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聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第1話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年10月15日 / 最終更新日:2015年10月29日

白蓮さん前編 第1話
 あなたは明けの星が輝く頃になると誰よりも早く目を覚まし、重たそうな門を独力で押し開けて寺の外に出る。それから雲の上まで一気にかけ昇り、東の空をじっと見つめ始める。どこか不安げな表情を浮かべており、まるで太陽が昇ってくるのをこの世界でただ一人、危ぶんでいるかのようだ。しかしこの地上で太陽の登らない日はない。日食とて月が巧妙に隠しているだけのこと。目を凝らせばそこに後光を見て取ることができる。もっともあなたがここに来てから、幻想郷に日食が訪れたことは一度もない。
 燦々(さんさん)と輝く太陽を暫く見守ってから、あなたは体を地面に対して平行に倒し、全ての力を抜き、それでもぷかぷかと浮いていた。そうしてまるで雲のように、ふわふわとたゆたうのだ。あなたはときどき、まるで大気の一部になりきるから、誰の目にも映らなくなってしまう。否、認識するのがとても難しくなる。認識を変化させるのではなく、認識を無くするのだ。あなたは無意識になる術を心得ている。徳の高い僧侶である証左であった。
 そんなことを考えているうちにあなたは意識の外から抜け出し、認識ができなくなる。独特の臭いがあるはずなのに感じられなくなる。沢山のものを殺してきた人間の臭い。それゆえにかつてあなたのことを聖者の類であると信じられなかった。あなたは罪深きにどれほど寛容なのか。まだあなたを観察し始めて数日にしか過ぎないけれど。そうであって欲しいと思う。
 それにしても気配がない。あなたがどこにいるのかまるで分からない。認識に関しては誰にも負けたくないから、あなたを探してあてどもなくさまよう。日の下をうろうろするのはあまり好きじゃないけど、仕方がない。矜恃は妖怪にとって何よりも大事なものだ。許しを乞いたい相手であっても、得意分野では負けたくない。だから賢明に探し続けた。
 すると随分風下に来たところでふと、気配が蘇った。あなたに気付かれないように雲を挟んで近付くと、どうやらこのような場所で何者かに遭遇したようであった。高高度をさまよう妖の類であろうか。もしも凶暴な相手であれば、加勢することで恩を売れるかもしれない。日の下では闇夜の中でより上手く戦えないけれど、かつては京の街すらも右往左往させた大妖怪である。そんじょそこらの奴らに負けない自信はあった。だからすぐにあなたを助けることができるよう、正体不明を解く。
 
 わたしはわたしとなって、機会が来るのをじっと待ち受けた。
 
 
【第一話・忘却の船に流れは光】
 
 
 村紗水蜜が黒き聖なる翼を見たのは地底の奥深く、その命運を共にした船の中であった。
 その日、水蜜は久方ぶりに眠りから覚め、戸惑い半分、寝ぼけ半分で船上に向かっていた。
「ここは、どこだろう」やけに蒸し暑い気がするし、何やら強い力の満ちているような気もする。霊体を動かすことさえままならないけれど、留まっていては危険だと思い、せめて様子だけでも窺(うかが)おうとしていた。「わたし、どうしたんだろう」
 記憶が混濁している。己の名前でさえも、あまりにも遠い遠い過去であるように感じ、孤独であることも相俟って、いまにも不安で涙を流してしまいそうだった。
「誰か、いないの?」声を投げかけるものの、返ってくるものはなく。「どうしてここにいるの? わたしは誰?」
 水蜜は己の存在を己に問いかける。
「ここは船」然るに自分は船乗りなのだ。違和感がなかったので、水蜜はその前提で思考を進める。「これはどんな船?」
 貴人を乗せるための船だ。そう直観した刹那、水蜜は爆発的に記憶を取り戻していた。己が何であるかも明確に自覚していた。
「そうだ。わたしは胡乱なものとして封された」
 人間の呪い師に、地の底に落とされたのだ。その認識が身に馴染むと同時、水蜜は駆けだしていた。村紗であったわたしにそうであれかしと説いてくれた聖のことを強く思い出したからだ。
