九./『SN1181』(西暦1181年)
正月を横見で迎えた範頼達、新居は実に快適なものであった。
新居と入っても新たに建てられた物ではなく、元々ここに住んでいた豪族の館を普請し直した物。修繕を奉行していたのは常光、であればこそ彼は工程の誤りに焦ったのであった。
範頼達もそんな事に――次長の愚痴はあれど――文句を言う者は無く、皆穏やかなうちにここに越した。
相良の衆をここに住まわせ、厩の整備も進む。今後範頼に従う事になるのは横見の衆、その主立った者との顔合わせも逐次進んでいた。そんな中、ここの修繕に関する諸々を実際に工面した人物が訪れるというので、これを迎える事になった。
現れたのは常光よりもやや歳を経た人物。目立たないほど小さく髻を結ったその頭は、白みの方が多いほど。中肉中背で柔らかな物腰、目尻の皺が彼の柔和さを物語る。
「入間善吉(いるまぜんきち)と申します。坂東の銀売り善吉で通っております商人にございます」
一段高く畳に座る範頼の前で深々と頭を下げる。脇に控えていた射命丸の顔は、引きつっている。
挨拶が終わって別室でくつろぐ善吉、射命丸は白湯を持って現れる。
「一体何事ですか、桜坊(さくらぼう)様」
「何事も何も、商いですよ」
入間善吉とは仮の名、射命丸は彼の本当の姿を知っていた。
奥多摩(おくたま)御岳山(みたけさん)の桜坊、それが常の彼の名。
「なんか、胡散臭いですね」
「どこぞの悪狐でもあるまいし。貴女に胡散臭いと言われるほど胡散臭くは無いですよ。商売は信用第一ですから」
悪狐というのは下野国(しもつけのくに)(※1)那須野(なすの)に封じられた狐の事かと射命丸は思い出す。秋葉山に三尺坊を導いた霊弧とは、真逆の存在だ。
白面金毛九尾の狐(※2)。人の姿を取って鳥羽上皇(とばじょうこう)(※3)を誑(たぶら)かし、その寵愛を受けたが、かの安倍晴明に正体を破られ坂東に潜伏していたのを討たれたのだ。
「悪狐とまでは申しませんが、しかし。坂東武者を相手に商売などよくなされるなぁ、とは――」
ここでまた射命丸は思い出した。
その悪狐を討った者はいずれも鎌倉に関わりのある者達。上総介広常に千葉常胤、今は亡き三浦義明、彼らが将軍を務め、国衙の要請に応じて討伐軍を繰り出したのだ。その数八万、気の遠くなるような大軍、気が遠くなるほど散財もしたであろう。
しかしそいつを討っても彼らが得る実は無し。国衙によるこの悪狐退治の命令も、今の坂東における朝廷への反発の遠因になったのではないか、それほどの無理強いであったのだ。
そんなこんなと射命丸が思いふけっていると、そこに常光が現れた。
「いやいや、昨年末はすいませんでした。私の奉行が拙のうございまして、変な事になりました」
「大丈夫ですよ、蒲冠者にはお褒め頂きましたし」
見知っていて当然の二人、ただの商売以上にも付き合いがあるらしい。
「ときに土佐坊殿、この一貫坊殿の事、どこまで聞いていますか?」
何故この御仁は急に私の話を始めるのか、嫌な予感を覚える射命丸。
「と、仰いますと?」
「天狗です、鴉天狗」
よくも言ったな。
白湯を飲んでいなかったのがせめてもの幸いだったというぐらい吹き出し、射命丸は“桜坊”に食って掛かる。
「言える訳が無いでしょう、そんな事! ――え、あれ、と言う事は土佐坊殿も桜坊様の事は……」
「ええ知っております。お山では直々に修行に付き合って頂きましたから」
今まで気にしていたのが阿呆みたいだと、二人を白けた風に見る。
桜坊は越後の蔵王権現(ざおうごんげん)(※4)の下で三尺坊と共に修行し、それ以来三尺坊とも親交がある。商人としても秋葉山に――移動は当然神足通を用いて――出入りしていたので、射命丸も彼のことを知っていたのだ。
常光の迂闊さには薄々気付いてはいたが、桜坊の口の軽さも大概だ。
「あの、桜坊様。蒲殿が私の正体を知っていたり、土佐坊殿にもそれを話していると、何故思ったのです?」
これについては嫌な予感がする射命丸。範頼達に己の正体を明かした事は、三尺坊にも言っていない。まさか、射命丸は血の気が引くのを感じる。
「え? 知ってましたよ、三尺坊様」
やはりだ。次に会ったら何を言われるか分からない、永久に逐電してしまおうかなどとも考える。
「ああ、安心して下さい。三尺坊様も言ってました。蒲殿と協力して事に当たる限り、いずれは理解を求める必要もあったでしょうし、という感じで」
射命丸の本来の役目、天邪鬼退治の事だ。今も三尺坊のその命令は生きていると勝手に解釈していたが、幸いにもあちらもその認識でいた点には安心した。
しかし、常光の居る場でこれを喋られるのは拙い。
「おっと、桜坊様。ちょっとよろしいでしょうか! すいません土佐坊殿、細々とお話があるのを思い出しました」
一応はお目付役の彼を人払いするのは論外、桜坊を連れて庭に出でる射命丸。常光が不思議そうな顔をするのを尻目に席を立つ。
桜坊も射命丸の行動を不思議に思っている。
「どうしたのですか、一体」
「どうもこうも、平家追討のためのはずの参陣が[実は天邪鬼退治でした]では、鎌倉殿に仕える土佐坊殿がどう思われる事か」
当然、ゆやの事などは桜坊にも言えない。
常光がいくら好意的であっても、彼にも役目というものがあるのだと伝えると、桜坊もようやく納得する。
「それはそれは。それでは丁度良かったです」
「と、仰いますと?」
「実はそれについて、新たな情報があります」
曰く。件の天邪鬼は、洛中(※5)に居る可能性が極めて高いとの事。
可能性に止まるのは何故なのか、射命丸は問う。
「術などで奴の残滓が追えたのが六波羅付近までで、そこから先はその痕跡が潰えたのです」
あの、燃水の様な匂いの妖気はさぞ追い易かろうに、それが失せたとは一体どういうことか。
これは京という物が持つ特性であると桜坊は言う。
京は、特に内裏を忠心として、強力な結界が敷かれている。京の造営された地勢から設えられた通りの数から、全てが細心の注意を以て設計されたものだ。
範頼達が遠州で兵を募っていた時分、都は幼帝(※6)や上皇、院の行幸(※7)という形で、清盛が満願の思いを込めて作り上げた新都福原に遷された。こちらにも相応の結界があるのか。
その割りには平安京からして、菅原道真の(すがわらのみちざね)祟り(※8)をはじめ諸々祟られているし、清涼殿(せいりょうでん)(※9)にすらその道真に雷を喰らっている。止めに源三位の退治た凶獣、結界など大した事は無いのではと射命丸は思う。
それを見透かしたのか桜坊から一言。
「言っておきますが一貫坊殿。あの都を外から害する事が出来るのは、特に強力な神霊だけですよ」
力を持たない妖は、行き来しようとしただけで命を削られかねない。実体を持たぬ者などは、基本的に出入りすら出来ないのだ。
しかしそれ故に京で呪術が流行り出すと、今度はそれで洛中が澱み濁る始末。結界は内側を清浄に保つ物ではなく、単なる壁か漉し器でしかない。
「自滅していては世話が無いですね。しかしあの妖、実体はありましたが前の相良の殿様の一撃で、相当な手傷を負っていたのですけれど」
ひと月経っても傷は癒えていなかった。万全ならどうか知らないが、あの傷でそんな――言うほどの――結界を越えられるとは思っていない。
「考えられる要因は二つ。一つは、何者かに憑いて洛中に入った。もう一つは、並ならぬ、神霊の如き神力を身につけた」
それか両方、射命丸は間違いなく前者であると見るが、桜坊の考えは違っていた。
