聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編 白蓮さん前編 第4話
所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編
公開日:2015年11月05日 / 最終更新日:2015年11月05日
【第二話・聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを】
わたしは今まで読んでいた本を壁に叩きつけた。それでも怒りが収まらず、机に積んでいた本を一気に払い落とし、奇矯な声をランプの煌々と光る部屋にまき散らした。
あまりにも何も入って来ない。魔界の文字を読み下すため、翻訳の魔法を常に行使しているためだろうか。魔力の消費量は少ないのだが、常に魔力を放出し続けているのは神経に障る。かねてから身を苛む膝の痛みよりよほど酷かった。
欠け落ちた歯の隙間から声にならない声をあげていると、ドアが慌てて開かれた。
「どうしたのですか?」燃えるような赤髪に黒を主とした魔界の服を身に着けた誘惑者がおずおずと入って来る。彼女はこの惨状にも顔色一つ変えなかった。癇癪(かんしゃく)を起こしたのはこれが初めてではないからだ。「無茶をして寿命を縮めるのは構いませんが、部屋を片付けるのはわたしだということを心に留めて頂ければ幸いです」
「誰も片付けろとは頼んでないよ。そんな本、そこいらに散らかして置けば良いんだ」
意地悪く言うと彼女は僅かに嫌悪を示す。本ゆえに堕落した彼女は、本を粗末にされるのを何よりも嫌うのだ。
「終わったら食べるものを用意しておくれ。湯浴みもしたいから、風呂に湯を貯めるのも忘れないことだよ」
彼女は無愛想な顔でてきぱきと部屋を片付け、そそくさと出ていった。
わたしは何も言わずに見送り、椅子に深く腰掛けて息をつく。たったの数刻、机に向かっていただけだというのに、疲れが酷い。体が軋むし、頭も満足に動かない。初等程度の教本すら満足に読むことができない。老骨の身で新しいことを学ぶのだから、覚悟はしていたけれど、これほど辛いものだとは思わなかった。
このままでは目的の魔法を収得するまでどれくらいかかるだろうか。五行の力一つ身につけるだけで、寿命が来てしまうかもしれない。これまでの功徳を捨ててまで、魔の領域に身を堕としてまで、ここにいるのに、これでは無駄死にしに来たようなものではないか。
「このままでは駄目だ。このままでは……」
全ては無為に来してしまう。弟が興し、遺してくれたものの全てを駄目にしてしまう。法の力を扱う才能がないから、他の力を求めたというのに。ここに満ちる力を会得すれば、弟に負けないほどの優れた導き手となれる。山の力を、寺の力を、偏く世に知らしめることができる。
「わたしは力を得なければならない。そうしなければ、わたしは弟の志を無為にする。わたしは生きなければならない!」
だから死にたくない。弟の遺したものを広めるための、十分な時間が欲しい。
興奮したせいか、胸にちくりと痛みが走った。例の心臓を痛めつける動悸だと気付き、わたしは必死で胸を押さえ、息を整える。やめてくれ、今がそのときだなんて思いたくない。
「死にたくない」わたしは掠れる声をあげ、中空に手を伸ばす。「嫌だ、死ぬのは怖い……」
しばらくすると胸の痛みは少しずつ収まり始め、わたしは必死で呼吸を整え、痛みが去ってしまうまで続けた。そうして落ち着くと、わたしは胸に良くないというのに、冥(くら)い笑いを抑えられなくなった。
「なんということだ。なんと、浅ましい……」弟の意志を継ぐために死にたくなかったはずなのに、わたしは胸に痛みが走ったとき、ただ死ぬのが怖かった。志はどこかに消えていたのだ。「畜生だ……わたしは畜生にも、餓鬼にも劣る」
冥(くら)い呟きが口から漏れる。わたしは何をすることもできず、ただ茫洋(ぼうよう)と食事の到着を待った。
数十分後、誘惑者が夕飯を持ってきた。魔界で良く食されている鳥の肉と野菜を適度に炒めたものに、豆の煮物だ。わたしは無言でそれを受け取るとがつがつ食べた。殺生で得たものを口にすることは禁じられているけれど、構いやしなかった。彼女は老体というものを知らないのか、それとも嫌がらせなのか、固いものも平気で出してくる。わたしは必死で食事を腹に収め、それから湯浴した。熱湯は節くれ立ち、ことあるごとに痛みを放つ膝に多少は効いてくれるものの、夜具に着替えて寝台に身を横たえる頃には、じくじくと蘇っていた。忌々(いまいま)しいことこの上ない。遙か信濃から一人、京にまで辿り着いたときの体力すら、今のわたしにはないのだ。
夜はまだ浅い。もっと本を読み、少しでも学ぶべきだった。しかし疲れた体はわたしの心を容赦なく眠りに誘い、悲しいほどあっさりと屈してしまった。かつて質素に、ただ仏に仕えていた頃の気概すら、わたしの中からは消え去っていた。
どうしてこうなったのだろう。異邦の地にあることの孤独、ままならぬ身への苛立ち、悲願を成し遂げられないのではないかという恐怖で、わたしは嗚咽(おえつ)をもらしそうになる。しかし、乾ききった瞳からは一滴の涙も零れることなく、惰眠がその全てをあっさりと押し流していった。
中興の祖であった弟の唐突な死で、その弟子たちは深い悲しみに包まれた。わたしはその中でただ一人、辛うじて踏み留まり、葬送の音頭を取った。悲しくないわけではなかったけれど、ただ一人の姉弟なのだから、しっかりと送ってやりたいという気持ちが辛うじて勝ったのだ。
離れの塚にその亡骸を埋めてからも、朝廷の使者を始めとして弔問客は続々と現れ、その対応に追われるうち、月日はあっという間に過ぎていった。喪が明けると寺のものたちはようやく、後詰めを定めなければならないということに思い至った。死の直後ではなく、喪が明けてから初めて跡継ぎについて話し合われるということは、翻って弟の人徳を示していると言えた。その反面、取り仕切るものが誰もいないということを意味していた。
弟は多くの弟子を遺していたけれど、その誰もが弟に遠く及ばなかった。空鉢護法や剱鎧(けんがい)護法といった仏法の象徴を操ることはおろか、妖怪や童子の扱いにすらろくに長けていなかった。あるいはそれほどまでに弟の力が破格であったのかもしれない。
わたしは最初、その様子を遠巻きに眺めているだけだった。血の繋がった姉弟であるからこそ、より慎まなければいけないと考えたからだ。古今東西、血を縁にして受け継がれていくものが堕落しなかった例はない。帝の血筋でさえ例外ではなく、だから離れの院にこもり、写経を通して仏の教えを学び、朝夕には寺をぐるりと散歩して回った。雑穀の粥を日に二度、じっくりと噛みしめ、朝は誰よりも早く起きて冷水で身を清める。老境の域ではあったけれど、特に痛むところはなく、歯も数本が欠けている程度で、身も心も整っていた。弟が死んで間もないのに整い過ぎているような気もしたけれど、あまり気にはしていなかった。死は通過点に過ぎず、弟ほどの功徳を積んだものならば、あちら側で困ることなどないと半ば確信していたからだ。
冬が過ぎ、春が訪れていた。山の上だからまだまだ寒いけれど、辺りは生命に満ち溢れ、鳥たちが心地良い囀り(さえず)を辺りに響かせていた。わたしはその日も朝の散歩がてら、弟の眠る塚まで足を運んでいた。といっても弟を偲んでばかりの話ではない。わたしには慰めなければならないものがいたからだ。
その日もやはり、彼女は塚の前でただひたすら神妙に手を合わせていた。妖怪の時間は人間のそれと比べて緩やかだから、祈りも見合ったものとなる。わたしは常々、人間より妖怪のほうが功徳を積むのにうってつけではないかと考えていた。人間の前で口にしたことはないのだけれど、一心にただ祈る姿を見ていると、そう思わずにはいられなかった。
わたしは彼女の祈りが終わるまで、近くの石に腰掛けてじっと待ち続けた。透徹な祈りの中、瞑目して過ごした。どれくらいの時間が経ったかは分からないけれど、彼女はそっと立ち上がり、そうしてようやくわたしの気配に気付いた。
「毎日、お務めご苦労様です」
そう声をかけると、彼女は濃藍色の頭巾を揺らしながら気まずそうに頭を下げた。それから少し迷い、わたしの横に腰を下ろした。
「無為なことだとは分かっているのです」彼女は開口一番、己の行いをきっぱりと、しかし悲痛に否定してみせた。「上人は安らかに逝かれ、その御心は次の階梯に向かわれたのだから」
わたしはその言葉に何も返さなかった。わざわざ理を説くまでもなく、彼女――雲居一輪はそのようなことなど全て承知しているのだから。一輪は弟に仕えていた童子であり、この信貴山にて紫雲の如きその才をふるい、ときには雲に乗って遙か彼方まで使いに出ることもあった。
「生きて死者を哀しむものにとって、貴女ほどの深い祈りを捧げるものがあるのは、とても有り難いことです。わたしのために祈っているのではないと分かってはいるのですが」
一輪はわたしの言葉に沈黙をもって返答とした。元々そんなに折り合いの良い関係ではなかったのだから、ただ側にいてくれるだけでも上出来とするべきだ。実際、数日前まではわたしに気付いた途端、そそくさと逃げ出していたのだから。
その理由は、弟と一輪の、繋がりの強さに起因する。
