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2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊   幻影都市の亡霊 第2話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊

公開日:2016年11月03日 / 最終更新日:2016年11月03日

幻影都市の亡霊 第2話
鬱蒼とした霧の中に、彼女はいた。
 間近で唸りをあげる轟音も、辺りを包む熱や湿度もその佇まいを崩すことはできず、その目はひたすらに周囲へと注がれていた。ただ一つの命令、守護者としての役割を果たすために。
 迷いや淀みなどはないはずだった。元より彼女はそのように創られてはいない。だが最近、ふと魔が指すことがあった。
 わたしのいる場所はここではなく、守るべきものは他にあるのではないか。
 愚にもつかない感情であり、とんでもない誤謬であったが、いくら封じ込めても心の奥からこんこんと湧き出してくる。あまつさえ存在するはずのない記憶が脳裏をかすめるようになった。それらは全て紅で彩られ、麗しくも懐かしく、喉が詰まりそうになるほどの鮮烈さに満ちていた。流石に看過することができず、彼女はある日、意を決して主に相談を持ちかけた。
 唸るような音が激しくなり、霧が先程より濃くなる。もしかして主の心を乱したのかと思ったが、音はやがて収まり、霧も元の濃さに戻った。
「心配することはない。生まれたばかりで十全な思考を持てば、稀に現実のような夢が頭を過ることもある。時が経てばいずれ消えゆくだろう。お前はここにいて、わたしを守れば良い」
 それから間を置いて、主は彼女の名前を口にする。
「十六夜咲夜、わたしの守護者。弛まず任務を続行せよ」
 十六夜咲夜と呼ばれた少女は小さく頷き、持ち場に戻ると空を見る。
 そして白くくすんだいつもの空に安堵の息を零すのだった。


 この季節は布団から抜け出すのに、弛まぬ決意を注がなければならない。その暖かな誘惑には抗い難く、朝のお勤めなど一日くらいさぼっても良いだろうとしきりに魔を差してくる。
 そんな気持ちを覆したのはどさりと重く落ちる雪の音だった。どうやら昨夜から今朝にかけて随分と降ったらしい。博麗神社は非常に旧い建物だから、雪の重みにあまり耐えられるようにはできていない。一夜の雪で潰れるほど柔ではないが、こまめな雪かきはどうしても必要になってくる。
 えいやっと布団をめくって寝床から脱出すると、寝間着から巫女服に素早く着替える。夏用と冬用に一応分かれているけれど異なるのは布の材質だけで、腋の部分が派手に空いており、寒気に耐えられる造りとはとても思えない。防寒用のインナーに厚手のタイツ、首筋にマフラーを巻いてようやく寒さを凌げるといった按配だ。こんな伝統を残した当時の巫女を恨むべきか、破廉恥まがいの巫女服を仕立てた誰かを呪うべきか、霊夢の中では未だに決着がついていない。
 物置に置いてあるスコップを持って外に出ると、うっすら霧がかかっていた。日が昇れば薄らぐだろうが、肌にまとわりつく冷たい湿気はなんとも厭わしい。それでも雪かきに出たのは朝から決意を振り絞ったのに何もしないのはもったいない気がしたからだ。
 屋根の雪を落とし、本殿から鳥居までの石畳、地上に続く石段まで、スコップで雪を掻き分けて道を作る。参道の雪もなんとかしたかったが、里までの道に積もった雪を全て除けるのは数日がかりの大仕事になるし、その前に体が限界に達するだろう。それに悲しきかな、正月が過ぎれば節分まで神社を訪ねる人間は全くと言って良いほど現れない。だから空を飛んで神社にやって来る酔狂ものに対して体裁が整っていれば良いのである。
 スコップをしまうと、続けて部屋の掃除に取り掛かる。いつもは朝食を摂ってからの作業なのだが、既に汗をたっぷりと掻いてしまったから、体を動かす作業はまとめて先に済ませておこうと思った。
