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2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊   幻影都市の亡霊 第8話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊

公開日:2016年12月15日 / 最終更新日:2016年12月22日

幻影都市の亡霊 第8話
太陽は随分と西に傾いていたが、まだ空の上にあった。あの館でかなりの時を過ごしたように感じていたが、実際には数時間程度だったらしい。まだ探しものができる時間帯だと判断し、霊夢は白い霧の発生源へと向かうことにした。
 紅魔館を囲う青い霧を抜け、上空からおおよその方角と位置を確認したのち、霊夢は白い霧の中に潜る。もしも蒸気機関なんてものがあるとして、それが十九世紀とやらの単なる遺物であれば苦労することもなのだが、それならば霊夢の第六感を刺激し続けることはないはずだ。郷に現れた時点で骨董品の域を越えた特徴を有したと考えるべきだった。例えば、郷に入ることで強い力を持つ付喪神になったのかもしれない。
 霊夢は今更ながらチルノの挙動不審な態度を思い出していた。新しく郷にやってきた機械を、既に解放派の仲間として迎えてしまったのだとしたら。これだけの傍迷惑な事態を引き起こせる代物があれば、いずれは郷の全てを霧の中に包み込むことができるかもしれない。
 霊夢の脳裏にふと、弁々の宣言が甦る。
「我々、幻想機械解放同盟は近い内に必ず、その本懐を果たすことでしょう」
 あれは霧を発生させる機械を手に入れたのだと暗に示していたのだろうか。そしてもう一つ、解放派の活動が厄介になったことも過去を知る優秀な人物、十六夜咲夜が新たに加入したと考えることで説明がつく。けれども彼女が機械を解放すると宣言して郷を騒がせる集団の肩を持つ理由はいくら考えても思いつかない。かつて世話になった館の住民を害する動機も見当たらない。勝手を知っているからこそ第一目標にしたのだろうか。しかし霧で魔法使いや妖精を無害化できると言っても、当の吸血鬼を弱体化できないのでは意味がない。あるいはレミリアの指摘通り、吸血鬼を迎え撃つとっておきの罠を仕掛けているのだろうか。
 ふと霊夢の中に引っかかりが生じる。あの煙を吐く機械が解放派の仕業だとして、明らかにおかしいことがないだろうか。霊夢はもう一度最初から丹念に思考を辿り、そしてあることに思い至って思わず指を鳴らした。
「そう、妖精だわ」
 解放派は主に付喪神と妖精からなる集団である。構成員には九十九姉妹や首領である雷鼓のような古参、チルノのような馬鹿力を持つ妖怪も存在するが、妖精やそれほど力の強くない妖怪が大半を占めている。あの白い霧はどのような勢力よりもまず、彼女たちに壊滅的な打撃を与えるのだ。
 そう考えるとチルノがここにいた理由もがらりと変わってくる。機械を利用しようとしていたのではなく、止めに来ていたのだ。しかし霧が晴れることはなかった。おそらくは停止させることができない状況に陥っている。
 霊夢はチルノと出会ったとき、服が切り裂かれていたのを思い出す。霧の元凶を食い止めようとして、返り討ちにあったと考えれば辻褄が合いそうだった。
「そのことを隠そうとしたのは、弱音を握られたくなかったからかしら。あるいはその機械を仲間にするつもりで動かしてしまったけれど、霧がもたらす災いに後から気付いて必死に止めようとしているのかも」
 そこまで口にして、小悪魔が館の近くを飛び回っていている輩がいると零していたことを思い出す。この霧の中に恐るべき何者かの潜んでいるのだとしたら。