「早く、行かなければ」どこへ? もちろん魔界へだ。聖を救出しなければならない。「でも、どうして?」
 水蜜に施された封印は聖のものに比べれば簡易であるとはいえ、生半可な僧をいくら集めたところで解くことの叶わないものだ。そこまで考えて、水蜜は希望に胸が膨らむ己を自覚する。
「もしかして、聖が助けに来られた?」
 聖ならば魔界の封印さえ解くことが可能かもしれない。水蜜は急く気持ちを抑えられず、霊体であるというのに躓きながら、船上に到着する。そこに敬愛するものがいると信じて。
 しかし水蜜の目に入ってきたものは、まるで異質のものであった。力の膨大さゆえか、その身は白く発光し、それでいて消し難い特質が黒き翼として現れていた。その荒々しさは霊体である水蜜には眩しすぎ、しかし目を離すことができなかった。
 仏の類ではない。水蜜は短い間であったけれど聖の側にいたから、仏の威光やその法力を何度も目にしている。魔の力でもない。聖が使う魔法では斯様(かよう)な力は顕れないはずだから。
 ではどのような力なのか。微かに神通力という単語が思い浮かんだものの、水蜜の記憶はそこで途切れる。直下から強烈な熱泉が噴き上げ、水蜜を船もろとも弾き飛ばしたからだ。
 
「と、いうわけでありまして」
 水蜜は封印から解き放たれ、地上に出てきたときのことを皆に語っていた。皆というのは雲居一輪、寅丸星、聖白蓮の三名と、たまたま居合わせたナズーリンのことだ。宝船騒動の中核を成した彼女たちは人里近くに寺を建て、将来の見通しがようやく立ち始めた頃合いであった。またそれゆえに、水蜜は今まで胸の奥に秘めていたことをその日ようやく打ち明けていたのだ。
「なるほど、地底に住む黒翼のものですか」聖は突拍子のない話にいち早く相槌を打ち、強い興味を示してくれた。「村紗を助けてくれたのだとしたら、お礼に伺わなければなりませんね」
 その通りだと頷きかけ、水蜜は怪訝そうな視線に気づいた。それは予想通り、部屋の端で偉そうに腕を組んでいる鼠から放たれていた。
「何よ、その嘘くさいみたいな表情は」
「別に嘘だとは思ってない。長い眠りから覚めたばかりであったならば胡乱(うろん)な幻の一つや二つ、見てもおかしくないと思っただけさ」
「要するに嘘ついてるって言いたいんでしょ? 回りくどい言い方しなくて良いのよ」
「まあまあ二人とも」不毛な言い争いになりかけたところを、星が手を振って宥(なだ)める。「憩いの場で諍(いさか)うものではありませんよ」
 そう言って、星は部下である鼠に目配せし、すると少し不機嫌そうに口元を窄(すぼ)めてしまった。小気味良い気持ちを覚えていると、そのことを悟られたのか、今度は水蜜に柔らかくも厳しい視線を向けてきた。
「妄(みだ)りに人妖を疑うのは良くないですが、村紗の話が荒唐無稽(こうとうむけい)であることも確かです。しかし村紗の話が本当として、そこまでの神格をふるうような存在が地底にいる理由も分からない」
「それは……」水蜜は言葉に詰まって、一人ほんわかとした様子の聖に視線を向け。ふとした考えに思い至った。「聖のように封印されていたのかも」
 不意に視線が集中し、聖はあらあらとばかりに座中の妖怪たちをぐるりと見渡し、響きの良い柏手を打った。
「百聞は一見に識(し)かず。それに実を言うと、わたしも地底に少しばかり用がありまして」
 それは水蜜にとって初耳であり、他のものの表情からして誰もその腹中を知るものはいないようであった。
「地底は危ない所と聞きますから、何方かを護衛に訪(おとな)いたかったので、丁度良いところでした。そんなわけで村紗、明日はよろしくお願いしますね」
 柔らかい物腰ながらも聖の押しは強烈で、水蜜はいつの間にか聖と二人で地底へ潜る算段となっていた。しかも今日の明日と来たものだ。封印されること千年余もの年月も、彼女の精力を奪うには至らなかったらしい。水蜜にはそのことが嬉しくもあり、不安でもあった。かつて聖はそれ故に人間たちに畏れられ、遂には魔界の一角に在る法界に封じられてしまったからだ。
