恥辱を知る武士になら存分に届く言葉。されど相手はあの宗盛、周りの兵馬は翻せども、本人は慌てふためいて小舟に乗り込むのみ。
 射命丸の手元に飛び道具は無い。飛ぶか、そう考えていた彼女の後ろから、平家勢を蹴散らし尽くした義経達と搦め手勢が集結しつつある。どこで様子を窺っていたのか、安田勢の姿まである。
 飛ぶ訳にいかなくなった。ただ見送るしか無い彼女の周囲で、弓の弦の音が、無数の風を切る矢羽根の音が鳴り始める。ここは完全にただのヒトの戦に戻っていた。
 平家の舟からも射返されるが、坂東武者の弓の射程はあちらを上回り、一方的な射撃戦となった。これが過ぎてから飛んで行き、船上で奴を仕留めるか。否、無理、近付く前に射落とされる。
 天竜川の畔に落ちた時の様に助けてくれる者は、ここには居ない。悔しがり、またも歯を鳴らす彼女の耳朶を風が打つ。そしてその塵混じりの風は、語る。
《ここじゃ困るんだ、次まで楽しみにしてな》
 非道く耳障りな、古い木材が擦れる様な不快な声。この戦場丸ごとが宗盛に憑いた奴の掌の上の事か、全てではなくとも平家の動きの大半はそうなのか。
 しかし、奴が何を企むか今は知った事では無い。奴も宗盛も共に逃がしてしまった、射命丸の胸に浮かぶのはただ悔しさのみ――では無かった。
 次があるのであればやってやる。今務めるべきは範頼の、源氏の勝利を確固たるものにする事。それが出来なければ、鎌倉勢は西国で勢力を維持出来なくなり、全軍坂東へ引き返さざるを得なくなる。
 己が今成すべき事、成せる事は何か。考えを巡らす射命丸に、一騎寄せて問い掛ける。
「お主、一体何者ぞ。平家の者とは思えぬが」
 その声に、射命丸ははたと振り返る。山の手から上空まで高らかに上がったあの声の主、義経であった。
 馬上にあるため正確ではないが、間近に見れば己と変わらぬほどに小柄ではないか。確かに噂通りの美丈夫ではあろう。しかしこれでよくあの手綱さばきに、それ以前に昼夜を問わぬ早駆けを果たしたものだ。
 射命丸は、あれだけの武の持ち主にそぐわぬ容姿に軽く驚きつつ、応じる。
「はっ、小僧は蒲冠者に従う僧、一貫坊と申します」
 射命丸は最低限の礼に止めて彼の反応を待つ。
「蒲殿の? では大手勢も既に寄せて来ているのか」
 兄ではなく『蒲殿』か、鎌倉殿の事は憚る事無く兄上と呼んでいるとも聞くのに。射命丸はその一言だけで、――義経に悪意は見て取れないのに――己までコケにされた様な気分になる。
「いえ、小僧は斥候として前進していた次第。しかし九郎様が駆け下られたのを機と見て、内府を討とうと参ったのであります。内府を逃した今となっては、情況の報告に戻るのみ」
 そうだ、まず元の通りに事を運ぶのだ。そう体を翻そうとする射命丸を義経の声が止める。
「お主も大変だな。そうだ、蒲殿の戦は悠長に過ぎる、馬を貸すゆえ、急ぎ戻り大手勢を寄せる様伝えてくれ」
 至極当然な言葉であるのに、何か範頼への棘を感じてならない。それに、よくも宗盛を逃がしてくれたものだと、苛立ちすら覚えかねない状況ですらある。
「ん、何かあったかな?」
 彼はそう言うと、訝しげに射命丸を見つめる。決して顔には出していないはずだが、悟られたか。射命丸は慌てて心を平静に戻し、私情を振り切る、沖合の唐船に消える宗盛の姿と諸共に。
 もしかしたら池田荘の時の様に“奴”の気に当てられたのかも知れなかった。
「いえ、お心使いは有り難いですが、それには及びませぬ。馬は別の場所へ繋いでありますので。それでは急ぎ戻ります故、御免」
 言って今度こそ、義経らが駆け下った断崖の方へ、誰も居なくなったそちらへ向かって走り出す。
“彼”の元へ飛ぶために。

