東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編   木ノ花前編 第5話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 前編

公開日:2016年02月18日 / 最終更新日:2016年02月18日

八./鎌倉へ(西暦1180年)

 駿河国から伊豆国へ至り、箱根(はこね)の峠付近で休止する隊列。範頼以下、相良の衆と射命丸達は相模国との境へ差しかかっていた。
 振り返れば、足下には広々とした平野に駿河湾。伊豆の山麓も少し雪をかぶり、富士山は白く染まっていた。遠江から見るのとはまた違う富士の姿を、一行は白い息を吐きながら眺める。
「雪が降ってないのは幸いでしたね」
「雪が降ったら、一貫坊殿や馬に乗れない者達を運ぶのに、車が使えませんからな」
 当然冗談だが、頼景が意地悪そうに言うのには、射命丸も苦笑いで頬をかく。
「兄者、火をおこしたぞ」
「おお、遅かったな」
 そこらから薪をかき集め、起こした火を大きくして分け、人も馬も暖まる。
「一貫坊殿」
「はい」
 次長が火に手をかざしながら呼び掛け、同じくそうしていた射命丸は応じる。
「一貫坊殿はかつて、鴉だったのでありますな?」
「え、ええ、その通りです」
 今更と言えば今更な問い掛けに射命丸も戸惑う。
「神代から人の世が顕れんとする頃の、神武天皇(じんむてんのう)の、東征(とうせい)の物語は知っておられますな?」(※1~3)
「ええ、それは勿論」
 その昔、高千穂(たかちほ)の地に在った神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)が、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定せんと、東へ向かって進軍した話だ。射命丸はこれを思い出して、彼が何を言わんとしているのかを察した。(※4~6)
 尊は浪速(なにわ)の国へ向かうが、東に向かって攻め上がるのは皇祖に立ち向かっている様でよろしくないとし、紀伊国(きいのくに)から回り込んだ。(※7~9)
 そして――
「今、蒲殿は一旦は東国へ至り、いずれは上洛してゆやを救い、平家や邪鬼を討ち滅ぼす事でしょう。お許が鴉より化身した者であるのなら――」
 尊はその後、高天原(たかまがはら)の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)が遣わした三本足の鴉、即ち今の熊野権現にも仕える八咫烏に導かれ、大和の地に辿り着いたのだ。(※10~12)
「かの神話の如く、蒲殿を導くために現れたのかも知れませぬな」
 それは違う、己は彼の仇ではあっても導く者などではない。何より神話に謳われる八咫烏と、ただ長く生きただけの化け鴉では、格も何も違い過ぎる。
 射命丸は心の中で否定し、更に口に出して言う。
「いえいえそんな滅相も無い。小僧が如きが、そんなたいそうな方に準(なぞら)えられるなど」
 手も首も大きく振って否定する彼女の横に、話を聞いていた範頼が近付き、彼は苦笑しながら場に混じる。
「私こそ、武衛様の陣中に列せられる一人でしかないでしょうから、神武天皇に重ねられるなど恐れ多い事です。ですが、射命丸様が私を導くために現れたというのなら、それは信じたいです」
「蒲殿まで……いえ、蒲殿こそ、源氏を束ねて西国を平定するお方かも知れません。私はその時お側に付けて頂ければ、満足です」
 ゆやを救い出したその先、今はまだ想像も付かない事だ。果たして己はその時彼の側に居られるのだろうか。射命丸は火に炙られた範頼の面を見つつ思う。
「御曹司、そろそろ出発しよう。ここで日が暮れては大変だ」
 峠にすさぶ風は強く、ここでの宿営は厳しい。
「それではやはり、芦ノ海(あしのうみ)(※13)の宿でしょうか?」
「ああ、そうだな」
 峠の少し先には湖が広がる、これも中々の景勝だ。湖畔は広く宿場もある、色々と便が良さそうであった。
 いざ下り始めてみると、つづら折りになった道は山陰に入ってすぐに暗くなり、急に寒くなる。土が凍り付いていないか、頼景や特に馬に慣れた者が先導する。ここで馬や人を失うのは避けたい。
「蒲殿、頼綱、馬を怪我させたら替えは無いぞ」
「霜柱なら分かるのですが、土が凍り付くというのが、想像が出来ません」
「雪が解けた後また凍ると、氷の上と同じくなります、足や蹄が滑るのです。荷を乗せた馬がそうなると脚が駄目になって、楽にさせねばならなくなります」
 木陰では地面が微かな陽光を反射して光る。
 修行の際は散々痛い目に遭った、凍っているとはこういうことだ、これは人間でも滑るぞと射命丸は見る。
 そうしてゆるゆると下り切った頃には日も暮れ、本日は宿場近くの湖畔で宿営し、明日に備える事になった。

 夜が明ぬうちから、幕舎で眠る射命丸を起こす者があった。
「一貫坊様、お休みの所すいません」
「蒲殿、どうされました」
 彼が声を潜めるのに合わせて、射命丸もヒソヒソと話す。某かの事態が起こったのかと警戒した。
「山が、綺麗ですよ」
「……はい?」
 こんな時だというのに――彼らしい。肩すかしを食らいつつ、射命丸は誘いに応じて外へ出る。
 辺りが暗いのはここが四方を山に囲まれているからで、実際にはもう日は昇りつつあった。陽光が北に見える山麓を照らし朱く染めてゆく。
 範頼の誘いは、丁度見物の頃合いだった。
「あ、あそこ、少しですけれど富士山も見えますよ」
 範頼が指し示す先に、雪化粧が赤く染まった富士の頂も見える。
「ああ、これは――全体が見たいものですね」
「飛べば見られるのではないですか?」
「一人だけで眺めても、面白いものではないです」
 はにかむ射命丸に範頼も微笑み返す。静謐な空気の中、二人は景色の変化を楽しむのであった。

