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木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編   木ノ花中編 第6話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編

公開日:2016年05月06日 / 最終更新日:2016年05月06日

廿一./義経の天狗(西暦1185年)

 藤戸での戦いには勝利を納めつつも、兵船を持たない範頼らの進軍は慢性的に窮していた。単に進軍が上手くいかないだけならば良かったが、兵糧がついに底を突きようとしていたのだ。
 人は食えねば動けない。馬なら野辺の草でも何でも喰える――等と次長が言い、これには頼景が怒った――が、人間はまったく、そうもいかない。
 先行きが見えない上に敵と戦う前に飢え死にする恐れすらある。加えてこの寒さ、しかも強制徴発はかつての義仲の例も省みて控えさせられており、範頼自身言われずともこれを忌避している。
 陣に広がるのは厭戦気分ばかり。これは末端の兵ばかりではなく各豪族の将もそうであり、更には今日に至り、鎌倉の重職にある者までもがこれを口に出し始めた。
「御大将、鎌倉からの兵站(へいたん)が滞った今となっては、いよいよ周囲より徴発するよりなし。さもなくば、我ら一党とて転進せずにはおられませぬ」
 軍議にてあえて声高に言い放つのは、侍所別当であり、この陣では軍奉行も務める和田義盛。彼ですらこうなのだから、他の将兵はどうかというのは童子でも分かることであった。
 居並ぶ将が頷く中、範頼はき然と言う。
「しかし、西国はまだ飢饉より回復しておりません。ここで民百姓から徴発などすれば長く禍根(かこん)が残り、後々の西国平定に難儀するのは目に見えています」
 気候が安定しても、作物などの循環を考えれば、人の暮らしが飢饉から回復するには最低でも三年はかかる。それに加えて西国では人も多く失われている。もっと時間がかかるかも知れないのだ。
 民の蓄えは乏しい。それがあるとすれば土豪の持つ兵糧ぐらいだが、まともに買い取ろうとすれば法外にに吹っ掛けられるのは目に見えている。
「御大将、拙者がこう言っていたと書き添え、せめて今一度、鎌倉殿への催促を」
 今度は範頼の前で声を落として言う。なるほどと範頼は察する、これは時間稼ぎだと。
 鎌倉への兵站の催促は、これまでも逐次出されている。だが未だそれは届かない。己の面子は端に寄せ、既に進発しているであろう輜重隊を更に急がせつつ、ここに在る将兵にも我慢をさせるための、義盛の老獪な知恵でもあった。
 歳は大して違わないのに、やはり坂東で揉まれて来た者は違うと感心する範頼。素直に彼の心意気に応じる。
「承知しました。兵糧の件は鎌倉への催促と共に、奉行を立てて早急に対策を練ることにしよう」
 とはいえ、いくら辺りを見回そうが先立つ物が無い。千葉や小山、土肥や三浦などの有力豪族は揃うが、ここに至るまでに蓄えは費やされていた。
 それ以後も、兵糧の算段が付いた後の進軍の手はずなどいくつかの合議が持たれたが、やはり兵糧無くして進む話は無かった。
 この状況は、ある人物により十日も経たずに改善されることになる。

 範頼の陣の前では、頼景が太郎以下の手勢と共に、巨人と対峙――否、一風変わった革の大鎧を纏った面長の大男を迎えていた。
「御免、参州殿はおわしますかな?」
 野太い声であるが頼景よりも若干若く、比較的背の高い頼景ですらも見上げる程の巨漢、目測でも七尺を優に超える。この様な目立つ男の事を知らぬはずが無かった。
「これは足利殿。参州殿は陣中に在ります、呼んで参りますのでしばしお待ち下され」
 足利三郎義兼(あしかがさぶろうよしかね)。範頼らと同じく父祖に八幡太郎義家を持つ、坂東の河内源氏の血筋、源姓足利氏の当主である。
 一風変わった色革の大鎧は、大陸の西で捕らえられる犀(さい)という獣の革(※1)で出来ており、彼はその巨躯とそれに耐える坂東の駿馬で駆け、活躍する豪傑でもある。
 坂東に基盤を置くため、頼朝の鎌倉入りよりも前に、鎌倉中の都邑を整える事業も多く負っていた。その為、範頼他の血を分けた兄弟よりも頼朝の信頼が厚い。
 ただ性格は範頼よりも更におおらかであり、間違っても郎党との喧嘩などはしない。
(それは、あんな大男など、得物を取っても相手にしたくは無いだろうからな……)
 頼景はそんな事を考えながら範頼の座する陣に入り、やや疲弊した風にしている彼に話しかける。
「御大将。足利三郎殿のおいでです」
「えっ、もうですか?」
 彼が相手ならそれなりの出迎えをすべきかと構えていた範頼、鎧直垂のまま慌てて迎えに出ようとする。だが先に、頼綱に連れられた義兼が現れた。
「これは足利殿、迎えも出さずにご無礼を」
「別当殿が帰りたがっているなどと言う催促を受けては、早くに事に取りかかるべきと思いましてな」
「それは大変申し訳ないことで……」
 意地悪く言われたのに範頼が縮こまると、今度は豪放に笑う義兼。
「いやいや、冗談ですて。参州殿のことですから、予定通りに着いたりしたら出迎えられてしまうかと。それをされたら、拙者が恐縮してしまいますからな」
 彼の人柄からすれば後者が本音なのは分かる。
「お心遣いは有り難いことです。しかし事に取りかかるとは、一体何を?」
「無論、兵糧の調達にござる」
 義兼は山陽の補給路の確保の任を負っていた。その彼が、今し方ここに運んだ糧食需品だけでは足りないと判断した、だから直に来たのだと言う。その方法についてはどの様に、等と問う必要は必要は無い。
 下野国足利荘を始めとした義兼の本所は、南都がみやこであった頃から、上質な絹の産地でもある事で知れている。それで以て兵糧を調達しようとのこと。
 しかしこれはあくまでも足利独自の持ち出し、鎌倉がこれを補填する様なことはしないであろう。それでも立ち行くのが足利であり、取引の感覚に優れるのが義兼らの強みであった。
「情けない話ですが、足利殿、何卒頼みました」
「ええ頼まれました。御大将は大船に乗ったつもりでお待ちくだされ。ああ、その大船が無いのでしたな」
 これはしたりと身の丈一杯に豪快に笑う義兼、陰鬱な気分を吹き飛ばす笑いであった。範頼は、彼になら任せられると思いながらも、依存してはいけぬと自戒する。
 食料とある程度の需品については当面の目処は付いた。しばらくは届いた兵糧で凌ぎ、以後は鎌倉からの補給線の増強に加え、現地調達の先も探す。
 里心を強める兵達の厭戦気分は漸増するも、それは平家の将兵も同じ。義兼らの到着によって状況は対等となり、このまま睨み合いで終わって板東に撤退するという事態だけは避けられる見込みがついたのであった。

