2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊 幻影都市の亡霊 第1話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊
公開日:2016年10月26日 / 最終更新日:2017年01月05日
何かをしたものほど、何もしていないと言い張るものだ。
特に複雑な機械を壊した時などは。
「これまでずっと、こうすると直ったのよ」豆腐屋のおばちゃんは口角を飛ばしながら力強く主張する。「斜め後ろ四十五度から、こつんと手刀を食らわすわけ。三年前に亡くなった母もテレビの映りが悪くなるといつもこうやっていたの。もちろん、ちゃんと映ったら手を合わせて神様仏様と感謝の気持ちを表したわよ」
どちらにしても罰当たりな話ではある。母親の代から現役のテレビということはかなり長く稼働しているはずなのだが、よくへそを曲げられなかったものだ。
「アニメやドラマが見られなくて子供の機嫌は悪いし、わたしだって今日のニュースすらろくに分からないから、客商売の身としては不便でたまらない。夫は新聞を読めと言うけれど、やっぱりテレビのほうが分かりやすいじゃない?」
霊夢は新聞を隅から隅まで読むのが好きだったから、豆腐屋のおばちゃんの気持ちがあまり分からなかった。テレビが便利な道具であることは重々承知しているけれど、なくて困ったことはあまりなかったりする。現代っ娘なのに珍しいと言われるのが嫌だから口にすることはなかったのだけど。
「明日にでも修理の人を呼ぼうかなと考えていたところだったの。ちょうど良い所に来てくれたわ。やはり日頃の善行って返ってくるものなのね」
自分でそれを言うかと思ったけれど、少なくとも霊夢にはいつものようにサービスしてくれるし、一人暮らしで大変だろうと時々、鍋たっぷりの煮物をお裾分けしてくれたりもする。テレビに手刀は食らわすけれど、決して悪人ではない。
だがしかし、それはそれ、これはこれだ。善悪なる代物など、おそらく神仏は大して重視していない。篤く敬い、奉っているかどうかで全てを決める。だから霊夢にできるのは、供物を捧げてご機嫌をうかがうことだけだ。
近所でお饅頭を買ってきてから神棚に備えると、豆腐屋のおばちゃんを後ろに座らせてからひらにひらにと頭を二度下げ、二拍してからもう一度、深々と。
「博麗神社の巫女、霊夢が直々にお祈り申し上げます。このたびは写し身なる機械への度重なる狼藉、真に申し訳ございません。どうかこの辺りでご勘弁いただけないでしょうか。後ろのものも心より反省しておりますゆえ」
「そ、そうそう。もう調子が悪くなったからといって斜め後ろ四十五度から叩いたりしないからさ。ここいらで勘弁してもらえないかねえ」
ざっくばらんであまり反省の色が見られないのだけど、元々がそういう性格なのだから致し方ない。あとは拝み倒しがどれだけ功を奏するかだ。守矢製の機械はこの手のご機嫌取りが特によく効くとは知られているけれど、ここまで無礼が積もり積もった事例にまで目零ししてくれるかどうかは霊夢にもはっきりとは分からなかった。
無言の時がじりじりと過ぎ、やはり駄目かなと諦めかけたとき、不意にテレビがぶぅんとうなり声をあげた。面を上げ、テレビを見るとざらざらした灰色のノイズに重ねるよう、奇妙な出で立ちをした少女が姿を現した。
機械を動かなくしたのだからさぞかし怒っていると思ったのだが、少女は愉快そうな笑みを浮かべていた。少なくとも腹を立てているようではなさそうだが、それゆえに却って真意が読み辛く、不気味だと感じた。
「仰々しくもの申すから何事かと思って現れてみれば、巫女直々とはたまげたものだ。最近はテレビ一つ動かなくなった程度でも出張るんだね。博麗神社もいよいよ近代化に飲まれ、経営の手を広げ始めたのかな?」
「そんなわけない……もとい、ございません。わたしは博麗の当代として粛々と責務をこなすのみです」
可能な限り畏まったはずなのに、少女はげろげろとまるで蛙のような笑い声をあげ、霊夢の動向をからかってみせる。豆腐屋のおばちゃんは二人のやり取りを見て、半ば目を白黒させていた。
これだから神の相手をするのは嫌なのだと、霊夢は心の中で独りごちる。襲名の始めからずっとこうだ。なまじ偉人の名を継いでしまったから、ことあるごとにからかわれてしまう。画面の奥にいる少女姿の神は特に面倒臭い輩の一人だった。
「敬っては欲しいけど、他人行儀というのは少し寂しいねえ。早苗ほどではないけれど、わたしも今の霊夢のこと気に入ってるんだけどね。こうして顔を合わせるのは守矢の例大祭以来だっけ? 最近めっきりご無沙汰だって早苗も寂しがっていたよ。なにしろその顔立ち、態度、どちらもが往年の……」
「洩矢、諏訪子様」霊夢は神の真名を口にすることで話を遮る。無礼なのは分かっていたが、このままではおばちゃんの前で恥ずかしいことを延々と語りかねない。それだけは勘弁して欲しかった。「今回の沙汰、いかほどに扱われるおつもりでしょうか?」
「それならばどうもこうもないよ。怒りなど最初から抱いてはいないからね。確かに手刀は乱暴だけど、少しでも長く大事にものを使おうという気持ちが込められていることは機械自身も承知していたはずさ」
「それならば、どうしてテレビは止まったんですか?」
「人間風に言うならば寿命が来たんだろうね」そのテレビに映っていながら、諏訪子はいけしゃあしゃあとそんなことを口にする。「人の命に限りがあるように、ものの命もいつかは尽きる。儚いものだね」
半永久的な存在がそんなことを語れば嫌味にしか聞こえないのだが、彼女はそんなことを気にする様子もない。だからこそ長らく神を勤めて来れたのだろう。自分には真似できそうにないなと思った。
「いつもなら持ち直していたテレビも今回ばかりはとどめの一撃となったのだろうね。まあ、かといって気に病む必要はない。むしろ天寿を全うさせたことを誇るべきだ。この頃はちゃんとした寿命を迎える機械のほうが珍しいからね。みんなどんどん新しいもの好きになっている。早苗はそれも悪いことではないと言うけれど……」
再び静止するべきか迷っていたところで、背景のノイズが突然強くなり、諏訪子の姿をかき消していく。
「いよいよ本当に寿命らしい。それではこの辺でお暇することにしよう。このテレビは霊夢の手で手厚く供養してやって欲しい。新しいテレビは明日にでも、河童を遣わせて備え付けさせよう。もちろん無料でというわけにはいかないが、そこは気持ちの分だけ払ってくれれば良いよ。わたしの名に誓って文句は言わせない」
途中まではおちゃらけていたが、最後は威厳をもって真面目に締めてくれた。豆腐屋のおばちゃんは諏訪子の態度に感銘を受けたようで深々と頭を下げ、霊夢は音を立てないよう小さく息をつく。やがて最後のノイズも消え、静寂が戻って来た。
「霊夢ちゃん、ありがとね。お陰で上手く収まったみたいだよ」
豆腐屋のおばちゃんは少し涙ぐんでさえいるようだった。ペットが死んだ時の飼い主の反応に少し似ているのかもしれない。
「今日はまだ用事があるから、終わったらテレビを取りに来るわ。それまでに別れを済ませてもらえると助かるかな」
「供養してもらうんだから、神社まで持って行くよ。それが礼儀ってもんだろ?」