 平野に比べて遅い朝を迎えた一行は、湖の東側を周り、その東北側にある神社に辿り着く。そこは石橋山で敗れた頼朝が匿われた箱根権現(※14)であった。
 当地の氏子では無いが一応の縁はある、詣でておくべきであろうと範頼は考えたのだ。
「そう言えばここは、武衛様が流人であった頃、伊豆東岸伊東の、伊東入道の姫と出会った所だそうです」
 範頼が射命丸に言う。
「伊東の入道の姫、ですか?」
 今の頼朝の妻は北条時政(ほうじょうときまさ)の娘のはず。伊東祐親などは、石橋山で真っ先に頼朝の敵に回っている。それに北条の姫との出会いも、その祐親に何かの理由で追われての事であったと風聞にある。
 それはどういうことなのかと射命丸が思っていると、次長が何かを悼む風にその続きを語る。
「武衛は、その姫との間に一子を成したという。名を千鶴丸(ちづるまる)という、男児であった。しかしそれは、伊東入道が大番役(おおばんやく)(※15)で京に出仕している時に作った不貞の子。そのため、入道は帰るなりその子を殺させたのだ」
 何と痛々しい話だと皆うつむく。大番役の期間を考えれば、多く見積もってもその子は四歳にもなるまい、そんな幼子になんと惨い事よと。
「勝間田様、では伊東入道が武衛様と敵対したというのは、それが原因ですか」
「さて、な。しかし伊東を討つ理由であれば武衛にこそある。何せ伊東入道は、よりにもよって武衛ご本人に、千鶴丸を殺させたのだ」
「何ですと!?」
 名を八重(やえ)といった伊東の姫は、江間(えま)殿(※16)という――時政の子の江間小四郎(こしろう)とは別人の――者に嫁がせる予定であったので、彼女を疵物にされたのにも祐親は怒った。そのため祐親は、頼朝に子を自らの手で簀巻にさせ、伊豆山中の淵に投げ込ませたのだ。
 それだけでは治まらず頼朝は斬られそうになったが、これは祐親の子で、頼朝の乳母(めのと)比企尼(ひきのあま)の娘を嫁にとっていた佑清(すけきよ)が、自身の加冠親であった時政を頼るようにと言って逃がしたのだとの事。
「それは、初耳です……」
 範頼をはじめ、皆青ざめる。
 子殺し、それも命じられるままに幼子を、今や東国に君臨するあの頼朝がしていたとは、と。
「武衛という人物が、そんなに非情な者だとは思わなかった……」
 頼景も頭を振る。彼もあちこちに子は作っているが、それでもそれぞれに養育が成るように心を砕いている。
「人間とは、そうも簡単に子を殺せるのですか」
 射命丸が呟く。自身に子は無い。しかし三河で散ったあの妖、子を失ったと言っていたヤマメはどう思うであろう。
 次長はその呟きを聞き漏らさず、低い声で言う。
「武衛には大業がある……痛みも無く、子を捨てられる親などおるものか」
 普段の声高に叱り散らすのではない、真の怒気が込められている。彼もまた子の親なのであろうと、射命丸は浅い考えの己の発言を悔いる。
 朝陽の中に澱む空気。その雰囲気に堪りかねた頼景が威勢良く発する。
「復讐の由はともかくとして、俺も一つ語ろう。蒲殿、当地は我らの怨敵にも縁のある地だ、知っているか?」
「いえ?」
 唐突に何を言い出すのかと範頼が目で訴えると、いいから合わせろと頼景から目配せが返る。
「ここより先、丑寅(うしとら)(※17)の方に二つの峰が見えるか?」
 うっそうと木が茂り、その先にはまだ崖もある、それらしい山は見えない。
「いいえ」
 当然そう答えるしか無いが、頼景は「だから話を合わせろ」と言いたげに範頼を睨み、彼は「見えない物はしょうがないでしょう」と眉を寄せる。
「あるのだ。二子の山が。実はこれが天邪鬼が作った物だという伝説がある」

 ある日、天から堕ちて来た巨人がこの箱根の山を気に入って住み着いた。これが天邪鬼である。
 ところが西を見れば、とても美しく高い山、富士山がそびえていた。
 天邪鬼はこれが気に入らず、箱根の山を高くしようと畚(もっこ)土を運ぶが一向に追いつかない。腹を立てた天邪鬼は、ついに富士の頭を蹴り転がしてしまった。
 元の富士の頂が、今の伊豆の先にある大島(おおしま)。また運んでいた土もその辺りに捨てて、伊豆の七島となった。
 そして高くするのを諦めた箱根の山の名残が、今の二子山である。

「すっとん、おしまい」
 最後のは、伊豆や駿遠で使われる物語の締めの句。頼景は「蛇足だが」と付して、また続ける。
「遠州の淡海もこの巨人の足跡だという話も伝わっているが、どうせその妖自身のふかしであろう」
 いずれも古いおとぎ話の一節。射命丸も感心してこれを聞いていたが、範頼は腕組みして何かを考え込んでいる。
「どうした、御曹司」
「いえ、天邪鬼という者は、神話に現れる反逆者の側女(そばめ)の事だと思っていましたので……聞きます?」
「長いか?」
「長いです」
「では今度だ」
 ここで足を止めて、下るまでに夜になるのもよろしくない。下りの、山の東側に入れば、暗くなるのも早い。
 射命丸は権現への詣でを終える一同とは別に動き、まず別当への挨拶をと本堂へ向かい、それを終えてから参拝する。
 ここには富士山その物の女神、木ノ花咲耶姫(このはなさくやひめ)も祀られている。天邪鬼の逸話には富士山を傷つける物も多い、奴はかの女神の仇でもあろう。
 ゆやを範頼の元へ戻し天邪鬼を退治する。富士と桜の女神に向かい、射命丸は誓うのであった。

