廿九./おこり患う(西暦1188年)
頼朝とだけではなく、鎌倉との対立が大八洲全土に知られる事になった義経。その行方が明らかにならぬまま、正月は迎えられた。
年初から良からぬ事が起こる。
雨が降ったと思えば大風に見舞われ、終いにはその折りに起こった火事が鎌倉中で相当な規模に延焼するなど散々であった。
結局は失火であったが、人々の中には義経一派か、彼に心を寄せる者共の仕業では無いかとすら噂する者もあった。
真実はどうであろうと、鎌倉がそれにいちいち振り回されていては威厳も何も無い。義経の捕縛、ひいては彼を匿う奥州の征伐に関する事柄には粛々と地固めをしながら、正月の各種行事は執り行われた。
箱根詣に三島詣。そこには、御家人が――当然範頼と主たる郎党らも同伴していた。
幸いここでは何事も無く、皆無事に帰って来たのであった。その郎党達を先に戻し、――周囲からは陪臣と見られている――主立った者達は更に遅れて帰着。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、参州様」
まず範頼が馬を下りて門の内に入る。そして、下男どころか門に詰める者より先に、ゆやが彼らを迎えた。
一旦は所領の吉見へ下っていたが、手勢を分けて置く必要も生じ、結局こちらが本拠になっている。ただ、他の者がここの生活を見たら不思議に思うであろう、何がと言えば北斗丸の事である。従五位下三河守の妻が本領の館から出て、手ずから子育てをしている事である。乳母も当てずにそうしている事を、だ。
北斗丸の生まれが鎌倉であり、生地で育ててやりたいというゆやの気持ちがそこにあった。
範頼からしばし遅れ相良の兄弟も続く。いつもならここに次長も居るが、彼は暫く侍所に詰めている。
「ふいー、ようやっと戻ったぞ」
「ただ今、帰着いたしました。兄者、参州殿の奥方に向かってなんという態度か。せめて館に入るまでは威儀を正されよ」
「ご両人とも、お勤め、ご苦労様でありました」
頼綱が兄をたしなめるのをにこやかに見ながら、ゆやはいつもの事ですからと言いながら労う。
彼女にしても、堅苦しいのは他人の前――加えて彼女に対しては姑の様に口うるさい次長の居る時――だけで、館に引っ込んでしまえば頼景とすら大差無い。
「あれ、射命丸様と太郎はどうしたの?」
さっそく砕けた風に話すゆや、一緒にお供をしていたはずの二人の所在を尋ねる。
「一貫坊殿も僧の身であるからな。三尺坊権現様のお達しで、縁のある寺社へ正月の助っ人との事だ」
太郎はその付き添いとの体であるが、あの仲の悪い二人で大丈夫だろうかと、ゆやは首を捻った。
いくつかある部屋の一つ、客間にしている部屋では火鉢を焚いて暖を取れるようにしてあった。ゆやはそこで、衝立の裏の男達がよそ行きの水干から平服に着替えるのを待つ。
以前と比べればまだましになったものの、直接着替えを手伝う事はやはり出来ない。だが予め彼らの衣を用意するのは毎度彼女の仕事だった。
「ゆや、ありがとう」
「いつもかたじけのう御座います」
範頼と頼綱が先に現れ、車座になるよう敷かれた藁蓋(わろうだ)(※1)に腰を落とす。次いで頼景も現れ、小言。
「蒲殿、畳に座れと言っておるだろうに」
上座になる範頼の数歩後ろにはそれがある、当然藁蓋などより心地は良い。
「あれは来客用です。それに離れていたら、声を張り上げなくてはならないので嫌です」
そういった威勢も含めて将だろうにと頼景が渋い顔をすると、それを正しく読み取った範頼も、面倒だと言ったら面倒ですと、目と眉の動きで答える。
「それは範頼様のお好きに。それより、どうでした? 三島社って大きいんでしょ?」
ゆやが期待を込めて土産話を請う。
坂東という語の“坂”。この東西を隔てる、足柄や箱根の坂を越える事は彼女の健脚なら容易だが、その機会が無い。箱根権現詣では頼朝と御台所の信仰もあって奨励されているが、今は北斗丸が居るからだ。
「そりゃ大きい、何せ伊豆国の一ノ宮だからな。とは、俺は一貫坊殿の講釈で今日初めて知った」
そこに頼綱が何事かボソリと呟き、頼景が食って掛かる。そんないつものやりとりのすがら、射命丸と太郎の帰着を下女が伝えに訪れる。聞いたゆやは、風呂の準備を確認にと場を辞した。
その姿を見送り、残った男達は一息して囁く。
「一貫坊殿も太郎も居ないで不安でしたが――」
「どうやら、良い方向に向かっているのでしょうね」
北斗丸の世話が、男に対する心の疵を少しは和らげているのだろうかと範頼は思った。
ここに居る誰も、未だにゆやの口からは直接聞いていない、射命丸は間違いなく知っているだろうと察しているが彼女は決してこれを語らず。それでも、彼らは彼らなりに女達の心情を慮っていた。
今は居ないが――察しの悪い意地悪小姑の立場を貫く――次長ですらも、ちゃんと一定の距離を取っている。
その楽観に、頼景が異議を挟む。
「嬰児と大の男を一緒にする方がおかしいであろうに。二人とも、先は長いと見ておいた方がいい」
それには承知と二人も頷く。頼綱は兄の気遣いに感心しながらも一言。
「ゆやの前ではそう自重するのに、一貫坊様や太郎の前では、何故平然と遊女遊びがどうとか言うのか」
その一言に、毎度の通り、頼綱の首に手が伸びる。
それから組み合いの稽古に発展し、しばらく乱取りをしていると、ゆやと風呂上がりの射命丸らが現れる。文字通り鴉の行水という短さであった。
「いや、もう随分と寒さも和らいだ上、護摩の火を浴びると汗ばかりかきまして。湯風呂を用意して頂いたのは本当に有り難いです」
「ヲン」
とはいえ、厚手の襦袢を重ね着した上に小袖を纏う射命丸。太郎もおおよそそれに倣っている。
「風呂を焚いているのだと知っていたら、俺も入りたかったのだが……」
「これからの方がいい、無駄に汗をかきましたからな」
髻と服を正ながら頼綱がまた一言。頼景も今度はさらりと流し、射命丸らに車座に加わるよう席を進める。
射命丸も一緒になって三島社の事について諸々と語る。ついでに道中での諸併せて語るのを、ゆやは楽しげに聞き入った。
義経の始末については明らかにならないながらも、ここ暫くの鎌倉は平和と言えた。
しかし次の月、範頼自身の身に異変が起こる。
∴
春の彩りも豊かになってきた二月下旬、範頼が高熱を発して倒れた。その異常な発熱は言い伝えられる清盛のものに似通い、僧医の見立てでは周期的に発熱の発作を起こすという瘧(おこり)の病(※2)ではないかと診られた。
この事は頼朝の耳にも入ったが、彼が直に見舞いに来る事は無かった。その代わり、伊豆山権現の専光房(せんこうぼう)良暹、(りようせん)走湯権現の覚淵(かくえん)阿闍梨という、鎌倉にも関わりの深い高名な僧らに、平癒祈願の加持祈祷を執り行わせたのだった。
射命丸はしかしこの祈祷には加わらず、範頼の傍で彼の世話に務めていた。
瘧の病魔が他の者に及んではならぬと人が遠ざけられ、ゆやすらも彼から引き離されていた。そこに射命丸が手を挙げたのだ。
「私や太郎であれば、人を襲う病魔もどうにかなりましょう」
と、もっともらしく。彼女にも確信は無いが、説得力はある。表向きには祈祷をするとの理由を伝えて。
範頼とゆやは、心配しながらもこれに承知した。
「お加減は、どうですか?」
「最初は軽くふらつく程度だったのですが、なんとも、今は天地がひっくり返ってぐるりと廻っているようでございます」
熱は一旦下がったが再度上がり、寝たり覚めたり、覚めても朦朧という有り様の彼の額に、濡らした布を当てながら射命丸が問い掛ける。
「クゥ~ン……」
太郎も不安げ鼻を鳴らしながら、彼の身体を拭いたり着替えをさせたりとしている。ゆやにこれが出来ないのも、彼女らに任せた理由の一つだった。用を足しに行くのだけは下男に任せていたが。
「瘧の病は、次の、三度目の発熱が峠と聞きますが、私には常に峠でなりませぬ」
「気をしっかり持って下さい。あと無理にでも食事は摂って下さい」
「そうですねぇ、辛いのですが何とか頑張ってみます。これが四郎殿だったら口移しを請う所でしょうか?」