店を空けさせるのが申し訳ないから提案してみたのだが、そこまで言うならば無理に食い下がる必要もないだろう。それに里の中では空を飛んではいけないから、外に出るまでテレビを担がなければならない。鍛えているといってもそれは流石に辛い。霊夢は申し訳なさそうに手を合わせる。
「次に来てくれた時はうんとサービスするからね」
おばちゃんの気の良い笑顔に、霊夢も相好を崩す。面倒なことは基本的に苦手だが、褒められるのが面倒だと思うほどすれてはいないからだ。
買い物を終え、頭の中で晩ご飯の算段を練りながら往来を歩いていると、視界の端に遠子が映った気がした。頭巾を目深に被っていたから確証はなかったし、稗田家の深窓がお供一人つけずに外出などあり得ないから、おそらくは人違いなのだろう。しかし不思議と他人の気がしなかった。育ちの良さというものは頭巾で頭を覆っていても滲み出るものなのかなと思ったが、すぐに別の理由に思い当たる。おそらく先日交わした会話が引っかかっていたからなのだろう。
『三日後に新型パソコンの展示会があるらしいわ』遠子は例によって訪問してきた霊夢には目もくれず画面と睨めっこしていたのだが、唐突にそんなことを呟いた。『昨日まではどこにも掲載されてなかったわ。でも珍しいわね、こんなにも急に、しかも東の里でだなんて。こういう展示会は北の里でやるのが常なのに。それでいつも悔しい思いをしてきたの、霊夢だって知ってるでしょう?』
御阿礼の子だなんて立場でなければ、当の昔に北へ引っ越しているわよと毎月のように聞かされていれば、嫌でも沁みつくに決まっている。しかしそれは叶わぬ夢であると霊夢も遠子もよく知っている。
幻想郷に住む人間には名目の上では職業選択の自由が与えられているけれど、いくつかの例外がある。霊夢が《幻想郷で最も霊力の高い人間》であるから博麗の巫女として選ばれたように、遠子は《御阿礼の子として生まれてしまったから》稗田家当主として幻想郷縁起を紡がなければならない。
『それならば、わたしが代わりに見てこようか?』
せめて現場の活気を伝えれば気も晴れるかと思ったが、遠子は余計に機嫌を悪くしたようで、首をぶんぶんと振り、口元を窄める。まるで駄々をこねる子供のようだなと思った。他の者の前では我侭一つ言わないのに、自分の前でだけは言葉を崩し、同輩として接しようとするのだ。
『霊夢を最先端の機械が展示されている会場に派遣して何が得られるって言うのよ。猫に小判を与えるようなものだわ』
ではどうすれば良いのかと思ったが、霊夢は特に何も反論しなかった。遠子が愚痴を言うのは意見を求めているわけではない。心の錘を一時的にしろ投げ捨て、軽くするためだ。霊夢は職業柄、話を聞いて欲しいだけの人が沢山いることをよく知っている。
『価値が分からなくても小判を拾ってくることはできるわ。確かに機械音痴だけど、パソコンを使えないわけではないのよ』
東の里には未だにリモコンを恐れる年寄りもいる。彼らは離れた場所からボタン一つで画面を切り替えられるのは面妖だと、頑なに古い型を使い続けている。それに比べれば十分使いこなしているはずだ。
『ごめん、ちょっと言い過ぎだった。この話はもうやめにしよう、ね』
遠子は大きく頭を下げ、それで話は終わりとなった。霊夢はそのことが少しだけ引っかかっていた。いつもならしょうがないわねと言わんばかりに機嫌を戻し、代わりに見てきて欲しいと手を合わせながら頼んでくるはずなのだ。
逡巡ののち、頭巾を被った人物の後を追った。仕事柄、気配を消して後を尾けるのには慣れているが、いつもより警戒しなければならなかった。瞬間記憶能力者である遠子なら、下手すれば一瞬でも視界に入ったら気付かれるかもしれないからだ。
ちらちらと観察するうち、遠子に違いないという思いが強まってきた。顔を隠していても歩き方や無意識に現れる癖で分かる。そして彼女は東の里で展示会がよく行われる会場へと向かっているようだった。外出許可は取っていないのだろう。ただでさえ人が沢山集まるかもしれない上、機械の展示会ならあいつらが現れる危険も高い。弾幕決闘がトレンドとなっている現状で、そんな場所に行って良いと許可が出るはずもない。
不意に背筋がちりちりとむず痒くなる。霊感か、別の力かは知らないけど、昔から厄介事が降りかかりそうになると身体に影響がないレベルで妙な予兆が走るのだ。何か良くないことが起こるに違いなかった。
展示場の近くまでやって来ると、遠目に河城の物々しい雰囲気のバンが何台も近付いてくるのが見えた。これから展示用の機械を搬入するのだろうか。告知のタイミングといいなんとも忙しないことだが、常に襲撃の危険があるのだから仕方ないのだろう。まだ開始まで時間があるのか、新しもの好きが列をなしている様子もない。遠子もぐるぐると遠巻きに様子をうかがいながら、機を見て中に入るつもりなのだろう。そう考えて辺りを見回せば、同じような行動を取っている人間が何人か見える。
そのうちの一人がいきなり、道の真ん中に飛び出していった。先頭の車両が慌ててブレーキをかけ、甲高い音が響く。運転手はバンから下りると、飛び出して来た何者かを介抱しようとして近付き……奇妙な声を立ててその場に倒れた。
道の真ん中に飛び出した人物は音も立てず空中に浮くと、聞き覚えのある音をべんべんと鳴り響かせる。その姿はいつの間にか少女の姿となっており、トレードマークである光る糸をかけた琵琶をしてやったりという表情で構えていた。
厄介な奴が現れたなと思った。彼女は九十九弁々、幻想機械解放同盟の中でも最古参にあたるメンバーの一人だ。琵琶から発せられる音を攻防自在に操り、襲撃から騒音被害まで幅広い嫌がらせを得意とする。それだけでも面倒だが、弁々ほか雷鼓に直接指導を受けた付喪神は共通してある特徴を持っている。里中に堂々と現れたのだから警戒して当たるべきだった。
河童たちは事前に打ち合わせをしていたのか一斉にバンから降り、水鉄砲を構える。子供が遊びで使うようなものではなく、当たれば少なからぬ衝撃を覚える代物だ。弾幕ごっこの体裁は辛うじて整えているものの、律儀に決闘をするつもりはないらしい。取り留めのない会話も開始の合図もなく、撃ての号令のもと、豪雨のような水量が弁々に向けて放たれる。
弁々は琵琶をかき鳴らし、あっという間に音の壁を作り出す。水鉄砲の攻撃が激しくなるごと、弁々の音も勢いを増し、琵琶とは思えない強烈なビートが響きわたる。
激しくもやかましい攻防ののち、ぴたりと河童の弾幕がやんだ。どうやらタンクの水が切れたらしい。だが河童たちは三段まで構えていて、二段目の河童たちは一段目と即座に交代し、すぐさま弁々に狙いを定める。相手が疲弊するまでひたすら撃ち続ける戦法らしい。
その目論見は一瞬のうちに打ち砕かれた。
つんざくような音とともに雷鳴が走り、水撃が一斉に弾き散らされたのだ。弁々の右手は弦に添えられておらず、子供をあやす時に使うでんでん太鼓が握られていた。登場までその正体すら認識できなかったのでもしやと思っていたが、やはり譲渡された能力を他にも隠し持っていたのだ。
妖怪は意味によって存在するため、種族由来の力を行使するのが普通だが、意味を取り替えた経験を持つ付喪神にその制約はない。だから本人の能力だけでなく、解放派に所属している面々の力を平然と行使してくる。
