十./初陣(西暦1183年)
範頼達が横見の館に居を構えて二年余り。まだ戦へかり出されることも無く、三度目の春を迎えつつある。
範頼や彼に近しい者は、初めて武蔵国へ来た時同様に石戸宿の阿弥陀堂へ足を運んでいた。ようやく伽藍が建立され、御堂自体も改めて開眼されたため、過日の礼を兼ねて祝いに来ていたのだ。
「おはようございます、寒いですねぇ」
「一貫坊様、おはようございます」
射命丸と範頼は真っ先に起き出して境内を散策する。
梅の花が真っ盛りの時期にはなっても、肌寒さは抜けない。冬はつとめてとはよく言ったもので、そこは極めて静謐な空気に満ちていた。
ただ今日に限っては、尋常でないものがそこにある。
「桜、ですか」
「まだ早いのに、よく咲いたものですね」
梅に混じり、一株の桜もいくつか花を付けている。その高さは六尺にも満たない。山桜のようではあるが二寸近くの大輪の花、色は仄かに紅が差す程度で殆ど真っ白。
ここまではまだいい。
「一貫坊様、あの桜の側、誰か居ませんか?」
「幻では無いようですね」
桜の側にまた不思議な光景――一人の少女がそこに佇んでいたのだ。
射命丸も気付いていたが、実在のものとは思っていなかった。妖であり僧でもある彼女はそういったモノを希に目にするし、少女の出で立ちが特異な物であったのもそう判じた理由の一つ。
遠目では麻の様な布で出来た貫頭衣を纏い、足下は裸足、その他には何も身に着けていない。
二人とも初めて目にする顔。年嵩経た獣の毛皮の様にツヤの無い白髪ではあるものの、その面(おもて)は瑞々しい少女の物。目の周りや頬にうっすらと紅で隈取りしており、これは古い時代の巫女の化粧の様でもある。
年の頃はゆやと同じぐらいか、範頼は彼女の事を思い返しながら、あどけなくも精悍と言える面立ちの少女を見ている。
「御曹司、あそこに桜など植えてあったか?」
「おはようございます。いえ、あそこは私が重徳様宅の桜で作った鞭を立てただけでしたが、もしかしたらお堂の方が植えられたのかも」
現れた頼景が桜の方を見て言う。桜よりも少女の方が気にならないのか。
少女はじっと、自分の背より少し高い桜を見上げ、そうしているだけ。少しの動きも見せない。
射命丸はもう一つ、少女の容姿の異常に気付いていた。明らかにヒトとは異なる位置に、ヒトとは異なるが耳と言える物がある。
「で、あれは一体何者だ?」
やはり頼景にも見えていた。
頭部に一対の獣の耳、猟師が頭付きの獣の毛皮を被るとそんな具合になる。そう、毛皮を被っているなら分かる、しかしそうではない。
三人ともしばらく黙って彼女を見守る。ようやく口を開いた範頼が、射命丸すら驚く事を言う。
「……太郎?」
今言った太郎が何者かは嫌でも分かる。しかしどこをどうしたら、あの少女があの太郎に見えるのか。逆に頼景は得心がいった風に「おお」と呟く。続く行動はこれも、妖である射命丸の想像すら超えるもの。
「おーい、太郎。こっちだこっち」
犬を呼び寄せるのと同じく、手招きしながら叫ぶ。
少女が頭頂の耳をピクリと動かして向き直る。背側の腰の下辺りをよく見れば、衣の裾から何か飛び出しており、更にそれが左右にパタパタと振れる。
「これは一体……」
やはり幻か亡霊を見ているのか、それとも二人が犬の太郎の幻を見ているのか。射命丸は一人混乱する。少女は二本の脚で三人に駆け寄り、頼景に飛びついた。
何者かのまやかしであるのを警戒すべきであった射命丸も唐突な事に対応が遅れ、慌てて構える。
「頼景殿!」
勢いで後ろに倒れる頼景。射命丸は間に合わず、範頼は反応すら出来ない。
射命丸は見附で二度目に太郎に会った時の事を思い出した。ちょうどこんな感じだった、飛びついたのは少女でなく白く大きな山犬だったが。
どう見てもじゃれついている、場所を間違えていたら艶事にも見間違える事であろう。
「あのー頼景殿。その、娘さん? ですが、頼景殿にはどう見えているのですか?」
何と言っていいのか分からず、言葉を選びながら問い掛ける。これは範頼も同じ気持ちなのか、ただただ唖然と見ていた。
「いや、太郎であろう?」
「どう見ても、いえ、その耳と尾はさておき、他は人間の娘なのですが」
「その様ですな。こら太郎、いい加減止さぬか」
どうやら同じ様に見えてはいる模様、それ以外の疑問は全く解けないが。射命丸が理解に苦しんでいる内にまた一人、
「ば、ばば、化けも――」
頼綱がいつの間にか来ていた。それを頼景が締め上げ、口を塞ぐ。それだけならよかったが、頼綱はそのまま気を失ってしまった。当然兄のせいで。
側に射命丸も居るのにこれぐらいでいちいち驚くなと、気が付いた頼綱に頼景が説教を垂れる。絞め落とされたのではなく、驚いて勝手に気を失った事にされていた。
客間の一室を閉め切って車座になる六人、範頼らの他に次長も同席している。何より――一頭か一人か判じかねるが便宜上――問題の一人。
射命丸の事も尋常に受け入れた彼らは、彼女が妖であると明かした時と大差なく平然としている。
「狐狸の類かと思えば、犬、狼、でありますか」
「元は確か山犬ですが、よくそう平然としておられますな、勝間田様」
「いや、あの太郎の事は当然知っておる。それより滝口(※1)として京に居た時には、より怖ろしい魑魅魍魎もわんさと居た。それが無くともここには一貫坊殿や桜坊殿もおわす、今更である。七郎殿はなぜそう恐れる、見知った者であろうが」
「私が知っているのは犬の太郎であって、妖ではありませんて。それにその太郎は死んだのですぞ」
「だからこの様な姿を取って蘇って、ここに居るのであろう」
話の重心が相当ズレているようにも頼綱は感じる。これが本当にあの太郎だとして、死んだ者が蘇ったのも、またこの様な姿であるのも、ここに現れたのも、何もかもが疑問でしかない。
「そうだぞ頼綱、素直に喜べ。それにどうだ、中々の器量ではないか、いっそ嫁にとってはどうか」
「それはしかし、色々問題がありそうではある」
次長は腕組みしながら考え込む、彼が気にするのは身分や血筋云々の点。本来はそれ以前に気にすべき事が山程あるのに。
「兄者も無茶を言う。しかし、せめてなりと事情を知れれば良いのですが」
本人が自身の境遇を理解しているのか、それすら分かっていない。説明を求めようにも――
「どうだ太郎、このデカブツ、七郎頼綱は。家督を継ぐ事は無いが、さほど暮らしに不自由せんぞ」
「クゥーン……」
「頼綱、残念だな」
「いや兄者、そうではないだろう」
喋れないのだ、太郎は。ただし――特に難解な語彙は除いて――人語は理解しており、更には文字までも読めているようである、
頼景に飛びついた後、しばらく何か言いたそうに声を発してはいた。ただそれは変質した犬の鳴き声らしきもの、声質は見た目に相応しい少女の物であった。
何度かもどかしげにそうしていたが、今は諦めている。ただ声音と表情や仕草から、反応や感情は分からなくも無い。何より耳や尾の動きが、犬であった時と同じく如実にそれを表す。
そして彼女が喋れない事は、射命丸を安心させた。もし言葉を発する事が出来たなら、過日の自身の行いを、彼女を死なせてゆやを攫われるに任せた事を、暴露されると思っていたからだ。
それ故に射命丸は、太郎が今ここにあるのは平家の者や天邪鬼への復讐のみならず、自身へのそれであるとすら考えていた。
その事情を知らない範頼、しばらく黙していたがここで口を開く。
「これは、天邪鬼、猿退治からの一連として、大山祇神が遣わしたと考えるべきでしょうか」
木ノ花咲耶姫の父、大山祇神。使いである猿を天邪鬼に取られた娘の為に、己が遣いの霊犬を邪鬼退治に遣わしたのだろうという意味で言う。
そしてこれは何かに符号しているようにも、他の一同には思えた。
「天邪鬼は、現平家棟梁、内府宗盛卿に取り入ったか、取り憑いたか謀ったかしたと仰いましたな。それにつけても赤と白、これはなんとも」
猿の赤ら顔と、今は白眉白髪である、元は真白い山犬。
次長の意図する事を頼綱が察して繋ぐ。
「源氏の白旗と平家の赤旗(※2)、ですかな」
「然り」
太郎がここに居る意味はそうなのだろうか。神代より後、現在に至って、天がここまで人の世に関わった事があったろうかと射命丸は考える。この場では最も長じた彼女ですら、齢まだ百数十年と二十余年。その例を見たのは皆無であるし、ましてやこれは日本全土に及びかねない事。
「奴を討つついでに平家を倒すか、平家を倒すついでに奴を討つか、俺達は、前者のはずですがな」
頼景の言葉に範頼の眉が動く。射命丸はそれを見逃さなかった。
「いずれにせよ、主でもついででもありますまい。私達が目指すべきはゆや殿を奪い返す事で――」
「一貫坊様、それは違います」
「おい、御曹司」
「ヲン?」
範頼の気持ちを代弁したつもりだった射命丸は、面を食らって戸惑う。頼景と、太郎ですら、そうでなければなんなのだと言いたげにする。
「いえ、違うのは一貫坊様の事です。まず一貫坊様が私達と行動を共にして下さるのは、天邪鬼を追討せよと三尺坊権現の指示を受けての事です。太郎が、もし大山祇神が遣わせしめたというのであれば、これも同じくであると思います」
この意図を次長が確認する。
「お二方には、あくまで天邪鬼の相手のみせよと?」
「はい。両方の件が不可分に近いのも承知しておりますが、故に互いに混同なさいませぬようにと」
この突き放している風にも聞こえる言葉も、範頼であればこそのものだった。この二人を人間の戦になど巻き込みたくないのだ。何より人同士の諍いの中で一度、妹同然であった太郎を失ってしまったのだから。
「蒲殿、気持ちは分かるがな。それでは仮に平家の打倒が成り、ゆやを取り返した時点で仮に天邪鬼を討てていなかったら、お主は一貫坊殿や太郎に勝手にやれと言うか? 違うであろう」
「ええ、違います」
「……一貫坊殿の気持ちも、汲んではどうか」
天邪鬼を退治した後、射命丸はとっとと去ってしまうか。お互いに決してそうではない、頼景は言外に咎める。
「ヲフヲフ」
「無論、こいつもだ」
太郎も彼の言には同意で、鼻息荒く首を縦に振る。
頼景が言いながら、かつての様に太郎の頭をくしゃくしゃと掻くと、彼女は少し鬱陶しそうにし、しかし止めると嬉しそうにひと吠え。どうやらこれもかつてと同じで、嬉しいらしい。
「すいません。一貫坊様の事を侮っているのではないのです。私に稽古を付けて下さる程ですし。太郎も、かつての事を考えれば相応の力があるのでしょう」
太郎についてはその力量を確認する必要はあろう。ただし、その上で期待するだけの実力を持っていたとしても、果たして列中に加えるべきか否かはまた別。
「でも、やはり……」
二人とも――
言い淀む範頼に射命丸が問う。
「頼景殿や勝間田様の事は如何なのです? それに相良の郎党や横見の衆の皆も」
