東方二次小説

聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編   白蓮さん前編 第10話

所属カテゴリー: 聖白蓮さん、あなたに仏のお恵みを白蓮さん 前編

公開日:2015年12月17日 / 最終更新日:2015年12月17日

【Interlude】


 ゆえあって翌日の出直しである。
 わたしは今日もわたしでないものになり、今度は寺の前であなたを待ち構える。
 
 朝の遊弋を終えたあなたは寺に戻り、分厚い門を力任せに押し開けようとして、堂々と待ち受けていた二人の存在に気付いた。一人は聖の船を追いかけていた白黒の魔法使いであり、もう一人はシックな服装を身に帯びて、肩にちょこんと人形を乗せていた。
「あら、魔理沙さんですね。隣の方は、同業者さんかしら」
 あなたは人形を持った女性の正体を見抜き、初対面だというのに親しげに話しかけていた。
「初めまして。魔理沙さんから話を聞いているかもしれませんが、わたしが白蓮です」
「アリス・マーガトロイドです」
 あなたとアリスは握手をし、するとあなたは少し残念そうに眉を下げた。
「折角来てくれたのは嬉しいのですが、今日は妖怪の山に少しばかり用事がありまして。お相手できそうにありません」
「ふむり、まあ約束もなしに訪れれば、たまにはそういう日もあるかな」
そう言って魔理沙はアリスに申し訳なさそうな視線を寄せる。
「それじゃ、また出直してくるぞ……って、アリス?」
「ええと、うん……」アリスは曖昧そうに首を横に振ると、あなたの顔をまじまじと見据える。「どこかで会ったような、そんな気がしたものですから。でも貴女が義母の宮殿を訪れたのは、千年も前なのですよね?」
「そうですが、義母と言われますと?」
「わたしは魔界に縁のあるものでして。貴女の名前を義母から何度か聞いたことがあるのを、最近になって思い出したんです。だから魔理沙に案内してもらったんです」
「なるほど、アリスさんは魔界の出身なのですね? もしかして、義母というのは神綺さんのことですか? あの方には以前、非常にお世話になりました」
「やはり、義母の語ってくれた白蓮さんと同一人物なのですね。といってもわたしは物心がついて百年くらいですから、千年も昔のことなんて知っているはずがありません。義母の語りと実際の記憶をごっちゃにしているのかもしれませんね」
 二人は何やら訳の分からない会話を交わし、それからアリスが大きく首を横に振った。
「すいません、先程のことはどうか忘れてください。とまれ、わたしは貴女に興味がありますし、かつての魔界のことを知りたいとも考えています。また時間があるときにでも当時のことを語って頂ければ幸いです」
「いつでも好きな時にいらして下さい。今日のように寺を空けて留守かもしれませんが」
「あと、魔理沙が押しかけてすいません。封印が解けたばかりだというのに手を煩わせて」
「いえいえ。魔理沙との手合わせは良いリハビリになります」
「むむむ、リハビリ……か」
 魔理沙は本気で相手されていないことに悔しさを滲ませ、あなたをびしっと指差した。
「いいぜ、力の差は歴然、それは認めよう。しかしいつかは本気を出させてみせるからな!」
「期待していますよ」あなたが余裕を滲ませて言うと、次いでアリスに視線を寄せた。「宜しければアリスさんとも一度、手合わせしてみたいものです」
「では魔理沙と戦って疲れたところを狙います」
「おい、そこは二人の力で勝利するとか、そういうことを言う場面ではないのか? 遺憾の意を表明するぞ!」
「調子に乗らないの」
 アリスは魔理沙にでこぴんすると、別れの挨拶とともに空を飛んで帰っていく。魔理沙も箒に乗り、慌てて飛び出していく。あなたはその様子をくすくすと笑いながら最後まで眺めていた。いよいよ姿が見えなくなると、あなたは門を押し開け、中に入る。それからしばらくして、妖怪の山に向かって飛んでいった。