戯れに言っているのが、具合の酷さから無理な強がりに見えてしまう。
「ヲン」
口移しの事を真に受けたのか、太郎が答える。
「冗談だよ、太郎。お前にまで病魔が及んだら大変だからね。我慢してでも食べるよ」
褥(しとね)から手を伸ばそうとする範頼。頭を撫でてやろうというのか、だがそれも上手くいかないぐらい体の自由が利かない。
これはいよいよ拙いのではと射命丸は落ち着かない。
「……三尺坊様の御利益は一には火防ですが、二には病苦退散です。蒲殿、本日中には必ず戻ってまいりますので暇を頂戴したく存じます」
言われた範頼の方が気弱げな表情を浮かべる。
なるべく側に。そう願うのは彼女をなお不安にさせるであろうと思い直し、微笑んで了承する。
「それは有り難い事です。それと三尺坊様に何卒と」
実は射命丸の望む事は彼と同じだったが、それを振り切って退室し、ゆやに言い置いて館を後にした。
鎌倉中から外れの、人気の無い森の中に趣いた射命丸。そのまま一気に上空まで飛び上がり、西を目指した。
射命丸にとって、奥の宮も三尺坊に直に会うのも久しい事であったが、何の遠慮も無い。
極めて簡素な佇まいの宮、その木階からずかずかと上がり込む。彼は言い伝えられる通りそこに居る。
「三尺坊様! 病苦退散の御利益があるのでしょう!? 蒲殿の病をなんとかして下さい!」
「使いも寄越さず藪から棒に何なのだ、一体。まあ、もし亡くなったら弔って差し上げよう」
座って文机に向かっていた彼が振り返る、その文机は彼に会わせて背が高い物が使われている。やはり三尺とは名ばかりの体躯。頭髪も髭も、見た目の歳からすると意外にも黒々としている。
その大男の今の言葉に対し、射命丸は噛み付かんばかりに詰め寄り、彼は目をそらしながら言う。
「そういう事は、まず神様に頼みなさい」
「権現様は神様でしょう?!」
「違わなくは無いが、ワシの場合はなぁ。さっきのは冗談として病とは一体何だ、まずはそれから話せ」
至極当然な三尺坊の問い、射命丸もようやく落ち着いて子細を話す。彼もそれを以て理解し、答える。
「瘧の病、それも二度目の発作が出ている、か。生憎だが、今手元の薬は切らしておるのだ」
「神通力ではなく、薬なのですか!?」
人を謀る不徳漢を見る様な目で、三尺坊を見る射命丸。彼も眉を寄せて言う。
「だから、ワシが使うのは神に通じる力であって、神仏とは少し違うのだと」
彼はそう言いながらも、文机に向かい何やらしたため始める。
「病相手に薬が無いのでは、三尺坊様もむの――」
「待て待て。材料自体はそこらに生えているのだが、手を加えた生薬その物を先日渡してしまったのだ。瘧が流行る時期が来る前に欲しいと言われて、見本に作った物をな」
「それは誰に!」
「……武蔵国の桜坊殿だ」
まさか彼が、こっちに来た分骨折り損ではないかと、射命丸は筋違いに憤慨する。三尺坊もこれ以上この面倒な弟子の相手をしたくないと呆れながら書状を渡す。
「今のお主なら、一刻とかからず着くだろうに」
「山を幾つ越えると思っているのですか! それにその一刻を争うのですよ!」
三尺坊は辟易しながら、今渡したのはこの件の言伝と処方だからと説明し、別件を付け加える。
「実はな、お主に言い置きたい事があった。が、それも桜坊殿に含めてある」
「今ここで伺うわけには?」
「こちらでは少し調べが済んでいない事があるのだ、そこを彼のお方が調べる手はずになっておった」
なのでそちらから聞いた方がいいと言葉を切る。射命丸も渋々という顔を隠さずそれに納得した。
三尺坊に言われた通り一刻とかからなかったが、射命丸は武蔵国へ着くなり、昼にもかかわらず飛行のまま桜坊の住居へ向かう。雲の厚さが幸いした。
射命丸が、来訪を歓待する彼を急かすように三尺坊の書状を渡すと、彼はすぐに奥から薬包を持って出て来た。
「服用の仕方もここに書いてありますから、それに従って下さい。ただ証(しょう)(※3)を合わせた物ではありませんで覿面に効くとは思えませんが、普段強健な参州様なら、体力さえ持たせれば薬無しでも回復するでしょう」
もしかしたらもう治ってしまっているかも知れないと、半ば安心させるためでもあり、半ば本当にそう考えながら桜坊は言う。
「桜坊様、有り難うございます」
「いえいえ、参州様にはお大事にと。それと、しばし吉見へ戻られなかったので伝え損ねていた件ですね」
彼や三尺坊にとってはこちらこそ本題だった。射命丸も出来るだけ早く戻りたいとは思いつつも、――僅かな持ち合わせを手土産にはしたが――殆ど無償で応じてくれた手前、話はしかと聞く。
「一貫坊殿。貴女は、三尺坊様が未だ参州様の所へ貴女を留め置く理由、如何とお考えですか?」
実はその話が来たらどんな言い訳をしようかと、逐次説得力のありそうな話を練っているほど。
しかし今まで言い出さない三尺坊の考えとは、射命丸は少し考えてみる。
ゆやの事だけでずっと鎌倉へ留まるのを認めているとは考えにくい。当初の指示が未だに生きているのだと考えれば、やはり射命丸にとって好ましくない話。
「天邪鬼は退治した、はずです」
断定を避ける句が加わる。
「それは三尺坊様もご存知で、ですがその時点で貴女を帰山させませんでしたね?」
「はい」
やはりそうかと、射命丸の顔は歪む。
「貴女の手で西国にて撃退され、しかし私の調べではその後京を廻り、今は陸奥にあるようです」
「まさか!?」
その道程は重なる、彼の人物と。
義経が憑かれたのか。そうとは限らない。妻である河越重頼の娘の郷御前や、他にも近しい郎党を引き連れている。彼ら彼女らかも知れない。
ただ少なくともその合致は、一行の中に奴が在った事を示唆する。
つくづく、つくづくだと射命丸は唇を噛む。
「河越殿の件は、真に不幸な事でありました……」
もしかしたら義経も天邪鬼に謀られたのかも。そうなると誅殺された重頼と嫡男重房は、共々それに巻き込まれたのか。思う程にいたたまれなかった。
「多分、貴女が気に病む事ではありませんよ。それと私の手元にも、前予州様の追討の準備が進んでいる旨が流れてきていますね」
表向き商人をしている彼の耳に入るのは当然の事だ。
人の世の理は、ある意味では妖の怪奇よりも怪奇、今回はそれが重合している。また、出向く事になるのだろう。
やはりこれは避けられない事なのだ。射命丸はそう悟り、暇乞いをして鎌倉への帰路に着いた。
鎌倉では飛ぶわけにいかず、行きと同じく近くの森に降り立ち、徒歩で都邑へ入り浜の館に帰着。
方々で一刻を争うとは言ってみたが、よくよくすれば、これが瘧なら周期から言ってまだ次の発作までは余裕はだいぶある。
日が昇りきるより前に出て、日が暮れる前には戻る事が出来た。都合半日で遠江、武蔵、鎌倉と巡れたのは、それだけ必死だったのか今の射命丸の実力か。
「ただ今戻りました」
門衛にそう告げて門をくぐろうとすると、門衛からは来客有りとの話。「誰彼が」等と射命丸が問えば、嫌そうな貌から返って来た答えはなんと景時。
先に聞けて良かったと礼を言って館に入り、範頼の寝所へ向かう。
「一貫坊、ただ今戻りました」
ジロリと、吊り上がった三白眼が射命丸に向く。
「一貫坊殿は参州殿の祈祷を、という話を当館の家人から聞いておりましたが、さて」
射命丸は内心を隠して平静に答える。
「覚淵様や良暹様といった方々を始め、名だたる僧が祈祷している傍らで、小僧(しょうそう)如きが神仏にとやかく言上しても邪魔になると思いました故、せめて薬をと」
言って、範頼の側に座る景時の横、板間にそのまま腰を下ろす。先に下女に求めていた白湯を待ちながら範頼に問い、続けて景時に言う。
「参州様、お加減は如何ですか? あと、病魔を他人に及ぼすといけないからと参州様は人払いをしていたのですが、梶原様は何故こちらへ?」
「ああ、朝と比べれば大分良いですよ、これなら食事も喉を通りそうです。それと平三殿は――」
「私もお加減を伺いに参った次第です」