 霊夢は歯をかちかちと鳴らし、第四段階まで身体強化を高めておいた。それから思考を追い払い、周囲にじっくりと気を配る。視界が不明瞭であり、喉や鼻を刺激されるからしばしば集中が乱されそうになるけれど、微かなものでも見逃さないように五感を際立たせる。そのうちに目指す方向から、ごうんごうんと唸るような音が微かに聞こえてきて、霊夢はごくりと唾を飲む。パチュリーの話していた歯車のお化けまですぐ近くの所まで迫っているのだろうか。
 霊夢の推測を肯定するかのように、霧が薄らいでくる。徐々に大きくなる音はしかし工事現場に立ち入った時のような、耳に障る騒がしさではない。規則正しく心地良い、まるで一種の音楽にも似た連なりを感じる。
 その穏やかさにいつのまにか惹かれていたのかもしれない。霧から抜け出し、湖面から突きだした歯車の巨大な塔を目にしても、目的のものを見つけ出したとすぐには認識できなかった。歯車の奏でる音、非現実的な機械の姿にぼんやりとしてしまい、霊夢はほんの僅かな間ではあるが、何も考えることができなくなっていた。
 瞬きの後、眼前にナイフがあった。顔を咄嗟に横へ逸らすと同時、こめかみの辺りに鋭い痛みが走った。予め強化をかけておかなければ、とてもではないがかわせなかったと直観し、悪寒が全身に伝わっていく。
 だが恐怖に震えている暇はなかった。周りを凄まじい速さで駆け巡る何者かの気配を感じていたからだ。見える範囲だけでも数十本のナイフがほぼ同時に現れ、霊夢は前方に結界を張って迫り来るナイフを弾きながら、一気に包囲網を飛び出す。
 霊夢はかつて文の超高速飛行を目にした時のことを思い出していた。素では雷鳴のような線としてしか捉えることができず、強化を最大にしてようやく霞のような姿を微かに確認することができた。あれほど速い現象はこれまでにも見たことがないし、これからも目撃することがないと思ったものだ。
 だが霊夢の周りを駆ける何者かは四つ強化してさえ動きの線さえ垣間見ることができなかった。存在の点を僅かな一瞬のみ認識できる程度だった。その圧に押されるようにして更に強化を一つ上げる。それでも動きは線にならず、限りなく点に近い。止まっているのはまずいと判断し、速度を一定にせず、直線を避けてじぐざぐに飛ぶようにした。
 そんなものは小手先だとあざ笑うようにまずは右袖が、服の胸の辺りが、スカートが、一瞬ごとに次々と切り裂かれていく。弄ばれていると分かったがどうすることもできなかった。半ばやけで追尾用の札を、紛れ当たりを期待して妖怪捕獲用の札を遮二無二放ってみたが、どちらも手応えはない。その間にも服の切り傷はどんどん増えていき、遂には二の腕に鋭い痛みが走った。目で追っている暇はないが、おそらく刃物で薄く切られたのだと、これまでの攻撃から推察する。
 姿を見せない相手は霊夢が取り出した札を放つ前に切り裂き、辺りを一掃しようと取り出した符も発動する前に始末してしまう。手持ちの力を全て奪い、服から下着から切り刻み、丸裸にしてからじわじわと殺すつもりなのだろうか。だとしたらなんて悪趣味な奴だろうか。
 切り裂きジャックという言葉がふと脳裏に浮かぶ。自分はネットに飛び交う噂通りの、少女だけを狙って惨たらしく殺してしまう殺人鬼に襲われているのだろうか。それはあらゆる速度を超越し、これまでに身に着けた術や博麗の教えをなんなく凌駕して、無にしてしまうものなのか。
 激しく動いたわけではなく、霊力を一気に消費したわけでもないのに、荒い息が漏れる。寒気がするくらいなのに額からは汗が零れ、頬をゆっくりと伝っていく。紅魔館の住人に挑んだ時とはまるで異なる、諦観へと誘うような恐怖がじわじわと心の奥底にまで蔦をおろし、前を見ようとする気持ちを搦め取っていくかのようだった。