弟が修練の場としてこの地を選び、若くして数々の護法を遣う僧侶として陰にその存在を示し始めた頃、一輪は寺の門を叩いた。入道を従え各地を転々としていた彼女は風の噂に弟の話を聞き、その人となりを見定めるため、寺の門を潜ったのだ。生粋の武闘派であったから、それは激しい力比べによって行われた。
入道を操る一輪に弟は法力で対抗し、あっという間に調伏してしまったらしい。その力ぶり、何よりも人ならざるものを臆さぬ人柄に、一輪はすっかり心酔し、仕えるようになった。
弟は一輪のことをよくよく信用していたらしい。かつて醍醐帝が病に臥した際、加持祈祷の終わりを示す使いとして彼女を選んだことからもそれはよく分かる。だからこそ、わたしをあまりよく思わないとしても、十分に納得できる。
わたしは弟にとって新たな執着の種であり、一輪にとっては築き上げた関係を横からさらう盗人にも等しい存在だ。だからこそ、わたしは彼女に報いたいのだけれど。実のところ余計なお世話なのかもしれなかった。
じっとりとした沈黙が続くことしばし、珍しいことに一輪のほうから話しかけてきた。その表情にはどこか切実なものがあり。わたしは相対して、彼女の言葉を受け止めた。
「姉君においては、ここをどうするおつもりなのでしょうか」
俄に質問の意図が分かりかね、わたしは鸚鵡返しに訊ねていた。
「どうする、とは?」
「上人が再興されたこの場所を、貴女はどう導かれるのですか?」
一輪の問いたいことが分かり、わたしは小さく首を横に振った。
「わたしはこの場所をどうもしませんよ。弟は優れた弟子を多く残しました。彼らがここを更に盛り上げ、御仏の意で満たしていくことでしょう」
「本当に、そう思われますか?」
一輪の声は猜疑(さいぎ)に満ちており、わたしはほんの僅かだが眉を潜めてしまった。
「相違ありません。わたしは弟の名残りがあるこの地で、流れるままに余生を過ごすのみです」
そしていずれは召されるだろう。口に出さずして己の意志を固めると、しかし一輪は納得していない様子で、顔には苛立ちを露(あら)わにしていた。
「その優秀な弟子どもは、法力をろくに扱うことができず、理解すらしていない。経を諳んじ、教えを説くことはできるかもしれないが、上人には遠く及ばない」
「及ばずとも構わないのではないですか?」怒りに身を任せようとする一輪を宥めるよう、わたしはゆっくりと言葉を紡いでいった。「謙虚に教えを学び、御仏の御心をあるがままに受け入れることができれば、みだりな法力など必要ないとわたしは思います。虚心坦懐でありさえすれば、寺は善く栄えゆくはずです」
「仏の道とはそのように単純で甘いものではない」一輪は吐き捨てるように言った。「祖を喪い、瞬く間に荒れる寺など腐るほどある」
「そうでない所も沢山ありますよ。それに貴女は、まるでここがそうなるような口振りですが、それは弟のことを信用していないと言っているに等しいのではないですか?」
ぴしゃりと言い切り、わたしは一輪の顔をじっと見据えた。少し厳しい言い方であったことは、一輪の苦渋に満ちた顔からもよく分かる。しかしここで退くわけにはいかなかった。彼女の弟に対する拘りや執着を少しでも解き放ち、軽くしてやりたかったからだ。
しかし彼女は、見ようによっては皮肉気な顔を浮かべ、投げ槍に言葉を放ってきた。
「だと、良いんですけどね」
そうしてわたしが止める暇もなく、塚の前から去っていった。わたしはよく分からない気持ちのままに溜息をつき、離れの院に戻るため腰をあげた。
ふと空を見上げると、すっきりとした空に薄く白い雲がかかっていて。わたしは俄に暗澹(あんたん)とした気持ちになった。いつも山頂付近にかかっていた紫雲が、いつのまにか姿を消していると気付いたからだ。
「たまたま、ですよね」
そう口にはしてみたけれど、わたしは漠然とした不安が忍び寄っているのだという思いをどうしても抑えることができなかった。
目を覚ました瞬間から、わたしの心は羞恥心と罪を思う気持ちで満ちていた。ただ堕落していくだけの自分が怖ろしく、それはすぐに強い吐き気となってせり上がってきた。厠に辿り着く余裕もなく、わたしは廊下に嘔吐し、崩れ落ちて激しく噎(む)せた。夜具が汚れ、わたしは使用人を呼ぶための鈴を鳴らした。ちりんちりんと慌ただしく鳴らすことしばし、彼女は慌てた様子で駆けつけ、その惨状と臭いに顔をしかめた。不意に辱め(はずかし)られたと感じ、わたしは彼女の頬を思い切り叩いた。それから床を綺麗に掃除し、夜具の替えを持ってくるよう伝えた。
彼女は深い一礼とともに退出し、夜具の替えと掃除道具を手に戻ってきた。彼女は夜具をつっけんどんに渡すと、黙って床を拭き始めた。
わたしは彼女を怒らせてしまったのだろう。しかし痛痒(つうよう)は覚えなかった。寧ろざまをみろと思った。いつも取り澄まして、無様なわたしを本当は見下しているのだから、これくらいされて当然だ。わたしは作業の音を気にせず、汚れた夜具を着替えてから寝台に横たわり、ゆっくりと目を閉じた。泥のような疲労が押し寄せていたから、すぐにでも眠れると思った。
でも、いつまで経っても微妙に目が冴えたままで。ゆるゆるとした思考があっという間に濃い不安へと変わり、眠りを奪ってしまった。それはたやすく、二度と目を覚まさないのではないかという恐怖へと変わり、わたしは身を縮こまらせた。
死にたくない。わたしは生きて帰りたい。そうして弟の興した寺を、何としてでも盛り立てていくのだ。そのためにはここで力を身につけなければならない。しかも早急に。これまでも漠然と考えてきたことが、今になって激しく形を成し、結実しようとしていた。
いつまでもここにいて、初等の魔道書と格闘していても埒(らち)が明かない。わたしには才能がないのだととうの昔に分かっていた。魔法を司る膨大な体系のうち、ごくごく簡単な魔法を遣うことさえ、身に余るくらいなのだ。灯籠(とうろう)のように光を灯し、夜を払う。家事のために火を熾(おこ)す。些細な用事のために空を飛ぶ。ここであれば小さな子供であってもできることさえままならない。
劇的な転換を行う必要があった。その手段をわたしは既に知っていたけれど、これまで決行はしなかった。法力を扱うことはできなかったけれど、魔法ならば使えるかもしれないという甘い期待がどこかにあったからだ。でも、それは今日で終わりだ。
となれば、彼に掛け合わなければならない。わたしの世話をする彼女の主人であり、わたしをここに住まわせている魔界人に。わたしは体を起こすと、掃除を終えた彼女に声をかけた。
「明日、お前の主人の家を訪れる予定なのだけれど」
いつ頃訪れれば良いのか聞きたかったけれど、彼女はただ俯くように頷いただけだった。
「畏まりました。日が昇りきる頃には起床されていることでしょう」
彼は相変わらず怠惰を貪っているようだ。それならそれで都合もよく、だからわたしは是を返し、布団にくるまった。新たな希望が芽生えたせいか、今度は驚くほどあっさりと眠りにつくことができた。
魔界の統治形態を一言で述べるならば、神権政治である。
といってもわたしの故郷にいる支配者みたく、神の代理人を頂点とした、実際は人間による統治などという中途半端なものではない。字義通り、一柱の神が全てを取り仕切っているのだ。もちろん神の手足となって動くものはいる。しかし全ての最終決定権は神の手の中にあった。皇帝が広大な土地を支配する唐国ですら、そこまでの権力が集ってはいないはずだ。
歴史を勉強している暇はなかったから、魔界がどういう世界であるのかはほぼ使用人である彼女からの知識しかないが、その程度の微々たるものであっても、わたしを驚かせるには十分であった。
魔界にはここ数千年、政治形態の変遷がないのだという。神の威光は減ずることなく、偏くものたちに比喩ではなしに光を与えてきた。いまわたしの頭上にある、強い赤みを帯びた太陽は、魔界神が独力で創り、灯し続けてきたものだ。
それ以前、魔界に太陽は存在せず、闇に満ちた不毛の地であったという。そのためにごく僅かの食糧生産可能な土地を求め、あらゆる類の戦争が絶え間なく起こっていた。その間にも、魔界の住人たちは太陽を独り占めする地上のものたちへ反旗を翻すという野望を抱き続けていた。かつて神々たちの間で勢力を二分する全面戦争があり、魔界の住人たちは敗者の末裔(まつえい)だった。だからいつか強力な王が魔界を統一し、地上に打って出るのだという悲願を持っていた。しかし地上と魔界を隔てる結界は強固であり、その綻びを全て進軍のために使うとしたところで、地上との全面戦争を行うにはあまりにも道が少なすぎたのだ。
いつ果てることなき闘争だけが続いたある日、魔界の王となるべきものは唐突に現れた。神と魔の合いの子となる特別な肉体を持ち、深甚(しんじん)な知識を有し、ありとあらゆる魔法を使いこなすその男は、皮肉なことに倒すべき陣営の種族である人間の精神と魂を有していた。
彼は道が開けることを示し、かくして魔界の住人は地上になだれ出た。地上と魔界の覇権を定める決戦が再度起こったのだ。しかし地上の人間たちの中には、この激烈なる決戦を予期していたものが少数だがおり、それは各地の王やそれに類するものたちであった。当初こそ混乱があったものの、彼らは結束して各地で魔界の住人を打ち破り、邪悪な人間の魔法使いを討ち滅ぼしたのだった。そのときに魔界にいた名だたる魔人のほぼ全てが倒され、魔界の守護者たる暗黒神さえも滅びから逃れることはできなかった。
魔界は生き物すら存在しない、ただ荒れ果て忘れられるだけの世界となるはずだった。しかし一人だけ力を持った存在が生き残ったのだ。