 そんな胸中も露知らず、聖は後詰めをてきぱきと指示していく。ついつい全面的に身を委ね、何も考えず従ってしまいそうになるけれど。二の轍(てつ)を踏まないためにも己を保っているべきだ。聖を助けるとき、胸に宿した独立的な気持ちは心の奥底に残し、薪をくべればいつでも燃えるようにしておくべきだ。
 水蜜はそう心に言い聞かせ、すると次には単純に胸がどきどきしてきた。初めての大冒険、そして聖と二人きりの旅。聖輦(せいれん)船を使えないのが残念でならない。こういう時のためにこそあの船はあるはずなのに、今は寺として機能しているから無闇に持ち出せないのだ。そもそも地底にあんな船を持ち込むわけにはいかないから、どのみち聖を乗せる訳にはいかないのだが。
 まあ良いと水蜜は一人合点して頷く。今日は早く寝て、いや幽霊だから眠る必要はないのだが、気持ちの問題としてゆっくり休むことにしよう。そう心中に呟いてから、ちらと聖の表情を窺う。聖の笑顔は完璧で、水蜜は根拠もなく探索は順風満帆になると確信する。それから心の中で小さく首を横に振った。油断大敵、ゆめゆめ過信することなかれである。
 
「えー、こちらは地底の入口です。ひゅうひゅうと強い風が巻いてますね。湿った植物の匂いも濃く、どことなく瘴気すら漂ってきそうな塩梅です。流石は幻想郷からも遠ざけられた魔境、一筋縄ではいかない冒険が待ち受けていそうです」
 そこまでまくし立ててからしばし、聖が怪訝そうな様子で訊ねてきた。
「えっと、村紗は何をしているのかしら」
「えへん、これはですね。現代風の冒険作法というやつでして。こうやって何かが起きるたび、基点にさしかかるたび、こうして状況を刻一刻と述べていくのだそうです」
「なるほど、洞窟探検は危険だからそうやっていちいち語ることで内省を促すわけね」
 本当にそうだかは分からないけれど、聖の意見はもっともらしかったので無思慮に頷いた。
「山の巫女に教わったんですが、最近では藤岡某という名の探検家が好んで使う手法だとか」
 彼女曰く、かつて彼は飛蝗(ばった)のような姿に変身したらしい。飛蝗の妖怪なんて珍しいけれど、かの国の広大な領土を考えれば遭遇していない妖怪など山のように存在するに違いないと水蜜は勝手に結論した。
「藤岡ですか。妖怪にしては高貴な字を性に織り込むのですね」
「彼は人間を守る正義の味方らしいですから」
「なるほど、幻想郷では特別な力を振るっても怖れられないのは知っていましたが、外界でもそうなりつつあるのでしょうか」
 聖は少し思案げな様子を見せたのち、曖昧に微笑んだ。
「この件は保留にしましょう。さて、それでは早速地底へ赴きましょう。村紗は準備できた? 厠は済ませてきたかしら?」
「わたしは船幽霊ですってば」
「そうでした」聖はぺろりと舌を出し、水蜜に目配せする。「では改めて、先に進みましょう」
 聖は加護を切り、洞穴に入っていく。水蜜は小さく溜息をつくと慌てて後を追った。
 
 聖のかざす光は洞窟においてそれなりに明るく、半ば暴力的であった。暗さ故に塒(ねぐら)をかき乱された蝙蝠(こうもり)が頻りにきいきいと舞い飛び、流石にまずいと思ったのか光量を落とす。少し見通しが悪くなったので、水蜜は飛行速度を少し落としたのだが、聖は身に魔法をかけ、速度を落とさない。どうやら注意する代わりに多少の障害物を強引に突破する腹づもりのようだ。
 悟りを開くほど穏やかで凪いだ性格の癖に、力押しを好むのはちぐはぐだなと思いながら、水蜜は聖という傘下に入る。護衛のはずなのに守られるのもちぐはぐなのだが、そうやって自然と周りのものを守り、愛するゆえの聖なのだと思うと、何とも複雑な気分だった。
 そんなしんみりを打ち払うようにかーんと乾いた音が響き、悲鳴のような声があっという間に遠ざかっていった。
「えっと、何の音でしょうか?」
「わたしの頭に何かぶつかってきたみたい。一瞬しか見えなかったけど、木桶のようだったわ」
「どうしてこんな所に木桶が?」
「新しく井戸を掘ってたら繋がったとか」
 それは流石にあり得ないというか、不可解な現象に当たったならばまずは妖異を疑うべきだ。
「地底の妖怪でしょうか」
「それならば是非ご挨拶をしたいところですね」
 すると聖の言葉に惹かれたかのように木桶らしきものが高速でこちらに向かってきた。そして聖に衝突し、乾いた音を立てて再びあらぬ方向に弾き飛ばされていった。
