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幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  前編   マリオネット前編 第10話

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公開日:2015年10月28日 / 最終更新日:2015年10月28日

マリオネット前編 第10話
アリスの章
          1

 明朝、アリスは窓越しに小鳥たちを眺めていた。昨晩はあまり眠れず、心の底にも澱が溜まって不快だった。その澱を清々しい朝の空気で少しでも浄化できればと、カーテンを開いたときに目に入ったのがこの小鳥たちである。
 小鳥は五羽いた。みな一様に身体が茶色に染まっており、明確な違いを見つけるのは難しそうだった。それでもなんとか違いを見つけようと、先程からずっと小鳥たちを眺めている。
 どうして違いを見つけ出したいのか、自分でもわからない。それでもそうしたいのだからと眺め続けた。
 それにも飽きてくると、カーテンを引き直してリビングに戻った。置時計に目をやると、午前六時十分になったところだった。

 朝陽を浴びても気分の晴れなかったアリスは、日課であるコーヒーを淹れる作業に没頭することにした。何も考えず、一心不乱に物事をこなしていれば雑念が消えると思ったのだ。
 だが、そうはならなかった。
「あっ」
 手からコップが滑り落ち、ごとんという音を立てて床に転がった。割れなかったのは幸いだったが、余計に雑念に縛られることになった。
 ゆっくりと膝を折り、落ちたコップを拾い上げる。それを洗い場に置くと、コーヒーを淹れるのは諦めてリビングに戻った。どうせ何も手につかないのなら、じっとしている方が賢明な気がした。
 ソファーに身を沈めると、すぐに瞼を閉じた。その上に腕を乗せ、か細い吐息をつく。
「あー……」
 これほど神経が参っている理由は、たった一つ。
 昨日の一件がそうだ。パチュリーが見つけた、人形の染みについてである。
 紅色の染みと、白色の粉末。これら二つの汚れに、アリスは得体の知れない不安を覚えたのだった。昨晩眠れなかったのも、このためだ。
 汚れの謎を解明するため、一連の事件の時、外出する際に連れ出した上海人形を昨夜検めてみた。だがその人形には汚れた形跡はなく、やはり他の十一体の上海人形たちにも汚れは付いていなかった。服にも、頭部にも四肢にも。
 全部で十三体いる上海人形のうち、一体だけが汚れている――それがまた不可解だった。
 実のところ、その不可解さの証明のために、一つのある不吉な推理を打ち立てていた。
 だがその推理が正しいとするなら、他の人形にも汚れが付いていていいはずなのだ。しかし汚れているのは一体だけ。つまりその推理が外れていることになる。
 では、どうして身に覚えのない染みなどが付いているのか。
 その謎が解けず、こうして苦悶を抱えているからこそ、神経が参っているのだった。
 疲れた心に、カチ、カチと時計の打刻音が染み込んでくる。
 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
 まるで自分が時計になったかのような錯覚に襲われ、アリスは慌ててソファーから立ち上がった。
「……なんなのよ」
 ばくばくと心臓が鳴っている。本当に時計化してしまうのではないかという恐怖が、血流を加速させている。
 自分が時計になる。馬鹿らしい発想だ。だがその幼稚ともいえる発想を一笑に付してしまえるだけの気力が、今のアリスにはなかった。
 このまま家にいたら、自分が自分でなくなってしまう。どんどん神経が磨り減っていって、最後には――。
 ぎゅっと目を瞑ると、アリスは逃げるように外へと出た。人形も、貴重品も持たずに。