少しも表情を変えずに答える景時。言葉通りに受け取るのを迷う射命丸、彼が――思いやりという点について――そんな殊勝な人物だとは思えなかった。
「薬と仰いましたな、黄花蒿(おうかこう)(※5)ですかな」
「え、はい。よくご存知で」
景時がそれを知っていたのに少し驚く射命丸。自身は三尺坊の処方で先程知ったばかりであった。
「なるほど、祈祷が一番ですが、薬も馬鹿にした物ではありませんからな」
範頼に向き直って言う、やはり愛想の欠片も無い。
「一貫坊様がお持ち下さったのは、遠州秋葉山、三尺坊権現の霊験もあらたかな妙薬だそうで」
範頼が体を起こして言うと、景時は初めて感心したという風な、僅かばかりの驚きを示す。射命丸は少し気を良くして、しかし失言に気を付けて言う。
「はい、幸いにもこれを吉見の商人が授かっておりました故、早馬や飛脚等々でお持ちいたしました」
景時はまたひとつ「ふむ」と呟くと、やおら立ち上がって一礼。
「春になったとはいえ季節の変わり目です。油断されず養生なさいますよう。一貫坊殿も、己が身を病んでは務めも為りませんぞ。この後も用心を怠りなさるな」
範頼のついでに言われた彼女は、景時が細やかに気を配るのを意外そうに見る。範頼を無理に起こして、侍所なり御所なりと連れ回すような人物と思っていた。
「参州殿、私はこれにて失礼致します。一貫坊殿、どうかしましたかな?」
「あ、や、、、ご足労、誠に有り難うございました」
「本当に、有り難うございました。平三殿も病魔にはお気を付け下さいませ」
「お言葉かたじけのうござる。それと参州殿、先の件はよしなに計らわれるよう掛け合います。それでは改めて、失礼します」
またも一礼して去って行く。先の件とはなんだろうと思いつつ、射命丸は家人を代表して景時を見送った。
景時の退出を伺っていたのか、虫が這い出す様に頼景が、続いて太郎も姿を現す。
「ただ今、戻りまして候」
「ヲン!」
白々しいと二人を白眼視する射命丸。
「言っておきますがな、一貫坊殿。俺達は隠れていたのではなく蒲殿の使いでですな――」
「ヲフヲフ」
「門の内から現れたのは、一体如何なる次第で?」
勝手口もあるが、今時分にあえてそちらから入る道理は無い。
「隠れていました、すいません」
「クゥーン」
あっさり認めて太郎共々頭を垂れる。
それはどうとでもと、射命丸は範頼の寝所へ戻り、彼に白湯と薬を渡してに促す。
「薬ですが、胃の腑が荒れるといけないので汁粥を召し上がった後にきこしめしませ。あと腹痛などが却って酷くなるなら仰って下さい」
「はるばる遠州まで、有り難うございます」
それだけで済めばよかったがと射命丸は思いつつ、これ以上子細を話すと彼の心身に障るであろうと、頭を下げて返すに止める。
「遠江まで帰っていたのですか、流石は……」
頼景も感嘆の声を漏らす。射命丸も少し鼻が高くなった気がした。鼻高天狗ではないが。
この国で、彼女の他にはこれだけの事を為す者は居るまい。木の頂を跳ねて回っていたのなど嘘の様に、もはや速く飛ぶ事にかけて敵う者は居るまい。恐らくは西国の、あの皆鶴よりも。
太郎を残し、一旦部屋から出て子細を聞く頼景。彼女の話に納得したようで聞き終わってから言う。
「漢方、宋医の術ですかな。確かそこらに生えているクソニンジンという草を使うのだとか、かつてはそういう話も聞いた記憶があるような」
「そうなのですか、実は私はさっぱりでして」
「俺も聞きかじりですて。相良からも近い、今の城飼(きこう)郡(※5)に居た渡来人がもたらしていた智慧だそうで」
その地の字面の如く城で飼うとして、渡来人を招聘していた時の話。平安の世の始まりの頃からの事だ。
ただ本当にそれが効くのかも分からず、素人考えで下手な事が言い出せなかったのだと彼は言う。頼綱も言わなかったのだから仕方ない事であった。
「そうだ、確か清盛公の病も瘧であったとか噂を聞いたな。宋医(※6)なども多く抱えていたであろうに、何故これを用いなかったのかな」
瘧ではなく未知の病だったのかも知れない。だが、もしかしたらという程度ではあるが、射命丸には別の理由も思い当たった。
「小松殿――故内大臣重盛殿は末期の病に罹った際、宋医の治療を拒んだらしいです。本邦の医術の未熟を認めるよりは、それも天命と受け容れたいとの由で」
そのため清盛も、瘧を患った時、愛息の最期に倣って宋医に頼るのを拒み、そのまま亡くなったでは。あくまで推測であるがと注釈して言う。
清盛に訪れた断末摩は凄まじいものであったと伝えられているが、あえてそうしたのであったなら――
「なんとも潔い事だ。だが漢方などだいぶ前に伝来した物ですからなぁ。人の事は言えないが、もし知らぬのであったなら、もったいないことですな」
お陰で平家に打ち勝ったのであれば、病魔も万歳とは言わずとも、源氏には幸いであったとは言えた。
話を終えて部屋に戻ろうとする二人の前に、盆を手に乗せたゆやが現れる。盆の上には白湯と薬包紙が置かれている。
ここで射命丸は不思議に思った。手元にはちゃんと薬はある、範頼に渡した他は受け取った分全て。
「ゆや、その薬は?」
「これですか? 梶原様より頂いた物ですよ」
彼自身の考えか頼朝が持たせた物か、もしかしたら次長が用意したのかもとも考えた。
どちらにせよ、自身のここ半日の不安と東奔西走が徒労であったと悟り、がっくりと肩を落とす射命丸。
「全く。三尺坊様といい平三殿といい、私がどれだけ必死に駆けずり回ったのかと、あの御仁らは……」
「射命丸様かわいそ」
「呪ってやる……」
呪いは兎も角も、薬その物に加え、射命丸らの献身的な行いもあり、範頼は一両日中に起こると言われた発作を乗り越え快方に向かった。
∴
月が明けた三月の始め。範頼の病後も良好でこの頃には快癒し、それからは早々に出仕を再開した。
覚淵や良暹らの加持の効験と、かの聖らには頼朝からも馬が納められたとの事であった。もっとも、近隣にも鎌倉にも何事も無かったから、こうで済んだのかも知れなかったが。
そうこうして、月半ばには八幡宮では大法会(だいほうえ)(※7)もあり、少しばかり忙しい日々も過ぎて、終わった。
「ようやくと済んだのぉ」
「長うございました……」
先月から侍所に詰めっぱなしだった次長、月初めから行方がそちらになっていた頼綱も館に戻った。
桜を見ている暇も無かったと嘆く二人には射命丸も同意、なんだかんだで彼女もかり出されていた。残っていたゆやと太郎も、北斗丸の事だけでなく雑多にやる事があり、こちらもようやくひと心地。
「まあ、色々ありましたな。平三殿が大般若経を納めるのが主でありましたが」
「まあ、色々と、ですな」
「特に何かあったのですか?」
次長と頼景の両人曰く。
頼朝の剣を持する役を、甲斐源氏武田党の武田兵衛尉有義(ありよし)が渋って――結局その役は結城朝光に任せられた――頼朝の怒りを被ったり、終いに彼は法会に参加せず逐電してしまった事。
またその後の席で、遠江国で水利に関する乱闘があったらしい事などが聞かれたとも。
「遠江守義定殿が命じた工事で、熊野山嶺の住民との間で刃傷沙汰があったとかでしてな、近々正式な訴えも届く事でしょう。まぁ水が絡むとどうにも。しっかし、両方とも甲斐武田絡みというのが」
次長がくどくどと言うと、ゆやは嘆息する。
「どうかなされたか?」
「私の名の、由来ですので……」
余り気分のいいものではない。次長もそれを受けて、この話は止めにした。
それよりも重要な話があると、次長は面持ちを厳しくして言う。頼綱も隣で難しい顔で腕組みをしている。
「あまり女子が聞いてよいお話では無さそうですが」
「いや、是非聞くべきである。これはお許の良人(おっと)、参州殿の今後に大きく関わるかも知れないのだ」
次長が言うと、頼綱の貌も更に険しくなる。怒ったり訝ったりと言うより、非常に困っている風である。この場に居る者に内々に話そうと次長が言う。
「蒲殿を交えてはお話しされないのですか?」
「一貫坊様が蒲殿と兄者を押し止めて下さるなら、それでもよいのですが……」