河童たちは大半が雷に撃たれ、身動きさえ取れない様子だった。相手が雷鼓でなくても付喪神が出てきたならば、雷撃の使用を警戒しなければならないのにその準備をしていなかったようだった。攻撃だけでも押し切れると侮ったのだろうか。
舌打ちを辛うじて押し殺すと、霊夢は荷物を地面に置き、懐からこっそりと針を取り出す。不意打ちは気が引けるけれど、里の中で妖怪同士に堂々と暴れられるのは示しがつかない。幸いにして弁々ははかりごとが上手く運んだことで気を大きくしており、辺りに気を配っていない。それでも慎重に、少しずつ針に霊力を込め、気持ちを押し殺して無造作に投擲した。針は弁々の右手に上手く刺さり、年頃の少女らしい悲鳴とともに太鼓を取り落とした。弁々は慌てて追い縋ろうとしたが、太鼓は続けて霊夢が放った針の一群に射抜かれ妖力を消失する。弁々は間に合わないと判断してすぐに回収を諦め、霊夢に相対してから琵琶を構え直す。
不意打ちはこれにて終了と判断し、霊夢は弁々と同じ高さまで上昇すると、札を扇状に構える。投げるもよし、結界に転じて防ぐも良し。準備万端であることを示して奇襲の優位が失われたことを示したのだが、弁々はいつもの引き際の良さが嘘のように留まっており、あまつさえ雪辱を果たそうという気概さえ感じられた。
「あの太鼓で河童たちを制圧し、積み荷を奪う予定だったんでしょう?」
計画が崩れたのだから早く撤退しろと臭わせたのだが、やはり戦意を崩す様子はない。妹分の八橋ならまだしも、弁々は気を見るに聡いタイプのはずだ。これだけ言えば十分に理解して適切な行動を取るはずだった。
弁々は無言で琵琶を爪弾き、巨大な五線譜を頭上に浮かべる。どうやらここで仕掛けてくるらしい。いよいよ今日の彼女はおかしいと思ったが、戸惑いを浮かべれば勢いづくのが妖怪という存在だ。霊夢はあくまでも強気に弁々の説得を続ける。
「ここで暴れるのはあんたらの教条に反していないかしら?」
里には解放派が救わなければならないと考えている機械に溢れている。それらに被害を与えないために、里やその周辺では極力暴れないようにしているはずだ。しかも地上に停まっているバンには最新のパソコンが何台も載せられている。ここで弾幕決闘なんてできるはずがない。そう指摘したかったのだが、弁々は不敵に笑うだけだ。
もしかすると彼女は陽動を行っているのではと、不意に思いつく。別働隊が近くに控えていて、自分をここへ釘付けにしたいのだとしたら。それならば五線譜も見せかけだけで、実際に弾を撃ってきたりはしないのかもしれない。
霊夢の予想をあざ笑うように琵琶が爪弾かれ、音符が雪崩のように押し寄せてきた。流れを見切ろうにも一つずつの速度や動きが微妙に異なり、かわすだけでは対処できそうにない。それに霊夢は元からちまちまかわす気などなかった。相手に遠慮がない以上、時間をかけるほど里に被害が出る可能性が高くなるからだ。
弁々を狙って速攻で符を止める。心の中でそう呟くと、霊夢は迫り来る弾幕に対して正面突破を試みる。前方に向けて針を掃射、音符弾を次々と相殺していき、避けきれないと判断した音符は札を円状に展開した結界の盾で打ち返す。物量に対して一点突破、錘のように穴を穿ち、霊夢は徐々に音の流れを突破していく。すると弁々の演奏も激しくなり、音符の勢いが増すとともに琵琶らしからぬ多重音が響き始めた。がんがんと耳を打ち、集中を保つのが難しくなる。それだけでなく通り過ぎたはずの音が跳ね返り、霊夢の側を何度も掠めていく。
「馬鹿! こんな所で山彦の能力なんて使うんじゃない!」
音符を乱反射させたせいで、その一部が地上に向かっていた。この程度の諍いで符を切りたくはなかったが、里の人間に被害が出ることは絶対に避けなければならない。
「夢符「封魔陣」を宣言!」
所持していた符を破り、中に込めた力を解放させる。周囲の妖力を潔斎する白き光芒が霊夢を中心として周囲に広がり、大量の音符を一気にかき消して更には弁々をも押し流そうとする。人ならざるものには効果覿面のはずだが、弁々は微かに怯んだ様子を見せただけで、空に浮かぶ五線譜も未だ健在だ。戦意を崩した様子もない。
「力の使い方を考えなさいよ。それができない頭じゃないでしょう?」
同じ解放派でも下っ端の妖怪や妖精なら、命じられたことしか実行できないだろう。それすらもままならず、命令を忘れて遊び出すこともしばしばだ。しかし弁々は十把一絡げの相手ではない。それなのに勢いづいた妖精のように里で暴れるだなんて、少なくともこれまでならばあり得なかった。むしろ暴走を諫める側に回ったはずだし、実際に威厳をもって叱っているところを何度か見たことがある。
頭の出来を指摘されたのが悔しいのか、それとも他に思うところがあるのか、弁々は口元に苦々しさを浮かべ、弦から手を離す。戦意はまだ残っていたが、継戦の意志はないらしかった。
「確かに柄でもないことをしでかしたわね。攻め時だけでなく引き際も誤るなんて」引き際? と訪ねる前に答えが一斉に姿を現す。河童たちが弁々を取り囲み、険しい顔で水鉄砲を構えていた。おそらく姿を隠して機をうかがっていたのだろう。「祭りにはしゃぐ心なんて当の昔に捨てたと思ったけれど、わたしはどこまで行っても琵琶の付喪神なのね。愉快なことがあれば騒がずにはいられない。傍迷惑なんて言葉も忘れ、盛り上がってしまう」
完全に囲まれているというのに、弁々の口調は余裕に満ちている。こんな状況から逃げ出すなどお茶の子さいさいとでも言いたげだ。そして実際にあっさりと逃げ切ってしまうのだろう。霊夢としてはこれ以上、里に危害を加えないならばそれで良かった。だが手玉に取られた河童たちは当然ながら気が収まらないだろう。
「今回はこの上ないほど失敗したけれど。我々、幻想機械解放同盟は近い内に必ず、その本懐を果たすことでしょう。その日が来るのを楽しみにしていてね」
器用にウインクを飛ばすと弁々の体が揺らぎ、かき消えると同時に浄瑠璃の音が聞こえてくる。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。弁々の語りは徐々に遠ざかっていき、河童たちは水鉄砲をめったやたらに撃つものの、手応えはまるでなく。全てが収まるとともに静寂が辺りを一瞬だけ満たし、すぐに眼下の喧噪へと変わっていく。
決闘を観戦していたであろう人たちはしばしの間、そこかしこでひそひそと話し、あるいは賭けを張っていた胴元と金銭のやり取りをしていたが、すぐに日常へと戻っていった。河童たちはすぐに平静を取り戻し、展示品を会場へと運んでいく。
警察がぞろぞろと姿を現したのは全てが終わった後だった。
風紀紊乱を正し、解放派を始めとした妖怪や妖精の被害にも対抗できる装備を有しているとうたう組織ではあるが、どうにも緊急事態には後手後手に回ることが多い。その装備にしても警棒に申し訳程度の加護を付与した程度のものであり、飛び道具の類は一切渡されていないから、弾幕決闘が流行中の郷では何もできないと言って良かった。どれほど文明が発達し、便利な機械が普及しても、人ならざるものへの脅威を払拭することはできなかったのだ。社会には霊夢のように強い霊力を持つ人間が必要であり、今後もしばらくは変わらないだろうというのが世の趨勢だ。