 その日、あなたは夜遅くまで戻ってこなかった。
 完全なる待ち惚けであった。


【第三話・寅よ! 寅よ!】


 腹の底が灼けつくような吐き気を引きずりながら歩いていた。日差しがやけにきつく、足の裏側が焼けるように熱く、わたしは……そう、水を求めてひたすらに川を遡っていた。しかし、どこまで行っても求める流れはなく、もはやこれまでと挫けそうになったとき、眼前に緑の葉を僅かに残した大樹が見えてきた。
 木を揺らし、落ちてきた葉を噛めば、乾きが少しでも癒えるかもしれない。そんな衝動に駆られてわたしは必死にひび割れた道を走った。すると突如、驚嘆すべき甘美な香りが、鼻の下を過ぎったのである。
 わたしは目が半ば霞(かす)み、それが何だか分からないというのに空腹と乾きと、何よりも心を駆り立てる匂いに促されてかぶりついた。肉を引き裂き、骨を砕き、その旨さに夢中で貪り続け。顔だけになって初めて、わたしはそれが人間であると気付いたのである。
 人間というのは、わたしをどこからか捕まえてきて、鼠を取れと命じてきた種族のことだ。わたしは鈍臭かったから、満足に動けない子鼠や死ぬ間際の老鼠しか捕ることができなかった。周りにいた猫がわたしの分まで働いたから、役立たずであることは人間にばれずに済んだ。彼らは時々美味しい餌を分けてくれたけれど、鼠を食べているからいつも満腹であると考えていたらしく、その量は微々たるものであった。それどころか彼らは定期的に水を浴びせてきた。わたしは大概食いっぱぐれでふらふらしていたから、水を浴びせられるのは大層辛かった。逃げ出したかったけれど、わたしのような弱虫の粗忽ものが野に出て生きられるとは思えず、わたしは空腹を紛らわせるため川の水をごくごくと飲み、辛うじて命を繋いだ。
 その水がいつの頃からかみるみると勢いを失っていった。同じ頃に人間たちは仲間の猫たちを次々とどこかへ連れていくようになった。十匹が五匹に、そして三匹に、二匹となり、そしてわたしだけになった。ある日、一人の人間が乾いた魚の欠片を手にわたしを呼び寄せ、食べようとしたところをすいと引っ込めてわたしを捕まえた。他の猫たちと同じくどこかに連れて行かれるかと思ったのだが、彼は「皮と骨ばかりだ。食べられやしない」と言い捨て、どこかに行ってしまった。人間たちはわたしを食べるつもりだったのだ。そして残りの同胞は肉がついていたから食べられてしまったのだろう。一人残されたわたしは、鼠どころか草もろくに生えてないその場所で生きていることができないと思い、かつて水の流れてきた方向に歩き出したのだ。
 わたしはそこでふと、首を傾げた。どうして人間の言葉を理解できているのだろうか。それだけではない。わたしは筋道立って考えることが可能となっていた。
 わたしは眼前の首だけ人間に視線を寄せた。もしかすると人間を食べればその知恵を身につけることができるのかもしれない。しかもこの身にはいつの間にか力に溢れ、どこまでも駆けていけそうであった。体躯も一回り、二回り大きくなった気がする。
 では、残りを食べればどうなるだろう。ますます賢くなり、また強くなれるだろうか。わたしは飛び散った血を舐めて回り、粗方を腹に収めてから堅そうな頭に鼻を寄せた。
 その時である。緩く閉じられていた目が突如として開き、ぐりぐりとした大きな眼で見据えてきたのである。わたしは吃驚として飛び退き、思わず大きな吠え声をあげた。
 