 軽くはたきをかけてから押し入れの中にしまってある掃除機を取り出し、コードを繋ぐ。それから略式の拝礼を行い、最後に一礼をしてからスイッチを入れる。掃除機はいつものようにけたたましい音を立て、床の上を滑るその動きはぎくしゃくとしている。吸引力は健在だが車輪の取り付け部分にがたが来ており、いよいよ限界らしい。騙し騙し使っていたが、近い内に修理を呼ぶ必要があるなと心の隅に留めておく。
 次いで廊下に雑巾をかけ、御神体が置いてある本殿の床も念入りに拭いて回る。最後に御神体を専用の布で慎重に磨き、小さく息を吐く。大掃除でもなし、これ以上念入りにする必要はないだろう。
 お次は籠に溜まった洗濯物の処理だが、これは作業のうちに入らない。掃除機と同様に拝礼すると、いくつかのダイアルを操作してコースを決め、動作させるだけだからだ。洗濯が終わったら脱水槽に入れ直して再度、動作させれば良い。正しく朝飯前だった。
 お腹がぐうと鳴り、食事を寄越せとせがんだので台所に向かい、雑に朝食を作ることにした。冷蔵庫に手を合わせてから材料を取り出すと、まずレンジに凍らせておいたご飯を入れ、解凍モードに合わせて動作させる。それからタッパーに入れておいた大根の葉の和え物を小皿に、鶏肉と大根の煮物を鍋から小鉢に移し、粉末の味噌汁をお椀に入れる。
 解凍が終わったご飯と入れ替えで煮物をレンジに入れ、ポットから湯を注いで味噌汁を完成させるとタイマーのじじじじという音を背に、献立をお盆に乗せていく。煮物の温めが終わると、ほぼ昨晩と同じ朝食が完成した。一人暮らしだととてもではないが、三食きちんと料理する気にはならない。
 居間に食事を運び、手を合わせてからいただきますを言い、深々と頭を下げる。機械と同様、毎回の食事にも感謝の意を込めるのが、郷のならいである。一人暮らしならば躾や礼儀を咎められるわけでもなし、畏まった挨拶は必要ないのだが、一応は神に仕える身だし、それに幼い頃からよく聞かされたあの話をどうしても思い出してしまう。
『食べ物に感謝しないと腐り神様がやって来て、お腹の中のものを全部腐らせちゃうよ。そうすると何日も痛い痛いしか言えなくなるほど苦しんでしまうよ』
 今でこそ彼女が残酷でないことは知っているし、むしろ秋ごとに実りを分けてくれるありがたい神である。里に蔓延る畏れを取り除いてあげたいとは思うのだが、今のところ一つの妙案も浮かばず。切なくなりかけた心を腹の虫が再びくすぐり、詮無いことだと気持ちを収め、食事に手をつけるのだった。

 朝食を終え、食器を片付けてから洗濯機の様子を見ると、洗濯は既に終わっていた。霊夢は洗濯物を脱水槽に入れ替えてから、寝室に置いてあるパソコンを立ち上げ、ブラウザを開く。博麗神社のサイトには質問を受け付けるページがあり、隙間時間を利用して答えようと思ったのだ。
 新しい投稿は三件あった。一件目は匿名希望で、先日発生した解放派の襲撃における警察発表への懐疑的な論調から始まり、彼らは巫女の活躍を不当に横取りしているのではないかという疑問で締めくくられていた。
 これに関してはよくある質問と回答のページにも書かれていることの繰り返しが返答となった。博麗の巫女は警察とセクションこそ異なるものの単なる公務員であり、本来の役目は神社の運営を行うことである。それともう一つ、異変と呼ばれる警戒レベル最大の事象を解決するために存在する。そのための能力をより規模の小さいいざこざに対して使用することもあるが、あくまで捜査協力の域を出ない。今回もその一環であり、別段変わったことはない。
 二件目もまた匿名希望だが、西の里に住む農家の女性だとはっきり書いてあり、筆調からも女性にありがちな細やかさが見て取れる。性別を偽っている可能性もあるが、今回のような相談で性別を誤魔化す必要はないので考慮には入れないことにした。
 最近、西の里に立ち込めるようになった霧はいつ止むのでしょうか。子供が最近、体調を崩しがちになり、ひっきりなしに咳をするようになりました。巫女様は既にその正体を探り出し、解決に向かっているのでしょうか?