 あまりにも緊張し過ぎていて、攻撃が止まったことにしばらく気付けなかった。霊夢を包むような気配は一点に固着し、いつの間にか目視できるものとなっている。
 霊夢の目に映ったそれは少女の姿をしていた。銀の髪に緋の眼、酷薄そうな口元には艶やかな赤が僅かに浮いている。レミリアと似た非現実的な白い肌だが、雪花石膏というよりは卵の殻と表現するのが正しいように思えた。
 エプロンドレスをしゃなりと着こなすその姿は、一見すれば手にした短剣とあまりにそぐわないように見える。だがその瞳をじっと覗き込めば、物騒な獲物を持っていることにもすぐに納得できた。端正な顔つきを彩るはずの瞳はどこまでも空っぽで、いかなる感情も宿っているようには見えなかった。その表情は遠目にうかがうことのできる歯車お化けの一部であるかのように無機質だった。
 動きを止めた今こそ攻撃の機会かもしれないと少しだけ考えたが、空っぽの瞳は霊夢の一挙手一投足を油断なく追いかけている。不意打ちはきっと一切通用しないのだ。そう結論付けると霊気を収め、強化も解き、戦意がないことを示す。それで彼女も手にしていたナイフを消し、初めてその口を開いた。
「ここからすぐに立ち去ってください。そうすればこれ以上の危害は加えません」
「よく言うわよ。そっちから仕掛けてきたくせに」
 本当はここからすぐにでも立ち去ってしまいたかった。それでも踏み留まったのは、会話を引き延ばすことで何とか解決の糸口を見つけたかったからだ。
「物騒な力をまとって近付いてきたから、敵意を持っていると考えたのです。つい先程もその手の輩を追い払ったばかりでして」
 チルノがここを訪ねてきたのだと示唆する発言だった。彼女は超高速で移動する彼女によって霊夢と同じようにあしらわれ、這々の体で逃げ出したに違いない。
「彼女だけでなく過去にも何度か、主を止めろと怒鳴り込んできまして。当然ながらそのような話を聞くいわれはありませんし、お帰りいただこうと思ったらいきなり襲いかかってきたんです。主からいただいた力で不逞の輩どもを追い払うことはできましたが、相手も徐々に悪質になるものですから」
 少女は頬に手を当て、ほうと溜息をつく。本当に困ったことだと言わんばかりだ。表情こそないものの、全く感情がないというわけではないらしい。
「攻撃的になるのもお分かりでしょう? わたしは主の命を守り、御身を護る令を受けています。万一にも損なうようなことがあってはならないのです」
 ちらと背後をうかがったところからして、主というのは謡うように歯車を回し続ける巨大な機械を指しているのだろう。もくもくと吐き出される煙が歯車お化けに端を発していることは明らかであり、それを止めるのはおそらく機械を止めることに等しい。つまり霊夢の仕事は目の前にいる少女の仕事と明らかに衝突する。
「貴方がここに来た輩どもと同じなら、引き返していただければ見逃します。主は可能な限り命を奪わないよう配慮しておられますから。何故ならば命のやり取りになれば、滅ぼすか滅ぼされるかの二択になってしまうからです」
「わたしは乱暴にことを収めるつもりなんてないわ」
 じわじわと滲み始めた殺気を抑えるため、霊夢は咄嗟に言い繕う。それにあながち嘘というわけでもない。できれば元凶を叩くつもりだったが、無理そうなら偵察だけ済ませるつもりだった。
「貴方の主とやらが吐き出す煙を調査していたら偶然ここに辿り着いただけよ」霊夢は偶然を強調し、敵意がないことをやんわりと示した。「体調を崩している人もいるの。できれば煙の量をもう少し加減してもらえたら助かるのだけど」
 できるだけ当たり障りのない物言いを選んだつもりだったが、歯車のお化けは急速に回転を増していき、不協和音に似た騒々しさへと変じていく。まるで怒っているかのように煙を激しく噴出し、次いで鈍く轟くような低音が響き渡った。