ああ、そういう話か。射命丸は察する。
館に上がって皆で一室に入る。次長が語るのは、義経討伐に係る話であった。その話が進んでいるだけでも重要である。
「では、蒲殿がその総大将に?」
かつての義仲討伐、西国遠征同様そうなるのか。射命丸の問いに頼綱は黙って頭を振る、否であると。
「平三殿の讒言にござる」
次長はそれだけ言って黙る。これ以上は憚るとの意思が伺え、切り捨て過ぎた言葉は頼綱が補足する。
「季節外れの瘧などを患う者に、史上かつて無い戦上手の九郎殿並びに奥州藤原十数万の相手が務まるものか、と、大意はそんなところでございます」
「戦の得手不得手と病など関係無かろうに、それも総大将であるぞ?!」
次長は言うが、これは糾されているのが範頼であるからだ。他の者が同じくされたら、逆の立場であったら、それに迎合するところですらある。
それにしても確かに、総大将よりも陣頭の方がよほど病云々は関わる事があろうにと射命丸は思う。それが道理だ。
「平三殿は蒲殿を排したいのだ、そうに違い無い」
なおも景時への愚痴が募る、とても冷静とは言い難い。次長が歳不相応に激し易い性格なのは皆承知していたが、これは刃傷沙汰もあり得るかと思うほど。
年寄りが元気過ぎる坂東の空気に、遠江の次長も染まったのか。そして彼の気質が範頼にも伝播したきらいがないでも無い。
「落ち着いて下され、勝間田様」
「黙らっしゃい! これが落ち着いておられるか!」
「いやその……蒲殿が……」
いつからそこに居たのか。人払いしていたはず、ではあるものの、主人を払う人払いなどもあり得ない。
「どうされたのですか、勝間田様」
「おお、蒲殿。予州殿征伐の総大将の件、お聞きになられましたか!?」
「……はい。恐らくは上総介殿が主となり、大手と搦め手に分けてそれぞれ大将を置くものかと。今のところそれは、畠山殿か比企のどなたか、これだけはおよそ決まりかと」
「蒲冠者は如何という沙汰、お耳にされましたか!?」
範頼はしばしの間を開けてそれに答える。
「私は、恐らく本営に配されるかと。鎌倉殿もお出ましになるとの事でもありますし」
スッと深く息を吸い込む次長。これはいけないと頼綱は止めようとする。しかし遅い。
「たとい! 上総介殿が源氏であり、累代の武士であろうとも! 蒲殿は鎌倉殿と同じく! 故左典厩義朝様の御子でありましょう! それが――」
「次長! 無礼であるぞ!」
範頼が突如、次長にも負けぬ怒声で一喝。
誰に対する無礼であるのかその言葉からは定かでは無い。そして次長は臆する等ではなく満足そうに、しかし怒りながら言う。
「おう、よくぞ仰られました。その意気であれば、鎌倉殿のお出ましなども要らぬでありましょう」
より無礼な言葉を残し、次長は暇乞いもせずに部屋を後にする。
範頼の怒声にはむしろ、次長ではなく射命丸らがおののいていた。
「範頼様?」
おずとしながらも話しかけたのは、ゆやであった。
もう範頼の顔に怒りは無い。しかし普段のような微笑みも無く、憂いに沈んでいる。
「すいません。七郎殿、一貫坊様。席を外して頂けますでしょうか?」
言われた二人は静かにその場を後にする。射命丸はゆやの事を少し不安に思いながらも、二人を信じる。
残ったゆやは、激した範頼に替わるように、普段の彼の様に静かに微笑んでいる。その彼女に、
「私は本当に、汚い人間です」
やはり憂いを含んだ声。
その意味は分からないながらも、ゆやはしかとその言葉を受け止めた。綺麗も汚いも、彼の事は知っているのだからと。
範頼が総大将から外れる話は間を置かずに頼景の耳にも入ったが、その反応は射命丸らの危惧するよりもずっと落ち着いたものであった。
「そうか。梶原殿が――という話でそうなった、とは初めて聞いたな」
「なんだ、兄者なら怒り出すかと思ったが」
「太郎が何やら怯えておったと思ったら……」
範頼が誰かを怒鳴り付けるなど滅多に無い。それを彼女の耳は捉えていた、その為だ。
「しかし梶原殿がどうこう言わずとも、御曹司の事であるからな、多分何とかして辞していただろうに」
「ああ、言われてみれば」
射命丸もこれには納得する。
西国遠征の後、頼朝が多くの御家人に下した戒告の流れの中で官位官職の返上を図った事を思えば、それも当然だと思えたのだ。
ましてや今回は弟義経の追討。彼とはまともに会話こそした事の無い範頼であったが、景時が戦功はさておきとその行いの悪しさを報告した際も、範頼は戦功故であればと影ながら擁護していたのだ。
常光の件を勘案してもなお、範頼が積極的に義経討伐の指揮を執るとは考えにくい。
「のお、兄者」
「何か?」
「もしだ、もし俺が予州殿だったとして、兄者が鎌倉殿であったらどうする?」
「梟首」
頼綱の問いに頼景は即答。さしもの頼綱も眉をひそめて抗議。
「いや、もう少し躊躇があってもよかろうに!?」
「今、俺が相良の主で、お前が抜け駆けしてあちらこちらで功を立てようが勝手に領地を賜ろうが、何も言わん。むしろ褒める。翻って、鎌倉はそうではない」
言われて押し黙る頼綱。全てが頼朝の鶴の一声で動いていると勘違いしていた。
鎌倉殿は最終的に意思決定をする者ではあるかも知れない、だがその前の段階で、多くの意思が介在しているのだ。
「鎌倉殿は鎌倉殿としておわすのだ、それなりの偉容を見せねばならないのであろう。今度は俺から問うが、そうでない鎌倉殿に付いて行けるか?」
お前らしくもないと呆れた様子で問い返す頼景に、頼綱も浅はかだったと納得する。
射命丸は思う。人間というのは、自由で便利で生きるに心配する事が少ない。鴉がそう考えていたのも、随分と昔になった。
翻って今、京といい鎌倉と言い、人が集まるとこうも不自由で複雑怪奇で、ちょっと言葉を違えただけで命を落としかねないのか。
射命丸は、西国での――本気では無かったかも知れないが――範頼の決断が為っていればと、それもまた思い返した。
* * *
この年、鎌倉は特に大きな戦なども無く、一年を終える事になる。これは逆に言えば、義経追討についても滞り、大きく事態が動かなかったからであった。
しかし義経討伐の宣旨は、院より再度奥州の泰衡の元に下されてもいた。もっともこれは院が、宣旨は出すからこちらの求める地頭の一部退去を実現して欲しいという、言外の願いであったのかも知れない。
ともあれ、奥州遠征のための準備は進められ、各地の武士への参戦の打診や兵糧の備蓄も着々と実施されていた。
また一つ、このとき射命丸達の所には噂も届かなかった小さな事件があった。
十一月の始めに鶴岡八幡宮の馬場の木が風も無いのに倒れ、月の半ばの吹雪いた朝には大庭景義の館前で狐が死んでいたなど、怪異が立て続けに起こったのだ。
これらが何をもたらすものだったのか、射命丸はまだ知る由も無かった。
第24話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 藁蓋:藁を編んで作った敷物、円座
※2 瘧の病:史料からは、現在のマラリアと見られている病気。蚊が媒介する原虫性感染症で、高熱や吐き気を呈する。範頼には、この後遺症があったともされる。
※3 証:西洋医学における、カルテと処方箋を一体化した様な物。治療方針。問診や触診など各種診察や、陰陽五行の思想からも導き出される。
※4 黄花蒿:クソニンジンと呼ばれる野草の中国名。元から解熱効果が期待され、漢方で利用されていたが、20世紀に抗マラリア性を有する化合物が抽出された。
※5 城飼郡:現在の静岡県御前崎市浜岡地区から菊川市、掛川市を含む地域。平安時代には『城東郡』と称した。東遠には、渡来系の氏族に関わる伝説が見られる。
※6 宋医:宋医師、宋の医者。劇中当時の日本にとって、最先端の文化を有するのは宋であったため、医療技術もそれを至上としていた。
※7 大法会:法会は、仏法を信徒や僧に説くための会合。特に大きな法会をこう呼んだり、あるいは大会(だいえ)と言った。
