聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編 白蓮さん前編 第9話
所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編
公開日:2015年12月10日 / 最終更新日:2015年12月10日
部屋を出ると柔らかな絨毯が敷かれ、透明な硝子窓の定期的に並ぶ、眩むような廊下が目に飛び込んでくる。港町で泊まった宿にもこの手の装飾はあったけれど、窓枠に凝らされた意匠も精緻に編まれた絨毯も、まるで材質や手のかけようが違うのだった。もっともそういったものに神はまるで頓着せず、長い廊下を進んでいく。しばらくすると下に向かう階段が見えてきて、天井までを貫く吹き抜けのフロアに繋がっていた。ここが本来の入口なのだろう。
わたしたちはフロアを通過する途中、何人かの従者とすれ違った。これほどの屋敷であれば掃除や見回りだけでも一仕事なのだろう。神綺は彼女たち一人一人に労いの言葉をかけると、次に大食堂や大浴場をわたしたちに見せてくれた。
「後で客室にご案内しますが、食事と入浴はこちらでお願いします。食事時になると少し混んでしまうから、少し時間を外すと良いかもしれませんね。もちろん味はわたしの保証付きです」
あまりに淀みなく語るから、わたしはもう少しで彼女が語ることの意味を見逃してしまうところだった。
「まるで貴女もここで一緒に食べているような口振りだが?」
「ええ。食事は賑やかにかつ慎ましく食べるのが一番良いですから」
地上の為政者では決して考えられないことだった。彼らはほとんど常に政敵の策謀に怯えているから、何重もの安全策を取る必要があり、そのために閉鎖的である。対して神綺は魔界の唯一神であり、その身に強大な力を帯びている。だから、同じである必要もないのだろう。もしかしたらわざとらしく開けっぴろげにしていることが、為政者であることの重圧を軽くしているのかもしれなかった。
「宮殿には女しかいません。別舎に男の従者もいますが、この館に出入りできるのは通常、女性のみです。だから風呂では安心して裸になってください。それでは、次に行きましょう」
神綺は続けて吹き抜けのフロアを挟んで反対側にある部屋にわたしたちを案内してくれた。そこは広大な図書館となっており、反対側の端が見えないほどまでをびっしりと書架で埋め尽くされていた。
翼の羽ばたく音がして隣を見ると、彼女はまるで童女のようにきらきらと瞳を輝かせ、素直な憧憬を表していた。それでわたしは初めて、彼女が書物故に堕落したのだと信じることができた。かくいうわたしも、もう少しでこの館が放つ誘惑に飲まれそうになった。ここに留まり、魔法のことを学び続けられたらどれだけ幸せなことだろうか。すんでのところでその誘惑をはねつけると、それでも隠し切れぬ感嘆を口に出していた。
「これは凄いな。これほどの蔵書を収めた図書館など、この魔界中どこを探しても存在しないに違いない」
すると神綺は驚くべきことに小さく首を横に振った。
「ここにあるのは現実的な書籍ばかりであり、しかも全てというには程遠いのです。この魔界にはあらゆる文字の組み合わせで綴られた本を全て収めた図書館や、遠い未来を含めたあらゆる時代の本を収めた図書館が存在します。後者は半ば失われてしまいましたが、前者は厳しい訓練を受けた無数の図書員によって延々と管理され続けています」
それは何とも途方のない話であった。前者の存在意義はよく分からなかったけれど、後者についてはどんな遠くの未来さえも見通せる能力に等しい。そのようなものがあって何故、魔界人は地上人との戦いに敗れ、半ば滅ぼされてしまったのだろうか。
「あらゆる本、あらゆる組み合わせ」そう呟いたのは先程まで憧れに目を輝かせていたはずの彼女であった。その顔つきは恐怖のために歪んでいた。「わたしにはそれが恐ろしく思えます」
「そうですね。だから前者は所蔵する書籍が厳しく管理され、後者はそもそも因果を抹消されていて、触れることすら叶いません。時折その書庫に繋がる力を持つものが現れることもあり、敬意を込めて未来視や過去視と呼ばれます」
それはもしかしたら、地上で預言者と呼ばれるものだろうか。彼らの大半は眉唾であるけれど、たまにほんの僅かでも未来を言い当てるものは存在する。彼らもまた、全ての時代に跨(またが)る書庫を見たのだろうか。わたしはその存在に惹かれ、思わず訊ねていた。
「では、その書庫に自由に繋がることができれば、永遠の支配者にもなれるのではないか?」
わたしは暗に、目の前に存在する神がそうであると前提して問いを発していた。当然ながらその意図を汲み取ったのだろう。神綺はゆっくりと首を横に振った。
「書庫は観測された時点で、その行為自体に影響を受けて変質します。それ故に見ることができても、即ちそれが未来や過去を指し示すとは限りません。この世界にあらゆる過去と未来、その全てを見通せるものなどいないのです。このわたしも含めて」
何故にただ見ただけで、未来や過去ががらりと形を変えるのか、わたしにはよく分からなかった。その内容を知り、行動したならばまだ分かる。しかし世界はただ見るだけで、あるいは感じるだけで、影響を及ぼすことができるのだろうか。わたしも、それからどこかにいる見知らぬ誰かも、本当は皆が世界と緩やかに、ごく疎に繋がっているのだろうか。そのビジョンはあまりにも巨視的で、わたしにはまるでしっくり来なかった。
そんなわたしの心を読んだかのように、神綺は厳かな調子で言った。
「だからこそ、世界はわたしのものでなくてはならないのですよ」
他の誰かから発せられたものであれば、わたしはなんという傲慢であると呆れすら感じただろう。しかし彼女は特に気負うでもなく、そのことを当然と受け止めていた。わたしには彼女が何を思ってそう言ったのかさえよく分からない。だがおそらく、その信念こそが長年もの間、堕落することなくこの世界を真摯に治めてきた理由の一端であるのだろう。だからわたしは神綺の言葉を、心の奥深くに刻み込んだ。
わたしたちは続けて、宮殿の外にある施設を案内された。一つの芸術を形作るように流水が配置された噴水、丁寧に刈り込みされた中庭、色とりどりの果実が生えた庭園は見ても食しても楽しめるものであった。
宮殿には敷地を囲む高い壁が存在しないため、遠方には都とおぼしき建物の群れを見ることもできた。背の高い建物こそ目立つけれど、地上の京に比べれば随分こじんまりとしている。為政者の膝元というのはあらゆる階層のものが集うはずだが、魔界ではそうではないらしい。
わたしがそのことを訊ねると、神綺は「ここに何もないからです」とあっさり答えた。
「政治的な要所ではありますが、特別に地の利が良い場所でもありません。あらゆるものがここに集まるようにすることもできましたが、それではやがて富が淀み、人が萎縮するでしょう。だから必要最低限のもの以外が留まらないようにしています。その結果としてこの町には喧噪が少ないため、今では学問の町として発展しています。宮殿の図書も危ういものでなければ定期的に開放して、彼らの役に立つよう心掛けています」
神綺は自分の政策を初めて、ほんの少しだけ誇らしく語った。
「先は言い忘れましたが、もし必要であれば図書館の書籍は自由に閲覧して構いません。館外への持ち出しには二週間の制限がつきまして、刻限が来たら魔術による自動送還が発動しますので、それだけはご注意ください」
それは便利だなと口にしかけ、図書館にある全ての本に同じ魔法がかかっていることの途方もなさに溜息をつきそうになった。おそらくは、神綺自らが術を吹き込んでいるのだろう。この世界を文化的に発展させたいのだという、彼女の透徹な意志の強さをひしひしと感じた。
「さて、では最後に取って置きの場所をご案内いたしましょう」
神綺は宮殿の後部中央付近に競り立つ鐘楼塔を指差し、最短距離で鐘のある天辺に到達する。わたしは半ば途方に暮れ、歩いて上るための道を探した。しかし鐘楼塔の入口は固く閉ざされており、神綺は道を開いてくれなかった。
どうしてこんな意地悪をするのだろう。わたしは怒りと共に塔の天辺を見上げ、あそこまで到達したいと願った。するとわたしは空を舞い、あっという間に神綺と同じ高みに辿り着いた。
わたしはやはり、魔法を使うものになっている。そんなことを考えながら神綺の隣に立つと、促されるようにして眼下に広がる首都を、遠くまで続くなだらかな平野を、延々と連なる荒地を見る。ここには繁栄があるけれど、少しでも離れれば、わたしたちが歩いてきたのと同じような荒涼が満ちているのだった。蝶たちは枯れた砂を集め、死して土に還ることで少しずつ豊穣を回復していくけれど、それでも地上のように自ずと植物が茂るには相当の時間がかかるだろう。