頼景らの他は、まだ行動を共にし始めて日が浅い者達ばかりである。それでも範頼であればどう思うか、彼の心に期待する。
「それは、いずれも戦を覚悟の上で参じて来られた方々ですから……」
「私も十分に覚悟しておりますが?」
範頼は言葉を詰まらせ、しまったという貌をする。妖である事を明かしてまで赤心を示した彼女の覚悟のほどは分かっている、それに疑いを挟む余地など無い。
「一貫坊様、ずるいです」
範頼は苦笑いし、射命丸ははにかむ。その横で頼綱がやや不満げにしているのを、頼景が咎める。
「なんだ、景気の悪そうな顔をして」
「いや、勝間田様や兄者は特段そう言って頂けるのに、俺はこの場に在っても相良のいち家人でしかないのであろうなぁ、と」
射命丸は当然含めて言ったつもりであったが、少し配慮に欠けたかと誤魔化し笑いをする。
「そんな事は当たり前であろうに」
よりにもよって当の兄がそう言い放つのには、流石の彼も肩を落とした。
「いえ、頼綱殿も当然そうですよ」
昔から親しむ仲だ。少し可笑しげに言う範頼。
横見の衆は無論、お目付役の常光の事もそう思っている事であろう。射命丸は彼の心に期待する。
これから迎えるであろう戦の中では、こんな事は言っておられないかも知れない。それでも彼がこの様に思い続けてくれる事を祈った。
望外にも太郎という“一人”の仲間を迎えた一同の間には、穏やかな空気が流れる。
しかしその横で、彼女が厳しい眼差しを射命丸に向けているのには、誰も気付いていなかった。
∴
農繁期に入ろうとする横見で、稽古に農作業にといそしむ射命丸達。わざわざ開墾せずとも横見は田畑がよく拓かれ、相良の郎党も農作業や氏神の祭りを通して横見の住人に馴染んでいった。
また坂東の馬の気性には少し手こずっていたものの、そちらにも次第に慣れて来ていた。
新たな住人、太郎は、横見の館で範頼達と共に暮らし、彼女の事は――事情は伏せつつも――常光にも明かされた。彼はやはり、次長同様平然としていた。むしろ孫が増えたようだとすら言う程。
その横見の範頼の館では、半裸の少女と頼景が、布きれと悪戦苦闘していた。
「ああ、違う違う。お前の場合手綱はもっとこう腰の上に括って、前でギュッと持ち上げてだな」
「クゥーン」
太郎に小袖(※4)の更に下着、手綱(たづな)(※3)を着付けてやる。この上に袴を穿いて鎧直垂を着けてようやく一段落。その上に胴丸、具足や小手の装着も待っている。
太郎との邂逅の後、まず問題だったのは彼女が妖である事の秘匿であった。根本的に彼女自身を隠す案は、まず頼景が、続いて次長も退けていた。共に暮らすならば教育等が必要と思われたが、彼女を遣わした者の計らいか、ずっとゆやの側に居たためか、日常の殆どに不具合は無かった。
ただし田畑に入るには農具の使い方が怪しかったし手際も悪い。武術は、刀の持ち方すら知らなかった。それでもしっかり言う事は聞き、どんな事も教えれば――得手不得手はあれど――覚えた。
そして、太郎は戦う事を望んでいた。膂力は尋常ではなく頼綱にも遙かに勝り、刀を持たせれば活躍するだろうと期待される。今現在の事は、その為の鎧の着付けであった。
「頼景殿、見ているこちらが恥ずかしいのですが」
胸こそ晒し布を巻いて潰しているが、片方を腰で括った手綱を股間を通してやるのまで彼がやっている。
「一貫坊殿に触らせてくれんのだからしょうが無いでしょう。ほら太郎、首の後ろでちゃんと結べ」
普段はそのまま小袖を着てしまうため、この様な物を着ける必要は無い。鎧を着る場合はしょうがないのかと射命丸も思う。自身も修験者装束を纏う内側には穿いていたからだ。
それに太郎の股間に邪魔な物は無いが、代わりに尾が揺れる。平時であれば彼女の努力で抑えるが、動き回る際は穿く物があった方が良いと見られた。
「よし、それと……直垂までは着られるな?」
「ヲン」
あとは頭頂の耳であったが、普段は強引に結って隠し、被(かず)く物があればそれを。胴丸を着たなら侍烏帽子を被る事になる。
それにしてもよく言う事を聞くものだと、射命丸は感心する。己の言う事を全く聞かないのは、やはり彼女があの太郎である証左であったし、逆に範頼や頼景の言う事は大変素直に聞いた。
次長相手には常時おっかながっている風であり、範頼の言うところでは「小さい頃、じゃれついたのを勝間田様が足蹴にしてしまった事があるのです」との事。これも納得出来た。
「よし、後は任せろ。おいおい覚えればよいからな」
上背は射命丸を少し上回る程度、当然であるが男と比べて小柄であるし細身。そのため胴丸も持ち込んでいた物では合う物が無く、元服したての若者の為にという事にしてあつらえた物であった。
なので、着付けた出来も――
「うん、初陣の若武者。良い出来だ」
己も初陣とは大差無いがなと頼景は笑いながら言う。
後は薙刀を持たせれば完成。折良く範頼が戸を叩く。
「一貫坊様、終わりましたか?」
「ええ、ちょうど今終わった所です」
範頼は武者姿の太郎を見て感嘆する。
「これは、私よりそれらしいですね」
範頼も新調の大鎧を着てみたが、傍から見ると鎧に着られてしまっている風になる、彼に合わせた物であるのに。やはり厨育ちの者にはとは、彼自身が自虐的に言う事であった。
武士ではない、これはあくまで一時のことなのだと、射命丸はそういった彼の姿を見る度に思う。
武士らしくない彼が、それらしい彼女らを見て言う。
「しかし頼景殿、よく太郎の言う事がいちいち分かりますね」
頼景はこれまで、言葉が通じるかの如く太郎を相手にしている。当然本当に分かっている訳ではないので、齟齬があったり全く通じていない事もある。
「何を言う蒲殿。かのお屋敷で太郎の世話を教えたのは俺であるし、此奴などよく粗相をしたのを俺が片付けて躾けてやったではないか、大体は分かるぞ」
「ヲゥン?!」
当時幼かったためか、太郎にはその記憶は無い。ただ彼らがこんな嘘をついても無意味。これは彼女も信じるほか無く、しぼむ。
「キューン……」
「太郎、気にしなくていいんだよ。人間の子供だってそんなものなのだから」
しょげる太郎を範頼が励ます。元は犬であっても今は見た目相応にそういう事を気にするらしい。
頼景の言う事は、彼女の考えが分かる根拠になるのだろうかと射命丸は首を傾げるが、実際鳴き声――としか聞こえない声――で通じるのだから不思議である。
「そう言えばそうでした。忙しい合間にちょくちょく来て下さいましたね」
「ああ、あの時はそちらで用事もあったしな」
まだ若い領主であった頃の話であろう。二人にとって懐かしい記憶、あの日に戻れる日は来るのであろうかと止めどない話が始まる。
本当に、その日に。そしていつかは、ゆやと共にあるただの御厨の冠者に。射命丸の心には悔恨の念が浮かぶ、彼を武士にしてしまったのは、己なのだからと。
しかし時節はそうも言っておられない状況を迎えつつあった。
∴
陽気も増しつつある二月、尾張に平通盛(みちもり)以下数千騎が前進しているとの飛脚(※5)が鎌倉へ参着した。更にこれと時を同じくして、坂東でくすぶっていた残火が燃え上がり始める。これは平家との連携すら疑える動きであった。
「蒲殿、やはり太郎は陣に加えるのか?」
「はい」
横見の館で進発の準備を整える頼景、同じくしながらそれに答える範頼。
範頼が望まずとも、太郎本人の意思がある。
それは平家を倒したいからではない、その先、彼女こそゆやを助けたいからだ。しかしすぐにそこには至らない、それを成す為には多くの戦と手順を踏む事になる。今の事態もその一環であった。
坂東の残火とは何か。まずは頼朝や範頼ら兄弟の叔父、志田三郎義広(しださぶろうよしひろ)。当然源姓である。
かつて春宮坊の護衛である帯刀先生(たてわきせんじょう)(※6)の職にあったため先生三郎とも称されたこの人物。保元の乱の前には常陸国に下向し、信太(しだ)荘を拓いて当地に腰を据えていた。
後の平治の乱においてもさしたる動きを見せず現在に至っている。と言うのも――荘園自体は鳥羽天皇の皇女八条院(はちじょういん)の本所であるが――立荘を斡旋したのが時の常陸介(※7)平頼盛、領家は池禅尼であったりと、平家との繋がりもそこそこ深かったからである。
彼の元へも行家が令旨と共に走ったが、この様な繋がりと既得権益の護持が先立っていた。
また義朝よりも相親しんだ兄源義賢(よしかた)が悪源太義平(あくげんたよしひら)(※8)に斬られ、直後の保元の乱の折には彼らと敵対して父為義の援護に回った事から、後に義朝に親類縁者をことごとく斬られるなどしたため、頼朝との間の溝が深い。
もう一派は下野国足利(あしかが)荘に本拠を置く藤姓(とうせい)足利氏。平将門を討伐した藤原秀郷の裔である。こちらは領内の同族小山(おやま)氏や源姓(げんせい)足利氏、同じく河内源氏の新田(にった)氏との対立が根にあり、そのうえ以仁王の令旨などが廻ってこなかった事の意趣返しもあってか、当初から平家方に付いている。源三位入道が守る宇治川で先陣を切ったのが、嫡子足利忠綱(ただつな)であったりもした。
それぞれ単独でも十分な勢力であるのに、それが手を結びつつあると言う風聞は、しばらく前から流れていた。
坂東から離れてまた一方。尾張の平家勢に備えた駿河国から遠江国では、次長の兄成長を始めとして横地(よこち)等の当地の土豪が甲斐源氏の安田三郎義定(やすださぶろうよしさだ)の下に参じ、鎌倉からも和田義盛(わだよしもり)や岡部(おかべ)氏、伊豆国からは狩野氏や宇佐見(うさみ)氏などが参じて、防禦の態勢を整えつつあった。
ただこの期に及んでも、当地の氏族の足並みは揃わなかった。中でも顕著なのは相良氏と、近隣のよしみの浅羽(あさば)氏。よりによってのその相良氏の振る舞いには、実家の事でもあり、頼景も頭を抱えた。
「侍所には、橋本(はしもと)で幕府を構える安田殿の前を、浅羽荘司と相良三郎が横切ったと、そんな話が飛んで来た。らしい」
次長が伝えたこれらに思うのは、「とっとと源氏に付け」と言い置いて来たのに、時勢を鑑みず父や家人がそれを無視している事への憤り。もう一つは――
「長頼はまだ四歳ですぞ、そんな事をすると?」
「さて、根も葉も無い噂か、ねつ造かも知れぬ」
家人の誰かを領主と勘違いしたのか、従わない豪族の悪口(あっく)を義定がでっち上げたのではないかと疑う。どちらしろ未だに源氏に与していないのは明らか。頼景がいっそ家督を奪還してしまおうかとも考えるほど。
ともかく鎌倉は、東海道方面と、下野並びに武蔵の二正面行動を余儀なくされている。
「遠江から上って来た私達を東海道に割り振らないのは何ゆえかと思っていたのですが……」