霊夢にしてみれば役に立たない警察は願ったり叶ったりである。中途半端に戦える力を有していたならば、決闘の間中ずっと周囲に気を配り続けなければならない。そこまで器用に戦えるとは思っていなかった。今日の弁々みたいな相手ならば尚更だ。警察もそのことを根っこでは理解しているのだろう。しかし、いかな博麗の巫女といえど、年端もいかない少女にばかり活躍されることには複雑な気持ちを抱いているのだろう。
彼ら/彼女らの霊夢を見る目は様々だ。子供が荒事に顔を突っ込むのは感心できないと考えるものもいれば、働く女性の象徴だと輝くような視線を向ける者ももいる。もちろんその逆で、女なんて家の中に引っ込んでいれば良いとばかりに冷たい表情や言葉を向ける者もいる。
先頭に立つ隊長はそのどれでもなく、いつも頑張るなあと気さくな、見方によっては若干他人事めいた笑みを向けてくる。霊夢が信用しても良いと考える数少ない大人の一人でもあった。
「今日は随分と派手にやらかしたみたいだな」
おおよその事情は既に把握済みなのだろう。だとしたらいちいち報告する必要もないのだが、隊長は霊夢の口から話を聞きたがった。それ自体はいつものことなのだが、今日の出来事は霊夢のほうでも誰かと共有しておきたかった。
展示会場に向かおうとする遠子を追っていたくだりは省略し、河童たちの仕事を邪魔しようと九十九弁々が現れた場面に偶々出くわしたこと。不意打ちで出鼻を挫いてみたが、いつもと違って撤退する様子がなく攻撃を仕掛けてきたこと。それだけでなく、里に被害の出るような力を考えなしに振るってきたこと。
それから最も大事なこと、最後の宣言について。
「幻想機械解放同盟は近いうちに必ず、その本懐を果たす。彼女……もといあの妖怪はそんなことを口にしたんだね?」
断言代わりの頷きを寄越すと、隊長は腕を組み、考え込む仕草を見せた。
「自信を持って断言できるだけの計画を練り上げたのだろうか?」
その可能性は十分にあり得た。今回に限らず、ここ最近になって解放派のやり口はより嫌らしさを増した。悪戯の延長にあることは変わらないのだが、それまでになかった意地悪さを感じるようになった。もしかすると嫌がらせをすることに長けた、あるいは慣れた何者かを仲間に引き入れたのかもしれない。
完璧な計画なんて、これまでも耳にたこができるほど聞かされてきたけれど、完遂された試しがなかった。いつも穴だらけで涙が出るほど間抜けだった。里の人間が危機感すら覚えず、弾幕決闘を鑑賞していたのもそのためだ。誰が物騒な計画を立てているかは知らないが、きっと雷鼓や九十九の姉妹ではないのだろうと推測された。
「冬場くらい人間と同じようにひっそりとしていて欲しいものだが」
その意見には全くの同感だったが、解放派の妖精や妖怪は冬の寒さを気にする様子があまりない。まるで半ズボンで外を駆け回る子供たちのようなのだ。
「それだけでなく、自然もいつもと調子が違うらしくてね。西の里では最近、連日のように濃い霧が立ち込めているらしい」
それは確かに珍しいことだった。西の里は彼岸に近いためか、東側と比べて湿度が低く、夏場でも霧が立つことは滅多にない。冬になると湖には分厚い氷が張るため、近隣住民がスケートを楽しみによく訪れる。水面下に人魚が泳いでいるのを目撃したカップルは幸せになれるというジンクスもあるらしい。
「荒れることがなければ良いんだけどな」
隊長が言いたいのは天気のことだけではないだろう。不安が重なればそれだけ治安を守る者の心は重くなる。霊夢はそんな気詰まりを払うよう、楽天的に振る舞ってみせた。
「きっと大丈夫よ。霧は直に収まるでしょうし、解放派にしたってこれまでいつも自滅したりへましたりばかりじゃない。今度だってきっとそうなるわ」
そう言って心配そうな隊長を励ましてはみたけれど、内心はあまり穏やかではなかった。遠子を追いかけていた時に感じた背筋のむず痒さが、先程にも増して身を苛んでいたからだ。いま話したことのどれか、あるいはその全てが原因となって、近いうちに災厄としてこの身に降りかかってくるのかもしれない。
「そうだね。注意はするが、気を張ることもないだろう……ところでさっきからお友達が待っているようだね」隊長の視線を追うと、遠子が少し離れた所をうろうろしているのが見えた。「あとはこちらだけで何とかなるから、娘に付いていてもらえると少しは心が安まる。騒乱の種は撤退したけど、安全が保証されたわけではないから」
「あの、怒らないであげてくれませんか?」
危険な場所になる可能性があるから近付くなと念を押していたはずなのに、遠子は約束を破った。二度とこんなことをさせないならばきつく叱る必要があるはずだ。しかし隊長は遠子から視線を外し、何も見つけなかった振りをした。
だから霊夢は無言で頭を下げ、偶然見つけた振りを装って遠子に近付く。
「あれ、遠子じゃない。そんなフードを被ってどうしたの?」
遠子はいきなり話しかけられてあからさまに慌てた様子だったが、すぐに弁解の必要があると分かったのだろう。
「あ、えっと……その、寒いでしょ、耳とか!」
そう勢いよく答え、文句があると言わんばかりに睨みつけてきた。
「そうね、もうすぐ冬だし。わたしも厚手のフードでも買おうかしら」
「え、ええ。それが良いわ。霊夢ったら見ているだけで寒くなるような格好をしているんだもの」更に言葉を続けようとしたけれど何も浮かばなかったらしい。今度は上目遣いで霊夢の様子を窺ってきた。「もしかして例の展示会に行こうとしてたの、ばれちゃってたりする?」
「遠子のお父さんは見なかったことにするって」
「悪かった、反省してるわ。こんな事態になると、考えて然るべきだった。好奇心は猫を殺すし、過去にそれで死んだ乙女もいるって知ってたはずなのに」
「だから見なかったことにしてくれたんだと思う」千数百年の記憶を繋ぎ、今もなお顕現し続けている乙女の賢明さを遠子の父は信じたのだろう。もしかすると娘であっても当代の乙女を叱ることはできないだけかもしれないが。「送っていくわ。危機はもう去ったと思うけど」
霊夢はそっと手を差し出し、遠子は渋々その手を握る。彼女は知識の塊といって良いほど賢いけれど、猫のような好奇心に駆られやすいところがある。逃げ出したりしないとは分かっていても、どこかが繋がってないとまた変な場所に迷い込んでしまわないか少しだけ不安だった。
幸いなことに解放派もそれ以外の災難もやってくることはなく、無事に遠子を屋敷まで送り届けることができた。遠子はじっと俯いていたが、ぼそぼそとした声でありがとうとだけ告げると、早足で屋敷の中に駆け込んでいった。
きっと自分のしでかしたことが恥ずかしかったのだろう。霊夢は未だに収まらない背中の痒さを気にしながら神社への帰途に着く。何か忘れている気もするが、思い出せないならば大したことではないだろうと思い、振り返ろうとはしなかった。
荷物を置きっ放しにしていたと思い出したのは神社に戻ってからしばらくのことだ。夕食の準備を始めるとき調味料を切らしていることに気付き、そこからなし崩しに忘れ物を思い出したのだ。幸いにして親切な人が警察に届けてくれたらしく、いつもより夕食が一時間遅れるだけで済んだ。