彼女は暗黒神が豊穣の神の娘を誑か(たぶら)し、犯して生ませた子供だった。生まれは忌まわしいが、その出自ゆえ彼女は膨大な魔力と、そして豊穣を与える力を併せ持っていた。彼女は大戦に先駆け、その力に目をつけたものによって召還され、荒ぶるものとして地上を蹂躙しかけたものの、心正しき人間たちによって安らかに封じられた。その結果、大戦を免れることができたのだ。
彼女はただ安らかにいたいだけだった。しかし魔界を維持できるほどの力を持った神が他にいなかった。だから穏やかに暮らすことのできる世界を求めたのだ。
彼女はその魔力を用いて魔界に太陽を掲げた。豊穣の力が込められた光によって作物の育つ土地は僅かずつ広がり、彼女は次に太陽の下で暮らせる生物たちを創った。寿命が十分に長く、争いが起こるほど増えないよう、しかし十分に増えることができるようにした。
そうして長い時が経ち、魔界は数十の町が栄え、活気に満ち溢れる世界となったのだ。いまや遙かに恵まれた土地と太陽を持つ人間たちのほうが悪鬼の如く権力闘争や戦に明け暮れている。何とも皮肉な話であるが、わたしとてそのような悪鬼の一人であり、いまや肉を食らい他者を平気で騙してはばからない。
わたしは地上の人間を笑うことができないし、今は邪なものとして振る舞う必要があった。魔界人はその歴史ゆえ、地上からやってくる魔法使いに強い恐怖を抱いている。地上に満ち満ちた人間が、今度は魔界に押し寄せるのではないかと危惧しているのだ。実際に人間の魔法使いがたまに門を開いて訪れたりするらしいけれど、彼らは知識を渇望し、欲望に忠実であり、穏やかな魔界人にとってはあまりにも気性が激しく見えるらしい。そのような魔法使いこそ魔界を礼賛し、そこに住むものたちに敬意を払っているのだということを知ってさえ、魔界人は地上の人間を邪険に扱うことができないのだ。
右も左も分からないわたしが、だから魔界にあって悠々と生活できているのだった。地上の権力者と懇意であることをちらちらと臭わせていたから尚更のこと、丁重に扱うべき重要人物扱いだった。
しかし、そのような生活も今日で終わりだった。わたしは別荘を渋々提供してくれた魔界人に掛け合い、二角獣の二頭立て獣車(ばしゃ)と御者、それに十分な量の金貨を供出してもらうことに成功した。何とも気前の良いことだと思ったけれど、あとで御者――これまでわたしの世話をしてくれた彼女なのだが――に聞いたところによれば破格で厄介払いできたらしい。
「では、もっとふっかけてやっても良かったのかい?」
「ですね。金は重たいだけで、この魔界では大した価値はありません。わたしには貴女がどうしてこんなものを求めるのか分かりませんでしたよ。何か深い思慮があるのかと判断し、差しで口は慎みましたが」
重大な過ちをさらりと指摘され、わたしは揺れる獣車の中であるにも関わらず、立ちくらみしそうな転倒感を覚えた。
「金は不変であるがゆえ、価値があるのでは?」
「確かに金は安定した金属です。でも、腕の立つ錬金術師はそれなりにいますし、その名の通りに金を作れて一端と言われるくらいですからね。作るのに手間がかかるから、採掘もされるし価値が全くないわけではありませんが、あの屋敷になら金以上に価値のあるものはいくらでもありました」
屋敷にいたときの慇懃さはどこ吹く風で、彼女は実に不遜な様子で、御者席から知識を披露してみせた。
「あなた、驚くくらいに何も知らないのですね。地上から来た魔法使いのくせに」
「そんなこと、お前ならとっくの昔に分かっていると思っていたよ」
「でも、初めて主人の所に通されたとき、凄い技を見せていたじゃないですか。魔力も使わず、物質を宙に浮かべましたよね?」
「なんだ、そんなことかい」あまりにも単純に騙され続けていたので、わたしは腹を抱えて笑いそうになった。「あれは手妻(てづま)だよ。種は明かせないけれど、特別な力は何も使っていない」
「えっと、本当ですか?」
わたしが頷くと、彼女は黒い蝙蝠みたいな羽をぴんと立て、ふるふると震わせた。もしや彼女を怒らせたのか、あるいはわたしを怖れる必要がないと分かって歓喜しているのか。わたしはもしかしたらここで彼女に殺されたりするのだろうか。そう考えるとわたしの心は強く泡立ったけれど、次の瞬間に聞こえてきた笑い声があっという間にかき消してしまった。
「あはは、それは良いですねえ」それだけを言うと彼女は体をくの字に曲げ、必死に笑いを堪えようとした。「わたしの主……もとい、わたしと来たら貴女のことをひっきりなしに怖れ、顔を蒼くしていましたからね。それが何と、簡単な詐術に当てられてのことなんですから、お笑いですよ。散々に騙してきたものが、騙されることに強いわけではないのですねえ」
彼女は悲痛にも思えるほどけらけらと笑い、ようやく落ち着いてから小さく息をついた。
「貴女が地上で得た評判は全て、そのような手妻で得てきたのですか?」
「半分は、弟の功績かね。わたしと違い、弟は真の聖人で、強力な法力をいともたやすく遣うことができた。わたしは弟と違って力も才能もなかったが、同じことができるのだと衆生(しゅじょう)に見せつける必要があったのさ」
弟の築いたものが、あんなにも盤石に見えたものが潰え始めたとき、わたしは老境の身に余るほどの恐怖に駆られた。それが免罪符になるとは思わないけれど、愚かではあったのだろう。全てを話す気力がなかったから、わたしは話をすり替えるため、相手の傷を自覚して突いた。
「あんなにも笑ったというのに、詐欺を働いたのが嫌そうじゃないか。もしかして手酷く騙された経験でもあるのかい?」
肩を分かりやすく震わせたから、図星なのだとすぐに分かった。
「察するに溢れるほどの蔵書を餌として、契約でも結ばされたのかい?」
「……ええ」今度は動揺を見せずに冷たく肯定し、それから大きく溜息をついた。「わたしは、知識故に天を追われました。そのことはご存じですよね」
「ええ、当の主人が誇らしげに話していたからね」強い力を持つ、天の遣いですよ。わたしの自慢の使い魔ですと、彼はことあるごとに吹聴していたから嫌でも耳に入ってきたのだ。「本を嗜む実直が、いかにして堕落に結びついたのだい?」
「異教の本を読み、楽しんだのです」
彼女は地上に唯一を標榜す(ひょうぼう)る神の、数億にも及ぶ使いの一匹である。階梯は厳しく、また力は強いけれど人間よりも不完全な存在であるため、堕落に染まりやすい。しかし彼女は単純に堕落したのではなさそうだった。
「アリストテレス、などと言っても分からないでしょうね。わたしはその本を読み、楽しみを、笑いを知りました。それを上司に見抜かれ、地に堕とされたのです。そうしてたまたまこの世界に迷い込み、最初に手を差し伸べてきたのがあいつ」
蔑称で呼んだ途端、彼女は苦痛に似たうめき声をあげた。彼女が結ばされた契約は、主を過度に不遜とすることを許していないのだろう。
「わたしの、主人でした。彼は他者の弱みを見抜くのがそれなりに上手く、本の虫であることを悟られました。その結果が、この有様ですよ」
彼女は諦観にも似た溜息をつき、言葉を続けた。
「わたしは父に与えられた力を元に、貪るように本を読んで魔法の知識を身につけました。末端も末端でしたから、そこまでの使い手にはなれませんでしたが、主人の護衛に、いざという時の盾になるには十分でした」
「なかなかに物騒な話だね。あの男、敵は多かったのかい?」
「詐欺師ですから。あのくそ……わたしの主人は」
難儀というか、随分と性格が悪い。いまのわたし程ではないけれど、本の楽しみを知らなくても別の方向から堕落したような気がする。それとも堕落したことで更に心を荒ませたのだろうか。だとすると何てことはない。わたしと彼女は相当な似たもの同士なのだ。
そう考えると、これまでの素っ気なさも無礼も不思議と許せるのだった。わたしに欲しかったのは、わたしより駄目なもの、矮小な(わいしょう)ものだったと気付き、心からほとほと高潔といったものが抜け落ちていることに苦笑せざるを得なかった。
「何を、笑っているのですか? わたしの境遇がおかしいですか?」
「わたしはとんでもないろくでなしの破戒僧だなと思ったのさ。全くもって救いようがない」
だからこそ、魔界の神に縋るなんて他力本願しか思いつかなかったのだろう。それでも良いと思った。呆れさせても良い。狂ったように取り乱し、その裾に必死に縋ってやろう。無様だけれど、それでも何もしないよりはましだ。
その決意をほんのりと崩すほど、彼女のつぶやきは暖かかった。
「わたしほどでは、ないと思いますよ」
わたしは鼻を鳴らし、幌の隙間から見える光景に視線を巡らせる。命の息吹すら感じられない赤々とした荒涼の大地。僅かに生い茂る細木や草たちも茶色に痩せこけ、いかにも惨めだった。
「これがあとどれくらい続くのかい?」
「最低でも三日。でもおそらく赤砂が発生しますから、もう少しかかるでしょう。まあ、一週間分の食糧は用意してきましたから飢えることはありません」
「赤砂と言うのは?」
「乾いた土地ですからね。赤い砂を含んだ強烈な嵐がひっきりなしに起こるのですよ。魔力も含んでいて、生命を貪欲に取り込みます。これの予兆が来たら、二角獣たちは数少ない遮蔽物を求めて遮二(しゃに)無二(むに)走り出します。そうして比較的安全な所を見つけると梃子(てこ)でも動きません。そういう風に創られ、また訓練されているのです」