「それはわたしに力を抑え、縮こまって生きろと言うことだろう。そんなのは真っ平御免だ。わたしはここへ来て己が持つ意志と力を解き放つ術を得た。それを妨げることなど誰にもできない」
 自由自在に活動できなければ許せないだなんて、まるで子供の我侭だと思った。紅魔館の吸血鬼も気侭さではひけを取らないかもしれないが、少なくとも分相応というものをはっきりと理解していた。背後にそびえる歯車のお化けにはその程度の分別すらないのだ。
「咲夜、こいつをすぐに追い払え。従わないようなら多少手荒く傷つけても構わない」
 待てと静止する暇もなく、咲夜と呼ばれた少女の殺意が一気に膨らんでいく。ここからすぐにでも退かなければ再び魔術のような攻撃を仕掛けてきて、今度こそ無事では済まないかもしれない。
 撤退するのが正しいとは分かっていたが、一つ試してみたいことがあった。彼女が本物の咲夜だとしたら通じるかもしれないことだ。
「との仰せです。三つ数える前に背を向け、逃げ出してください。それで貴方は無事に家まで帰ることができます。一つ、二つ……」
「その前に一つ確認させて。貴方は十六夜咲夜なのよね?」
 三つを唱える前に、咲夜の口が半開きのままぴたりと止まる。
「ええ、それが何か?」
「あんたのかつての主が言わなかった? 弾幕決闘で避けられない弾を撃ってはいけないって」
 もしかしたらこれで咲夜の攻撃が規則に準拠したものになるかもしれない。それならこちらにも勝ちの目は十分あると考えたのだ。しかし咲夜は無造作に首を横に振る。
「かつての主などいません。わたしの主は背後におわす方だけ。そして三つです、名も知らぬお嬢さん」
 咲夜の姿がかき消え、首筋に熱い痛みが現れる。咄嗟に歯を噛み合わせて速度を上げようとしたが、歯よりも硬いものが当たり、喉からひっと声が出かけた。ナイフを口の中に入れ、身体強化を封じられたとすぐに察し、薄らぎかけた恐怖が徐々に甦ってくる。
「背を向けて、まっすぐ飛んでください。同じことをやろうとしたら嘘つきでなくても二枚舌になりますよ」
 僅かに頷くと、口からナイフがすっと抜かれる。唇の端を僅かに切ったのは、痛みで脅しつけるためだろう。それでも霊夢は怯まずに声を張り上げた。あまりにも恩知らずな言葉と態度に対する怒りのほうが少しだけ勝ったからだ。
「本当に知らないの? レミリア・スカーレットのことを全て忘れてしまったとでも言うわけ? あの館に住むものたちは誰もあんたのこと忘れてないのに!」
 一瞬、咲夜の瞳の奥が揺れたような気がした。何かを強く揺さぶったのだという感触を確かに覚えた。だが低く非生物的な声がそれをかき消してしまった。
「咲夜に吸血鬼の知り合いなどいない。くだらないことを吹き込まないでもらおうか」
 咲夜の瞳が再び空っぽになり、高く澄んだ声が改めて霊夢に命令する。
「背を向けて、まっすぐ飛んでください。三度は言いませんから」
 霊夢は躊躇いがちに振り向き、霧煙る方へと引き返していく。殺気は油断なく、歯車のお化けは落ち着きを取り戻したのか、謳うような音を取り戻していく。このまま立ち去ればきっと約束通り襲いかかってくることはないのだろう。厄介な超加速の持ち主がいることを伝えて然るべき実力者に引き渡せば、さしもの彼女も制圧されるに違いない。それできっと異変を解決するという自分の仕事も終了する。
 これ以上、痛い目にも怖い目にも遭いたくはなかった。事態を引き渡すだけなら朝飯前の一仕事よりも容易い。面倒を避けるという霊夢の矜持とも一致している。
 霊夢はすうと息を吸い、ゆっくりと吐き出していく。呼気とともに弱気と恐怖を追い出し、咲夜や歯車お化けのいる背後に向き直る。それから相手を指差して宣言した。
「十六夜咲夜、貴方に決闘を申し込むわ!」