僅かな差で遠江の事態を先に聞いていた範頼も、武蔵国や下野国の衆はこの為に待機させられていたのだと、今になって納得したのだった。
鎌倉に寄せようとする志田・藤姓足利の連合軍は、総数三万騎余りに及ぶ。対する鎌倉勢は小山(おやま)氏やその一門に属する下河辺(しもこうべ)ら、小山党を基幹とした数千騎。数の上では不利。
また現在小山氏は、主の小山政光(まさみつ)が頼朝挙兵の時点から今以て大番役に出仕しており、今はその妻、頼朝の乳母でもあった寒川尼(さむかわのあま)が取り仕切っていた。
範頼らは彼らに協力して戦う事になる、いや、建制(※9)に組み込まれると言った方が正しい。いくら蒲御曹司といえども、ここでは大した手勢も持たない、一人の将でしかない。
「なんなのだ三万騎とは。荷駄を除いてこれだと、小山党がいくら精強でも太刀打ちなどできんぞ」
頼景が不安を吐露する。それを聞いていた常光が、袈裟頭巾を被り、法衣の下には腹巻という出で立ちで現れて言う。
「それについては大丈夫だと思いますよ」
頭巾からのぞくその表情はにこやかだ。
「それは何故でしょう?」
範頼に言われ、彼はしまったと笑顔をひきつらせる。言ってはいけない事だったが、つい口を滑らせたのだ。
「言いたくなければ言わずとも――」
「ああ、いえ、どのみち蒲殿もすぐに耳にする事でしょうから、言ってしまいましょう」
すぐに観念。保元の乱以来の勇士にしては、次長とは対照的な好々爺ぶり。その次長が眉根を寄せて問う。
「金王丸殿、そんな事でよろしいのですかな?」
「御曹司たる方に隠し事などして、後々睨まれたくないですから。ズバリ、手玉に取るのです」
冗談か本気かは分からないおどけた調子。意味する所は何なのか、一同は続きを求める。
「既に小山氏が調略に当たり、戦になってからこれが動き出す事になっています」
実は藤姓足利は一族の中にも抗争の種を抱えている、それを利用して内側から切り崩すのだ。これが成れば連合する義広も共倒れ、一挙両得が期待できる。
「寄せ集めの烏合の衆なら、先の富士川程ではないにしろ、上手く重点を突けば壊走しそうですな」
「お前も初陣のくせに、何を偉そうに」
次長に続いて現れた頼綱に、頼景がぼやく。
「私も初陣ですね」
射命丸は腹巻すら着込んでいない、いざというとき飛ぶのに邪魔だからだ。
「一貫坊様、本当に参るのですか?」
「棍と木刀での稽古とは言え、蒲殿に負けた事は一回も無いのですが?」
それはそうなのですがと範頼はうなだれる。
馬に乗れるのがまだ幸いだが、確かに対等な立ち会いでは一度も勝った例しが無い。頼景などは素質が無いのではないのか、などと言って憚らない。
その頼景はと言えば、得体の知れない長物を引きずり出している。
「俺もコイツでは初陣だな」
「兄者、本当に持って来ていたのか……」
頼景が引っ張り出して来たのは尋常で無い長さの太刀、柄もそれに見合った物。鞘の長さは五尺近くで異様な反りを持っている。
切り結ぶよりは、勢いに任せて馬上から斬り付ける、大太刀(おおたち)あるいは野太刀(のだち)と呼ばれる兵器。
「さて、この若者達なら初陣も生き残れそうですな」
「蒲殿やこの兄弟を、若者と言うべきか否か」
陽気に振る舞っているが、その実、初陣という言葉は範頼に、そして射命丸や太郎にも重くのし掛かるものであった。
対志田・足利連合の主戦場は下野国の野木宮(のぎみや)(※10)、地獄谷と言われる薄野(すすきの)の地隙に小山党が兵を伏せ、調略の済んだ敵勢と共に反攻に出る事になっていた。
小山氏は巧みに策を練り、自陣の不利である主の不在すら諜略に用いていた。政光の子朝政(ともまさ)をして志田先生へ曰く「父の大番役出仕により、我が方は少数である。この期に及んでは貴軍に下るものなり」と。
そして会合地点を野木宮と決めた。
朝政の弟の長沼五郎宗政(ながぬまごろうむねまさ)、そして小山七郎朝光(ともみつ)も鎌倉に参じて久しく、頼朝の信も厚い。宗政は朝政と共にこの度の戦の主力を担い、朝光は鶴岡八幡宮で戦勝を祈願する頼朝の側にあった。
兵力差は見た目の上だけで、戦は始まる前から決していたと言ってよく、範頼達などは残敵掃討に当たる程度で済む。はずであった。
先遣に次長、頼綱、常光、そして射命丸が発ち、下河辺氏の陣への合流を目指す。彼らと共に後詰めとなって、志田勢に追い討ちをかける算段である。
しかし下河辺の陣へ到着した射命丸らに問題が発生した。いつまで経っても範頼達の本隊が合流しなかったのだ。
「蒲殿は一体、どうされたのでしょうか?」
「よもや道に迷ったのではあるまいな」
常光の疑問には次長が渋い顔で答える。これが冗談なら笑い事だが、彼の貌は、言いながら本気でそれを疑っている。
辺りは似たような田園風景が広がり見通しは良い。逆に言えば目印となる物が少なく、辻を一つ間違えただけであさっての方へ向かう事になる。
射命丸も次長の言に不安を募らせる。
「私が飛んで、探しては駄目ですか?」
「ここで蒲殿が妖を抱えているとばれて、拙(まず)い方へ追い込まれるのでよければ、そうすればよろしい」
もっともな事だ。
彼自身は馬を乗り換え、自ら捜索へ向かう準備をしている。それを見ていよいよ狼狽ぶりを隠せなくなった射命丸に、常光が助言する。
「ここから飛ばなければよろしいのではないですか。でしょう? 次長殿」
「然り」
この年寄りは本当に回りくどいなと辟易するが、それよりも範頼の元へと、すぐに駆け出した。
「太郎、道々不安げにしていたが、もしかして道が分かっていたのか?」
「クゥン……」
「ううむ、それはすまなんだ」
次長曰くのよもやの事、範頼達は小山の本隊、朝政の陣へ合流してしまった。
ここまで来て後陣へ行く術も無く、野木宮の往来や畦、谷など、そこここに潜む小山勢に倣い身を潜める。田への水はまだ引かれていない。しかし田植えに備えて畦焼きした後で、その灰が残っている。これは範頼、それに頼景も気にしていた。
志田勢への対応を大雑把に言えば、先陣をやり過ごし、本隊の横っ腹を突く事である。それに呼応して、調略の済んだ敵の隊も寝返るのだ。
敵勢を極めて足場の悪い田へ突き落とし、そこへ矢を射掛けるなり足を止めた騎馬を討ち取るなりとなる。
「落ちつけ、太郎。最初の奴らが行き過ぎて、次がある程度行進してからの攻撃になるからな」
「グルル……」
興奮しきりで唸る太郎。彼女でこうなのだから、馬達などはいくら訓練を積んでいても、中々落ち着かない。喊声には耐えるようにされているが、伏せて待たせるには目隠しする等、相当気を使う。
「蒲御曹司、今からでも遅くはありません、下河辺の陣へ下がられては如何でしょう。こちらより案内を出します」
火威(ひおどし)(※11)の鎧を纏い、鹿毛の馬を連れた武者が言う。朝政が直々に来たのだ。
範頼らより若干若く、しかし戦慣れしているのか落ち着いた様子。
「いえ、貴重な兵をその様な事に割いてはなりません。足手まといにならないようには心がけますので、どうかこのまま」
決して軽んじて言っているので無い事は分かっている。しかし頼景などはこれを受けて、――口には出さないが――存分に馬を駆けさせてやると逸っていた。
朝政もそれ以上は言わず、一礼して去って行く。
「しっかし蒲殿、どこで道を間違えたのかな」
案内は先遣に付けたきり、本隊を先導したのは彼。
「実はその、地図を逆にして見てました」
「……この、莫迦の冠者が」
初陣で戦の前からの失点。これを取り戻そうと、範頼も表には出さずとも逸っていた。
半刻程してついに志田勢が現れた。彼らとの戦は、当初は予定していた通りの運びであった。
まず先遣をやり過ごし、続く本隊を横から圧する。多数の兵馬を連れていた義広も、野木宮に至って突如上がった鬨の声に動揺し、田へ追い落とされた。
ここまでは良い。だが折から吹いていた南東の風が急に強まり、畦焼きの灰を巻き上げた事から、一転して、両陣営共に混戦の様相を呈する事になった。
敵も味方も、調略の対象となった隊も視界のままならぬ中で入り乱れ、友軍相撃の局限に各者手一杯になっていた。
「蒲殿! どこだぁっ?!」
頼景もまた、離れるまいと注意していた範頼からはぐれてしまっていた。
「ヲンッ!」
その側の太郎が薙刀で方角を指し示すと頼景は、そちらに居ると言うのか等とも問い直しもせず彼女に従う。馬に乗れないが彼女は速い、風の様に駆けるのには頼景も付いて行くのがやっとの始末。
灰の嵐の向こうに範頼の姿を見る。囲まれていた。
「蒲殿!」
手にした大太刀を、鞘に納めるのももどかしく投げ捨て、弓を手に取る。明らかに敵対する者を見定めて矢を放ち、一人、馬上から射落とした。すぐさま箙(えびら)(※12)から矢を抜いて番える。まだ二人、三人と寄せ手が続いている。
一対一でも危険だというのに、そう焦る頼景。その横を太郎が駆け抜ける。彼女の手には強度に不安のある数打ちの薙刀でなく、今し方頼景が放り投げた大太刀。
辛うじて、範頼に迫る凶刃を払いのける太郎。頼景も近付きつつ矢を放って援護するが、兵馬の流れに阻まれ近寄れない。焦燥感に駆られながらも、頭の芯の冷えた場所では太郎の働きに感心する。
また一騎、漆黒の大鎧に銀蒔絵拵えの薙刀という出で立ちの、見るからに名のある者であろう武者が寄せる。これは拙いと強引に馬を突っ込ませる頼景。薙刀を太刀で受けた範頼の体勢が崩れる。
次の瞬間、その武者の体が馬から浮き、次に地面に叩き付けられた。やったのは太郎。
彼女は剣術と言えるものは修めていない、大太刀を力任せに叩き付け、そのまま持ち上げて馬上から落としたのだ。
「蒲殿無事か!」
「はい、なんとか」
目を白黒させながら構え直す。
次いで頼景は太郎を見やる。
「よくやった、太郎!」
しかし彼女は呆と立ったまま。足下の武者は事切れているのか、馬は彼を遺して走り去っている。
「何をしておる、首級を上げろ」
頼景は馬を寄せるとすぐに飛び降り、腰刀を片手に、拝みながら亡骸と対面する。刃が鎧にめり込み、首の骨が折れていた。いずれが致命傷になったのか不明。
「御免」
手早く首を掻くと、髻を解いて鞍に括り付ける。
「頼景殿! 新手が来ます」
「応! 太郎、どうした!」
馬上に戻りながら、依然として立ち尽くす彼女へ檄を飛ばす。散り散りで隊伍も組めていない集団が迫る。やはり敵。
土煙と灰の渦巻く空間を切り裂いて影が降り立つ。迫る騎馬武者の顔面を突いて落としたのは――
「太郎、何をボサッとしている! 蒲殿を守れ!」
檄を飛ばす射命丸。彼女は合流すると直ちに範頼の側へ寄り添い、その守りに当たる。
「一貫坊様、ここはこの通りの乱戦です、危のうございます!」
「徒でも存分に戦ってご覧に入れます、ご安心なさって下さい!」