「なるほど、魔界神の恩寵と(おんちょう)いうわけだ」
それならばこの土地をも肥沃(ひよく)にすれば良いと思ったけれど、それはいかに全能的な存在でも難しいのだろう。日本にも雨土や気候を司る神はいるけれど、その力をもってしても民草が飢えるほどの旱魃(かんばつ)を避けることはできない。天候はおそらく神ほどのものでさえ完全には掌握できないのだろう。あるいは可能であっても過度の干渉を避けているのか。
「大きな町があるのは耕作可能な土地の近くだけです。その間は神すら知らぬ空白地帯。ここから魔界神のいる水晶宮までは同じような道をいくつも、そして暗く冷たい海を、越えていかなければいけないのです。生半可では行こうとも思わない道です」
「それでも」わたしは不安を押し殺しながら断言する。「わたしは行かなければならない」
「わたしは主命に従うのみです」
そうしてわたしたちは無言のまま、町と町を繋ぐか細い道を進んでいった。
幸いなことにその赤砂とやらに出会うことは一度もなく、わたしたちは次の町へと辿り着いた。町といってもわたしが仮初めの居を構えていた場所に比べれば随分木訥(ぼくとつ)としており、建物も背の低いものばかりだった。それでもわたしの住んでいた国の平均的な町と比べても遙かに大きく、商売も盛んであるのか大通りを始めとして活気に満ちていた。
「この町は大きな穀倉地帯をはらんでいるため、近隣の町や区々から多くの行商人が集まります。もう少ししたら本格的な収穫期となるため、それらの買い付けを見越して既に多くのものたちが集まってきているのです」
なるほどと頷き、二頭立ての獣車や四頭立ての獣車が行き交うさまを眺める。中には二角獣の両側に荷物を括り付けたものたち、獣を持てないのか背中に目一杯の荷物を負ったものもいた。彼らはそれぞれの特産品を持ち寄り、その代わりに穀物を持ち帰るのだろう。できる限り利鞘(りざや)を稼ぎ、故郷に錦を飾りたいのかもしれなかった。
そう言ったことをいくつか口にすると、彼女は「そんなところです」と頷いた。どうやら商売人の気概というやつは、ここと地上でさして変わりがないらしい。
「まずは宿を探しましょう。何か要望はありませんか?」
「ない。休めて、腹の足しになるものが出れば良いよ」
すると彼女は獣車を細道へと巧みに流し、やがて一軒の年季が入った建物の前で止める。するとその気配を察したのか、線の細い男性が現れて、商売っけのある笑顔を見せた。
「おや、貴女様は」男性は彼女を見て名前を聞くことなく、より親しげに近付いてくる。「獣車は小屋に収めておきます。部屋はいつもの一人部屋で?」
「今回は二人部屋をお願いします。連れがいるので」
「かしこまりました。案内させますよ」
彼女はてきぱきと宿泊の首尾を整え、それから御者台を降りて金子の入った袋を持ち、主人らしき男性に支払った。
「金での支払いとは珍しいですね」
「色々と事情がありまして。まあ、金はどこでも安定してますし、即決できますから、長旅にはうってつけなのです」
「それなら魔法銀などの稀金属のほうが良いと思いますけどね。ときに長旅とは、今回は本の買い付けではないので?」
「海を越えます」
そう言うと、宿屋の主人は小さく口笛を吹いた。そして何か問題ごとでもあるのか、どこか陰りのある表情を浮かべた。
「まあ立ち話もなんです。客が集まり出すにはまだ時間がありますから、宿泊の準備が終わったらお話しましょう」
彼は受け取った金を懐に入れると、わたしたちを中に案内する。一階は食堂兼酒場となっており、客は疎(まば)らながらも食事と酒と煙草の匂いがぷんと漂っていた。あるいはこの宿を長く続けてきたうちに染み着いた匂いであるのかもしれなかった。
わたしたちが通されたのは、三階の角部屋であった。日当たりが良いのか湿った感じはなく、二つの寝台と洋服棚、小さな鏡台が並べられただけだが、質素で居心地の良い部屋であった。
「では、わたしが話を聞いてきますので、ここで休んでいてください。あるいは町の喧噪(けんそう)が気になるのであれば、疲れない程度に回ってきても構いません。ただしこの時期ゆえ、柄という点ではあまりお勧めできませんが」
わたしは特に面倒を起こす気などなかったし、人々の喧噪もそれなりに見たことがあった。それに獣車に揺られるのは意外と体力を消耗するものであり、わたしは寝台に身を投げ出し、ただゆっくりと眠りについた。
目が覚めると辺りは真っ暗で、鏡台を書き物机にして綴りものをしている彼女がいた。
「わたしに遠慮せず、灯火でも何でもつければ良いのに」
「夜目が利きますから、星一粒程度の光があれば良いのです。魔界の夜は星や月を伴いませんが、人の営みはそれ以上の光を必ずどこかで生みます。問題ありません」彼女はそう言うとわざとらしく筆を置き、重い息をついた。「わたしたちは今後の進退について話す必要があります。食事の前に少しだけ時間を頂けないでしょうか」
「別に畏まらなくても良いよ。話したいことがあるならば、率直に言えば良い」
「強盗団、妖獣(ようじゅう)、それに海獣(かいじゅう)です」彼女は何やら不穏な響きがするものをいくつも並び立てた。「わたしが定期的に、取引のために訪れる本の町があります。そこから町を三つほど越えると港のある大きな市街に辿り着くのですが、その間のどこかで強盗団に襲われたものが、また強力な妖獣に襲われたものがいるそうです」
「それは、どちらも危険なものなのかい?」
「本の町にすぐ引き返せるならば、強盗の被害に遭ってもある程度の金子を信用で借りて再挑戦することができます。だから強盗団は遭遇の仕方によってはそこまで致命的ではありません。妖獣については、実は目撃証言がかなりあやふやでして、存在するかは分かりません。しかし人を食らう獣が現れるという噂は、人口に膾炙しているようです」
「つまり、引き返した方が良いと言うことかい?」
彼女は小さく頷き、そのまま俯いたままでぼそりと呟いた。
「申し訳ありませんが、お一人で獣車を操り、帰っていただくことになります」
「それは、どうしてだい?」一人で獣車を操るなどできるはずもなく、わたしは戸惑いに任せて強く訊ねていた。「一緒に戻れば良いだろう。事情を話せば主も分かってくれるのでは?」
「地上の賓客を(ひんきゃく)何としてでも水晶宮まで連れていくこと」彼女の言葉は怜悧(れいり)に放たれ、わたしの鼻先に切っ先を据えるかのようだった。「果たすまではいかなることがあろうとも戻ってきてはならない。それが命令ですから破ることができないですし、圧して戻れば」
彼女は主への些細な悪口だけで、身を焦がすような苦しみを受けていた。きっとただでは済まないのだろう。
「では、どうすれば」良いのか問おうとして、わたしは口を噤んだ。そのことを決めるのはわたしなのだ。彼女は主命に鎖されているから、己だけでは何もすることができない。「少し考えさせてもらえないだろうか」
「御意」彼女は決断が遅いわたしを責めることなく、無表情のままに頷いた。「では、食事にしましょう。腹が減っていては何もできません」
わたしは促され、一階の食堂に降りる。天井から下がったランプ、各テーブルに置かれた蝋燭(ろうそく)で、夜にも関わらず中はそれなりに明るく、大雑把で豪快な料理がひしめき、むせ返るような酒の香りがした。わたしが知るいかなるものとも違う、しかし一嗅ぎで酒と分かる代物だった。
農産地であるためか、パンは柔らかく甘みを含んでおり、雑多の肉と野菜が放り込まれたスープはそれだけで胃の中が満ちそうなおかずだった。そして発泡酒のなみなみと継がれた杯が二つ。わたしはこれまで数えるほどしか酒を飲んだことがないし、そのために乱れたことなど一度もない。しかしいま、匂いの促すまま一気に杯を傾けていた。これまでの鬱憤を晴らしたかったのか、あるいはこの場が醸す解放感に負けたのか。おそらく理由などどうでも良かったのだろう。わたしは大いに食べ、そして飲み、場の狂騒に進んで呑まれた。顔が赤らむのを感じ、欠けた歯の多い並びを堂々と曝すことさえ厭わず、大声で笑った。わたしは新たな堕落を愉快に貪っていた。そうしながら心の奥で、なるほどなあと思う。笑い、楽しむことは確かに堕落へと繋がる。あるいはその気持ちを抱いた時点で既に堕落なのかもしれない。
しかしそのために魔界へ堕とされた経緯のある彼女は、まるで絆されることなく黙々と食事や酒を口に運び続けていた。
「どうしたんだい? そんなにむっつりとして。笑いを知ったから堕落したんだろう? だったらせいぜい、笑わないと損だよ」
「今のわたしは笑えるような状況ではありませんから」
どうしてと問いかけ、彼女の身がわたしの進退一つにかかっていることを思い出した。わたしは先程までの煩悶が嘘のように、実にあっさりと答えていた。
「心配しなくても良いよ。強盗も、ましてや妖獣なんて出くわしはしない。何とかなるさ」
「それだけではありませんよ。航路では海獣に襲われて船が沈没するという現象が、少なからぬ頻度で起きています。これは現実にこの町まで伝わっている災害です」
「大丈夫だよ。全部、大丈夫だ」わたしは何だか気持ち良くて、全てが理想的に上手くいくという気がしていた。だからあっさりと安請け合いをした。「行こう、神のおわす宮まで。そうすれば、お前の契約も終了するし、あんな主から逃れる術も見つかるかもしれない」
わたしがそう請け合うと、彼女は黙って酒を飲み干し、音がするほど強く杯を置いた。