夕食を終えた頃には背中の痒さもすっかり消えており、起きてないことを今から悔やんでもどうにもならないと、ひとまずは開き直って日常を過ごすことにした。
特に複雑な機械を壊した時などは。
「これまでずっと、こうすると直ったのよ」豆腐屋のおばちゃんは口角を飛ばしながら力強く主張する。「斜め後ろ四十五度から、こつんと手刀を食らわすわけ。三年前に亡くなった母もテレビの映りが悪くなるといつもこうやっていたの。もちろん、ちゃんと映ったら手を合わせて神様仏様と感謝の気持ちを表したわよ」
どちらにしても罰当たりな話ではある。母親の代から現役のテレビということはかなり長く稼働しているはずなのだが、よくへそを曲げられなかったものだ。
「アニメやドラマが見られなくて子供の機嫌は悪いし、わたしだって今日のニュースすらろくに分からないから、客商売の身としては不便でたまらない。夫は新聞を読めと言うけれど、やっぱりテレビのほうが分かりやすいじゃない?」
霊夢は新聞を隅から隅まで読むのが好きだったから、豆腐屋のおばちゃんの気持ちがあまり分からなかった。テレビが便利な道具であることは重々承知しているけれど、なくて困ったことはあまりなかったりする。現代っ娘なのに珍しいと言われるのが嫌だから口にすることはなかったのだけど。
「明日にでも修理の人を呼ぼうかなと考えていたところだったの。ちょうど良い所に来てくれたわ。やはり日頃の善行って返ってくるものなのね」
自分でそれを言うかと思ったけれど、少なくとも霊夢にはいつものようにサービスしてくれるし、一人暮らしで大変だろうと時々、鍋たっぷりの煮物をお裾分けしてくれたりもする。テレビに手刀は食らわすけれど、決して悪人ではない。
だがしかし、それはそれ、これはこれだ。善悪なる代物など、おそらく神仏は大して重視していない。篤く敬い、奉っているかどうかで全てを決める。だから霊夢にできるのは、供物を捧げてご機嫌をうかがうことだけだ。
近所でお饅頭を買ってきてから神棚に備えると、豆腐屋のおばちゃんを後ろに座らせてからひらにひらにと頭を二度下げ、二拍してからもう一度、深々と。
「博麗神社の巫女、霊夢が直々にお祈り申し上げます。このたびは写し身なる機械への度重なる狼藉、真に申し訳ございません。どうかこの辺りでご勘弁いただけないでしょうか。後ろのものも心より反省しておりますゆえ」
「そ、そうそう。もう調子が悪くなったからといって斜め後ろ四十五度から叩いたりしないからさ。ここいらで勘弁してもらえないかねえ」
ざっくばらんであまり反省の色が見られないのだけど、元々がそういう性格なのだから致し方ない。あとは拝み倒しがどれだけ功を奏するかだ。守矢製の機械はこの手のご機嫌取りが特によく効くとは知られているけれど、ここまで無礼が積もり積もった事例にまで目零ししてくれるかどうかは霊夢にもはっきりとは分からなかった。
無言の時がじりじりと過ぎ、やはり駄目かなと諦めかけたとき、不意にテレビがぶぅんとうなり声をあげた。面を上げ、テレビを見るとざらざらした灰色のノイズに重ねるよう、奇妙な出で立ちをした少女が姿を現した。
機械を動かなくしたのだからさぞかし怒っていると思ったのだが、少女は愉快そうな笑みを浮かべていた。少なくとも腹を立てているようではなさそうだが、それゆえに却って真意が読み辛く、不気味だと感じた。
「仰々しくもの申すから何事かと思って現れてみれば、巫女直々とはたまげたものだ。最近はテレビ一つ動かなくなった程度でも出張るんだね。博麗神社もいよいよ近代化に飲まれ、経営の手を広げ始めたのかな?」
「そんなわけない……もとい、ございません。わたしは博麗の当代として粛々と責務をこなすのみです」
可能な限り畏まったはずなのに、少女はげろげろとまるで蛙のような笑い声をあげ、霊夢の動向をからかってみせる。豆腐屋のおばちゃんは二人のやり取りを見て、半ば目を白黒させていた。
これだから神の相手をするのは嫌なのだと、霊夢は心の中で独りごちる。襲名の始めからずっとこうだ。なまじ偉人の名を継いでしまったから、ことあるごとにからかわれてしまう。画面の奥にいる少女姿の神は特に面倒臭い輩の一人だった。
「敬っては欲しいけど、他人行儀というのは少し寂しいねえ。早苗ほどではないけれど、わたしも今の霊夢のこと気に入ってるんだけどね。こうして顔を合わせるのは守矢の例大祭以来だっけ? 最近めっきりご無沙汰だって早苗も寂しがっていたよ。なにしろその顔立ち、態度、どちらもが往年の……」
「洩矢、諏訪子様」霊夢は神の真名を口にすることで話を遮る。無礼なのは分かっていたが、このままではおばちゃんの前で恥ずかしいことを延々と語りかねない。それだけは勘弁して欲しかった。「今回の沙汰、いかほどに扱われるおつもりでしょうか?」
「それならばどうもこうもないよ。怒りなど最初から抱いてはいないからね。確かに手刀は乱暴だけど、少しでも長く大事にものを使おうという気持ちが込められていることは機械自身も承知していたはずさ」
「それならば、どうしてテレビは止まったんですか?」
「人間風に言うならば寿命が来たんだろうね」そのテレビに映っていながら、諏訪子はいけしゃあしゃあとそんなことを口にする。「人の命に限りがあるように、ものの命もいつかは尽きる。儚いものだね」
半永久的な存在がそんなことを語れば嫌味にしか聞こえないのだが、彼女はそんなことを気にする様子もない。だからこそ長らく神を勤めて来れたのだろう。自分には真似できそうにないなと思った。
「いつもなら持ち直していたテレビも今回ばかりはとどめの一撃となったのだろうね。まあ、かといって気に病む必要はない。むしろ天寿を全うさせたことを誇るべきだ。この頃はちゃんとした寿命を迎える機械のほうが珍しいからね。みんなどんどん新しいもの好きになっている。早苗はそれも悪いことではないと言うけれど……」
再び静止するべきか迷っていたところで、背景のノイズが突然強くなり、諏訪子の姿をかき消していく。
「いよいよ本当に寿命らしい。それではこの辺でお暇することにしよう。このテレビは霊夢の手で手厚く供養してやって欲しい。新しいテレビは明日にでも、河童を遣わせて備え付けさせよう。もちろん無料でというわけにはいかないが、そこは気持ちの分だけ払ってくれれば良いよ。わたしの名に誓って文句は言わせない」
途中まではおちゃらけていたが、最後は威厳をもって真面目に締めてくれた。豆腐屋のおばちゃんは諏訪子の態度に感銘を受けたようで深々と頭を下げ、霊夢は音を立てないよう小さく息をつく。やがて最後のノイズも消え、静寂が戻って来た。
「霊夢ちゃん、ありがとね。お陰で上手く収まったみたいだよ」
豆腐屋のおばちゃんは少し涙ぐんでさえいるようだった。ペットが死んだ時の飼い主の反応に少し似ているのかもしれない。
「今日はまだ用事があるから、終わったらテレビを取りに来るわ。それまでに別れを済ませてもらえると助かるかな」
「供養してもらうんだから、神社まで持って行くよ。それが礼儀ってもんだろ?」
店を空けさせるのが申し訳ないから提案してみたのだが、そこまで言うならば無理に食い下がる必要もないだろう。それに里の中では空を飛んではいけないから、外に出るまでテレビを担がなければならない。鍛えているといってもそれは流石に辛い。霊夢は申し訳なさそうに手を合わせる。