       ∴

 箱根の山をもう一度僅かに上がってから、またもつづら折りに下る。
 下りきれば滾々と温泉の湧く箱根のもう一つの宿場。範頼達はここで一旦疲れを癒すと、次の日には一気に鎌倉へ向かおうと、海沿いの街道を東進する。
 やや内陸を通る東海道を行かないのは、彼らの中に相模の地理に明るい者が居なかったからであった。しかし鎌倉が海に面した街であるのは知っていたため、この道を辿る。
「遠州ほど風が強くないのはいいが、やはり寒いな」
「外海に面していませんし、駿河湾ほど広くもないですから、風も波も大人しいのでしょう」
 しかしこれはたまたまの事で、この辺りは大風でも来れば家を倒さんばかりの風になる。頼朝も間接的にそれにやられたのだ。
 目的地が近くなれば疲れを押せるぐらいに気力も湧くもの。馬達も人間の様子が伝わってか、はたまた頼景らの励ましのお陰か、目に見えて脚が軽い。
 だがそれは、鎌倉を目前にして止まる事になる。

 休み休み、遠江から相良までの道程と同じく、十里ほどの道程であった。
 そこで、目測ではまだ一里以上も先ながら、海へ向かって小高い岩山がせり出すのを見る。
 近付いてみてどの様な場所か明らかになる。
 道はそこで無くなり、海側の僅かな岩場が通れるのみ。鎌倉へはそちらから行くのであろうか、辛うじて馬が通れるぐらいの道。車などで通るのは難しく見えた。
 それより問題なのは、その切り立った小さな岬。天然の防壁の手前に兵が詰めていた事であった。
「止まれ! 何者か!」
 その為の詰め所であろう、当然兵は一行を止める。
 範頼が冷や汗を垂らしながら前に出て、薙刀で制する風に立つ兵に、馬上から叫ぶ。
「遠江国、蒲御厨住人、蒲冠者範頼である! 藤九郎盛長殿により招かれ、まかり越しまして候!」
 直垂はよれっとし、本人もいまいちパッとしないためか、気勢に欠ける。兵達もその様子に毒気を抜かれたのか、緊張した面持ちは和らいだ。
「蒲冠者範頼殿、で間違いはありませんな?」
「はい」
 薙刀を引っ込めた兵が、隣の、少し歳のいった兵を見る。その年上の兵が代わって対応する事となった。年上と言っても、範頼達から見て十ほども若い。鼻筋が通った細面で、凛としながらも優しげな面ながらも、範頼よりはずっと武士らしく見えた。
「お待ち下され。ここは荷車を伴っては通れません、ただ今別の道を案内しますので――」
「待たっしゃい!」
 また別の男が出て来てそれをぴしゃりと止める。
 こちらは壮年の、ここの長に当てるのも役不足に見える武者。きつく切れ上がった三白眼にやせぎすの顔、顎に整えた髭をたくわえている。全般的に大変人相が悪く、意地も悪そうに見えた。
 その眼が年上の兵を射すくめ、それからゆっくりと範頼を向く。彼も早速縮こまってしまった。
 三白眼の男はまた若い兵達に向き、指示を飛ばす。
「こちらでは何も聞いておらん、勝手に通すな。急ぎ甘縄(あまなわ)殿(※18)に照会せよ」
「しかし、往復だけで時間が……」
「これが我らの役目である。甘縄殿がここに話を寄越していないのも悪い。どんな客人であろうと、例え勅使であろうが、これを待たせるのはあちらの問題だ、行け!」
 その声に弾かれた年上の方の若武者が、繋いである馬へ走り、騎乗して岩場の向こうへ消える。
「さて、蒲冠者殿とその郎党の方々でよろしいかな?」
「はい」
「返答がくるまでしばしかかる、それまで待たれよ」
「はぁ……」
 こんな時にケチが付く。何ともさい先の悪い事だと、頼景は嘆息しながら相良の衆に待機の指示を出す。次長などは噛み付かんばかりに三白眼の男を睨んでいる、これは彼とはかなり相性が悪そうな相手だと射命丸は見た。
 そして範頼は、
「いや、取り次ぎして貰えただけ良かったですねぇ」
 おっかなびっくりしているかと誰もが思ったが、変な所で剛胆であった。

 半刻程して馬が到着する、乗っていたのは盛長本人。
 彼は着くなり下馬し、すぐに膝を着いて範頼に詫びる。
「ご無沙汰しております、蒲殿。この度は拙者の不手際で大変なご迷惑をおかけ致しました。番兵共の不作法も、ご容赦を」
「何!? 甘縄殿、不作法はどういうことであるか! これは役目の上の事であるぞ!」
 三白眼が盛長の言葉を受けて吠えると、この堅物の侍も負けじと返す。
「抜かすな! 土肥(どひ)殿預かりの囚人(めしうど)風情が。こちらにおわすは故左典厩様の御子、蒲御曹司範頼様ぞ!」(※19)
 いきなり伝家の宝刀が抜かれたか。射命丸はそう思いつつもこれで事が収まるであろうと見た。しかし、
「それが如何した! つい先程息子達にも[例え勅使であろうと通すな]と言ったばかりである。我らに落ち度は無い!」
 いきなりこじれた。
 双方、次長よりも難しい人物なのではないかと、本人以外は揃って思う。
 その対決にすかさず範頼が声を上げた。
「藤九郎殿、私達は特に気にしておりません、丁度良い休憩でありましたし。どうかここは穏便に願います。それと――」
「梶原平三景時(かじわらへいざかげとき)と申す」
「――梶原様も、どうか」
 この言葉に二人とも矛を納める。お互いとても納得している顔では無い。
 それでも藤九郎は――堅い顔は代わらないが――顔色を戻し、改めて範頼に言う。
「見苦しい所をお目に掛け申した。こちらからでは車は通れませんので、別の道を案内致します」
 そう言って往来を西へ戻る方へ進む。後ろでは景時がまだ彼らを睨んでいた。