 これは霊夢にとって本当に賭けだった。今日はこれまでも賭けるようなことばかりして来たが、いまこの瞬間ほど先が読めないと感じたことはなかった。上手く行くという確信なんかまるでない。彼女の心が揺らいだのだと信じただけだ。
 歯を噛み合わせようとした瞬間、咲夜の姿がかき消える。だが今度は金属の硬い感触に遮られることも、舌が二枚に開かれることもなかった。ナイフを手に口元を狙ってきたが、辛うじてかわせる間合いに出現してくれたからだ。
 真横にかわし、更に歯を打ち鳴らすと同時、今度はナイフが四方八方から飛びかかってくる。だが置き打ちしておいた札によって撃ち落とされ、一発も届くことはない。次の包囲網も同様に捌き、三度囲まれた時はナイフを見てからでも辛うじて避けることができた。
 四つ強化したくらいではやはりほとんど姿は見えないが、迎撃なく回避されたことで明らかに狼狽しているのか、新たな攻撃を仕掛けて来なくなった。その隙に五つ六つと歯を噛み合わせ、激しい痛みと気だるさ、明敏になる感覚の違和を、緊張を解かずにいなしていく。レミリアと戦った時ほど辛くないのはいい加減痛みに慣れてしまったからか、それとも超加速で迫ってくる相手と戦っている緊張感のせいかもしれない。紅魔館で得たものが自分の命を薄皮一枚で繋いでいるのだという実感が今更ながらに湧いてくる。
 最大まで強化しても線として認識するのがやっとだったが、辛うじてでも目で追い続けられるならばごく短い時間だけでもまともな勝負に持ち込めるはずだ。とはいえ背後に控える主の言葉でいつ覆るか分からない。短期決戦以外に道はないと判断し、霊夢は反撃の機会をじっと探る。
 準備をすっかり整えられてようやく我に返ったのか、ナイフの包囲網が再び霊夢に襲いかかってくる。どこからナイフを生み出しているのかと訝しむくらい、その数には限りがない。だがいくら数を増やせても、密度を濃くしても、回避できなくなるとは全く思わなかった。間近に配置されるナイフは確かに脅威だが、レミリアの投擲してきた槍に比べればあまりに遅く、パチュリーのように罠や引っ掛けもない。単純に囲んで来るだけだ。すれすれを通過していくナイフも今の霊夢にはさして脅威に感じられなかった。あんなにも速く動くことができるのに、まるで弾幕決闘を初めて行うかのようにぎこちない。本当にかつては数々の異変に足を突っ込んだ強者かと訝しむほどだった。しかし脅威ではないといっても延々とかわし続けられるわけではない。こちらの強化にも忍耐にも限界がある。相手の足を止めるために何らかの策を弄するべきだった。
 霊夢は十何度目かの包囲網を抜けるやいなや、一際大きく口を開く。もう一段階加速できるのだと言わんばかりに。次にやってきたのはナイフの包囲網ではなく、線として霊夢に迫る咲夜の突撃だった。
 先読みして構えたお祓い棒にナイフが突き立てられ、線だったその姿が実像を表していく。その表情は苦しみに歪んでおり、端正な顔立ちを少しだけ台無しにしていた。規則を破って避けられない攻撃を仕掛けたためか、それとも渾身の一撃が受け止められたことに困惑しているのか、どちらにしろ霊夢にとっては二度とない機会だった。
 それでも即座に離脱されて距離を取られたら終わりだったが、咲夜は動きが捉えられたことに気づく様子もなくナイフをぐいぐいと押し込んで来る。人間とは思えない怪力に一瞬だけひやっとしたが、腕の力だけでねじ込もうとしてくるからその割に勢いはなく、切っ先を受け流すことも容易だった。しかも咲夜はバランスを崩した体勢を整え直そうともせず、どう反撃して良いかさえ考えあぐねている様子だった。弾幕決闘だけでなく体術でもずぶの素人であり、このまま攻め立てるのは弱い者虐めをするようなものではないかとさえ感じた。だから一瞬だけ躊躇ったが、瞬きの次には用意しておいた針を至近距離から撃ち放っていた。かわされることも想定していたが、咲夜は針を全弾まともに受けた。