「次に来てくれた時はうんとサービスするからね」
おばちゃんの気の良い笑顔に、霊夢も相好を崩す。面倒なことは基本的に苦手だが、褒められるのが面倒だと思うほどすれてはいないからだ。
買い物を終え、頭の中で晩ご飯の算段を練りながら往来を歩いていると、視界の端に遠子が映った気がした。頭巾を目深に被っていたから確証はなかったし、稗田家の深窓がお供一人つけずに外出などあり得ないから、おそらくは人違いなのだろう。しかし不思議と他人の気がしなかった。育ちの良さというものは頭巾で頭を覆っていても滲み出るものなのかなと思ったが、すぐに別の理由に思い当たる。おそらく先日交わした会話が引っかかっていたからなのだろう。
『三日後に新型パソコンの展示会があるらしいわ』遠子は例によって訪問してきた霊夢には目もくれず画面と睨めっこしていたのだが、唐突にそんなことを呟いた。『昨日まではどこにも掲載されてなかったわ。でも珍しいわね、こんなにも急に、しかも東の里でだなんて。こういう展示会は北の里でやるのが常なのに。それでいつも悔しい思いをしてきたの、霊夢だって知ってるでしょう?』
御阿礼の子だなんて立場でなければ、当の昔に北へ引っ越しているわよと毎月のように聞かされていれば、嫌でも沁みつくに決まっている。しかしそれは叶わぬ夢であると霊夢も遠子もよく知っている。
幻想郷に住む人間には名目の上では職業選択の自由が与えられているけれど、いくつかの例外がある。霊夢が《幻想郷で最も霊力の高い人間》であるから博麗の巫女として選ばれたように、遠子は《御阿礼の子として生まれてしまったから》稗田家当主として幻想郷縁起を紡がなければならない。
『それならば、わたしが代わりに見てこようか?』
せめて現場の活気を伝えれば気も晴れるかと思ったが、遠子は余計に機嫌を悪くしたようで、首をぶんぶんと振り、口元を窄める。まるで駄々をこねる子供のようだなと思った。他の者の前では我侭一つ言わないのに、自分の前でだけは言葉を崩し、同輩として接しようとするのだ。
『霊夢を最先端の機械が展示されている会場に派遣して何が得られるって言うのよ。猫に小判を与えるようなものだわ』
ではどうすれば良いのかと思ったが、霊夢は特に何も反論しなかった。遠子が愚痴を言うのは意見を求めているわけではない。心の錘を一時的にしろ投げ捨て、軽くするためだ。霊夢は職業柄、話を聞いて欲しいだけの人が沢山いることをよく知っている。
『価値が分からなくても小判を拾ってくることはできるわ。確かに機械音痴だけど、パソコンを使えないわけではないのよ』
東の里には未だにリモコンを恐れる年寄りもいる。彼らは離れた場所からボタン一つで画面を切り替えられるのは面妖だと、頑なに古い型を使い続けている。それに比べれば十分使いこなしているはずだ。
『ごめん、ちょっと言い過ぎだった。この話はもうやめにしよう、ね』
遠子は大きく頭を下げ、それで話は終わりとなった。霊夢はそのことが少しだけ引っかかっていた。いつもならしょうがないわねと言わんばかりに機嫌を戻し、代わりに見てきて欲しいと手を合わせながら頼んでくるはずなのだ。
逡巡ののち、頭巾を被った人物の後を追った。仕事柄、気配を消して後を尾けるのには慣れているが、いつもより警戒しなければならなかった。瞬間記憶能力者である遠子なら、下手すれば一瞬でも視界に入ったら気付かれるかもしれないからだ。
ちらちらと観察するうち、遠子に違いないという思いが強まってきた。顔を隠していても歩き方や無意識に現れる癖で分かる。そして彼女は東の里で展示会がよく行われる会場へと向かっているようだった。外出許可は取っていないのだろう。ただでさえ人が沢山集まるかもしれない上、機械の展示会ならあいつらが現れる危険も高い。弾幕決闘がトレンドとなっている現状で、そんな場所に行って良いと許可が出るはずもない。
不意に背筋がちりちりとむず痒くなる。霊感か、別の力かは知らないけど、昔から厄介事が降りかかりそうになると身体に影響がないレベルで妙な予兆が走るのだ。何か良くないことが起こるに違いなかった。
展示場の近くまでやって来ると、遠目に河城の物々しい雰囲気のバンが何台も近付いてくるのが見えた。これから展示用の機械を搬入するのだろうか。告知のタイミングといいなんとも忙しないことだが、常に襲撃の危険があるのだから仕方ないのだろう。まだ開始まで時間があるのか、新しもの好きが列をなしている様子もない。遠子もぐるぐると遠巻きに様子をうかがいながら、機を見て中に入るつもりなのだろう。そう考えて辺りを見回せば、同じような行動を取っている人間が何人か見える。
そのうちの一人がいきなり、道の真ん中に飛び出していった。先頭の車両が慌ててブレーキをかけ、甲高い音が響く。運転手はバンから下りると、飛び出して来た何者かを介抱しようとして近付き……奇妙な声を立ててその場に倒れた。
道の真ん中に飛び出した人物は音も立てず空中に浮くと、聞き覚えのある音をべんべんと鳴り響かせる。その姿はいつの間にか少女の姿となっており、トレードマークである光る糸をかけた琵琶をしてやったりという表情で構えていた。
厄介な奴が現れたなと思った。彼女は九十九弁々、幻想機械解放同盟の中でも最古参にあたるメンバーの一人だ。琵琶から発せられる音を攻防自在に操り、襲撃から騒音被害まで幅広い嫌がらせを得意とする。それだけでも面倒だが、弁々ほか雷鼓に直接指導を受けた付喪神は共通してある特徴を持っている。里中に堂々と現れたのだから警戒して当たるべきだった。
河童たちは事前に打ち合わせをしていたのか一斉にバンから降り、水鉄砲を構える。子供が遊びで使うようなものではなく、当たれば少なからぬ衝撃を覚える代物だ。弾幕ごっこの体裁は辛うじて整えているものの、律儀に決闘をするつもりはないらしい。取り留めのない会話も開始の合図もなく、撃ての号令のもと、豪雨のような水量が弁々に向けて放たれる。
弁々は琵琶をかき鳴らし、あっという間に音の壁を作り出す。水鉄砲の攻撃が激しくなるごと、弁々の音も勢いを増し、琵琶とは思えない強烈なビートが響きわたる。
激しくもやかましい攻防ののち、ぴたりと河童の弾幕がやんだ。どうやらタンクの水が切れたらしい。だが河童たちは三段まで構えていて、二段目の河童たちは一段目と即座に交代し、すぐさま弁々に狙いを定める。相手が疲弊するまでひたすら撃ち続ける戦法らしい。
その目論見は一瞬のうちに打ち砕かれた。
つんざくような音とともに雷鳴が走り、水撃が一斉に弾き散らされたのだ。弁々の右手は弦に添えられておらず、子供をあやす時に使うでんでん太鼓が握られていた。登場までその正体すら認識できなかったのでもしやと思っていたが、やはり譲渡された能力を他にも隠し持っていたのだ。
妖怪は意味によって存在するため、種族由来の力を行使するのが普通だが、意味を取り替えた経験を持つ付喪神にその制約はない。だから本人の能力だけでなく、解放派に所属している面々の力を平然と行使してくる。
河童たちは大半が雷に撃たれ、身動きさえ取れない様子だった。相手が雷鼓でなくても付喪神が出てきたならば、雷撃の使用を警戒しなければならないのにその準備をしていなかったようだった。攻撃だけでも押し切れると侮ったのだろうか。