       ∴

 またひと月が経った。
 今まで彦島(ひこしま)(※2)の平知盛(とももり)(※3)に阻まれ長門国に足止めになっていた範頼達は、豊後国(ぶんごのくに)(※4)の豪族の助けを得て、周防国(すおうのくに)(※5)より迂回して九州への渡海を敢行する。
 それが成ったのも、先行して西国入りし兵船の調達に当たっていた実平や景時らの、地道な作業が功を奏したからであった。
 だが戦の運びはよろしく無い。
 そこで遂に、鎌倉――頼朝が決断を下した。

 糧食需品はどうにかなっても、満足な建屋も無い駐屯状態が長引き、将兵の顔色はいよいよ悪い。その上にすさぶ寒風が、体力気力を奪って行く。
 範頼や頼景も例外では無い。またずっとその傍らに控え続ける射命丸も健康状態こそ崩す事は無いが、彼らのよからぬ相が伝搬してか、こちらも血色が悪い。
 誰が見ても窮したかとも思える。そんな中、鎌倉からの飛脚が範頼が座する本営に参着した。
「馬は、送れぬそうです……」
 射命丸から授受した書状の束に受け取った範頼は、それに一通り目を通し、力無く言う。
 気が沈んでいる時には、悪い事にばかり目が行くもの。普段楽観的な彼であってもそうなのであろうと、射命丸はその心情を思う。
 範頼が射命丸に書状を二・三通差し返す。やはり決して悪い中身ばかりでは無い、一応は朗報とも取れる事も記されているのを射命丸は認識する。
「来月には船を寄越す、ですか」
 その他にも細かに指示が記載されていた。
 幼帝の身の安堵。また国母建礼門院(けんれいもんいん)やその母である二位尼、付き従う女官等の非戦闘員の保護について。
 しかし、次の文面に目を走らせた射命丸は眉をひそめる。範頼が思い悩む様子を見せたのはこの事だったのかと、先程の考えを改めた。
(宗盛を生け捕って京へ上がれ?!)
 おかしな事では無い。勝者として敗者を晒すのだ、それも生け捕りという徹底的な恥辱を与えて。
「『公の御事(おおやけのおんこと)』――“かのお方の身の上”は、その通りくれぐれも、との旨。鎌倉殿は重ねて仰っていますね」
 宗盛の事はあえて流して、直接にも書状でも再三に渡り念押しされている『公』、即ち幼帝の身の安堵について、射命丸は触れる。しかしこれらは、圧倒的な戦力があってこそ為し得る事。生半な戦力で寄せれば、余裕の無い現場の将兵がそれらの指示を守れようとは考えにくい。
 それに船を――と言っても、豊後の狭い水道(※6)を平家方の水軍の目に付かず、無事に着けるのか。上空から幾度もその様子を見て来た射命丸であるからこそ、不安を強く覚える。
「千葉介殿」
「はっ」
 範頼が同席する千葉常胤を呼び、彼はそれに応える。範頼が彼を呼んだのも、書状にあった指示の一つであった、彼を重く扱えと。単なる長序の功と、その意見によく従えという意図であろうと、範頼は解釈した。
「前年末、佐々木殿の働きで藤戸の平家を蹴散らし、平家方に若干ながら損害を与えられました。船が到着するのが来月と分かった今、再度平家の力を削ぐ試みをすべきだと考えます。如何でしょう」
 常胤はそれに感心したのか、それとも範頼が戦に積極的なのに驚いたのか、目を丸くしながらも長い白髪の髭を撫でつつ献策する。
「そうでございますな。まず八島攻めは無理でありましょう」
「はい、それについては鎌倉殿から[急いてそちらを攻めぬように]と注意を頂きました」
「流石は。では我々は藤戸の時と同様、彦島の平家の勢力に戦力を指向し、来たる決戦で後ろを取られる事が無き様、務めるのが良いかと」
「では、具体的な策は?」
 常胤は雑色に地図を持って来る様に命じ、すぐに持って来られたそれを広げる。長門国からら現在地の筑前(ちくぜん)(※7)にかけてのそれであった。
「やはり、湊を押さえるべきと」
 言って、迷う事無く沿岸の一点を指し示す。
「ここは葦屋浦(あしやうら)と申しまして、川の上流からじかに物資を運び出し、そのまま彦島へ寄越す事も可能な港があります。攻めるならここが効果的かと存じる」
 無駄な軍事行動を取れる余裕は無い。攻める点を絞る必要があるのは範頼も承知するところ。
「なるほど、では軍議にて、方々に諮(はか)りましょう」
 常胤の細面が縦に振れる。
 この策は次の軍議にかけられると、諸将の同意を以て決行に向けて動き始めた。飢えた所を叩かれる恐れのある待ちぼうけより、果敢に飛び出し手柄を上げる事は、将だけでなく兵達にとっても待ち望んだ機会であったのだ。

