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聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第6話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年11月19日 / 最終更新日:2015年11月19日

白蓮さん前編 第6話
 翌日の朝は実に気持ちの良い目覚めがやってきた。喉が少しだけ嗄(か)れていて怪訝(けげん)に思ったけれど、風邪を引いているようでもない。わたしたちは農作物をたっぷりと積んだ獣車に続いて、町と町を繋ぐか細い道を進んでいく。空の向こう側まで塵一つなく、まるでわたしたちを誘っているようだった。
「何とも良い天気になってくれた。これなら大丈夫じゃないかね」わたしが陽気に言うと、しかし彼女は浮かぬ様子だった。「どうしたんだい、何か気になることでも?」
「いえ……ただ、あまりにもずっと空が晴れているから、気になって。赤砂がこれで四日連続、さっぱり見当たりません。赤砂の頻発も異常ですが、よく考えればこれも十分に異常です」
 御者台に乗っているから顔色は分からなかったものの、声の様子からして憂慮を秘めていることは何となく窺えた。彼女はしばしの沈黙の後、そろりと訊ねてきた。
「ここに来る途中、行商人が話していたことを覚えていますか?」
 残念ながらわたしには覚えているべきことが何かすらも分からなかった。すると彼女は早口でぴしりと言った。
「強盗団の中に、蝶を操るものがいるかもしれない」
 そういえば確かに、そんなことを言ったものがいたような気がする。
「わたしがその使い手なら、一時的に嵐を解いて旅人たちを安心させ、往来が再開したところで、嵐を復活させます。そうすれば一網打尽ですから」
 怖ろしい推論であった。しかもそれなりに的を射ていて、わたしは身震いを隠せなかった。
「気を揉みすぎているのかもしれません。しかし……」
 これらの現象は本当に偶然なのか否か。どちらにしろ一団の気持ちは一刻も早く先へ進むことに傾いていて、もはや修正することはできそうになかった。
 遠くで俄に赤砂の気配が起こり始めたのは、町を出てから数日ほど経った頃だった。唐突な状況の変化に、周りからはざわざわとした動揺が起こり始めた。
「この次の待避所が、まさか強盗団のいる洞窟ってわけじゃないだろうね?」
 冗談めかして訊ねてみると、容赦のない回答が戻ってきた。
「そのまさかです。それにしても、ついさっきまで何の予兆もなかったのに」
 彼女の重い声に誘われるようにして、これまで我関せずだった獣がのそりと起き上がり、愉快そうに歯を剥き出しにした。
「どうやら一暴れできそうな塩梅だ」
 獣の不吉な言葉が的中したと分かるまで、それほど時間はかからなかった。これまでに見たどのような嵐よりも大きな、まるで赤い壁のような代物に、わたしは半ば畏敬すら覚えそうになった。そうして同時に恐怖した。これほどのものを操る相手がいるとすれば、ここにいるものたち全てが束になっても勝てないかもしれない。
「強行突破はできそうにありません。今から洞窟に待避します。本の町で買い付けておいた魔法具、すぐにでも使えるようにしてください」
 ぴりぴりとした指示が走り、わたしは魔法具の入った袋を慌ててつかんだ。
「わたしは行くぞ。この砂であるならば、本性を現しても良いからな」
 獣は獣車を飛び出し、瞬く間に全身が虎のような縞の毛で覆われていく。そうして勇ましく飛び出していったのだが、洞窟の入り口近くで獣車を止めてすぐ、一目散に戻ってきたようだった。暗がりでろくに周りも見えないのだが、荒い息づかいが聞こえてきたのだ。
 よもや既に全員を仕留めたかと期待したけれど、しかし獣からは血の臭いが全くしなかった。だから戦端すら開かれなかったのだとすぐに分かった。
「どうした? 勇んでいたくせに逃げ帰ってきたのか?」