そんなことを考えていると、神綺は眼前の光景に手を伸ばし、次いで訥々と語り始めた。
「魔界はあまりにも広大でしばしばわたしの手に余ります。だからこそ時には重大な過ちを犯し、また大事なものが抜け落ちる。貴女が遭遇し、導きを施した蝶や海獣は、その最たるものたちだった。彼らに救いの手を差し伸べてくれたことで、わたしがどれだけ感謝しているのか、おそらくお分かりになられていないのでしょうね」
お分かりも何も、わたしは彼らに救いの手など差し伸べなかった。彼らは勝手に求めるものを掴んでいっただけだ。わたしはほんの些細なきっかけに過ぎないはずだ。
「異邦の客よ。わたしは如何様にもお礼がしたい。何なりと申して下さい」
お礼などと言われても、わたしはここに来た目的を全て手中に収めているのだ。あとはほんのちっぽけな興味がいくつかあるだけだ。それとて今や、わたしだけの力で集められるだろう。
「わたしの願いは既に叶えられている。だから求めることなどないんだ」そう言ってわたしは次に己の掌を見た。加齢と労働による皺(しわ)と乾きは全てが消え去り、まるで見知らぬ瑞々しい皮膚がつるりと覆っていた。「わたしは魔法使いになったんだね」
「そうです。貴女は人間が魔法を使うのではない。魔法を使うものになりました」
魔の理を持つ世界の神に言われれば、その事実はもはや覆しようがない。
「わたしはこれまで積み重ねてきたものを全て投げ出してしまったのだ。その結果がこの姿に違いない」
金という髪の色は仏の道から外れた強きものの象徴として選ばれたのだろう。殺生を行い、あらゆる欲得に身を浸しておきながら、わたしにはそのことが無性に悲しかった。
「一つの法を失い、一つの法を得た。わたしは失われたものをどうすれば良いのだろうか?」
もしかしたら彼女ならば、この問いに答えをくれるかもしれないと思った。だから瞑目することしばし、神綺がゆるりと目を開いたとき、わたしは期待に胸を膨らませた。しかし彼女の言葉は残酷なまでに単純であった。
「失われたならば、取り戻せば良いのです」
「では、この身を捨てて仏の道に戻れと言うのかい?」
「そうではありません。魔の道は必ずしも、他の道を探る邪魔になるとは限らないということです。貴女の新たに身につけた魔の道が、やがて仏の道とやらに合流するような、そんな道を探せば良いのです。貴女ほどのものならば、いつか必ず見出すことができるはずですよ」
神綺は励ますような笑みをわたしに向ける。だが、わたしには彼女ほどの確信がどうしても得られなかった。それどころか寂寞(せきばく)とした不安が余計にのし掛かってくるのだった。
「わたしには、分からない」ここまで来て繕うつもりもなく、わたしははっきりと想いを述べた。「だが、努力はするべきなのだろうね」
それだけを口にすると、わたしは謝礼の話を切り出される前に素早く塔から下りた。そうして塔の下で待っていた彼女と獣に、やれやれと言わんばかりに小さく首を振った。二人とも何か問いたげではあったけれど、何も言わずにいてくれた。
わたしはその日から、水晶宮の食客として遇されるようになった。十人は泊まれるような客室を三人で使い、わたしと彼女はほぼ全ての時間を図書館の中で過ごした。獣は最初の数日をわたしたちとは違うどこかで過ごしていたが、いつのまにかわたしから少し離れたところで、何やら読書をするようになった。そのことについて訊ねると、獣はうんざりとした表情を浮かべた。
「わたしは最初、獣の姿で中庭にいたのだ。するとどこから沸いてきたのか、ここの従者たちと来たら頻りに毛並みを整え、石鹸で洗おうとする。わたしはそこらの犬猫と同じではないのだ」
「なるほど、それは災難だったね」
わたしは少しばかりのおかしさと共に言い、すると獣は拗ねてしまい、わたしから微妙に距離を置くようになった。
そうしてあっという間に一週間が過ぎ、十日が過ぎた。いつかはこの親切に見切りをつけなければいけないと思いながら、わたしはその日も心地良い読書疲れのままとろとろと夕涼みをしていた。すると彼女がわたしの元に厳粛な調子で現れた。
「わたしは明日にでも、ここを去らせて頂きます」
彼女はここの図書館を気に入っており、何もなければ数ヶ月でも数年でも滞在しそうな勢いであったから、唐突な申し出にはつい面食らってしまった。
「どうしてだ? ここはお前にとって理想の場所ではないか」
「ええ、ここは素晴らしい所です。できれば一生離れたく……」そこまで口にすると、彼女は苦しそうな表情を浮かべ、首を強く横に振った。「わたしは主のもとに帰る必要があります」
その態度に、わたしは契約のことを思い出していた。彼女はこれほど遠く離れていても、それから逃れることができないのだ。彼女の窮状を理解したわたしは、ここから立つことをようやく決心した。
「では、わたしも共に行こう。お前にはここまで案内してもらった恩があるし、この身に結ばれた契約も含め、お前の主人にはとっくりと話をさせてもらう必要があるからね」
彼女の主が押しに弱く怯えやすいことは確認済みだ。恫喝と合わせてそれなりの宝を与えれば、契約の破棄を納得させることもできるだろう。人身売買に似た取引には躊躇いを覚えるけれど、わたしは彼女に自由を得て欲しいし、何かとお礼をしたがりな神綺の矛先を交わすこともできるだろう。
「余計なお世話ですが、付いてくるにやぶさかでありません」
彼女はわたしに小さく頭を下げ、希う(こいねが)ような視線を向けた。だからわたしの選択は間違っていないのだと分かった。
すると残る問題はあと一つだけだ。わたしと共に、ここへ逗留し(とうりゅう)続ける獣に話をつける必要があった。都合の良いことに、獣はすぐ食事から戻ってきて、今度は湯浴みに出かけるようであった。わたしが共連れを求めると、獣は渋々ながらも頷き、わたしたちは無言のまま風呂場に向かった。服を収める籠がずらりと並び、わたしはそのうちの一つに服と下着を丁寧に畳んで入れた。そうして備え付けの大鏡に身を映す。皺や染みの一つもない、ふっくらとした体つきには未だに慣れなかったけれど、そのうち当然のように振る舞うことができるのだろう。
半ば憂いにも似てそのようなことを考えていると、獣がいつの間にかわたしにちらちらと視線を寄せているのだった。
「どうかしたかい? わたしの体にどこかおかしいところでも?」
この金髪みたく、魔法使いになったゆえの変化がどこかに現れているのかもしれないと思ったけれど、獣はふいと顔を背け、一気に服を脱ぐと細い体をざぶんと湯船に沈めた。
「あれくらい細くてしなやかだと、良かったんだけどねえ」
子を成すでも育てるでもなし、大きな膨らみは邪魔でしかない。獣のようにしなやかな筋肉をつければ、肉を削ぎ落とすこともできるだろう。これからはもっと体を鍛えようと決意し、わたしも後を追って身を清め、それから獣の隣に身を沈めた。お互いに無口なままで湯船の感触を楽しんでから、体も心もほぐれてきたところで、わたしは浴槽に漂う湯気のような気安さで話を切り出した。
「わたしたちは明日、ここを出立する。お前はどうするのかね?」
獣はわたしの問いかけに何も答えず、湯船に肩まで浸かったままぼんやりと遠くを見ていた。聞いていない振りであることは時折ちらちらと寄せられる視線から分かるものの、それほどまで悩ませたつもりはなく、だからわたしは答えの発せられる前に口を挟んでしまった。
「お前はわたしを食らいたいのだろう?」
すると獣は分かりやすく身を震わせ、唸るような声をあげた。
「誰がお前のように不味そうな人間を食うものか!」
「あんなに物欲しげな視線を向けていたくせに?」ここに来た日から、獣は時々わたしに冥い感情を放っていた。今にも飛びかかってくるのではないかと覚悟したことも、一度や二度ではなかった。「だからこそ、わたしはお前を湯に誘ったのだ。旅の目的がこんなにも近くに、無防備に転がっている。しかも幸いなことに、ここには誰も止めるものがいない」
そう言ってわたしは獣の前に右腕を差し出した。
「命はやれない。わたしは地上に戻らなければいけないからだ。でもまあ、右腕一本くらいならくれてやらないこともないよ。なあに、血は飛び散るだろうが、ここには神が住んでいるのだ。死ぬことはないだろう」
おそらくのたうち回るほど痛いだろう。腕一本差し出したことを後悔するかもしれない。でもわたしは獣のことを許せるだろうと考えていた。どうしても両腕が必要ならば、そうだ。まるで自分の腕みたく動く義手を拵えれば良い。それよりもわたしは飢えた瞳や表情を浮かべられるのが辛かったのだ。
ふいにぽたりと生温かい液体が垂れた。節制が薄れているのか、その顔は半ば妖獣のものとなり、爪がにょきにょきと生えた手で、わたしの右腕をがしりと掴んだ。そうして二の腕にゆっくりと歯を立てた。鋭い痛みが走り、わたしはこれから襲って来るであろう凄まじい感覚に備えて大きく息を吸い込んだ。