 急所を外しておいて正解だったと安堵するのも一瞬のことだった。咲夜が喉を絞り尽くすような絶叫をあげ、全身から白い煙をもうもうと立て始めたのだ。
 あの煙は博麗の術が異なる気を祓ったときにあがるものだった。ただの人間なら針が刺さるだけのはずなのに、咲夜はまるで妖怪のような反応を示している。
 霊夢の頭に紅魔館の連中がみんな嘘を吐いており、咲夜が眷属になっていたのではという疑義が浮かぶ。だがすぐに有り得ないと切り捨てた。分厚い霧に遮られているといってもまだ日中であり、吸血鬼がやすやすと出歩けるような状況ではない。それに咲夜からは一片の妖気も感じられなかった。代わりに漏れ出しているのは魔力だった。彼女が魔術の影響を強く受けた存在であることが明らかになり、しかし逆に彼女の正体が遠ざかってしまったように思えた。
 針に込めた霊力が尽きたのか白煙は間もなく収まり、全身に刺さっていた針がぽろぽろと落ちていく。次いで傷がみるみる塞がっていき、火傷のような赤い腫れだけが残る。服に隠された部分も同じように赤くなっているに違いない。この回復速度だけ見てもやはりただの人間ではなかった。
 針が抜けるとともに痛々しい声は次第に収まり、完全に止まると今度はすっかりと俯いてしまった。痛い目に遭わされて激怒しているのかもしれず、霊夢は油断なく距離を取り、その挙動を刻々と観察し続ける。ここでようやく切り札が窮地に陥ったと悟ったのか、歯車のお化けが再び耳障りな駆動音を立て始める。
「おい、一体どうしたんだ。一方的にやられてるじゃ……」
 無機質な低い声はすぐにもう一つの声に遮られる。咲夜が涙をぼろぼろ零しながら、自制心の欠片もない泣き声をあげ始めていた。明らかに年上の見栄えだったから、子供のように激しく泣き出すなんてあまりにも予想外で、戸惑いが心を過ぎった。
 紅魔館の誰もが想い続ける十六夜咲夜の成れの果てがこれだとしたらあまりにも酷い仕打ちだと思った。その怒りが霊夢に声を張り上げさせた。
「あんた、彼女をどんな風にもてあそんだのよ!」
 精神をぐちゃぐちゃにかき乱したのだろうか。それとも肉体に酷い責め苦を与えたのだろうか。どうすれば歴戦の少女であるはずの彼女がここまで変貌してしまうのか。回答によっては問答無用で動きを止めてやるつもりだった。
 歯車は霊夢の詰問に回転を増し、咲夜の泣き声と合わせて霊夢の周りを騒音だらけにしてしまう。それに気付いたのか今度は回転を徐々に落とし、辛うじて会話ができるくらいには落ち着いてくれた。
「もてあそんだ、というのは筋違いだ」相変わらず声に抑揚はないが、噴き出す煙の勢いから内心に怒りや戸惑いのようなものを秘めているのは何となく読み取ることができた。「わたしはただ創ったに過ぎない」
 創っただなんてさらりと言うけれど、どう見てもこの歯車お化けが子供を産めるとは思わなかった。考えられるとしたら誰かに子供を産ませてさらって来た可能性だが、それでも魔力が漏れ出す体であることの説明はつかなかった。
「創ったって、機械を組み立てるようにして彼女を作ったとでも言うの?」
 だから頓珍漢な質問を飛ばすことしかできなかったが、歯車のお化けは「そうだ」とあっさり認めてしまった。
「わたしを守護するに最適なものを、この世界を材料にして。それよりお前こそ、どうやって咲夜をやり込めたんだ」
 承服しかねるといった歯車お化けの様子に、霊夢は目を細める。
「弾幕決闘の形で戦うと宣言しただけよ。あんた、この世界に来て随分と昔のことまで調べたらしいのに、そんなことも知らないの?」
 この歯車お化けはおそらく怪文書を送りつけてきた張本人のはずだった。つまり稗田の書庫や一部の妖怪の記憶にしか存在しない七百年近くも前のことを知ることができる。それならば現代まで残る風習なんて余計に知っていなければおかしいはずだった。