舌打ちを辛うじて押し殺すと、霊夢は荷物を地面に置き、懐からこっそりと針を取り出す。不意打ちは気が引けるけれど、里の中で妖怪同士に堂々と暴れられるのは示しがつかない。幸いにして弁々ははかりごとが上手く運んだことで気を大きくしており、辺りに気を配っていない。それでも慎重に、少しずつ針に霊力を込め、気持ちを押し殺して無造作に投擲した。針は弁々の右手に上手く刺さり、年頃の少女らしい悲鳴とともに太鼓を取り落とした。弁々は慌てて追い縋ろうとしたが、太鼓は続けて霊夢が放った針の一群に射抜かれ妖力を消失する。弁々は間に合わないと判断してすぐに回収を諦め、霊夢に相対してから琵琶を構え直す。
不意打ちはこれにて終了と判断し、霊夢は弁々と同じ高さまで上昇すると、札を扇状に構える。投げるもよし、結界に転じて防ぐも良し。準備万端であることを示して奇襲の優位が失われたことを示したのだが、弁々はいつもの引き際の良さが嘘のように留まっており、あまつさえ雪辱を果たそうという気概さえ感じられた。
「あの太鼓で河童たちを制圧し、積み荷を奪う予定だったんでしょう?」
計画が崩れたのだから早く撤退しろと臭わせたのだが、やはり戦意を崩す様子はない。妹分の八橋ならまだしも、弁々は気を見るに聡いタイプのはずだ。これだけ言えば十分に理解して適切な行動を取るはずだった。
弁々は無言で琵琶を爪弾き、巨大な五線譜を頭上に浮かべる。どうやらここで仕掛けてくるらしい。いよいよ今日の彼女はおかしいと思ったが、戸惑いを浮かべれば勢いづくのが妖怪という存在だ。霊夢はあくまでも強気に弁々の説得を続ける。
「ここで暴れるのはあんたらの教条に反していないかしら?」
里には解放派が救わなければならないと考えている機械に溢れている。それらに被害を与えないために、里やその周辺では極力暴れないようにしているはずだ。しかも地上に停まっているバンには最新のパソコンが何台も載せられている。ここで弾幕決闘なんてできるはずがない。そう指摘したかったのだが、弁々は不敵に笑うだけだ。
もしかすると彼女は陽動を行っているのではと、不意に思いつく。別働隊が近くに控えていて、自分をここへ釘付けにしたいのだとしたら。それならば五線譜も見せかけだけで、実際に弾を撃ってきたりはしないのかもしれない。
霊夢の予想をあざ笑うように琵琶が爪弾かれ、音符が雪崩のように押し寄せてきた。流れを見切ろうにも一つずつの速度や動きが微妙に異なり、かわすだけでは対処できそうにない。それに霊夢は元からちまちまかわす気などなかった。相手に遠慮がない以上、時間をかけるほど里に被害が出る可能性が高くなるからだ。
弁々を狙って速攻で符を止める。心の中でそう呟くと、霊夢は迫り来る弾幕に対して正面突破を試みる。前方に向けて針を掃射、音符弾を次々と相殺していき、避けきれないと判断した音符は札を円状に展開した結界の盾で打ち返す。物量に対して一点突破、錘のように穴を穿ち、霊夢は徐々に音の流れを突破していく。すると弁々の演奏も激しくなり、音符の勢いが増すとともに琵琶らしからぬ多重音が響き始めた。がんがんと耳を打ち、集中を保つのが難しくなる。それだけでなく通り過ぎたはずの音が跳ね返り、霊夢の側を何度も掠めていく。
「馬鹿! こんな所で山彦の能力なんて使うんじゃない!」
音符を乱反射させたせいで、その一部が地上に向かっていた。この程度の諍いで符を切りたくはなかったが、里の人間に被害が出ることは絶対に避けなければならない。
「夢符「封魔陣」を宣言!」
所持していた符を破り、中に込めた力を解放させる。周囲の妖力を潔斎する白き光芒が霊夢を中心として周囲に広がり、大量の音符を一気にかき消して更には弁々をも押し流そうとする。人ならざるものには効果覿面のはずだが、弁々は微かに怯んだ様子を見せただけで、空に浮かぶ五線譜も未だ健在だ。戦意を崩した様子もない。
「力の使い方を考えなさいよ。それができない頭じゃないでしょう?」
同じ解放派でも下っ端の妖怪や妖精なら、命じられたことしか実行できないだろう。それすらもままならず、命令を忘れて遊び出すこともしばしばだ。しかし弁々は十把一絡げの相手ではない。それなのに勢いづいた妖精のように里で暴れるだなんて、少なくともこれまでならばあり得なかった。むしろ暴走を諫める側に回ったはずだし、実際に威厳をもって叱っているところを何度か見たことがある。
頭の出来を指摘されたのが悔しいのか、それとも他に思うところがあるのか、弁々は口元に苦々しさを浮かべ、弦から手を離す。戦意はまだ残っていたが、継戦の意志はないらしかった。
「確かに柄でもないことをしでかしたわね。攻め時だけでなく引き際も誤るなんて」引き際? と訪ねる前に答えが一斉に姿を現す。河童たちが弁々を取り囲み、険しい顔で水鉄砲を構えていた。おそらく姿を隠して機をうかがっていたのだろう。「祭りにはしゃぐ心なんて当の昔に捨てたと思ったけれど、わたしはどこまで行っても琵琶の付喪神なのね。愉快なことがあれば騒がずにはいられない。傍迷惑なんて言葉も忘れ、盛り上がってしまう」
完全に囲まれているというのに、弁々の口調は余裕に満ちている。こんな状況から逃げ出すなどお茶の子さいさいとでも言いたげだ。そして実際にあっさりと逃げ切ってしまうのだろう。霊夢としてはこれ以上、里に危害を加えないならばそれで良かった。だが手玉に取られた河童たちは当然ながら気が収まらないだろう。
「今回はこの上ないほど失敗したけれど。我々、幻想機械解放同盟は近い内に必ず、その本懐を果たすことでしょう。その日が来るのを楽しみにしていてね」
器用にウインクを飛ばすと弁々の体が揺らぎ、かき消えると同時に浄瑠璃の音が聞こえてくる。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。弁々の語りは徐々に遠ざかっていき、河童たちは水鉄砲をめったやたらに撃つものの、手応えはまるでなく。全てが収まるとともに静寂が辺りを一瞬だけ満たし、すぐに眼下の喧噪へと変わっていく。
決闘を観戦していたであろう人たちはしばしの間、そこかしこでひそひそと話し、あるいは賭けを張っていた胴元と金銭のやり取りをしていたが、すぐに日常へと戻っていった。河童たちはすぐに平静を取り戻し、展示品を会場へと運んでいく。
警察がぞろぞろと姿を現したのは全てが終わった後だった。
風紀紊乱を正し、解放派を始めとした妖怪や妖精の被害にも対抗できる装備を有しているとうたう組織ではあるが、どうにも緊急事態には後手後手に回ることが多い。その装備にしても警棒に申し訳程度の加護を付与した程度のものであり、飛び道具の類は一切渡されていないから、弾幕決闘が流行中の郷では何もできないと言って良かった。どれほど文明が発達し、便利な機械が普及しても、人ならざるものへの脅威を払拭することはできなかったのだ。社会には霊夢のように強い霊力を持つ人間が必要であり、今後もしばらくは変わらないだろうというのが世の趨勢だ。
霊夢にしてみれば役に立たない警察は願ったり叶ったりである。中途半端に戦える力を有していたならば、決闘の間中ずっと周囲に気を配り続けなければならない。そこまで器用に戦えるとは思っていなかった。今日の弁々みたいな相手ならば尚更だ。警察もそのことを根っこでは理解しているのだろう。しかし、いかな博麗の巫女といえど、年端もいかない少女にばかり活躍されることには複雑な気持ちを抱いているのだろう。