「どうやら釣瓶(つるべ)落としだったようね」
「その割には落ちてくるんじゃなくて向かってきましたけど」
「釣瓶落としは桶の底面が下なの。無重力ではいつも足のある方が下なのと一緒よ」
 分かりにくい表現をされて、水蜜は曖昧に頷くことしかできなかった。魔界で色々と学んだせいか、聖はたまに思いもよらない発想や思考を見せるので微妙に困ってしまう。
「まあ釣瓶落としさんへのご挨拶は今度ということで。地底は深く夕飯時はすぐにやってきます。そろりと急ぎましょう」
 といっても聖は粥(かゆ)と少量の漬物だけを一日二食戴くだけだから、急(せ)く必要はない。星のあくまでも主を待つ律儀さと腹ぺこ加減に配慮しただけである。虎の身で千年近くも肉を断って来たのだから、食い意地が多少張っているのは多めに見るべきだと水蜜は思っている。悟りとはあらゆる執着からの解放であるそうだが、それならば自分は悟らなくても良い気がする。仏門の傘下にある身で不遜(ふそん)な考えかもしれないが、自分はもう少し気楽に、欲望的に生きていたかった。またそういう視点が聖には必要であると水蜜は思う。
 
「地底に潜ることしばし、不穏な気配が漂ってきました。食い散らかされ、干からびた肉の臭い。それに何だか空気が粘っこくなってきたような気がします」
 水蜜は観察の結果を口にしてから、辺りを見回す。何かしらの妖怪の領域であるためか、妖気が俄に濃くなりつつあった。
「ここは早く突破した方が良いですね」
「そうですか? 近くに妖怪がいるならば、是非とも挨拶をしておきたいところなのですが」
「悠長なことをしている時間はないと言ったのは聖でしょう?」
 落ち着かない空気であるためか、聖の暢気さゆえかつい語調が強くなる。思わず口を塞ぎ非礼を詫びようとしたが、聖はまるで気にしていない様子だった。
「地底の事情は、地底のものが一番良く知っていると思うの」
「話の通じない相手だったら?」
 聖はにこりと微笑み、先に進んでいく。水蜜は思わず背筋をぴんと伸ばす。柔らかな物腰から繰り広げられる長々とした説教を思い出したからだ。聖は慈悲深いお方だが、悪しきをみては滔々(とうとう)と説教を立てる癖がある。一度始まれば、夕餉(ゆうげ)の時間などあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。それだけは避けなければならない。
 そんなことを考えていると聖がふと飛行速度を緩め、ついには中空で停止した。何事かと目を凝らせば、洞穴の大部分を塞ぐようにして、白く粘々とした糸が縦横無尽にかかっていた。
「蜘蛛、でしょうか?」流石に分かりやす過ぎて、水蜜にさえすぐに正体が分かった。「これほどの巣を張るとは」
 暗闇で全様が見られないことを残念に思えるほど見事な巣の形であった。しかし一部分しか見えないのは幸せなのかもしれない。見えないどこかに糸でぐるぐる巻きにされた食糧がぶら下がっているかもしれないからだ。
「見事な土蜘蛛の巣です。これほど見事なものをわたしは一度しか見たことがありません」
 聖は思い当たる節があったのか、頭上にいるであろう蜘蛛に向けて声をかけようとした。
 そのとき背後に気配が生まれ、聖の背中に思いきりぶつかった。例の木桶は三度、弾き飛ばされてしまったけれど、今度はこちらも無傷ではいかなかった。聖が土蜘蛛の糸に絡まってしまったのだ。
 蜘蛛は糸の微かな震えを正確に察知できる。案の定、するすると巣の糸を伝いながら、せわしない様子で何ものかがこちらに迫ってきていた。
「お、久しぶりの獲物だ。しかも実に旨そうな匂いと来たものだ。重畳、重畳」
 それは土蜘蛛らしく、茶と黒のこんもりとした出で立ちを身にまとい、口元にはにやにや笑いと糸の煌めきがあった。ぷうっと口から吹きかければ、人間や妖怪といえどたちまち包んでしまえるのだろう。水蜜はアンカーを構え、聖を襲おうとしたらいつでも投擲(とうてき)できるよう体勢を整え、土蜘蛛の様子を伺う。相手ももちろん気配を察し、対抗するための蜘蛛を集めつつあった。そうしながらちらと獲物の様子を確認し、すると食欲を多分に含んだ殺意が霧のように消えた。