「貴女は、三尺坊様始めとして多くの方が動いているこの件、どのぐらいの事態と見ていますか?」
どれぐらいも何も、天邪鬼が宗盛に憑いて、ゆやを攫って行ったぐらいにしか思っていない。宗盛の元々の性(さが)も一因であろうかとは考えていた。
その憑いた相手が問題でもあった。桜坊が言い募る。
今や平家の次代を担う人物にまでなった宗盛。だが彼自身に、奴の糧となりそうな力があるようには射命丸は思えない。彼個人には。
「平家丸ごと喰ろうて、憑いているかも、と」
桜坊が言う、個人の見解ではないらしい。
驕り高ぶる平家、「平家にあらずんば人にあらず」とは、宗盛でも、ましてや清盛でもなく、一門の平時忠(ときただ)の発言。だがそれを具現した、権力と武威を笠に着た悪逆非道は洛中洛外のみならず、鎮西(※10)陸奥にまで知れる事。
あの手合いにとってはさぞ心地良く、喰いでがあろうと、射命丸は解釈する。血肉を食らうのは女子供からであろう、平家から食らうのはそれ以外。魂か呪詛か、そういった霊的なモノである。
それにしても先程桜坊は、三尺坊始め云々と言ったが、そんなに一大事なのかと問う。
「すいません。そもそもこの件は、見附に現れた奴を退治し損なった事から始まった小鬼退治と、それだけと見ていたのです」
「それだけなら構いません。奴の実体が、有限ならばよかったのです」
「それは、どういう意味ですか?」
有限ならばよかった、裏返せば無限であるとの事。
どんなモノでも器があれば限界がある。升に米を詰めればやがて溢れるし、大水になれば堤は切れる、有限とはそういうこと。
限りが無いとは一体どういう事か、想像が付かない。
「奴の力の特性は、歪曲し、覆す事にあります。そしてこの覆す能力は、力の大きさに応じてあらゆる理を覆す事にもなるのです。己の器の大きさすらも」
「全ての理を覆す?」
「ええ、理を覆して力を得、また理を覆す。何もかも無くなるか、奴自体が退治されるまで、その循環が繰り返す恐れが強いと、多くの方々は見ています」
理を覆し続ける事で無尽蔵の力を得続ける。
実に都合の良い力だと射命丸は心中で笑い飛ばす一方、冷静に、もしもこの話が本当だった場合に行き着く先を思い浮かべる。
「それが本当ならば、例えば……そう例えば、天地開闢以前の混沌の時代、造化三神(ぞうかさんしん)が現れた時代すら顕現し得るとか、ですか?」
「どこまで至るかはまだ想像が付きません。ただ、現在西国を見舞いつつある農作物の不作は、天が愁(うれ)いての事とされています。これが顕著になったのは、奴が西へ向かってからです」
不作に見舞われているのは西国の話、東国や北陸は依然実り豊かであり、東海道はその中間程度。こじつければいくらでもそう考えられるが、これについては単に気候の違いなのではないか。
「天地開闢云々はさておきと、過去奴が尋常ならざる力を持っていたとする話を知る方も多く居ます。この役目、決して軽いものではありません」
箱根で頼景が語ったおとぎ話が現実であったというのか。それこそ、この大地が大陸なら引き出されて来た時分にしか起こりえない事だ。国引きの巨人、今は顕幽(けんゆう)(※11)の幽に在る国津神(くにつかみ)(※12)の逸話に近い。馬鹿げている。
話がこれ以上大きくなっても荒唐無稽だと、桜坊にはこの役目自体はしかと果たす決意を述べる。
「ご安心下さい、桜坊様。まかり間違っても奴がそんなモノになる前に、私は蒲殿らの助けを以て、奴を討ち果たして見せましょう」
彼の話の端々から、天狗だけでない、高位の妖や人間ですら多く動いているであろう事は悟った。直接手を下せないのは京の結界だけでなく、奴が宗盛、ひいては平家と一体となっているからだ。
今彼らが頼りにするのは、当初からの対峙し、その上で平家追討が叶う立場の己だけであるのも、射命丸は知った。同時に、やはり桜坊達はゆやに係る事案を知っているのかもと考える事が出来た。
桜坊の正体はあっさりと常光から範頼達にもたらされ、彼らは驚きながらもそれを承知した。射命丸が側に居るのに、殊更驚く事も無いのだと。
それよりも目下、都ではまた一大事が発生していた。
「一大事というものが多すぎて、何を聞いても驚けない気がするが」
と頼景の言。それも当然と言いたくなるほど、様々な風聞が飛んで来ては、射命丸が真偽の判定に走っている。
今のこの話の確度は、極めて高い。
「去る昨年の末頃、前左中将平重衡(しげひら)殿が南都(※13)を焼いたそうです」
「南都を、焼いただと?!」
東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)など南都の主たる寺を、重衡率いる平家の軍が焼き討ちにしたのだ。これは南都その物が焼かれたと言っても、大げさな事では無い。
末法(※14)の世とは坊主の文句だけかと思っていたが、まさかそれが体現されるなどとは、一応は僧である射命丸や常光こそ思う。
でなくともこれは尋常ならざる事。神仏への恐れはどうとでも、顕界の価値観だけでも十二分に。
一体どの様な経緯なのか。
寺社が関わる事は、往々にして複雑な事情が絡む。寺同士の諍いから大衆(だいしゅ)学生(がくしょう)(※15)の乱暴から、そういったことは根絶不能なぐらいの茶飯事になっている。
今回は特に規模が大きい、大仏殿まで焼いたのだ。
「まず分かる所では、これも昨年の十二月に鎌倉に訪れた近江源氏の山本義経殿の軍に、園城寺(おんじょうじ)や興福寺の大衆が加勢した事が原因です」
「いや、蒲殿。そもそも何故、大衆が源氏に与する事になったのか、発端はそこである」
次長が問う。いや、事態の背景におおよその予想が付いていたので、訂正を促した。
「そこからですと、だいぶ複雑ですね。頼景殿、頼景殿や頼綱殿、それに勝間田様に手勢を募って頂いている時、入道相国が院や関白を罰し、院政を停止したのを覚えていますか?」(※16)
「……興味が無いので忘れておったな」
「兄者、これからは興味を持った方がよいぞ」
生意気だと、毎度の如く頼綱の頭頂が叩かれる。
「ったく。清盛入道がそれをやったので、寺院の多くは反平家に流れたのでありましょう? 蒲殿。以仁王に付いた園城寺が顕著だと思いますが」
院も比叡山や南都の寺社勢力には厳しい態度を取る事がある反面、基本的に帰依の意識は強い。寺院その物への手厚い勧進は、彼の信仰の現れとも言える。
その院による親政が止められたため、寺院が勧進を満足に受けられなくなった事が、背景がある。
「はい、恐らくそれが大元です。あと今回の事は、大衆側にも十分に問題があるように見えます」
当初清盛は五百ばかりの兵で以て寄せて威圧しつつ、近江源氏への協力を止めるように迫った、だけであった。ここではまだ矛を交える前であったのだ。
そこで寺院側は強硬な姿勢を取り、多くの荒法師を繰り出して、最終的に平家勢六十の首級を挙げて梟首したのである。それに清盛も怒り、一挙に数万の兵を寄せたのだ。
「悪僧が生臭いのは知っておりましたが、この乱暴な態度は一体何なのですか、一貫坊殿」
唖然としながらも頼景が言う。
ここまでの流れでは、事態を悪化させたのは焼き討ちを受けた側の南都寺院だ。
「わ、私は荒法師ではありませんよ!?」
「頼景殿、失礼です」
何故か否定から入る射命丸、そして擁護する範頼。
「別に一貫坊殿がどうこうとは言っておらんに」