「黙れ!」わたしの皮肉を獣は鋭く押さえた。「お前も魔法使いの端くれなら、この中に満ちるものくらい察しろ」
 その言葉と同時、洞窟の奥からもわりと、蠢く(うごめ)気配を感じた。それだけでわたしにも、ただならぬ存在の中にいることが分かった。
「中には人の気配が一つもなかった。いや、これだけのものがみっしりと詰まっているのだから細かい気配を読みとれないだけかもしれないが。それにしても、それにしてもだ。こんなに濃密な魔力の同胞(はらから)にいて、無事であるとは到底思えない」
 わたしは得も言えぬ怖れにかられ、その正体を確認せずにはいられなくて、巻物を広げて光を生み出そうとした。すると獣は素早い動作でそれを弾き飛ばした。
「馬鹿め! 虫は光に寄ってくる。真っ先に襲われたいのか?」
 ではどうすれば良いのだと、苛々しながら訊ねかけたそのときだった。
 青い光がほう、と灯った。まるでそれが合図であったかのように、光は瞬く間に広がっていき、いつしか洞窟は煌びやかで不気味な色に包まれていた。微かな羽ばたきと共に、光を帯びた鱗粉(りんぷん)が舞い、ひらひらと落ちていく。青い紋様はまるで花のよう、それ以外は乾いた砂漠の色をしていて、まるで荒野に彷徨う魂のようだった。
 一匹や二匹ならば、さぞかし綺麗なのだろう。しかしそれが数千匹、数万匹と飛び交っていれば、それは異なる何かでしかない。
 わたしは膝から力が抜け、崩れ落ちるのを辛うじて我慢していた。勇壮な獣でさえ、震えを抑えることができず、ただ歯を食い縛っていることしかできない。周りからまるで動きがないところからして、他のものたちも概ね同じなのだろう。
 じりじりした状況がどれほど続いただろうか。わたしの耳に、いやもっと深い所に直接、声のようなものが響く。
「老い/死に近いもの/弱きもの/恵みなり」
 それが彼らの総体なのか、どこかに階級が潜んでいて代表者だけが発しているのか。思考するわたしを押しのけるようにして、それらは言葉を頭の中に通してきた。
「前へ/近くへ/こちらへ」
「待て!」わたしは心に直接、言葉を投げかけられているというのに、声でそれを制した。「お前たちの望みはなんだい?」
「死に近づくことだ/お前は死に近い/死にかけている/恵みなり」
「恵みだと? わたしの老いていることが何故、恵みになる?」
「死を知る/死に近づく/望みなり」
 蝶たちは次々と己の気持ちをぶつけてきた。だがわたしにはその願いが俄に信じられず、改めて訊ねずにはいられなかった。
「お前たちは死にたいのか?」
「死ぬべきものゆえに/しかし/死を知らない/死を学ばなければならぬ」
「知れば死ねるのか? それをわたしは教えられるというのか? どうやって?」
「死ねる/教えられる/ただいれば良い/そのままであれば良い」
 わたしには蝶たちが何をしたいのか、さっぱり分からなかった。しかしわたしが老いていること、そこから何かを知りたいのだということは理解できた。他のものはまるで眼中になく、ただわたしだけを求めているらしい。
「折角見つけたのだ/ここまで来た/死を知るために」
 死を知れば、それらはどうなってしまうのだろう。この赤砂が解消され、皆が無事で助かるのだろうか。嵐すら操るほどの生き物なら、十数人ほどの旅人など歯牙にもかけないのではないか。そして差し出されたわたしは、殺されるしかないのではないか。
「死を知れば/ここから去ろう/殺生は避けたい」
「しかし洞窟の中にいるものたちは皆、お前たちが殺したではないか?」
「何もしていない/洞窟の中にいた/騒いで追い立てた/口を塞いだ」
 どうやって、などとは聞くまでもなかった。光の下にはいくつもの死体があり、全てのものが喉をかきむしっていた。おそらく口の中に蝶が入ってきて窒息死したのだろう。そこまで考えたところで、わたしの中に一つの疑問が生まれた。
「死を求めるならば、こいつらの死骸を使えないのかい?」
「死は/しばらくだけ/死だった/死の抜け殻は/ものとなった/ものから/死は学べない」