       ∴

 全力で走り、飛び、また走り、どんな早馬でも敵わぬ速度で、射命丸は範頼の陣に辿り着く。
 この場に在っても、馬から降り、いつも通り労いの言葉を書けようとする範頼。射命丸はやんわりとそれを辞し、息を切らしたまま、端的に平家本営と搦め手、そちらを攻めた搦め手勢に義定らの事も併せて伝える。
 彼女は言いながら、範頼が義経の言を受けるまでも無く前進していた事にも、彼が矢を受け、他にも少なからず傷を負っている事にも驚く。傷を負う事自体は戦場であればそうなるのは当然の事ではあろうが、総大将自らここまでとはと。
 また、夢野口を下った義定が生田ではなく一ノ谷へ進撃したのも、大手勢が既に前進していたのを見ての事であったかもと、今になって得心していた。
「勢いがあるとは言え、搦め手勢と武田党だけでは、平家中陣の突破は困難です。今こそ、大手勢を全力で寄せる時期であると、具申します」
 指揮系統の外の射命丸の言葉であるが、そのつぶさな報告がもたらす影響は強い。
 敵本営が瓦解した事が知れ渡れば、味方の士気は上がり、敵の士気は奈落まで落ちる事であろう。範頼は腹を決める。
「分かりました、九郎殿の戦果を大きく叫んで回りつつ、全力で攻め寄せましょう。あの大続松共々活かさぬ手はありません」
 言ってから「やはり天才だ」と、まるで軍記物の英雄を見る様な眼差しを、義経が居る一ノ谷の方に向ける範頼。弟に後れを取る事はどうでもいいのかと、射命丸は不思議がる。
 その範頼に、側に控えていた常光が進言する。
「御大将、九郎殿達は鵯越を下って攻めた事にした方がよいかも知れませぬ。一貫坊殿、よろしいでしょうか?」
「何故です?」
 範頼が問う。射命丸の方は、これは大将の判断次第、己如きが異議を唱えるのは憚ると一任する。
「鵯越とは、一ノ谷より東方へ二里の、これも十分に急な傾斜を持つ山ですが、十分に訓練した兵馬なら苦も無く下れます」
「なるほど」
「地の利に頼る平家方も恐らくはそれは承知しておりますでしょう。これは中陣の存在など、万一そこを下った軍勢が在った時の障壁となる事を意図しての布陣からも読み取れます。本営も搦め手も破ったのは一貫坊殿の仰る通り既に事実として、この際、九郎殿が寄せたのが一ノ谷の裏手でも鵯越でも変わらぬと存じます。ですが――」
 むしろ中陣まで破った事にしてしまえば、なお士気も上がる。それにそれらが押っ取り刀で本営の支援に向かったのは、帰投する道すがら射命丸も上空から視認していた。実際に会敵する前には、分散して相当に勢力も減じているであろう。
「――拙僧でも、一貫坊殿が見聞きしたので無ければ、九郎殿の急襲は信じられませぬ。平家の者が聞けばまず笑い飛ばす事でしょう」
 側に居た次長も黙ってうなずく。常光共々僅かながら土地勘があり、射命丸の言葉に、はじめは首を傾げていたのだ。
「確かに……この目で見た私でも、あの逆落としは到底信じられるものではありませんでした。平家勢はあの地形を十分知っていて然り、一ノ谷の山の手を突いたと言ってもあちらは信じてくれませぬ、か」
 範頼はすぐに考えを巡らせ、「分かりました」と進言を是認すると、馬上に戻り声を上げる。
「聞け! あの通り三草山を破った源九郎殿の別働隊が、今度は鵯越を逆落としに駆け下り、敵本営を打ち破ったぞ!」
「搦め手勢の本隊も既に塩谷口を破り、また武田党も夢野口を破って合流した。我らは敵軍に挟撃をかける体制にある!」
「一気呵成に攻め寄せよ!」
 範頼に続けて次長が叫び、また範頼が下知すると、それは瞬く間に将兵の間を伝搬する。更に前線で斬り合う兵にそれが届くと、彼らは刃と共にこの言葉を平家勢にぶつけ、気迫でも敵を制し始めた。
 逆に平家の前衛は混乱。早馬を出し、真偽を見極めるのにも時間がかかる。その彼らが注目したのは絶対優位な水軍の動き、後陣辺りを慌ただしく動く船のみが、彼らの僅かな判断材料となった。
 本営の壊滅はひっくり返りようのない事実である。彼らは大敵を前にした宗盛が早々に逃げ出す人物であると知っていた。勇将がいくら踏みとどまれと命じても、末端の者は命あっての物種と、すごすごと逃げ出す始末。
 そもそも、元から平家の郎党であるならいざ知らず、今ここに在る平家勢にはそうでない者の方が多い。勝ち戦となるはずであったから参陣していたに過ぎない。こうなると指揮も士気ともあったものではない。撤退のための小舟が、陸上の部隊の求めに応じて次々と繰り出され始める。
 それに群がり逃げようとする者が格好の餌食となって強弓に射られ、辛くも乗り込めた者達も、満載以上に乗り込んだせいで転覆し、溺れる者まで出始める。逃げれば逃げるほどに、阿鼻叫喚の様相となっていた。
 喧伝一つで、苦戦は瞬く間に圧倒的な勝ち戦に転じた。大成功であった。
 しかしそれを見ていた範頼は、輝かせていた目を曇らせ、ポツリと漏らす。
「やはり私には、こんな戦しか出来ないのか」
 射命丸は問い掛けようとして、やめる。
 彼は己と義経を比べてみたのであろう。華々しく、雄々しく駆ける義経と、前に出れば叱られ、ただ兵力頼みに淡々と戦を進めるのみの御厨の住人とを。
 射命丸はそう察して頭を振る。
「いえ、この大勝利は確かに九郎殿の活躍有ればこそでしょうが、今それを的確に用いて倍加したのは御大将ではないですか」
 範頼はただ本営に座していただけのお飾りの総大将ではない。それに総大将としての働きは、義経よりも範頼の方が上なのだ。
 そんな射命丸の言葉に、範頼は自嘲気味に微笑む。
「九郎殿は、敵の急所を的確に突き、必要以上に敵を殺さずに大勝を収めました。それなのに私ときたら、兵を浪費し、数に任せて敵を皆殺しにするだけ……」
 果たして義経にそこまでの深慮があるかは怪しい、それに範頼が気に病む事も余りにも場違いと言える。ただ射命丸は、己が知る彼がこうであって良かったとも安心していた。