 葦と言うより、枯れかけ赤みがかったススキの靡(なび)く真赭(まそお)の野だ。葦屋浦の手前までの滞りない進軍を終えた範頼には、そんな事を考える余裕が生まれつつあった。
 かつて渡河した勢多にも勝る大河を前にして、そのまた手前の小高い山に登り、一両日中に決行される葦野浦攻めの偵察に来たのであった。
 その場には義兼や小山朝政、侍大将の常胤と侍所別当の義盛、それに三浦義澄ほか主立った将も同道する。常光も将として扱われ、ここに在った。
 護衛には各将の手勢が付き従っている、これだけでもひと戦が出来るだけの戦力である。逆に言えばここが平家の勢力下であるため、接敵行進を余儀なくされているのだった。
 兵を動かせば兵糧の浪費も増す、将を伴っての偵察もこれを最後とせざるを得ない。
 その護衛の一隊、範頼の手勢は頼景が率い、彼以下太郎や頼綱も居並ぶ。
「兄者」
「なんだ」
「太郎に指示は出したか?」
 馬上で、同じく騎乗する兄に頼綱が問う。遠見の力を用いれば、敵陣の様子もよりよく分かるであろうと考えて頼綱は言ったのだった。
「下に居る時に見せたのでいらんと思ったが……どうだ太郎、何か違った様子が見られるか?」
 それの答えに白髪頭の侍烏帽子が振れる、ここから見ても大して違いは無いと言う代わりだ。
「だ、そうだ」
 それなら別にと頼綱は頷きながら息を漏らし、自身もその目で葦屋浦を見下ろす。
「いやはや、やはり実際に目で見ると違いますな」
 知盛麾下、彦島の平家勢の分遣隊といった所であろうが、相応の戦力が駐屯している。かの地がそれだけ重要な拠点であるという証左だ。
 兵一人々々の顔が見えるわけでは無いが、目をこらして旗や建屋の数などを数える頼景。その視界に見覚えのある影が横切るのを捉えた。
「おい頼綱」
「なんだ?」
「今、何か降りて来た様に見えたが……」
 手をかざしてそちらを注視する頼景。頼綱も目をこらすが何も見えない。ただ、降りてきたという言葉には、思い当たる人物が居る。
「俺には全く、太郎はどうだ?」
 問われた太郎は不機嫌そうに唸っている、それも戦で敵と相対するのとは別の様子で。彼女がこの様な態度を取る相手は少ない。
「一貫坊殿か?」
「と、思う」
 太郎は肯定して、首を二度三度激しく縦に振る。
 射命丸が真っ昼間に、それも多くの将兵らに見られる恐れを押して飛んでいるというのは、喫緊(きっきん)の事案が生じた事を示している。
「何事だろうな」
「さて、な……梓川の与次郎に太左衛門、各々五騎を率いて俺に続け」
 相良の衆でも働きが顕著な二人を指名し、頼景は馬を駆けさせようとする。
「兄者、俺は――」
「居残りに決まっておるだろう、太郎もだ」
 射命丸を迎えに行くのは察しがつき、留め置かれる事も予想していた頼綱。やはりかと嘆息する。太郎は太郎で、彼奴を迎えに行かずに済んだか、と安堵していた。

 山とは言っても築城には適さず、要害になり得ないなだらかな地形。射命丸の降りた場所に当たりを付けて山道を下った頼景は、すぐに彼女と出会う。
「これは一貫坊殿、何かあったのですか」
 白々しく言う頼景。射命丸は、見られていた、しくじったかと、渋い貌をして応じる。
「あ、や、勝間田殿の言いつけでして」
「勝間田様が?」
 あの老人が、範頼の立場は勘案しつつも――妖と知れるのは拙い――射命丸を評価しているのは、頼景も知っている。その次長がただの使いに射命丸をかり出すとは、頼景には考え難かった。
「一体何事が」
「実は寺社筋であるお話が舞い込んで来ました。九郎判官に対し、鎌倉殿より出陣の命が下ったと」
 また曰く、九郎判官が熊野三山の別当と手を組み、兵船の調達に取りかかっている、とも添える。
「それを先ほど勝間田殿に話したら、「今すぐに蒲殿にお知らせを」と頼み込まれまして」
 朗報であるのにそんなに急ぐ必要があったのだろうかと、見つかった事の言い訳も含めて射命丸がこぼす。
 頼景は少し考え、次長の意図を推し量る。
(なるほど、このままでは蒲殿の面目が立たぬか)
 だがそれだけでこうも知らせを急ぐ必要はあるのか。頼景は己に分からぬ事情があるのかも知れないと、射命丸を範頼の元へ連れて行く方に考えを固めた。

 主たる将が集うこの場は、この様な話をするには実にちょうど良かった。
 射命丸は先ほど頼景に話した時よりやや形式張って報告する体を取り、範頼は話し終わった彼女に、他人行儀な労いの言葉をかける。
 射命丸が話している最中から各将はひそひそと語り合っていたが、話が終わると、皆明らかに動揺した様子を見せ始める。
「御大将、これは鎌倉に照会すべきかも知れませぬ」
 まず言い出したのは義盛。ひげ面をずいと突き出し、目には力がこもる。照会すべき、と言葉は弱いが、そうせよと求めているのだ。
 それを補足して常胤が続ける。
「九郎殿に出陣が命じられるのは不思議はありませんが、鎌倉殿の御気色を被って久しいあの方に、どれだけの権限が与えられているか分かりませぬ」
「つまり、この度の熊野別当への働きかけは、越権行為の恐れがあると?」
「はい、左様で御座います」
 こうも言うのは、実際に越権行為の恐れがあるからなのでもあろう。だがその底には、ここで半年近くも粘った挙げ句に、美味しい所だけ持って行かれるのはたまらない、という意識が諸将にはある。後者に関しては、射命丸も頼景も同じ心持ちであった。
 総大将の範頼はどうか。彼が迂闊な事を言っては、せっかくここまでまとめてきた人心が離れかねない。各将には、多くの一族郎党に対する責任があり、その郎等らにも更に下の者への責任がある。
 範頼は口元に手を当ててしばらく思案すると、後ろに控えていた射命丸を呼び、応じた彼女に耳打ちする。
「一貫坊様。[このままでは私の面目が立たない]と添えて、熊野別当との同盟と兵船の件、私の名で鎌倉に問い合わせて下さい」
「そんな情けない文言で良いのですか?」
 却って面目が潰れかねない。怪訝そうな貌をする射命丸に、範頼はそれでいいと頷く。
「私の面目など無視して下さい。事によっては九郎殿ご本人が致命的な状況に陥りかねません」
 範頼は越権行為の方への危惧もしていた。
「一貫坊様だからお願いするのです。この件を鎌倉が知る前にこちらからの書状が届けば、万一越権行為であっても許されるかも知れません」
 そんな泣き言が届けば、鎌倉も追認するより無いであろうという事。しかし先に義経の働きかけを知ってしまえば、鎌倉は断じてこれを許さないであろう。
「では、これが鎌倉殿より与えられた権限での内のことであったら?」
「それはそれで、しょうがないでしょうね」
 各将はなんとか言いくるめてみると範頼は言う。
 ともかく戦を前に進めなければいけないのだ、越権行為だろうと面目を潰すだろうとこの際は、と続ける。
「では、すぐに書状を作成して、飛びます」
「ええ、花押はいつも通りで。それと暇(いとま)があるなら、熊野の様子も見て来て下さい」
「承知しました」
 周囲が訝しげにする中、二人は距離を置き、範頼が射命丸に命じる。
「一貫坊はこれより急ぎ鎌倉へ参じ、先の旨鎌倉殿へ申し上げよ」
「はっ!」
「相良四郎」
「応っ!」
「一貫坊と共に本営に戻り、鎌倉へ上る護衛隊を編組(へんそ)せよ」
「承知仕った!」
 射命丸は直ちに駆け出し、頼景は先ほど彼女を迎えに下りたのと同じ隊に太郎を加え、同じく麓へ向かう。
 本営に戻った射命丸は急いで書状をしたためるとそれを携え、頼景と共に陣の外に出で、海へ向かって飛び立った。
「やれやれ、一貫坊殿もあっちへこっちへと大変だ。飛べるというのも余り楽ではなさそうだな」
「ヲフ、ヲン」
 どうせだから目一杯こき使ってやればいいと、側に居た太郎は相づちを打つふりをして軽く吠えた。