彼ら/彼女らの霊夢を見る目は様々だ。子供が荒事に顔を突っ込むのは感心できないと考えるものもいれば、働く女性の象徴だと輝くような視線を向ける者ももいる。もちろんその逆で、女なんて家の中に引っ込んでいれば良いとばかりに冷たい表情や言葉を向ける者もいる。
先頭に立つ隊長はそのどれでもなく、いつも頑張るなあと気さくな、見方によっては若干他人事めいた笑みを向けてくる。霊夢が信用しても良いと考える数少ない大人の一人でもあった。
「今日は随分と派手にやらかしたみたいだな」
おおよその事情は既に把握済みなのだろう。だとしたらいちいち報告する必要もないのだが、隊長は霊夢の口から話を聞きたがった。それ自体はいつものことなのだが、今日の出来事は霊夢のほうでも誰かと共有しておきたかった。
展示会場に向かおうとする遠子を追っていたくだりは省略し、河童たちの仕事を邪魔しようと九十九弁々が現れた場面に偶々出くわしたこと。不意打ちで出鼻を挫いてみたが、いつもと違って撤退する様子がなく攻撃を仕掛けてきたこと。それだけでなく、里に被害の出るような力を考えなしに振るってきたこと。
それから最も大事なこと、最後の宣言について。
「幻想機械解放同盟は近いうちに必ず、その本懐を果たす。彼女……もといあの妖怪はそんなことを口にしたんだね?」
断言代わりの頷きを寄越すと、隊長は腕を組み、考え込む仕草を見せた。
「自信を持って断言できるだけの計画を練り上げたのだろうか?」
その可能性は十分にあり得た。今回に限らず、ここ最近になって解放派のやり口はより嫌らしさを増した。悪戯の延長にあることは変わらないのだが、それまでになかった意地悪さを感じるようになった。もしかすると嫌がらせをすることに長けた、あるいは慣れた何者かを仲間に引き入れたのかもしれない。
完璧な計画なんて、これまでも耳にたこができるほど聞かされてきたけれど、完遂された試しがなかった。いつも穴だらけで涙が出るほど間抜けだった。里の人間が危機感すら覚えず、弾幕決闘を鑑賞していたのもそのためだ。誰が物騒な計画を立てているかは知らないが、きっと雷鼓や九十九の姉妹ではないのだろうと推測された。
「冬場くらい人間と同じようにひっそりとしていて欲しいものだが」
その意見には全くの同感だったが、解放派の妖精や妖怪は冬の寒さを気にする様子があまりない。まるで半ズボンで外を駆け回る子供たちのようなのだ。
「それだけでなく、自然もいつもと調子が違うらしくてね。西の里では最近、連日のように濃い霧が立ち込めているらしい」
それは確かに珍しいことだった。西の里は彼岸に近いためか、東側と比べて湿度が低く、夏場でも霧が立つことは滅多にない。冬になると湖には分厚い氷が張るため、近隣住民がスケートを楽しみによく訪れる。水面下に人魚が泳いでいるのを目撃したカップルは幸せになれるというジンクスもあるらしい。
「荒れることがなければ良いんだけどな」
隊長が言いたいのは天気のことだけではないだろう。不安が重なればそれだけ治安を守る者の心は重くなる。霊夢はそんな気詰まりを払うよう、楽天的に振る舞ってみせた。
「きっと大丈夫よ。霧は直に収まるでしょうし、解放派にしたってこれまでいつも自滅したりへましたりばかりじゃない。今度だってきっとそうなるわ」
そう言って心配そうな隊長を励ましてはみたけれど、内心はあまり穏やかではなかった。遠子を追いかけていた時に感じた背筋のむず痒さが、先程にも増して身を苛んでいたからだ。いま話したことのどれか、あるいはその全てが原因となって、近いうちに災厄としてこの身に降りかかってくるのかもしれない。
「そうだね。注意はするが、気を張ることもないだろう……ところでさっきからお友達が待っているようだね」隊長の視線を追うと、遠子が少し離れた所をうろうろしているのが見えた。「あとはこちらだけで何とかなるから、娘に付いていてもらえると少しは心が安まる。騒乱の種は撤退したけど、安全が保証されたわけではないから」
「あの、怒らないであげてくれませんか?」
危険な場所になる可能性があるから近付くなと念を押していたはずなのに、遠子は約束を破った。二度とこんなことをさせないならばきつく叱る必要があるはずだ。しかし隊長は遠子から視線を外し、何も見つけなかった振りをした。
だから霊夢は無言で頭を下げ、偶然見つけた振りを装って遠子に近付く。
「あれ、遠子じゃない。そんなフードを被ってどうしたの?」
遠子はいきなり話しかけられてあからさまに慌てた様子だったが、すぐに弁解の必要があると分かったのだろう。
「あ、えっと……その、寒いでしょ、耳とか!」
そう勢いよく答え、文句があると言わんばかりに睨みつけてきた。
「そうね、もうすぐ冬だし。わたしも厚手のフードでも買おうかしら」
「え、ええ。それが良いわ。霊夢ったら見ているだけで寒くなるような格好をしているんだもの」更に言葉を続けようとしたけれど何も浮かばなかったらしい。今度は上目遣いで霊夢の様子を窺ってきた。「もしかして例の展示会に行こうとしてたの、ばれちゃってたりする?」
「遠子のお父さんは見なかったことにするって」
「悪かった、反省してるわ。こんな事態になると、考えて然るべきだった。好奇心は猫を殺すし、過去にそれで死んだ乙女もいるって知ってたはずなのに」
「だから見なかったことにしてくれたんだと思う」千数百年の記憶を繋ぎ、今もなお顕現し続けている乙女の賢明さを遠子の父は信じたのだろう。もしかすると娘であっても当代の乙女を叱ることはできないだけかもしれないが。「送っていくわ。危機はもう去ったと思うけど」
霊夢はそっと手を差し出し、遠子は渋々その手を握る。彼女は知識の塊といって良いほど賢いけれど、猫のような好奇心に駆られやすいところがある。逃げ出したりしないとは分かっていても、どこかが繋がってないとまた変な場所に迷い込んでしまわないか少しだけ不安だった。
幸いなことに解放派もそれ以外の災難もやってくることはなく、無事に遠子を屋敷まで送り届けることができた。遠子はじっと俯いていたが、ぼそぼそとした声でありがとうとだけ告げると、早足で屋敷の中に駆け込んでいった。
きっと自分のしでかしたことが恥ずかしかったのだろう。霊夢は未だに収まらない背中の痒さを気にしながら神社への帰途に着く。何か忘れている気もするが、思い出せないならば大したことではないだろうと思い、振り返ろうとはしなかった。
荷物を置きっ放しにしていたと思い出したのは神社に戻ってからしばらくのことだ。夕食の準備を始めるとき調味料を切らしていることに気付き、そこからなし崩しに忘れ物を思い出したのだ。幸いにして親切な人が警察に届けてくれたらしく、いつもより夕食が一時間遅れるだけで済んだ。
夕食を終えた頃には背中の痒さもすっかり消えており、起きてないことを今から悔やんでもどうにもならないと、ひとまずは開き直って日常を過ごすことにした。
第1章 幻影都市の亡霊 一覧
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面白い世界観でした、2XXX年物語がどのように動くか楽しみにしてます。