しかしいつまで経っても決定的な瞬間はやって来なかった。それどころか歯の感触が徐々に和らぎ、替わってざらざらとしたものが肌を撫でるようになった。獣が自ら付けた傷を舌で舐めているのだった。その行為を執拗に繰り返してから、獣はわたしの右腕から手を離した。その顔はやはり飢えて悲しく、しかし微かな自尊心に輝いても見えた。獣は大きく首を横に振り、最後に浴槽全体に響く雄叫びをあげた。それからわたしの手を強く握りしめてきた。
「わたしは貴女に仕えたく思います」
突然の申し出だったけれど、わたしはそのことを半ば予感もしていた。またそうであれば良いと思っていた。何故ならば、彼女は虎であったからだ。正確には違うかもしれないけれど、この道がまだ求むべき場所に繋がっているのだと、信じさせてくれた。
「このように浅ましき獣で良ければの話ですが」
「もちろん、構いやしない」わたしは獣の手を握り返し、歓迎するように微笑んだ。「一緒に地上へ帰ろう。しかし、良いのかね?」
この獣は何かをしでかしたためにここへ堕とされ、また何らかの果たすべき約定を抱えているはずなのだ。しかし獣はあっさりと首を横に振った。
「約定はいまここに果たされたのです。わたしをここへ堕としたものは、こう言いました。お前は聖者を一人食らい、その他にも数多のものを食らった。だからお前は聖者に従い、数多の人間を救わなければならない。そうしてお前は餓鬼の道を逃れ、仏の道を見出すだろうと」
獣はわたしのことをあろうことか聖者だと考えたらしい。しかしそれはお門違いも甚だしいというものだ。わたしは仏の道から外れ、このような姿になったのだ。そんなわたしがどうして聖者であるだろうか。
しかし獣の目は礼節の光を放っており、わたしを信頼していた。このものはどうやら、思いこんだら相当に一途らしい。慕われることは嬉しいのだけれど、獣がわたしに見出したものはやはり重く、わたしは誤魔化すように素っ気なく言い放った。
「後で後悔しても知らないよ」
「構いません。でもそのようなことはないと思います。これはわたしの勘みたいなものですが」
野生の勘であるならば、人間のそれよりは信用できるのかもしれない。もっともわたしは聖者でないし、今後そうなることもないだろう。どこまで行ってもわたしはわたしでしかない。
「わたしは白蓮。それ以上でも以下でもないんだ。だが……」
末広がりよりも長らく、いつまでも清く。弟はそれらの願いを込めて、わたしに名を授けてくれた。わたしはそれらを容易に踏みにじってしまったけれど。いや、だからこそわたしは、万の想いを込めて彼女に宣言した。
「お前が望むならばわたしは聖となるよう、これからの生を生きよう」
「わたしは星です」獣は約定が果たされ、だから初めてわたしに名乗りをあげた。「ある聖者が死の間際、わたしにつけてくれました。星のように輝き、皆を導く光を放てとの願いが込められています。わたしはこれからそのように生きたいと思います」
今の獣からは、先ほどまでのぴりぴりとした飢えがまるで感じられなかった。わたしがこのような姿になったのと同様、獣の中でも何かが変わったのだろう。わたしと違い、それは純粋に喜ばしいことであるはずだ。その証拠に獣の顔は痩せこけてはいたけど、もはや荒んでいなかった。
「我が聖よ」獣はそう言って、まじまじとわたしの顔を見つめてきた。「できればこれからも末永く、宜しくお願いいたします」
あまりに丁重で、何となく気恥ずかしかったけれど。わたしは獣の言葉を素直に受け止めることができた。
「ええ、こちらこそ宜しくお願いします」
獣のすっかりと正された――それまでの乱暴な言葉遣いは、無理に作っていたのだろう――言葉遣いにつられ、わたしも久しぶりにかつての穏やかな口調を自然と使うことができた。もうすぐ地上に戻るのだから、これから荒んだ言葉遣いは控えようと心密かに決意する。
とまれ、わたしはこの居心地良い宮殿を発つ準備を、ようやく整えることができたのだ。
風呂から上がるとわたしはそのことを伝えに、神綺の居室へと向かった。すると扉が向こうから開かれ、年の離れた姉妹のような二人が手を繋いで出てきた。一人は神綺の側仕えとなる侍従長の夢子であり、もう一人はどうにも見知らぬ顔であった。二人はともに金の髪、青の瞳を持ち、精緻(せいち)に作られた人形のように美しい乙女たちであった。
「このような夜分に、如何なる用事で御座いますか?」
彼女は侍従女(メイド)としての本分をさっと取り戻し、深々と辞儀をした。その目は油断なく光り、主が鷹揚であるのを十二分に補っていた。
「明日、早くにここを発つことに決めました。つきましてはその旨を伝えに来たのです」
「なるほど」夢子はふむりと頷き、少しの間考え込んでいたけれど、隣にいた小さな乙女に手を引かれ、仕方なさそうに息をついた。「まあ貴女ならば構わないでしょう。一つだけ、あまり夜更かしなさらぬよう」
「分かりました」わたしは小さく頷き、ふと視線を感じて夢子の隣にいる少女のほうを向いた。彼女の顔にはまるで表情がなく、時間すらも流れていないように思えた。「こちらの方は?」
「ええ、その、妹のようなものです」夢子は歯切れ悪く言うと、おかっぱ頭を撫でながら言葉を続ける。「訳あってすっかり感情を失っているのです。神綺様はわたしと同様、彼女のことをすっかり憐れんで側に置いて下さりますが、今は心を閉ざし成長すら止めています。こうして日常を繰り返せば、いつかは感情を取り戻すと思うのですが」
ここは悩みとまるで無用の場所かと思っていたが、そうではないらしい。わたしは少し躊躇ってから、小さな少女のおかっぱ頭に手を伸ばしたけれど、何の反応を示すこともなく。夢子の袖を引き、促すのみだった。
「すいませんが、わたしは先に失礼させて頂きます」
夢子は再度、丁重に頭を下げると長く続く廊下を歩いていく。気にはなったけど、今のわたしにはおそらくどうすることもできないのだろう。わたしは心を切り替え、神綺の居室の扉をゆっくりと叩いた。
「失礼します」と断って中に入ると、神綺は紫がかった生地の寝間着を身にまとい、本に目を落としていた。神様でも更に知識を求めるのだなと思いながら開かれた本に視線を寄せると、神綺は慌てて本を閉じた。「何を読まれていたのですか?」
「えっと、子供向けの冒険ものです。先程まであの子に読んで聞かせていたのだけれど、面白くてつい続きが気になってしまったの」
神綺は私的な空間と服装であるためか、いつもより砕けた口調であった。もしかするとこちらのほうが彼女の地なのかもしれない。
「ときに、今日は何の御用かしら。もしかして、受け取るべきお礼の案が浮かんだとか」
「それもありますが、主は別れの挨拶です」
「早いわ。まだ半月も経っていないではありませんか」
「それだけ滞在すれば十分ですし、色々と用事もできましたから」
「そう、なら仕方ないわね。久しぶりの客人だからもう少しもてなしたかったけど、去るからこそ客人であることを忘れてはいけませんね」
神綺は自らに言い聞かせるように呟くと、改めてわたしのほうを向いた。
「明日のいつ頃、ここを発たれるのですか?」
「ここから海を越えた遙か先です。早いに越したことはありません」
「なるほど。ではせめて明日の朝は一緒に食べましょう。それと先程、お礼の品を思いついたということですが、如何様なものを?」
わたしは彼女が結んだ契約のことを話した。すると神綺は初めて、少しだけ怖い顔をして、それからほんのりと頬を膨らませた。
「その程度、わたしに任せてくれれば良いのに」
「その程度のことだからこそ、神自身が出張るのは控えるべきだと思いますよ。それに交渉は簡単に終わるでしょう」
神綺はわたしの説得にふむりと頷き、それから生き生きとした表情を浮かべた。
「では財宝なんてものを喜ぶものが涎を垂らすような代物を用意いたしましょう。それで、何か他に御所望のものは?」
「帰途の無事を祈って下さい」
「欲がないのですねえ」神綺は少しつまらなそうに言ってからすっくと立ち上がり、わたしの肩に手を置いた。「異邦の賢人……もとい白蓮さん、貴女にわたしの加護があらんことを」
その言葉に力があったのか否か、わたしにはよく分からなかった。ただ最後に、ごく対等な立場で送る言葉をかけてくれたことがわたしには有り難かった。だからわたしはただ抱擁をもって感謝の意を示した。
それからわたしは神綺に請われ、己の生い立ちをつらつらと話した。面白くも何ともないという理由で固辞したけれど、彼女は聞きたくて堪らないという調子でせがんできた。あまりにも熱心で、またその仕草がまるで子供のようだったから、最終的にはつんと絆されて、話さざるを得なかった。