 生温い気温は、散歩するにはちょうどよかった。これで夏日のような暑さだったら、早々に切り上げなくてはならなかっただろう。これくらいの温度であれば体力の限り歩き続けられる。
 上海人形は、故意に置いてきた。外に出る時はよほどのことがない限り同伴させていた愛娘だが、今は隣にいない。それに関して、特に何も感じないことが自分でも信じられなかった。寂しさも、心細さも、愛惜も、どれ一つとして感じられないのである。こんなことは、いまだかつて経験がなかった。
 むしろほっとしている自分がいることに、アリスは慄いた。
 あれだけ愛着をこめて生み出し、長い年月を共にした半身とも言える上海人形。それが今では重荷になっている。
「――どうして」
 何もかもがわからなくなってきた。
 人形を愛せない自分。尖った神経のせいか妄想を生み出し続ける自分。自宅を忌避する自分。すべてが自分のこととは思えなかった。
 それでも確固たる自我と意志がある以上、アリス・マーガトロイドはちゃんと生きていて、感情もあるということになる。どうしてこんな考え方に――思い方に――なってしまうのかはわからないが、間違いなく私は私なのだ。
 もしかしたら、私は壊れてしまったんじゃないか?
 その考えがよぎった瞬間、脳裏に、ある光景がフラッシュバックした。鈍い音と共に、視界がブラックアウトしていく光景だ。
「そうだ」
 アリスは両足を止め、確信を持って呟いた。両手には力がこもり、拳に変わった。
 この理解不能な心理構造になった原因はきっと、あの時の打撃に違いない。後頭部を殴打された結果、脳の一部が破壊されてしまったのだ。そのせいで「私」が「私」ではなくなってしまったのだ。
 問題は脳のどこが壊れたかだが、確かめる術はない。
「なんて――」
 なんていうことだろう。
 神の領域だとまで考えていた自律人形を完成させるため、地道に努力を積み重ねてきた。なのに、どうしてこんなことになってしまったのか。もう一歩、あと一歩で手が届くところまで来ていたのに、どうして。
「どうして……」
 拳から力が抜け、解けていく。強く握っていたせいか、掌にじんと痛みが広がった。いからせていた肩も脱力し、だらっと垂れた。肩だけじゃない。身体のありとあらゆる部位から力がごっそりと抜け落ちてしまい、立っていられなくなった。
 膝から崩れ落ちる。
 身体が小刻みに震え、視界の端がぼうっとぼやけた。
「どうして……」
 周りには誰もいない。今なら誰も見てはいない。
 アリスは思いっきり泣いた。地面に爪を立て、腹の底から声を上げて。