頼朝とだけではなく、鎌倉との対立が大八洲全土に知られる事になった義経。その行方が明らかにならぬまま、正月は迎えられた。
年初から良からぬ事が起こる。
雨が降ったと思えば大風に見舞われ、終いにはその折りに起こった火事が鎌倉中で相当な規模に延焼するなど散々であった。
結局は失火であったが、人々の中には義経一派か、彼に心を寄せる者共の仕業では無いかとすら噂する者もあった。
真実はどうであろうと、鎌倉がそれにいちいち振り回されていては威厳も何も無い。義経の捕縛、ひいては彼を匿う奥州の征伐に関する事柄には粛々と地固めをしながら、正月の各種行事は執り行われた。
箱根詣に三島詣。そこには、御家人が――当然範頼と主たる郎党らも同伴していた。
幸いここでは何事も無く、皆無事に帰って来たのであった。その郎党達を先に戻し、――周囲からは陪臣と見られている――主立った者達は更に遅れて帰着。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ、参州様」
まず範頼が馬を下りて門の内に入る。そして、下男どころか門に詰める者より先に、ゆやが彼らを迎えた。
一旦は所領の吉見へ下っていたが、手勢を分けて置く必要も生じ、結局こちらが本拠になっている。ただ、他の者がここの生活を見たら不思議に思うであろう、何がと言えば北斗丸の事である。従五位下三河守の妻が本領の館から出て、手ずから子育てをしている事である。乳母も当てずにそうしている事を、だ。
北斗丸の生まれが鎌倉であり、生地で育ててやりたいというゆやの気持ちがそこにあった。
範頼からしばし遅れ相良の兄弟も続く。いつもならここに次長も居るが、彼は暫く侍所に詰めている。
「ふいー、ようやっと戻ったぞ」
「ただ今、帰着いたしました。兄者、参州殿の奥方に向かってなんという態度か。せめて館に入るまでは威儀を正されよ」
「ご両人とも、お勤め、ご苦労様でありました」
頼綱が兄をたしなめるのをにこやかに見ながら、ゆやはいつもの事ですからと言いながら労う。
彼女にしても、堅苦しいのは他人の前――加えて彼女に対しては姑の様に口うるさい次長の居る時――だけで、館に引っ込んでしまえば頼景とすら大差無い。
「あれ、射命丸様と太郎はどうしたの?」
さっそく砕けた風に話すゆや、一緒にお供をしていたはずの二人の所在を尋ねる。
「一貫坊殿も僧の身であるからな。三尺坊権現様のお達しで、縁のある寺社へ正月の助っ人との事だ」
太郎はその付き添いとの体であるが、あの仲の悪い二人で大丈夫だろうかと、ゆやは首を捻った。
いくつかある部屋の一つ、客間にしている部屋では火鉢を焚いて暖を取れるようにしてあった。ゆやはそこで、衝立の裏の男達がよそ行きの水干から平服に着替えるのを待つ。
以前と比べればまだましになったものの、直接着替えを手伝う事はやはり出来ない。だが予め彼らの衣を用意するのは毎度彼女の仕事だった。
「ゆや、ありがとう」
「いつもかたじけのう御座います」
範頼と頼綱が先に現れ、車座になるよう敷かれた藁蓋(わろうだ)(※1)に腰を落とす。次いで頼景も現れ、小言。
「蒲殿、畳に座れと言っておるだろうに」
上座になる範頼の数歩後ろにはそれがある、当然藁蓋などより心地は良い。
「あれは来客用です。それに離れていたら、声を張り上げなくてはならないので嫌です」
そういった威勢も含めて将だろうにと頼景が渋い顔をすると、それを正しく読み取った範頼も、面倒だと言ったら面倒ですと、目と眉の動きで答える。
「それは範頼様のお好きに。それより、どうでした? 三島社って大きいんでしょ?」
ゆやが期待を込めて土産話を請う。
坂東という語の“坂”。この東西を隔てる、足柄や箱根の坂を越える事は彼女の健脚なら容易だが、その機会が無い。箱根権現詣では頼朝と御台所の信仰もあって奨励されているが、今は北斗丸が居るからだ。
「そりゃ大きい、何せ伊豆国の一ノ宮だからな。とは、俺は一貫坊殿の講釈で今日初めて知った」
そこに頼綱が何事かボソリと呟き、頼景が食って掛かる。そんないつものやりとりのすがら、射命丸と太郎の帰着を下女が伝えに訪れる。聞いたゆやは、風呂の準備を確認にと場を辞した。
その姿を見送り、残った男達は一息して囁く。
「一貫坊殿も太郎も居ないで不安でしたが――」
「どうやら、良い方向に向かっているのでしょうね」
北斗丸の世話が、男に対する心の疵を少しは和らげているのだろうかと範頼は思った。
ここに居る誰も、未だにゆやの口からは直接聞いていない、射命丸は間違いなく知っているだろうと察しているが彼女は決してこれを語らず。それでも、彼らは彼らなりに女達の心情を慮っていた。
今は居ないが――察しの悪い意地悪小姑の立場を貫く――次長ですらも、ちゃんと一定の距離を取っている。
その楽観に、頼景が異議を挟む。
「嬰児と大の男を一緒にする方がおかしいであろうに。二人とも、先は長いと見ておいた方がいい」
それには承知と二人も頷く。頼綱は兄の気遣いに感心しながらも一言。
「ゆやの前ではそう自重するのに、一貫坊様や太郎の前では、何故平然と遊女遊びがどうとか言うのか」
その一言に、毎度の通り、頼綱の首に手が伸びる。
それから組み合いの稽古に発展し、しばらく乱取りをしていると、ゆやと風呂上がりの射命丸らが現れる。文字通り鴉の行水という短さであった。
「いや、もう随分と寒さも和らいだ上、護摩の火を浴びると汗ばかりかきまして。湯風呂を用意して頂いたのは本当に有り難いです」
「ヲン」
とはいえ、厚手の襦袢を重ね着した上に小袖を纏う射命丸。太郎もおおよそそれに倣っている。
「風呂を焚いているのだと知っていたら、俺も入りたかったのだが……」
「これからの方がいい、無駄に汗をかきましたからな」
髻と服を正ながら頼綱がまた一言。頼景も今度はさらりと流し、射命丸らに車座に加わるよう席を進める。
射命丸も一緒になって三島社の事について諸々と語る。ついでに道中での諸併せて語るのを、ゆやは楽しげに聞き入った。
義経の始末については明らかにならないながらも、ここ暫くの鎌倉は平和と言えた。
しかし次の月、範頼自身の身に異変が起こる。
∴
春の彩りも豊かになってきた二月下旬、範頼が高熱を発して倒れた。その異常な発熱は言い伝えられる清盛のものに似通い、僧医の見立てでは周期的に発熱の発作を起こすという瘧(おこり)の病(※2)ではないかと診られた。
この事は頼朝の耳にも入ったが、彼が直に見舞いに来る事は無かった。その代わり、伊豆山権現の専光房(せんこうぼう)良暹、(りようせん)走湯権現の覚淵(かくえん)阿闍梨という、鎌倉にも関わりの深い高名な僧らに、平癒祈願の加持祈祷を執り行わせたのだった。
射命丸はしかしこの祈祷には加わらず、範頼の傍で彼の世話に務めていた。
瘧の病魔が他の者に及んではならぬと人が遠ざけられ、ゆやすらも彼から引き離されていた。そこに射命丸が手を挙げたのだ。
「私や太郎であれば、人を襲う病魔もどうにかなりましょう」
と、もっともらしく。彼女にも確信は無いが、説得力はある。表向きには祈祷をするとの理由を伝えて。
範頼とゆやは、心配しながらもこれに承知した。
「お加減は、どうですか?」
「最初は軽くふらつく程度だったのですが、なんとも、今は天地がひっくり返ってぐるりと廻っているようでございます」
熱は一旦下がったが再度上がり、寝たり覚めたり、覚めても朦朧という有り様の彼の額に、濡らした布を当てながら射命丸が問い掛ける。
「クゥ~ン……」
太郎も不安げ鼻を鳴らしながら、彼の身体を拭いたり着替えをさせたりとしている。ゆやにこれが出来ないのも、彼女らに任せた理由の一つだった。用を足しに行くのだけは下男に任せていたが。
「瘧の病は、次の、三度目の発熱が峠と聞きますが、私には常に峠でなりませぬ」
「気をしっかり持って下さい。あと無理にでも食事は摂って下さい」
「そうですねぇ、辛いのですが何とか頑張ってみます。これが四郎殿だったら口移しを請う所でしょうか?」