 霊夢にとってその話は初見だった。真昼になってもなお晴れることのない霧が立ち込めること、視界の悪さに乗じて様々な噂が駆け巡っていることは知っていたが、健康被害まで出ていたとは。近日中にも警戒レベルが更に引き上げられるかもしれないという通達は受けていたが、もしかしたらそれが原因なのかもしれない。
 答えは無難に、調査中ですがまだ解決には至っていないとだけ返しておいた。実際は全く手付かずなのが現状である。警察は里に対する解放派の再襲撃を最も警戒しており、できる限り自宅に待機して備えろと命じられているのだ。俄かに湧き立つ苛立ちを抑えながら、霊夢は三つ目の質問を開く。
 切り裂きジャックは本当にいるのでしょうか?
 知るか、と反射的に打ってから回答する直前で思い留まる。そして机の端を指でコツコツと叩き、苛立ちをいなしてから打ち込んだ文字を消し、大きく深呼吸する。
 切り裂きジャックとは霧から生まれた噂の中で最も話題となっている怪人の名前である。霧まとう里をうろつき、年頃の女を狙う恐るべき殺人鬼であり、犠牲者の数は二人とも、五人とも、十数人とも語られている。警察ではジャック某なんてものは存在しないし、殺人が起きたという報告もないと繰り返しているのだが、あまり信用されていないようだ。怪異の対応に芳しい結果を出せていないことも理由の一つだし、見通しがきかなくなるほどの霧が常に発生しているから、警察としても「おそらく」「かもしれない」といった、確定を避ける言葉を使わざるを得ない。更には霧による外出制限もあり、それらが噂の拡大に拍車をかけていた。考察サイトも一つならず立ち上がっており、無根拠な情報に対する議論で日々盛り上がっている。そして時折、ネットスラングで凸と呼ばれる公式への突撃行動を取る輩が現れる。霊夢が同様の質問を受けたのはこれが初めてではなかった。
 そのたびにそんなものはいないと断言したい気持ちに駆られた。切り裂きジャックという名前は心のどこかをちりちりと刺激し、霊夢を何故か苛立たしい気持ちにさせるのだ。ネットで噂になるまで名前すら聞いたことがなかったのに。そもそも切り裂きジャックがどういう存在であるのか、ネットで調べてもほとんど分からなかった。辛うじて検索できたのは霧の都なる、実存したかさえ分からない街を跋扈していた架空の殺人鬼であるということだ。
 もしかすると切り裂きジャックはかつて郷に現れ、初めて霊夢を名乗った巫女に退治された可能性がある。妙に勘が騒いで仕方ないのはその脅威を無意識のうちに知っているからではないか。架空の存在が顕現するのは、幻想の名を冠するこの郷では決してあり得ないことではない。
 実を言うとこの手の勘が働いたのは初めてのことではなかった。霊夢の名前を継いでからこちら、どう考えても知り得ないことを当然のように理解していたり、今回のように未知の存在が引っかかって仕方がないという気持ちになることがあった。時折神社に姿を表す自称出張カウンセラーの古明地こいしによると『それは共時性の一種だと思うよぉ』とのことだった。
『霊夢はね、霊夢に似てるの。うーん、なんかややこしいなぁ……』自分で言っておきながら機嫌を悪くされても困るのだが、混ぜっ返すといよいよ不貞腐れそうなので、霊夢としては悩ましそうに唸るのを黙って見ているしかなかった。『めんどくさい! どっちも霊夢で通じるよね? というわけで話の続きなんだけど、似ているものは同じことを共有しやすい性質があるの。例を挙げるとね、夫婦仲が悪くて妻が夫をぐさーっと刺した家があるとします。しばらくしてまた夫婦が引っ越して来て、ぐさーっ。その後も引っ越して来た夫婦が毎回、ぐさーっを起こすので誰も寄り付かなくなってしまったのだけど。子供連れの夫婦が越して来たときは何も起こらなかったんだよね。その家は似たようなものが同じようなことを起こす、いわば共時性のトラップみたいな存在になってたってわけ。怖いよねえ』
 満面の笑みを浮かべながら怖いと言われても全く説得力がなかったし、霊夢の渋い顔や感情をこいしは楽しんでいる節があった。これだから覚は嫌だと思ったが、全く意に介する様子はなかった。むしろより機嫌が良くなった節さえあった。