       ∴

 終わってみれば完勝を収めた一ノ谷の合戦、平家の将を多く討ち取り意気揚々と凱旋にかかりたい鎌倉軍であったが、この戦場の地積故、全軍の統制を取り戻すのには若干の時間を有した。
 範頼は生田口付近まで退いて、そこを一時的な本営とした。戦が終わって興奮冷めやらぬ兵を、疲弊した京に入れるのにも問題があったのだ。
 その間、戦闘詳報や功績の判断の報告の早馬も鎌倉へ走る。まとめてみれば実に多くの平家の者が討たれたのだとは、書状を作成する射命丸が思い知っていた。
 その中で一点、これで良いのだろうかと首を傾げながらも、明らかに論功行賞に係る一文に、事実と異なる記載をする。
 それは平重衡に関する事。
 太郎は明らかな己の手柄を固辞し、頼景とひと時悶着した挙げ句、頼景が折れる事になった。結局その大きな手柄は、あの場で最初に切り結んでいた景季と、周囲を固めていた児玉党の――それらの兵を率いていた庄家長(しょういけなが)の――ものとして報告する運びとなったのだ。
 頼景は極めて不服そうであったが、太郎が筆談で語った「これ以上は目立ちたくない」との理由を渋々と受け容れたのであった。
 射命丸には彼女が功を上げようがどうでもいい。ただ譲るならば範頼の麾下の誰か、いっそ頼景にでも譲ればよかったのにと、それだけが不満であった。
 また、重衡が無事捕らえられた事にも安堵していた。少なくとも、討ち死にしなくて良かったと。
「一貫坊様、お疲れ様です」
 書状をしたためる射命丸の元に、範頼が訪れる。
「これは蒲殿、お休みにならないのですか?」
 辺りはもう暗い。射命丸も明かりと暖を取りながらの作業であった。
「一貫坊様が働いているのに、休んでいられません」
 余りよい傾向では無い。妖怪ならば通力や妖力を尽くせば寝ず喰わずともどうにかなる、人間はそうはいかないのに。それに範頼が起きていたからと言って、やる事が早く終わるわけでは無い。精々作成した書状にすぐに署名と花押を付して貰えるぐらい。
 だが人の気配も消えたこの時分に、彼が訪れたのは丁度良かった。射命丸には、伝えるべき事があったのだ。
「蒲殿、僭越ながら申し上げたい事があります」
「はい、何でしょう?」
「私が言うべきで無いのは承知ですが、本三位中将殿は何卒手厚く遇して下さるよう、御願い申し上げたく」
『平三位中将』重衡。まだ解官もされていない為、範頼は当初より丁重に扱っている。武家には勝ち負けが常に訪れる、勝ったからと言って礼を失した扱いをするのは本来許されないと、常光からも言われていたのだ。
 また、殊更に射命丸が言うのには理由がある。範頼はそれを察して訳を求める。
「何ゆえ、一貫坊様が三位中将殿の身を、そこまで気にかけているのですか?」
「三位中将殿は、宗盛らからゆやを救ったお方です」
 彼女自身がそう語っていたのだ。
 女達だけに止まらず、多くの人を人とも思わない扱いをする宗盛とその取り巻き達。それを見るに見かねて保護したのが、宗盛の同母弟でもある重衡であった。とても同じ血を引いているとは思えぬ慈悲深い行いであった。
 南都の東大寺を始めとした多くの伽藍、それに無数の人々を焼いた者であったのに、である。
「それと、ゆやと共に召し上げられたしずを、蒲殿は覚えておられますでしょうか?」
 範頼は、当然覚えていると頷く。
「あの娘も、三位中将に助けられていたそうです。平家が都落ちした後、ゆや達は白拍子(※7)の一座に養われていたのだと。我々が洛外に寄せる前に、しずは白拍子と行動を共にして城外へ避難し、ゆやだけが仮の住処にしていた六波羅屋敷跡に残っていたのだと」
 範頼が来る事を知って残ったのか、ならばどうやってそれを知ったのか。また、残った後どの様にして生き延びていたのか、それらはゆやも語っていなかった。
「分かりました。今後どの様な沙汰が下るかは分かりませんが、ここに在る限り、三位中将殿の身の上は大事にいたしましょう」
 元よりそのつもりであったのだ、憚る事は何も無いと範頼はまた一度、強く頷いた。

