東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第8話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年12月03日 / 最終更新日:2015年12月04日

遠くの方から轟音が響きわたってきたのは、その日の夜遅くだった。月も星もなく、だからわたしは目が覚めても動くことすらままならず、ただじっとしていた。同じ部屋に彼女と獣の姿が見えないのは、既に様子を探りに出かけたのだろう。少しするとこの部屋にわたしを通した従業員が、魔法の光を放つ灯籠片手にやってきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。ただいま各部屋を回り、お客様の安全を確かめているところでして。お怪我などはございませんでしたか?」
「そちらのほうは問題ないのだが、地震でもあったのかね?」
 ここまで微かに揺れたようであったし、港町近くで地震が起きると海から強い波の迫ってくることが稀にある。従業員の慌てようもそれならば理解できたのだが、わたしの推測を否定するように従業員は小さく首を横に振った。
「地震や津波の類ではありませんから、ご安心を」
 そのとき先ほどと同じ規模の轟音が再び建物を揺らし。そして突如、金切り声のような嘶きが窓を震わせるほどの圧で迫ってきた。どこか禍々しく、同時に深い哀切を伴ったその声は、わたしの胸を不思議と打ってやまなかった。
 その後も轟音と嘶きが交互に続き、それは半刻ほど繰り返されたのち、ぴたりと収まった。わたしは目頭に涙を浮かべ、やもすると嗚咽するほどに心を動かされていた。わたしはこのように鳴く生き物を知らず、またあの嘶きが何を示すかまるで分からないはずだ。それなのに胸が苦しかった。あの嘶きにそのような気持ちを誘う強烈な何かがあるのだろうか。
 従業員は灯籠を取り落とし、両耳を塞ぎ、嗚咽に耐えきれずにいた。周りの部屋からも苦しげな雄叫びや鳴き声が響き、建物の中は一種異様の相を呈していた。
 わたしはいてもたってもいられず、灯籠を手に悲しみの海をかき分けるようにして階段を下り、表に出る。そのとき、わたしの体に獣が覆い被さってきた。
 獣は人化を解き、わたしのことを涙に溢れた瞳でじっと凝視した。それから透徹な、悲しみの咆哮(ほうこう)を高らかにあげた。うおん、うおん、うおんと、その強い想いを真っ暗な空に吐き出していた。そしてわたしからゆっくりと体を離し、人型に戻ってから大きく息をついた。
「すまない、取り乱したらしい。何というか、嘆きにあてられてしまったんだ」
「わたしも同じようなものだった。これは何なのだ。この町でいま何が起こっている?」
「海獣です」突如として背後から彼女の声が聞こえてきた。振り返ると彼女は特に動揺した様子もなく、平然とそこに立っていた。「海に住む彼らは魔界神のほかで旧き世界の名残りを唯一、留めるものであるがゆえ、その力は強大であり、鳴くだけで人の心を圧倒的に捉えると聞いていました。まさか本当だったとは」
 彼女は感心するように頷いてみせた。その仕草に悲しみの色はなく、わたしはつい不思議に感じて訊ねてしまった。
「その割には平然としているようだが、防御魔法でも使ったのかい?」
「いえ」彼女はきっぱりと否定した。「わたしは本への楽によって堕ちたものですから。今更悲しみなど持ち合わせていないだけです」
 いつも無表情で取り澄ましているくせに、彼女は臆面もなくそう言ってのけた。
「声が聞こえなくなったということは、おそらく町に駐在している神兵が彼らを倒したのでしょう。これでひとまずは安心……」
 彼女がそう言いかけたとき、空から夢子が慌てた様子で降りてくる。その整った顔は焦燥に満ちており、事態の深刻さを否応に示していた。。
「すいません、夜分遅くに。海獣はわたしたちの手で何とかしましたから、今日はゆっくりお休みになってください」
 夢子の態度はとてもではないけれど、何とかしたという風には見えなかった。
「その割には慌てているようだが、本当に大丈夫なのかい?」
「ええ、こちら側は大丈夫だと思います」