『霊夢は霊夢だし、霊夢は霊夢に似てるから。同じ場所に住んでいるし、この郷は箱庭のようなものだから共時性が強く発現する条件を満たしているってこと。まあ、問題はないと思うよ。博麗神社でおぞましい事件が起きたって話は聞いたことがないもの。宴会はしょっちゅう開かれてたけどね。呼びもしないのに人外が集まるから妖怪神社とも言われてたっけ』
 子供はお酒を飲んではいけないという決まりがあるから、今の博麗神社では大っぴらに宴会を開くことはできない。もう一つの、呼びもしないのに妖怪が集まる特徴は徐々に強まりつつあった。一時の安寧を求めたり、仕事をさぼりたくなったり、特に用事もないのにひょっこりと顔を出してきたり。解放派の面々でさえ時折お菓子やお茶をたかりにやって来るのだからたまに呆れて物も言えなくなる。
『わたしが霊夢だから、かつて霊夢だった人にシンクロしているってこと?』だとしたら少し気持ち悪いなと思った。まるで幽霊に取り憑かれているようなものだ。『わたしは、わたしなのよ。過去の亡霊とはできるだけ距離を置いておきたいわ』
『亡霊じゃなくて共時性。でも似ているのかもしれないね。あるいは同じ現象の異なる捉え方なのかもしれない。そしてこの郷は両方の在り方を同時に認める。ということは共時性もお化けを退治するのと同じ方法で祓うことができるのかもしれないねえ』
 こいしはあははと笑い、それからふわあと特大の欠伸を浮かべた。
『ねむーい。というわけで今日の営業はおしまい』
 両の瞳を瞑ると同時、第三の眼もぴたりと閉じられる。先程まで確かに在ったものが今はどれだけ目を凝らしても見つけられない。こいしはかつて覚としての特性を完全に捨てていたそうだが、今は一日に三十分くらいなら覚になれるらしい。だが覚でいるのはこいし曰く、とても眠くなることらしい。だからすぐに目を閉じ、いなくなってしまう。霊夢はまだ辛うじて認識できるうちにと布団を敷き、あやふやな存在を持ち上げて心地良い場所に寝かせてあげた。

 過去も辿りながら適切な言葉を探ってみたが、切り裂きジャックなる怪人は存在しないと答えることしかできなかった。亡霊ならこんな時くらいもっと的確な助言をして欲しいと思うのだが、微妙な不愉快さの他には何も感じることができなかった。
 回答を終えてから再度、洗濯機の様子を見に行くとあと少しで脱水が終わりそうだった。掃除機同様この洗濯機もよくよく使い込まれており、霊夢が博麗の巫女として暮らし始めた頃よりも明らかに動きが弱々しくなっていた。もしかすると自分の代で買い替えになってしまうかもしれない。最新型ならば一つの槽で脱水まで自動で行ってくれるし、少し奮発すれば乾燥機付きを買うこともできるだろう。雨の日も凍てつくような寒い日も関係なくなる。
 流石にそこまでは必要ないし、信心が損なわれなければまだもう少しは保ってくれるだろう。霊夢の気持ちに応えるよう最後は少しだけ勢いを取り戻し、脱水が完了する。服や下着を籠に入れて外に出ると霧はすっかり晴れており、空には雲ひとつない。日が照り始めても身を切るような寒さは変わらないが、干しておけば遅くとも夕方には乾くだろう。
 洗濯物を干し終わると、ようやく朝の用事も全て完了である。これで気兼ねなく朝風呂に浸かれるというものだ。これが夕刻以降であれば燗の一本でも用意するのだが、一日はまだ始まったばかりである。巫女は成人相当だが、それでも酔いどれ巫女のいる神社に参拝して良い気分にはならないだろう。それに昨夜の晩酌でちょうど酒を切らしてしまっていた。
 お楽しみはまた後日と心の中でつぶやき、霊夢は湯治の準備を整えると博麗神社の近くにある温泉へと向かうのだった。

 かつて存在したという外の世界では地下に管を伸ばして可燃性のガスを供給し、自在に火を扱えたらしいが、幻想郷にガス田は存在しない。電熱器具は普及しているが、必要最低限の火力を出すだけで精一杯の代物である。博麗神社には竃も残っているのだが、慶事などでどうしても必要になったとき以外は使わない。木材の勝手な伐採は禁じられており、林業に従事するには免許が必要であるからだ。そのために薪はとても高額であり、庶民ではなかなか手が届かない。