 盛長の先導で迂回する範頼達。案内を受け、鎌倉という場所がどんな地形なのか少し分かった。
 先程の岬、稲村ヶ崎より西へ戻って若干北側へ進路を取り、小高い山へ入る。
 尾根を掘り下げて拓いた道は狭く、馬を数頭を並べれば詰まるほど。更に先へ行くと一層狭くなった道。両側に壁が迫ってくるようにも錯覚するそこに、稲村ヶ崎と同じく防備の詰め所があった。
「蒲殿、これが鎌倉を守る『切通(きりどおし)』であります。ここの他にも数カ所の切通を北と東に整えており、また三浦へ至る海岸線も、先程の岬と同じく兵を進めるのが困難になっております」
 この様な体勢を教えるのも、彼が範頼を高く見ている証左であった。
「なるほど、これは平家の整える新京、福原(ふくはら)よりも堅固そうでありますな」
「さすが勝間田殿、お目が高い。ですが残念なことに鎌倉には欠点がありましてな、ここから浜が見えますでしょうか」
 坂を下りつつ南東の方角を見ると、浜と言わず鎌倉の南部の様子が見られた。一同はその偉容に息を呑む。鎌倉は海に面した南を除く三方を山に囲まれ、低地でありながらも、天険の要害とも言える地であった。
「これは、戦う事については福原にも勝るか……」
 先の発言は世辞であったかも知れないが、この言葉は本心であった。
 言わば、武士の都。
「今のお言葉に、答えの半分がありましたな」
「でしょうなぁ」
 盛長が言うと、次長はそれに納得する。
 次長は振り返って、何の事か言ってみるといいと、範頼に目配せする。
 しかし何故か頼綱が口を開く。
「遠浅の浜、大船(たいせん)が直接乗り入れるのは厳しいでしょうな。福原は宋との貿易を見越して唐船(からぶね)も入れられるよう、大輪田泊(おおわだのとまり)なども――あだぁっ!?」
 しばらく泳がされた後、案の定、兄の拳が頭に落ちた。
「お前が答えてどうするのだ! まったく、知恵が回るかただの莫迦か、どっちかにしろ」
「うぅ、出しゃばった真似をいたしました」
 その様子を見て笑い合う一同、和気藹々としながら坂を下って行くのであった。

 切通を下り、由比ヶ浜(ゆいがはま)と呼ばれる浜に出でてすぐ北に向かう。往来を数町行くと、崩れかけた外郭を持つ屋敷へ辿り着いた。
 ここが盛長の屋敷、甘縄の館。
 だが壁の内側の建屋はやはり粗末な物。雨露を凌ぐのが辛うじて、と見えた。
「これは、その、何と言いましょうか……大変なご様子ですね」
 範頼の口からも世辞すら出て来ない。さしもの盛長も腕組みして困った顔をしている、彼自身同じ心持ちらしい。
「武衛様――いえ、鎌倉殿の御所にしても、元々の住人であった役人の屋敷を供出を受け、移築してどうにかしているぐらいですからな」
 これは兼道(かねみち)なる人物の屋敷であった。二百年近くも前に建てられて今まで、かの有名な陰陽師安倍晴明(あべのせいめい)の護符のお陰で火災に遭った試しも無い、そのため頼朝の仮の屋敷にしたのだと言う。
 今は公共の機関や往来の整備が優先、何より一番に八幡宮の造営に全力を傾注しており、彼らの住処の整備は後回しなのだ。
「当地鎌倉の鶴岡若宮には、かつて前九年の役の際に、八幡太郎義家公が石清水八幡(いわしみずはちまん)から勧請した八幡様がおわします。大庭景義(かげよし)という者の奉行の下、新たに造営する宮に遷座して頂くところであります」(※20,21)
 射命丸も成る程と納得する。源氏は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と一体であり、当然とする事であったからだ。
 ただ頼景は首を傾げる、何か障る事があったのかと範頼が小声で尋ねる。
「いや、大庭という名を聞いてな」
「そう言えば……すいません藤九郎殿」
 頼景は「こら待て」と慌てて制止しようとするが、範頼の声は盛長に届いていた。
「如何しました、蒲御曹司」
「今大庭殿と仰いましたが、もしかして石橋山で武衛様を攻めた大庭景親殿の同族でありますか?」
 その様な人物に重要な宮の造営を任せるのが、範頼にも不思議だったのだ。
 盛長もその意図を読み取ってから答える。
「左様であります。景義殿は始めからお味方として参じておりまして、歳も長じて多くの故事にも精通している故、この様な大役を務められております」
 元は大庭氏の主であったが、保元の乱の折、武も響き渡った義朝の弟鎮西(ちんぜい)八郎源為朝(ためとも)の矢を膝に受けてしまい、弟の景親に家督を譲り隠居していたのだとの話。頼朝挙兵に際し、弟と袂を分かって参じたのであった。
「なるほど」
「なんだ、頼綱」
「どこかで聞いた様な話だな、と」
「……うるさい」
 相良の兄弟はヒソヒソと語り、盛長は続けて話す。
「しかし大庭殿はさておき、当初鎌倉に敵対しながらも、後に帰順した者も少なくありません」
 特に主だった所では、武蔵国(むさしのくに)(※22)の畠山重忠(はたけやましげただ)。若干十七歳の彼は、父が大番役で京に在ったため、平治の乱以来の忠によりそのまま平家方に与した。
 石橋山の戦に間に合わなかった三浦勢と由比ヶ浜で遭遇し、表面上の競り合いで済ます約定があったのに、事情を知らぬ三浦勢の一部の挑発から本格的な戦に発展、
「終いには衣笠城(きぬがさじよう)攻めに至り、城に残っていた母方の祖父、三浦大介義明(よしあき)殿の首級を挙げたのです」
 これもやはり、双方共に望んでの戦では無かった。
 三浦半島でも最も高い大楠山(おおくすやま)に連なる衣笠山(きぬがさやま)に整えられた山城は、道すらも崖と見紛うばかりの難攻不落の城で、僅かに残った者だけで対峙したのであった。
――一族の大半がここから逃れ、頼朝と会合を果たした水軍と供に安房へ逃れたのだ――
 齢八十九であった義明は、最期まで従う意思を決めた者達と共に三浦と畠山の双方の為、何より源氏や坂東諸氏のために、命を投げ出したのではないかとも思えた。
 武士とはこれほどの覚悟を強いれるのか。射命丸だけでなく、元から武士である相良の兄弟ですら思う。
「武士とは、そうありたいものですなぁ……」
 次長だけが一人頷く。
「その後畠山殿は、累代の源氏の白旗を持って鎌倉殿の下に帰参したのです。三浦の一族も[戦は約定を違える原因を作った己達にも責がある]として、快く迎えたのであります」
 これにも次長は強く頷き、頼景などは逆に顔を引きつらせる。
「親父殿に同じ事を求めたらどうなるかのぉ?」
「それは、斬りかかって来るだろうと思う」
 彼らの家は、次長や盛長が理想とする武家とは遠いようであった。