「ま、まぁそれはさておき、利権が狭まれば食い扶持が減る、至極単純な原理です。これは悪僧の独断ではありませんよ。ね、蒲殿」
「はい。本来多くの特権を持っていた南都の寺社が、平治の乱の後、大和国(やまとのくに)が清盛の知行国になってからこれを排されたため反発。先程の、院政停止の後の件を契機にこれが更に強まり、結果が今回の事です」(※17,18)
ここで、次長同様に察していた常光が言う。
「正直に言えば荒法師などは、坂東の鎌倉御家人よりも質が悪いですからな。経が読めないのは勿論、下手をすれば賊と変わりありません。と、坂東の鎌倉御家人の悪僧が言ってみます」
本人が言ってしまうのだから説得力がある。
結局南都の会戦は、折からの強風で、本来限定的であった焼き討ちが東大寺なども巻き込んでしまい、平家と大衆の戦に止まらなくなり、避難していた多くの衆徒まで巻き込んでしまったのだ。
寺院は元来、宗派や山毎、あるいは僧房毎の派閥や徒党があり、互いに焼き討ちすることまであるほどだ。今回の事は、ばらばらであった多くの寺社を反平家に指向させ、合力させる事になろう。これをあの清盛が見越せないとは考えられない。
戦は当初からの決定事項であった可能性が高いが、まさか大仏殿にまで延焼する事態に至るとは思っていなかったのであろう。
それにしても寺院に焼き討ちを仕掛けた重衡とはどんな恐れ知らずの強者、大悪党であろうか、範頼達はそれにも興味があった。
いずれは対決する事になろう人物。こういう行動から間接的に敵情を知り分析するのもまた、範頼達にとっては必要な事なのであった。
∴
横見での初めての春を迎えようとする次の月、また新たな一大事が範頼達の元へ届く。今度の件は、鎌倉に来て以来知る限りでも最も大きな出来事であった。
そのため、鎌倉では今後の動きに備えて主立った将、豪族を招集する。その中には範頼も在った。
鎌倉入りした時とは比べものにならないほど都邑は整えられており、当地での範頼達の宿館も新たに建てられていた。
由比ヶ浜側の館を案内され、そこに郎党を泊め置き、範頼は出仕。郎党――相良の兄弟や次長、射命丸はその帰りを待つ。常光は横見を守り、まとめるため残った。鎌倉に居る限りお目付役も必要無かろうという次長の言を、彼が受け入れた形だ。
今回の話は、京からも鎌倉からも飛脚で殆ど差も無く横見に届けられた。正に一大事であった。
侍所(※19)から戻った範頼は、新たに届けられた続報を皆に語る。
「相国入道薨去の後、やはり一門の惣領は宗盛が継いだようで――」
清盛の死、享年六十四であったという。
これは南都の件の仏罰を覿面(てきめん)に喰らったものか、そんな風にすら思える事であった。
富士川での敗戦を切っ掛けとした再度の遷都を巡る論争の後、清盛と認識にズレを生じさせていた宗盛の意向で院政が再開された事も、京からは同時にもたらされた。
射命丸はふと範頼の物言いに、普段の彼には考えられない棘を感じる。宗盛の事は常に呼び捨てにし、その名を口にするのも憚るといった風。
「また彼は、平左中将を総大将にした官軍を、進発させたとの事です。これに対し――」
もう一人範頼の異常に気付いていた者が、彼の話を一旦止める。
「御曹司、少し落ちつけ。気持ちはよく分かるが、感情的になっては話も聞きづらい」
頼景の諫言に、範頼はハッとなって口をつぐみ、深く呼吸をしてから話を再開する。無意識からの言葉だったのかと、射命丸は恨みの深さを知る。
「すいません。平家の軍勢に対しては、新宮(しんぐう)行家殿が迎え撃つ事になります」
行家には、従来通り義円も付けられるという。これには行家の独断専行を抑える意図もあるとは、聡い者でなくとも、彼の普段の言動を見る者には誰にとっても明らかであった。
官軍は三万騎を数える、対する鎌倉勢は五千騎ほど。富士川の時とは真逆の兵力差。会戦する地の理や布陣によってはそれもひっくり返せるか、以前は数千の軍で驚いていた射命丸も感覚が麻痺し、その様に考える。
果たしてまた翌月。
尾張国墨俣川で平家と対決した行家は敗北する。その上、義円まで討ち死にさせたのである。本来一体になって動くところを、先陣争いをしながら数町ほども間を置いて戦っていたからだ。
彼は三河まで退いたが、平家はこれ以上東進しようとしなかった。兵糧の限界で軍事行動が取れなくなったのが一因らしい。平家が勝ち戦の勢いを活かす事なく退いていったのは、鎌倉にとっても幸いであった。
行家自身は鎌倉に帰参するも、殊勝にすることなど無いどころか所領を求めるなどしたため、頼朝から冷遇される。これに更に逆上した彼は、ついに鎌倉と袂を分かつのであった。
∴
墨俣の戦い以降しばらくは平家との間には大きな戦も無く、しかし奥州藤原、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の元に頼朝追討の勅命――当然幼帝が確固たる意向を以て発した物ではない――が下るなど、鎌倉にとっても抜き差しならぬ出来事は続いた。
そんな盛夏のある日、館の縁側で夕涼みをする射命丸。彼女の側に範頼や頼景が歩み寄る。
「如何かな、一貫坊殿」
「それは?」
徳利と土器(かわらけ)(※20)を掲げる頼景、何かはすぐに分かる。彼女が尋ねているのはどこの物かということ。範頼がその意図を正しく解して答える。
「京から送られて来た南都諸白(なんともろはく)です」
南都の寺院で造られる僧坊酒(そうぼうしゅ)(※21)、いや、造られていたと言うべき酒。造っていた寺院の多くが、南都焼き討ちの際に樽ごと燃えていた。普段口に出来る濁酒と違い澄んだ美酒。ただでさえ高価だが、今はより値が吊り上がっているであろう。
本当にこんな物を飲んでよいのかと、射命丸は盃を受けながら思う。
「希少だからと飲むのを惜しんでいるうちに、ただの酢に変わってしまうよりはいいのです」
酒は生もの。南都の造りでは火を入れて腐らないようにしているが、それでも遅らせるだけで末路は同じ。ならばいっそ飲んでしまおうと持って来たのだ。
「それはそうですが……それを送られた方は、鎌倉殿に進ぜよという意図で下さったのでは?」
「鎌倉殿は義円殿の件で軽服(きょうぶく)(※22)にあられますから、進物などは受け取られないと思いまして」
それを言えば範頼もそう。ここは進物の授受に関しての事として、一応は納得する射命丸。だが、
「……異母兄弟の軽服は、令(りょう)ではひと月だったと記憶しておりますが」
同母兄弟ならば三ヶ月、全成や義経ならば辛うじてこれに当たる。範頼は「あれ?」と言って表情を凍らせる。本当に御厨の住人だったのかと苦言を呈する頼景、範頼はやおらそちらを向き、助けを求める風に凍り付いた笑顔を向ける。
「いや、今更だし別によいであろうに」
「あと、頼綱殿や勝間田殿はよいのですか?」
「あいつは下戸だし、勝間田様はどれだけ酒に誘っても「こんな時勢に酒など飲めぬ」ですから。まぁ……下戸なのでしょう」
止められはしなかったというから、飲酒自体は容認しているのだろう。言い訳がいつも通りの気難しそうな言い換えなので、それには笑い合う三人。
ひとしきり笑ってから、範頼が盃を掲げて言う。
「では、一献」
揃って盃を空ける。射命丸にとっても久々の酒。
「そう言えば、一貫坊様もお酒を飲むんですね」
範頼が言うのには、今度は射命丸が慌てる番。