信濃の地に生まれ、ごく普通の家族の中で過ごしてきた子供時代。幸運にもわたしを含めて六人が無事に育ち、その中でも末弟の命蓮は昔から神仏の類に縁のあるものだった。いつも変な所に迷い込んでは、けろりとした顔で戻ってきて『神様と遊んできた』なんてことを平然と口にするものだから、姉のわたしとしては内心、気が気でなかった。両親はそのことを常々気にしていたようで、ある日その道のものに見てもらうことになったのだが、弟を見てまずは感嘆の息をもらした。それから並々ならぬものの持ち主であり、都に上げて学ばせるべき器であると頻りに説いたのだった。
それから道のものはわたしを見た。そうして何故か悲しそうな顔で『彼女もまた仏に仕えるべき道の元に生まれたのであり、わたしに預けて欲しい』と言ったのだ。他にも力仕事のできる子はいたし、仏門に名を成せば誉れである。命蓮は家族と別れることを随分と渋ったけれど、皆の励ましもあってようやく決心し、修行の旅へ出て行った。わたしもまた道のものに連れられて仏に務める身となった。
仏への帰依、それに伴うささやかで清廉(せいれん)な生き方を、一度も後悔しなかったと言えば嘘になる。しかしその生き方は概ねわたしに合っていたようだ。だからあの知らせを聞かなければ、わたしは信濃の地を後にすることはなかっただろう。また道のものもわたしに、他の地を踏まぬよう陰に気遣う調子を見せた。今から考えれば、彼はわたしの挫折と堕落を見て取っていたのかもしれない。その彼も死に、わたしも老境に差し掛かった頃だ。旅の行商人から、ある噂を聞いた。今上の病を癒されたという僧の話である。
わたしはその人物が命蓮であると思っていたわけではない。ただその話に子供時代が妙に思い出され、たまらなくなったのである。わたしの後を継ぐものもおり、だから一世一代とばかり、老いらくの旅路を決意したのだ。周囲は随分と反対したけれど、わたしの決意が変わらないことを知ると村々に寄進を募り、馬と路銀代わりの穀類を用意してくれた。かくしてわたしは一人、生まれて初めて故郷の地を後にしたのであった。
信濃から京の都へ、そして辿り着いた奈良の都でわたしは仏様のお告げを受け、弟と再会することができた。姉弟によるささやかな暮らしは弟の急死によって幕を閉じ、わたしはやがて弟の立場を継がなければならなくなった。その過程で焦りや妬みに衝き動かされ、わたしはこの世界に転がり落ちた。そして無為に費やされた数年間を経たのち、最後の望みを求めて水晶宮への旅路を決意したのだ。そうして長い旅路の果て、わたしは目的を果たしたのだった。
めでたくもあり、めでたくもなし。
絶妙な頃合いに差し出される果物味の水にも促され、わたしは遂に今日ここまでのことを話し切ってしまった。わたしは決してお喋りなほうではない。どちらかと言えば、特に自分のことは胸の内に秘めておきたいと考えるほうだ。だが不思議なことに、神綺には何もかも話して構わないと思ったのだ。神の度量故か、あるいはこれまでのことを客観的に整理したいと考えたのだろうか。神綺はそのようなわたしの気持ちを汲んでくれたのだろうか。それとも単なる興味本位で聞き出したのだろうか。
神綺は話し終えたわたしにありがとうございますとだけ言った。辛かっただろうとか、悲しかっただろうとか、苦しかっただろうとか、そんな同情は一言も口にしなかった。だからこそわたしは、ごく素直に返すことができた。
「わたしこそ、ありがとうございました」
彼女はきっとわたしのことを忘れないでいてくれるだろう。これから先の道が不意な途切れ方をしても、わたしの全てを知るものが一人でもいると考えるだけで、肩の荷のようなものが少しだけ軽くなった気がした。
わたしはそろりと立ち上がり、辞去の礼をすると部屋を出る。すると日取り窓から、魔界らしい赤々とした曙光が、ほんのりと差していた。そうしてわたしはようやく、夢子の忠告を思い出したのだった。
床につき、とろとろと微睡むのも束の間、すぐに目覚めの時間がやってきた。わたしは頬を叩いて自らを鼓舞し、真新しい服に身を包む。若返ったせいでこれまでの衣服が微妙に合わず、すると魔界の高位な魔道師が使う素材で何着もの服を都合してくれたのだ。
とびきり冷たい水で顔を洗い、ごく僅かの朝食を頂くと少しだけ血の巡りが良くなってきた。夢子が食後に持ってきてくれた苦い飲み物も、目覚めの助けとなってくれたようだ。彼女が去り際に「だから前もって忠告したのですが。神綺様は客人の話を聞くのがこれ以上ないほど大好きなのです」などと言うから、俄に赤面しそうになった。
頬の色を元に戻し、わたしは水晶宮の門までやってきた。するとそこには金銀財宝の類が惜しみなく積まれていた。これは大袈裟過ぎると顔をしかめたところで、同じく一睡もしていないのに疲れた様子のない神綺が満足げな笑顔を浮かべた。
「取り急ぎ、ほんの少しばかり用意させていただきましたが、これで足りますかね?」
「多過ぎる」わたしはすげなくそう言い放ち、慌てて言葉遣いを丁寧に戻した。「この十分の一ほどあれば良いのです。それにこれだけの財宝、持ち運ぶだけで目立ちます」
「側に置いてある袋にならば、いくらでも入りますし、重さも感じません」
魔法というものは……もといこの世界の神はどこまで何でもありなのだろうと思ったけれど、聞くと半日は溜息が止まらなさそうだからやめておいた。その代わりにわたしは必要だと思う分だけ財宝を袋に収め、全く手応えのないそれを星に渡した。すると神綺は最後に、巻物状の代物をわたしに手渡してくれた。
「これは一体、何でしょうか?」
「これは書かれざる巻物という魔界に伝わる秘宝の一つです。両手に持って、巻物を広げるようにしてみてください」
妙な指示だなと思いながら広げると、高密度の魔力帯が、何ら属性を示さずに展開されていた。
「これを使えば図書館の本を自由に転写して読むことができます。地上に戻られた際には是非、活用して頂けたらと思います。もちろん普通に魔術用途で使うことも可能です」
「なんとも大層な品物ですね。使用制限はありますか?」
「ありません。かつて魔界人を煽動し、地上との戦端を開いた人間の魔道師が使用していた魔法具の一つですから」
つまるところ、これは古代で最も強く邪悪な魔法使いの英知がこもった品物なのだった。ここにある金銀財宝を水晶宮一杯に満たしても足りないくらいの価値ある代物であり、わたしは流石に気後れするものを感じていた。
「これはわたしには過ぎたものです。そして恐ろしいものです」
「そうですね」言葉と裏腹に、神綺の反応は実にあっさりとしていた。「それが分かるのですから、貴女が持っていても良いのです」
その理屈がわたしにはよく分からなかったけれど、神綺は返却など聞き入れないという静かな強い決意を放っていて、受け取らざるを得なかった。
「名残惜しいですね。わたしと貴女、きっと仲の良い友人になれると思っていましたのに」
「もったいないお言葉です」それを認めてしまうといよいよ未練が残るから、わたしは敢えて儀礼的に言った。「それでは長い間、お世話になりました。ここでのご恩は決して忘れません」
「わたしこそ」神綺は短くも決然と言い、それから最後にわたしの目をはたと見据えた。「もしわたしの力が必要なときがあれば、呼んでください。名前を呼んでもらえれば、いつでも力を貸しましょう」
「ええ、分かりました」
かくも強い力を用いる機会などそうそうないと思うし、もしかしたら一度もないかもしれない。それでも彼女の言葉はこれからもわたしを密かに勇気づけてくれるだろう。
「では、わたしは……もとい、わたしたちは帰ります」
「真の旅は帰還にあります。どうかお気をつけて」
神綺は魔界の諺(ことわざ)を引用し、わたしたちを温かく見送ってくれた。だからわたしは礼を持って応え、水晶宮を後にした。それからわたしたちは広く大きな道の真ん中を暫く歩き続け、両端に立つ彼女と獣に、力強く声をかけた。
「さて、それでは行きましょうか。まずは契約の問題を一刻も早く解決して……もしそうなれば、貴女はどうしますか?」
未だ名もなき彼女は契約のためか、しばらく葛藤していたけれど。苦しそうな汗を流しながら、それでも敢然と言い切った。
「ここに戻り、許されるならば見識を広めたいと思います。そうしていずれは立派な図書館を任されるくらいの司書となります」
その言葉を聞いて、わたしはよろしいとばかりに頷いた。それから二人の手を片方ずつ繋ぎ、空へと飛び出した。あんなにも重たかった旅路が、今はこんなにも軽く、早かった。行き交う景色は瞬く間に流れ、あまりにもたやすく見えた。それでもわたしは気を抜かなかった。神綺の言うとおり、真の旅は帰還にあるからだ。そうして持ち帰ったものを基に、より強く太い根を広げ、茎を伸ばし、やがては花実をつけるのだ。
わたしにそれができるだろうか。このように自由自在の身となっても、それはまだ分からない。地上には魔界と異なる問題があり、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)には行かないかもしれない。