「こちら側? ということは、反対側に何か問題が?」
 その問いに、夢子はしばしの逡巡を見せ、観念したように溜息をついた。
「海獣を退治したのとほぼ同じ流れで怖ろしい事実が判明しました。何千、何万もの海獣が群を成し、一目散に陸地へ近づいているそうです」
 海獣とは一体どのようなものであるのか。わたしはこのような騒ぎが起きた今でさえ想像だにできなかった。しかし夢子ほどの実力者が、顔を青くするのだから余程の出来事であると想像はついた。
「約束を交わしたばかりですいませんが、わたしは彼らを止めなければなりません。彼らは海の生き物として生きる道を選んだゆえ、地上に出ればいつかは死んでしまうでしょう。しかしそれまでにいくつもの都市を押し流し、数多の生物を殺し、繁栄を塵に帰します。わたしにはそれを看過することができないのです」
 あの鳴き声にあてられたのか、それとも海獣を本気で哀れんでいるのか。どちらにしろ夢子の顔は悲痛な決意に満ちていて。だからわたしは嫌な想像をしてしまった。
「もしかして、死ぬつもりなのかい?」
 死に急ぐという行為に走ることがわたしには怖ろしくて、だから率直に訊ねていた。しかし彼女は黙って首を横に振るのみだった。
「そうしてやりたいのは山々ですが、その程度で負けることはできません。地上に現れようとしている怪獣は神意にかけて一匹残らず狩り殺されるでしょう。海は紅き血で満ち、しばらくは彼らの名残りを留めますが、やがては誰からも忘れられていくはずです」
 都市ほども押し流す、おそらくは巨体の群だ。そのようなものを認める訳には行かないのだろう。しかしそれほどの害を成すものにしては、彼らの鳴き声はあまりにも切なかった。わたしはおろか、夢子ほどの存在ですら気付いていない何かがあるのかもしれなかった。
 しかしそれを探るには時間があまりにも少なすぎた。最善の手に辿り着くための機会はおそらく既に喪われているのだろう。
 だからこそ集団自殺を始める前にせめて自らの手で清算するのだろう。魔界神と海獣たちの間に何が横たわっていたかは分からない。旧い時代の生き物同士、もしかすると以前は親しく交流していたのかもしれない。どちらにしても、はなから異邦人であるわたしには、どうすることもできないのだった。
 その諦観を感じ取ったのだろう。夢子はただ悲しげに踵を返し、夜の空に消えていった。少しすると遠くのほうからきらびやかな光が放たれ、船の形を保取ると信じられないような早さで海の向こう側へと遠ざかっていく。
 わたしはその様子をぼんやりと眺めていたが、それからじっと考えを巡らし、海の見える方へふらふらとした足取りで向かい始めた。
「どうしたのですか? そちらは宿のある方ではありません」
 彼女が追い縋り、わたしの腕を強くつかんで止めた。
「海獣のことは彼女……否、この世界の神に任せれば良いのではありませんか?」
 どうやら彼女も、そのことに気付いていたらしい。あれだけ当事者らしく取り乱していれば当然ではあるのだが。
「分からない。ただ、なんで死にたがるんだろうなって」あの蝶たちも、そして海獣とやらも死を渇望しているようだった。わたしはこんなにも生きたいのに、粛々と死を選ぼうとするのが、何故だか無性に我慢ならなかったのだ。あるいは海獣の鳴き声に、かつて力及ばず弟子たちを死なせた過去を刺激されたのか。どちらにしろ、わたしは海獣に会ってみたかった。もしかしたら一匹くらい生きているものがいるかもしれない。
 感情が荒れ狂い、鎮まったためだろうか。辺りは驚くほど静かで、誰もが建物の中に閉じこもり、ことをやり過ごそうとしているようだった。その中をわたしたちは、血煙の濃い方へひたひたと向かっていた。この町に漂う独特の匂いと混じり、息をしているだけで頭がくらくらとした。それでも何とか意識を保ちながら、わたしたちはざあざあと寄せては返す音のするところまで辿り着いた。然るにここが陸と海の狭間なのだろう。その二つを繋ぐようにして、巨大な物体がいくつも並んでいた。