「ま、まぁ、酒自体は朝廷から造酒司(みきのつかさ)の役を継いだ寺院も作る物ですし。あと三尺坊様曰くでは、不飲酒戒(ふおんじゅかい)はつまらないからと、あくまで「酒に溺れるな」程度での不酷酒戒ですから」(※23,24)
笊呑みの三尺坊(※25)の言ったことはともかく、他はしどろもどろと決まりが悪そうな彼女に、範頼はクスクスと笑いながら言う。
「いえ、すいません一貫坊様。誘ったのは私達ですから。でも一緒に飲めるなら、私も嬉しいです」
射命丸はホッとして盃を持ち直す。
彼と飲むのもこれが初めてだ、今後ともこの関わりが続く限りは飲むことになるのだろう。それに天狗の己は酒にも強いから、万一の時には飲んでいても大丈夫だ。なんだかんだと理由を付けて彼の側に在れればよい。常光の様な悔いを抱えるようなことになるまい、それだけは肝に銘じておこう。
こう、彼女がつらつらと思惟を巡らすのも酔っている証拠なのだが、当人こそそれに気付かない。
二人はふと、先程から頼景が何も語りかけて来ないのに気付いた。
いつもであれば適当な、しかし豊かな話題を持ちかけて来る彼が、庭に突っ立ったまま静かに空を見上げているのには、射命丸も違和感を覚える。
「どうしました? 頼景殿」
そう問い掛けると、彼は恐る恐ると手を上げて北を指差し、また不安げに問い掛ける。
「いや、まだ甁子一つも空けてないのに酔ったのか、変な物が見えましてな」
射命丸は庭に降り、彼に倣ってそちらを見る。範頼も側に立って同じくする。北の空が明るい。
「蒲殿。これが酔いの所為だとするならば、私もだいぶ酔っています」
「はい、私もです」
月はほぼ満月だがもう沈みかけている、その光ではない。頼景が指差した先。戌亥(※26)の方角、常ならばただ無数の星が浮かぶ空に、赤く青く、目映い光を放つ、一際大きな星が浮かぶ。
見た事も無い新たな星、客星(かくせい)だ。それが月に代わって空を照らしていた。
射命丸ですら初めて見る光景。
戌星すら飲み込みかねぬほどの、客星の明るい夜。吉兆か、はたまた凶兆か。皆、思いを馳せることは無数にあった。
* * *
北天に輝いた客星。
それは遙かに時を下って、より進んだ天文学的知識との合一を見てからは、SN1181(SN:Supernova、超新星)(※27)という世界共通の呼称を得た。
その輝きは、光の速度を以てしても一万年もかかる彼方から放たれた物で、故に現れた客星も、正しくは一万年以上前の姿であった。
――大八州を生み、あるいは壊せる者が居たとしても、この客星の如何までは手を出せなかったであろう――
それは全天に瞬く星の一つの、最期の輝きとして、偶然にこの日このとき届いただけであった。しかしそれは、空を見上げる多くの人の心に強いものを残した。
空を見上げていたのは本邦の人々のみではない。
海を渡って大陸を行った西の果て、また東の、無限に続くとすら思える大洋の彼方の大地に住む人々も。いや人のみでもない。妖も禽獣ですらも、この時戌星と呼ばれていたシリウスより明るい、これを見上げた。
この年だけで既に多くの事があった、またこの後も多くの事が起ころう。
皆、良きにしろ悪きにしろ、この輝きに何かしらの意味を見出そうとしたのだった。
第6話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 下野国:現在の栃木県辺り。
※2 白面金毛九尾の狐:中国神話より現れた妖弧。鳥羽上皇(※3)に仕えた玉藻前の事で、殷の紂王を誑かした妲己と同一とも。殺生石はこの狐のなれの果て。
(『幽玄なるマリオネット』の夢月みぞれ氏が、著作『生ける願い』にてこの妖弧を描いておられます)
※3 鳥羽上皇:康和5年~保元元年(1103~1156)。崇徳天皇から3代に渡り院政を敷く。天皇(第74代)としての在位は嘉承2年~保安4年(1107~1123)
※4 蔵王権現:修験道の本尊、正式には金剛蔵王権現。釈迦如来等三尊の合体とも、大国主命や少名彦命のほか国造り関わった五組の神の習合とも言われる。
※5 洛中:平安京の京域内の事。京域外は洛外と区別して呼ぶ。“洛”は中国の都『洛陽』に倣った平安京の別称。かつては『京中』の語が主に使われていた。
※6 幼帝:ここでは安徳天皇の事。
※7 行幸:天皇が外出する事、複数の場所を廻る事を巡幸と言う。皇后を伴う場合は、行幸啓や巡幸啓と言う。
※8 祟り:『清涼殿(※9)落雷事件』。複数の官人が死傷した。死亡した藤原清貫が左遷された菅原の道真の監視役だったため、その怨霊の祟りと言われた。
※9 清涼殿:天皇の日常生活の場。儀式や式典を行うこともあった。
※10 鎮西:西方を治めること、転じて九州をそう呼んだ。源八郎為朝の通称『鎮西八郎』は、彼がここ(九州)に遠流されていた頃からの名乗り。
※11 顕幽:単にこの世とあの世とも表されるが、本義は別途、本居宣長や平田篤胤(国学者)、千家尊福(たかとみ、出雲国造)の『顕幽論』を参照されたい。
(小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、絶筆『神国日本』の原著にて、本義の顕幽の“幽”を『Shadowy Dominion』と記しているとの事)
※12 国津神:高天原から降臨した天津神(先述)に対して、土着の神々をこう称する。降伏して天津神に下るなどの様子が、国譲り神話として描かれる。
※13 南都:ここではかつての平城京、現在の奈良県。特に勢力を持っていた興福寺をこう呼ぶ事もあった。
※14 末法:仏の教えのみが存在し、僧侶がそれを修めずに仏教が力を無くす時代。釈迦入滅より1500年以降の世界。仏の教え自体の終末
※15 大衆・学生:仏教における大衆とは、多くの僧の集まりや僧侶のこと。僧兵(悪僧)を指す場合も。学生とは、当時先端の知識が集まった寺院にて習う者
※16 院政を停止:平家打倒のクーデター計画『鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀』が発覚し、清盛が関係者を処罰する中でこれが施された。
※17 大和国:現在の奈良県
※18 知行:領主が所領(荘園等)を支配すること。直接及び間接的に統治を行う事で利益を得た。
※19 侍所:軍事一般の統制を実施する鎌倉の機関。後の室町幕府もこれに倣った。
※20 土器:素焼きの盃。磁器と異なり、焼成温度が低く割れやすい。
※21 僧坊酒:寺院で作られた酒。造酒司(※23)の衰退で、官から人員や技術が流出、寺院が受け皿となった。僧房酒とも言い、当時としては高品質だった。
※22 軽服:軽く喪に服すること。各種の職務への不具合から、父母の死などの重服(じゅうぶく)に対して規定されたと思われる。
※23 造酒司:律令下で設置された官職。職務は酒や酢などの醸造で、その為の建物(酒殿、さかどの)を有していた。
※24 不飲酒戒:仏教における五戒の一つ。不酷酒戒はこれを若干緩和したもの。他に、不殺生戒・不偸盗戒(盗み)・不邪淫戒・不妄語戒(嘘、偽り)がある。
※25 笊呑み:秋葉山に関わる寓話に、たびたび天狗が三尺坊の指示で平野の村に酒を買い出しに来る、という物が有る。幻想郷でも天狗は大酒飲み。
※26 戌亥:乾とも書く。方角として北西を示す。
※27 SN1181:欧州やアジアの複数の個別の史料に見られる天文現象。超新星爆発と推定され、クォーク(素粒子)星『3C 58』の由来との見方もある。