それでもわたしは、わたしである限りを生きようと思う。
そして、もしわたしに弟と同じ道を行く愚行が許されているならば。
わたしは先行きの分からない道を、それでも精一杯に進もうと思った。
わたしたちはフロアを通過する途中、何人かの従者とすれ違った。これほどの屋敷であれば掃除や見回りだけでも一仕事なのだろう。神綺は彼女たち一人一人に労いの言葉をかけると、次に大食堂や大浴場をわたしたちに見せてくれた。
「後で客室にご案内しますが、食事と入浴はこちらでお願いします。食事時になると少し混んでしまうから、少し時間を外すと良いかもしれませんね。もちろん味はわたしの保証付きです」
あまりに淀みなく語るから、わたしはもう少しで彼女が語ることの意味を見逃してしまうところだった。
「まるで貴女もここで一緒に食べているような口振りだが?」
「ええ。食事は賑やかにかつ慎ましく食べるのが一番良いですから」
地上の為政者では決して考えられないことだった。彼らはほとんど常に政敵の策謀に怯えているから、何重もの安全策を取る必要があり、そのために閉鎖的である。対して神綺は魔界の唯一神であり、その身に強大な力を帯びている。だから、同じである必要もないのだろう。もしかしたらわざとらしく開けっぴろげにしていることが、為政者であることの重圧を軽くしているのかもしれなかった。
「宮殿には女しかいません。別舎に男の従者もいますが、この館に出入りできるのは通常、女性のみです。だから風呂では安心して裸になってください。それでは、次に行きましょう」
神綺は続けて吹き抜けのフロアを挟んで反対側にある部屋にわたしたちを案内してくれた。そこは広大な図書館となっており、反対側の端が見えないほどまでをびっしりと書架で埋め尽くされていた。
翼の羽ばたく音がして隣を見ると、彼女はまるで童女のようにきらきらと瞳を輝かせ、素直な憧憬を表していた。それでわたしは初めて、彼女が書物故に堕落したのだと信じることができた。かくいうわたしも、もう少しでこの館が放つ誘惑に飲まれそうになった。ここに留まり、魔法のことを学び続けられたらどれだけ幸せなことだろうか。すんでのところでその誘惑をはねつけると、それでも隠し切れぬ感嘆を口に出していた。
「これは凄いな。これほどの蔵書を収めた図書館など、この魔界中どこを探しても存在しないに違いない」
すると神綺は驚くべきことに小さく首を横に振った。
「ここにあるのは現実的な書籍ばかりであり、しかも全てというには程遠いのです。この魔界にはあらゆる文字の組み合わせで綴られた本を全て収めた図書館や、遠い未来を含めたあらゆる時代の本を収めた図書館が存在します。後者は半ば失われてしまいましたが、前者は厳しい訓練を受けた無数の図書員によって延々と管理され続けています」
それは何とも途方のない話であった。前者の存在意義はよく分からなかったけれど、後者についてはどんな遠くの未来さえも見通せる能力に等しい。そのようなものがあって何故、魔界人は地上人との戦いに敗れ、半ば滅ぼされてしまったのだろうか。
「あらゆる本、あらゆる組み合わせ」そう呟いたのは先程まで憧れに目を輝かせていたはずの彼女であった。その顔つきは恐怖のために歪んでいた。「わたしにはそれが恐ろしく思えます」
「そうですね。だから前者は所蔵する書籍が厳しく管理され、後者はそもそも因果を抹消されていて、触れることすら叶いません。時折その書庫に繋がる力を持つものが現れることもあり、敬意を込めて未来視や過去視と呼ばれます」
それはもしかしたら、地上で預言者と呼ばれるものだろうか。彼らの大半は眉唾であるけれど、たまにほんの僅かでも未来を言い当てるものは存在する。彼らもまた、全ての時代に跨(またが)る書庫を見たのだろうか。わたしはその存在に惹かれ、思わず訊ねていた。
「では、その書庫に自由に繋がることができれば、永遠の支配者にもなれるのではないか?」
わたしは暗に、目の前に存在する神がそうであると前提して問いを発していた。当然ながらその意図を汲み取ったのだろう。神綺はゆっくりと首を横に振った。
「書庫は観測された時点で、その行為自体に影響を受けて変質します。それ故に見ることができても、即ちそれが未来や過去を指し示すとは限りません。この世界にあらゆる過去と未来、その全てを見通せるものなどいないのです。このわたしも含めて」
何故にただ見ただけで、未来や過去ががらりと形を変えるのか、わたしにはよく分からなかった。その内容を知り、行動したならばまだ分かる。しかし世界はただ見るだけで、あるいは感じるだけで、影響を及ぼすことができるのだろうか。わたしも、それからどこかにいる見知らぬ誰かも、本当は皆が世界と緩やかに、ごく疎に繋がっているのだろうか。そのビジョンはあまりにも巨視的で、わたしにはまるでしっくり来なかった。
そんなわたしの心を読んだかのように、神綺は厳かな調子で言った。
「だからこそ、世界はわたしのものでなくてはならないのですよ」
他の誰かから発せられたものであれば、わたしはなんという傲慢であると呆れすら感じただろう。しかし彼女は特に気負うでもなく、そのことを当然と受け止めていた。わたしには彼女が何を思ってそう言ったのかさえよく分からない。だがおそらく、その信念こそが長年もの間、堕落することなくこの世界を真摯に治めてきた理由の一端であるのだろう。だからわたしは神綺の言葉を、心の奥深くに刻み込んだ。
わたしたちは続けて、宮殿の外にある施設を案内された。一つの芸術を形作るように流水が配置された噴水、丁寧に刈り込みされた中庭、色とりどりの果実が生えた庭園は見ても食しても楽しめるものであった。
宮殿には敷地を囲む高い壁が存在しないため、遠方には都とおぼしき建物の群れを見ることもできた。背の高い建物こそ目立つけれど、地上の京に比べれば随分こじんまりとしている。為政者の膝元というのはあらゆる階層のものが集うはずだが、魔界ではそうではないらしい。
わたしがそのことを訊ねると、神綺は「ここに何もないからです」とあっさり答えた。
「政治的な要所ではありますが、特別に地の利が良い場所でもありません。あらゆるものがここに集まるようにすることもできましたが、それではやがて富が淀み、人が萎縮するでしょう。だから必要最低限のもの以外が留まらないようにしています。その結果としてこの町には喧噪が少ないため、今では学問の町として発展しています。宮殿の図書も危ういものでなければ定期的に開放して、彼らの役に立つよう心掛けています」
神綺は自分の政策を初めて、ほんの少しだけ誇らしく語った。
「先は言い忘れましたが、もし必要であれば図書館の書籍は自由に閲覧して構いません。館外への持ち出しには二週間の制限がつきまして、刻限が来たら魔術による自動送還が発動しますので、それだけはご注意ください」
それは便利だなと口にしかけ、図書館にある全ての本に同じ魔法がかかっていることの途方もなさに溜息をつきそうになった。おそらくは、神綺自らが術を吹き込んでいるのだろう。この世界を文化的に発展させたいのだという、彼女の透徹な意志の強さをひしひしと感じた。
「さて、では最後に取って置きの場所をご案内いたしましょう」
神綺は宮殿の後部中央付近に競り立つ鐘楼塔を指差し、最短距離で鐘のある天辺に到達する。わたしは半ば途方に暮れ、歩いて上るための道を探した。しかし鐘楼塔の入口は固く閉ざされており、神綺は道を開いてくれなかった。
どうしてこんな意地悪をするのだろう。わたしは怒りと共に塔の天辺を見上げ、あそこまで到達したいと願った。するとわたしは空を舞い、あっという間に神綺と同じ高みに辿り着いた。
わたしはやはり、魔法を使うものになっている。そんなことを考えながら神綺の隣に立つと、促されるようにして眼下に広がる首都を、遠くまで続くなだらかな平野を、延々と連なる荒地を見る。ここには繁栄があるけれど、少しでも離れれば、わたしたちが歩いてきたのと同じような荒涼が満ちているのだった。蝶たちは枯れた砂を集め、死して土に還ることで少しずつ豊穣を回復していくけれど、それでも地上のように自ずと植物が茂るには相当の時間がかかるだろう。
そんなことを考えていると、神綺は眼前の光景に手を伸ばし、次いで訥々と語り始めた。
「魔界はあまりにも広大でしばしばわたしの手に余ります。だからこそ時には重大な過ちを犯し、また大事なものが抜け落ちる。貴女が遭遇し、導きを施した蝶や海獣は、その最たるものたちだった。彼らに救いの手を差し伸べてくれたことで、わたしがどれだけ感謝しているのか、おそらくお分かりになられていないのでしょうね」
お分かりも何も、わたしは彼らに救いの手など差し伸べなかった。彼らは勝手に求めるものを掴んでいっただけだ。わたしはほんの些細なきっかけに過ぎないはずだ。