戯れに言っているのが、具合の酷さから無理な強がりに見えてしまう。
「ヲン」
口移しの事を真に受けたのか、太郎が答える。
「冗談だよ、太郎。お前にまで病魔が及んだら大変だからね。我慢してでも食べるよ」
褥(しとね)から手を伸ばそうとする範頼。頭を撫でてやろうというのか、だがそれも上手くいかないぐらい体の自由が利かない。
これはいよいよ拙いのではと射命丸は落ち着かない。
「……三尺坊様の御利益は一には火防ですが、二には病苦退散です。蒲殿、本日中には必ず戻ってまいりますので暇を頂戴したく存じます」
言われた範頼の方が気弱げな表情を浮かべる。
なるべく側に。そう願うのは彼女をなお不安にさせるであろうと思い直し、微笑んで了承する。
「それは有り難い事です。それと三尺坊様に何卒と」
実は射命丸の望む事は彼と同じだったが、それを振り切って退室し、ゆやに言い置いて館を後にした。
鎌倉中から外れの、人気の無い森の中に趣いた射命丸。そのまま一気に上空まで飛び上がり、西を目指した。
射命丸にとって、奥の宮も三尺坊に直に会うのも久しい事であったが、何の遠慮も無い。
極めて簡素な佇まいの宮、その木階からずかずかと上がり込む。彼は言い伝えられる通りそこに居る。
「三尺坊様! 病苦退散の御利益があるのでしょう!? 蒲殿の病をなんとかして下さい!」
「使いも寄越さず藪から棒に何なのだ、一体。まあ、もし亡くなったら弔って差し上げよう」
座って文机に向かっていた彼が振り返る、その文机は彼に会わせて背が高い物が使われている。やはり三尺とは名ばかりの体躯。頭髪も髭も、見た目の歳からすると意外にも黒々としている。
その大男の今の言葉に対し、射命丸は噛み付かんばかりに詰め寄り、彼は目をそらしながら言う。
「そういう事は、まず神様に頼みなさい」
「権現様は神様でしょう?!」
「違わなくは無いが、ワシの場合はなぁ。さっきのは冗談として病とは一体何だ、まずはそれから話せ」
至極当然な三尺坊の問い、射命丸もようやく落ち着いて子細を話す。彼もそれを以て理解し、答える。
「瘧の病、それも二度目の発作が出ている、か。生憎だが、今手元の薬は切らしておるのだ」
「神通力ではなく、薬なのですか!?」
人を謀る不徳漢を見る様な目で、三尺坊を見る射命丸。彼も眉を寄せて言う。
「だから、ワシが使うのは神に通じる力であって、神仏とは少し違うのだと」
彼はそう言いながらも、文机に向かい何やらしたため始める。
「病相手に薬が無いのでは、三尺坊様もむの――」
「待て待て。材料自体はそこらに生えているのだが、手を加えた生薬その物を先日渡してしまったのだ。瘧が流行る時期が来る前に欲しいと言われて、見本に作った物をな」
「それは誰に!」
「……武蔵国の桜坊殿だ」
まさか彼が、こっちに来た分骨折り損ではないかと、射命丸は筋違いに憤慨する。三尺坊もこれ以上この面倒な弟子の相手をしたくないと呆れながら書状を渡す。
「今のお主なら、一刻とかからず着くだろうに」
「山を幾つ越えると思っているのですか! それにその一刻を争うのですよ!」
三尺坊は辟易しながら、今渡したのはこの件の言伝と処方だからと説明し、別件を付け加える。
「実はな、お主に言い置きたい事があった。が、それも桜坊殿に含めてある」
「今ここで伺うわけには?」
「こちらでは少し調べが済んでいない事があるのだ、そこを彼のお方が調べる手はずになっておった」
なのでそちらから聞いた方がいいと言葉を切る。射命丸も渋々という顔を隠さずそれに納得した。
三尺坊に言われた通り一刻とかからなかったが、射命丸は武蔵国へ着くなり、昼にもかかわらず飛行のまま桜坊の住居へ向かう。雲の厚さが幸いした。
射命丸が、来訪を歓待する彼を急かすように三尺坊の書状を渡すと、彼はすぐに奥から薬包を持って出て来た。
「服用の仕方もここに書いてありますから、それに従って下さい。ただ証(しょう)(※3)を合わせた物ではありませんで覿面に効くとは思えませんが、普段強健な参州様なら、体力さえ持たせれば薬無しでも回復するでしょう」
もしかしたらもう治ってしまっているかも知れないと、半ば安心させるためでもあり、半ば本当にそう考えながら桜坊は言う。
「桜坊様、有り難うございます」
「いえいえ、参州様にはお大事にと。それと、しばし吉見へ戻られなかったので伝え損ねていた件ですね」
彼や三尺坊にとってはこちらこそ本題だった。射命丸も出来るだけ早く戻りたいとは思いつつも、――僅かな持ち合わせを手土産にはしたが――殆ど無償で応じてくれた手前、話はしかと聞く。
「一貫坊殿。貴女は、三尺坊様が未だ参州様の所へ貴女を留め置く理由、如何とお考えですか?」
実はその話が来たらどんな言い訳をしようかと、逐次説得力のありそうな話を練っているほど。
しかし今まで言い出さない三尺坊の考えとは、射命丸は少し考えてみる。
ゆやの事だけでずっと鎌倉へ留まるのを認めているとは考えにくい。当初の指示が未だに生きているのだと考えれば、やはり射命丸にとって好ましくない話。
「天邪鬼は退治した、はずです」
断定を避ける句が加わる。
「それは三尺坊様もご存知で、ですがその時点で貴女を帰山させませんでしたね?」
「はい」
やはりそうかと、射命丸の顔は歪む。
「貴女の手で西国にて撃退され、しかし私の調べではその後京を廻り、今は陸奥にあるようです」
「まさか!?」
その道程は重なる、彼の人物と。
義経が憑かれたのか。そうとは限らない。妻である河越重頼の娘の郷御前や、他にも近しい郎党を引き連れている。彼ら彼女らかも知れない。
ただ少なくともその合致は、一行の中に奴が在った事を示唆する。
つくづく、つくづくだと射命丸は唇を噛む。
「河越殿の件は、真に不幸な事でありました……」
もしかしたら義経も天邪鬼に謀られたのかも。そうなると誅殺された重頼と嫡男重房は、共々それに巻き込まれたのか。思う程にいたたまれなかった。
「多分、貴女が気に病む事ではありませんよ。それと私の手元にも、前予州様の追討の準備が進んでいる旨が流れてきていますね」
表向き商人をしている彼の耳に入るのは当然の事だ。
人の世の理は、ある意味では妖の怪奇よりも怪奇、今回はそれが重合している。また、出向く事になるのだろう。
やはりこれは避けられない事なのだ。射命丸はそう悟り、暇乞いをして鎌倉への帰路に着いた。
鎌倉では飛ぶわけにいかず、行きと同じく近くの森に降り立ち、徒歩で都邑へ入り浜の館に帰着。
方々で一刻を争うとは言ってみたが、よくよくすれば、これが瘧なら周期から言ってまだ次の発作までは余裕はだいぶある。
日が昇りきるより前に出て、日が暮れる前には戻る事が出来た。都合半日で遠江、武蔵、鎌倉と巡れたのは、それだけ必死だったのか今の射命丸の実力か。
「ただ今戻りました」
門衛にそう告げて門をくぐろうとすると、門衛からは来客有りとの話。「誰彼が」等と射命丸が問えば、嫌そうな貌から返って来た答えはなんと景時。
先に聞けて良かったと礼を言って館に入り、範頼の寝所へ向かう。
「一貫坊、ただ今戻りました」
ジロリと、吊り上がった三白眼が射命丸に向く。
「一貫坊殿は参州殿の祈祷を、という話を当館の家人から聞いておりましたが、さて」
射命丸は内心を隠して平静に答える。
「覚淵様や良暹様といった方々を始め、名だたる僧が祈祷している傍らで、小僧(しょうそう)如きが神仏にとやかく言上しても邪魔になると思いました故、せめて薬をと」
言って、範頼の側に座る景時の横、板間にそのまま腰を下ろす。先に下女に求めていた白湯を待ちながら範頼に問い、続けて景時に言う。
「参州様、お加減は如何ですか? あと、病魔を他人に及ぼすといけないからと参州様は人払いをしていたのですが、梶原様は何故こちらへ?」
「ああ、朝と比べれば大分良いですよ、これなら食事も喉を通りそうです。それと平三殿は――」
「私もお加減を伺いに参った次第です」
少しも表情を変えずに答える景時。言葉通りに受け取るのを迷う射命丸、彼が――思いやりという点について――そんな殊勝な人物だとは思えなかった。