 甘縄の盛長の屋敷とその付近で待機していた範頼達は、隊を浜近くの更地へ宿営させ、主立った者達は仮の宿場へ泊まる事になった。
 主立った者とは、いつもの面子である。
「さて、武衛様、いや鎌倉殿に接見できるのはいつになるであろうな」
 鎌倉の軍団はまだ帰って来て間も無い、頼朝の周囲も落ち着いていないであろうと想像がついた。
「さて、どうでしょうか。何かここまで来て今更、怖くなってきました」
 兄ではあるが初対面、それも日の本の武を三分すると目される人物。緊張しない方がおかしい。
「それにしても――」
 範頼は射命丸の方を向いて微笑む。
「は、はい?」
 急に話しかけられ、射命丸は声をうわずらせる。
「一貫坊様の判断が無ければ、今頃どうなっていたでしょう。これからもまだどうなるか分かりませんが、藤九郎殿もとても喜んでいたようですし、悪い印象は受けていないみたいですね」
「有り難うございます。しかし、独断はあれっきりにいたします」
 殊勝に言う彼女に次長が言う。
「一貫坊殿、そう気になさいますな。貴女は蒲殿を導く――」
「それは止めて下さい! 恥ずかしいです」
 箱根の峠での話を持ち出され、さしもの射命丸も照れ、赤面する。
 それを見て何故か、範頼も赤面するのであった。

 坂東は武家としての相良氏にとっても、縁の深い地である。相良氏は工藤(くどう)姓の直流に属し、その工藤姓は藤原南家乙麻呂(おとまろ)流、藤原為憲(ためのり)に発する。
 かつて朱雀天皇(すざくてんのう)の御代、下総国(しもふさのくに)において『新皇(しんのう)』を自称して平将門(まさかど)が朝廷への反旗を翻した。後に総括され、承平・天慶(じょ
うへいてんぎょう)の乱と称される乱の一角である。(※23~25)
 為憲は鎮守府将軍藤原秀郷(ひでさと)と共に戦ってこれを倒し、その恩賞として木工助(もくのすけ)に任じられた。この木工助の工と藤原の藤を合わせたのが工藤姓の由来であり起こりで、同時に当姓の武家の始祖ともなったのだ。(※26,27)
 また相良の傍流である勝田氏にしてもこれは同じで、特にこちらは相良の血筋に八幡太郎義家の胤を頂いて開かれた氏とされ、源氏とも縁がある。
 相良にしても勝田にしても、この地で一旗揚げる所以があるとも言えた。