 それらはおそらく、死がほんの僅かだけ肉体に留まっているのだと説いていた。魂が抜けてしまうからだろうか。
「死に向かって行進を続けているわたしだけが、限りなく近い死を与えられるということか」
 然り。その一言とともに、蝶の全てが一瞬だけ羽ばたいた。それだけで洞窟全体が鳴動するほどの衝撃が走り、わたしは容赦のない選択を迫られた。
「どうしますか?」わたしの耳に彼女の囁きが聞こえた。「抗うか、それとも逃げ出すか」
「どちらにしろ助かるとは思わないね」蝶は殺生を好まないと言ったけれど、望むものを手に入れるためならわたし以外の誰かに狙いを定めてくるかもしれない。それにおそらく、ここにいる全員が蝶の目的を知ってしまったはずだ。彼らがわたしを逃してくれないだろう。
 だからわたしは決意した。本当はただ選択肢がないだけだが、そう考えるのは癪だった。わたしは彼女を手で遮り、洞窟の中へと歩を進め、他のものと十分に距離を取ったところでどっかりと座り込んだ。強盗団のものと思われる死臭がしたけれど、すぐに蝶が放つ甘やかな香りに紛れていった。それらはどうやら死を消すものを全身に纏っているらしかった。
「さあ、準備はできた。蝶どもよ、死とやらを知りに来い!」
 心は全き恐怖で満ちていた。本当はこんなことしたくなかった。誰かに押しつけたかった。でもそれができないから、やるしかなかった。
 最初の数匹が様子を見るように下りてきた。それらはわたしの肌を触覚でなぞり、すると砂漠のような色をしているくせに瑞々しかった羽がみるみる干からびていった。
「これが弱きものの老い/限りなく死に近い/学んだぞ」
 蝶は歓喜に打ち震えるように羽を広げ、すると壁に、天井に止まっていた蝶たちが群をなしてやってきた。それらはわたしの肌を探り当て、隙間なくびっしりと乾いた肌に触覚を這わせていった。服が邪魔だと分かればすぐにはぎ取り、わたしは老骨の醜い体を剥き出しにされ、するとそれらはますますわたしの周りに止まっていった。
 わたしはまるで、極上の蜜を垂らす花のようであった。蝶は夢中で群がり、干からびては身を離していく。一瞬後には別の蝶がそこに止まり、死に限りなく近い老いを学んでいく。最初こそむず痒くてたまらなかったし、神経の奥のほうが盛んにぴりぴりしたけれど、すぐに何も感じなくなった。あるいはそれらの与える感触が莫大すぎて、何も感じられないのだろうか。どちらにしろそれらの洪水のただ中にあって、わたしはただただ静かだった。肉体だけでなく心も開き、惜しげなくさらけ出した。
老い、堕落し、それでもみっともなく生を求め続ける醜さを開いた。お前たちはこれを学びたいのか、本当に学びたいのか。わたしはそれだけを心の中に繰り返していた。
「然り/然り/然り」老いていく蝶たちが一様に肯定する。「体も/心も/朽ち果て/あとはただ死にゆくなり/至福なり/究極なり/終わりなり/ああ」
 蝶たちはわたしに感謝の言葉を繰り返す。醜いものを肯定していく。何百回も、何千回も。それらはあっという間に思考を充たし、わたしは叫び声をあげそうになった。それらは何もかもが莫大すぎる。一個ごとは大したことがないけれど、それらは一群で一つである。ゆえに意志も魔力もあまりに大きく、個人を容易に押し流そうとした。
 このままでは発狂して死んでしまう。それは嫌だった。何としても避けたかった。この莫大な感謝を、ただありのままに受け流してしまいたかった。しかし平静を捨て、欲にまみれたわたしにもはやその術は取りようがなかった。
 口の中にだけは侵入されまいと歯を食いしばったけれど、欠損だらけでは大した力も出ない。やめろと心の中で叫び、しかし蝶たちは罪なき蹂躙(じゅうりん)を止めようとしない。
 やがてわたしの心は蝶たちの思考によって塗りつぶされていった。それらは現在だけでなく、過去の記憶にまで忍びより、多者として容赦なく迫り寄ってくる。無駄なことだと分かっていても、わたしは思い出したくない過去に、駆け込むしかなかった。
 
 