 否、灯籠を照らしてみるとそれは生物の様相を呈していた。全身に岩のようないぼを持ち、体の至るところから蔓草のようにぐにゃりとした足が、力なく垂れていた。どろりと濁った透明状の瘤(こぶ)は、かつて目であったものだろうか。するとどれもが最低でも十個の目を持っていたことになる。そして血に混じりながらも確かに漂う、腐った泥のような臭い。相当のものを覚悟していたわたしの心を挫くほどに、海獣とは醜悪な存在であった。
 これが魔界の旧き生物たちの末裔、あるいは末路なのだろうか。いかにして彼らはこのような姿になったのか。どれほどの酷い呪いであったのだろうか。
「鼻が曲がりそうだ。おまけにこの醜さ、これでは死にたくなったとしても不思議ではないな」
 獣が悪態をついた次の瞬間、辺りが唐突にびりびりと震えた。
「然り」
 まるで唸りのようでありながら、その一語はわたしの心に直接聞こえてきた。慌てて辺りを見渡すと、海獣の中で特別に大きな一匹がいて、その目のいくつかがぼんやりと銀色に光っているのだった。
「生きて、いる?」
「既に死に体ではあるがな」おおんと唸るような声はやはり、わたしに理解できるものとして届いていた。「力あるものよ。何故に後を追わず、ここに留まる?」
「力あるものだと?」わたしは眉間に皺を寄せ、銀の目に向けて言葉を強く押し出した。「わたしは無力な老人に過ぎない」
「力あればこそ、我が声と対峙できるのだ。嘘だというならば、後ろの二人を見てみるが良い」
 促されて振り向くと、そこには竦んだように立ち尽くす彼女と獣の姿があった。
「申し訳ないとは思う。だがいまやわたしには、力を押さえて声を発することができないのだ。その中で心を動かさず立っていられるならば、十分に強いのだ。人間の老いた女性よ」
 今度はわたしにも彼の言葉が、痛いほどに迫っていた。憂うべき寂寥が否応にもわたしの心を打ってやまない。わたしは二人に下がるよう目配せし、するとかたや承伏いたしかねるといった表情を、かたや武勇なきゆえの悔しさを浮かべ、渋々といった様子で退いていった。
 二人が声の圏外まで到達したのだろう。彼は微かに身を動かしながら話しかけてきた。
「改めて問おう。死と血煙に満ちたこのような場所に、貴君はいかなる憐憫(れんびん)を覚えるのか?」
「哀れだと思っているわけではない」わたしはそこまで慈悲深い存在ではなく、だからそのような気持ちをばっさりと否定した。「ただ、知りたかったのだ。お前はどうして死にたいのだ。わたしはこのような身になりながらなお、生を渇望してやまないというのに」
 それほどまでに傷ついてなお生きていられるならば、同じような姿になっても良いとさえ思えるくらいだ。それゆえに尚更、死にたがりやである彼に文句を言いたかった。死者に鞭を打つ類のことであると分かっているけれど、それでも訊ねずにはいられなかったのだ。
 彼はそんなわたしの心中を計ったのか、もぞりと地上に乗り出し、岩のような瘤のついた触手を震わせるように動かした。わたしにはそれが何だか、彼の苦笑に見えてならなかった。
「あの獣が言った通りだよ。我らは旧く醜いゆえに死ぬのだ」
「馬鹿な!」死に至るにはあまりにも浅い理由だった。あまつさえ彼らは種族悉くが地上に身を乗り出し、自死を選ぼうとしている。正気の沙汰とは思えなかった。「醜いだけで死ぬならば、大抵の人間は死んでおるわ。お前はわたしを謀ろうと言うのか?」
「否。我々はそのために滅んでいく。長い時を経て思い知らされたのだ。旧いものは、いかに身を縮こまらせても、新しい生態系に混じることはできない。食わず食われることなく、ただ強いだけの我らは、海にさえいてはならないのだ」
 わたしには彼の言うことがまるで分からなかった。人間の理を越えた何かを語っているのだということが朧気(おぼろげ)に理解できたくらいだ。
「わたしたちは旧き時代、最も臆病な種族であった」彼はわたしに理解させるためだろうか。まだ言葉も知らない子供に物語を聞かせるよう、ゆっくりと話してくれた。「それ故に地上との戦争にも参加しなかったのだ。生命力が強い我らは肉の壁として無理矢理に徴用されたが、全てではなかった。そのために神を除けば唯一の旧い種族となったのだ。神は我らに、新たな生態系を魔界に築くと仰り、これからの在り方を訊ねてきた。だから一つだけ頼んだのだ。海の生き物は我らの食べられないようにして欲しいと。神はその望みを受け入れ、我らはいよいよ海にたゆたうだけの暮らしを永遠に続けられるはずだった。しかし、それは叶わない願いだったのだ」