正月を横見で迎えた範頼達、新居は実に快適なものであった。
新居と入っても新たに建てられた物ではなく、元々ここに住んでいた豪族の館を普請し直した物。修繕を奉行していたのは常光、であればこそ彼は工程の誤りに焦ったのであった。
範頼達もそんな事に――次長の愚痴はあれど――文句を言う者は無く、皆穏やかなうちにここに越した。
相良の衆をここに住まわせ、厩の整備も進む。今後範頼に従う事になるのは横見の衆、その主立った者との顔合わせも逐次進んでいた。そんな中、ここの修繕に関する諸々を実際に工面した人物が訪れるというので、これを迎える事になった。
現れたのは常光よりもやや歳を経た人物。目立たないほど小さく髻を結ったその頭は、白みの方が多いほど。中肉中背で柔らかな物腰、目尻の皺が彼の柔和さを物語る。
「入間善吉(いるまぜんきち)と申します。坂東の銀売り善吉で通っております商人にございます」
一段高く畳に座る範頼の前で深々と頭を下げる。脇に控えていた射命丸の顔は、引きつっている。
挨拶が終わって別室でくつろぐ善吉、射命丸は白湯を持って現れる。
「一体何事ですか、桜坊(さくらぼう)様」
「何事も何も、商いですよ」
入間善吉とは仮の名、射命丸は彼の本当の姿を知っていた。
奥多摩(おくたま)御岳山(みたけさん)の桜坊、それが常の彼の名。
「なんか、胡散臭いですね」
「どこぞの悪狐でもあるまいし。貴女に胡散臭いと言われるほど胡散臭くは無いですよ。商売は信用第一ですから」
悪狐というのは下野国(しもつけのくに)(※1)那須野(なすの)に封じられた狐の事かと射命丸は思い出す。秋葉山に三尺坊を導いた霊弧とは、真逆の存在だ。
白面金毛九尾の狐(※2)。人の姿を取って鳥羽上皇(とばじょうこう)(※3)を誑(たぶら)かし、その寵愛を受けたが、かの安倍晴明に正体を破られ坂東に潜伏していたのを討たれたのだ。
「悪狐とまでは申しませんが、しかし。坂東武者を相手に商売などよくなされるなぁ、とは――」
ここでまた射命丸は思い出した。
その悪狐を討った者はいずれも鎌倉に関わりのある者達。上総介広常に千葉常胤、今は亡き三浦義明、彼らが将軍を務め、国衙の要請に応じて討伐軍を繰り出したのだ。その数八万、気の遠くなるような大軍、気が遠くなるほど散財もしたであろう。
しかしそいつを討っても彼らが得る実は無し。国衙によるこの悪狐退治の命令も、今の坂東における朝廷への反発の遠因になったのではないか、それほどの無理強いであったのだ。
そんなこんなと射命丸が思いふけっていると、そこに常光が現れた。
「いやいや、昨年末はすいませんでした。私の奉行が拙のうございまして、変な事になりました」
「大丈夫ですよ、蒲冠者にはお褒め頂きましたし」
見知っていて当然の二人、ただの商売以上にも付き合いがあるらしい。
「ときに土佐坊殿、この一貫坊殿の事、どこまで聞いていますか?」
何故この御仁は急に私の話を始めるのか、嫌な予感を覚える射命丸。
「と、仰いますと?」
「天狗です、鴉天狗」
よくも言ったな。
白湯を飲んでいなかったのがせめてもの幸いだったというぐらい吹き出し、射命丸は“桜坊”に食って掛かる。
「言える訳が無いでしょう、そんな事! ――え、あれ、と言う事は土佐坊殿も桜坊様の事は……」
「ええ知っております。お山では直々に修行に付き合って頂きましたから」
今まで気にしていたのが阿呆みたいだと、二人を白けた風に見る。
桜坊は越後の蔵王権現(ざおうごんげん)(※4)の下で三尺坊と共に修行し、それ以来三尺坊とも親交がある。商人としても秋葉山に――移動は当然神足通を用いて――出入りしていたので、射命丸も彼のことを知っていたのだ。
常光の迂闊さには薄々気付いてはいたが、桜坊の口の軽さも大概だ。
「あの、桜坊様。蒲殿が私の正体を知っていたり、土佐坊殿にもそれを話していると、何故思ったのです?」
これについては嫌な予感がする射命丸。範頼達に己の正体を明かした事は、三尺坊にも言っていない。まさか、射命丸は血の気が引くのを感じる。
「え? 知ってましたよ、三尺坊様」
やはりだ。次に会ったら何を言われるか分からない、永久に逐電してしまおうかなどとも考える。
「ああ、安心して下さい。三尺坊様も言ってました。蒲殿と協力して事に当たる限り、いずれは理解を求める必要もあったでしょうし、という感じで」
射命丸の本来の役目、天邪鬼退治の事だ。今も三尺坊のその命令は生きていると勝手に解釈していたが、幸いにもあちらもその認識でいた点には安心した。
しかし、常光の居る場でこれを喋られるのは拙い。
「おっと、桜坊様。ちょっとよろしいでしょうか! すいません土佐坊殿、細々とお話があるのを思い出しました」
一応はお目付役の彼を人払いするのは論外、桜坊を連れて庭に出でる射命丸。常光が不思議そうな顔をするのを尻目に席を立つ。
桜坊も射命丸の行動を不思議に思っている。
「どうしたのですか、一体」
「どうもこうも、平家追討のためのはずの参陣が[実は天邪鬼退治でした]では、鎌倉殿に仕える土佐坊殿がどう思われる事か」
当然、ゆやの事などは桜坊にも言えない。
常光がいくら好意的であっても、彼にも役目というものがあるのだと伝えると、桜坊もようやく納得する。
「それはそれは。それでは丁度良かったです」
「と、仰いますと?」
「実はそれについて、新たな情報があります」
曰く。件の天邪鬼は、洛中(※5)に居る可能性が極めて高いとの事。
可能性に止まるのは何故なのか、射命丸は問う。
「術などで奴の残滓が追えたのが六波羅付近までで、そこから先はその痕跡が潰えたのです」
あの、燃水の様な匂いの妖気はさぞ追い易かろうに、それが失せたとは一体どういうことか。
これは京という物が持つ特性であると桜坊は言う。
京は、特に内裏を忠心として、強力な結界が敷かれている。京の造営された地勢から設えられた通りの数から、全てが細心の注意を以て設計されたものだ。
範頼達が遠州で兵を募っていた時分、都は幼帝(※6)や上皇、院の行幸(※7)という形で、清盛が満願の思いを込めて作り上げた新都福原に遷された。こちらにも相応の結界があるのか。
その割りには平安京からして、菅原道真の(すがわらのみちざね)祟り(※8)をはじめ諸々祟られているし、清涼殿(せいりょうでん)(※9)にすらその道真に雷を喰らっている。止めに源三位の退治た凶獣、結界など大した事は無いのではと射命丸は思う。
それを見透かしたのか桜坊から一言。
「言っておきますが一貫坊殿。あの都を外から害する事が出来るのは、特に強力な神霊だけですよ」
力を持たない妖は、行き来しようとしただけで命を削られかねない。実体を持たぬ者などは、基本的に出入りすら出来ないのだ。
しかしそれ故に京で呪術が流行り出すと、今度はそれで洛中が澱み濁る始末。結界は内側を清浄に保つ物ではなく、単なる壁か漉し器でしかない。
「自滅していては世話が無いですね。しかしあの妖、実体はありましたが前の相良の殿様の一撃で、相当な手傷を負っていたのですけれど」
ひと月経っても傷は癒えていなかった。万全ならどうか知らないが、あの傷でそんな――言うほどの――結界を越えられるとは思っていない。
「考えられる要因は二つ。一つは、何者かに憑いて洛中に入った。もう一つは、並ならぬ、神霊の如き神力を身につけた」
それか両方、射命丸は間違いなく前者であると見るが、桜坊の考えは違っていた。