 昔はそんな規制もなかったそうだが、機械の普及、医療の発展によって人口が増加したため、無思慮な伐採が深刻な自然破壊を招いてしまったそうだ。その有様にいつもならば恵みをもたらしてくれるはずの神が流石に怒り、こう宣言した。実りの季節までにこれを改めなければ、人の手で育てて収穫した穀物、野菜、果物、その悉くが腐るであろう。
 人間たちは当初こそ慌てたものの、真剣には受け止めなかった。実りの神は長らく人間に恵みを当ててくれたし、伐採で裸になった山も最後にはどうにかしてくれるとたかを括ったのだ。機械が電気と神仏への祈りによって動くと言えども、便利さに慣れればその畏敬も僅かずつながら薄まっていったのだろう。
 そして惨事は訪れた。収穫祭当日、収穫物が見る間もなく腐り落ち、異臭が里を覆い尽くした。人々は慌て慄き、許しを請うたが収穫物は元に戻らなかった。神罰はそれだけで終わらず、冬に備えるため薪を求めて森に入った人間へのべつまくなし攻撃が加えられるようになった。食糧の大部分を失い、薪を手に入れることができなくなったため、その冬は飢えや寒さで死ぬ者が沢山出た。人々は薪を使うのをやめ、不便な電熱器具を使うようになった。木を切るには恵みの神の許可証が必要となり、木製品は高価な商品となった。
 もう何百年も前の話、既にお伽話となってしまったがその恐怖は未だに根強く残っている。

 博麗神社から十分ほど歩いた場所に小さな温泉がある。何百年も前に突如として湧き出し、今日まで枯れることなく歴代の巫女や東の里に住む人間たち、更には温泉の近くに生息する獣や妖怪たちに憩いの場を提供してきた。かくいう霊夢も巫女になってからこちら、毎日のようにその恩恵を受けている。風呂を焚かずに住むし、少し離れた場所にある間欠泉を利用すれば温泉卵も簡単に作ることができる。朝食を作る気力がない時など温泉卵に醤油をかけ、白米のお供にすればそれだけで半日は活動できる。
 昔はどこも野ざらしで、木陰に隠れて脱衣しなければならなかったが、薪の不足によって里の人間が足繁く通うようになってから立派な脱衣所が建てられた。基本は混浴だが、博麗の巫女には専用の岩風呂が用意されているので他人の目を気にする必要はない。獣や妖怪が時々先客として湯船に浸かっているが、温泉では危害を加えられることもないから追い払ったりはしない。
 神社だと霧は既に晴れていたが、温泉に近いためかうっすらと靄が立ち込め、視界を制限している。もっともそれはいつものことなので、霊夢はさして気にすることなく、専用の脱衣所で服を脱いでから湯船に浸かる。一人用と言っても泳いで遊べるほどには広く、肩まで浸かって爪先まで伸ばすと思わず変な声が漏れた。
 ばしゃりと入浴の音がし、霊夢は慌てて口を塞ぐ。湯気でよく見えないが、人型だからおそらく猿が入ってきたのだろう。人間に対する警戒心もないのか、人影はゆっくりとこちらに近付いて来て……霊夢に話しかけてきた。
「お久しぶりですね、霊夢さん」
 聞き覚えのある声が耳朶を打つ。目の前にいるのは猿ではなく、そして人間でもない。天狗と呼称される妖怪の一人で、名を射命丸文と言う。天狗は河童と異なり、あまり里には下りてこないのだが、文はその数少ない例外の一つだ。
「朝風呂とはまた良い身分ですねえ」
「日の昇らないうちから働き通しだったのよ。汗くらい流しても罰は当たらないと思うけれど」
「天狗は罰を与えません。与えるのは閻魔様ですね」
 本気なのかからかっているのか分かりにくいから、霊夢はいつも困らされてしまう。文は人里に一番近い天狗を自称しながら、しばしば感情の機微をちぐはぐに受け止める。話の主導権を握るための手法なのか、それとも天狗だから人間の心が分からないのか。多分前者なのだとは思うのだけど、時折本気で分かっていないから面倒臭い。
「冗談ですよ、冗談。そんな、天狗には人の心が分からない、みたいな顔をしないでください。親しい人間にそういう顔をされるとわたし、悲しくなっちゃいます」
 よよよ、と声に出して言う文から悲しみは一切感じられない。どうやら本当に冗談と見て間違いなさそうだった。
「山でもこの冬一番の豪雪でしたからね。天狗の膂力でも守矢の威光でも、あの雪を退けるには時間がかかりますし、骨も折る。ようやく一段落ついたので、のんびりお風呂でもと思いまして」