 わたしは無意識のうちに身を起こし、荒い息をついた。まるで現実のような明瞭さであったけれど、それでいてあれが夢であると分かっていた。何故ならば過去に寸分違わず体験したことであり、またここは命蓮寺の一室であるからだ。ふき替えたばかりの真新しい畳の香りが、わたしの所在を何とか保ってくれたような気がした。
 障子から差し込む光は赤みを帯びており、夕のお務めが迫っていることを示していた。眠気はなかったけれど無性に気怠く、何よりも嗅覚が怖ろしいほど明敏になっている。その鼻は遠く本堂にいるはずの、涎が垂れそうになるほどの香りも正確に嗅ぎとっていた。
 全くの不意打ちであったせいか、在りし日と同じ欲望がぐるぐると頭の中を巡る。否、それよりも更に酷い衝動が、わたしの中で強く形を成していた。
 聖を犯し、喰らってしまいたい。
 おぞましい欲望だった。肉を食べるだけでも酷いのに、その身を辱めたいなどおよそ正気の沙汰ではなかった。強く首を振り、歯を噛みしめ、全力で手を握りしめても、その衝動はなかなか去ろうとしなかった。吠えたくてたまらなかった。誰かを傷つけたり、壊したりしたくてたまらなかった。それも十分にいけないことだが、聖を襲ってしまうよりはましだ。
 もう少しで外に出ようかというとき、強い一撃がわたしの頬を打った。わたしはついかっとなって鼠の耳をしたそいつを殴りつけた。うめき声が耳に心地よく、鼻っ柱を殴って血を流すと舌で執拗に舐めとり、肉にかじりつこうとした。
 そこでようやく、彼女がナズーリンであると気付く。わたしは半ば呆然とした気持ちで赤く青く傷ついた部下を見下ろした。苦しそうであるけれど、いつものように冷静な面持ちであった。
「気が済んだならどいて頂けると助かりますが」
 わたしは慌てて彼女から身を離し、畳の上に正座した。またぞろ説教を食らうと覚悟していたからだ。わたしは彼女の主人であるのだが、身に粗忽を抱えているせいか、だらしのないと時折説教されてしまう。ただし今回はあまりに度を超してしまったから、どのように激しい雷を落とされるか、分かったものではなかった。
 叱りの言葉を覚悟してしゅんとしていると、ナズーリンはただ一言「落ち着きましたか?」とだけ聞いてきた。わたしが小さく頷くと、彼女は微かに微笑みながら「それは良かった」と慰めてくれた。
「怒らないのですか?」
 わたしがおそるおそる訊ねると、ナズーリンは囁くように言った。
「またあの夢を見たのでしょう?」
 長い付き合いであるせいか、それとも持ち前の知性ゆえか。どちらにしろナズーリンには全てお見通しのようであった。
「ならば、しょうがない」
「でも、わたしは」怖ろしいことを考えたと言いかけ、まず話すべきはそれでないと気付いた。「ナズーリンを殴ってしまった。もしかしたら、その身を腹に収めていたかもしれない」
「そうはならなかった。それで良いのですよ」ナズーリンはあくまでわたしを許し、落ち着かせようとしていた。「時に、頼まれものをお持ちしたのですが、後の方がよろしいですか?」
 頼まれものと首を傾げかけ、わたしはナズーリンにお願いしていたことを思い出した。
「どれだけ見つかりましたか?」
「千年も前のことですし、なかなか上手くは。それだけ時間が経てば妖力も増す、あるいは姿形すら変えているものさえいるかもしれません。ご主人に痛めつけられたとすれば尚更のこと」
 しかし何か成果はあったのだろう。その顔はどこか思慮深げであった。
「どうしました? わたしのことを余りにも恨んでいる様子を見せていたとか、そういった事実でもつかんだのですか?」
 だとしたら尚更のこと、わたしはその妖怪のもとに赴かなければならない。しかしナズーリンは素っ気なく首を横に振った。
「あくまでも偵察だけですから。火中に栗を拾いに行くのはわたしの心情ではありません。ただ、一つだけ気になることが」
 そう言って、ナズーリンは一枚の写真を取り出して見せた。わたしも最近になって知ったのだが、天狗や河童には人や風景をまるまる一枚の紙に、しかも瞬時に写してしまう技術があるらしい。外の世界はそれ以上の技術が端々にまで行き渡っているとも聞くし、何とも末恐ろしい時代になったとそのときは思ったものだ。
 その写真はかなり鮮明に、一匹の妖怪を写していた。わたしと同じ妖獣の類であり、九つもの尻尾を惜しげもなく披露している。この幻想郷では厳密に正体を隠す必要がないのか、あるいはその力を誇示しているのか。どちらにせよ、狐で九本というのはいよいよ大妖怪である。金毛白面の妖狐に匹敵する力を備えているか、そうでなくてもかなりの強者だろう。
 わたしはその妖狐の顔をじっと見据える。随分と自信に満ち溢れていたけれど、あの時分にわたしが狩りだした妖怪の一匹で間違いないようだった。あんな目に合わせたにも関わらず、姿形は変えなかったらしい。
「どうやら違いない。ナズーリン、よく見つけてくれましたね」
「彼女、ここでは相当な有名人になっていましたよ。かつてご主人様が彼女を退治したならば、まずいことになるかも」
「まずいこと、ですか? まあ、これほどの立派な尻尾の持ち主ならば、さぞかし力が強いに違いありませんが、わたしとてそうそう後れを取るつもりは」
「ご主人の強さを疑っているわけではありません。わたしが言いたいのは、もしかすると幻想郷最大勢力の一つとの外交問題に発展するかもしれないということです」