 彼は一度にそこまで話しきると一度、大きくその身を震わせた。血の臭いが俄に濃くなり、わたしのほうまで容赦なく届いてきた。いかな巨体であろうと、もはやその身には欠片ほどの生命力しか残っていないのだ。それでもわたしは話を止めなかった。これはおそらく彼の、死に際の告白だからだ。誰かが側にいて聞いてやる必要があった。
「新しい海の生命は、太陽の力もあってか瞬く間に増え始めた。すると我らはこの広大な海でさえ、身を持て余すのだと知った。行く先々で醜い、臭いと罵られ、ただ流転した。そのうち身を流すことさえ、拒まれるようになってきた。いかに無害と言えど……否、誰からも無害であるがゆえ、我らは誰よりも疎まれるようになったのだ。小魚を嬉々として貪る獰猛な魚でさえ、我らほどには嫌われなかった。それで我らは気付いたのだ。我らは輪の中に加わるべきであった。しかしかつての決断を取り消すことはできない。既に世界は新しい様相を示しきっている。我らは身の寄せる場所がどこにもない。絶望は種族の全てに広がり、そして誰かが言い出した。我らの全てが死に、その意志をせめて神に示そうと。
 するとわたしを含むごく微かなものを除き、皆がその想いに我を忘れた。その行為が都市を押し流すことすらも理解できなくなったのだ。だから、残されたものたちで人間の船を襲った。そうすることでしか、我らは先んじて神をこの地に喚び、状況を示すことができなかったからだ。またできるだけ迷惑をかけず、死ぬためでもあった」
 だからこそ彼らは町を襲うように見せかけ、抵抗することなく死んでいったのだろう。そうして間際に同胞たちの暴走を教えたのだろう。だからこそ神は慌てて自ら船を駆っていったのだ。
 何ともやりきれない話だった。本当にこれしか落とし所がなかったのだろうか。彼らが堂々と身の証を立てられる場所はなかったのだろうか。神にすら示すことのできないものを、わたしがどうにかしようなんて烏滸がましいけれど。それでもわたしは問わずにいられなかった。
「本当にこうするしかなかったのか? 魔界のものたちに憎まれながら地に浸される終わりを望んでいたのか?」
「我らは地にいることができず、海にも居場所を失ったのだ。今更、どこに行けば良い。憐れんでくれるのは有り難い。だが、見渡して御覧。我らのいられる場所があると思うかい?」
 あまりにも優しく訊ねられ、わたしは涙を拭いながらぐるりと見渡した。だが、ほんのりと光る海獣の瞳と人の灯す微かな文明の光以外で、わたしに見えるものは何もなかった。早くも考えが尽きようとしたそのとき、わたしの中にふと閃くものがあった。昼間、魔界の空には太陽がある。しかし夜には何もない。夜の空には地上と海を足した分だけの場所があるのではないのか。
 そこまで考えてから、わたしは大きく首を横に振った。あまりにも荒唐無稽(こうとうむけい)な考えであったからだ。しかし彼にとってはそうではなかったらしい。
「思いもしなかったことだ。夜の空へ赴くだと?」彼はその巨躯をぶるりと震わせ、ぼろぼろの触手を天に伸ばした。「かつて神が地上に似せ、旧きものたちの死骸をくべて太陽を創った。お前は同じようにして、わたしたちに星になれというのか?」
 彼はまるで今にもそれができるかのように触手を伸ばし続け、しかしすぐに身を硬直させ、ずるりと地に身を横たえた。
「無念なことだ。わたしにはもはや、そのための力がない。せっかく地上の賢人が妙案を授けてくれたというのに」
 わたしは地上で見えるはずの当たり前の光景を思い浮かべたに過ぎない。誰もそのことに気付かなかったのかと思ったけれど、しかし太陽と違い、星はただ瞬くだけで、地に恵みを与えたりはしない。夜を往く微かな旅人に、その方向を指し示すだけだ。だから誰も星など必要としなかったし、考えもしなかったのかもしれない。神でさえも。
「それでも良いのだ。土地を押し流すよりは、自らの身を燃やしてささやかでも良いから、行き交うものたちの助けになれれば、我らにとってこれほど幸せなことはない。何故なら我らは誰かを助けるという意味で役に立ったことがないのだから」