「当然知ってはいるが、あれは単なる遊戯なのだろう? わたしには最初から遊ぶつもりなんてない。不埒な乱入者を追い払うならば尚更だ。なにしろやるべきことが山ほどあるのだから」
「そのやるべきことのせいでこっちは迷惑被ってんのよ。あんたが吐き続ける煙のせいで里が一つ丸ごと包まれて、そこに住む人たちはみんな難儀してるの」
「この世界はこれからわたしという福音によって莫大な恩恵を受けることになる。それに比べれば人間の集落が一つ二つ駄目になる程度は疵のうちに入らないはずだ」
 歯車のお化けは霊夢の抗議を無視し、自分勝手な話を続ける。どいつもこいつも人の話を聞かないで自分のことだけ話すと毒づきたかったが、咲夜の正体を知るための情報が手に入るかもしれないと思い、もう少しだけ辛抱することにした。
「絶好の機会なのだよ、この世界にとって。わたしはこの未開な地で野蛮な知性たちに進歩的な提案を行う。やがてこの地に住まう全ての知性がわたしと同じ位置に立つだろう。自然に任せれば数百年、数千年とかかる進歩を数年のうちに獲得することができる。更新された世界の中で、皆がわたしに感謝するに違いない」
 歯車のお化けは霊夢の希望と裏腹、だらだらと己の理想を説いていくだけだ。こちらの抗議に答えるつもりは一切なく、また疑問を解くようなことを口にする兆候もない。
「もう一度言う、絶好の機会なのだ。それでもわたしを止めると言うのか?」
 そしてそれの気持ちは泣き叫ぶ咲夜に全く向いていない。護る者がいなくなったと悟り、霊夢を説得するための言葉を弄している。そのことに気付いていよいよ堪忍袋の緒が切れた。
「ご高説傷み入るわ。でも残念、わたしの仕事に世界なんてちっとも関係ないの。高邁な使命など知ったことか。わたしは博麗の巫女なのだから、異変の元凶であるあんたを打ち倒すだけ。さあ、かかってきなさい。それとも他に切り札がいるのかしら?」
 質問こそしたが、他に誰もいないだろうことは見当がついていた。もしいればそいつをけしかけて来たに違いないからだ。あとはこの歯車お化けを何とかすれば良い。お祓い棒を構え、霊夢は両腕に力を集中する。本来なら霊力を込めた一撃を全力で叩きつけるのだが、最終段階ならば霊力が効かなくても力任せに破壊する自信があった。
 歯車が再び回転を増し、耳を塞ぎたくなるような雑音が響きわたる。威嚇するように何度も煙を吐き出し、我は強者であると必死で主張しているようだった。しかしいつまで経っても攻撃を仕掛けてくる様子はない。本体には何の力もないのだとすぐに分かった。
 さっさと叩き壊してしまおうと思った。蒸気機関とやらで動くなら、動力源だけ破壊すれば全体の動きも止められるに違いない。身動きできないからといって容赦する気は一切なかった。
 突撃をかけようとした瞬間、水面が一斉に泡立った。
 何があるのかと目を凝らすや否や、大量のナイフが霊夢目掛け飛んで来る。慌てて射線から逃れると、霊夢は咲夜のいる方に視線を向ける。ひっくひっくとしきりにしゃっくりをしていたが、赤く腫れた緋の目は霊夢への怒りに燃えていた。喧嘩に負けそうになっている子供が必死に腕を振り回してくるような野放途さを感じ、霊夢は腕に集中させていた力を一旦解除する。まずはこちらをなんとかしなければならない。
 警戒したと同時に咲夜の姿がかき消える。だがこれまでよりもずっと遅く、霊夢の目には咲夜のはっきりとした姿を捉えることができた。泣き明かしたせいか、それともしゃっくりのせいで集中できないのかは分からないが、超加速の能力は使い物にならなくなっている。
「おい咲夜、何をしたんだ!」