       ∴

 公文所での書状の授受を終えた射命丸は、同時に――範頼の麾下という命令系統を頭越しにされながら――その返答を西国へ持ち帰る役目を担う羽目になった。
 もしかしたら今日明日にも戦が始まってしまうかも知れないのにと、十数日を浜の館で気を揉んでいた射命丸であったが――
「射命丸様! 範頼様達が九州の平家軍を破ったそうです!」
 待機していた射命丸に、ゆやが駆け寄って伝える。
「なんですって?! 蒲殿や、皆の消息は?」
「それは私信がありました。皆、無事だそうです!」
 それを聞いて、参戦できなかった無念はあれど、ひとまず安堵する射命丸。また詳しい内容は私信頼みと、ゆやからその文を受け取る。
 範頼の自筆、それもゆやだけでなく、射命丸にも宛てた物であった。
 鎮西から相模湾に面したここまで、早舟を使えればより速いが、今は陸路、飛脚での知らせになる。戦は二月の始めに、はやる諸将の声により始まってしまい、射命丸が鎌倉で待機する間に終わっていたのであった。
 今になって参戦しようとする義経に手柄を獲られまいとしてそうなったのであるが、それは逆に取れば、誰もが彼の実力を認めていると言ってもよい。
 そして大きな陸戦はこれが最後になる公算が強く、それ故に多くの者が急いて先陣を争った。
 小山氏の傍流、下河辺行平などは、この葦屋浦で予定される戦に臨んで甲冑を売り払ってまで小舟を調達し、「この様に身命を賭すので何卒」と言って先陣に立ったほど。
 拙速に過ぎる戦であったが士気は高く、幸いにも事は上手く運んだ。
 豊後国の緒方荘の国人緒方惟義(おがたこれよし)が、周防から長門方面を押さえて鎌倉軍を助け、その鎌倉軍は激しい戦の末、ついに平知盛率いる彦島の平家勢を孤立させ、同時に八島の平家勢の四国外への退路を断つ事に成功したのであった。
 これは平家追討の足固めが終わったも同然、あとは四国へ攻め入るだけ。交渉次第では、平家の降伏も期待できよう。総領である宗盛が真っ当な思考を有しているならば、であるが。
 また、範頼や頼景が危険にさらされるのは忌避すれど、戦にならなければ宗盛を討つ機会すら訪れない。鎌倉からは既に、宗盛は生け捕れとの指示が下ってすらいるのだ。
 思案顔の射命丸にゆやが言う。
「射命丸様。私には武士の考えや戦の事はよく分かりません。でも、範頼様や頼景様達が無事で何よりだったと、心から思っております。それに、お叱りを受けるかも知れませんが、射命丸様がそんな時にこちらに居られたのも、幸いと思っておりました」
 射命丸はそれを受け、はたと顔を上げる。許しを請う風に、上目遣いで射命丸を見るゆや。
 許すも許さないも無い。ゆやの言葉は、射命丸の心を端的に表すものであったからだ。
「そうだ、うん、そうだったね」
 己が範頼の側に居られなかったのはさておき、彼らの無事が何よりと、そう思えれば良い。
 ゆやも射命丸の同意に、笑顔を浮かべるのであった。

 鎮西からの報せと引き替えになる様に、射命丸には翌日の公文所(※8)への出仕が命じられた。
 八幡宮の南東、僅かに御所も望める立地。侍ばかりが詰める侍所と違い、こちらは文官が主体となる。訴訟事の処理をする問注所と共に、射命丸達が遠征に出たすぐ後に施行された組織だ。
 早朝から参じた射命丸は、一刻ほど待たされてから用件を受けることになった。来るのが早過ぎた事も待たされた理由の一つであったが、そんな時分であるのに、某かの詮議が繰り広げられていた。
 しびれを切らす射命丸の前に、仮面を貼り付けた様な無表情な男が雑色を連れて現れる。射命丸も彼が元々公家であるのは知っているが、そこらの半農半武の侍よりも、より侍らしい鋭い雰囲気を醸し出している。
 射命丸は蹲踞で手を付き、礼を尽くす。
「小僧、参州殿に仕える一貫坊と申します。まさか別当殿自らお出ましとは」
「一貫坊殿、待たせた事お詫びいたす。公文所別当、因幡守(いなばのかみ)(※9)広元と申す」
 中原広元(なかはらのひろもと)。大江(おおえ)氏の生まれであるが、今は中原姓を名乗っている。元々従五位上の官人であり、――今も鎮西の鎌倉勢の中に居る――兄の中原親能(なかはらちかよし)の縁で招かれ、こうして鎌倉に勤めている。
 風体に見合わず細やかな心配りで応対する広元に、射命丸は少しだけ肩の力を抜いた。
「別当殿、小僧はいつでも鎮西へ戻る準備は済んでおります。何なりとお申し付けを」
 広元はふむと頷くと、雑色から書状の束を受け取り、その退出を促す。
 人払いが必要なほどの重要事か。射命丸はまた身構え、広元の手元を、そして顔を凝視する。
「これが、この度お主に託す書状一式である」
 遠征軍の文書処理に関する主管は射命丸になるため、直接の接受は双方にとっても都合が良い。 射命丸は通例通り、書状の数だけを数えるとその内容を確認せず、何がしたためられているのかも求めず、持参していた行李の中にそれを収める。
 すると広元は、また一つ頷いてから言う。
「お主にも伝えておこう。九郎殿には、熊野との同盟や兵船の調達の件はおろか、参戦の命すら下っておらぬ」
 射命丸は当然驚く。人払いはこのためであった、極めて重大な話だ。
「それは……では九郎判官のご出陣とは、斯様(かよう)な由に依るものでありますか!?」
「驚くのは分かる、こちらも驚いておったのだ。だからここまで詮議が紛糾し、今に至っている」
 今は眉一つ動かさないが、動揺しているらしい広元。
 義経の参戦は頼朝が求めたのでは無く、義経自身の意志でそうしたのであった。一番の問題は、その許しを鎌倉の主である頼朝でなく院に願ったという点。
 彼は誰の配下なのだと、鎌倉の、ひいては頼朝の統御(とうぎょ)にも大きな疑問を抱かせる事態であった。
「結局、この件は追認するという結論が出た。また同時に参州殿にも、平家がこのまま下らなぬならば、八島へ前進するようにも命令が下されている」
 直接の八島攻めを控えるようにという、以前の頼朝の指示が翻されたのだ。
 ついに決戦だ。射命丸は奮い立つ心から身が震えるのを感じ、それを押さえつけて冷静に思う。
(己の役目は平家の掃討ではない、天邪鬼の調伏だ)
 心を落ち着けた射命丸は、広元に力強く言う。
「この一貫坊、しかと参州殿を始めとする方々へ、鎌倉の意志をお伝えいたします」
 すっと立ち上がり、行李を小脇に抱えて場を後にした射命丸。浜の館への挨拶を終えると、早馬に乗るふりをして鎌倉の外へ向かい、鎮西へ向けて飛び立った。