          2

 何も考えず、ひたすら真っ直ぐ歩き続けたはずだが、どうしたことか自宅に戻ってきてしまっていた。危険を感じたはずの小さな我が家に。
 しかし彷徨い続けたおかげで体力も限界に近かった。この際寝られればどこでもいいかと考え、玄関のドアに手をかけた。その時にようやく、施錠をし忘れていたことに気が付いた。戻る気がなかったにせよ、細かな管理すらできなくなっていることに愕然とした。
 中に入ると、すぐにベッドを目指した。頭痛が起きた時のように、眠ってしまえば、あるいは翌日には元の自分に戻っているかもしれない。そんな期待も微かに膨らんだが、所詮は泡沫の夢だと自嘲した。
 壁際から生えるように置かれている大きな時計に目がいったのは、ベッドに倒れこもうとした刹那の瞬間だった。何かが変だと感じ、両腕で身体を支えたまま時計をじっと凝視する。
 針の位置がおかしいと気付くのに、さほど時間はかからなかった。
 ――二時四十五分の位置で止まっている?
 現在の時刻を正確には知らないが、少なくとも午前六時十分以降で、昼よりは前のはずだ。出歩いていたが、四時間も五時間もかかってはいない。
 いつの間に止まった? もしかしたら壊れてしまったのか? 不思議に思い、ベッドから降りて近付いていくと、時計の側面の底辺が黒くなっているのが目に入った。その黒い何かは床の絨毯にまで広がっている。
 コーヒーでもこぼしたのかと思いながら手で触ってみると、がさがさとした感触があった。まるでかさぶたのような手触りだ。
 爪を立てると、角が呆気なく剥がれ落ちた。その欠片を摘んで目の高さに合わせると、注意深く見てみた。
 かさぶたらしき何かは思ったより薄く、光に当てると赤ブドウみたいな色になった。どす黒く見えたのは、時計が影になっていたからだろう。乾燥しきっているようだが、指で潰してみると微かに弾力があった。粒として落ちていれば、乾燥させたブドウのお菓子にでも思ったことだろう。
 唸りつつ、様々な角度から見たり考えたりしてみたが、どうにもわからない。
 そこで今度は、時計の側面についている蓋を取ってみることにした。黒い何かは、もしかしたら中から出てきたもの――一番考えられるのはオイルの類いだが――かもしれない。
 かさぶたの欠片をゴミ箱に放り、鉤のような形をした留め具に手を伸ばす。金属製のそれは三つ付いており、いずれも簡単に外すことができた。
 ぎぃ、と蟲の鳴き声のような軋み音を立てて、側面の蓋が開いた。
 と、振り子がぶんぶんと、そこそこの速さで左右に揺れているところだった。
「おお、こわ」
 振り子は真鍮製であり、燻った金色をしている。アリスは頭や顔にそれを当てないよう、慎重に中の様子を覗いてみた。
 しかし、というべきか、やはりというべきか。
 中には黒い物体などどこにもなかった。それどころか箱の隅には小さな蜘蛛の巣まで張っている。先程の薄いかさぶたが、内側から漏れ出てきたものではないと証明しているかのような状況だった。
 そうなると、外側から時計や床に付着したとしか考えられない。
 どうやらまた一つ解けない謎を抱えることになってしまったようだった。
「はぁ」
 時計の蓋を閉じ、留め具をかける。
 その最中、ふとした疑問が浮かんだ。
 時計の針が変な時間で止まっていたから気にかけたのに、振り子は元気よく揺れている。
 この置時計は「振り子時計」と呼ばれている時計だ。振り子の運動がなければ針も止まる、という構造になっていて、逆に針が動いていて振り子が停止しているということは有り得ない。振り子が動いているのなら、針は確実に時間を刻んでくれるはずなのだが、それが止まっている。
 考えられる原因は――。
 やはりもう一度開けてみないとわかりそうにもない。
 アリスは面倒に思いながらも、蓋を開けた。それから、どうせ針が止まってしまっているのだからと、振り子の中央を手で掴んで動きを止めた。もっと制動力がいるかと思ったが、振り子は僅かな力で止まってくれた。
「んっしょ」
 ひやりとする真鍮製の振り子を握り締めたまま、アリスは顔を時計の中に突っ込んだ。
 傍目から見ても人が一人入れそうなほど大きなこの時計は、中も相当に広かった。こうして上半身と顔を突っ込んでも、奥行きに若干の余裕がある。
 見た目通り、中に入れそうだった。ただ、中に入ろうと思うなら、振り子が邪魔になる。これを外さない限り、子供であっても中には入れないだろう。
 そのまま顔を上げると、針と歯車の接点があるはずの部分を睨んだ。もしかしたら繋ぎ目が折損しているかもしれない。
 だが光の射し込まない内部は思った以上に暗く、何も確認することができなかった。ランタンでも持って来るべきだった、と後悔したが、今更な気もした。魔法で照らしてもいいが、どうせ壊れていることは確実なのだから、後からゆっくり分解すればいい。
 突っ込んだ顔と上半身を引き剥がし、握っていた真鍮を手放す。
 しかしながら、真鍮は死んだように動かなかった。動きを止めるまでは、あんなに元気そうに振れていたというのに。
「ごめんね」
 外蓋を閉めた。明日時間を作って修理するから、今日のところは我慢して頂戴ね。
「さて、と」
 ベッドに身体を向ける。
 謎解きに精を出していたからか、かなりの疲労感が飛んでしまっていた。興奮したせいで、神経が昂ぶっているのかもしれない。
 が、それでも眠ることにした。今の自分は故障した人形と同じだ。本来の機能を果たせないばかりか、余計な動作のせいで失敗を大きくしてしまう。
 思えば、ゴーレムに後頭部を強打されてからというもの、優柔不断に陥った気がする。思考レベルも格段に落ちて、冴えない意見ばかり量産していた。
 もしこれで眠っても治らなかったら、そのときは――医者に見せるのが一番なのだろう。もしかしたらいい薬があるかもしれない。
 ベッドに腰を下ろすと、すぐ足元に上海人形がいた。ベッドにもたれかかっており、くの字になっている。アリスは人形を抱き上げると、優しく声をかけた。
「せっかくだし、一緒に寝ようか」
 先程の振り子のせいか、人形が愛しく感じられた。朝には愛情が持てないと悩んでいたというのに。
 アリスは人形を抱きしめ、眠りについた。