互いに思う事は同じであったが、力量から射命丸の方がそれを実現させる。視程の低い中で妖と勘付かれぬように地を舐めて飛び、あるいは跳ねながら、騎馬と言わず歩兵と言わずに叩き伏せる。
それを以て立て直した手勢を頼景が指揮し、守りを整えた辺りには、大勢は決し始めていた。調略に応じた敵兵が動き始め、志田勢は瓦解しつつある。
しかし、
「太郎、私の事はもういい、射命丸様も居る。それより小山殿の元へ向かうんだ、主攻があちらに寄せている! 頼景殿も兵を割いてあちらの援護を!」
「承知した!」
窮鼠猫を噛む。それが具現しつつある。追い詰められた義広がせめて己を謀った朝政を斃さんと、裂帛の気合いと共に精兵を押し寄せて来たのだ。
「太郎、行くぞ!」
「ウゥ、ヲン」
不本意そうな様子を隠さず、しかし彼らの言う事を聞き、太郎も頼景に続き駆け出した。
朝政への寄せ手の先頭には義広も立つ。やはり彼も武家、源氏の者であった。
「おのれ! 小山の小童が!」
「志田殿! 潔く下るか討たれよ!」
互いに叫びながら馬を走らせる。
義広が先手を打った。強弓を易々と引き分け、ぴたりと狙いを定めて放つ。直射で射掛けられた矢は、緋色の鎧を貫いて朝政を馬上から落とした。
体勢を立て直せないでいる朝政に、間を置かずに二の矢が迫る。郎党が前に出ようとするも間に合わない。
刹那、灰と土煙を渦巻かせて引く疾風の狐狸道(コリドー)が、朝政への射線を遮る。迫る矢は彼に至るすんでで落とされた。
「う、む、助かったのか?」
腹に刺さった矢をへし折りながら、朝政が見上げる。そこに居たのは白髪の徒武者、頼景らより遙かに先んじて到着した太郎であった。
手には頼景の大太刀、今度は弾道を描いて多くの矢が射掛けられる。太郎は、それらも――取り回しが難儀なはずの――得物を右に左にと振り、正確に切り落とした。
その義広の手勢に、また別の鎌倉側の隊が迫る。
「長沼五郎ここに在り! 兄者はいずこか!」
弟の宗政が主を無くした馬を見て、別働隊を率いて来たのだった。
「五郎、か」
「兄者! 傷は浅いぞ、こんな所で倒れる気か!」
太郎は防禦の必要が無くなったと見て、頼景らと合流しようとする。
「お主、蒲御曹司の陣に居た、名は何と……」
朝政の問いに答える術を持たぬ太郎は、ひとつ頷くとそれを振り切って頼景の元へ。その後ろで、義広の隊は宗政らにまたたく間に平らげられ、壊走した。
義広本人はほうほうの体で西の渡良瀬川(わたらせがわ)まで逃れると、そこを南下し、刀祢川(とねがわ)を渡って落ち延びて行く。本来、鎌倉へ至る為の道であった。
それを契機に志田勢は完全に崩壊、後は屍を累々と積み上げるのみ。
かくして範頼達の初陣は、混沌とした状態ではあったものの、完勝を以て終えた。
∴
野木宮での合戦の直後、範頼らは次長に散々に絞られた。射命丸や常光も擁護はするものの弁は無く、ただなだめるだけに終始したのだった。
他の郎党もその様子に申し訳ないと思ったのか、足並みを揃えて頭を下げに来ていたが、先導したのが範頼だと次長に知られては意味が無かった。
そんな中、唯一叱られもせずに済んだのが太郎。むしろ彼女は、範頼麾下の兵で一番の、いや唯一の手柄を上げた事になっていた。
太郎が大太刀を叩き付け、論功行賞(※13)の対象となる武者を馬上から落としたのは紛れもない事実。ただ首を掻いて首級を挙げたのは頼景、彼にも名乗りを上げる資格はある。なのにである。
「俺など今更手柄を上げた所で何になるでも無いからな、そんな物は太郎にやってくれ。実際やったのはこいつだ」
彼女の頭に何度か軽く手の平を落としながら言う。
ただ賞に列するにはひとつ問題があった。本当は一つどころの問題では無いが、当面は一つ。
彼女には姓や氏は勿論、苗字すら無い。
「では、なんと名乗らせましょう」
常光が問う。
これは後々まで名乗る事になるであろう、少なくとも鎌倉に在る限りは。それを聞いて頼景と次長が同時に腰を上げようとする。
「それは、私に考えが――」
範頼が先んじて声を上げた。いずれは名乗らせなければいけないのではと考えていた彼には、案があった。
「当麻(たいま)。当麻太郎と、そう名乗らせたいと思います」
射命丸はその名にハッとする。
対照的に次長や常光は、難しい顔をしていた。
「当麻殿とは、僭越なのは承知ですが、これは……」
「蒲殿、本当にそれを名乗らせるのかな?」
彼は年長二人の言葉に力強く頷く。
「畜生にその名を授けるのは憚る、と仰るのは分かりますが、ご容赦下さい。幼い頃、私に教育を施して下さった當麻五郎様なら、許して下さる事かと思っての事です」
そうだ、鴉はそれで救われたのだ。
“彼”は忘れてはいなかった。己があの鴉であるのは知られてはならない、しかしそうであっても、射命丸は心の底にほの暖かい灯火が点ったようにも感じる。
「当麻當麻、たしか何処かの神職であったか」
「ヲン?」
頼景は腕組みをして記憶を手繰る、太郎と頼綱は全く知らない。
「安心召され。名乗らせる限り太郎は知らなければいけない事である。その時同時に教えましょう」
次長が頼景に向かって言うと、俺はいらぬと首を振り、太郎と頼綱もこれは参ったと厭そうな顔をする。
「一貫坊殿は、知っておられるようですな」
「はい、とても、とても懐かしい名です……」
彼女は静かにそう言って、思い出を噛み締めた。
夜になり、横見の館にも静謐が訪れる。
合戦の詳報を伝える早馬は小山より進発していた。論功行賞を行うのはまだ先になるが、頼景らは前祝いにと酒を飲みに出ていたのだ。太郎も連れ、しかし目付に次長も付いて。
雑色(※14)の他は、射命丸と範頼だけが館に残っていた。
文(ふみ)をしたためる範頼。誰に宛てた物であるのかは射命丸も知らず、それは問わない。文机に向かう背に彼女は語りかける。
「蒲殿」
「はい」
短い呼び掛けに範頼も短く応じ、筆を置いて彼女に向き直る。
「人間とは、簡単に死んでしまうのですね」
戦場では無我夢中だった射命丸も、今頃になって思う。太郎はそれで呆けてしまっていたのかとも、思い返していた。
そうと思って攻撃を加えずとも、当たり所が悪ければ死ぬし、馬から突き落としただけでも死んだ。見も知らぬ者、敵とはいえ、呆気なかった。
人間との関わりが無ければ、こんな事に思い煩うことなど無かったであろう。分かっていたつもりの事であったのに、それを実感してみると、やるせなかった。
「そう、ですね」
それ以上の言葉は無い、彼も同じ気持ちであった。
これから先、もっと激しい戦に臨む事になるだろうに――否、自分達にはあるのは志ではない、目標だ。手前勝手なものでも、それに向かって邁進する他ない。
二人は各々に、とても強く思った。
* * *
範頼にとっての初陣は無事に終わったが、志田義広の遁走は、また別の事態へ波及する事になる。
この次の月、寿永二年三月に判明した義広の行方、それは信濃(しなの)源氏(※15)、木曾冠者(きそのかじゃ)を通称し木曾義仲(きそよしなか)と名乗った源義仲の下であった。
彼は令旨を受けた時点で頼朝同様に旗揚げし、甲斐源氏が討ち漏らした信濃国内の平家勢と戦い、これを追い出していた。
その後も含め、鎌倉とは共闘する事無く。
それと言うのも、義仲は頼朝の兄義平に討たれた義賢の子で、義広同様当初より頼朝らとの対立が潜在していたからだ。
また義広に加えて義仲の下には、彼にも以仁王の令旨をもたらし、鎌倉とは袂を分かった行家までもが在していた。頼朝の冷遇に――逆恨みながら――堪りかねた彼は、義仲を推戴することにしたのだった。
顕在化した信濃との対立では鎌倉が先に動き、公称十万余騎を信濃国へ押し出す。これに対し義仲は乳母子(めのとご)(乳母の子)である勇士今井(いまい)(中原(なかはら))四郎兼平(かねひら)を軍使として遣わし、和睦を図った。
信濃勢は精強なれど、農繁期に差しかかっている事と併せ、鎌倉と事を構える時期では無いと踏んだのだ。その点の地力では、互助の利く鎌倉が優位であった。
和睦が成ると間もなく、一人の少年が鎌倉入りした。
歳近い従者を連れて参上したのは義仲の子、まだ十一歳の清水冠者義高(しみずかじゃよしたか)であった。
彼は大姫(おおひめ)(※16)と呼ばれる頼朝の長女の婿、というふれ込みで来た事になっていたが、事実上の人質。
この事もまた、後々まで及ぶ悲劇を生むのである。
第7話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 滝口:滝口武者。内裏、特に清涼殿の警護に当たった者のこと。これ自体は官職では無く、武家の登竜門的な位置づけ。
※2 赤旗と白旗:平家は赤地に揚羽蝶を、源氏は白地に『八幡大菩薩』や桔梗をあしらった旗を掲げた事から。紅白戦などの元祖(競技会の初出は旧海軍兵学校)
※3 手綱:長尺の褌。腰で紐を括り、布で身体の前面を覆って首の後ろでもう片方の端を結ぶ。所謂忍び褌
※4 小袖:袖の開きが小さい仕立ての、現在の和服の元となった着物。劇中の時代では下着としての性質もあり、この上に鎧直垂を着込んだ。
※5 飛脚:平安時代にこの語が出来た時は公用のもので、街道の駅(うまや)の馬を乗り継いで新書や荷を運んだ。鎌倉での早馬(用途は同じ)もこう呼ぶ。
※6 帯刀先生:帯刀は作中の通り、春宮の護衛官。先生はその指揮官で、同職の舎人(とねり、皇族近侍の官)を率いた。
※7 常陸介:常陸国(ひたちのくに、下総国等に当たる箇所を除いた現在の茨城県の大半)の国司。平頼盛については、先述の『池禅尼』の注釈を参照されたい。
※8 悪源太義平:源義平、範頼ら兄弟の長兄。この場合の“悪”は、『強い者』という意味で使われている。
※9 建制:軍事行動(戦闘態勢)を取る上での編成。建制順は、これらの編成や個人を円滑に動かすために予め定める序列順
※10 野木宮:現在の栃木県都賀郡野木町、野木神社の周辺と思われる。
※11 火威:緋縅(読みは同じ)。縅とは甲冑の様式の一種で、これに使われる紐の事を縅毛と言ったため。作中の表記は『吾妻鏡』原文ママ。
※12 箙:矢を入れて携帯するための武具。矢を挿す箱『方立(ほうだて)』と支える『端手(はたて)』、それらを体に括るための紐から成る。
※13 論功行賞:戦などにおける功績を精査し、相応の賞を与える事
※14 雑色:蔵人(くろうど、天皇の秘書的役目)の職位の一つ。劇中の雑色は、鎌倉で頼朝がよく遣わしていた事から、範頼の側にも居たのではという創作
※15 信濃源氏:河内源氏から派生し、信濃に本拠を置く源氏庶流。作中では義仲流そのものを指す。
※16 大姫:本来は“長女”の意、ここでは頼朝の長女を指す。正式な諱は不明で、一説には『一幡(いちまん)』とも言われている。
範頼達が横見の館に居を構えて二年余り。まだ戦へかり出されることも無く、三度目の春を迎えつつある。