「あら、どうやら気づいてくれたようですね」
 聖はとっくに相手の素性を見抜いていたらしい。だから糸にとらわれながら、微動だにしなかったのだろう。一方の土蜘蛛は正体に気付いたは良いけれど、眼前の光景を認められないのか、頻りに目を擦っていた。
「もしかしてとは思うのですが、貴女はあのときの僧侶ではないですか? 寺の名前は忘れたが、僧の名はよく覚えてる。名は確か……そう、白蓮という上人であったはずだ」
「上人と呼ばれるほどの貴ではありませんが、その通りです」
 聖が柔和な笑みとともに認めると、土蜘蛛は地底によく通る口笛を吹いた。
「何ともはやだ。当時でさえ人間であることを軽く超越していたけれど、まさか千年も生きるとは思わなかったなあ」
 一人と一匹は和気藹々(わきあいあい)を始めてしまい、水蜜だけが事情の分からないまま立ち尽くしていた。するとそのことを察した聖が糸を強引に引き剥がして脱出してから、旧い知り合いですと説明した。一方の土蜘蛛と言えば、何故か呆れた様子で冷や汗を流していた。
「いやはや、いともたやすく行われるえげつのない力技、昔と変わらないねえ。その糸は凡百の人間が、比喩なしに百人かかってもちぎれない代物だというのに」
「身体能力の強化だけには自信がありますから」
 魔界由来の魔法を惜しみなく披露するものの台詞とも思えないが、本人は本当にそう思っているから、たちが悪い。巣から降り立った土蜘蛛も同様のことを思ったようで、目を合わせて苦笑するより他なかった。しかしそれでは話が進まないことに気付き、水蜜は積極的に問いを発する。
「二人はお知り合いのようですが、どのようなご縁で?」
「少しばかり、調停を」
「少しばかりなんてものじゃないよ」
 土蜘蛛は聖の言葉を即座に否定した。
「一触即発にあった土蜘蛛と河童の諍いを、妖怪退治の人間も含めて一挙に収めたのがこの聖、白蓮上人さね。土蜘蛛に理を説き、河童に妥協点を吹き、人間を言葉巧みに説得して丁重に返し、どこにも角が立たないように収めたのさ」
 そのような逸話を水蜜は聞いたことがなかった。もっとも聖は功徳の類を誇って語るような人物ではないから、まだ自分の知らないことが山のようにあるのかもしれない。それが何となく悔しくて、少し咎めるように聖を見ると、その顔は俄に曇っていた。
「ここは忌み嫌われた妖怪が封じられた場所と聞きます。然るにわたしの行いは功を成さなかったのでしょうか?」
 すると土蜘蛛は大きく首を横に振った。
「滅相もない。わたしがこのような場所で暮らしているのは、全くもって自業自得さ。あれから暫くして人間のお偉いさんから金銀財宝をたんまり貰えると保証された仕事を請け負ってね。勇んで引き受けてみれば、建物の完成と同時に妖怪退治の武士やら呪い師が大挙して押し寄せてきやがったのさ。お陰で仲間の多くが狩られ、わたしのように運の良かった少数のものは逃れたり、地に封されたりしたわけだよ」
 土蜘蛛の中では既に過ぎ去ったことなのだろう。あっけらかんと語ってみせたが、聖の顔はいよいよ慈悲深くも歪んでしまった。
「大変だったのですね。封されてさえいなければ、すぐにでも駆けつけたのですが。あのように大層なものを造って貰った恩を返す機会であったというのに」
「あの船こそ我々の恩返しだよ」土蜘蛛は聖を励ますように、努めて明るい声をあげた。「聖は汚れた土蜘蛛に尽くしてくれた。例え死そうとも、聖を恨むものなど誰もいない。それは土蜘蛛の誇りにかけて言えることさね」
 聖はその言葉でようやくではあるが、心許ない笑顔を取り戻し、小さく息をついた。
「そう言って頂けると有り難いです。今のわたしにはさしてできることもありませんが」
「わたしはここの暮らしで十分に満足しているよ」聖の言葉を遮り、土蜘蛛は大きく首を横に振った。「それにわたしは河童と折り合いが悪い。地上において河童は一大勢力だ、わたしのようなものを囲えば、聖は立場が悪くなる。それはいよいよ申し訳ない」
「そのようなことを気にする必要はないのですが」聖は嘘を許さぬ瞳で土蜘蛛を見据え、少ししてから小さく息をついた。「偽りや強がりというわけではないようですね、すいません」
 侮りを詫びる言葉に、土蜘蛛は小さく手を振った。