 季節が一つ変わり、二つ変わり、それでも後継者の定まる様子はなく、遅々として進む気配がなかった。それどころか弟の元で教えを請うていた弟子たちがぽつぽつと、寺を去っていった。去るものは追わずといっても、ゆるゆるとした下降の気配は、そこから離れていたわたしにとっても、何だか心苦しく、妙な不安をかき立てられるのだった。
 そんなある日、弟の弟子が何人かでわたしの住む離れの院へとやってきた。彼らは全員が頭を下げて、そのうちの一人がわたしに言った。
「尼公……もとい白蓮様、今日は折り入ってお願いがあり、主だったものを伴い直参した次第です。話を聞いて頂けないでしょうか」
「わたしがここに来て、誰かの話を聞かなかったことなどありますか?」
 そう問うと肯定も否定もしなかったけれど、それでいて彼らは確信を持ったまま黙っていた。もちろんわたしにも彼らの言い方は分かっていた。
「わたしに弟の跡を継げと言うのですか?」
 そのように酷なことはないだろうに。心の中でそう呟くと、わたしは鋭く彼らを見渡した。
「世襲は堕落を生みます。それにわたしはここに来て日が浅い。弟と長い年月、共に学んできたものたちが協力して、今後を決めていくべきではないでしょうか?」
「わたしも……いえ、わたしたちも皆、最初はそう考えておりました」
 彼らはいよいよ平身低頭し、辛そうな顔をした。
「そのたびに、思い知らされるのです。我らがいかに、彼のお方をただひたすら、太陽のように中心にしてきたかを。いまこの寺には太陽がないも同じなのです。それでは如何様にもたちゆくはずがない」
「しかし、わたしとて太陽ではありませんよ。わたしはせいぜい、太陽の光を受けて光る月でしかありません」
「それでも、太陽の名残りを感じることはできます」
「あなたたちは、自らが太陽になろうという気概を持たないのですか? 弟がそのような消極を認めると思うのですか?」
 わたしの問いに答えられるものは誰もいなかった。しかしそれでわたしの道理が通ったわけでも、勝利したわけでもない。何も進んでいないばかりか、深刻な問題がよりくっきりとした陰影を持ち、浮き彫りになっただけだ。
 しばしの沈黙ののち、彼らはそれぞれに重い口を開いた。
「偉大なお方に学んだといっても、我らには何の力もない。どんなに厳しく己を律したとしても、鉢を飛ばすことはおろか、僅かな力を揮うこともできない」
「仏の力を借りることも、妖を調伏することもできない」
「師の威光があってこそ、ここは再び成ったのですよ。鉢を飛ばし、その法力を偏く示したからこそ、近隣のものにも慕われる」
「その全てがなくなれば」
「ここは再び没落するのみです」
 そんなことはないと言い返したかった。お前たちが力を合わせれば、弟亡き後でも立派に寺を引き継ぎ、法力などなくてもやがて大きな信頼を勝ち得ると保証してやりたかった。だがそうするには、わたしの心はあまりにも大きな疑問に満たされていた。だから「考えます」と言って皆を下がらせたけれど、腹の内は半ば決まっていた。

 わたしが後を継ぐことで、寺の凋落(ちょうらく)には一応の歯止めがかけられたようだった。法力はなくとも、長年を仏の側に仕えてきたし、弟から直に手ほどきを受けていたから、書経や説教を通してその教えを説くことは辛うじてできた。弟は寡黙で内向的であり、対して喋ることを厭わないわたしは弟より取っつきやすいとの評判すら受けるほどだった。
 最初こそ法力を求められて手妻を演じる必要があり、心苦しい思いをした。だが近隣の村々を辛抱強く訪れ、仏の教えを分かりやすく聞かせて回ることで、彼らは徐々に胸襟を(きょうきん)開いてくれた。法力などなくても、鉢を飛ばすことができなくても、寺を盛り立てることはできるのだという思いが徐々に、わたしの中で育っていった。
 そのような折である。ある村の近くに、妖が現れた。憔悴(しょうすい)に頬の痩(こ)けた村人が言うには、夜ごとに歌で人を惑わし、攫(さら)って食らうという。わたしはその依頼を快く受けながらも、内心はどうしようという気持ちで一杯だった。
 そんなわたしを励ますように、何人かが前に出て胸を叩いてくれた。