「貴女は、三尺坊様始めとして多くの方が動いているこの件、どのぐらいの事態と見ていますか?」
どれぐらいも何も、天邪鬼が宗盛に憑いて、ゆやを攫って行ったぐらいにしか思っていない。宗盛の元々の性(さが)も一因であろうかとは考えていた。
その憑いた相手が問題でもあった。桜坊が言い募る。
今や平家の次代を担う人物にまでなった宗盛。だが彼自身に、奴の糧となりそうな力があるようには射命丸は思えない。彼個人には。
「平家丸ごと喰ろうて、憑いているかも、と」
桜坊が言う、個人の見解ではないらしい。
驕り高ぶる平家、「平家にあらずんば人にあらず」とは、宗盛でも、ましてや清盛でもなく、一門の平時忠(ときただ)の発言。だがそれを具現した、権力と武威を笠に着た悪逆非道は洛中洛外のみならず、鎮西(※10)陸奥にまで知れる事。
あの手合いにとってはさぞ心地良く、喰いでがあろうと、射命丸は解釈する。血肉を食らうのは女子供からであろう、平家から食らうのはそれ以外。魂か呪詛か、そういった霊的なモノである。
それにしても先程桜坊は、三尺坊始め云々と言ったが、そんなに一大事なのかと問う。
「すいません。そもそもこの件は、見附に現れた奴を退治し損なった事から始まった小鬼退治と、それだけと見ていたのです」
「それだけなら構いません。奴の実体が、有限ならばよかったのです」
「それは、どういう意味ですか?」
有限ならばよかった、裏返せば無限であるとの事。
どんなモノでも器があれば限界がある。升に米を詰めればやがて溢れるし、大水になれば堤は切れる、有限とはそういうこと。
限りが無いとは一体どういう事か、想像が付かない。
「奴の力の特性は、歪曲し、覆す事にあります。そしてこの覆す能力は、力の大きさに応じてあらゆる理を覆す事にもなるのです。己の器の大きさすらも」
「全ての理を覆す?」
「ええ、理を覆して力を得、また理を覆す。何もかも無くなるか、奴自体が退治されるまで、その循環が繰り返す恐れが強いと、多くの方々は見ています」
理を覆し続ける事で無尽蔵の力を得続ける。
実に都合の良い力だと射命丸は心中で笑い飛ばす一方、冷静に、もしもこの話が本当だった場合に行き着く先を思い浮かべる。
「それが本当ならば、例えば……そう例えば、天地開闢以前の混沌の時代、造化三神(ぞうかさんしん)が現れた時代すら顕現し得るとか、ですか?」
「どこまで至るかはまだ想像が付きません。ただ、現在西国を見舞いつつある農作物の不作は、天が愁(うれ)いての事とされています。これが顕著になったのは、奴が西へ向かってからです」
不作に見舞われているのは西国の話、東国や北陸は依然実り豊かであり、東海道はその中間程度。こじつければいくらでもそう考えられるが、これについては単に気候の違いなのではないか。
「天地開闢云々はさておきと、過去奴が尋常ならざる力を持っていたとする話を知る方も多く居ます。この役目、決して軽いものではありません」
箱根で頼景が語ったおとぎ話が現実であったというのか。それこそ、この大地が大陸なら引き出されて来た時分にしか起こりえない事だ。国引きの巨人、今は顕幽(けんゆう)(※11)の幽に在る国津神(くにつかみ)(※12)の逸話に近い。馬鹿げている。
話がこれ以上大きくなっても荒唐無稽だと、桜坊にはこの役目自体はしかと果たす決意を述べる。
「ご安心下さい、桜坊様。まかり間違っても奴がそんなモノになる前に、私は蒲殿らの助けを以て、奴を討ち果たして見せましょう」
彼の話の端々から、天狗だけでない、高位の妖や人間ですら多く動いているであろう事は悟った。直接手を下せないのは京の結界だけでなく、奴が宗盛、ひいては平家と一体となっているからだ。
今彼らが頼りにするのは、当初からの対峙し、その上で平家追討が叶う立場の己だけであるのも、射命丸は知った。同時に、やはり桜坊達はゆやに係る事案を知っているのかもと考える事が出来た。
桜坊の正体はあっさりと常光から範頼達にもたらされ、彼らは驚きながらもそれを承知した。射命丸が側に居るのに、殊更驚く事も無いのだと。
それよりも目下、都ではまた一大事が発生していた。
「一大事というものが多すぎて、何を聞いても驚けない気がするが」
と頼景の言。それも当然と言いたくなるほど、様々な風聞が飛んで来ては、射命丸が真偽の判定に走っている。
今のこの話の確度は、極めて高い。
「去る昨年の末頃、前左中将平重衡(しげひら)殿が南都(※13)を焼いたそうです」
「南都を、焼いただと?!」
東大寺(とうだいじ)や興福寺(こうふくじ)など南都の主たる寺を、重衡率いる平家の軍が焼き討ちにしたのだ。これは南都その物が焼かれたと言っても、大げさな事では無い。
末法(※14)の世とは坊主の文句だけかと思っていたが、まさかそれが体現されるなどとは、一応は僧である射命丸や常光こそ思う。
でなくともこれは尋常ならざる事。神仏への恐れはどうとでも、顕界の価値観だけでも十二分に。
一体どの様な経緯なのか。
寺社が関わる事は、往々にして複雑な事情が絡む。寺同士の諍いから大衆(だいしゅ)学生(がくしょう)(※15)の乱暴から、そういったことは根絶不能なぐらいの茶飯事になっている。
今回は特に規模が大きい、大仏殿まで焼いたのだ。
「まず分かる所では、これも昨年の十二月に鎌倉に訪れた近江源氏の山本義経殿の軍に、園城寺(おんじょうじ)や興福寺の大衆が加勢した事が原因です」
「いや、蒲殿。そもそも何故、大衆が源氏に与する事になったのか、発端はそこである」
次長が問う。いや、事態の背景におおよその予想が付いていたので、訂正を促した。
「そこからですと、だいぶ複雑ですね。頼景殿、頼景殿や頼綱殿、それに勝間田様に手勢を募って頂いている時、入道相国が院や関白を罰し、院政を停止したのを覚えていますか?」(※16)
「……興味が無いので忘れておったな」
「兄者、これからは興味を持った方がよいぞ」
生意気だと、毎度の如く頼綱の頭頂が叩かれる。
「ったく。清盛入道がそれをやったので、寺院の多くは反平家に流れたのでありましょう? 蒲殿。以仁王に付いた園城寺が顕著だと思いますが」
院も比叡山や南都の寺社勢力には厳しい態度を取る事がある反面、基本的に帰依の意識は強い。寺院その物への手厚い勧進は、彼の信仰の現れとも言える。
その院による親政が止められたため、寺院が勧進を満足に受けられなくなった事が、背景がある。
「はい、恐らくそれが大元です。あと今回の事は、大衆側にも十分に問題があるように見えます」
当初清盛は五百ばかりの兵で以て寄せて威圧しつつ、近江源氏への協力を止めるように迫った、だけであった。ここではまだ矛を交える前であったのだ。
そこで寺院側は強硬な姿勢を取り、多くの荒法師を繰り出して、最終的に平家勢六十の首級を挙げて梟首したのである。それに清盛も怒り、一挙に数万の兵を寄せたのだ。
「悪僧が生臭いのは知っておりましたが、この乱暴な態度は一体何なのですか、一貫坊殿」
唖然としながらも頼景が言う。
ここまでの流れでは、事態を悪化させたのは焼き討ちを受けた側の南都寺院だ。
「わ、私は荒法師ではありませんよ!?」
「頼景殿、失礼です」
何故か否定から入る射命丸、そして擁護する範頼。
「別に一貫坊殿がどうこうとは言っておらんに」
「ま、まぁそれはさておき、利権が狭まれば食い扶持が減る、至極単純な原理です。これは悪僧の独断ではありませんよ。ね、蒲殿」