 助けられたはずなのに、歯車お化けが抗議の声を上げる。咲夜がひっくひっくと震えるだびに湖面が波打ち、再び大量のナイフが射出される。狙いこそ粗雑だったが第一射と違っていつまでも途切れることなく、しかもナイフを生み出す範囲を徐々に広げつつあった。
 こんなことを際限なく続けられるわけがないと思い、霊夢は回避に専念する。超加速が使えなくなったからやけになっているだけで、すぐに力を使い尽くし、動けなくなる時がはずだった。
 そんな霊夢の希望的観測を遮るように、大気がぶるりと震える。それだけでなく歯車お化けの吐き出した煙までもが同じ揺れを示しているのが見えた。咲夜のしゃっくりに合わせ、ひっくひっくと全てが震えている。猛烈に嫌な予感がして身構えたと同時、ひゅるりと吹き付ける風がナイフの一群に変化する。慌てて上方へ逃れようとしたが、霧の中からもナイフが現れ、霊夢の退路を断とうとする。湖面からの絶え間ない射撃も途切れる兆しがなく、歯車お化けの方からも大量のナイフが飛んでくる。もしかすると歯車お化けを材料にしてナイフを生み出しているのかもしれない。抗議の声をあげたのは自分の一部を断りもなく変換されたからなのだと今更ながらに得心する。
 この世の全てをナイフに変えることができると言わんばかりの節操ない変換ぶりだった。今のところ生物はナイフに変えていないが、これからもそうならない保証はない。このまま暴走を続ければ郷の全てがナイフになってしまうのではないかという危惧が胸中に浮かぶ。
 一つだけ幸いなことがあるとすれば相変わらず狙いが雑で、かわすこと自体はそんなに苦労しないということだ。感覚も強化によってこれまでにないほど研ぎ澄まされ、激しい雨に見舞われても悉くをかわしきることができそうなくらい好調だった。だがそれはあまり良い兆しではなかった。過度の好調は霊力が空っぽになる最初の警告でもあるからだ。一度は回復できても二度は無理なのかもしれないし、異変に挑んでいるという高揚感からいつもより無理が効いただけかもしれない。
 長引けば長引くだけ不利であり、一刻も早く咲夜を止める必要があった。あらゆるものをナイフに変える咲夜にはあまり近づきたくなかったが、背に腹は変えられない。意を決して咲夜を視界に映し……霊夢は思わずぎょっとしてしまった。
 咲夜の周辺に竜巻が生まれており、それは瞬く間にナイフの嵐へと変化していく。大量のナイフに隠されてその表情までうかがうことはできないが、苛立っていることは明らかだった。
「ちょろちょろと、かわさ、ないでよ、当たらない、じゃない」
 これまでの丁寧な口調がすっかりと砕けていた。しゃっくりで言い繕う余裕がないのか、あるいはこちらが地なのか。おそらくは後者なのだと思ったが、今はそんなことを確認している場合ではなかった。
「いや、さっきのは申し訳ないけどさ。攻撃を仕掛けてきたのはそっちで」
「知らない! わたしを、虐めるやつ、なんて、大嫌い! だから、虐めてやる!」
 ナイフがごうごうと咲夜の周りをめぐり、魔力が渦巻いているためかところどころで電気のような光がばちばちと走る。
「こらー、やめろ。わたしの体をこれ以上使うんじゃない!」
 歯車お化けは無機質さこそ変わっていないが、鈍く低い声ではなく少女のように甲高い声をあげる。放っておけば歯車を完全に解体してくれるかもしれないが、あくまでも第一の狙いは自分である。それまでナイフの嵐から逃げ続ける自信はない。やはり咲夜を止めるしか手はなさそうだった。
「つまり……どういうこと?」
 泣きじゃくる子供を必死であやせってことよ!
 ぼそりと口にして、心が叫ぶように答えを返す。
 霊夢は心を決闘モードに切り替え直すと、ナイフの嵐に改めて対峙するのだった。
 

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