     * * *

 源平の戦いはひとつの山場を終えた。
 一ノ谷の合戦は、生田口の梶原親子の『二度駆け』と呼ばれる奮戦と、義経の機動戦闘並びに後世まで伝わる『逆落とし』により、最終的には圧倒的な勝利を収めた。
 これにより、平家は西国での勢力を激減させ、その本営を四国の八島に構えることになる。
 鎌倉軍に兵船は僅かであり、この度に追跡は叶わなかったが、この後山陰に展開する鎌倉勢力を破る程の力は、持っていなかったのであった。

 次に待つ戦場は鎮西、そして瀬戸内である。


第12話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

※1 続松:正しくは“ついまつ”と読む、松明の原型。平家物語諸本等いくつかの物語系本では『三草山の“大続松”』として書かれる。
※2 逆茂木:打ち込んだ杭の頂部を尖らせた物。これを大量に並べ、陣地防御に用いた。
※3 返して聞かせる:返歌。本来はお題としての歌や贈られた歌(短歌)への、返答としての歌(同左)。劇中では連歌の形式(鎌倉以降)を取っている。
※4 醜男:字面通りの意味も持つが、作中では逞しい男の意。後者の意味で、古事記にもそう書いてある。
※5 脇楯:大鎧を成す部位の一つ。
※6 真言:サンスクリット語(梵語)、転じて経典に書かれた仏の言葉。密教の呪文。意味の解釈より音が重要で、仏の名と祈りを表音文字で記している。
  (劇中で扱った真言は、毘沙門天に捧げられる「オン ベイシラマンダヤ ソワカ」と、孔雀明王の大呪「オン マユラギランティ ソワカ」の音に則したもの)
※7 白拍子:芸能一般に通じた遊女、歌舞の種類としての意味もある。男性の白拍子も存在した。平家物語では、静御前の他にも祇王や仏御前などが著名

梶原の二度駆け:梶原景季が箙に挿したのは『梅』とされている。これは劇中の通り、武家にとっては、すぐに散る桜より梅の方が良い物とされたため。
鵯越の逆落とし:鵯越と一ノ谷の位置関係から、義経の逆落としの場所には大きく二つの説がある。本作ではその折衷案を採った。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

一覧へ戻る