範頼や彼に近しい者は、初めて武蔵国へ来た時同様に石戸宿の阿弥陀堂へ足を運んでいた。ようやく伽藍が建立され、御堂自体も改めて開眼されたため、過日の礼を兼ねて祝いに来ていたのだ。
「おはようございます、寒いですねぇ」
「一貫坊様、おはようございます」
射命丸と範頼は真っ先に起き出して境内を散策する。
梅の花が真っ盛りの時期にはなっても、肌寒さは抜けない。冬はつとめてとはよく言ったもので、そこは極めて静謐な空気に満ちていた。
ただ今日に限っては、尋常でないものがそこにある。
「桜、ですか」
「まだ早いのに、よく咲いたものですね」
梅に混じり、一株の桜もいくつか花を付けている。その高さは六尺にも満たない。山桜のようではあるが二寸近くの大輪の花、色は仄かに紅が差す程度で殆ど真っ白。
ここまではまだいい。
「一貫坊様、あの桜の側、誰か居ませんか?」
「幻では無いようですね」
桜の側にまた不思議な光景――一人の少女がそこに佇んでいたのだ。
射命丸も気付いていたが、実在のものとは思っていなかった。妖であり僧でもある彼女はそういったモノを希に目にするし、少女の出で立ちが特異な物であったのもそう判じた理由の一つ。
遠目では麻の様な布で出来た貫頭衣を纏い、足下は裸足、その他には何も身に着けていない。
二人とも初めて目にする顔。年嵩経た獣の毛皮の様にツヤの無い白髪ではあるものの、その面(おもて)は瑞々しい少女の物。目の周りや頬にうっすらと紅で隈取りしており、これは古い時代の巫女の化粧の様でもある。
年の頃はゆやと同じぐらいか、範頼は彼女の事を思い返しながら、あどけなくも精悍と言える面立ちの少女を見ている。
「御曹司、あそこに桜など植えてあったか?」
「おはようございます。いえ、あそこは私が重徳様宅の桜で作った鞭を立てただけでしたが、もしかしたらお堂の方が植えられたのかも」
現れた頼景が桜の方を見て言う。桜よりも少女の方が気にならないのか。
少女はじっと、自分の背より少し高い桜を見上げ、そうしているだけ。少しの動きも見せない。
射命丸はもう一つ、少女の容姿の異常に気付いていた。明らかにヒトとは異なる位置に、ヒトとは異なるが耳と言える物がある。
「で、あれは一体何者だ?」
やはり頼景にも見えていた。
頭部に一対の獣の耳、猟師が頭付きの獣の毛皮を被るとそんな具合になる。そう、毛皮を被っているなら分かる、しかしそうではない。
三人ともしばらく黙って彼女を見守る。ようやく口を開いた範頼が、射命丸すら驚く事を言う。
「……太郎?」
今言った太郎が何者かは嫌でも分かる。しかしどこをどうしたら、あの少女があの太郎に見えるのか。逆に頼景は得心がいった風に「おお」と呟く。続く行動はこれも、妖である射命丸の想像すら超えるもの。
「おーい、太郎。こっちだこっち」
犬を呼び寄せるのと同じく、手招きしながら叫ぶ。
少女が頭頂の耳をピクリと動かして向き直る。背側の腰の下辺りをよく見れば、衣の裾から何か飛び出しており、更にそれが左右にパタパタと振れる。
「これは一体……」
やはり幻か亡霊を見ているのか、それとも二人が犬の太郎の幻を見ているのか。射命丸は一人混乱する。少女は二本の脚で三人に駆け寄り、頼景に飛びついた。
何者かのまやかしであるのを警戒すべきであった射命丸も唐突な事に対応が遅れ、慌てて構える。
「頼景殿!」
勢いで後ろに倒れる頼景。射命丸は間に合わず、範頼は反応すら出来ない。
射命丸は見附で二度目に太郎に会った時の事を思い出した。ちょうどこんな感じだった、飛びついたのは少女でなく白く大きな山犬だったが。
どう見てもじゃれついている、場所を間違えていたら艶事にも見間違える事であろう。
「あのー頼景殿。その、娘さん? ですが、頼景殿にはどう見えているのですか?」
何と言っていいのか分からず、言葉を選びながら問い掛ける。これは範頼も同じ気持ちなのか、ただただ唖然と見ていた。
「いや、太郎であろう?」
「どう見ても、いえ、その耳と尾はさておき、他は人間の娘なのですが」
「その様ですな。こら太郎、いい加減止さぬか」
どうやら同じ様に見えてはいる模様、それ以外の疑問は全く解けないが。射命丸が理解に苦しんでいる内にまた一人、
「ば、ばば、化けも――」
頼綱がいつの間にか来ていた。それを頼景が締め上げ、口を塞ぐ。それだけならよかったが、頼綱はそのまま気を失ってしまった。当然兄のせいで。
側に射命丸も居るのにこれぐらいでいちいち驚くなと、気が付いた頼綱に頼景が説教を垂れる。絞め落とされたのではなく、驚いて勝手に気を失った事にされていた。
客間の一室を閉め切って車座になる六人、範頼らの他に次長も同席している。何より――一頭か一人か判じかねるが便宜上――問題の一人。
射命丸の事も尋常に受け入れた彼らは、彼女が妖であると明かした時と大差なく平然としている。
「狐狸の類かと思えば、犬、狼、でありますか」
「元は確か山犬ですが、よくそう平然としておられますな、勝間田様」
「いや、あの太郎の事は当然知っておる。それより滝口(※1)として京に居た時には、より怖ろしい魑魅魍魎もわんさと居た。それが無くともここには一貫坊殿や桜坊殿もおわす、今更である。七郎殿はなぜそう恐れる、見知った者であろうが」
「私が知っているのは犬の太郎であって、妖ではありませんて。それにその太郎は死んだのですぞ」
「だからこの様な姿を取って蘇って、ここに居るのであろう」
話の重心が相当ズレているようにも頼綱は感じる。これが本当にあの太郎だとして、死んだ者が蘇ったのも、またこの様な姿であるのも、ここに現れたのも、何もかもが疑問でしかない。
「そうだぞ頼綱、素直に喜べ。それにどうだ、中々の器量ではないか、いっそ嫁にとってはどうか」
「それはしかし、色々問題がありそうではある」
次長は腕組みしながら考え込む、彼が気にするのは身分や血筋云々の点。本来はそれ以前に気にすべき事が山程あるのに。
「兄者も無茶を言う。しかし、せめてなりと事情を知れれば良いのですが」
本人が自身の境遇を理解しているのか、それすら分かっていない。説明を求めようにも――
「どうだ太郎、このデカブツ、七郎頼綱は。家督を継ぐ事は無いが、さほど暮らしに不自由せんぞ」
「クゥーン……」
「頼綱、残念だな」
「いや兄者、そうではないだろう」
喋れないのだ、太郎は。ただし――特に難解な語彙は除いて――人語は理解しており、更には文字までも読めているようである、
頼景に飛びついた後、しばらく何か言いたそうに声を発してはいた。ただそれは変質した犬の鳴き声らしきもの、声質は見た目に相応しい少女の物であった。
何度かもどかしげにそうしていたが、今は諦めている。ただ声音と表情や仕草から、反応や感情は分からなくも無い。何より耳や尾の動きが、犬であった時と同じく如実にそれを表す。
そして彼女が喋れない事は、射命丸を安心させた。もし言葉を発する事が出来たなら、過日の自身の行いを、彼女を死なせてゆやを攫われるに任せた事を、暴露されると思っていたからだ。
それ故に射命丸は、太郎が今ここにあるのは平家の者や天邪鬼への復讐のみならず、自身へのそれであるとすら考えていた。
その事情を知らない範頼、しばらく黙していたがここで口を開く。
「これは、天邪鬼、猿退治からの一連として、大山祇神が遣わしたと考えるべきでしょうか」
木ノ花咲耶姫の父、大山祇神。使いである猿を天邪鬼に取られた娘の為に、己が遣いの霊犬を邪鬼退治に遣わしたのだろうという意味で言う。
そしてこれは何かに符号しているようにも、他の一同には思えた。
「天邪鬼は、現平家棟梁、内府宗盛卿に取り入ったか、取り憑いたか謀ったかしたと仰いましたな。それにつけても赤と白、これはなんとも」
猿の赤ら顔と、今は白眉白髪である、元は真白い山犬。
次長の意図する事を頼綱が察して繋ぐ。
「源氏の白旗と平家の赤旗(※2)、ですかな」
「然り」
太郎がここに居る意味はそうなのだろうか。神代より後、現在に至って、天がここまで人の世に関わった事があったろうかと射命丸は考える。この場では最も長じた彼女ですら、齢まだ百数十年と二十余年。その例を見たのは皆無であるし、ましてやこれは日本全土に及びかねない事。
「奴を討つついでに平家を倒すか、平家を倒すついでに奴を討つか、俺達は、前者のはずですがな」
頼景の言葉に範頼の眉が動く。射命丸はそれを見逃さなかった。
「いずれにせよ、主でもついででもありますまい。私達が目指すべきはゆや殿を奪い返す事で――」
「一貫坊様、それは違います」
「おい、御曹司」
「ヲン?」
範頼の気持ちを代弁したつもりだった射命丸は、面を食らって戸惑う。頼景と、太郎ですら、そうでなければなんなのだと言いたげにする。
「いえ、違うのは一貫坊様の事です。まず一貫坊様が私達と行動を共にして下さるのは、天邪鬼を追討せよと三尺坊権現の指示を受けての事です。太郎が、もし大山祇神が遣わせしめたというのであれば、これも同じくであると思います」
この意図を次長が確認する。
「お二方には、あくまで天邪鬼の相手のみせよと?」
「はい。両方の件が不可分に近いのも承知しておりますが、故に互いに混同なさいませぬようにと」
この突き放している風にも聞こえる言葉も、範頼であればこそのものだった。この二人を人間の戦になど巻き込みたくないのだ。何より人同士の諍いの中で一度、妹同然であった太郎を失ってしまったのだから。
「蒲殿、気持ちは分かるがな。それでは仮に平家の打倒が成り、ゆやを取り返した時点で仮に天邪鬼を討てていなかったら、お主は一貫坊殿や太郎に勝手にやれと言うか? 違うであろう」
「ええ、違います」
「……一貫坊殿の気持ちも、汲んではどうか」
天邪鬼を退治した後、射命丸はとっとと去ってしまうか。お互いに決してそうではない、頼景は言外に咎める。
「ヲフヲフ」
「無論、こいつもだ」
太郎も彼の言には同意で、鼻息荒く首を縦に振る。
頼景が言いながら、かつての様に太郎の頭をくしゃくしゃと掻くと、彼女は少し鬱陶しそうにし、しかし止めると嬉しそうにひと吠え。どうやらこれもかつてと同じで、嬉しいらしい。
「すいません。一貫坊様の事を侮っているのではないのです。私に稽古を付けて下さる程ですし。太郎も、かつての事を考えれば相応の力があるのでしょう」
太郎についてはその力量を確認する必要はあろう。ただし、その上で期待するだけの実力を持っていたとしても、果たして列中に加えるべきか否かはまた別。
「でも、やはり……」
二人とも――
言い淀む範頼に射命丸が問う。
「頼景殿や勝間田様の事は如何なのです? それに相良の郎党や横見の衆の皆も」
頼景らの他は、まだ行動を共にし始めて日が浅い者達ばかりである。それでも範頼であればどう思うか、彼の心に期待する。