「なあに、妖の一匹程度、我らが打って出れば良いだけのこと」
「彼らは不思議な力こそ持っているが、人間の武器で打ち倒すこともできる。事実、都の外に住み人身を惑わす妖は都度、退治されているというではないですか」
「しかし……」村の近くに巣くう妖が、数を頼みにできないほどの強力なものであるとしたら。「ここは、力のあるものに頼るべきだと思います。そうすることは恥ではありません」
 女であるわたしは、弱ければ力を借りるべきだと容易に考えることができた。しかし男はしばしば武を誇りたがり、自分のことは自分で解決するべきだと考えたがる。そしてわたしは、そんな弟子たちを止めることができなかった。彼らは武器を調達すると、良い知らせをもたらすと口々にもらしながら、妖退治に旅立っていった。
 わたしは寺の守護神である毘沙門様に祈る日々を過ごした。彼らに勝利をお与えください、それが叶わぬならばせめて無事に帰してくださいと、食すら断ち、ただひたすらに祈り続けた。弟のように力はないけれど、心を込めて加持を行った。
 日と月が十度ずつ登り、その夜遅く、弱々しく寺の門を叩くものがいた。門を任されていた僧は文字通り血相を変えており、そうしてただ一言だけを述べた。
「片腕がありません」
 その言葉をわたしはすぐに理解することとなった。ただ一人帰ってきた弟子は右手を肘の下から失っており、何かに啄まれたであろう無惨な痕を示していた。傷口は既にどす黒く、鼻の曲がるような臭いが容赦なく立ちこめていた。その青ざめた顔色を見れば、彼が死の入り口にいることは痛いほどに明らかであった。
「すいません」彼はわたしを見ると、無窮の苦痛に苛まれているというのに、己の過ちを正そうとした。「わたし一人、おめおめと」
「生きて戻ってきたならば、それで良いのです。何ら恥じることなく、自分を責めることもありません。少なくともわたしは決してそのようなことはしない」
 わたしは彼を励ましたいがために、優しい声をかける。それで過度の安堵を覚えたのだろう。張りつめた空気を解き、死の臭いを更に濃くした。しまったと思った時にはもう遅かった。
「夜雀です」彼はそう言った。「夜目が利き、遠方からでもしとめられる射手が、必要です」
 それだけを口にして、彼は逝った。わたしは歯を食い縛り、墓所に亡骸(なきがら)を埋め、経を供えた。その翌朝、憔悴を深めた村人が現れ、頭を地につけて願いを請うた。
「彼らは皆、勇敢でした。しかし……」村人は言葉を絞り、涙ながらに訴えた。「白蓮様は、命蓮様の姉君であると聞きました。ならば妖を沈める力をお持ちのはず。亡くなられたもののためにも、どうかそのお力をお貸し下さいませ。何卒、何卒お願いいたします」
 彼は体面を捨て、ぐりぐりと地に頭をこすりつけた。わたしは彼を何とか宥め、連れをつけて村に帰してから、離れの院で独り息をついた。あのようなことをされては、外のものに退治させるわけにはいかなかった。しかしわたしには妖と戦う術などなく。
 このようなこと、引き受けるのではないと思った。弱音が心のうちに広がり、床に拳を叩きつけていると、不意に覚えのある気配を感じた。慌てて外に出ると、一輪が棘のある表情を含んで立っていた。
「わたしの忠告した通りになっただろう」
「黙りなさい」これまでのわたしであれば決して口にしないような、厳しい言葉が躊躇いもなく出てきた。「ただ眺めていただけのものが、勝手を口にするのではありません」
「わたしは兄(あに)さんに請われ、ここにいた。その彼が死んだいま、本当ならばここにいる謂われすらない。様子を見に来ただけでも特別であると理解して欲しいのだがね」
 その言葉に対するわたしの答えは、老いた拳だった。それは頬に軽く当たっただけであるというのに手の皮が裂け、血で滲んだ。わたしの体はかくも弱いのだと、思い知らされた。
「見ているだけならどこかへ行け。ここにいるな」
「わたしは……」一輪はそこで俄に言い淀み、それから悲しそうに目を伏せた。「村の近くに巣くった妖はわたしが何とかする」