「――と言うわけでありまして、結局熊野には寄れず終いでありました」
 鎌倉の様子を射命丸から聞いた範頼は、文にも記さなかった鎮西の現況を伝え、認識の共有を図る。頼景をはじめとした範頼の郎党が無事だったのは何よりであったが、やはり拙速に過ぎた戦には無理があった。
「もう、彦島の平家は打って出る事は叶わないでしょう。ですがこちらも手持ちの兵糧を使い果たして、一旦長門まで退く必要が生じました」
 鎌倉への帰順の意思を示した土豪と協力して沿岸を固める軍を残し、本隊はそちらに転進。それに八島攻めの為には、より多くの戦船を準備せねばならない。これはしばらくの間、移動以外の軍事行動が無い事を意味していた。それ故、射命丸は範頼に求める。
「戦船の件は九郎殿の消息にも関わる事です。鎌倉が追認したとは言っても、現状をこちらが掌握せねば後々の戦にも障るかと存じます」
 範頼は、射命丸の往復の途上だからこそその時にでも、と考えていたが、こうなってはいよいよ誰かがそちらに赴かなければならない。
「しかし、一貫坊様は大丈夫なのですか?」
「鎌倉で充分休ませて頂きましたし、先の戦にも参戦出来ず終いです。どうぞ、お命じ下さい」
 そうした射命丸の言葉を受けた範頼は、命じるよりも承諾し、彼女はすぐさま熊野へ飛び立つのであった。

       ∴

 熊野本宮大社、熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智(なち)大社から成る熊野三山。射命丸もまだ鴉だった時、歳を長じてからは、本拠であった信濃国とここの間を使いとして飛び回ったりもしていた。
 またここは、ゆやの名の由来の地でもある。
 しばらくぶりなこともあって、人々の顔ぶれが随分変わった他、新たな社や伽藍(がらん)(※10)も落慶(らっけい)していた。この時世であっても、京の公家や院をはじめ、多くの勧進を受けているのがよく分かる。
 義経がここと同盟を結ぶとなれば、交渉の相手はこの三山を統括する別当職で間違い無い。射命丸も先代別当の顔は知っており、先々代に至ってはそこそこの通力もあったためか面識すら有る。だが名義上の先代、先々代の権別当(ごんのべつとう)や当代別当については、全くであった。
「さて、様子を見るだけで終わってしまいそうだが」
 勝手知ったる土地だからと飛び出して来てはみたものの、よくよく考えれば、ここでは人よりも禽獣(きんじゅう)との関わりの方が多かったと思い返す。もっとも、話が通じるのはどこへ行っても似た言葉を使う鳥達だけで、地を行く獣は方言が酷く当てにならない。
 ともあれ、社僧という身での聞き込みも可能であり、意志が通じる鴉も多く居る。そちらの当ては有った。

 本宮を中心に聞き込みを続ける射命丸、やはり義経と関わりが有ると思われる者が出入りしてるのを掴んだ。それは特に、神人や神職らよりも鴉達、それも古い者達によってもたらされた。
 曰く、ここ暫く行家が速玉大社へ逗留している、と。
(そうか、別当とのつなぎは十郎殿が)
 本姓の源より、新宮と改称した行家。その新宮こそ速玉大社その物の事であり、幼少の頃ここで養われた時の名『新宮十郎』が由来であった。
 先代権別当行範(こうはん)の妻であった鳥居禅尼(とりいぜんに)とは同母姉弟の間柄で、平治の乱の後はここに潜んでいたという。ここに彼の姿があるのも、当然と言えば当然であった。
 鎌倉を逐電して義仲と行動を共にした後、しれっと院御所に参じていたのは範頼も目撃していた。
 今回の義経の動きが院の下で行われた事であれば、信心と勧進の厚い院がお気に入りの義経の為、別当を動かすのに行家を遣わしたのだと読み取れた。
 かつての同胞、鴉達に導かれ、射命丸は新宮を目指す。幸いにも、本宮から新宮へは熊野川を下るだけで済み、飛ぶ必要も駆ける必要も無い。参詣に訪れた人々に混じって舟に乗り込む。
 舟に乗る者は、老若男女、貴賤を問わず様々。そしてやはりこの様な時に参詣に訪れる人の多くが、戦や飢饉、それに惹起された治安悪化に心底疲れ果てていたしていた。
 京に近いここでも、かつて遠江で耳にした話と同じく、人々にとっては朝廷も院も、源氏も平家もどうとでも、日々の暮らしこそが何よりなのである。
 山中の河川ではあれど、広い川幅に緩やかな流れ。海の様な荒さも無く、河口付近までの短いながらも実に落ち着いた船旅を、射命丸はしばし堪能する。