「それは、いずれも戦を覚悟の上で参じて来られた方々ですから……」
「私も十分に覚悟しておりますが?」
範頼は言葉を詰まらせ、しまったという貌をする。妖である事を明かしてまで赤心を示した彼女の覚悟のほどは分かっている、それに疑いを挟む余地など無い。
「一貫坊様、ずるいです」
範頼は苦笑いし、射命丸ははにかむ。その横で頼綱がやや不満げにしているのを、頼景が咎める。
「なんだ、景気の悪そうな顔をして」
「いや、勝間田様や兄者は特段そう言って頂けるのに、俺はこの場に在っても相良のいち家人でしかないのであろうなぁ、と」
射命丸は当然含めて言ったつもりであったが、少し配慮に欠けたかと誤魔化し笑いをする。
「そんな事は当たり前であろうに」
よりにもよって当の兄がそう言い放つのには、流石の彼も肩を落とした。
「いえ、頼綱殿も当然そうですよ」
昔から親しむ仲だ。少し可笑しげに言う範頼。
横見の衆は無論、お目付役の常光の事もそう思っている事であろう。射命丸は彼の心に期待する。
これから迎えるであろう戦の中では、こんな事は言っておられないかも知れない。それでも彼がこの様に思い続けてくれる事を祈った。
望外にも太郎という“一人”の仲間を迎えた一同の間には、穏やかな空気が流れる。
しかしその横で、彼女が厳しい眼差しを射命丸に向けているのには、誰も気付いていなかった。
∴
農繁期に入ろうとする横見で、稽古に農作業にといそしむ射命丸達。わざわざ開墾せずとも横見は田畑がよく拓かれ、相良の郎党も農作業や氏神の祭りを通して横見の住人に馴染んでいった。
また坂東の馬の気性には少し手こずっていたものの、そちらにも次第に慣れて来ていた。
新たな住人、太郎は、横見の館で範頼達と共に暮らし、彼女の事は――事情は伏せつつも――常光にも明かされた。彼はやはり、次長同様平然としていた。むしろ孫が増えたようだとすら言う程。
その横見の範頼の館では、半裸の少女と頼景が、布きれと悪戦苦闘していた。
「ああ、違う違う。お前の場合手綱はもっとこう腰の上に括って、前でギュッと持ち上げてだな」
「クゥーン」
太郎に小袖(※4)の更に下着、手綱(たづな)(※3)を着付けてやる。この上に袴を穿いて鎧直垂を着けてようやく一段落。その上に胴丸、具足や小手の装着も待っている。
太郎との邂逅の後、まず問題だったのは彼女が妖である事の秘匿であった。根本的に彼女自身を隠す案は、まず頼景が、続いて次長も退けていた。共に暮らすならば教育等が必要と思われたが、彼女を遣わした者の計らいか、ずっとゆやの側に居たためか、日常の殆どに不具合は無かった。
ただし田畑に入るには農具の使い方が怪しかったし手際も悪い。武術は、刀の持ち方すら知らなかった。それでもしっかり言う事は聞き、どんな事も教えれば――得手不得手はあれど――覚えた。
そして、太郎は戦う事を望んでいた。膂力は尋常ではなく頼綱にも遙かに勝り、刀を持たせれば活躍するだろうと期待される。今現在の事は、その為の鎧の着付けであった。
「頼景殿、見ているこちらが恥ずかしいのですが」
胸こそ晒し布を巻いて潰しているが、片方を腰で括った手綱を股間を通してやるのまで彼がやっている。
「一貫坊殿に触らせてくれんのだからしょうが無いでしょう。ほら太郎、首の後ろでちゃんと結べ」
普段はそのまま小袖を着てしまうため、この様な物を着ける必要は無い。鎧を着る場合はしょうがないのかと射命丸も思う。自身も修験者装束を纏う内側には穿いていたからだ。
それに太郎の股間に邪魔な物は無いが、代わりに尾が揺れる。平時であれば彼女の努力で抑えるが、動き回る際は穿く物があった方が良いと見られた。
「よし、それと……直垂までは着られるな?」
「ヲン」
あとは頭頂の耳であったが、普段は強引に結って隠し、被(かず)く物があればそれを。胴丸を着たなら侍烏帽子を被る事になる。
それにしてもよく言う事を聞くものだと、射命丸は感心する。己の言う事を全く聞かないのは、やはり彼女があの太郎である証左であったし、逆に範頼や頼景の言う事は大変素直に聞いた。
次長相手には常時おっかながっている風であり、範頼の言うところでは「小さい頃、じゃれついたのを勝間田様が足蹴にしてしまった事があるのです」との事。これも納得出来た。
「よし、後は任せろ。おいおい覚えればよいからな」
上背は射命丸を少し上回る程度、当然であるが男と比べて小柄であるし細身。そのため胴丸も持ち込んでいた物では合う物が無く、元服したての若者の為にという事にしてあつらえた物であった。
なので、着付けた出来も――
「うん、初陣の若武者。良い出来だ」
己も初陣とは大差無いがなと頼景は笑いながら言う。
後は薙刀を持たせれば完成。折良く範頼が戸を叩く。
「一貫坊様、終わりましたか?」
「ええ、ちょうど今終わった所です」
範頼は武者姿の太郎を見て感嘆する。
「これは、私よりそれらしいですね」
範頼も新調の大鎧を着てみたが、傍から見ると鎧に着られてしまっている風になる、彼に合わせた物であるのに。やはり厨育ちの者にはとは、彼自身が自虐的に言う事であった。
武士ではない、これはあくまで一時のことなのだと、射命丸はそういった彼の姿を見る度に思う。
武士らしくない彼が、それらしい彼女らを見て言う。
「しかし頼景殿、よく太郎の言う事がいちいち分かりますね」
頼景はこれまで、言葉が通じるかの如く太郎を相手にしている。当然本当に分かっている訳ではないので、齟齬があったり全く通じていない事もある。
「何を言う蒲殿。かのお屋敷で太郎の世話を教えたのは俺であるし、此奴などよく粗相をしたのを俺が片付けて躾けてやったではないか、大体は分かるぞ」
「ヲゥン?!」
当時幼かったためか、太郎にはその記憶は無い。ただ彼らがこんな嘘をついても無意味。これは彼女も信じるほか無く、しぼむ。
「キューン……」
「太郎、気にしなくていいんだよ。人間の子供だってそんなものなのだから」
しょげる太郎を範頼が励ます。元は犬であっても今は見た目相応にそういう事を気にするらしい。
頼景の言う事は、彼女の考えが分かる根拠になるのだろうかと射命丸は首を傾げるが、実際鳴き声――としか聞こえない声――で通じるのだから不思議である。
「そう言えばそうでした。忙しい合間にちょくちょく来て下さいましたね」
「ああ、あの時はそちらで用事もあったしな」
まだ若い領主であった頃の話であろう。二人にとって懐かしい記憶、あの日に戻れる日は来るのであろうかと止めどない話が始まる。
本当に、その日に。そしていつかは、ゆやと共にあるただの御厨の冠者に。射命丸の心には悔恨の念が浮かぶ、彼を武士にしてしまったのは、己なのだからと。
しかし時節はそうも言っておられない状況を迎えつつあった。
∴
陽気も増しつつある二月、尾張に平通盛(みちもり)以下数千騎が前進しているとの飛脚(※5)が鎌倉へ参着した。更にこれと時を同じくして、坂東でくすぶっていた残火が燃え上がり始める。これは平家との連携すら疑える動きであった。
「蒲殿、やはり太郎は陣に加えるのか?」
「はい」
横見の館で進発の準備を整える頼景、同じくしながらそれに答える範頼。
範頼が望まずとも、太郎本人の意思がある。
それは平家を倒したいからではない、その先、彼女こそゆやを助けたいからだ。しかしすぐにそこには至らない、それを成す為には多くの戦と手順を踏む事になる。今の事態もその一環であった。
坂東の残火とは何か。まずは頼朝や範頼ら兄弟の叔父、志田三郎義広(しださぶろうよしひろ)。当然源姓である。
かつて春宮坊の護衛である帯刀先生(たてわきせんじょう)(※6)の職にあったため先生三郎とも称されたこの人物。保元の乱の前には常陸国に下向し、信太(しだ)荘を拓いて当地に腰を据えていた。
後の平治の乱においてもさしたる動きを見せず現在に至っている。と言うのも――荘園自体は鳥羽天皇の皇女八条院(はちじょういん)の本所であるが――立荘を斡旋したのが時の常陸介(※7)平頼盛、領家は池禅尼であったりと、平家との繋がりもそこそこ深かったからである。
彼の元へも行家が令旨と共に走ったが、この様な繋がりと既得権益の護持が先立っていた。
また義朝よりも相親しんだ兄源義賢(よしかた)が悪源太義平(あくげんたよしひら)(※8)に斬られ、直後の保元の乱の折には彼らと敵対して父為義の援護に回った事から、後に義朝に親類縁者をことごとく斬られるなどしたため、頼朝との間の溝が深い。
もう一派は下野国足利(あしかが)荘に本拠を置く藤姓(とうせい)足利氏。平将門を討伐した藤原秀郷の裔である。こちらは領内の同族小山(おやま)氏や源姓(げんせい)足利氏、同じく河内源氏の新田(にった)氏との対立が根にあり、そのうえ以仁王の令旨などが廻ってこなかった事の意趣返しもあってか、当初から平家方に付いている。源三位入道が守る宇治川で先陣を切ったのが、嫡子足利忠綱(ただつな)であったりもした。
それぞれ単独でも十分な勢力であるのに、それが手を結びつつあると言う風聞は、しばらく前から流れていた。
坂東から離れてまた一方。尾張の平家勢に備えた駿河国から遠江国では、次長の兄成長を始めとして横地(よこち)等の当地の土豪が甲斐源氏の安田三郎義定(やすださぶろうよしさだ)の下に参じ、鎌倉からも和田義盛(わだよしもり)や岡部(おかべ)氏、伊豆国からは狩野氏や宇佐見(うさみ)氏などが参じて、防禦の態勢を整えつつあった。
ただこの期に及んでも、当地の氏族の足並みは揃わなかった。中でも顕著なのは相良氏と、近隣のよしみの浅羽(あさば)氏。よりによってのその相良氏の振る舞いには、実家の事でもあり、頼景も頭を抱えた。
「侍所には、橋本(はしもと)で幕府を構える安田殿の前を、浅羽荘司と相良三郎が横切ったと、そんな話が飛んで来た。らしい」
次長が伝えたこれらに思うのは、「とっとと源氏に付け」と言い置いて来たのに、時勢を鑑みず父や家人がそれを無視している事への憤り。もう一つは――
「長頼はまだ四歳ですぞ、そんな事をすると?」
「さて、根も葉も無い噂か、ねつ造かも知れぬ」
家人の誰かを領主と勘違いしたのか、従わない豪族の悪口(あっく)を義定がでっち上げたのではないかと疑う。どちらしろ未だに源氏に与していないのは明らか。頼景がいっそ家督を奪還してしまおうかとも考えるほど。
ともかく鎌倉は、東海道方面と、下野並びに武蔵の二正面行動を余儀なくされている。
「遠江から上って来た私達を東海道に割り振らないのは何ゆえかと思っていたのですが……」
僅かな差で遠江の事態を先に聞いていた範頼も、武蔵国や下野国の衆はこの為に待機させられていたのだと、今になって納得したのだった。