「薬と仰いましたな、黄花蒿(おうかこう)(※5)ですかな」
「え、はい。よくご存知で」
景時がそれを知っていたのに少し驚く射命丸。自身は三尺坊の処方で先程知ったばかりであった。
「なるほど、祈祷が一番ですが、薬も馬鹿にした物ではありませんからな」
範頼に向き直って言う、やはり愛想の欠片も無い。
「一貫坊様がお持ち下さったのは、遠州秋葉山、三尺坊権現の霊験もあらたかな妙薬だそうで」
範頼が体を起こして言うと、景時は初めて感心したという風な、僅かばかりの驚きを示す。射命丸は少し気を良くして、しかし失言に気を付けて言う。
「はい、幸いにもこれを吉見の商人が授かっておりました故、早馬や飛脚等々でお持ちいたしました」
景時はまたひとつ「ふむ」と呟くと、やおら立ち上がって一礼。
「春になったとはいえ季節の変わり目です。油断されず養生なさいますよう。一貫坊殿も、己が身を病んでは務めも為りませんぞ。この後も用心を怠りなさるな」
範頼のついでに言われた彼女は、景時が細やかに気を配るのを意外そうに見る。範頼を無理に起こして、侍所なり御所なりと連れ回すような人物と思っていた。
「参州殿、私はこれにて失礼致します。一貫坊殿、どうかしましたかな?」
「あ、や、、、ご足労、誠に有り難うございました」
「本当に、有り難うございました。平三殿も病魔にはお気を付け下さいませ」
「お言葉かたじけのうござる。それと参州殿、先の件はよしなに計らわれるよう掛け合います。それでは改めて、失礼します」
またも一礼して去って行く。先の件とはなんだろうと思いつつ、射命丸は家人を代表して景時を見送った。
景時の退出を伺っていたのか、虫が這い出す様に頼景が、続いて太郎も姿を現す。
「ただ今、戻りまして候」
「ヲン!」
白々しいと二人を白眼視する射命丸。
「言っておきますがな、一貫坊殿。俺達は隠れていたのではなく蒲殿の使いでですな――」
「ヲフヲフ」
「門の内から現れたのは、一体如何なる次第で?」
勝手口もあるが、今時分にあえてそちらから入る道理は無い。
「隠れていました、すいません」
「クゥーン」
あっさり認めて太郎共々頭を垂れる。
それはどうとでもと、射命丸は範頼の寝所へ戻り、彼に白湯と薬を渡してに促す。
「薬ですが、胃の腑が荒れるといけないので汁粥を召し上がった後にきこしめしませ。あと腹痛などが却って酷くなるなら仰って下さい」
「はるばる遠州まで、有り難うございます」
それだけで済めばよかったがと射命丸は思いつつ、これ以上子細を話すと彼の心身に障るであろうと、頭を下げて返すに止める。
「遠江まで帰っていたのですか、流石は……」
頼景も感嘆の声を漏らす。射命丸も少し鼻が高くなった気がした。鼻高天狗ではないが。
この国で、彼女の他にはこれだけの事を為す者は居るまい。木の頂を跳ねて回っていたのなど嘘の様に、もはや速く飛ぶ事にかけて敵う者は居るまい。恐らくは西国の、あの皆鶴よりも。
太郎を残し、一旦部屋から出て子細を聞く頼景。彼女の話に納得したようで聞き終わってから言う。
「漢方、宋医の術ですかな。確かそこらに生えているクソニンジンという草を使うのだとか、かつてはそういう話も聞いた記憶があるような」
「そうなのですか、実は私はさっぱりでして」
「俺も聞きかじりですて。相良からも近い、今の城飼(きこう)郡(※5)に居た渡来人がもたらしていた智慧だそうで」
その地の字面の如く城で飼うとして、渡来人を招聘していた時の話。平安の世の始まりの頃からの事だ。
ただ本当にそれが効くのかも分からず、素人考えで下手な事が言い出せなかったのだと彼は言う。頼綱も言わなかったのだから仕方ない事であった。
「そうだ、確か清盛公の病も瘧であったとか噂を聞いたな。宋医(※6)なども多く抱えていたであろうに、何故これを用いなかったのかな」
瘧ではなく未知の病だったのかも知れない。だが、もしかしたらという程度ではあるが、射命丸には別の理由も思い当たった。
「小松殿――故内大臣重盛殿は末期の病に罹った際、宋医の治療を拒んだらしいです。本邦の医術の未熟を認めるよりは、それも天命と受け容れたいとの由で」
そのため清盛も、瘧を患った時、愛息の最期に倣って宋医に頼るのを拒み、そのまま亡くなったでは。あくまで推測であるがと注釈して言う。
清盛に訪れた断末摩は凄まじいものであったと伝えられているが、あえてそうしたのであったなら――
「なんとも潔い事だ。だが漢方などだいぶ前に伝来した物ですからなぁ。人の事は言えないが、もし知らぬのであったなら、もったいないことですな」
お陰で平家に打ち勝ったのであれば、病魔も万歳とは言わずとも、源氏には幸いであったとは言えた。
話を終えて部屋に戻ろうとする二人の前に、盆を手に乗せたゆやが現れる。盆の上には白湯と薬包紙が置かれている。
ここで射命丸は不思議に思った。手元にはちゃんと薬はある、範頼に渡した他は受け取った分全て。
「ゆや、その薬は?」
「これですか? 梶原様より頂いた物ですよ」
彼自身の考えか頼朝が持たせた物か、もしかしたら次長が用意したのかもとも考えた。
どちらにせよ、自身のここ半日の不安と東奔西走が徒労であったと悟り、がっくりと肩を落とす射命丸。
「全く。三尺坊様といい平三殿といい、私がどれだけ必死に駆けずり回ったのかと、あの御仁らは……」
「射命丸様かわいそ」
「呪ってやる……」
呪いは兎も角も、薬その物に加え、射命丸らの献身的な行いもあり、範頼は一両日中に起こると言われた発作を乗り越え快方に向かった。
∴
月が明けた三月の始め。範頼の病後も良好でこの頃には快癒し、それからは早々に出仕を再開した。
覚淵や良暹らの加持の効験と、かの聖らには頼朝からも馬が納められたとの事であった。もっとも、近隣にも鎌倉にも何事も無かったから、こうで済んだのかも知れなかったが。
そうこうして、月半ばには八幡宮では大法会(だいほうえ)(※7)もあり、少しばかり忙しい日々も過ぎて、終わった。
「ようやくと済んだのぉ」
「長うございました……」
先月から侍所に詰めっぱなしだった次長、月初めから行方がそちらになっていた頼綱も館に戻った。
桜を見ている暇も無かったと嘆く二人には射命丸も同意、なんだかんだで彼女もかり出されていた。残っていたゆやと太郎も、北斗丸の事だけでなく雑多にやる事があり、こちらもようやくひと心地。
「まあ、色々ありましたな。平三殿が大般若経を納めるのが主でありましたが」
「まあ、色々と、ですな」
「特に何かあったのですか?」
次長と頼景の両人曰く。
頼朝の剣を持する役を、甲斐源氏武田党の武田兵衛尉有義(ありよし)が渋って――結局その役は結城朝光に任せられた――頼朝の怒りを被ったり、終いに彼は法会に参加せず逐電してしまった事。
またその後の席で、遠江国で水利に関する乱闘があったらしい事などが聞かれたとも。
「遠江守義定殿が命じた工事で、熊野山嶺の住民との間で刃傷沙汰があったとかでしてな、近々正式な訴えも届く事でしょう。まぁ水が絡むとどうにも。しっかし、両方とも甲斐武田絡みというのが」
次長がくどくどと言うと、ゆやは嘆息する。
「どうかなされたか?」
「私の名の、由来ですので……」
余り気分のいいものではない。次長もそれを受けて、この話は止めにした。
それよりも重要な話があると、次長は面持ちを厳しくして言う。頼綱も隣で難しい顔で腕組みをしている。
「あまり女子が聞いてよいお話では無さそうですが」
「いや、是非聞くべきである。これはお許の良人(おっと)、参州殿の今後に大きく関わるかも知れないのだ」
次長が言うと、頼綱の貌も更に険しくなる。怒ったり訝ったりと言うより、非常に困っている風である。この場に居る者に内々に話そうと次長が言う。
「蒲殿を交えてはお話しされないのですか?」
「一貫坊様が蒲殿と兄者を押し止めて下さるなら、それでもよいのですが……」
ああ、そういう話か。射命丸は察する。