 彼は再度、触手を空に飛ばし、天を目指そうと試みる。しかし再び力届かず、今度は大きな振動とともに倒れ伏した。もう本当に、体を支えるだけの力すらないのだ。
 何かできることがないかと駆け寄り、しかしその巨体すら支えることができず、目の前で立ち尽くすことしかできない。そんなわたしに彼は細い触手を一本、こちらに伸ばしてきた。
「旅の御仁よ。わたしを哀れに思うならば、その身に持つ力を貸してくださらないか」
「力など」ないと言い切りたかった。しかし彼にはわたししかいなかった。こんなにもよぼよぼで弱いわたししか縋る相手がいないのだ。少し迷ってから、わたしは体液と血でまみれた腐臭漂う触手にそっと手を伸ばした。「だがわたしには何をして良いのかが分からないのだ」
「願って欲しい。わたしがただ、天に昇り、星のように輝くことを。あとはわたしがやる。そしてそれは貴君にとってきっかけにもなるだろう」
 願いが力になるなんて、わたしには思えなかった。でも、わたしは彼が夜空の一等輝く星になることを願ってやりたかった。ここに死して眠るものたちを囲み、連なる星となって夜を往く微かなものたちの慰めになって欲しかった。
 するとわたしの中を、強く何かが流れ始めた。それは彼に、そして既に死に絶えたものたちにも等しく巡っていき、いつしかその末端に至るまで行き渡っていた。彼とその仲間たちはみるみるうちに空へと舞い上がり、すぐに見えなくなった。わたしは地上にある星を思い、同じように輝くよう祈りを捧げた。
 ほう、と真っ暗な空に光が灯った。それは地上にある星のようにささやかで、しかし確かにそこにあった。光の一粒が不意にすうと落ち、海の彼方へ消えていく。しばらくすると、空に次々と光が灯り始めた。星々が生まれ、夜天に満ちていった。おそらく彼が、仲間たちにより善い在り方を教えたのだろう。そうして皆が後を追っていたのだろう。
 やがて魔界の夜空は地上のそれと変わらないくらいに豊穣となった。これらの光景をおそらく多くのものが、驚きとともに眺めていることだろう。彼らは夜に瞬く光から、かくも醜い巨体を想像し得るだろうか。きっと誰も思いもしないだろう。それが何故か、わたしには少しだけ誇らしかった。彼らは結局のところ自死を選んだのであり、それはわたしにとって悲しいことであり、理解できないことだ。にも関わらず、わたしはこの結末をそこまで悪いものだと感じることができなかった。
 わたしは全ての顛末(てんまつ)を最後まで見守ってから、死の名残りが漂う夜道をひたひたと歩く。相変わらず辺りは真っ暗だったけれど、夜空に輝く星のせいか、足下を見失うことはなく。
「ありがたい。そう、ありがたいことだ」
 そう自分に言い聞かせながら、ふらふらと歩く。やがて海獣との語らいで離れていた彼女と獣を朧気に見つけることができた。二人とも先程の現象が何であるか余程知りたいのか、わたしに驚きにも似た強い視線を寄せてくる。しかしわたしにはそのための気力がなく、明朝に話すとだけ言い、小さく首を横に振った。二人はなおも何かを問いたげではあったけれど、何も言わずに付いてきてくれた。

 宿の中は夜空に煌めく奇跡のためか、あるいは海獣の雄叫びが未だ心に残っているのか、ざわざわとしていながら人気がなく、だから無言であてがわれた部屋に戻ると、わたしは寝台に横たわった。体が羽のように軽く、得もすると浮かび上がってしまいそうだった。よもやわたしも、彼らのように中空へと昇り、自らを燃やしてしまうのではないかと、少しだけ怖かった。だから目を瞑り、必死で眠ろうとしたけれど、結局は朝日が昇っても眠りに着くことができず、わたしは軽すぎる体を起こし、わざとらしく背筋を伸ばした。関節に凝るような痛みがどこにもなく、もしや幽体になってしまったのではないかという疑いが徐々に拭いきれなくなってきた。わたしの体がどうなってしまったのかを確かめるため、わたしは鏡の前に立つとおそるおそる己の姿を映した。
 そこにはわたしでないわたしが映っていた。肌には皺一つなく、全身が瑞々しさに満ちていた。かつてわたしが生きた頃の若々しさが、十全に取り戻されていたのだ。しかしかつてと違っている箇所もある。髪の色がまるで黄金のように鮮やかな色を放っている。