鎌倉に寄せようとする志田・藤姓足利の連合軍は、総数三万騎余りに及ぶ。対する鎌倉勢は小山(おやま)氏やその一門に属する下河辺(しもこうべ)ら、小山党を基幹とした数千騎。数の上では不利。
また現在小山氏は、主の小山政光(まさみつ)が頼朝挙兵の時点から今以て大番役に出仕しており、今はその妻、頼朝の乳母でもあった寒川尼(さむかわのあま)が取り仕切っていた。
範頼らは彼らに協力して戦う事になる、いや、建制(※9)に組み込まれると言った方が正しい。いくら蒲御曹司といえども、ここでは大した手勢も持たない、一人の将でしかない。
「なんなのだ三万騎とは。荷駄を除いてこれだと、小山党がいくら精強でも太刀打ちなどできんぞ」
頼景が不安を吐露する。それを聞いていた常光が、袈裟頭巾を被り、法衣の下には腹巻という出で立ちで現れて言う。
「それについては大丈夫だと思いますよ」
頭巾からのぞくその表情はにこやかだ。
「それは何故でしょう?」
範頼に言われ、彼はしまったと笑顔をひきつらせる。言ってはいけない事だったが、つい口を滑らせたのだ。
「言いたくなければ言わずとも――」
「ああ、いえ、どのみち蒲殿もすぐに耳にする事でしょうから、言ってしまいましょう」
すぐに観念。保元の乱以来の勇士にしては、次長とは対照的な好々爺ぶり。その次長が眉根を寄せて問う。
「金王丸殿、そんな事でよろしいのですかな?」
「御曹司たる方に隠し事などして、後々睨まれたくないですから。ズバリ、手玉に取るのです」
冗談か本気かは分からないおどけた調子。意味する所は何なのか、一同は続きを求める。
「既に小山氏が調略に当たり、戦になってからこれが動き出す事になっています」
実は藤姓足利は一族の中にも抗争の種を抱えている、それを利用して内側から切り崩すのだ。これが成れば連合する義広も共倒れ、一挙両得が期待できる。
「寄せ集めの烏合の衆なら、先の富士川程ではないにしろ、上手く重点を突けば壊走しそうですな」
「お前も初陣のくせに、何を偉そうに」
次長に続いて現れた頼綱に、頼景がぼやく。
「私も初陣ですね」
射命丸は腹巻すら着込んでいない、いざというとき飛ぶのに邪魔だからだ。
「一貫坊様、本当に参るのですか?」
「棍と木刀での稽古とは言え、蒲殿に負けた事は一回も無いのですが?」
それはそうなのですがと範頼はうなだれる。
馬に乗れるのがまだ幸いだが、確かに対等な立ち会いでは一度も勝った例しが無い。頼景などは素質が無いのではないのか、などと言って憚らない。
その頼景はと言えば、得体の知れない長物を引きずり出している。
「俺もコイツでは初陣だな」
「兄者、本当に持って来ていたのか……」
頼景が引っ張り出して来たのは尋常で無い長さの太刀、柄もそれに見合った物。鞘の長さは五尺近くで異様な反りを持っている。
切り結ぶよりは、勢いに任せて馬上から斬り付ける、大太刀(おおたち)あるいは野太刀(のだち)と呼ばれる兵器。
「さて、この若者達なら初陣も生き残れそうですな」
「蒲殿やこの兄弟を、若者と言うべきか否か」
陽気に振る舞っているが、その実、初陣という言葉は範頼に、そして射命丸や太郎にも重くのし掛かるものであった。
対志田・足利連合の主戦場は下野国の野木宮(のぎみや)(※10)、地獄谷と言われる薄野(すすきの)の地隙に小山党が兵を伏せ、調略の済んだ敵勢と共に反攻に出る事になっていた。
小山氏は巧みに策を練り、自陣の不利である主の不在すら諜略に用いていた。政光の子朝政(ともまさ)をして志田先生へ曰く「父の大番役出仕により、我が方は少数である。この期に及んでは貴軍に下るものなり」と。
そして会合地点を野木宮と決めた。
朝政の弟の長沼五郎宗政(ながぬまごろうむねまさ)、そして小山七郎朝光(ともみつ)も鎌倉に参じて久しく、頼朝の信も厚い。宗政は朝政と共にこの度の戦の主力を担い、朝光は鶴岡八幡宮で戦勝を祈願する頼朝の側にあった。
兵力差は見た目の上だけで、戦は始まる前から決していたと言ってよく、範頼達などは残敵掃討に当たる程度で済む。はずであった。
先遣に次長、頼綱、常光、そして射命丸が発ち、下河辺氏の陣への合流を目指す。彼らと共に後詰めとなって、志田勢に追い討ちをかける算段である。
しかし下河辺の陣へ到着した射命丸らに問題が発生した。いつまで経っても範頼達の本隊が合流しなかったのだ。
「蒲殿は一体、どうされたのでしょうか?」
「よもや道に迷ったのではあるまいな」
常光の疑問には次長が渋い顔で答える。これが冗談なら笑い事だが、彼の貌は、言いながら本気でそれを疑っている。
辺りは似たような田園風景が広がり見通しは良い。逆に言えば目印となる物が少なく、辻を一つ間違えただけであさっての方へ向かう事になる。
射命丸も次長の言に不安を募らせる。
「私が飛んで、探しては駄目ですか?」
「ここで蒲殿が妖を抱えているとばれて、拙(まず)い方へ追い込まれるのでよければ、そうすればよろしい」
もっともな事だ。
彼自身は馬を乗り換え、自ら捜索へ向かう準備をしている。それを見ていよいよ狼狽ぶりを隠せなくなった射命丸に、常光が助言する。
「ここから飛ばなければよろしいのではないですか。でしょう? 次長殿」
「然り」
この年寄りは本当に回りくどいなと辟易するが、それよりも範頼の元へと、すぐに駆け出した。
「太郎、道々不安げにしていたが、もしかして道が分かっていたのか?」
「クゥン……」
「ううむ、それはすまなんだ」
次長曰くのよもやの事、範頼達は小山の本隊、朝政の陣へ合流してしまった。
ここまで来て後陣へ行く術も無く、野木宮の往来や畦、谷など、そこここに潜む小山勢に倣い身を潜める。田への水はまだ引かれていない。しかし田植えに備えて畦焼きした後で、その灰が残っている。これは範頼、それに頼景も気にしていた。
志田勢への対応を大雑把に言えば、先陣をやり過ごし、本隊の横っ腹を突く事である。それに呼応して、調略の済んだ敵の隊も寝返るのだ。
敵勢を極めて足場の悪い田へ突き落とし、そこへ矢を射掛けるなり足を止めた騎馬を討ち取るなりとなる。
「落ちつけ、太郎。最初の奴らが行き過ぎて、次がある程度行進してからの攻撃になるからな」
「グルル……」
興奮しきりで唸る太郎。彼女でこうなのだから、馬達などはいくら訓練を積んでいても、中々落ち着かない。喊声には耐えるようにされているが、伏せて待たせるには目隠しする等、相当気を使う。
「蒲御曹司、今からでも遅くはありません、下河辺の陣へ下がられては如何でしょう。こちらより案内を出します」
火威(ひおどし)(※11)の鎧を纏い、鹿毛の馬を連れた武者が言う。朝政が直々に来たのだ。
範頼らより若干若く、しかし戦慣れしているのか落ち着いた様子。
「いえ、貴重な兵をその様な事に割いてはなりません。足手まといにならないようには心がけますので、どうかこのまま」
決して軽んじて言っているので無い事は分かっている。しかし頼景などはこれを受けて、――口には出さないが――存分に馬を駆けさせてやると逸っていた。
朝政もそれ以上は言わず、一礼して去って行く。
「しっかし蒲殿、どこで道を間違えたのかな」
案内は先遣に付けたきり、本隊を先導したのは彼。
「実はその、地図を逆にして見てました」
「……この、莫迦の冠者が」
初陣で戦の前からの失点。これを取り戻そうと、範頼も表には出さずとも逸っていた。
半刻程してついに志田勢が現れた。彼らとの戦は、当初は予定していた通りの運びであった。
まず先遣をやり過ごし、続く本隊を横から圧する。多数の兵馬を連れていた義広も、野木宮に至って突如上がった鬨の声に動揺し、田へ追い落とされた。
ここまでは良い。だが折から吹いていた南東の風が急に強まり、畦焼きの灰を巻き上げた事から、一転して、両陣営共に混戦の様相を呈する事になった。
敵も味方も、調略の対象となった隊も視界のままならぬ中で入り乱れ、友軍相撃の局限に各者手一杯になっていた。
「蒲殿! どこだぁっ?!」
頼景もまた、離れるまいと注意していた範頼からはぐれてしまっていた。
「ヲンッ!」
その側の太郎が薙刀で方角を指し示すと頼景は、そちらに居ると言うのか等とも問い直しもせず彼女に従う。馬に乗れないが彼女は速い、風の様に駆けるのには頼景も付いて行くのがやっとの始末。
灰の嵐の向こうに範頼の姿を見る。囲まれていた。
「蒲殿!」
手にした大太刀を、鞘に納めるのももどかしく投げ捨て、弓を手に取る。明らかに敵対する者を見定めて矢を放ち、一人、馬上から射落とした。すぐさま箙(えびら)(※12)から矢を抜いて番える。まだ二人、三人と寄せ手が続いている。
一対一でも危険だというのに、そう焦る頼景。その横を太郎が駆け抜ける。彼女の手には強度に不安のある数打ちの薙刀でなく、今し方頼景が放り投げた大太刀。
辛うじて、範頼に迫る凶刃を払いのける太郎。頼景も近付きつつ矢を放って援護するが、兵馬の流れに阻まれ近寄れない。焦燥感に駆られながらも、頭の芯の冷えた場所では太郎の働きに感心する。
また一騎、漆黒の大鎧に銀蒔絵拵えの薙刀という出で立ちの、見るからに名のある者であろう武者が寄せる。これは拙いと強引に馬を突っ込ませる頼景。薙刀を太刀で受けた範頼の体勢が崩れる。
次の瞬間、その武者の体が馬から浮き、次に地面に叩き付けられた。やったのは太郎。
彼女は剣術と言えるものは修めていない、大太刀を力任せに叩き付け、そのまま持ち上げて馬上から落としたのだ。
「蒲殿無事か!」
「はい、なんとか」
目を白黒させながら構え直す。
次いで頼景は太郎を見やる。
「よくやった、太郎!」
しかし彼女は呆と立ったまま。足下の武者は事切れているのか、馬は彼を遺して走り去っている。
「何をしておる、首級を上げろ」
頼景は馬を寄せるとすぐに飛び降り、腰刀を片手に、拝みながら亡骸と対面する。刃が鎧にめり込み、首の骨が折れていた。いずれが致命傷になったのか不明。
「御免」
手早く首を掻くと、髻を解いて鞍に括り付ける。
「頼景殿! 新手が来ます」
「応! 太郎、どうした!」
馬上に戻りながら、依然として立ち尽くす彼女へ檄を飛ばす。散り散りで隊伍も組めていない集団が迫る。やはり敵。
土煙と灰の渦巻く空間を切り裂いて影が降り立つ。迫る騎馬武者の顔面を突いて落としたのは――
「太郎、何をボサッとしている! 蒲殿を守れ!」
檄を飛ばす射命丸。彼女は合流すると直ちに範頼の側へ寄り添い、その守りに当たる。
「一貫坊様、ここはこの通りの乱戦です、危のうございます!」
「徒でも存分に戦ってご覧に入れます、ご安心なさって下さい!」
互いに思う事は同じであったが、力量から射命丸の方がそれを実現させる。視程の低い中で妖と勘付かれぬように地を舐めて飛び、あるいは跳ねながら、騎馬と言わず歩兵と言わずに叩き伏せる。