 左手に切り立った、大船の如き様相の特徴的な川中島を見てから、少しもしないうちに船頭は舟を河原に寄せる。舟を降りれば、新宮もすぐそこであった。
 鎌倉でも幾度か見ていた行家の姿を、人々に混じって探す射命丸。幸いにもすぐに彼を見付ける事が出来た。容姿が代わり映えしていない事に加え、彼が堂々と行動していたためだ。
 この際、直接義経の動きについて問い詰めるか。射命丸は参道で肩を怒らせて歩く彼に後ろから近づき、手を伸ばす。だが、その手は何者かに掴まれ、同時に足も止める事になった。
 何者か。射命丸は掴んで来た手の主に顔を向ける。居たのは奇妙な風体の僧、背格好を見れば明らかに女。
 熊野三山は、女人禁制の地が多い各地の山々と違い、その受け入れはおおらかである。
――射命丸が普段男の僧と同じ装束であるのも、その様な場所に立ち入るためでもあった――
 故に女であるのは驚くべき事でも無い、ただしその装束は特異に過ぎる。
 射命丸は女に問う。
「お前、何者だ?」
「やめておけ、十郎殿は曲がりなりにも源氏嫡流の武者だぞ」
「話を聞こうとしただけだ」
 何を勘違いしているのだと射命丸は手を振り払って、女と正面から向かい合う。
 長めの小芥子頭の射命丸と違い、側頭の二カ所で結った垂れ髪。それと僧とも修験者ともつかぬ装束。ズミ(※11)で黄色に染めた上半身の法衣に、袈裟から仕立て直したのか格子模様になった袴、それも――どう見ても高位の者とは思えないのに――紫色の物。
 とりどりの、身の程を越えた禁色(きんじき)(※12)に身を包むその姿は、不遜不敬その物とも見て取れる。
 加えてもう一点、目でも耳でもなく凝らして、射命丸はただ感ずるものを知覚する。
「お前、物怪か?」
“同族”、そう判じた。
「ああそうだ。今十郎殿に接触されるのはマズいんでな、話があれば私が聞こう」
 一切動じた様子も見られない上にこの口ぶり。こちらの身分を知っているのかと、射命丸は訝る。
 行家の姿はもうだいぶ先、追いかけられない事は無いが、まずこの女に阻まれる。ここで一戦交えてもただ騒ぎになるだけで悪い方にしか進まない。
 射命丸がそう考え、やむなくこの妖の女と話そうと相対すると、先に女の方から口を開く。
「お前は確か、天邪鬼調伏を命じられて蒲御曹司の下に居る――」
 やはり知られていた。一方的に知られているというのには、余りいい気がしない射命丸。
「秋葉山の一貫坊だ」
「ああ、三尺坊権現殿の手下だったな」
 一体お前は何者なのだと射命丸が改めて尋ねる間も空けず、女は勝手に話し続ける。
「おおかた鎮西の蒲御曹司に、義経様の動きを探る様に言われたのだろう?」
「ああ、そんな所だ」
 女は後ろ手に手を組んで胸を張り、身を翻して続ける。
「そんなに怪しまなくてもなぁ。義経様だっていつまでも鎌倉にそっぱを向こうというのでは無い、ここの水軍の合力が得られれば、すぐに麾下に加わるつもりだ。まぁ、十郎殿がどうお考えかは知らないけどな」
 女が行家の配下かと思っていた射命丸は、その話しぶりから義経と縁のある者かと認識し、行家に尋ねるより好都合だったと考え直す。
「そうでなくては。蒲御曹司も九郎判官の事はいたく気にかけていた、あの方は今こそ立つべき勇士であると」
 範頼が実際に口に出していた訳では無い、だが彼がそう思っているのは想像が付く。それにこの女が義経の愛妾か何かであれば、義経を持ち上げた方が口も軽くなるであろうと考えたうえでの口上。
「義経様も、ただ勇ましく居られるだけであればよかったのに……」
 女の何かを含んだ呟きを、射命丸はさほど気にも留めず続ける。
「判官殿がこれから鎌倉の為に戦功を上げれば、武衛頼朝様の御気色も解ける事だろう。少なくとも蒲冠者はそう考えている。そこで判官殿が今後、どの様な運びで戦をする気か知りたいんだ」
 言葉を選びながらも、最後は真っ向からの質問になってしまう射命丸。交渉には向かないなと軽く反省しつ返答を待つ。
「熊野水軍の動員はこの通り、加えて伊予の河野(こうの)氏にも助力の約定を取り付けている」
「河野氏まで!?」
 伊予国造(いよのくにのみやつこ)の家系に連なり、瀬戸内海において有数の水軍を有する豪族河野氏。これが動くとなれば、彦島と八島の連携は途切れ、鎮西への退路も断たれた平家を封殺する体勢が整う。
 前当主は頼朝旗揚げに呼応して平家に反抗し、結果討たれた。子で現当主の河野通信(みちのぶ)も、それ以来戦い続けている。義経が熊野水軍を率いて来るとなれば、確実に応じるであろう。
 紫電(しでん)の速度の一点突破で敵を蹴散らして来た義経にしては、ある意味らしくない地道な戦略。こういった事の運びはどちらかと言えば――戦の現場では大した功も無い――行家の仕業。義経は乗せられているのではないか、とも考えられた。
「河野水軍が出れば、鎮西へ前進している三浦氏にも兵船を供出できる。そちらにとっても都合は良いだろう?」
「あ、ああ」
 ここまで用意周到だと却って怖くなる。
「まあ、見ているがいいさ。天邪鬼調伏も平家追討も、義経様の下で全て叶うだろうから」
 にっと歯を見せて笑う女。何故か、天邪鬼のあの忘れ得ぬ、憎々しい笑顔が射命丸の脳裏に思い浮かぶ。この笑顔の裏にも何が隠れているものか。それに加えて、宗盛と天邪鬼のいずれも、誰が討ち取っても構わない、とは、射命丸には考えられなかった。
 だが義経の側にこそ深い故があるのだと、女は言う。
「平家滅亡は義経様の本懐、他の誰にも、やらせはしないさ」
 滅亡。宗盛個人を討つ事は本懐とする射命丸ですら、正気かと唾を呑む。
 鎌倉も院も降伏の勧告はまだ続けている。鎮西を押さえたのも、鏖殺(おうさつ)に至らぬ継戦不能な状態を作り出すため。未だに八島の行宮に鎮座する幼帝の身の上、それに神器が、鎌倉と院のいずれにも最重要なのだ。
 平家の全てがよこしまな訳でも無い。鎌倉に在する、重衡という最たる例もある。またこの数年の飢饉騒乱はあれど、暫く国を治めて来たのは平家なのだ。
 宗盛の事はさておき、一族の完全な滅亡は非現実的。
「どうした一貫坊殿、手柄を義経様に取られたくないなら、すぐ鎮西に戻って今話した事を蒲御曹司に伝えた方がいいのではないか?」
 女はそう挑発しながら、通力で身体を宙に浮かせる。いつの間にか人通りの無い山中に踏み入っていたのに射命丸はようやく気付く。
「言われ無くとも、そうする!」
「ははは、精々頑張るんだな」
 そう言い放つと、女はその身ひとつで一気に高層に昇る。並の通力では無い、まさか義経の下にもあの様な妖が居るとは。
 射命丸は未だに定かで無い戦の先行きと共に、義経と名も知れぬ妖、そして京の動きに、不安を覚えずには居られなかった。