「信じましょう。どのみち信じるよりほか、わたしにはないのです」
彼女の目には強い決意が浮かんでいた。わたしは酒の力を借りてさらりと受け止め、真正面から笑んでみせた。
わたしは今まで読んでいた本を壁に叩きつけた。それでも怒りが収まらず、机に積んでいた本を一気に払い落とし、奇矯な声をランプの煌々と光る部屋にまき散らした。
あまりにも何も入って来ない。魔界の文字を読み下すため、翻訳の魔法を常に行使しているためだろうか。魔力の消費量は少ないのだが、常に魔力を放出し続けているのは神経に障る。かねてから身を苛む膝の痛みよりよほど酷かった。
欠け落ちた歯の隙間から声にならない声をあげていると、ドアが慌てて開かれた。
「どうしたのですか?」燃えるような赤髪に黒を主とした魔界の服を身に着けた誘惑者がおずおずと入って来る。彼女はこの惨状にも顔色一つ変えなかった。癇癪(かんしゃく)を起こしたのはこれが初めてではないからだ。「無茶をして寿命を縮めるのは構いませんが、部屋を片付けるのはわたしだということを心に留めて頂ければ幸いです」
「誰も片付けろとは頼んでないよ。そんな本、そこいらに散らかして置けば良いんだ」
意地悪く言うと彼女は僅かに嫌悪を示す。本ゆえに堕落した彼女は、本を粗末にされるのを何よりも嫌うのだ。
「終わったら食べるものを用意しておくれ。湯浴みもしたいから、風呂に湯を貯めるのも忘れないことだよ」
彼女は無愛想な顔でてきぱきと部屋を片付け、そそくさと出ていった。
わたしは何も言わずに見送り、椅子に深く腰掛けて息をつく。たったの数刻、机に向かっていただけだというのに、疲れが酷い。体が軋むし、頭も満足に動かない。初等程度の教本すら満足に読むことができない。老骨の身で新しいことを学ぶのだから、覚悟はしていたけれど、これほど辛いものだとは思わなかった。
このままでは目的の魔法を収得するまでどれくらいかかるだろうか。五行の力一つ身につけるだけで、寿命が来てしまうかもしれない。これまでの功徳を捨ててまで、魔の領域に身を堕としてまで、ここにいるのに、これでは無駄死にしに来たようなものではないか。
「このままでは駄目だ。このままでは……」
全ては無為に来してしまう。弟が興し、遺してくれたものの全てを駄目にしてしまう。法の力を扱う才能がないから、他の力を求めたというのに。ここに満ちる力を会得すれば、弟に負けないほどの優れた導き手となれる。山の力を、寺の力を、偏く世に知らしめることができる。
「わたしは力を得なければならない。そうしなければ、わたしは弟の志を無為にする。わたしは生きなければならない!」
だから死にたくない。弟の遺したものを広めるための、十分な時間が欲しい。
興奮したせいか、胸にちくりと痛みが走った。例の心臓を痛めつける動悸だと気付き、わたしは必死で胸を押さえ、息を整える。やめてくれ、今がそのときだなんて思いたくない。
「死にたくない」わたしは掠れる声をあげ、中空に手を伸ばす。「嫌だ、死ぬのは怖い……」
しばらくすると胸の痛みは少しずつ収まり始め、わたしは必死で呼吸を整え、痛みが去ってしまうまで続けた。そうして落ち着くと、わたしは胸に良くないというのに、冥(くら)い笑いを抑えられなくなった。
「なんということだ。なんと、浅ましい……」弟の意志を継ぐために死にたくなかったはずなのに、わたしは胸に痛みが走ったとき、ただ死ぬのが怖かった。志はどこかに消えていたのだ。「畜生だ……わたしは畜生にも、餓鬼にも劣る」
冥(くら)い呟きが口から漏れる。わたしは何をすることもできず、ただ茫洋(ぼうよう)と食事の到着を待った。
数十分後、誘惑者が夕飯を持ってきた。魔界で良く食されている鳥の肉と野菜を適度に炒めたものに、豆の煮物だ。わたしは無言でそれを受け取るとがつがつ食べた。殺生で得たものを口にすることは禁じられているけれど、構いやしなかった。彼女は老体というものを知らないのか、それとも嫌がらせなのか、固いものも平気で出してくる。わたしは必死で食事を腹に収め、それから湯浴した。熱湯は節くれ立ち、ことあるごとに痛みを放つ膝に多少は効いてくれるものの、夜具に着替えて寝台に身を横たえる頃には、じくじくと蘇っていた。忌々(いまいま)しいことこの上ない。遙か信濃から一人、京にまで辿り着いたときの体力すら、今のわたしにはないのだ。
夜はまだ浅い。もっと本を読み、少しでも学ぶべきだった。しかし疲れた体はわたしの心を容赦なく眠りに誘い、悲しいほどあっさりと屈してしまった。かつて質素に、ただ仏に仕えていた頃の気概すら、わたしの中からは消え去っていた。
どうしてこうなったのだろう。異邦の地にあることの孤独、ままならぬ身への苛立ち、悲願を成し遂げられないのではないかという恐怖で、わたしは嗚咽(おえつ)をもらしそうになる。しかし、乾ききった瞳からは一滴の涙も零れることなく、惰眠がその全てをあっさりと押し流していった。
中興の祖であった弟の唐突な死で、その弟子たちは深い悲しみに包まれた。わたしはその中でただ一人、辛うじて踏み留まり、葬送の音頭を取った。悲しくないわけではなかったけれど、ただ一人の姉弟なのだから、しっかりと送ってやりたいという気持ちが辛うじて勝ったのだ。
離れの塚にその亡骸を埋めてからも、朝廷の使者を始めとして弔問客は続々と現れ、その対応に追われるうち、月日はあっという間に過ぎていった。喪が明けると寺のものたちはようやく、後詰めを定めなければならないということに思い至った。死の直後ではなく、喪が明けてから初めて跡継ぎについて話し合われるということは、翻って弟の人徳を示していると言えた。その反面、取り仕切るものが誰もいないということを意味していた。
弟は多くの弟子を遺していたけれど、その誰もが弟に遠く及ばなかった。空鉢護法や剱鎧(けんがい)護法といった仏法の象徴を操ることはおろか、妖怪や童子の扱いにすらろくに長けていなかった。あるいはそれほどまでに弟の力が破格であったのかもしれない。
わたしは最初、その様子を遠巻きに眺めているだけだった。血の繋がった姉弟であるからこそ、より慎まなければいけないと考えたからだ。古今東西、血を縁にして受け継がれていくものが堕落しなかった例はない。帝の血筋でさえ例外ではなく、だから離れの院にこもり、写経を通して仏の教えを学び、朝夕には寺をぐるりと散歩して回った。雑穀の粥を日に二度、じっくりと噛みしめ、朝は誰よりも早く起きて冷水で身を清める。老境の域ではあったけれど、特に痛むところはなく、歯も数本が欠けている程度で、身も心も整っていた。弟が死んで間もないのに整い過ぎているような気もしたけれど、あまり気にはしていなかった。死は通過点に過ぎず、弟ほどの功徳を積んだものならば、あちら側で困ることなどないと半ば確信していたからだ。
冬が過ぎ、春が訪れていた。山の上だからまだまだ寒いけれど、辺りは生命に満ち溢れ、鳥たちが心地良い囀り(さえず)を辺りに響かせていた。わたしはその日も朝の散歩がてら、弟の眠る塚まで足を運んでいた。といっても弟を偲んでばかりの話ではない。わたしには慰めなければならないものがいたからだ。
その日もやはり、彼女は塚の前でただひたすら神妙に手を合わせていた。妖怪の時間は人間のそれと比べて緩やかだから、祈りも見合ったものとなる。わたしは常々、人間より妖怪のほうが功徳を積むのにうってつけではないかと考えていた。人間の前で口にしたことはないのだけれど、一心にただ祈る姿を見ていると、そう思わずにはいられなかった。
わたしは彼女の祈りが終わるまで、近くの石に腰掛けてじっと待ち続けた。透徹な祈りの中、瞑目して過ごした。どれくらいの時間が経ったかは分からないけれど、彼女はそっと立ち上がり、そうしてようやくわたしの気配に気付いた。
「毎日、お務めご苦労様です」
そう声をかけると、彼女は濃藍色の頭巾を揺らしながら気まずそうに頭を下げた。それから少し迷い、わたしの横に腰を下ろした。
「無為なことだとは分かっているのです」彼女は開口一番、己の行いをきっぱりと、しかし悲痛に否定してみせた。「上人は安らかに逝かれ、その御心は次の階梯に向かわれたのだから」
わたしはその言葉に何も返さなかった。わざわざ理を説くまでもなく、彼女――雲居一輪はそのようなことなど全て承知しているのだから。一輪は弟に仕えていた童子であり、この信貴山にて紫雲の如きその才をふるい、ときには雲に乗って遙か彼方まで使いに出ることもあった。
「生きて死者を哀しむものにとって、貴女ほどの深い祈りを捧げるものがあるのは、とても有り難いことです。わたしのために祈っているのではないと分かってはいるのですが」
一輪はわたしの言葉に沈黙をもって返答とした。元々そんなに折り合いの良い関係ではなかったのだから、ただ側にいてくれるだけでも上出来とするべきだ。実際、数日前まではわたしに気付いた途端、そそくさと逃げ出していたのだから。
その理由は、弟と一輪の、繋がりの強さに起因する。
弟が修練の場としてこの地を選び、若くして数々の護法を遣う僧侶として陰にその存在を示し始めた頃、一輪は寺の門を叩いた。入道を従え各地を転々としていた彼女は風の噂に弟の話を聞き、その人となりを見定めるため、寺の門を潜ったのだ。生粋の武闘派であったから、それは激しい力比べによって行われた。
入道を操る一輪に弟は法力で対抗し、あっという間に調伏してしまったらしい。その力ぶり、何よりも人ならざるものを臆さぬ人柄に、一輪はすっかり心酔し、仕えるようになった。