それを以て立て直した手勢を頼景が指揮し、守りを整えた辺りには、大勢は決し始めていた。調略に応じた敵兵が動き始め、志田勢は瓦解しつつある。
しかし、
「太郎、私の事はもういい、射命丸様も居る。それより小山殿の元へ向かうんだ、主攻があちらに寄せている! 頼景殿も兵を割いてあちらの援護を!」
「承知した!」
窮鼠猫を噛む。それが具現しつつある。追い詰められた義広がせめて己を謀った朝政を斃さんと、裂帛の気合いと共に精兵を押し寄せて来たのだ。
「太郎、行くぞ!」
「ウゥ、ヲン」
不本意そうな様子を隠さず、しかし彼らの言う事を聞き、太郎も頼景に続き駆け出した。
朝政への寄せ手の先頭には義広も立つ。やはり彼も武家、源氏の者であった。
「おのれ! 小山の小童が!」
「志田殿! 潔く下るか討たれよ!」
互いに叫びながら馬を走らせる。
義広が先手を打った。強弓を易々と引き分け、ぴたりと狙いを定めて放つ。直射で射掛けられた矢は、緋色の鎧を貫いて朝政を馬上から落とした。
体勢を立て直せないでいる朝政に、間を置かずに二の矢が迫る。郎党が前に出ようとするも間に合わない。
刹那、灰と土煙を渦巻かせて引く疾風の狐狸道(コリドー)が、朝政への射線を遮る。迫る矢は彼に至るすんでで落とされた。
「う、む、助かったのか?」
腹に刺さった矢をへし折りながら、朝政が見上げる。そこに居たのは白髪の徒武者、頼景らより遙かに先んじて到着した太郎であった。
手には頼景の大太刀、今度は弾道を描いて多くの矢が射掛けられる。太郎は、それらも――取り回しが難儀なはずの――得物を右に左にと振り、正確に切り落とした。
その義広の手勢に、また別の鎌倉側の隊が迫る。
「長沼五郎ここに在り! 兄者はいずこか!」
弟の宗政が主を無くした馬を見て、別働隊を率いて来たのだった。
「五郎、か」
「兄者! 傷は浅いぞ、こんな所で倒れる気か!」
太郎は防禦の必要が無くなったと見て、頼景らと合流しようとする。
「お主、蒲御曹司の陣に居た、名は何と……」
朝政の問いに答える術を持たぬ太郎は、ひとつ頷くとそれを振り切って頼景の元へ。その後ろで、義広の隊は宗政らにまたたく間に平らげられ、壊走した。
義広本人はほうほうの体で西の渡良瀬川(わたらせがわ)まで逃れると、そこを南下し、刀祢川(とねがわ)を渡って落ち延びて行く。本来、鎌倉へ至る為の道であった。
それを契機に志田勢は完全に崩壊、後は屍を累々と積み上げるのみ。
かくして範頼達の初陣は、混沌とした状態ではあったものの、完勝を以て終えた。
∴
野木宮での合戦の直後、範頼らは次長に散々に絞られた。射命丸や常光も擁護はするものの弁は無く、ただなだめるだけに終始したのだった。
他の郎党もその様子に申し訳ないと思ったのか、足並みを揃えて頭を下げに来ていたが、先導したのが範頼だと次長に知られては意味が無かった。
そんな中、唯一叱られもせずに済んだのが太郎。むしろ彼女は、範頼麾下の兵で一番の、いや唯一の手柄を上げた事になっていた。
太郎が大太刀を叩き付け、論功行賞(※13)の対象となる武者を馬上から落としたのは紛れもない事実。ただ首を掻いて首級を挙げたのは頼景、彼にも名乗りを上げる資格はある。なのにである。
「俺など今更手柄を上げた所で何になるでも無いからな、そんな物は太郎にやってくれ。実際やったのはこいつだ」
彼女の頭に何度か軽く手の平を落としながら言う。
ただ賞に列するにはひとつ問題があった。本当は一つどころの問題では無いが、当面は一つ。
彼女には姓や氏は勿論、苗字すら無い。
「では、なんと名乗らせましょう」
常光が問う。
これは後々まで名乗る事になるであろう、少なくとも鎌倉に在る限りは。それを聞いて頼景と次長が同時に腰を上げようとする。
「それは、私に考えが――」
範頼が先んじて声を上げた。いずれは名乗らせなければいけないのではと考えていた彼には、案があった。
「当麻(たいま)。当麻太郎と、そう名乗らせたいと思います」
射命丸はその名にハッとする。
対照的に次長や常光は、難しい顔をしていた。
「当麻殿とは、僭越なのは承知ですが、これは……」
「蒲殿、本当にそれを名乗らせるのかな?」
彼は年長二人の言葉に力強く頷く。
「畜生にその名を授けるのは憚る、と仰るのは分かりますが、ご容赦下さい。幼い頃、私に教育を施して下さった當麻五郎様なら、許して下さる事かと思っての事です」
そうだ、鴉はそれで救われたのだ。
“彼”は忘れてはいなかった。己があの鴉であるのは知られてはならない、しかしそうであっても、射命丸は心の底にほの暖かい灯火が点ったようにも感じる。
「当麻當麻、たしか何処かの神職であったか」
「ヲン?」
頼景は腕組みをして記憶を手繰る、太郎と頼綱は全く知らない。
「安心召され。名乗らせる限り太郎は知らなければいけない事である。その時同時に教えましょう」
次長が頼景に向かって言うと、俺はいらぬと首を振り、太郎と頼綱もこれは参ったと厭そうな顔をする。
「一貫坊殿は、知っておられるようですな」
「はい、とても、とても懐かしい名です……」
彼女は静かにそう言って、思い出を噛み締めた。
夜になり、横見の館にも静謐が訪れる。
合戦の詳報を伝える早馬は小山より進発していた。論功行賞を行うのはまだ先になるが、頼景らは前祝いにと酒を飲みに出ていたのだ。太郎も連れ、しかし目付に次長も付いて。
雑色(※14)の他は、射命丸と範頼だけが館に残っていた。
文(ふみ)をしたためる範頼。誰に宛てた物であるのかは射命丸も知らず、それは問わない。文机に向かう背に彼女は語りかける。
「蒲殿」
「はい」
短い呼び掛けに範頼も短く応じ、筆を置いて彼女に向き直る。
「人間とは、簡単に死んでしまうのですね」
戦場では無我夢中だった射命丸も、今頃になって思う。太郎はそれで呆けてしまっていたのかとも、思い返していた。
そうと思って攻撃を加えずとも、当たり所が悪ければ死ぬし、馬から突き落としただけでも死んだ。見も知らぬ者、敵とはいえ、呆気なかった。
人間との関わりが無ければ、こんな事に思い煩うことなど無かったであろう。分かっていたつもりの事であったのに、それを実感してみると、やるせなかった。
「そう、ですね」
それ以上の言葉は無い、彼も同じ気持ちであった。
これから先、もっと激しい戦に臨む事になるだろうに――否、自分達にはあるのは志ではない、目標だ。手前勝手なものでも、それに向かって邁進する他ない。
二人は各々に、とても強く思った。
* * *
範頼にとっての初陣は無事に終わったが、志田義広の遁走は、また別の事態へ波及する事になる。
この次の月、寿永二年三月に判明した義広の行方、それは信濃(しなの)源氏(※15)、木曾冠者(きそのかじゃ)を通称し木曾義仲(きそよしなか)と名乗った源義仲の下であった。
彼は令旨を受けた時点で頼朝同様に旗揚げし、甲斐源氏が討ち漏らした信濃国内の平家勢と戦い、これを追い出していた。
その後も含め、鎌倉とは共闘する事無く。
それと言うのも、義仲は頼朝の兄義平に討たれた義賢の子で、義広同様当初より頼朝らとの対立が潜在していたからだ。
また義広に加えて義仲の下には、彼にも以仁王の令旨をもたらし、鎌倉とは袂を分かった行家までもが在していた。頼朝の冷遇に――逆恨みながら――堪りかねた彼は、義仲を推戴することにしたのだった。
顕在化した信濃との対立では鎌倉が先に動き、公称十万余騎を信濃国へ押し出す。これに対し義仲は乳母子(めのとご)(乳母の子)である勇士今井(いまい)(中原(なかはら))四郎兼平(かねひら)を軍使として遣わし、和睦を図った。
信濃勢は精強なれど、農繁期に差しかかっている事と併せ、鎌倉と事を構える時期では無いと踏んだのだ。その点の地力では、互助の利く鎌倉が優位であった。
和睦が成ると間もなく、一人の少年が鎌倉入りした。
歳近い従者を連れて参上したのは義仲の子、まだ十一歳の清水冠者義高(しみずかじゃよしたか)であった。
彼は大姫(おおひめ)(※16)と呼ばれる頼朝の長女の婿、というふれ込みで来た事になっていたが、事実上の人質。
この事もまた、後々まで及ぶ悲劇を生むのである。
第7話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 滝口:滝口武者。内裏、特に清涼殿の警護に当たった者のこと。これ自体は官職では無く、武家の登竜門的な位置づけ。
※2 赤旗と白旗:平家は赤地に揚羽蝶を、源氏は白地に『八幡大菩薩』や桔梗をあしらった旗を掲げた事から。紅白戦などの元祖(競技会の初出は旧海軍兵学校)
※3 手綱:長尺の褌。腰で紐を括り、布で身体の前面を覆って首の後ろでもう片方の端を結ぶ。所謂忍び褌
※4 小袖:袖の開きが小さい仕立ての、現在の和服の元となった着物。劇中の時代では下着としての性質もあり、この上に鎧直垂を着込んだ。
※5 飛脚:平安時代にこの語が出来た時は公用のもので、街道の駅(うまや)の馬を乗り継いで新書や荷を運んだ。鎌倉での早馬(用途は同じ)もこう呼ぶ。
※6 帯刀先生:帯刀は作中の通り、春宮の護衛官。先生はその指揮官で、同職の舎人(とねり、皇族近侍の官)を率いた。
※7 常陸介:常陸国(ひたちのくに、下総国等に当たる箇所を除いた現在の茨城県の大半)の国司。平頼盛については、先述の『池禅尼』の注釈を参照されたい。
※8 悪源太義平:源義平、範頼ら兄弟の長兄。この場合の“悪”は、『強い者』という意味で使われている。
※9 建制:軍事行動(戦闘態勢)を取る上での編成。建制順は、これらの編成や個人を円滑に動かすために予め定める序列順
※10 野木宮:現在の栃木県都賀郡野木町、野木神社の周辺と思われる。
※11 火威:緋縅(読みは同じ)。縅とは甲冑の様式の一種で、これに使われる紐の事を縅毛と言ったため。作中の表記は『吾妻鏡』原文ママ。
※12 箙:矢を入れて携帯するための武具。矢を挿す箱『方立(ほうだて)』と支える『端手(はたて)』、それらを体に括るための紐から成る。
※13 論功行賞:戦などにおける功績を精査し、相応の賞を与える事
※14 雑色:蔵人(くろうど、天皇の秘書的役目)の職位の一つ。劇中の雑色は、鎌倉で頼朝がよく遣わしていた事から、範頼の側にも居たのではという創作
※15 信濃源氏:河内源氏から派生し、信濃に本拠を置く源氏庶流。作中では義仲流そのものを指す。
※16 大姫:本来は“長女”の意、ここでは頼朝の長女を指す。正式な諱は不明で、一説には『一幡(いちまん)』とも言われている。
木ノ花 前編 一覧
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太郎が椛の可能性ありそう