「異邦の客よ。わたしは如何様にもお礼がしたい。何なりと申して下さい」
お礼などと言われても、わたしはここに来た目的を全て手中に収めているのだ。あとはほんのちっぽけな興味がいくつかあるだけだ。それとて今や、わたしだけの力で集められるだろう。
「わたしの願いは既に叶えられている。だから求めることなどないんだ」そう言ってわたしは次に己の掌を見た。加齢と労働による皺(しわ)と乾きは全てが消え去り、まるで見知らぬ瑞々しい皮膚がつるりと覆っていた。「わたしは魔法使いになったんだね」
「そうです。貴女は人間が魔法を使うのではない。魔法を使うものになりました」
魔の理を持つ世界の神に言われれば、その事実はもはや覆しようがない。
「わたしはこれまで積み重ねてきたものを全て投げ出してしまったのだ。その結果がこの姿に違いない」
金という髪の色は仏の道から外れた強きものの象徴として選ばれたのだろう。殺生を行い、あらゆる欲得に身を浸しておきながら、わたしにはそのことが無性に悲しかった。
「一つの法を失い、一つの法を得た。わたしは失われたものをどうすれば良いのだろうか?」
もしかしたら彼女ならば、この問いに答えをくれるかもしれないと思った。だから瞑目することしばし、神綺がゆるりと目を開いたとき、わたしは期待に胸を膨らませた。しかし彼女の言葉は残酷なまでに単純であった。
「失われたならば、取り戻せば良いのです」
「では、この身を捨てて仏の道に戻れと言うのかい?」
「そうではありません。魔の道は必ずしも、他の道を探る邪魔になるとは限らないということです。貴女の新たに身につけた魔の道が、やがて仏の道とやらに合流するような、そんな道を探せば良いのです。貴女ほどのものならば、いつか必ず見出すことができるはずですよ」
神綺は励ますような笑みをわたしに向ける。だが、わたしには彼女ほどの確信がどうしても得られなかった。それどころか寂寞(せきばく)とした不安が余計にのし掛かってくるのだった。
「わたしには、分からない」ここまで来て繕うつもりもなく、わたしははっきりと想いを述べた。「だが、努力はするべきなのだろうね」
それだけを口にすると、わたしは謝礼の話を切り出される前に素早く塔から下りた。そうして塔の下で待っていた彼女と獣に、やれやれと言わんばかりに小さく首を振った。二人とも何か問いたげではあったけれど、何も言わずにいてくれた。
わたしはその日から、水晶宮の食客として遇されるようになった。十人は泊まれるような客室を三人で使い、わたしと彼女はほぼ全ての時間を図書館の中で過ごした。獣は最初の数日をわたしたちとは違うどこかで過ごしていたが、いつのまにかわたしから少し離れたところで、何やら読書をするようになった。そのことについて訊ねると、獣はうんざりとした表情を浮かべた。
「わたしは最初、獣の姿で中庭にいたのだ。するとどこから沸いてきたのか、ここの従者たちと来たら頻りに毛並みを整え、石鹸で洗おうとする。わたしはそこらの犬猫と同じではないのだ」
「なるほど、それは災難だったね」
わたしは少しばかりのおかしさと共に言い、すると獣は拗ねてしまい、わたしから微妙に距離を置くようになった。
そうしてあっという間に一週間が過ぎ、十日が過ぎた。いつかはこの親切に見切りをつけなければいけないと思いながら、わたしはその日も心地良い読書疲れのままとろとろと夕涼みをしていた。すると彼女がわたしの元に厳粛な調子で現れた。
「わたしは明日にでも、ここを去らせて頂きます」
彼女はここの図書館を気に入っており、何もなければ数ヶ月でも数年でも滞在しそうな勢いであったから、唐突な申し出にはつい面食らってしまった。
「どうしてだ? ここはお前にとって理想の場所ではないか」
「ええ、ここは素晴らしい所です。できれば一生離れたく……」そこまで口にすると、彼女は苦しそうな表情を浮かべ、首を強く横に振った。「わたしは主のもとに帰る必要があります」
その態度に、わたしは契約のことを思い出していた。彼女はこれほど遠く離れていても、それから逃れることができないのだ。彼女の窮状を理解したわたしは、ここから立つことをようやく決心した。
「では、わたしも共に行こう。お前にはここまで案内してもらった恩があるし、この身に結ばれた契約も含め、お前の主人にはとっくりと話をさせてもらう必要があるからね」
彼女の主が押しに弱く怯えやすいことは確認済みだ。恫喝と合わせてそれなりの宝を与えれば、契約の破棄を納得させることもできるだろう。人身売買に似た取引には躊躇いを覚えるけれど、わたしは彼女に自由を得て欲しいし、何かとお礼をしたがりな神綺の矛先を交わすこともできるだろう。
「余計なお世話ですが、付いてくるにやぶさかでありません」
彼女はわたしに小さく頭を下げ、希う(こいねが)ような視線を向けた。だからわたしの選択は間違っていないのだと分かった。
すると残る問題はあと一つだけだ。わたしと共に、ここへ逗留し(とうりゅう)続ける獣に話をつける必要があった。都合の良いことに、獣はすぐ食事から戻ってきて、今度は湯浴みに出かけるようであった。わたしが共連れを求めると、獣は渋々ながらも頷き、わたしたちは無言のまま風呂場に向かった。服を収める籠がずらりと並び、わたしはそのうちの一つに服と下着を丁寧に畳んで入れた。そうして備え付けの大鏡に身を映す。皺や染みの一つもない、ふっくらとした体つきには未だに慣れなかったけれど、そのうち当然のように振る舞うことができるのだろう。
半ば憂いにも似てそのようなことを考えていると、獣がいつの間にかわたしにちらちらと視線を寄せているのだった。
「どうかしたかい? わたしの体にどこかおかしいところでも?」
この金髪みたく、魔法使いになったゆえの変化がどこかに現れているのかもしれないと思ったけれど、獣はふいと顔を背け、一気に服を脱ぐと細い体をざぶんと湯船に沈めた。
「あれくらい細くてしなやかだと、良かったんだけどねえ」
子を成すでも育てるでもなし、大きな膨らみは邪魔でしかない。獣のようにしなやかな筋肉をつければ、肉を削ぎ落とすこともできるだろう。これからはもっと体を鍛えようと決意し、わたしも後を追って身を清め、それから獣の隣に身を沈めた。お互いに無口なままで湯船の感触を楽しんでから、体も心もほぐれてきたところで、わたしは浴槽に漂う湯気のような気安さで話を切り出した。
「わたしたちは明日、ここを出立する。お前はどうするのかね?」
獣はわたしの問いかけに何も答えず、湯船に肩まで浸かったままぼんやりと遠くを見ていた。聞いていない振りであることは時折ちらちらと寄せられる視線から分かるものの、それほどまで悩ませたつもりはなく、だからわたしは答えの発せられる前に口を挟んでしまった。
「お前はわたしを食らいたいのだろう?」
すると獣は分かりやすく身を震わせ、唸るような声をあげた。
「誰がお前のように不味そうな人間を食うものか!」
「あんなに物欲しげな視線を向けていたくせに?」ここに来た日から、獣は時々わたしに冥い感情を放っていた。今にも飛びかかってくるのではないかと覚悟したことも、一度や二度ではなかった。「だからこそ、わたしはお前を湯に誘ったのだ。旅の目的がこんなにも近くに、無防備に転がっている。しかも幸いなことに、ここには誰も止めるものがいない」
そう言ってわたしは獣の前に右腕を差し出した。
「命はやれない。わたしは地上に戻らなければいけないからだ。でもまあ、右腕一本くらいならくれてやらないこともないよ。なあに、血は飛び散るだろうが、ここには神が住んでいるのだ。死ぬことはないだろう」
おそらくのたうち回るほど痛いだろう。腕一本差し出したことを後悔するかもしれない。でもわたしは獣のことを許せるだろうと考えていた。どうしても両腕が必要ならば、そうだ。まるで自分の腕みたく動く義手を拵えれば良い。それよりもわたしは飢えた瞳や表情を浮かべられるのが辛かったのだ。
ふいにぽたりと生温かい液体が垂れた。節制が薄れているのか、その顔は半ば妖獣のものとなり、爪がにょきにょきと生えた手で、わたしの右腕をがしりと掴んだ。そうして二の腕にゆっくりと歯を立てた。鋭い痛みが走り、わたしはこれから襲って来るであろう凄まじい感覚に備えて大きく息を吸い込んだ。
しかしいつまで経っても決定的な瞬間はやって来なかった。それどころか歯の感触が徐々に和らぎ、替わってざらざらとしたものが肌を撫でるようになった。獣が自ら付けた傷を舌で舐めているのだった。その行為を執拗に繰り返してから、獣はわたしの右腕から手を離した。その顔はやはり飢えて悲しく、しかし微かな自尊心に輝いても見えた。獣は大きく首を横に振り、最後に浴槽全体に響く雄叫びをあげた。それからわたしの手を強く握りしめてきた。