       ∴

 熊野を後にした射命丸は、――義経の天狗にああ言われ、言ったたものの――そのまま鎮西には戻らず、北上して畿内を目指す。鎮西までの道程と比べれば目と鼻の先。ならば折角だと、また別の地へ脚を運ぶ事にしたのだ。
 目的の地へは四半時も経たずに到着する。これならば修練がてら駆けるべきだったかと、降り立ちながら射命丸は思う。
 着いたのは大和国の南端、河内国との境の信貴山(※13)中の寺院、朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(※14)。
 当山の本尊は毘沙門天。決戦を前に邪鬼調伏の心を新たにしようと、また事ある毎にそういう祈念を怠らない頼景にも倣い、かの天部への祈りを捧げに訪れたのだった。
「いやしかし、流石は畿内でも有数の寺院。ご立派――と言うのも失礼か」
 秋葉山も決して小さな規模では無い、だがここはまた赴きが違う。圧倒されつつ感心しつつ、付近の僧房を尻目に歩を進めて鳥居をくぐって視線を上げると、山中にはずらりと建ち並ぶ多くの伽藍。
 熊野の様に女人は居ない。射命丸の僧姿は、この様な地でこそ役に立つ。とは言え、見咎められても面倒なため、可能な限り目立たないよう平静な風に歩む。
 彼女自身は目立たず、無事本尊の前に赴くことが出来た。だが、
「人気が無い。それに何だ、この匂いは……」
 本来多くの僧が詰めているであろうその周辺に誰も居ない。それに加えて刺激臭が鼻を突く――様に感じた。正確には臭気を感じたのでは無くもっと別の、そう、あの天邪鬼に感じた物に似ていた。
(まさか、奴がこんな所にまで!?)
 匂い、否、妖気の元を探る射命丸。燃水とは違う、近い物を挙げるなら酒精の如き妖気。今現在太郎の眼は無いが、この臭気は射命丸自身の力だけで追跡が叶うほど強く、彼女を山頂にまで誘う。
 辿り着いた山頂には一つの祠。そして妖気は益々強い。
「どこだ?! 出て来い!」
 周囲に当山の者が居るか否かなどお構いなく、提げていた独鈷杵に手を掛けながら叫ぶ射命丸。急にその視界がぼやけたかと思えば、数拍後には童女の姿がくっきりと現れた。
「なんだよ、騒々しい。おや、護法(※15)たぁ珍しいね」
 腕には見るからに重々しい鎖を絡め、更にその先には、形も色もまちまちの大きな錘(すい)が取り付けられている。そして一目では童女と見たが、彼女はそれらの重さも感じない風に、腕をひょいひょいと振り回している。
 袖も千切れたボロボロの衣は兎も角、何よりも射命丸が驚いたのが、天邪鬼とは比べものにならないほど立派な、側頭部に生えた一対の角。
「まさか、鬼……」
「ああそうさ、鬼さ。それがどうした?」
 酒精の匂いに攪乱されていた、強すぎる妖気。鬼、東西の如何な妖よりも剛の者。射命丸は一瞬たじろぐが、すぐさま胆に力を入れ直して応じる。同時に敵意を鎮め、独鈷杵も元通りに提げ直す。
「別の物怪かと思ったもので、申し訳ない」
 ここは素直に詫びる。しかし、僧侶の姿が無いのはやはりこの鬼の仕業かと続ける。
「ところで、当地の僧侶をどこかへやったのは、お前か?」
「おん? ああ、そうと言えばそうかもね」
 言って、射命丸に「はぁー」と息を吹きかける鬼。臭い。
「臭ぁっ! そうか、ここの阿闍梨(あじゃり)達はお前の妖気に!」
 その様な物に敏感であるため、堪らず退散した結果が今の状況なのだろうと、眉を寄せ、鼻をつまみながら射命丸は考えた。
「みたいだね。それにしても、お前お前って失敬だね。お前」
「む、失礼。私は秋葉山の一貫坊と申す。名のある妖とお見受けした、御名を伺いたい」
「一貫坊ね。私は伊吹山の鬼、伊吹童子とでも呼んどくれ」
 伊吹童子、その名を聞いた射命丸はなお驚く。しかし疑う余地は無い。
「何故、貴女の様な妖がこの様な所に……」
「一貫坊、お前さんだってこの様な所に来てるじゃないか。そういやさっき、別の物怪を探してるとか言ってたね。そりゃアレか、西国の護法やら神仏が天上へ天下へ大騒ぎの、あの小鬼かね?」
 質問のへの答えの代わりにとんでもない問いを返され、射命丸は目を剥く。
「図星かな?」
「私が追っているのはその小鬼、天邪鬼だが、西国の護法に神仏までというのは、私も初耳だ……」
 いや、太郎があの様に復活し、浄天眼まで授かった事を思えば、天上に在る者達の動きは不思議で無い。それにしても西国の護法がというのは、それならば宗盛ら平家をどうにか出来なかったものなのかと困惑する。
「んー? 言っちゃマズかったかな、マァいいや。いやしかし、けったいな奴が出て来たねぇ」
 真っ正直の鬼と、嘘ばかりの天邪鬼。異なるモノだが、知らない訳では無いらしい。
「けったいな奴、とは、如何なる由に依る言葉か」
「普通通りにしてりゃ、さも無い奴なんだろうけどねぇ。ちょっとでも閾(しきい)を越えると、萃められるモン萃められるだけ萃めて――」
「――理をねじ曲げ続け、自身の器すら好きにして、無尽蔵に集め続ける」
「流石、頭でっかちの護法、よく知ってるね」
 皮肉か素直な賞賛かは分からないが、心にまで染みつく酒精にやられ、それに毒づく気すら起きない射命丸。本格的にやられてしまう前にと話を進める。
「伊吹殿には、奴の企みが分かるのか?」
「分かると言うか、分かり易いよ。だってアイツ、何でもひっくり返すのが目的なんだから」
「何でもひっくり返す?」
「ああ、出来るかどうかは兎も角、今やろうとしてるのは天と地をひっくり返す事。根の国(※16)、いや黄泉国(※17)を溢れさせる、なんてのがそうかもね」
 飄々と言う伊吹童子、その手の中には酒に満ちているであろう大きな瓢箪。対する射命丸は、なんでこんな事をあっさりと言ってのけるのかと益々困惑している。何より伊吹童子が言った事は、自身が想像し、しかし外れて欲しいと望んでいた“奴”の企みと合致していたのだから。
「黄泉を、溢れさせる!? 伊吹殿はそんな一大事を知っていながら、手を出さないのか?!」
 言っていることが滅茶苦茶なのは自覚しつつも、酒精にやられたのか、考えが定まらない。
「知らないよ、とは言わないけどね。けど私だって、何千何万という人間がわちゃわちゃやっている所に押し入って行く気は無いよ。それに今の人間は、関わってもつまらないしね」
 ふぅと息を吐く伊吹童子、不思議とそこからは酒精の匂いは漏れない。
「だからさ、まだ面白い人間や妖怪が居そうな所に行こうと思ってね。で、ここで最後の酒盛りをしてたって訳」
 伊吹童子と言えば、かつて源頼光に討たれたとされる鬼の一人。その彼女が人間がつまらないと言う。人間が弱いから、では無いのだろう。では何故かと射命丸は考えようとするが、やはりまとまらない。射命丸の思案にかかずらわず、伊吹童子は続ける。
「ここにさ、昔居た尼公ってのが、それはそれは慈悲深い奴らしくてね、数多の方術を身につけて力の無い妖怪にまで味方し始めたんだ。けど結局そいつは、同族に封印されちまったみたいだ。面白い人間かと思ったんだけどねぇ」
 そこまで至った人物がもはや人間と言えるかはさておき、伊吹童子が求めて来たのはその様な“人間”だったらしいのが、認識がやや曖昧な射命丸にも理解出来た。
「伊吹殿、木曾義仲なる人物をご存知か?」
「粟津で鎌倉に討たれた奴だろ、見てたから知ってる。ああいう奴だよ」
 射命丸も聞いた話でしかないが、義仲を始めとした郎党は、寡兵でありながらも鎌倉軍の前に立ちはだかった。伊吹童子が求めるのはそういう者達なのだろうと、射命丸は一人うなずく。
「彼の本拠地は信濃だった。私も信濃の出だが、かの地にはまだ、そういう豪傑も居るであろうと」
「そうか、まあ今更暴れ回る気も無いけど、行ってみるかね。ときに一貫坊よ、なんで私にそんな、生国を売る様な真似をする」
 そういうのは好かないと、ここで初めて不愉快そうな貌を見せる伊吹童子。射命丸は真っ直ぐな眼を向けて答える。
「信濃は古き神の治める地、決して伊吹殿も不自由すまいと、そう思っただけです。そして、私が成すべき事が如何に重要か、教えて頂いたお礼です」
 天邪鬼の目論見が先の通りなら、戦を長期化させ、戦場でもそれ以外でも無駄に犠牲者を増やすことが第一段階。更にその屍の上にこそ、奴の目的が有る。
 人の屍を積み重ねて天に至り、そこを底の国に引きずり下ろす。そして、黄泉を溢れさせる。
(その様な事、させるものか……!)
 一瞬ふらついた自身の脚と頬にそれぞれ喝を入れ暇乞いをすると、射命丸は今度こそ、鎮西を目指して飛び立つ。
「おーおー、頑張れ若者」
 伊吹童子は瓢箪から口に酒を注ぎながら、風すら追い越して去って行く後ろ姿を見送った。