 また随分と物騒な話であった。あれだけの尻尾ならば、大きな勢力の頭に収まるくらい余裕であろうと思っていたら、ナズーリンは何とも驚くべきことを告げた。
「彼女はいま、八雲藍と名乗っています。八雲ですよ、八雲。その意味が分かりますか?」
「境界の賢人?」
 八雲紫の噂は天狗の写真機よりも遙かに早く、わたしたちの耳に飛び込んでいた。幻想郷を今の形にした張本人であり、またそれができるだけの力を持った存在であるということ。実を言えば早々、挨拶に伺うべきではないかと、先日の食卓でも話が出たほどである。
「彼女は八雲紫の懐刀であり、ただの妖獣に留まらない不思議な技を使うと聞きました。計算も早く、この世界での戦いにも慣れきっていると考えるべきでしょう。その主人同様、一筋縄でいく相手ではないと考えられます」ナズーリンはそう言って、重いため息をついてみせた。「全く、ご主人と来たらとんでもないものに手を出しましたね」
 そんなことを言われても、彼女が千年経ってそのような場所にまで上り詰めるなどと、あのときからはまるで想像もできなかった。かつての彼女は小狡い手で神仏の力を演出して人々を騙し、食糧や何やらを掠め取るだけのけちな三下に過ぎなかったのだから。その程度のものに、わたしは随分と大人げない仕打ちをしたものだった。
「ご主人は彼女に何をされたのですか? 逆さ吊りにしたとか、その程度ですよね?」
 ナズーリンは希望を込めて訊ねてきたが、それは事実ではなかった。
「全身を爪で引き裂き、尻尾を一本ねじ切った。断末魔の叫び声を上げながら、彼女は這々の体で逃げていった」
「それは、何とも苛烈ですね」ナズーリンは咎めるような視線を容赦なくわたしに向けた。「聖があんな目にあったばかりで、荒んでいたとはいえ、あまりに酷すぎはしませんか?」
「あいつは仏を語り、またその代弁者を語っていたのですよ」
 彼女は実に賢しらに語っていた。しかも捕らえられた聖を馬鹿にするようなことまで、平然と口にしていたのだ。だからこそどうしても許せなかった。聖と別れた日のいくつかの問答がなければ、わたしは彼女を躊躇なく殺していたに違いない。
 でもそれ以外のことはしたし、何よりもわたしはおおよそ許すということから無縁であった。過去を悔いてもしょうがないけれど、でき得る限りの償いがしたかった。だからナズーリンに命じ、わたしが傷つけて放逐した、記憶しているだけの妖怪の情報を教え、探してくれるように頼んだ。飛倉の破片や宝塔の行方を探すよりもよほど難儀であり、身の危険も伴うというのに、ナズーリンは特に難色を示すことなく引き受けてくれた。昔からいつもそうだ。ナズーリンはわたしが困ったとき、いつも側にいて支えてくれる。いかに主命であるとはいえ、わたしのような浅ましくだらしない代理人のために、何とも有り難いことだ。
「しかし困りましたね。そんな相手の前に姿を現したりしたら、何をされるか分かったものじゃありません。狐というものは、猫と鼬の次に鼠をいたぶるのが得意なのですから」
 何かしらの実体験が伴っているのだろう。ナズーリンはぶるりと体を震わせ、それから真剣な顔で提案してきた。
「これは上同士で解決したほうが良い案件ですよ。聖は賢人に面通しする必要があると考えておいでですし、そこでこの件も遺恨なしと締めて頂きましょう。仮にも賢人と呼ばれているものですから、無闇に争いの火種を燻らせる愚を取るとは思えません」
 確かにナズーリンの言う通りだった。あれだけのことをしたのだから、相手はわたしのことを極度に怖れているか、あるいは決して許さないだろう。それを圧して個人同士で決着をつけにいってもことは紛糾するだけに違いない。でも、それで良いのだろうか。
「それは、卑怯だ。わたしはそういうのが、その……」暗にナズーリンのことを卑劣だと言っている自分に気付き、わたしは慌てて言い方を変えた。「何というか、その、苦手でして」
「そうでしょうね」ナズーリンはわたしの発言を予想していたようだ。「わたしからはこれ以上の提案を行いません。そのせいで命蓮寺がどうなろうとわたしには大して関係ありませんから。美味い飯を食べられなくなるのは困りますが、その程度のことです」
 ナズーリンはどこか、皮肉げな笑みを浮かべた。それでいて、実に真摯な問いかけであった。お前が下手を打てば地盤の浅いこの寺は比喩なしに吹き飛ばされるかもしれない。そう、言いたいわけだ。
「信じる道を進んでください。わたしはただ付いていくだけです」
 ナズーリンは調査資料を畳の上にひょいと放り、踵を返す。わたしはその背中に、切々とした気持ちを込めて言った。
「いつもすみません。わたしには報いる術がいつもない」
「見返りならば、既に十分……」ナズーリンはそう言いかけて何故か口ごもり、それから小さく咳払いをした。「主命ですから。わたしはご主人を見張り、もし遺憾あれば報告する。幸いにして貴女は実に善く、千年余りも報告するべきことが何もない。せめて少しは仕事をしなければ、仏に罰を与えられてしまいます」
 その言い様がおかしかったのか、ナズーリンはくすりと笑った。
「ではご主人、夕餉の席で」
 ナズーリンはそそくさと出ていき、わたしは小さく息をつく。聖に比べてこの度量のなさが、憎たらしかった。