「はい。本来多くの特権を持っていた南都の寺社が、平治の乱の後、大和国(やまとのくに)が清盛の知行国になってからこれを排されたため反発。先程の、院政停止の後の件を契機にこれが更に強まり、結果が今回の事です」(※17,18)
ここで、次長同様に察していた常光が言う。
「正直に言えば荒法師などは、坂東の鎌倉御家人よりも質が悪いですからな。経が読めないのは勿論、下手をすれば賊と変わりありません。と、坂東の鎌倉御家人の悪僧が言ってみます」
本人が言ってしまうのだから説得力がある。
結局南都の会戦は、折からの強風で、本来限定的であった焼き討ちが東大寺なども巻き込んでしまい、平家と大衆の戦に止まらなくなり、避難していた多くの衆徒まで巻き込んでしまったのだ。
寺院は元来、宗派や山毎、あるいは僧房毎の派閥や徒党があり、互いに焼き討ちすることまであるほどだ。今回の事は、ばらばらであった多くの寺社を反平家に指向させ、合力させる事になろう。これをあの清盛が見越せないとは考えられない。
戦は当初からの決定事項であった可能性が高いが、まさか大仏殿にまで延焼する事態に至るとは思っていなかったのであろう。
それにしても寺院に焼き討ちを仕掛けた重衡とはどんな恐れ知らずの強者、大悪党であろうか、範頼達はそれにも興味があった。
いずれは対決する事になろう人物。こういう行動から間接的に敵情を知り分析するのもまた、範頼達にとっては必要な事なのであった。
∴
横見での初めての春を迎えようとする次の月、また新たな一大事が範頼達の元へ届く。今度の件は、鎌倉に来て以来知る限りでも最も大きな出来事であった。
そのため、鎌倉では今後の動きに備えて主立った将、豪族を招集する。その中には範頼も在った。
鎌倉入りした時とは比べものにならないほど都邑は整えられており、当地での範頼達の宿館も新たに建てられていた。
由比ヶ浜側の館を案内され、そこに郎党を泊め置き、範頼は出仕。郎党――相良の兄弟や次長、射命丸はその帰りを待つ。常光は横見を守り、まとめるため残った。鎌倉に居る限りお目付役も必要無かろうという次長の言を、彼が受け入れた形だ。
今回の話は、京からも鎌倉からも飛脚で殆ど差も無く横見に届けられた。正に一大事であった。
侍所(※19)から戻った範頼は、新たに届けられた続報を皆に語る。
「相国入道薨去の後、やはり一門の惣領は宗盛が継いだようで――」
清盛の死、享年六十四であったという。
これは南都の件の仏罰を覿面(てきめん)に喰らったものか、そんな風にすら思える事であった。
富士川での敗戦を切っ掛けとした再度の遷都を巡る論争の後、清盛と認識にズレを生じさせていた宗盛の意向で院政が再開された事も、京からは同時にもたらされた。
射命丸はふと範頼の物言いに、普段の彼には考えられない棘を感じる。宗盛の事は常に呼び捨てにし、その名を口にするのも憚るといった風。
「また彼は、平左中将を総大将にした官軍を、進発させたとの事です。これに対し――」
もう一人範頼の異常に気付いていた者が、彼の話を一旦止める。
「御曹司、少し落ちつけ。気持ちはよく分かるが、感情的になっては話も聞きづらい」
頼景の諫言に、範頼はハッとなって口をつぐみ、深く呼吸をしてから話を再開する。無意識からの言葉だったのかと、射命丸は恨みの深さを知る。
「すいません。平家の軍勢に対しては、新宮(しんぐう)行家殿が迎え撃つ事になります」
行家には、従来通り義円も付けられるという。これには行家の独断専行を抑える意図もあるとは、聡い者でなくとも、彼の普段の言動を見る者には誰にとっても明らかであった。
官軍は三万騎を数える、対する鎌倉勢は五千騎ほど。富士川の時とは真逆の兵力差。会戦する地の理や布陣によってはそれもひっくり返せるか、以前は数千の軍で驚いていた射命丸も感覚が麻痺し、その様に考える。
果たしてまた翌月。
尾張国墨俣川で平家と対決した行家は敗北する。その上、義円まで討ち死にさせたのである。本来一体になって動くところを、先陣争いをしながら数町ほども間を置いて戦っていたからだ。
彼は三河まで退いたが、平家はこれ以上東進しようとしなかった。兵糧の限界で軍事行動が取れなくなったのが一因らしい。平家が勝ち戦の勢いを活かす事なく退いていったのは、鎌倉にとっても幸いであった。
行家自身は鎌倉に帰参するも、殊勝にすることなど無いどころか所領を求めるなどしたため、頼朝から冷遇される。これに更に逆上した彼は、ついに鎌倉と袂を分かつのであった。
∴
墨俣の戦い以降しばらくは平家との間には大きな戦も無く、しかし奥州藤原、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の元に頼朝追討の勅命――当然幼帝が確固たる意向を以て発した物ではない――が下るなど、鎌倉にとっても抜き差しならぬ出来事は続いた。
そんな盛夏のある日、館の縁側で夕涼みをする射命丸。彼女の側に範頼や頼景が歩み寄る。
「如何かな、一貫坊殿」
「それは?」
徳利と土器(かわらけ)(※20)を掲げる頼景、何かはすぐに分かる。彼女が尋ねているのはどこの物かということ。範頼がその意図を正しく解して答える。
「京から送られて来た南都諸白(なんともろはく)です」
南都の寺院で造られる僧坊酒(そうぼうしゅ)(※21)、いや、造られていたと言うべき酒。造っていた寺院の多くが、南都焼き討ちの際に樽ごと燃えていた。普段口に出来る濁酒と違い澄んだ美酒。ただでさえ高価だが、今はより値が吊り上がっているであろう。
本当にこんな物を飲んでよいのかと、射命丸は盃を受けながら思う。
「希少だからと飲むのを惜しんでいるうちに、ただの酢に変わってしまうよりはいいのです」
酒は生もの。南都の造りでは火を入れて腐らないようにしているが、それでも遅らせるだけで末路は同じ。ならばいっそ飲んでしまおうと持って来たのだ。
「それはそうですが……それを送られた方は、鎌倉殿に進ぜよという意図で下さったのでは?」
「鎌倉殿は義円殿の件で軽服(きょうぶく)(※22)にあられますから、進物などは受け取られないと思いまして」
それを言えば範頼もそう。ここは進物の授受に関しての事として、一応は納得する射命丸。だが、
「……異母兄弟の軽服は、令(りょう)ではひと月だったと記憶しておりますが」
同母兄弟ならば三ヶ月、全成や義経ならば辛うじてこれに当たる。範頼は「あれ?」と言って表情を凍らせる。本当に御厨の住人だったのかと苦言を呈する頼景、範頼はやおらそちらを向き、助けを求める風に凍り付いた笑顔を向ける。
「いや、今更だし別によいであろうに」
「あと、頼綱殿や勝間田殿はよいのですか?」
「あいつは下戸だし、勝間田様はどれだけ酒に誘っても「こんな時勢に酒など飲めぬ」ですから。まぁ……下戸なのでしょう」
止められはしなかったというから、飲酒自体は容認しているのだろう。言い訳がいつも通りの気難しそうな言い換えなので、それには笑い合う三人。
ひとしきり笑ってから、範頼が盃を掲げて言う。
「では、一献」
揃って盃を空ける。射命丸にとっても久々の酒。
「そう言えば、一貫坊様もお酒を飲むんですね」
範頼が言うのには、今度は射命丸が慌てる番。
「ま、まぁ、酒自体は朝廷から造酒司(みきのつかさ)の役を継いだ寺院も作る物ですし。あと三尺坊様曰くでは、不飲酒戒(ふおんじゅかい)はつまらないからと、あくまで「酒に溺れるな」程度での不酷酒戒ですから」(※23,24)