 甘縄で三昼夜ほど過ごし、鎌倉中(※28)がようやく落ち着いた頃、ついに範頼は頼朝と対面する事になった。
 しかし初の顔合わせは実に素っ気なく味気ないもので、彼も伝え聞いた義経との黄瀬川での対面とは、真逆の様相であった。
 端的に言えば、臣下に在る事を確認するだけ。それに止まる。
 ここでは範頼と共に、彼の異母弟でありかつ義経の同母兄、悪法師法橋全成(ほっきょうぜんじょう)と、義経当人も揃う。
 全成は石橋山の合戦の後、佐々木兄弟と合流して下総で頼朝と対面していた。この様子がどうであったかは聞かされていない。
 今も生き残っている頼朝の弟には、全成や義経と同じ母を持つ、彼らの間の兄弟義円(ぎえん)が居る。彼は今頼朝の命を受けて、行家の援軍――という名目での抜け駆け阻止――に回っていた。
 頼朝の同母弟で四男の義門(よしかど)は、平治の乱よりすぐに行方知れずのまま。駿河国香貫にあった、同じく五男の希義(まれよし)は、配流先の土佐国(とさのくに)(※29)にて頼朝挙兵の直後に平家の手の者に討たれていた。
 結局兄弟は、揃うべくして頼朝の下へ集ったのだ。にも関わらず、同じ血のよしみを暖める事は無かったのである。義経は黄瀬川でそうあったから良いが、同じ親を持つ全成はどう思ったか、範頼は冷静に推し量っている。
 その彼自身は――
「蒲冠者」
「はい」
「お主の事、蒲殿と呼ばせて貰うが、良いかな?」
 実に呼ばれ慣れた名。逆に鎌倉殿――頼朝にそう呼ばれるには、近過ぎるきらいもあるほど。
「はい、仰せのままに」
 やはり兄弟と言われても実感が無い、むしろ頼景と頼綱の方がよほど親しんでいる。もしここに感動の再会など挟まれたら、白々しい事この上無いほど。
(奥州殿は鎌倉殿が京に居た頃まだ乳飲み子であったろうに、よく互いに涙を流すなど出来たなぁ)
 などと、やっかみも何も無く素直に思ったのである。
「九郎」
「はいっ」
 範頼よりも十近くも年若い義経、その所作一つ一つが颯爽としている。己とは大違いだと範頼は暢気に感心する。
「お主に館を与える、このまま鎌倉に住んで貰うぞ」
「はいっ、有り難うございます」
 奥州殿などでなく九郎殿と呼べば良いのか。これまた範頼がのほほんと思っていると、再度頼朝から呼びかけ。
「蒲殿」
「はい」
 やはり頼朝にそう呼ばれるの面映ゆい感もある。いずれ慣れるだろう、しかし何用かと応じる。
「蒲殿の手勢では、今現在鎌倉に在するに適した場所が無い。武蔵の比企(ひき)郡横見(よこみ)を下す故、そこにある館に在するよう」
 いきなり所領を賜るとは思ってもいなかった。鎌倉から追い出されるのであれば納得であるが、比企は頼朝の乳母の一人で盛長の姑の比企尼(ひきのあま)ら比企氏の本領。楽天的に見ずとも、決して追いやられてでは無かった。
「はい、謹んでお受け致します」
「うむ、鎌倉の為に励んでくれ」
 まだ便の悪い鎌倉よりもそちらの方が相良の衆のためにも良いであろう。範頼は御所での諸事を終わらせると、甘縄の館への帰途についた。

 範頼の横見拝領を聞いた一同の反応はまちまちであった。
 次長は早速の拝領とはやはり源氏の――と大げさに喜び、頼景は極めて胡散臭そうに「何か手を回したのか」等とまでのたまう。頼綱は冷静に範頼が思ったのと、およそ同じ事を思い浮かべた。
「あちら方面には、比企もですが足利(あしかが)とも連携がありそうです。良い方向と見なしてよろしいと思います」
 射命丸にも言われ、範頼も安心する。
「そうですか一貫坊様にそう言って貰えて良かったです。ところで――」
 範頼は改めて一同を見回す、いつもの面々より一人多い。五十過ぎぐらいの悪僧が同席していた。
「今更で申し訳ありません。どちら様でしょうか?」
 悪僧とは見るが穏やかそうな人物。ただし手足にも頬にも付いた刀傷を見るに、ただ者では無い。
「いや、気付かれていないものかと。失礼致しました蒲御曹司、拙僧は渋谷常光(しぶやとこみつ)と申します。横見での貴方様の案内役兼お目付役です。法名では土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)とも申しますので、どうぞお好きにお呼び下さい」
 お目付役とは、言ってしまっていいものなのかと範頼は首を傾げる。
「金王丸殿は、故左典厩様のお側に仕え続けた、忠臣中の忠臣である」
 金王丸、その名であれば範頼も相良の兄弟も聞いた記憶があった。平治の乱で義朝と共に最後まで戦い抜き、主の死後も駆け続けた。それに関しては、次長の言う事であっても大げさでは無い。
「相変わらず勝間田様は大仰ですなぁ、私など死に損ないの坊主に過ぎませんて」
「その出家も、左典厩様を思っての事であろうに……」
 彼は義朝が平治の乱で敗れ落ち延びる際にも同道し、義朝が家臣類縁の長田忠致(おさだただむね)を頼った末、まさかの裏切りに遭って殺されるまで共に在った。
 主君を失った直後、平家が掌握した京まで戻って由良御前にその死を伝えるなど、並ならぬ忠義の程を見せた武者であった。
「いやいや、自己紹介など必要無くなってしまいましたなぁ」
 次長とは見知った仲なのもよく分かる。保元の乱にも同じ陣営に参戦していたのなら、在京の折、互いに話した事もあったのだろう。
「金王丸殿、くれぐれも、くれぐれも蒲殿の事、よろしく頼みますぞ」
 サッと退き、頭を打ち付けて礼を尽くす。
「あ、相変わらずでございますな」
 源氏嫡流二代に仕える忠臣は、そう言いながらも範頼に向き直り、その顔に力を込める。
「蒲御曹司、主君をお助けすること叶わなかった私ですが、父君の分、貴方様をお支えいたします」
 そう言いながら一振りの太刀を差し出す。その意味はこうだ、「頭殿に届けられなかった太刀を貴方の元に届けます」。存分に己を使えということだ。
 義朝は丸腰の所を襲われ、寝首を掻かれた。太刀一振り有れば凌げたのだ。もうそんな事はさせるまいぞという、彼の決意である。
 涙を堪える次長以外にその真意は伝わらないが、範頼も彼の心意気が源氏累代のどの様な重宝より心強いものだと感じた。そしてその様な人物が――お目付役の名目でとはいえ――己の側に在る意味を噛み締める。
「よろしくお願いいたします、金王丸殿」
 ただ一言、強くそう言って彼を受け容れた。
 お目付役を寄越すなら常光の様な人物でなくともよかっただろう。確かに鎌倉を離れるからにはその様な人物は必要、彼が範頼に仕える事になったのは、それだけではない。
 範頼は頼朝に信頼されたのか、それとも今後彼の伝手が必要なのを見越して取り込みに来たのか。いずれにせよ扱いは良い様だ。
 鎌倉参陣の事をこの場まで気にしていた射命丸も、彼らの様子を見て改めて安堵するのであった。