「これではまるで鬼のようではないか」わたしは思わず鏡に向けて思わず呟いていた。鏡の中のわたしも口をぱくぱくと動かしており、今度は躊躇いがちにゆっくりと手を伸ばす。鏡の中のわたしもこちらに手を伸ばし、目の前の若者がわたしであるという認めがたい事実を容赦なく突きつけてきた。「わたしは、何になってしまったのだ?」
 これは単なる若返りではない。それ以上の強い変化が起こり、人間でない何かになったのだ。おそらく昨夜の、海獣との交歓が原因であるに違いない。
 わたしはこの身を自ら燃やしたわけではない。だが、それに近いことが起きたのだ。まるで願いが一気に叶ったような歪さだった。否、あの神や海獣の言った通りだった。わたしには元々、それだけの素養があったに違いない。
 かつてこれほどに焦がれた力であるというのに、わたしは震えを押さえることができなかった。どうしてと、問いかけの言葉が口から漏れた。
「わたしには力があったのだ。それならば、何故……」わたしは弟子たちをみすみす死なせてしまったのか。後悔が涙を誘い、滝のように流れ、頬を伝っていく。その中でわたしは、何とも情けない事実に気付いたのだった。「この気持ちを味わうことが分かっていたからこそ、わたしは頑なに己を否定してきたのだ。力が欲しいと言いながら」
 魔界の神から力を授かることで、わたしはこの罪から逃れようとしていたに違いない。
 わたしはつくづく浅ましい。どうしようもない。それでもわたしはいま、わたしを憐れむことしかできなかった。誰かを思いやることができなかった。彼女と獣がわたしの前に立っていることを知っていたけれど、気遣う余裕を見せることも、事情を話してやることもできなかった。そのまま朝が過ぎ、昼が過ぎ、わたしはようやく力尽きて眠ることができた。
 
 翌朝になると、わたしのもとに見知らぬ女性がやって来た。
 わたしにはその正体がすぐに分かった。わたしに夢子と名乗って近付いてきたその人だ。おそらくはわたしが長らく求めてきたこの世界の神そのものなのだろう。その居住まいは変わらないものの、もはや内面から滲み出るものを隠そうとはしていなかった。あるいはわたしがこの姿を得ることで、初めて彼女の実力を真に読みとれるようになったのかもしれない。わたしは涙を拭い、高貴な客人を部屋に通した。
 誰も従えず一人でやってきた神は、あろうことかわたしに深く頭を垂れた。どうやら彼女もわたしが誰であるか分かっているらしかった。
「一昨夜はありがとうございました」
 神は率直に感謝の意を示し、わたしは咄嗟に首を横に振る。
「わたしは何もしていない。ただ、地上の夜空には星々が煌めいているのだと伝えただけだ。それで彼は仲間を従えて、次々と空へ昇り、自らを燃やしていった。ただただ、それだけなんだよ」
 すると次は神が、小さく首を横に振った。
「わたしを含め、この世界の誰にもそのようなことは思いつけませんでした。何故なら太陽と違い、星が空に必要だと誰も考えられなかったからです。弱き人間であった貴女であるからこそ、本当の意味で願うことができた。それ故に彼らは本当に、星となれたのですよ」
 神はまるで、この奇跡をわたしが成し得たのだと言わんばかりだった。そのことを肯定するように、神はわたしに魔の理を説いてきた。
「願いを形にするのが、魔法です。誰でも学べるように系統立てられていますが、願いがあればどのような相でも力にできるのです。もちろん容易ではないことですが」
 わたしにはそれほどのことができると言外に含んでおり、それは喜ぶべきことであるのに、今のわたしは何故か心が凪のように静かで、ただただ事実を受け止めることしかできなかった。わたしは未だに己の変化を実感できずにいたのだ。
「いきなりそのようになられては、戸惑うのも無理はありません。もし宜しければ、今からわたしの住まいまでお出でになりませんか? 先の約束もありますし、あそこならば心行くまでおもてなしできます」
 わたしは神に力が欲しいと頼むつもりだった。老いない体が欲しいと願うつもりだった。だがそれらは既に叶えられている。ただ、このよう姿になったからこそ知りたいこともあったし、彼女には水晶宮に向かうだけの理由が未だに存在する。