「わたしは貴女に仕えたく思います」
突然の申し出だったけれど、わたしはそのことを半ば予感もしていた。またそうであれば良いと思っていた。何故ならば、彼女は虎であったからだ。正確には違うかもしれないけれど、この道がまだ求むべき場所に繋がっているのだと、信じさせてくれた。
「このように浅ましき獣で良ければの話ですが」
「もちろん、構いやしない」わたしは獣の手を握り返し、歓迎するように微笑んだ。「一緒に地上へ帰ろう。しかし、良いのかね?」
この獣は何かをしでかしたためにここへ堕とされ、また何らかの果たすべき約定を抱えているはずなのだ。しかし獣はあっさりと首を横に振った。
「約定はいまここに果たされたのです。わたしをここへ堕としたものは、こう言いました。お前は聖者を一人食らい、その他にも数多のものを食らった。だからお前は聖者に従い、数多の人間を救わなければならない。そうしてお前は餓鬼の道を逃れ、仏の道を見出すだろうと」
獣はわたしのことをあろうことか聖者だと考えたらしい。しかしそれはお門違いも甚だしいというものだ。わたしは仏の道から外れ、このような姿になったのだ。そんなわたしがどうして聖者であるだろうか。
しかし獣の目は礼節の光を放っており、わたしを信頼していた。このものはどうやら、思いこんだら相当に一途らしい。慕われることは嬉しいのだけれど、獣がわたしに見出したものはやはり重く、わたしは誤魔化すように素っ気なく言い放った。
「後で後悔しても知らないよ」
「構いません。でもそのようなことはないと思います。これはわたしの勘みたいなものですが」
野生の勘であるならば、人間のそれよりは信用できるのかもしれない。もっともわたしは聖者でないし、今後そうなることもないだろう。どこまで行ってもわたしはわたしでしかない。
「わたしは白蓮。それ以上でも以下でもないんだ。だが……」
末広がりよりも長らく、いつまでも清く。弟はそれらの願いを込めて、わたしに名を授けてくれた。わたしはそれらを容易に踏みにじってしまったけれど。いや、だからこそわたしは、万の想いを込めて彼女に宣言した。
「お前が望むならばわたしは聖となるよう、これからの生を生きよう」
「わたしは星です」獣は約定が果たされ、だから初めてわたしに名乗りをあげた。「ある聖者が死の間際、わたしにつけてくれました。星のように輝き、皆を導く光を放てとの願いが込められています。わたしはこれからそのように生きたいと思います」
今の獣からは、先ほどまでのぴりぴりとした飢えがまるで感じられなかった。わたしがこのような姿になったのと同様、獣の中でも何かが変わったのだろう。わたしと違い、それは純粋に喜ばしいことであるはずだ。その証拠に獣の顔は痩せこけてはいたけど、もはや荒んでいなかった。
「我が聖よ」獣はそう言って、まじまじとわたしの顔を見つめてきた。「できればこれからも末永く、宜しくお願いいたします」
あまりに丁重で、何となく気恥ずかしかったけれど。わたしは獣の言葉を素直に受け止めることができた。
「ええ、こちらこそ宜しくお願いします」
獣のすっかりと正された――それまでの乱暴な言葉遣いは、無理に作っていたのだろう――言葉遣いにつられ、わたしも久しぶりにかつての穏やかな口調を自然と使うことができた。もうすぐ地上に戻るのだから、これから荒んだ言葉遣いは控えようと心密かに決意する。
とまれ、わたしはこの居心地良い宮殿を発つ準備を、ようやく整えることができたのだ。
風呂から上がるとわたしはそのことを伝えに、神綺の居室へと向かった。すると扉が向こうから開かれ、年の離れた姉妹のような二人が手を繋いで出てきた。一人は神綺の側仕えとなる侍従長の夢子であり、もう一人はどうにも見知らぬ顔であった。二人はともに金の髪、青の瞳を持ち、精緻(せいち)に作られた人形のように美しい乙女たちであった。
「このような夜分に、如何なる用事で御座いますか?」
彼女は侍従女(メイド)としての本分をさっと取り戻し、深々と辞儀をした。その目は油断なく光り、主が鷹揚であるのを十二分に補っていた。
「明日、早くにここを発つことに決めました。つきましてはその旨を伝えに来たのです」
「なるほど」夢子はふむりと頷き、少しの間考え込んでいたけれど、隣にいた小さな乙女に手を引かれ、仕方なさそうに息をついた。「まあ貴女ならば構わないでしょう。一つだけ、あまり夜更かしなさらぬよう」
「分かりました」わたしは小さく頷き、ふと視線を感じて夢子の隣にいる少女のほうを向いた。彼女の顔にはまるで表情がなく、時間すらも流れていないように思えた。「こちらの方は?」
「ええ、その、妹のようなものです」夢子は歯切れ悪く言うと、おかっぱ頭を撫でながら言葉を続ける。「訳あってすっかり感情を失っているのです。神綺様はわたしと同様、彼女のことをすっかり憐れんで側に置いて下さりますが、今は心を閉ざし成長すら止めています。こうして日常を繰り返せば、いつかは感情を取り戻すと思うのですが」
ここは悩みとまるで無用の場所かと思っていたが、そうではないらしい。わたしは少し躊躇ってから、小さな少女のおかっぱ頭に手を伸ばしたけれど、何の反応を示すこともなく。夢子の袖を引き、促すのみだった。
「すいませんが、わたしは先に失礼させて頂きます」
夢子は再度、丁重に頭を下げると長く続く廊下を歩いていく。気にはなったけど、今のわたしにはおそらくどうすることもできないのだろう。わたしは心を切り替え、神綺の居室の扉をゆっくりと叩いた。
「失礼します」と断って中に入ると、神綺は紫がかった生地の寝間着を身にまとい、本に目を落としていた。神様でも更に知識を求めるのだなと思いながら開かれた本に視線を寄せると、神綺は慌てて本を閉じた。「何を読まれていたのですか?」
「えっと、子供向けの冒険ものです。先程まであの子に読んで聞かせていたのだけれど、面白くてつい続きが気になってしまったの」
神綺は私的な空間と服装であるためか、いつもより砕けた口調であった。もしかするとこちらのほうが彼女の地なのかもしれない。
「ときに、今日は何の御用かしら。もしかして、受け取るべきお礼の案が浮かんだとか」
「それもありますが、主は別れの挨拶です」
「早いわ。まだ半月も経っていないではありませんか」
「それだけ滞在すれば十分ですし、色々と用事もできましたから」
「そう、なら仕方ないわね。久しぶりの客人だからもう少しもてなしたかったけど、去るからこそ客人であることを忘れてはいけませんね」
神綺は自らに言い聞かせるように呟くと、改めてわたしのほうを向いた。
「明日のいつ頃、ここを発たれるのですか?」
「ここから海を越えた遙か先です。早いに越したことはありません」
「なるほど。ではせめて明日の朝は一緒に食べましょう。それと先程、お礼の品を思いついたということですが、如何様なものを?」
わたしは彼女が結んだ契約のことを話した。すると神綺は初めて、少しだけ怖い顔をして、それからほんのりと頬を膨らませた。
「その程度、わたしに任せてくれれば良いのに」
「その程度のことだからこそ、神自身が出張るのは控えるべきだと思いますよ。それに交渉は簡単に終わるでしょう」
神綺はわたしの説得にふむりと頷き、それから生き生きとした表情を浮かべた。
「では財宝なんてものを喜ぶものが涎を垂らすような代物を用意いたしましょう。それで、何か他に御所望のものは?」
「帰途の無事を祈って下さい」
「欲がないのですねえ」神綺は少しつまらなそうに言ってからすっくと立ち上がり、わたしの肩に手を置いた。「異邦の賢人……もとい白蓮さん、貴女にわたしの加護があらんことを」
その言葉に力があったのか否か、わたしにはよく分からなかった。ただ最後に、ごく対等な立場で送る言葉をかけてくれたことがわたしには有り難かった。だからわたしはただ抱擁をもって感謝の意を示した。
それからわたしは神綺に請われ、己の生い立ちをつらつらと話した。面白くも何ともないという理由で固辞したけれど、彼女は聞きたくて堪らないという調子でせがんできた。あまりにも熱心で、またその仕草がまるで子供のようだったから、最終的にはつんと絆されて、話さざるを得なかった。
信濃の地に生まれ、ごく普通の家族の中で過ごしてきた子供時代。幸運にもわたしを含めて六人が無事に育ち、その中でも末弟の命蓮は昔から神仏の類に縁のあるものだった。いつも変な所に迷い込んでは、けろりとした顔で戻ってきて『神様と遊んできた』なんてことを平然と口にするものだから、姉のわたしとしては内心、気が気でなかった。両親はそのことを常々気にしていたようで、ある日その道のものに見てもらうことになったのだが、弟を見てまずは感嘆の息をもらした。それから並々ならぬものの持ち主であり、都に上げて学ばせるべき器であると頻りに説いたのだった。