「余計なお世話だ! お前のような、人が死ぬのを平然と見逃すような不信心ものは去れ!」
「お前だって、人が死ぬのを平然と見逃したくせに!」
 一輪の指摘はあまりにももっともで、認めたくなかったものを鋭く突きつけてきて、わたしは何も言うことができなかった。あるいは一輪が得意そうな顔をしていたら、わたしだって勢いに任せて何か言い返せたかもしれない。
 しかしその顔は苦さと痛みをありありと表していて、わたしは悪罵(あくば)の一つもつけず、かといって弟の弟子たちにかけるような言葉を使うこともできなくて。無言のままに立ち去る一輪を、黙って見送るしかなかった。姿が見えなくなってから初めてその愚に気づき、わたしは無駄だと分かっていながら後を追おうとした。
 そのとき胸に刺すような痛みが走り、わたしはあっという間に昏倒した。次に目覚めたときには多くの弟子に囲まれており、わたしは床の中で喘ぐように息をするのが精一杯だった。
「わたしは、どうしたの?」
「心の臓の患いです。命蓮様と同じ症状だったので、よもや貴女まで逝かれるのかと思っておりましたが、こうして目覚められた」
 彼はそれから言葉を続けようとして、咄嗟に口を噤んだ。それでわたしには、何を言いたいのか大体分かった。わたしには何か生きて果たすことがあると言いたかったのだろう。しかしかつて、わたしよりも果たすべきことがあったのに死んだものがいたから。わたしにそのような口を聞けなかったのだろう。それは彼の思慮であり優しさであり、わたしは改めて弟が良い弟子を育てたのだと知った。だからこそわたしの心はより強い苦痛に苛まれた。わたしは彼らを守らなければならないのだ。
 何日かを病床で過ごしたのち、わたしは弟が遺した倉の中を漁り始めた。手っとり早く力を行使する何かの方法を見つけたかったのだ。しかし弟は収集しない性格であり、私物として保管されている本は仏の道を丹念に書き綴ったものばかりであった。もはや手が尽きたと感じたそのとき、部屋の隅に厳重な封印の施された木箱を見つけた。すっかりと古びており、しかも存在を減じるような術が施されていたようで、いまのわたしみたく必死にならなければ目につかなかったであろう。
 わたしは藁にも縋る思いで封を解いた。するとそこには四つに折り畳まれた紙が一枚置いてあるだけであり、とても何かの力を担保してくれるとは思えなかった。失望に駆られて投げ捨てようとしたとき、辺りに煙のようなものが立ち込め始めた。それは中空で震えるように鳴動し、柔らかく固着した。茶と黒を基調とした見慣れない着物を纏い、赤い髪をなびかせ、蝙蝠のような翼を羽ばたかせる彼女はどこから見ても妖である。彼女はゆっくりと地面に着地し、恭しく一礼した。
「御召還頂き、有り難うございます」
 どうみても異国風の顔立ちであるが、彼女には大和言葉が分かるらしかった。
「お前は一体、何者なのですか?」
「誘惑者です」彼女は己の素性をあっさりと白状した。「わたしは力の及ぶ限りで貴女の願いを一つ叶えます。その代償として、魂の自由を戴くのです」
 これまた何とも素っ気ない言い方だった。まるでそんなことをする気などさらさらないとでも言いたげだった。そのことを示すように、彼女は無表情のままに口元を歪めてみせた。
「そんなことを言われて、のこのこついて来る人などいないことは理解しています。まあ副業ですし、余計な労働を囲い込む気などないんです。だからさっさと断って、契約用紙を破って下さい。それでわたしはこの場から消滅します」
 彼女はそう言い切り、わたしの顔をじっと見据えてきた。いかにもこんな馬鹿なことをしませんよねと言いたげであったし、わたしもすぐにそうしようと紙に手を伸ばした。しかしその寸前で、手段を選り好みできる立場にはないのだと気付いた。だから縋るように問うていた。
「何でも一つだけ願いを叶えてくれるというのは本当ですか?」
「わたしの力が及ぶ限りです。契約書を開けるほどなのですから、言葉は精確に使って下さい」彼女は呆れたという表情を浮かべ、補うように大きく溜息をついた。「何が欲しいのですか? まさか不老不死や力なんてものを臆面もなく願おうとしていませんよね?」