          3

 奇妙な話だけれど、これは夢だと自覚できた。
 どうして夢だと断言できるのか、理由は定かじゃない。でもこれは間違いなく夢だ。確信を持って言える。
 ワタシは色彩を失った世界にいた。
 見慣れたはずの我が家がその世界なわけだが、どういうわけかすべてが灰色に染まっている。セピア色と言った方が正しいかもしれない。
 そしてワタシは今、地下にいる。いつもは寒気を感じる程に冷気が漂っている地下室だ。ここには魔法に関する道具が置いてある。本も数冊ではあるが、置いてある。
 床に目をやると、不思議なことにワタシが横たわっていた。眠っているようで、瞼はしっかりと閉じられている。唇、顎、首と順番に視線を動かしていき、隆起した胸元のところで一旦止めた。どうして胸に目が行ったかといえば、大きさが気になったからという幼稚な理由ではなく、呼吸しているかが気になったからだ。
 しかしワタシは知っていた。見るまでもないことだったのだ。それでも確認したかったから、しただけの話で。
 呼吸はきちんと止まっていた。サインである胸の動きがまったく見られない。微かにも上下していない。つまり死んでいるのだ、目の前のワタシは。
 ショックはなかった。ただ、どうしてこんな場面が夢で出てくるのか、それだけが不思議だった。
 時間の感覚がないせいか、死んでいる自分を見続けていても苦痛ではなかった。むしろ安堵している自分が裡にいることに、げんなりとした。ワタシは死を望んでいたらしい。
 最近色々とあったからな、と言い訳をつけてみる。
 ゴーレムの制作に、金本理沙と岸崎玲奈の殺人事件、自己の崩壊劇と列挙に暇がない。これは精神的に参るのも頷けるというものだ。
 やれやれ、とワタシは嗤ってみせた。
 死に顔が人形っぽく見えるのは何の冗談なのだろう、と。どうせならもっと人間らしく、いや、魔法使いらしい顔をしていればいいのに。
 自嘲を込めて眺めていると、視界にいきなり上海が現れた。ワタシの死体のすぐ真横に。小さな手で、しきりにワタシの頬を叩いている。
 声をかけようとしたが、出せるだけの声帯は持っていないようだった。それどころか、縫い付けられてしまったように一歩も動けない。足すら付いていないらしい。夢にしてはサービスが悪かった。
 でも、上海はワタシが作った人形だ。だから泣くなんてことは有り得ないし、ましてやこうして自分の力だけで動くことなどもっと有り得ない。そう考えると、これはいいサービスなのかもしれない。
 ワタシが見続けた夢――自律人形の完成が目の前にある。それだけで胸が幸福で満たされるようだった。
 ついに上海はワタシ(死体)の手の甲を握った。その顔には必死さが表れていた。なんとかしようにも身体が動かないのでは、ただそれを見ているだけしかできない。それがどれほどの苦痛なのか、他人にはわかるまい。
 これは人形師であるワタシにしかわからない感情だ。
『上海』
 心の中で叫んでみる。上海は気が付かない。
『ワタシは大丈夫だから』
 上海がついに泣き出した。そんな声で泣かれると、ワタシが辛いの。
『お願いよ、上海――』
 できないとわかっていながらも手を伸ばした。精一杯念じながら。
 お願い、ほんの少しでいいから触れさせて――。
 だがその願いは放られたまま、唐突に夢が終わった。