「天狗の里でも河童の集落でも、温泉なんていくらでも湧いているはずでしょう?」
 妖怪の山は死火山であり、その名残りで随所に温泉が湧いている。そのことを指摘したのだが、すると文は恥じらうような表情とともにそそと近付いてくる。
「ここに来れば霊夢さんに会えると思いまして」
「変なことしたら早苗様に言いつけてやるから」
「それは勘弁願いたいですねえ」文は苦笑いとも照れ笑いとも取れる表情を浮かべ、霊夢から距離を取った。「まあ、からかうのはこれくらいにしておきましょう。本当のことを言うとここで張っていたのですよ。訊きたいことがありまして」
「それはもしかして、里で付喪神が暴れた時のこと?」弁々のいつもらしからぬ行動を天狗のほうでも憂慮したのかと考えたのだが、文の表情を窺うにどうも違うようだった。「それ以外でわたしから聞けることは今のところないと思うけれど」
「ふむ……西の里を覆う霧の調査はしていないのですね?」
「あれは自然現象でしょう?」半月近くも昼夜を問わずに漂い、収まる気配のない霧を自然現象とするには流石に無理がありそうだけど、他に理由が思い浮かばない以上、霊夢としてはそう言い張るしかなかった。「もしかして霧の出所に心当たりがあるの?」
「あれば霊夢さんに聞いたりはしません。なくともいつもなら取材に出かけているのですが、今回に限っては上からストップがかかっていまして」
「ふむ、天狗の報道は割となんでもありだと思ってたけど」
「いえいえ、あれで結構制約も多いんですよ。それにしても頭ごなしに駄目だと言われるのは随分と久しぶりですね。月からの機械が降りて来たとき以来ですからもう六、七百年前の話になるでしょうか。此度の件は天狗の関わり合いになる出来事にあらずと。その時と違うのは、河童の面々が秘密裏に動いていることでして」
 それは確かに奇妙なことだ。河童の専門は水と胡瓜と機械であり、霧も水に関係のある自然現象ではあるけれど、河童とはあまり縁がないように思える。
「わたしはその立場上、表だって動けません。だから霊夢さんを頼って来たんです。あの霧はもうじき異変に格上げされるのでしょう?」
「その可能性もあるという通達があっただけよ。わたしは一切手をつけてない」
「なるほど、あくまでも異変となったら調査するつもりなんですね。そういうずぼらなところまで似なくても良かったのに、ぶうぶう」
 不満たらたらでそんなことを言われても困るだけだし、初代の霊夢と比べられるのは同じ名前を継いだ身としてはどうしても落ち着かない気持ちになる。サイトへも同じことを返答したが、博麗の巫女は基本的に公務員であり、容易に逸脱できる立場ではないのだ。
「昔と違って、博麗の巫女はそこまで自由じゃないの」
「おっと、天狗の組織みたく、宮仕え扱いなのですよね」里にもしばしば下りてくるのだから知らないはずはないのだが、わざわざ口にするということは皮肉の一つでも言わずにはいられないのだろうか。余裕そうな顔をしているが、もしかすると切迫した事情を抱えているのかもしれない。「お互いに辛い立場のようで」
「もしかして、禁止されていることを調査しろと命令されている?」
 ふと思いついて訊ねてみたのだが、痛い所を突いたらしい。文は唇を尖らせ、霊夢を恨みがましく睨みつける。
「そういう勘が良いのやめてくださいよう」困った人だと言わんばかりだが、すぐに口元が綻んだところから本気で怒ってはいないようだった。「妖怪の山はいつだって一枚岩ではありません。機械の隆盛によって河童の勢いが増してから力関係はより複雑になりましたし、それに今は弾幕決闘が流行っていますから妖の心も全体的に過激な方向へと傾きがちです。機械を解放しろなどと吹き上がっている輩どもも最近、随分と増長しているようですし」
 霊夢は先日の弁々や、解放派の最近の動きを思い出す。奴らは最近、最新のパソコンを強奪しようと動いている節があり、霊夢の関わりがないところで奪われたこともあるらしい。電気店でなく輸送中の河童のみを狙うのは人里で極力暴れないという方針が生きているからなのか、それとも山の妖怪にも勝てるという力の誇示なのか。どちらにしろ面倒なことこの上ないと霊夢は考えていた。