弟は一輪のことをよくよく信用していたらしい。かつて醍醐帝が病に臥した際、加持祈祷の終わりを示す使いとして彼女を選んだことからもそれはよく分かる。だからこそ、わたしをあまりよく思わないとしても、十分に納得できる。
わたしは弟にとって新たな執着の種であり、一輪にとっては築き上げた関係を横からさらう盗人にも等しい存在だ。だからこそ、わたしは彼女に報いたいのだけれど。実のところ余計なお世話なのかもしれなかった。
じっとりとした沈黙が続くことしばし、珍しいことに一輪のほうから話しかけてきた。その表情にはどこか切実なものがあり。わたしは相対して、彼女の言葉を受け止めた。
「姉君においては、ここをどうするおつもりなのでしょうか」
俄に質問の意図が分かりかね、わたしは鸚鵡返しに訊ねていた。
「どうする、とは?」
「上人が再興されたこの場所を、貴女はどう導かれるのですか?」
一輪の問いたいことが分かり、わたしは小さく首を横に振った。
「わたしはこの場所をどうもしませんよ。弟は優れた弟子を多く残しました。彼らがここを更に盛り上げ、御仏の意で満たしていくことでしょう」
「本当に、そう思われますか?」
一輪の声は猜疑(さいぎ)に満ちており、わたしはほんの僅かだが眉を潜めてしまった。
「相違ありません。わたしは弟の名残りがあるこの地で、流れるままに余生を過ごすのみです」
そしていずれは召されるだろう。口に出さずして己の意志を固めると、しかし一輪は納得していない様子で、顔には苛立ちを露(あら)わにしていた。
「その優秀な弟子どもは、法力をろくに扱うことができず、理解すらしていない。経を諳んじ、教えを説くことはできるかもしれないが、上人には遠く及ばない」
「及ばずとも構わないのではないですか?」怒りに身を任せようとする一輪を宥めるよう、わたしはゆっくりと言葉を紡いでいった。「謙虚に教えを学び、御仏の御心をあるがままに受け入れることができれば、みだりな法力など必要ないとわたしは思います。虚心坦懐でありさえすれば、寺は善く栄えゆくはずです」
「仏の道とはそのように単純で甘いものではない」一輪は吐き捨てるように言った。「祖を喪い、瞬く間に荒れる寺など腐るほどある」
「そうでない所も沢山ありますよ。それに貴女は、まるでここがそうなるような口振りですが、それは弟のことを信用していないと言っているに等しいのではないですか?」
ぴしゃりと言い切り、わたしは一輪の顔をじっと見据えた。少し厳しい言い方であったことは、一輪の苦渋に満ちた顔からもよく分かる。しかしここで退くわけにはいかなかった。彼女の弟に対する拘りや執着を少しでも解き放ち、軽くしてやりたかったからだ。
しかし彼女は、見ようによっては皮肉気な顔を浮かべ、投げ槍に言葉を放ってきた。
「だと、良いんですけどね」
そうしてわたしが止める暇もなく、塚の前から去っていった。わたしはよく分からない気持ちのままに溜息をつき、離れの院に戻るため腰をあげた。
ふと空を見上げると、すっきりとした空に薄く白い雲がかかっていて。わたしは俄に暗澹(あんたん)とした気持ちになった。いつも山頂付近にかかっていた紫雲が、いつのまにか姿を消していると気付いたからだ。
「たまたま、ですよね」
そう口にはしてみたけれど、わたしは漠然とした不安が忍び寄っているのだという思いをどうしても抑えることができなかった。
目を覚ました瞬間から、わたしの心は羞恥心と罪を思う気持ちで満ちていた。ただ堕落していくだけの自分が怖ろしく、それはすぐに強い吐き気となってせり上がってきた。厠に辿り着く余裕もなく、わたしは廊下に嘔吐し、崩れ落ちて激しく噎(む)せた。夜具が汚れ、わたしは使用人を呼ぶための鈴を鳴らした。ちりんちりんと慌ただしく鳴らすことしばし、彼女は慌てた様子で駆けつけ、その惨状と臭いに顔をしかめた。不意に辱め(はずかし)られたと感じ、わたしは彼女の頬を思い切り叩いた。それから床を綺麗に掃除し、夜具の替えを持ってくるよう伝えた。
彼女は深い一礼とともに退出し、夜具の替えと掃除道具を手に戻ってきた。彼女は夜具をつっけんどんに渡すと、黙って床を拭き始めた。
わたしは彼女を怒らせてしまったのだろう。しかし痛痒(つうよう)は覚えなかった。寧ろざまをみろと思った。いつも取り澄まして、無様なわたしを本当は見下しているのだから、これくらいされて当然だ。わたしは作業の音を気にせず、汚れた夜具を着替えてから寝台に横たわり、ゆっくりと目を閉じた。泥のような疲労が押し寄せていたから、すぐにでも眠れると思った。
でも、いつまで経っても微妙に目が冴えたままで。ゆるゆるとした思考があっという間に濃い不安へと変わり、眠りを奪ってしまった。それはたやすく、二度と目を覚まさないのではないかという恐怖へと変わり、わたしは身を縮こまらせた。
死にたくない。わたしは生きて帰りたい。そうして弟の興した寺を、何としてでも盛り立てていくのだ。そのためにはここで力を身につけなければならない。しかも早急に。これまでも漠然と考えてきたことが、今になって激しく形を成し、結実しようとしていた。
いつまでもここにいて、初等の魔道書と格闘していても埒(らち)が明かない。わたしには才能がないのだととうの昔に分かっていた。魔法を司る膨大な体系のうち、ごくごく簡単な魔法を遣うことさえ、身に余るくらいなのだ。灯籠(とうろう)のように光を灯し、夜を払う。家事のために火を熾(おこ)す。些細な用事のために空を飛ぶ。ここであれば小さな子供であってもできることさえままならない。
劇的な転換を行う必要があった。その手段をわたしは既に知っていたけれど、これまで決行はしなかった。法力を扱うことはできなかったけれど、魔法ならば使えるかもしれないという甘い期待がどこかにあったからだ。でも、それは今日で終わりだ。
となれば、彼に掛け合わなければならない。わたしの世話をする彼女の主人であり、わたしをここに住まわせている魔界人に。わたしは体を起こすと、掃除を終えた彼女に声をかけた。
「明日、お前の主人の家を訪れる予定なのだけれど」
いつ頃訪れれば良いのか聞きたかったけれど、彼女はただ俯くように頷いただけだった。
「畏まりました。日が昇りきる頃には起床されていることでしょう」
彼は相変わらず怠惰を貪っているようだ。それならそれで都合もよく、だからわたしは是を返し、布団にくるまった。新たな希望が芽生えたせいか、今度は驚くほどあっさりと眠りにつくことができた。
魔界の統治形態を一言で述べるならば、神権政治である。
といってもわたしの故郷にいる支配者みたく、神の代理人を頂点とした、実際は人間による統治などという中途半端なものではない。字義通り、一柱の神が全てを取り仕切っているのだ。もちろん神の手足となって動くものはいる。しかし全ての最終決定権は神の手の中にあった。皇帝が広大な土地を支配する唐国ですら、そこまでの権力が集ってはいないはずだ。
歴史を勉強している暇はなかったから、魔界がどういう世界であるのかはほぼ使用人である彼女からの知識しかないが、その程度の微々たるものであっても、わたしを驚かせるには十分であった。
魔界にはここ数千年、政治形態の変遷がないのだという。神の威光は減ずることなく、偏くものたちに比喩ではなしに光を与えてきた。いまわたしの頭上にある、強い赤みを帯びた太陽は、魔界神が独力で創り、灯し続けてきたものだ。
それ以前、魔界に太陽は存在せず、闇に満ちた不毛の地であったという。そのためにごく僅かの食糧生産可能な土地を求め、あらゆる類の戦争が絶え間なく起こっていた。その間にも、魔界の住人たちは太陽を独り占めする地上のものたちへ反旗を翻すという野望を抱き続けていた。かつて神々たちの間で勢力を二分する全面戦争があり、魔界の住人たちは敗者の末裔(まつえい)だった。だからいつか強力な王が魔界を統一し、地上に打って出るのだという悲願を持っていた。しかし地上と魔界を隔てる結界は強固であり、その綻びを全て進軍のために使うとしたところで、地上との全面戦争を行うにはあまりにも道が少なすぎたのだ。
いつ果てることなき闘争だけが続いたある日、魔界の王となるべきものは唐突に現れた。神と魔の合いの子となる特別な肉体を持ち、深甚(しんじん)な知識を有し、ありとあらゆる魔法を使いこなすその男は、皮肉なことに倒すべき陣営の種族である人間の精神と魂を有していた。
彼は道が開けることを示し、かくして魔界の住人は地上になだれ出た。地上と魔界の覇権を定める決戦が再度起こったのだ。しかし地上の人間たちの中には、この激烈なる決戦を予期していたものが少数だがおり、それは各地の王やそれに類するものたちであった。当初こそ混乱があったものの、彼らは結束して各地で魔界の住人を打ち破り、邪悪な人間の魔法使いを討ち滅ぼしたのだった。そのときに魔界にいた名だたる魔人のほぼ全てが倒され、魔界の守護者たる暗黒神さえも滅びから逃れることはできなかった。
魔界は生き物すら存在しない、ただ荒れ果て忘れられるだけの世界となるはずだった。しかし一人だけ力を持った存在が生き残ったのだ。
彼女は暗黒神が豊穣の神の娘を誑か(たぶら)し、犯して生ませた子供だった。生まれは忌まわしいが、その出自ゆえ彼女は膨大な魔力と、そして豊穣を与える力を併せ持っていた。彼女は大戦に先駆け、その力に目をつけたものによって召還され、荒ぶるものとして地上を蹂躙しかけたものの、心正しき人間たちによって安らかに封じられた。その結果、大戦を免れることができたのだ。