「上海!」
 虚空に手を伸ばしきり、アリスは叫び声を上げて飛び起きた。
「……ぁ」
 息が切れ切れとしている。口の中は粘つき、気持ち悪かった。
 呼吸が落ち着いてくると、自分の掌をまじまじと眺めた。そこでようやく、体中が汗まみれだということに気が付いた。
「夢……」
 うわごとのように呟く。
 夢の中では「これは夢だ」とすぐ認知できたのに、現実ではそうはいかなかった。この掌が現実のものであるとは、到底信じられなかったのだ。上海に触れようと必死に伸ばしたこの手が、夢であったと認めたくないのかもしれない。
 正直、自分でもよくわからなくなっていた。夢だから何でもありだと嘲笑していたのに、こうして現実に戻ってきた途端、さっきのは夢なんかじゃないと否定し始める。心が矛盾という化け物に食い散らかされているようだった。
 かく言う上海人形は、枕の隣で横たわっている。長い金髪は乱れ放題になっており、頭上のリボンも外れていた。
 やはり、全て夢だった――アリスは下唇を噛んだ。
 夢であったとしても、醒めては欲しくなかった。あのまま向こうの世界に留まることができれば、もしかしたら自律人形として完成した上海と一緒になれたかもしれないのに。
 無念という名の煙が腹の底から立ち上ってきて、一気に口内に広がった。苦味の伴う蒸気だった。
 アリスは徐に立ち上がると、汗で張り付く衣服をベッドの上に投げ捨て、タンスへと向かった。
 大きな黒檀のクローゼットの横に小ぢんまりと置かれた洋ダンスは真っ白で、色の釣り合いが取れていない。そのことをパチュリーたちに指摘されたこともあるが、この洋ダンスはお気に入りで、色を塗り替えようとする気にもなれずに今日まで使ってきた。
 そこから、普段使っている藍色をした洋服を取り出した。上海に着せているデザインと同じもので、これもタンス同様お気に入りだ。
 袖を通し終えると、虚ろな気分のままリビングに行った。
 特に何かしようと思ったわけではない。ただ、寝室以外に行く場所といえばリビングであり、習慣的なものだった。
 リビングは静まり返っていた。外から射してくる光は白く、まだ夕方ではないらしい。流し場でコップに水を注ぎ、一気にあおった。異様に喉が渇いていたし、口中の粘つきもすっきりさせたかった。粘つきはすぐにとれたが、乾きの方は一杯では足りず、二杯目もすぐに空にした。
 喉が潤うと、次第に気力も戻ってきた。
 またしても一日を無駄に過ごしてしまったかと思っていたが、外から射してくる光を見る限り、まだ動けそうだった。きっと今は昼頃なのだろう。水を飲むまでは外に出ようとする気力さえ湧かなかったが、せっかくやる気になったのだから、これを活かさない手はない。
 医者に行こう。アリスは心を固めた。
 一瞬、止まった時計の姿が頭をよぎったが、修繕などしている場合ではない。今は一刻も早く、正常な自分に戻らねば。変な夢を見たのは、これはいよいよ危ないぞと脳が通達してきたに違いない。
 きっとそうだと自身に言い聞かせ、アリスは外出の準備に取りかかった。