       ∴

 範頼達が横見へ向かう直前、鎌倉ではある者に沙汰が下った。伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に頼朝が流されていた時、今の舅である時政と共に監視役にあった伊東祐親の事である。
 石橋山で頼朝の軍を挟撃し、その後盛り返した彼には決して下らず、あくまで平家方として戦おうとしていたのを捕らえられたのであった。
 その内容を範頼が伝える、その様子は少し腑に落ちない風であった。
「伊東入道の件なのですが、三浦殿の手に預けられたようです」
 今の三浦党の惣領三浦義澄(よしずみ)の元に、囚人として、だ。これは富士川の戦の間に黄瀬川で下した沙汰を、そのまま踏襲したものとなった。
 とても厚遇とはならないであろうが、彼と頼朝との間にあるという極めて深いわだかまりを知る者には、これは十分に不思議な事。
 またその次男の佑清に至っては、平家への忠を尽くす事が認められ放免されたのである。彼は頼朝を救った事もあってこれが認められたとの事。これはヨシとしても祐親の事は不可解であった。
 これはまた、頼朝の妻御台所(みだいどころ)、政子(まさこ)の懐妊に穢れを持ち込む事になるからとか、嫡男の故河津佑泰(かわづすけやす)が流人時代の頼朝に尽くしていたからとも言われていた。理由としてはこれぐらいしか考えられない。
 これを最も不思議に思ったのは射命丸であった。
「人間は、我が子を殺せと命じた相手を、いえ、単に殺されただけであっても、許せるものなのですか?」
 以前のような浅慮からでなく、考えた上での、しかし純粋な疑問であった。
 彼女の記憶にある限り、己が子を成した事は無い。親としての気持ちが分からないのと、人間の認識との齟齬の確認、これが半々に混ざり込んでいた。
 次長と、もちろん常光は居ない場。ここでは唯一の子持ちである――とはいえ顔を見た事も無い子も多い――頼景が、少し考えてから答える。
「いや流石にそれは……一貫坊殿なら、如何な沙汰が妥当だと思うのですかな」
 思い付く限りを考えてみる。そして彼らの感覚と合致するのかはさておき、とりあえず述べる。
「やはり、許せないと思うのですが」
 一番大事な者を思い浮かべて言う。
 どんな理由が有ろうとも、決して許さない。地獄の底まで追いかけて行き、そこでの責め苦を万倍にして与えてやろうと思うかも知れない。
「何か、エラい怖い顔をしてなさるな。いやまあ、一貫坊殿の仰る通りだとは思うのですがな」
 言われるほどの顔をしていたのか、射命丸は両手で顔を覆う。妖としての某かが顕現したのでは無い、ただ感情が昂ぶったためだったかと、心を落ちつける。
 そう言う頼景も、様々な事情が混じれば、生まれたての赤児が殺さなければならない事があるのは知っている。その様な非情な世界もあるのだ。
「鎌倉殿なりのお考えもおありでしょう。それに懐の広さを示せば、従う者も多くなると思います」
 範頼が言う。本来であれば侮られるのを恐れるのが武門の者、やはり射命丸は不思議に感じる。
 今後鎌倉に居る限りはこんな風に思う事があるのかも知れない、人間の世は無数の思惑が絡んで出来上がるのだから。そう己を納得させる。
 こんな与太話にかかずらうよりは次の事。皆心を同じくして、この話を終わりにするのであった。

       ∵

 その後、一年と半年ほどして祐親は自害した。義澄の嘆願も叶っていたのにである。
 彼は間違いなく彼の意思でそうした。その理由は助命されたのを“潔しとしない”との事だったが、真意は何であったのか。彼自身の他、知る者は極僅かである。

       ∵

 武蔵国へ下向する範頼達、すぐに横見入りをせず、付近の石戸宿へ止まる事になった。理由としては、館の準備が整っていない事、であった。
 郎党云々の事が無くとも範頼の横見入りは予め定められていた様で、既に住めるだけの普請は済んでいたのであるが、外郭に堀まで巡らし武家の館としては満足な、至れり尽くせりとしていたのが、災いした。
「いや、ははは。工程を誤って、出入りがまともに出来なくなっているようでございます……」
 常光が脂汗を流しながら愛想笑いで言う。
 幸いにも馬ごと手勢を留め置くには十分な宿場ではある。ただし範頼らの宿は別に取ったと常光は言う。石戸の阿弥陀堂側の僧坊がそこであった。
 新しい寺を建立する予定なのか、僧坊と阿弥陀堂の他は広い更地と庭が広がるだけ。そこには鮮やかな、多くの種類の草木が好き放題に庭を飾る。
 範頼はここに、遠く遠江の情景を思い出す。
「重徳様宅の庭が、こんな感じでしたね」
「ああ、そうだな。ちょうどそこに、あの桜も……」
 頼景もそれを思い出したのか、懐かしげに庭の端を見る。まだひと月ほどしか経っていないのに、随分昔の事に思えた。
 範頼はそこへ歩を進めると、携えていた鞭を取り出して突き立てる。
「蒲殿、それは何だ?」
「あの桜の枝を折って、鞭にしていたのです」
 太郎に誓いを立てようと持ち出した、射命丸も知る物であった。
 手を合わせてジッとそれを拝む。形式張った事では無い、純粋に祈る範頼。そこに射命丸がまず加わり、事情は知らないながら次長と相良の兄弟も続く。
 ゆやを取り戻し、太郎の仇を討とう。
 そう、ここに願った。