彼女はただ安らかにいたいだけだった。しかし魔界を維持できるほどの力を持った神が他にいなかった。だから穏やかに暮らすことのできる世界を求めたのだ。
彼女はその魔力を用いて魔界に太陽を掲げた。豊穣の力が込められた光によって作物の育つ土地は僅かずつ広がり、彼女は次に太陽の下で暮らせる生物たちを創った。寿命が十分に長く、争いが起こるほど増えないよう、しかし十分に増えることができるようにした。
そうして長い時が経ち、魔界は数十の町が栄え、活気に満ち溢れる世界となったのだ。いまや遙かに恵まれた土地と太陽を持つ人間たちのほうが悪鬼の如く権力闘争や戦に明け暮れている。何とも皮肉な話であるが、わたしとてそのような悪鬼の一人であり、いまや肉を食らい他者を平気で騙してはばからない。
わたしは地上の人間を笑うことができないし、今は邪なものとして振る舞う必要があった。魔界人はその歴史ゆえ、地上からやってくる魔法使いに強い恐怖を抱いている。地上に満ち満ちた人間が、今度は魔界に押し寄せるのではないかと危惧しているのだ。実際に人間の魔法使いがたまに門を開いて訪れたりするらしいけれど、彼らは知識を渇望し、欲望に忠実であり、穏やかな魔界人にとってはあまりにも気性が激しく見えるらしい。そのような魔法使いこそ魔界を礼賛し、そこに住むものたちに敬意を払っているのだということを知ってさえ、魔界人は地上の人間を邪険に扱うことができないのだ。
右も左も分からないわたしが、だから魔界にあって悠々と生活できているのだった。地上の権力者と懇意であることをちらちらと臭わせていたから尚更のこと、丁重に扱うべき重要人物扱いだった。
しかし、そのような生活も今日で終わりだった。わたしは別荘を渋々提供してくれた魔界人に掛け合い、二角獣の二頭立て獣車(ばしゃ)と御者、それに十分な量の金貨を供出してもらうことに成功した。何とも気前の良いことだと思ったけれど、あとで御者――これまでわたしの世話をしてくれた彼女なのだが――に聞いたところによれば破格で厄介払いできたらしい。
「では、もっとふっかけてやっても良かったのかい?」
「ですね。金は重たいだけで、この魔界では大した価値はありません。わたしには貴女がどうしてこんなものを求めるのか分かりませんでしたよ。何か深い思慮があるのかと判断し、差しで口は慎みましたが」
重大な過ちをさらりと指摘され、わたしは揺れる獣車の中であるにも関わらず、立ちくらみしそうな転倒感を覚えた。
「金は不変であるがゆえ、価値があるのでは?」
「確かに金は安定した金属です。でも、腕の立つ錬金術師はそれなりにいますし、その名の通りに金を作れて一端と言われるくらいですからね。作るのに手間がかかるから、採掘もされるし価値が全くないわけではありませんが、あの屋敷になら金以上に価値のあるものはいくらでもありました」
屋敷にいたときの慇懃さはどこ吹く風で、彼女は実に不遜な様子で、御者席から知識を披露してみせた。
「あなた、驚くくらいに何も知らないのですね。地上から来た魔法使いのくせに」
「そんなこと、お前ならとっくの昔に分かっていると思っていたよ」
「でも、初めて主人の所に通されたとき、凄い技を見せていたじゃないですか。魔力も使わず、物質を宙に浮かべましたよね?」
「なんだ、そんなことかい」あまりにも単純に騙され続けていたので、わたしは腹を抱えて笑いそうになった。「あれは手妻(てづま)だよ。種は明かせないけれど、特別な力は何も使っていない」
「えっと、本当ですか?」
わたしが頷くと、彼女は黒い蝙蝠みたいな羽をぴんと立て、ふるふると震わせた。もしや彼女を怒らせたのか、あるいはわたしを怖れる必要がないと分かって歓喜しているのか。わたしはもしかしたらここで彼女に殺されたりするのだろうか。そう考えるとわたしの心は強く泡立ったけれど、次の瞬間に聞こえてきた笑い声があっという間にかき消してしまった。
「あはは、それは良いですねえ」それだけを言うと彼女は体をくの字に曲げ、必死に笑いを堪えようとした。「わたしの主……もとい、わたしと来たら貴女のことをひっきりなしに怖れ、顔を蒼くしていましたからね。それが何と、簡単な詐術に当てられてのことなんですから、お笑いですよ。散々に騙してきたものが、騙されることに強いわけではないのですねえ」
彼女は悲痛にも思えるほどけらけらと笑い、ようやく落ち着いてから小さく息をついた。
「貴女が地上で得た評判は全て、そのような手妻で得てきたのですか?」
「半分は、弟の功績かね。わたしと違い、弟は真の聖人で、強力な法力をいともたやすく遣うことができた。わたしは弟と違って力も才能もなかったが、同じことができるのだと衆生(しゅじょう)に見せつける必要があったのさ」
弟の築いたものが、あんなにも盤石に見えたものが潰え始めたとき、わたしは老境の身に余るほどの恐怖に駆られた。それが免罪符になるとは思わないけれど、愚かではあったのだろう。全てを話す気力がなかったから、わたしは話をすり替えるため、相手の傷を自覚して突いた。
「あんなにも笑ったというのに、詐欺を働いたのが嫌そうじゃないか。もしかして手酷く騙された経験でもあるのかい?」
肩を分かりやすく震わせたから、図星なのだとすぐに分かった。
「察するに溢れるほどの蔵書を餌として、契約でも結ばされたのかい?」
「……ええ」今度は動揺を見せずに冷たく肯定し、それから大きく溜息をついた。「わたしは、知識故に天を追われました。そのことはご存じですよね」
「ええ、当の主人が誇らしげに話していたからね」強い力を持つ、天の遣いですよ。わたしの自慢の使い魔ですと、彼はことあるごとに吹聴していたから嫌でも耳に入ってきたのだ。「本を嗜む実直が、いかにして堕落に結びついたのだい?」
「異教の本を読み、楽しんだのです」
彼女は地上に唯一を標榜す(ひょうぼう)る神の、数億にも及ぶ使いの一匹である。階梯は厳しく、また力は強いけれど人間よりも不完全な存在であるため、堕落に染まりやすい。しかし彼女は単純に堕落したのではなさそうだった。
「アリストテレス、などと言っても分からないでしょうね。わたしはその本を読み、楽しみを、笑いを知りました。それを上司に見抜かれ、地に堕とされたのです。そうしてたまたまこの世界に迷い込み、最初に手を差し伸べてきたのがあいつ」
蔑称で呼んだ途端、彼女は苦痛に似たうめき声をあげた。彼女が結ばされた契約は、主を過度に不遜とすることを許していないのだろう。
「わたしの、主人でした。彼は他者の弱みを見抜くのがそれなりに上手く、本の虫であることを悟られました。その結果が、この有様ですよ」
彼女は諦観にも似た溜息をつき、言葉を続けた。
「わたしは父に与えられた力を元に、貪るように本を読んで魔法の知識を身につけました。末端も末端でしたから、そこまでの使い手にはなれませんでしたが、主人の護衛に、いざという時の盾になるには十分でした」
「なかなかに物騒な話だね。あの男、敵は多かったのかい?」
「詐欺師ですから。あのくそ……わたしの主人は」
難儀というか、随分と性格が悪い。いまのわたし程ではないけれど、本の楽しみを知らなくても別の方向から堕落したような気がする。それとも堕落したことで更に心を荒ませたのだろうか。だとすると何てことはない。わたしと彼女は相当な似たもの同士なのだ。
そう考えると、これまでの素っ気なさも無礼も不思議と許せるのだった。わたしに欲しかったのは、わたしより駄目なもの、矮小な(わいしょう)ものだったと気付き、心からほとほと高潔といったものが抜け落ちていることに苦笑せざるを得なかった。
「何を、笑っているのですか? わたしの境遇がおかしいですか?」
「わたしはとんでもないろくでなしの破戒僧だなと思ったのさ。全くもって救いようがない」
だからこそ、魔界の神に縋るなんて他力本願しか思いつかなかったのだろう。それでも良いと思った。呆れさせても良い。狂ったように取り乱し、その裾に必死に縋ってやろう。無様だけれど、それでも何もしないよりはましだ。
その決意をほんのりと崩すほど、彼女のつぶやきは暖かかった。
「わたしほどでは、ないと思いますよ」
わたしは鼻を鳴らし、幌の隙間から見える光景に視線を巡らせる。命の息吹すら感じられない赤々とした荒涼の大地。僅かに生い茂る細木や草たちも茶色に痩せこけ、いかにも惨めだった。
「これがあとどれくらい続くのかい?」
「最低でも三日。でもおそらく赤砂が発生しますから、もう少しかかるでしょう。まあ、一週間分の食糧は用意してきましたから飢えることはありません」
「赤砂と言うのは?」
「乾いた土地ですからね。赤い砂を含んだ強烈な嵐がひっきりなしに起こるのですよ。魔力も含んでいて、生命を貪欲に取り込みます。これの予兆が来たら、二角獣たちは数少ない遮蔽物を求めて遮二(しゃに)無二(むに)走り出します。そうして比較的安全な所を見つけると梃子(てこ)でも動きません。そういう風に創られ、また訓練されているのです」
「なるほど、魔界神の恩寵と(おんちょう)いうわけだ」
それならばこの土地をも肥沃(ひよく)にすれば良いと思ったけれど、それはいかに全能的な存在でも難しいのだろう。日本にも雨土や気候を司る神はいるけれど、その力をもってしても民草が飢えるほどの旱魃(かんばつ)を避けることはできない。天候はおそらく神ほどのものでさえ完全には掌握できないのだろう。あるいは可能であっても過度の干渉を避けているのか。