          4

 鬱蒼と生い茂る竹林に守られるように佇む、和風の大屋敷が八意永琳の住居だ。その入り口までやってきたのだが、ここには来客を伝えるための呼び鈴すらなかった。どうやって中の住人を呼べばいいのかわからず、途方に暮れる羽目になった。
 何とかならないかと屋敷の周りを見渡してみる。
 だが、塀らしきものが左右に延びているだけで、他にこれといって目立ったものはなかった。しかもこの塀、存外に低く、侵入者除けにはなりそうにもない。ちょっと助走を付けて跳べば、凡夫でも乗り越えられそうである。覗き見を防止するだけが用途なのだとしても、えらく中途半端な背丈だ。
 その塀を伝ってうろついてみるも、やはり中に入る道は一つしか見当たらなかった。この入り口をくぐってしまえば、すぐ目の前に庭と母屋がある。入るしかないとは言え、無断で通ってしまえば不法侵入のレッテルを貼られても文句は言えなくなってしまう。
 なんてことだ、こんなことなら呼び出し方を訊いておくのだった――アリスは頭を抱えた。なぜ和風の家の勝手を知っておこうとしなかったのか。
 その時、アキレス腱の辺りに暖かい何かが当たった。柔らかな感触だった。
 何事かと首を下に折ると、白い物体が目についた。それは、歪な丸みを帯びていた。
「え、なに」思わず声が出た。
 物体がもぞもぞと動く。アリスは驚きで後ずさりしかけたが、なんとか踏みとどまった。
 白い何かは足下に留まり続けている。よくよく観察してみると、すぐに正体が判明した。
「ウサギ……」
 ほう、と安堵の息が漏れる。もしあのまま後ずさりしていたら、間違いなく踏み潰していただろう。おかげで背に嫌な汗をかいた。心音も落ち着かない。
 ウサギは何事もなかったかのように、ぴょいっと一跳ねすると、屋敷からどんどん離れていき、竹林の奥へと消えていった。その行く末を見届けてから、アリスは庭の方へ向き直った。
 庭も純和風な造りをしている。どのような手法を用いて造られたのかは想像さえ難しかったが、一瞥しただけでもかなり洗練されたデザインなのだということくらいはわかる。有名な庭師にでも頼んだのだろうか。
 東洋の造詣は詳しくないにせよ、創造者としては興味をそそられる眺めだ。庭そのものに惹き付けられるように、アリスは首を伸ばした。
 するとそのタイミングで、
「あら、珍しいお客さんだこと」という声が聞こえてきて、慌てて顎を引いた。
「ああ、輝夜」
 冷静な態度を装い、返事をする。「どうもこんにちは」
「変ね、アリスが丁寧な挨拶をしてくるなんて。いつものぶっきらぼうな感じはどこへ行ったのかしら」
「失礼ね。私はどこでも淑女らしい振る舞いをしてるわ」
 輝夜は艶のある黒い長髪を揺らし、一直線にこちらまでやって来た。
「お久しぶりね」
「半年は逢っていないわね」
 輝夜は本名を蓬莱山輝夜という。あの「かぐや姫」で有名な、正真正銘月のお姫様だ。
 いつでも動きにくそうな和装に身を包んでいるのだが、本人はのんびりとした性格で、動きも緩慢であることから、特別問題にはなっていないらしい。機能性や機動性を重視するアリスには、些か理解の及ばない服装である。
 輝夜は人形のような顔立ちをしていた。中性的な美しさ、と表現するのが一番近いか。
 姫という立場だけあって気品があり、従者も付けている。八意永琳がその従者だというのが、いまだにアリスの中で大いなる謎として残っている。
「今日はどうしたの? もしかして、貴方もあの事件に首を突っ込んでいる人だったり?」
「あの事件?」心当たりが多すぎる。
「首なし殺人事件よ。あ、ミイラ殺人事件だっけ」
「どちらも正解よ」どうやら説明する手間は省けるらしい。「ご明察。そのことでちょっとね」
 診察してもらうために来たのだが、あながち間違いでもないので修正の手は入れなかった。
「貴方もお人よしね。人里のことなんて放っておけばいいのに」
「そうしたいのは山々だけどね。元人間としては貢献したくなる問題なのよ」
「ふぅん」輝夜は興味なさそうな声を出すと、長髪を掻きあげた。「ということは、永琳に用事ってことね」
「まぁ、そうね」
「なんだ、つまんない。せっかくゆっくりとお喋りできると思ったのに」
 口を尖らせる輝夜に、アリスは苦笑交じりに言った。
「お喋りしたいなら、私の家まで来ればいいのに。暇な時なら付き合ってあげるわよ」
「やだ。あそこまで行くのが面倒だもの」
 お姫様をしていたせいか(今もしているか)、彼女はかなりの面倒くさがり屋だった。
「そんなこと言ってると、また永琳さんにどやされるわよ」
「永琳は怒っても怖くないからいいわよ」
 それはそうだろう、とアリスは失笑しかけた。永琳はあくまで輝夜の従者だ。強く言えるはずがない。
「それで、永琳さんはいる?」
「はいはい。ちょっと待ってて」
 言い残し、輝夜が庭を横切って建物の奥へと消えていく。長い黒髪が揺れる様は、どこか馬の尻尾のようだった。
 待っている間だけでもと、普段は味わえない庭の風情を楽しむことにした。が、残念ながら目的の人はすぐに現れてしまった。薬師であり医者である、八意永琳だ。
「どうも。私に用向きだとか」
 帽子を被りなおしながら近寄ってくる永琳からは、薬草のきつい匂いが漂ってきた。今まで薬剤の調合でもしていたのかもしれない。
「お忙しいところすみません。ちょっと頼みたいことがありまして」
「何かしら」
 アリスは念のため、辺りの様子を窺った。輝夜たちが潜んでいないかを確認するためだった。「耳を貸していただけますか」
 永琳は片眉を持ち上げ、疑わしそうな顔つきになった。それでも問い返しはせず、素直にこちらの要求に従った。少し身を屈めたのは、長身故の配慮だろう。
「実は――」
 口元を手で覆い、アリスはこれまでの経緯をひそひそと小さな声で伝えた。永琳は頷きを入れることもなく、じっと耳を傾けている。
 話し終えると、「それは深刻ね」と永琳が背を伸ばしながら言った。「力になれればいいけど」
「頼れる人が永琳さんしかいなくて……。厄介ごとを持ち込んで申し訳ないのですが」
「厄介と言うよりは、災害のようなものね。つまり、仕方がない、ってやつ」
「ですね」アリスは力なく笑った。
「とにかく、経緯はわかったから、さっそく診させてもらおうかしら。脳は一刻を争う場所だし」
「助かります。ええと」
「こんなところで診察はできないわ。こっちよ。あがってらっしゃい」
「どうも」
 礼を述べ、患者らしく医者の言う通りに後をついていった。

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