館に上がって皆で一室に入る。次長が語るのは、義経討伐に係る話であった。その話が進んでいるだけでも重要である。
「では、蒲殿がその総大将に?」
かつての義仲討伐、西国遠征同様そうなるのか。射命丸の問いに頼綱は黙って頭を振る、否であると。
「平三殿の讒言にござる」
次長はそれだけ言って黙る。これ以上は憚るとの意思が伺え、切り捨て過ぎた言葉は頼綱が補足する。
「季節外れの瘧などを患う者に、史上かつて無い戦上手の九郎殿並びに奥州藤原十数万の相手が務まるものか、と、大意はそんなところでございます」
「戦の得手不得手と病など関係無かろうに、それも総大将であるぞ?!」
次長は言うが、これは糾されているのが範頼であるからだ。他の者が同じくされたら、逆の立場であったら、それに迎合するところですらある。
それにしても確かに、総大将よりも陣頭の方がよほど病云々は関わる事があろうにと射命丸は思う。それが道理だ。
「平三殿は蒲殿を排したいのだ、そうに違い無い」
なおも景時への愚痴が募る、とても冷静とは言い難い。次長が歳不相応に激し易い性格なのは皆承知していたが、これは刃傷沙汰もあり得るかと思うほど。
年寄りが元気過ぎる坂東の空気に、遠江の次長も染まったのか。そして彼の気質が範頼にも伝播したきらいがないでも無い。
「落ち着いて下され、勝間田様」
「黙らっしゃい! これが落ち着いておられるか!」
「いやその……蒲殿が……」
いつからそこに居たのか。人払いしていたはず、ではあるものの、主人を払う人払いなどもあり得ない。
「どうされたのですか、勝間田様」
「おお、蒲殿。予州殿征伐の総大将の件、お聞きになられましたか!?」
「……はい。恐らくは上総介殿が主となり、大手と搦め手に分けてそれぞれ大将を置くものかと。今のところそれは、畠山殿か比企のどなたか、これだけはおよそ決まりかと」
「蒲冠者は如何という沙汰、お耳にされましたか!?」
範頼はしばしの間を開けてそれに答える。
「私は、恐らく本営に配されるかと。鎌倉殿もお出ましになるとの事でもありますし」
スッと深く息を吸い込む次長。これはいけないと頼綱は止めようとする。しかし遅い。
「たとい! 上総介殿が源氏であり、累代の武士であろうとも! 蒲殿は鎌倉殿と同じく! 故左典厩義朝様の御子でありましょう! それが――」
「次長! 無礼であるぞ!」
範頼が突如、次長にも負けぬ怒声で一喝。
誰に対する無礼であるのかその言葉からは定かでは無い。そして次長は臆する等ではなく満足そうに、しかし怒りながら言う。
「おう、よくぞ仰られました。その意気であれば、鎌倉殿のお出ましなども要らぬでありましょう」
より無礼な言葉を残し、次長は暇乞いもせずに部屋を後にする。
範頼の怒声にはむしろ、次長ではなく射命丸らがおののいていた。
「範頼様?」
おずとしながらも話しかけたのは、ゆやであった。
もう範頼の顔に怒りは無い。しかし普段のような微笑みも無く、憂いに沈んでいる。
「すいません。七郎殿、一貫坊様。席を外して頂けますでしょうか?」
言われた二人は静かにその場を後にする。射命丸はゆやの事を少し不安に思いながらも、二人を信じる。
残ったゆやは、激した範頼に替わるように、普段の彼の様に静かに微笑んでいる。その彼女に、
「私は本当に、汚い人間です」
やはり憂いを含んだ声。
その意味は分からないながらも、ゆやはしかとその言葉を受け止めた。綺麗も汚いも、彼の事は知っているのだからと。
範頼が総大将から外れる話は間を置かずに頼景の耳にも入ったが、その反応は射命丸らの危惧するよりもずっと落ち着いたものであった。
「そうか。梶原殿が――という話でそうなった、とは初めて聞いたな」
「なんだ、兄者なら怒り出すかと思ったが」
「太郎が何やら怯えておったと思ったら……」
範頼が誰かを怒鳴り付けるなど滅多に無い。それを彼女の耳は捉えていた、その為だ。
「しかし梶原殿がどうこう言わずとも、御曹司の事であるからな、多分何とかして辞していただろうに」
「ああ、言われてみれば」
射命丸もこれには納得する。
西国遠征の後、頼朝が多くの御家人に下した戒告の流れの中で官位官職の返上を図った事を思えば、それも当然だと思えたのだ。
ましてや今回は弟義経の追討。彼とはまともに会話こそした事の無い範頼であったが、景時が戦功はさておきとその行いの悪しさを報告した際も、範頼は戦功故であればと影ながら擁護していたのだ。
常光の件を勘案してもなお、範頼が積極的に義経討伐の指揮を執るとは考えにくい。
「のお、兄者」
「何か?」
「もしだ、もし俺が予州殿だったとして、兄者が鎌倉殿であったらどうする?」
「梟首」
頼綱の問いに頼景は即答。さしもの頼綱も眉をひそめて抗議。
「いや、もう少し躊躇があってもよかろうに!?」
「今、俺が相良の主で、お前が抜け駆けしてあちらこちらで功を立てようが勝手に領地を賜ろうが、何も言わん。むしろ褒める。翻って、鎌倉はそうではない」
言われて押し黙る頼綱。全てが頼朝の鶴の一声で動いていると勘違いしていた。
鎌倉殿は最終的に意思決定をする者ではあるかも知れない、だがその前の段階で、多くの意思が介在しているのだ。
「鎌倉殿は鎌倉殿としておわすのだ、それなりの偉容を見せねばならないのであろう。今度は俺から問うが、そうでない鎌倉殿に付いて行けるか?」
お前らしくもないと呆れた様子で問い返す頼景に、頼綱も浅はかだったと納得する。
射命丸は思う。人間というのは、自由で便利で生きるに心配する事が少ない。鴉がそう考えていたのも、随分と昔になった。
翻って今、京といい鎌倉と言い、人が集まるとこうも不自由で複雑怪奇で、ちょっと言葉を違えただけで命を落としかねないのか。
射命丸は、西国での――本気では無かったかも知れないが――範頼の決断が為っていればと、それもまた思い返した。
* * *
この年、鎌倉は特に大きな戦なども無く、一年を終える事になる。これは逆に言えば、義経追討についても滞り、大きく事態が動かなかったからであった。
しかし義経討伐の宣旨は、院より再度奥州の泰衡の元に下されてもいた。もっともこれは院が、宣旨は出すからこちらの求める地頭の一部退去を実現して欲しいという、言外の願いであったのかも知れない。
ともあれ、奥州遠征のための準備は進められ、各地の武士への参戦の打診や兵糧の備蓄も着々と実施されていた。
また一つ、このとき射命丸達の所には噂も届かなかった小さな事件があった。
十一月の始めに鶴岡八幡宮の馬場の木が風も無いのに倒れ、月の半ばの吹雪いた朝には大庭景義の館前で狐が死んでいたなど、怪異が立て続けに起こったのだ。
これらが何をもたらすものだったのか、射命丸はまだ知る由も無かった。
第24話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 藁蓋:藁を編んで作った敷物、円座
※2 瘧の病:史料からは、現在のマラリアと見られている病気。蚊が媒介する原虫性感染症で、高熱や吐き気を呈する。範頼には、この後遺症があったともされる。
※3 証:西洋医学における、カルテと処方箋を一体化した様な物。治療方針。問診や触診など各種診察や、陰陽五行の思想からも導き出される。
※4 黄花蒿:クソニンジンと呼ばれる野草の中国名。元から解熱効果が期待され、漢方で利用されていたが、20世紀に抗マラリア性を有する化合物が抽出された。
※5 城飼郡:現在の静岡県御前崎市浜岡地区から菊川市、掛川市を含む地域。平安時代には『城東郡』と称した。東遠には、渡来系の氏族に関わる伝説が見られる。
※6 宋医:宋医師、宋の医者。劇中当時の日本にとって、最先端の文化を有するのは宋であったため、医療技術もそれを至上としていた。
※7 大法会:法会は、仏法を信徒や僧に説くための会合。特に大きな法会をこう呼んだり、あるいは大会(だいえ)と言った。
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