 夕のお務めを終えると、食事の匂いに引かれて本堂の食卓が置かれている一室に皆が集まってくる。といっても聖が摂るのは粥と軽い漬物くらいであるし、一輪も似たようなものだ。そして村紗はそもそも幽霊だから飯を食べない。
 ナズーリンは握り飯をいくつかとすまし汁――外では色々と食べているらしいが、ここでは皆に合わせてくれる――を食し、わたしはナズーリンの何倍もの米を腹に収める。そこまで食べる必要はないのだが、がつがつと口にすると時折沸いてくる聖に対する強烈な飢餓感が少しだけ薄れるから、いつもそうしているのだ。
「いつもながら、星の食べっぷりは本当に凄いですね。わたしも拙い腕を振るった甲斐があるというものです」
 どうやら今日の食事当番は聖であったようだ。当時のわたしたちは台所に立たせるなんてとんでもないと主張したのだが、こういうことは平等に持ち回るべきであると言って聞かなかったのだ。最初こそもったいないことだと思っていたけれど、食事のたびにそう感じていたのでは息が詰まるし、結局のところすぐに慣れてしまった。
「良いなあ。わたしもご飯が食べられたら良いのに」村紗は平たいお腹を撫で、小さく息をついた。「何かを食べるなんて感覚、久しすぎてまるで覚えてないのよね」
 わたしからすれば、食欲から解き放たれた村紗のことを羨ましく思えるのだけれど、辛い死と引き替えに手に入れたのだからそれを言うのは酷いことなのだろう。わたしはにへらと笑い、お代わりを所望することで気持ちを誤魔化した。
 村紗はそれから話を変え、実に妙なことを口にした。彼女が封印されていた地底から解き放たれ、それがきっかけでここに集うこととなったのは皆の知るところである。村紗はその発端となった場所に黒き聖なる翼がいたと主張し始めたのだった。賛否交々とした騒がしい議論の末、聖は村紗と二人で地底に下りると宣言しまった。思い立ったら即行動というのは何とも聖らしいことだが、その急かしさがかつて聖を追い込んだことを考えるとわたしは内心、気が気ではなかった。しかし、嬉しそうな様子の聖を見ているとわたしには何も言えなかった。
 それにしてもあの爛漫とした笑顔、瑞々しく柔らかな肌具合はどういうことだろう。思わず涎が出そうになり、わたしはその思考の流れに慄然(りつぜん)とする。あまりにも自然に、聖を食したいと考えていた。わたしは食べ過ぎてだるいことを強調し、そろりと食事の場を後にして、本堂から離れた古めかしい倉の前に立つ。村紗の乗る船が地上に吹き飛ばされたとき、砕け散った破片を集めて再建された飛倉である。完全に回収しきれたわけではなく、ところどころ修繕する必要があったけれど、往時の神通力は取り戻されている。これほどの倉を米俵ごと浮かべ、幾里をも越えて持ち運ぶなど、しかも与えられた力が千年も衰えないなど、何ともはやな聖遺物である。聖の弟である命蓮様の力がいかに強かったかを、この建物は否応なくわたしに知らしめるのだ。
「だが、多くのものを救った善意の力が間近にあったゆえ、聖は己の無力を悩まれた」
 善意さえも時に誰かを傷つけることがある。そして聖は余りにも善良すぎたため、結果として多くのものを怯えさせ、怖がらせた。ままならないものだと思う。
「聖ほどのものでさえ、一人で全てを貫き通すことはできない。だからわたしがもっとしっかりしなければいけないのに」
 実際には聖を己の欲で蹂躙したいのだ。わたしは猛る気持ちを抑えきれず、寺を飛び出すと離れた場所で思い切り吠えた。その高き音は夜天に通じ、邪な欲望とともに星々の彼方へと消えた。これで良いと頷き帰途に着こうとすると背後に気配を感じ、慌てて振り向く。そこには一輪が、入道を遣うための輪を構え、厳しい表情を浮かべていた。
「どうしたんだ、まるで獣のように」