笊呑みの三尺坊(※25)の言ったことはともかく、他はしどろもどろと決まりが悪そうな彼女に、範頼はクスクスと笑いながら言う。
「いえ、すいません一貫坊様。誘ったのは私達ですから。でも一緒に飲めるなら、私も嬉しいです」
射命丸はホッとして盃を持ち直す。
彼と飲むのもこれが初めてだ、今後ともこの関わりが続く限りは飲むことになるのだろう。それに天狗の己は酒にも強いから、万一の時には飲んでいても大丈夫だ。なんだかんだと理由を付けて彼の側に在れればよい。常光の様な悔いを抱えるようなことになるまい、それだけは肝に銘じておこう。
こう、彼女がつらつらと思惟を巡らすのも酔っている証拠なのだが、当人こそそれに気付かない。
二人はふと、先程から頼景が何も語りかけて来ないのに気付いた。
いつもであれば適当な、しかし豊かな話題を持ちかけて来る彼が、庭に突っ立ったまま静かに空を見上げているのには、射命丸も違和感を覚える。
「どうしました? 頼景殿」
そう問い掛けると、彼は恐る恐ると手を上げて北を指差し、また不安げに問い掛ける。
「いや、まだ甁子一つも空けてないのに酔ったのか、変な物が見えましてな」
射命丸は庭に降り、彼に倣ってそちらを見る。範頼も側に立って同じくする。北の空が明るい。
「蒲殿。これが酔いの所為だとするならば、私もだいぶ酔っています」
「はい、私もです」
月はほぼ満月だがもう沈みかけている、その光ではない。頼景が指差した先。戌亥(※26)の方角、常ならばただ無数の星が浮かぶ空に、赤く青く、目映い光を放つ、一際大きな星が浮かぶ。
見た事も無い新たな星、客星(かくせい)だ。それが月に代わって空を照らしていた。
射命丸ですら初めて見る光景。
戌星すら飲み込みかねぬほどの、客星の明るい夜。吉兆か、はたまた凶兆か。皆、思いを馳せることは無数にあった。
* * *
北天に輝いた客星。
それは遙かに時を下って、より進んだ天文学的知識との合一を見てからは、SN1181(SN:Supernova、超新星)(※27)という世界共通の呼称を得た。
その輝きは、光の速度を以てしても一万年もかかる彼方から放たれた物で、故に現れた客星も、正しくは一万年以上前の姿であった。
――大八州を生み、あるいは壊せる者が居たとしても、この客星の如何までは手を出せなかったであろう――
それは全天に瞬く星の一つの、最期の輝きとして、偶然にこの日このとき届いただけであった。しかしそれは、空を見上げる多くの人の心に強いものを残した。
空を見上げていたのは本邦の人々のみではない。
海を渡って大陸を行った西の果て、また東の、無限に続くとすら思える大洋の彼方の大地に住む人々も。いや人のみでもない。妖も禽獣ですらも、この時戌星と呼ばれていたシリウスより明るい、これを見上げた。
この年だけで既に多くの事があった、またこの後も多くの事が起ころう。
皆、良きにしろ悪きにしろ、この輝きに何かしらの意味を見出そうとしたのだった。
第6話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 下野国:現在の栃木県辺り。
※2 白面金毛九尾の狐:中国神話より現れた妖弧。鳥羽上皇(※3)に仕えた玉藻前の事で、殷の紂王を誑かした妲己と同一とも。殺生石はこの狐のなれの果て。
(『幽玄なるマリオネット』の夢月みぞれ氏が、著作『生ける願い』にてこの妖弧を描いておられます)
※3 鳥羽上皇:康和5年~保元元年(1103~1156)。崇徳天皇から3代に渡り院政を敷く。天皇(第74代)としての在位は嘉承2年~保安4年(1107~1123)
※4 蔵王権現:修験道の本尊、正式には金剛蔵王権現。釈迦如来等三尊の合体とも、大国主命や少名彦命のほか国造り関わった五組の神の習合とも言われる。
※5 洛中:平安京の京域内の事。京域外は洛外と区別して呼ぶ。“洛”は中国の都『洛陽』に倣った平安京の別称。かつては『京中』の語が主に使われていた。
※6 幼帝:ここでは安徳天皇の事。
※7 行幸:天皇が外出する事、複数の場所を廻る事を巡幸と言う。皇后を伴う場合は、行幸啓や巡幸啓と言う。
※8 祟り:『清涼殿(※9)落雷事件』。複数の官人が死傷した。死亡した藤原清貫が左遷された菅原の道真の監視役だったため、その怨霊の祟りと言われた。
※9 清涼殿:天皇の日常生活の場。儀式や式典を行うこともあった。
※10 鎮西:西方を治めること、転じて九州をそう呼んだ。源八郎為朝の通称『鎮西八郎』は、彼がここ(九州)に遠流されていた頃からの名乗り。
※11 顕幽:単にこの世とあの世とも表されるが、本義は別途、本居宣長や平田篤胤(国学者)、千家尊福(たかとみ、出雲国造)の『顕幽論』を参照されたい。
(小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、絶筆『神国日本』の原著にて、本義の顕幽の“幽”を『Shadowy Dominion』と記しているとの事)
※12 国津神:高天原から降臨した天津神(先述)に対して、土着の神々をこう称する。降伏して天津神に下るなどの様子が、国譲り神話として描かれる。
※13 南都:ここではかつての平城京、現在の奈良県。特に勢力を持っていた興福寺をこう呼ぶ事もあった。
※14 末法:仏の教えのみが存在し、僧侶がそれを修めずに仏教が力を無くす時代。釈迦入滅より1500年以降の世界。仏の教え自体の終末
※15 大衆・学生:仏教における大衆とは、多くの僧の集まりや僧侶のこと。僧兵(悪僧)を指す場合も。学生とは、当時先端の知識が集まった寺院にて習う者
※16 院政を停止:平家打倒のクーデター計画『鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀』が発覚し、清盛が関係者を処罰する中でこれが施された。
※17 大和国:現在の奈良県
※18 知行:領主が所領(荘園等)を支配すること。直接及び間接的に統治を行う事で利益を得た。
※19 侍所:軍事一般の統制を実施する鎌倉の機関。後の室町幕府もこれに倣った。
※20 土器:素焼きの盃。磁器と異なり、焼成温度が低く割れやすい。
※21 僧坊酒:寺院で作られた酒。造酒司(※23)の衰退で、官から人員や技術が流出、寺院が受け皿となった。僧房酒とも言い、当時としては高品質だった。
※22 軽服:軽く喪に服すること。各種の職務への不具合から、父母の死などの重服(じゅうぶく)に対して規定されたと思われる。
※23 造酒司:律令下で設置された官職。職務は酒や酢などの醸造で、その為の建物(酒殿、さかどの)を有していた。
※24 不飲酒戒:仏教における五戒の一つ。不酷酒戒はこれを若干緩和したもの。他に、不殺生戒・不偸盗戒(盗み)・不邪淫戒・不妄語戒(嘘、偽り)がある。
※25 笊呑み:秋葉山に関わる寓話に、たびたび天狗が三尺坊の指示で平野の村に酒を買い出しに来る、という物が有る。幻想郷でも天狗は大酒飲み。
※26 戌亥:乾とも書く。方角として北西を示す。
※27 SN1181:欧州やアジアの複数の個別の史料に見られる天文現象。超新星爆発と推定され、クォーク(素粒子)星『3C 58』の由来との見方もある。
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