「だとしたら、悪いですか?」わたしは恥も外聞も投げ捨て、開き直って訊ねていた。「で、どうなんですか? できますか、できませんか?」
「わたしにそのような力はありません。魔法の使い方を教えるくらいならできますが」
「魔法? それは徳を積み仏に帰依した高僧が用いる力のようなものですか?」
「そうです。もっともより細かく体系化され、一から学ぶことが多少は簡単であると言えるでしょう。学び続ければ、もしかしたら死ぬ前にそこまでの領域に辿り着けるかもしれませんね。もっとも希有(けう)の才能を必要としますが」
 才能という単語を出され、わたしは崩れ落ちそうになった。一生の大半を仏門に過ごしてすら、わたしは法の力をいささかも揮うことが叶わなかったのだ。異なる体系であるといっても、わたしにそのようなものを扱えるとは思えなかった。
「見たところ、貴女にはそれなりの才能があると思います。あの契約書は、高い魔力を備えた存在を集めるためのもので、素養がなければ開けないからです。そういったものの魂は良い実験材料や魔法具に転換できますから。外法ですけどね」
「わたしには、才能がある?」それは彼女が発した誘惑のための甘い言葉であるかもしれなかった。しかし今はそれに縋るしかなかった。「だとすれば、学ぶ環境があればわたしにも? お前はわたしをそこに連れていけるのですか?」
「然り。でも期待はしないことです。それに契約をすれば、貴女の魂は契約主にとらわれます。どれほど学び、どれほど強くなろうとも、だからこそそいういったものをとらえるためにこそ契約というものはあるのです。死ねば貴女は否応なしに魂を捉えられ、永劫(えいごう)の苦しみを味わうことになるかもしれません。それでも良いのですか?」
 彼女の言葉は穏やかな中にも厳しく、その顔から契約というものを忌み嫌っていることが見て取れた。本当にまずい代物なのだろう。それでもわたしは魔法の力を求めるしかなかった。
「死後の全てを捉われても良いのです。わたしは力を身につけなければならない。」
 あるいは彼女に妖を退治してもらうという手もあるかもしれない。しかし寺の周りに現れる妖が一体のみであるという保証はない。他の地で狩られそうになった妖が流れてくる可能性もないとは言い切れない。政情の安定している昨今、武門のものが手柄を立てる数少ない手段の一つが妖退治であるからだ。
 せめてわたしの見える所だけでも守るための力が欲しかった。だから彼女の手を取るしかなかったのだ。
「わたしを魔法の学べる環境へと誘うのです。分かりましたか?」
 わたしは強い決意の炎を込めて、誘惑者を睨みつけた。彼女は何事かを考えていたけれど、やがてわたしに小刀を差し出した。
「ではこの契約書に血で名前を綴(つづ)り、判を押して下さい」
 広げられた紙を前にして、わたしは人差し指に傷をつけ、少し迷ってから生与の名前を綴った。弟から与えられた名前を使うのが躊躇われたからだ。最後に人差し指をぎゅうと押さえつけて判を押した。契約書は特別な反応を示すことなく、誘惑者の懐に折り畳んで収められた。
「では、行きましょう。準備や伝えることがあるのでしたら終わるまで待ちますが」
「いや、いい」わたしは仏の道を捨てて、別の道を歩むのだから。そんなことを誰かに伝えられるわけがなかったし、持っていくものなど何もなかった。「誘惑者よ。わたしを魔法の満ちる世界に誘いなさい」
 彼女はただ御意とだけ言うと、わたしに手を添えた。地に怪しげな黒い渦が巻き、わたしたちはするするとそれに吸い込まれていった。
「混沌の門(カオスゲート)を開きました。少し見当識を失うかもしれませんが、我慢して下さい」
 わたしは小さく頷き、それから決意を新たにする。
 寺の守護者となるような力を得、わたしは必ず生きて帰るのだ。

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