それから道のものはわたしを見た。そうして何故か悲しそうな顔で『彼女もまた仏に仕えるべき道の元に生まれたのであり、わたしに預けて欲しい』と言ったのだ。他にも力仕事のできる子はいたし、仏門に名を成せば誉れである。命蓮は家族と別れることを随分と渋ったけれど、皆の励ましもあってようやく決心し、修行の旅へ出て行った。わたしもまた道のものに連れられて仏に務める身となった。
仏への帰依、それに伴うささやかで清廉(せいれん)な生き方を、一度も後悔しなかったと言えば嘘になる。しかしその生き方は概ねわたしに合っていたようだ。だからあの知らせを聞かなければ、わたしは信濃の地を後にすることはなかっただろう。また道のものもわたしに、他の地を踏まぬよう陰に気遣う調子を見せた。今から考えれば、彼はわたしの挫折と堕落を見て取っていたのかもしれない。その彼も死に、わたしも老境に差し掛かった頃だ。旅の行商人から、ある噂を聞いた。今上の病を癒されたという僧の話である。
わたしはその人物が命蓮であると思っていたわけではない。ただその話に子供時代が妙に思い出され、たまらなくなったのである。わたしの後を継ぐものもおり、だから一世一代とばかり、老いらくの旅路を決意したのだ。周囲は随分と反対したけれど、わたしの決意が変わらないことを知ると村々に寄進を募り、馬と路銀代わりの穀類を用意してくれた。かくしてわたしは一人、生まれて初めて故郷の地を後にしたのであった。
信濃から京の都へ、そして辿り着いた奈良の都でわたしは仏様のお告げを受け、弟と再会することができた。姉弟によるささやかな暮らしは弟の急死によって幕を閉じ、わたしはやがて弟の立場を継がなければならなくなった。その過程で焦りや妬みに衝き動かされ、わたしはこの世界に転がり落ちた。そして無為に費やされた数年間を経たのち、最後の望みを求めて水晶宮への旅路を決意したのだ。そうして長い旅路の果て、わたしは目的を果たしたのだった。
めでたくもあり、めでたくもなし。
絶妙な頃合いに差し出される果物味の水にも促され、わたしは遂に今日ここまでのことを話し切ってしまった。わたしは決してお喋りなほうではない。どちらかと言えば、特に自分のことは胸の内に秘めておきたいと考えるほうだ。だが不思議なことに、神綺には何もかも話して構わないと思ったのだ。神の度量故か、あるいはこれまでのことを客観的に整理したいと考えたのだろうか。神綺はそのようなわたしの気持ちを汲んでくれたのだろうか。それとも単なる興味本位で聞き出したのだろうか。
神綺は話し終えたわたしにありがとうございますとだけ言った。辛かっただろうとか、悲しかっただろうとか、苦しかっただろうとか、そんな同情は一言も口にしなかった。だからこそわたしは、ごく素直に返すことができた。
「わたしこそ、ありがとうございました」
彼女はきっとわたしのことを忘れないでいてくれるだろう。これから先の道が不意な途切れ方をしても、わたしの全てを知るものが一人でもいると考えるだけで、肩の荷のようなものが少しだけ軽くなった気がした。
わたしはそろりと立ち上がり、辞去の礼をすると部屋を出る。すると日取り窓から、魔界らしい赤々とした曙光が、ほんのりと差していた。そうしてわたしはようやく、夢子の忠告を思い出したのだった。
床につき、とろとろと微睡むのも束の間、すぐに目覚めの時間がやってきた。わたしは頬を叩いて自らを鼓舞し、真新しい服に身を包む。若返ったせいでこれまでの衣服が微妙に合わず、すると魔界の高位な魔道師が使う素材で何着もの服を都合してくれたのだ。
とびきり冷たい水で顔を洗い、ごく僅かの朝食を頂くと少しだけ血の巡りが良くなってきた。夢子が食後に持ってきてくれた苦い飲み物も、目覚めの助けとなってくれたようだ。彼女が去り際に「だから前もって忠告したのですが。神綺様は客人の話を聞くのがこれ以上ないほど大好きなのです」などと言うから、俄に赤面しそうになった。
頬の色を元に戻し、わたしは水晶宮の門までやってきた。するとそこには金銀財宝の類が惜しみなく積まれていた。これは大袈裟過ぎると顔をしかめたところで、同じく一睡もしていないのに疲れた様子のない神綺が満足げな笑顔を浮かべた。
「取り急ぎ、ほんの少しばかり用意させていただきましたが、これで足りますかね?」
「多過ぎる」わたしはすげなくそう言い放ち、慌てて言葉遣いを丁寧に戻した。「この十分の一ほどあれば良いのです。それにこれだけの財宝、持ち運ぶだけで目立ちます」
「側に置いてある袋にならば、いくらでも入りますし、重さも感じません」
魔法というものは……もといこの世界の神はどこまで何でもありなのだろうと思ったけれど、聞くと半日は溜息が止まらなさそうだからやめておいた。その代わりにわたしは必要だと思う分だけ財宝を袋に収め、全く手応えのないそれを星に渡した。すると神綺は最後に、巻物状の代物をわたしに手渡してくれた。
「これは一体、何でしょうか?」
「これは書かれざる巻物という魔界に伝わる秘宝の一つです。両手に持って、巻物を広げるようにしてみてください」
妙な指示だなと思いながら広げると、高密度の魔力帯が、何ら属性を示さずに展開されていた。
「これを使えば図書館の本を自由に転写して読むことができます。地上に戻られた際には是非、活用して頂けたらと思います。もちろん普通に魔術用途で使うことも可能です」
「なんとも大層な品物ですね。使用制限はありますか?」
「ありません。かつて魔界人を煽動し、地上との戦端を開いた人間の魔道師が使用していた魔法具の一つですから」
つまるところ、これは古代で最も強く邪悪な魔法使いの英知がこもった品物なのだった。ここにある金銀財宝を水晶宮一杯に満たしても足りないくらいの価値ある代物であり、わたしは流石に気後れするものを感じていた。
「これはわたしには過ぎたものです。そして恐ろしいものです」
「そうですね」言葉と裏腹に、神綺の反応は実にあっさりとしていた。「それが分かるのですから、貴女が持っていても良いのです」
その理屈がわたしにはよく分からなかったけれど、神綺は返却など聞き入れないという静かな強い決意を放っていて、受け取らざるを得なかった。
「名残惜しいですね。わたしと貴女、きっと仲の良い友人になれると思っていましたのに」
「もったいないお言葉です」それを認めてしまうといよいよ未練が残るから、わたしは敢えて儀礼的に言った。「それでは長い間、お世話になりました。ここでのご恩は決して忘れません」
「わたしこそ」神綺は短くも決然と言い、それから最後にわたしの目をはたと見据えた。「もしわたしの力が必要なときがあれば、呼んでください。名前を呼んでもらえれば、いつでも力を貸しましょう」
「ええ、分かりました」
かくも強い力を用いる機会などそうそうないと思うし、もしかしたら一度もないかもしれない。それでも彼女の言葉はこれからもわたしを密かに勇気づけてくれるだろう。
「では、わたしは……もとい、わたしたちは帰ります」
「真の旅は帰還にあります。どうかお気をつけて」
神綺は魔界の諺(ことわざ)を引用し、わたしたちを温かく見送ってくれた。だからわたしは礼を持って応え、水晶宮を後にした。それからわたしたちは広く大きな道の真ん中を暫く歩き続け、両端に立つ彼女と獣に、力強く声をかけた。
「さて、それでは行きましょうか。まずは契約の問題を一刻も早く解決して……もしそうなれば、貴女はどうしますか?」
未だ名もなき彼女は契約のためか、しばらく葛藤していたけれど。苦しそうな汗を流しながら、それでも敢然と言い切った。
「ここに戻り、許されるならば見識を広めたいと思います。そうしていずれは立派な図書館を任されるくらいの司書となります」
その言葉を聞いて、わたしはよろしいとばかりに頷いた。それから二人の手を片方ずつ繋ぎ、空へと飛び出した。あんなにも重たかった旅路が、今はこんなにも軽く、早かった。行き交う景色は瞬く間に流れ、あまりにもたやすく見えた。それでもわたしは気を抜かなかった。神綺の言うとおり、真の旅は帰還にあるからだ。そうして持ち帰ったものを基に、より強く太い根を広げ、茎を伸ばし、やがては花実をつけるのだ。
わたしにそれができるだろうか。このように自由自在の身となっても、それはまだ分からない。地上には魔界と異なる問題があり、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)には行かないかもしれない。
それでもわたしは、わたしである限りを生きようと思う。
そして、もしわたしに弟と同じ道を行く愚行が許されているならば。
わたしは先行きの分からない道を、それでも精一杯に進もうと思った。
白蓮さん 前編 一覧
感想をツイートする
ツイート
「余計なお世話ですが、付いてくるにやぶさかでありません」じゃあ意味が通らないんじゃないでしょうか?