「では、ご厚意に甘えさせて頂くとしよう」
 わたしは背後に立つ彼女と獣に確認を取り、共に頷くのを見た。次の瞬間、わたしの見当識はぐるりと失われ、気がつくとまるで別の場所にいた。つるつるとした石造りの床に高そうな布の下がった天蓋付きの寝台、他の調度品も簡素ながら最高級の誂えであることが一目で分かる代物ばかりだった。
 わたしたちが一様に驚く様を見て、神は悪戯が成功した少女のようにくすりと笑って見せた。
「ようこそ御客人。此(ここ)がわたしの住処、首都の北端に建つ水晶宮です。仰々しいと思われるかもしれませんが、どうぞ御勘弁を」
 彼女は冠頭衣の下履き部分を摘み、優雅な辞儀を見せた。わたしは拙い頭でようやく、あの宿から水晶宮までの長い距離を瞬間移動で渡ったのだと気付いた。途方もない魔力の持ち主であり、これもまた彼女が神である証左であった。
「わたしはこの宮殿の主を務める神綺と申します。これからはそう呼んで頂けると嬉しいですね」
 彼女はあっさり真名を名乗ると気さくに話しかけてきた。この神様をどのように呼ぶべきか、一瞬のうちに様々な考えを巡らしたけれど。すぐに面倒臭くなって請われたまま呼ぶことにした。
「わたしは白蓮、地上生まれの生臭いだけが取り柄の僧侶だよ。そして彼女が……」
 わたしは横に立つ黒翼の少女と、虎柄の獣を紹介しようとした。しかしあれほどの長い旅を続けてきたにも関わらず、わたしは未だに二人の名前を知らないのだった。
「わたしには名乗るべき名前がありません」黒翼の少女はそう言って名乗ることを執拗に拒んできたからだ。「このなりを見て思うところあれば、そのように呼んで頂いて構いません」
 魔界を統べる神の目前でありながら、その口調はわたしに対するものとまるで変わらなかった。そのことに少しはらはらしたけれど、神綺は特に気にする様子もなく、それどころか真剣に考え込んでしまった。どうやら名前を付けるのが嫌いではないらしい。この世界に生きるあらゆるものを生み出したならば、あと一つくらい名前を考えることなど苦労のうちに入らないのだろう。果たして神綺はすぐに妙案を思いついたのか、嬉しそうに柏手を打った。
「では、ソフィーなんてどうかしら」
「良い名前だと思います。わたしが名に相応しいものとなれたならば、名乗らせて頂きます」
「今の貴女にも似合うと思いますが、良いでしょう」神綺は送り名を与えられたことに気分を良くし、次いで中途半端に俯く獣に視線を寄せた。「もしかして、貴女にも名前がないのかしら」
「わたしには、ある。ただそれは約定を果たしたのち、取り戻されるものだ。申し訳ないが神にすら名乗ることはできない」
 約定などという話を、わたしは初めて聞いた。もしかするとこの獣はわたしたちを食べるのではなく、その約定なるものを果たすために付いてきたのだろうか。そんなことを考えていると、獣がこちらをちらりと見つめてきた。わたしの視線に気付くとすぐに逸らしたけれど、何か腹に一物を秘めているようであった。それが何か分からないことはわたしを不思議ともやもやさせたけれど、神綺ののほほんとした声があっさりと払ってしまった。
「では、中をご案内します。あるいは体を休めたいのであれば、客室を用意できますが」
 神であるというのに、神綺は宿屋の主人とあまり変わることのない丁重さを見せていた。あるいはそれだけのことをされる理由があるのだと、殊更知らしめたかったのかもしれない。
「それともすぐに用事を済ませて、ここから立ち去りたいですか?」
 神綺は特に感情を示すことなくそう付け加えてきた。わたしはここに興味があったし、この身に何が起きたのか訊ねたくもあった。彼女も獣も事情はさほど変わらないようだったので、ここをすぐに辞するという結論には至らなかった。
「では、お願いします」
 すると神綺は嬉しそうにわたしたちを先導し始める。どうやら彼女に何らかの魂胆はなく、単なる生粋のもてなし好きであるらしかった。

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