「なるほど……それでは早苗様も頭が痛いでしょうね」
 妖怪の山の中腹にある守矢神社には三本の柱が立っている。その一である東風谷早苗は機械の信仰を司っており、それを脅かす可能性がある解放派とは長らく敵対関係にあるのだ。
「仕事が増えたと言ってぼやいてますよ。でも結構いきいきしてますね。長らく担がれるだけでしたから、忙しくなって生活に張りが出てきたのかもしれません。弾幕決闘を懐かしがってもいましたし、そのうち麓まで下りてくるかもしれませんよ。全く、困った人ですね」
 困ったという割には口元も頬もすっかりと緩んでいる。霊夢にじっと見られているのに気付いたのか、文はこほんとわざとらしく咳をし、表情を引き締める。
「それを防ぐために、原因を探り出して解決したいの?」
「それもあります。天狗のお偉方が主導権を強めたがっているのも確かです」
 色々な思惑があり、板挟みになっているというわけだ。心中察するとばかりに頷くと、文は縋るような視線を霊夢に向ける。
「わたしとしては早く霧の件が異変になることを祈ってますよ」
「こちらは真っ平ごめんよ、郷が転覆するほどの異常事態だなんて」
「とてもではないが解決する自信はないと?」
「当然じゃない。わたしにできることなんて限られているわ」
 初代の霊夢が生み出したとされている弾幕決闘の知識は今や大半が失われており、博麗の術も十全に継承されているとは言い難い。稗田の家に残されている知識から当時の技術を少しずつ復興させてはいるが、形になったのは半分にも満たない。そもそも心の準備が全くできていなかった。異変と認定されるような大事に遭遇するかもしれないと先代から仄めかされてはいたが、そんなことはないだろうと心の底では思っていたし、この霧もいずれはなくなってしまうのだとたかを括っていたのだ。
「ふむ、姿形は似ていても性格は異なるのですね。わたしの見立てでは今の霊夢さんも相当できる人間のはずですが」
「買い被らないで頂戴。わたしは普通の少女なのよ」
「博麗の巫女は異変の際にあらゆる権力、決まり事に優先して調査を行い、独自の権限で解決のための能力を行使して良い……ですよね。それで普通の少女というのは些か謙遜し過ぎ……ああいや、そうでもないですね。かつて普通の魔法使いを名乗った少女もいましたし」
 普通の魔法使いというのは真っ当な異端であるという実にひねくれた表明だ。一緒にしないで欲しいと思ったが、文はそれですっかり納得してしまった。言い返すのも面倒だし、先代から妖怪相手に謙遜を示すのは百害あって一理なしと教わっている。だから口だけは達者に振る舞った。
「あんたの期待通り異変になったらやるだけやってみるわ。でも、あくまでもわたしの好きにやる。誰の思惑にも縛られるつもりはない」
「それでこそ博麗の巫女です」文は満足そうに頷くと、いま入ってきたばかりだというのに素早く湯から上がる。すらりとした裸身を垣間見せたのも一瞬のこと、その身を薄緑色の旋風が覆い、晴れた時にはいつもの装いを身に着けていた。「次にお会いする時はさぞかし楽しい話を聞かせていただけるのでしょうね。期待していますよ」
 文は上空へと駆け上がり、忙しなく去っていく。いつものことだが自分勝手な奴だなとは思うが、あれでも天狗としては接しやすいほうだ。傲慢を装っているが、人間への距離感を弁えている。
 おそらく他の天狗ほど、人間に対して油断していないのだろう。もしかすると遠い昔、人間に手酷くやられたか追いやられた経験があるのかもしれない。霊夢は「しょうがないやつー」と大声で独りごち、だらりと力を抜いて湯に身を委ねる。そうして先程までの話を頭の中から追い出した。

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この小説へのコメント

  1. 独特な世界観で先が気になりますね、面白いです。
    ちょこちょこ私たちがよく知る時代の幻想郷の面影が見えてニヤッとします。

  2. あやさな!(脊髄反射)
    しっかり作り込まれた世界観が徐々に見えてくるこの感じ、良いですねぇ

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