「気にしなくて良いよ。気持ちだけありがたく受け取っておくさ」
 土蜘蛛は糸を出す牙の映える笑みを浮かべ、それから初めて水蜜に向き直った。
「あなたが聖のお供さんかい。幽霊の類に見えるのだけど」
 それを聞いた聖が、場を割るように柏手を打った。
「そう言えば、二人には縁があるの」水蜜は土蜘蛛に対する縁など知らなかったけれど、聖は嬉しそうに続きを紡いでいく。「彼女はわたしたちのお寺の基となった船を作った土蜘蛛の一人なのよ」
「空に浮かべるための船を作って欲しいと依頼されたときには仰天したものだよ」溜息のように呟いてから、土蜘蛛は水蜜にまじまじと視線を寄せた。「あの船がどういう経緯で寺の基になったのかい?」
「紆余曲折があったのです。それはいずれ」
 かつての出来事を紆余曲折の四語でまとめられるのは少しむっとしたけれど、聖が目配せをしたから、すぐその意図に気付いた。
「うい。ときに聖様とそちらの船幽霊は何故にこちらへ? 以前よりは風通しも良くなったとはいえ、まだ地上のものたちが気軽に訪れることのできる場所でもないのだけど」
「用事があるのです。そうだ!」聖は嬉しそうに柏手を打つと、ほっこりした笑みとともに訊ねた。「彼女は村紗の水蜜と言うのだけれど、彼女が地底の奥深くで以前に、黒い羽を持った神格の非常に高いものを見たらしいの。何か心当たりはないかしら?」
「地底の奥深くねえ」土蜘蛛は腕を組み、うんうんと唸ったり蜘蛛の巣を縦横無尽にうろうろして、思い当たる節を捻りだそうとしたが、次に浮かんだ表情はあまり芳しくないものだった。「旧地獄の辺りには足を踏み入れたことがないんだ。幽世の類が彼岸に移ってからこちら、あそこには特筆するものもない。死体を集める猫やら腐肉に集(たか)る鴉やらが塒にしているという話は聞くけどね。ただ、あそこに何かをおったてようという動きがあるそうだ。少し前に取材と称して不躾(ぶしつけ)な天狗が現れたのだけれど、彼女の話ではどうやら山の神様の施策らしい。まあ、何をやろうと勝手だけど、わたしには関係ないね。こちらを巻き込まないよう伝えておくれ」
「了解しました。詳しく聞かせてくれてありがとうございます」
「これくらいお安い御用だよ。旧地獄はここから少し先にいった所にある縦穴を下り、旧都を越えたその先にある。力比べ好きの鬼に出会わないよう、気をつけて。僧侶と見ればまず間違いなく因縁をつけてくるだろう」
 聖はほくほくの笑顔で頷くと、蜘蛛の巣を避けて洞穴の奥に向かう。水蜜は鬼という一語に微かな不安を覚え、聖に目で問いかけた。すると聖は悲しげに首を横に振った。
「鬼たちもまた地底に封じられたのでしょう」
 自業自得であるとはいえ、鬼に対する人間たちの迫害は熾烈(しれつ)を極めたという。都から遠く離れた信貴山の奥地にまで噂が及ぶほどだったから、余程であったに違いない。だからこそ危険だと水蜜は思う。その危惧に先回るよう、聖は落ち着いた声で言葉を続けた。
「鬼は千年どころか千秒の禍根すら気にしない種族です。力が強く厄介なところはありますが、一方では非常に気持ちの良いものたちです。一度打ち解ければ、道理も通じる、と思います」
 柔らかな口調だけど曖昧さを残さない聖にしては、歯切れの悪い締め方だった。鬼の能力がいかに高いかを思い知らされた気分で、水蜜は無意識の震えを押さえることができなかった。
「大丈夫ですよ。わたしがついていますから」
 恐怖を見抜かれ、あまつさえそのように言われ、水蜜は赤面する思いだった。肉体があれば鼻の頭から爪先まで真っ赤になっていただろう。聖は優しい故に、善意で周りのものを侮る。船幽霊らしい僻(ひが)みかもしれないけれど。自分で何でもできると言われるのは辛い。
「わたし、鬼を畏れたりなんかしません」
 大人げないと思いながら強い口調でそう言うと、聖は少し驚いたような表情を見せ、それからはっきりと言った。
「そうね、村紗は勇敢で強い子だわ。船を駆ってわたしを助けに来てくれたのだから」
 そういうことを聞きたかったのではないけれど、聖に優しい顔を向けられると、水蜜には何も言うことができなかった。

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