     * * *

 範頼らが、後に吉見と呼ばれるようになる横見の地に居を構え、明けて治承五年の正月。鎌倉ではある人物が頼朝の前に召し出されていた。
 梶原平三景時、土肥実平(さねひら)の元に囚人として預けられていた人物、稲村ヶ崎で範頼達を止めた三白眼の男である。
 石橋山で頼朝らの軍を殲滅せしめた大庭景親に従っていた彼。あの時は囚人として役務に就いていただけで、御家人ではなかった。しかしこれが、正式に鎌倉に迎えられたのであった。
 頼朝をして、「とても弁舌に長けた人物である」と言わせ、これが助命の一因になった。しかしもっと大きな、そして意外な理由もあった。
 石橋山で敗れた頼朝は、実平ら僅か六名と共に木のうろに隠れていたのを彼に見付けられた。頼朝が黙って己の首を掻こうとしたところ、彼は味方の兵に「ここには誰も居らぬ」と言い、見逃したのだ。
 灯りも有り、目も合った、にもかかわらずである。
 景時は言葉を尽くして“鎌倉の頼朝”に仕える事を申し出て、これが叶えられたのであった。

 彼が多くの鎌倉の主たる人物の生死に強く関わる事になろうとは、この時誰も知る由も無かった。
 射命丸も範頼も、そして景時本人すらも。

第5話注釈
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 神代:かみよ、じんだい。神が世を治めていた時代、神武天皇(※2)以前(西暦で紀元前660年、皇紀元年)を指す。
※2 神武天皇:神話上の初代天皇、在位は辛酉年(かののとり、60の干支の組み合わせの一つ。ここでは神武天皇元年となる)~ 神武天皇76年とされる。
※3 東征:神武東征。神日本磐余彦尊(※5)が日向国(ひゅうがのくに、現在の宮崎県周辺)より立ち、大和(畿内もしくは日本)を平定するまでの神話の説話
※4 高千穂:天孫降臨の地。現在の宮崎県の高千穂と繋がりがあるとも言われるが、真偽は不明
※5 神日本磐余彦尊:漢風の謚(おくりな、貴人の死後の追号)である『神武天皇』に対する和風の諡号、あるいは即位前の名乗り。
※6 葦原中国:高天原(※10)と黄泉国(よもつくに)の間にある国、日本の国土その物
※7 浪速:古くからの大阪の呼び名。周辺海域の波が早いという『なみはや』から転訛した言葉
※8 皇祖:天皇、皇家の祖となる神(神霊)。ここでは天照大神のことを指している。
※9 紀伊国:現在の和歌山県から三重県南部。熊野三山を有し伊勢の隣に位置するため、古くから歴史を有する。
※10 高天原:天津神(あまつかみ)の住まう地。国学者の本居宣長(のりなが)によれば、天上として天より高い宇宙も含む。
※11 高御産巣日神:天地開闢(てんちかいびゃく)の際に現れた神の一柱。天之御中主神(もしくは国常立神)、神産巣日神と並び造化三神として祀られる。
※12 熊野権現:熊野三山に祀られる権現(先述)。主祭神の家津美御子(けつみみこ)を始めとする三柱、ないし十二ヶ所の神をまとめて称する場合もある。
※13 芦ノ海:芦ノ湖。街道に面した地域は現在も宿場として機能し、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の折り返し地点として有名
※14 箱根権現:山岳信仰の影響を受けた神仏習合の神で、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、弥勒(みろく)菩薩・観世音(かんぜおん)菩薩を本地仏とする。
※15 大番役:地方の武士が、内裏や院並びに摂関家の警護で出仕すること。当時は3年の当番だった。
※16 江間殿:江間小次郎某なる人物。八重姫と頼朝の悲恋の説話の他には、史料に見当たらない。説話の推移から、江間小四郎(北条義時)とは別人と推測
   (この説話は、拙著『浄蓮の滝の土蜘蛛』にて、改変して取り上げています。by.ハサマリスト)
※17 丑寅:艮とも書く。十二支で表した方角の一つで、子(ね)を真北として時計回りに読み、丑寅は北東に当たる。
※18 甘縄殿:(安達)盛長の事。住居を構えた地が甘縄であったためこう称した。
※19 囚人:劇中の時代では、戦の敵方など捕らえた人物を身柄保証人に預け、雑務に当てる事があった。
※20 前九年の役:俘囚(朝廷に下った蝦夷)の長である安倍氏と、陸奥守源頼義と義家ら子息達並びに清原氏の連合の間に勃発した戦争
   (前回に続いて余談でありますが、本作は、前九年の役などを扱った東方二次創作『山燃ゆる』(妖精時計/高坂流氏)にも大きく影響を受けております)
※21 八幡様:八幡神、八幡大菩薩と同義同一。多くの神と習合したうえで神仏習合も果たす。宇佐神宮(現在の大分県宇佐市、かつての八幡宇佐宮)が総本社
※22 武蔵国:現在の東京都及び埼玉県、並びに横浜等神奈川県の一部を含んだ地域
※23 朱雀天皇:延長元年~天暦6年(923~952)。第61代天皇、在位延長8年~天慶9年(930~946)
※24 下総国:現在の千葉県北部を主体に、東京都及び茨城県並びに埼玉県の一部を含む地域
※25 承平・天慶の乱:関東で平将門により起こされた乱と、瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱を包括してこう呼ぶ。
※26 鎮守府将軍:陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官。鎌倉施政成立以前は、征夷大将軍と同格と見なされていた。
※27 木工助:木工寮(もくりょう)の官職、四等官で“頭”に次ぐ。木工寮は材木採取や造営を取り仕切る行政府
※28 鎌倉中:切通で区切られた内側、特に寺社や住居などの都邑が整えられた地域を指す。
※29 土佐国:現在の高知県

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

一覧へ戻る