     * * *

 範頼達の働きにより、ついに鎌倉と平家の決戦の機会が訪れようとしていた。
 しかし、今なお政治的行動を続ける鎌倉、もはや徹底抗戦の構えを崩さない平家、そして院を擁した義経ないし義経を擁した院。思惑は三者三様であった。
 他にも、未だ表立って動きを見せぬ奥州藤原氏をはじめとした、各地の豪族。
 大八洲の数多の人々、それに天邪鬼の恐るべき思惑を孕み、源平の戦は佳境に至る。

第16話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 犀の革:名前通り、動物のサイのなめし革で作られたとされる大鎧。義兼の『犀皮鎧』は重代の重宝であったが、その後、ある事情で手放されている。
※2 彦島:山口県下関市南端に位置する島。現在船便は廃止され、連絡橋での交通が主。武蔵と小次郎の決闘で有名な巌流島(船島)にもほど近い。
※3 平知盛:清盛の四男。宗盛の同母弟で重衡の同母兄。義仲が後白河法皇との確執から和睦の使者を送ると、これを機に上洛を画策する等、勇猛な人物でもある。
※4 豊後国:現在の、宇佐市及び中津市を除く、大分県の大半の地域。豊国(とよのくに)とも言った。
※5 周防国:現在の山口県東南部周辺
※6 水道:海峡や瀬戸などとおよそ同じ意味。豊後水道は大分県と四国に挟まれた水道を言う。
※7 筑前:筑前国、現在の福岡県西部
※8 公文所:鎌倉以後の幕府に置かれた公文書処理の事務所。事務処理を、下級文官等やれる人間だけでやるという状況から、体系的に処理する体制に移行した。
※9 因幡守:因幡国(現在の鳥取県東部周辺、因幡てゐ(因幡の素兎)の地元?)の国司
※10 伽藍:僧侶が集まり修行する場の意、転じて寺院の施設全般を指す。落慶とは、寺社の新築及び改築並びに修理を祝う事で、完成の意としても使われる。
※11 ズミ:桷。バラ科リンゴ属の低木で、樹皮は染料として用いられる。別名『姫海棠』
※12 禁色:高貴な人間が使うべき色で、服制で衣類に使う事を禁じられた色。青白橡、赤白橡、黄丹、深紫等の七色。特に黄櫓染は、天皇以外は使用出来ない。
※13 信貴山:現在の奈良県南部の山。聖徳太子が毘沙門天に邂逅した時授かった言葉が名の由来。役行者が使役した『前鬼・後鬼』の由縁がある生駒山にも近い。
※14 朝護孫子寺:信貴山真言宗の総本山、本尊は毘沙門天。聖白蓮とも大きな縁がある。爆弾正こと松永久秀が山城を築いたが、織田信長との戦いで焼失した。
※15 護法:仏法を護る者との意。平たく、天狗を指す場合もあり、劇中ではその意味で使用。血統への憑き物(天狗)として、『牛蒡種』との言葉もある。
※16 根の国:日本の神話に現れる異界、『底の国』とも称する。出雲や熊野の、伊弉冉尊の陵とされる場所とも言われる。黄泉国(※17)と同一ともされる。
※17 黄泉国:日本神話における“あの世”。伊弉諾尊が妻の伊弉冉尊を迎えに行き、変わり果てた彼女や黄泉国の住人達から辛くも逃げ帰った逸話で描かれる。

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