「わたしは獣ですから。時には声を上げたくなるときもあります。別に害のある行為でもないと思いますが」
「ふむ、そうだね」一輪は輪を下ろしてからわたしの顔をじっと覗き込み、小さく頷いた。「姐さんがわたしを遣わしたんだよ。星の調子が悪いようだから、見て来て欲しいと」
 一輪の言葉にわたしはかっと顔を赤くした。鷹揚としているようで、聖は全てを見通されていたのだ。もしかするとわたしの心まで見抜いていたのだろうか。わたしが一輪の顔からそのことを間接的に読みとろうとすると、彼女は厳しく表情を引き締めた。
「姐さんは他者のためなら自分のことをいくらでも犠牲にできる御方だ。そのことは貴女にも分かっているはずだ」
 わたしは苦々しい気持ちとともに頷き、一輪は厳かに言葉を続ける。
「わたしだけならばいくら謗られても良い。姐さんに万が一の時があれば、そのような目に合わせる奴がいたら、どんな奴が相手でも遠慮なく力を揮うだろう。でもね、わたしは貴女のことも気に入っているんだ」
 一輪にまで自分の心根を見透かされていると知り、わたしはいよいよ俯くしかなかった。
「わたしは獅子身中の虫だ」獅子の癖にその中に潜む虫だなんて、皮肉にも程があった。でもその表現はどうしようもなく正しかった。「わたしは単なる獣に過ぎない。どこまでいっても浅ましく牙を向く。わたしはきっと聖の側にいてはいけないのだろう」
 思ってもいないことばかりが口をついて、堪らなかった。もういっそのこと、寺から離れて一人暮らすべきかもしれないとさえ思った。寺の護りは一輪と村紗がいれば良いし、ナズーリンに陰働きを頼むこともできるはずだ。考えれば考えるほど、わたしはいなくても良いのだという気持ちが強くなる。
 縋るように一輪を見ると、彼女は大きく首を横に振った。
「そのように冥い気持ちで身を固めてはいけない。そういう気持ちでいると、それこそ大事なものを平気で傷つけたりする」
 やけに確信めいた言い方だった。かつて一輪もそのために誰かを、おそらくは聖を傷つけたのだろう。一輪は今も昔も時折、聖に対してとても辛そうな視線を向けるから何となく察することができた。
「それに姐さんが飛び出した貴女を放っておくはずがない。どこにいても駆けつけて、説得にかかるだろう。彼女はそういう御人なのだし、そのような人物に仕えているからには、理由もなしに出奔できるなどと考えないことだ」
 一輪は頭巾に手を乗せ、気恥ずかしそうに付け足す。
「貴女は聖に寵愛されているし、寺の守護者である毘沙門様にも信頼されている。己の欲程度に負けるはずがないと思うけどね」
 そうして一輪はぷいとそっぽを向き、囁くように言った。
「わたしはかつて、大事な人を二度も護れなかった。だからこそ次は護りたいのだ。わたしを快く許してくれた姐さんのために。でもね、最近はそんな理由なんて必要じゃないのかなと思い始めてる。強い決意とか願いとか、そんなもの一つもなくたって良いんだと、わたしは思うよ。いたいからいても良い場所、それがあそこなんだ」
 一輪は胸のうちを訥々と語り、頭が冷えたら帰ってこいと残してこの場から去っていく。わたしは一人残され、おそらく沢山の助言を与えられたのに、昇華することができそうになかった。元々そんなに頭の良い方じゃないのだ。彼のものの肉を食らうまでは本当に単なる畜生だったのだから。
 こんなわたしが獣の性に勝てるのだろうか。まるで自信はなかったけれど、一輪はそうであると信じてくれた。そしておそらく聖も。そのためにもわたしはこの気持ちに、誰も傷つくことのない落としどころを見つけなければならなかった。しかし、思いつくものは何もなく。わたしは結局、とぼとぼと帰途に着くほかなかった。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

一覧へ戻る