「大きな町があるのは耕作可能な土地の近くだけです。その間は神すら知らぬ空白地帯。ここから魔界神のいる水晶宮までは同じような道をいくつも、そして暗く冷たい海を、越えていかなければいけないのです。生半可では行こうとも思わない道です」
「それでも」わたしは不安を押し殺しながら断言する。「わたしは行かなければならない」
「わたしは主命に従うのみです」
そうしてわたしたちは無言のまま、町と町を繋ぐか細い道を進んでいった。
幸いなことにその赤砂とやらに出会うことは一度もなく、わたしたちは次の町へと辿り着いた。町といってもわたしが仮初めの居を構えていた場所に比べれば随分木訥(ぼくとつ)としており、建物も背の低いものばかりだった。それでもわたしの住んでいた国の平均的な町と比べても遙かに大きく、商売も盛んであるのか大通りを始めとして活気に満ちていた。
「この町は大きな穀倉地帯をはらんでいるため、近隣の町や区々から多くの行商人が集まります。もう少ししたら本格的な収穫期となるため、それらの買い付けを見越して既に多くのものたちが集まってきているのです」
なるほどと頷き、二頭立ての獣車や四頭立ての獣車が行き交うさまを眺める。中には二角獣の両側に荷物を括り付けたものたち、獣を持てないのか背中に目一杯の荷物を負ったものもいた。彼らはそれぞれの特産品を持ち寄り、その代わりに穀物を持ち帰るのだろう。できる限り利鞘(りざや)を稼ぎ、故郷に錦を飾りたいのかもしれなかった。
そう言ったことをいくつか口にすると、彼女は「そんなところです」と頷いた。どうやら商売人の気概というやつは、ここと地上でさして変わりがないらしい。
「まずは宿を探しましょう。何か要望はありませんか?」
「ない。休めて、腹の足しになるものが出れば良いよ」
すると彼女は獣車を細道へと巧みに流し、やがて一軒の年季が入った建物の前で止める。するとその気配を察したのか、線の細い男性が現れて、商売っけのある笑顔を見せた。
「おや、貴女様は」男性は彼女を見て名前を聞くことなく、より親しげに近付いてくる。「獣車は小屋に収めておきます。部屋はいつもの一人部屋で?」
「今回は二人部屋をお願いします。連れがいるので」
「かしこまりました。案内させますよ」
彼女はてきぱきと宿泊の首尾を整え、それから御者台を降りて金子の入った袋を持ち、主人らしき男性に支払った。
「金での支払いとは珍しいですね」
「色々と事情がありまして。まあ、金はどこでも安定してますし、即決できますから、長旅にはうってつけなのです」
「それなら魔法銀などの稀金属のほうが良いと思いますけどね。ときに長旅とは、今回は本の買い付けではないので?」
「海を越えます」
そう言うと、宿屋の主人は小さく口笛を吹いた。そして何か問題ごとでもあるのか、どこか陰りのある表情を浮かべた。
「まあ立ち話もなんです。客が集まり出すにはまだ時間がありますから、宿泊の準備が終わったらお話しましょう」
彼は受け取った金を懐に入れると、わたしたちを中に案内する。一階は食堂兼酒場となっており、客は疎(まば)らながらも食事と酒と煙草の匂いがぷんと漂っていた。あるいはこの宿を長く続けてきたうちに染み着いた匂いであるのかもしれなかった。
わたしたちが通されたのは、三階の角部屋であった。日当たりが良いのか湿った感じはなく、二つの寝台と洋服棚、小さな鏡台が並べられただけだが、質素で居心地の良い部屋であった。
「では、わたしが話を聞いてきますので、ここで休んでいてください。あるいは町の喧噪(けんそう)が気になるのであれば、疲れない程度に回ってきても構いません。ただしこの時期ゆえ、柄という点ではあまりお勧めできませんが」
わたしは特に面倒を起こす気などなかったし、人々の喧噪もそれなりに見たことがあった。それに獣車に揺られるのは意外と体力を消耗するものであり、わたしは寝台に身を投げ出し、ただゆっくりと眠りについた。
目が覚めると辺りは真っ暗で、鏡台を書き物机にして綴りものをしている彼女がいた。
「わたしに遠慮せず、灯火でも何でもつければ良いのに」
「夜目が利きますから、星一粒程度の光があれば良いのです。魔界の夜は星や月を伴いませんが、人の営みはそれ以上の光を必ずどこかで生みます。問題ありません」彼女はそう言うとわざとらしく筆を置き、重い息をついた。「わたしたちは今後の進退について話す必要があります。食事の前に少しだけ時間を頂けないでしょうか」
「別に畏まらなくても良いよ。話したいことがあるならば、率直に言えば良い」
「強盗団、妖獣(ようじゅう)、それに海獣(かいじゅう)です」彼女は何やら不穏な響きがするものをいくつも並び立てた。「わたしが定期的に、取引のために訪れる本の町があります。そこから町を三つほど越えると港のある大きな市街に辿り着くのですが、その間のどこかで強盗団に襲われたものが、また強力な妖獣に襲われたものがいるそうです」
「それは、どちらも危険なものなのかい?」
「本の町にすぐ引き返せるならば、強盗の被害に遭ってもある程度の金子を信用で借りて再挑戦することができます。だから強盗団は遭遇の仕方によってはそこまで致命的ではありません。妖獣については、実は目撃証言がかなりあやふやでして、存在するかは分かりません。しかし人を食らう獣が現れるという噂は、人口に膾炙しているようです」
「つまり、引き返した方が良いと言うことかい?」
彼女は小さく頷き、そのまま俯いたままでぼそりと呟いた。
「申し訳ありませんが、お一人で獣車を操り、帰っていただくことになります」
「それは、どうしてだい?」一人で獣車を操るなどできるはずもなく、わたしは戸惑いに任せて強く訊ねていた。「一緒に戻れば良いだろう。事情を話せば主も分かってくれるのでは?」
「地上の賓客を(ひんきゃく)何としてでも水晶宮まで連れていくこと」彼女の言葉は怜悧(れいり)に放たれ、わたしの鼻先に切っ先を据えるかのようだった。「果たすまではいかなることがあろうとも戻ってきてはならない。それが命令ですから破ることができないですし、圧して戻れば」
彼女は主への些細な悪口だけで、身を焦がすような苦しみを受けていた。きっとただでは済まないのだろう。
「では、どうすれば」良いのか問おうとして、わたしは口を噤んだ。そのことを決めるのはわたしなのだ。彼女は主命に鎖されているから、己だけでは何もすることができない。「少し考えさせてもらえないだろうか」
「御意」彼女は決断が遅いわたしを責めることなく、無表情のままに頷いた。「では、食事にしましょう。腹が減っていては何もできません」
わたしは促され、一階の食堂に降りる。天井から下がったランプ、各テーブルに置かれた蝋燭(ろうそく)で、夜にも関わらず中はそれなりに明るく、大雑把で豪快な料理がひしめき、むせ返るような酒の香りがした。わたしが知るいかなるものとも違う、しかし一嗅ぎで酒と分かる代物だった。
農産地であるためか、パンは柔らかく甘みを含んでおり、雑多の肉と野菜が放り込まれたスープはそれだけで胃の中が満ちそうなおかずだった。そして発泡酒のなみなみと継がれた杯が二つ。わたしはこれまで数えるほどしか酒を飲んだことがないし、そのために乱れたことなど一度もない。しかしいま、匂いの促すまま一気に杯を傾けていた。これまでの鬱憤を晴らしたかったのか、あるいはこの場が醸す解放感に負けたのか。おそらく理由などどうでも良かったのだろう。わたしは大いに食べ、そして飲み、場の狂騒に進んで呑まれた。顔が赤らむのを感じ、欠けた歯の多い並びを堂々と曝すことさえ厭わず、大声で笑った。わたしは新たな堕落を愉快に貪っていた。そうしながら心の奥で、なるほどなあと思う。笑い、楽しむことは確かに堕落へと繋がる。あるいはその気持ちを抱いた時点で既に堕落なのかもしれない。
しかしそのために魔界へ堕とされた経緯のある彼女は、まるで絆されることなく黙々と食事や酒を口に運び続けていた。
「どうしたんだい? そんなにむっつりとして。笑いを知ったから堕落したんだろう? だったらせいぜい、笑わないと損だよ」
「今のわたしは笑えるような状況ではありませんから」
どうしてと問いかけ、彼女の身がわたしの進退一つにかかっていることを思い出した。わたしは先程までの煩悶が嘘のように、実にあっさりと答えていた。
「心配しなくても良いよ。強盗も、ましてや妖獣なんて出くわしはしない。何とかなるさ」
「それだけではありませんよ。航路では海獣に襲われて船が沈没するという現象が、少なからぬ頻度で起きています。これは現実にこの町まで伝わっている災害です」
「大丈夫だよ。全部、大丈夫だ」わたしは何だか気持ち良くて、全てが理想的に上手くいくという気がしていた。だからあっさりと安請け合いをした。「行こう、神のおわす宮まで。そうすれば、お前の契約も終了するし、あんな主から逃れる術も見つかるかもしれない」
わたしがそう請け合うと、彼女は黙って酒を飲み干し、音がするほど強く杯を置いた。
「信じましょう。どのみち信じるよりほか、わたしにはないのです」
彼女の目には強い決意が浮かんでいた。わたしは酒の力を借りてさらりと受け止め、真正面から笑んでみせた。
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