二十./藤戸(西暦1185年)
範頼ら鎌倉の西国遠征軍は、京を過ぎて一ノ谷を越え、鎮西を目指す。
現在の平家の本拠は八島。そこに行宮を設け、幼帝が鎮座していた。
これを助ける鎮西の勢力と分断するのが、まだ西国で水軍の当ての無い鎌倉軍の戦略であった。
水軍については、先遣として西国へ入っていた土肥実平と梶原景時が担当しているが、西国にはまだ平家に協力する者が多く上手くいかない。これは逆から見ればに、平家の下には十分な水軍勢力が確保されているのと同義であった。
その為の鎮西への前進であったがしかし、備前国に至った鎌倉軍は、山陽を通る上で素通り出来ない要害に打ち当たる。
島の点在する藤戸(ふじと)(※1)の浦。その一つ児島(こじま)に城を築いた平家は、播磨守(はりまのかみ)平行盛(たいらのゆきもり)にそこを守らせていた。
船が無ければ数町向こうの島になど手は出せない。頼景は馬を水に浸けてみてはやはりだけだと戻すなどを繰り返していた。その側で太郎は泳ごうとする動きを見せる。
「胴丸を着込んだままでは沈むぞ。あと裸で泳ぐのも駄目だ」
当然、尾の露わになる裸で泳ぐ気など彼女にも無い。何より水が相当冷たい、無理だと諦める。
「ヲフー」
じゃあどうしようかと太郎が嘆息すると、頼景も同じく嘆息する。
それを考えるのは首脳陣の役目であったが、そちらも船が無ければ、策の立てようが無かった。
本営では軍議が続くが、船が無ければただの寄り合いに近い。ああだこうだと話しては、やはりどこかから船を、となる。
範頼も他の大将も、何度も繰り返してお定まりになったこのやりとりに辟易していた。
「蒲殿、やはり上空より偵察してみたいのですが」
射命丸が耳打ちをする。
彼女はこの辺の海底が浅いことまでは確認しており、もしかしたら児島へ前進出来る経路があるのではと期待していた。
「いえ、それは後の手段です。人の目が多すぎます。いよいよと極まったら、その時は」
「はい」
太郎にもこれを伝えて視させたが、彼女には水中は上手く見通せないらしく、危うく頼綱が馬ごと溺れそうにもなっていた。
もう糧秣も大夫消耗している、余り悠長にもしていられない。やりとりはお定まりでも、諸将の焦りは日に日に募っていたのだ。
ここで、時は熟したと見た一人の将が声を上げる。
「明日、我らに先陣を任せて下され、たちどころに児島の平家を平らげてご覧に入れましょう」
そう言ったのは、頼朝の伊豆配流時代から仕える宇多源氏(うだげんじ)(※2)の一族、佐々木盛綱(ささきもりつな)であった。
兵力で言えば平らげるという言葉は全くおかしくない、児島の平家には五百騎ほどしか無く、対して鎌倉軍は数万を数える。それであっても攻められないのであるから、兵船が無いというのは致命的であった。
彼はそれを覆すというのだ
「では、いずこかから兵船を調達する当てが出来たのですか?」
範頼が問うと、盛綱は笑い飛ばす。
「それが出来れば苦労は無いでしょう」
「佐々木殿、先陣とは言うが攻め寄せる術も無しに如何な戦が出来ようか」
隣りに居た和田義盛も当然の疑問を投げかける。
「まあ見ていて下され、まずは我が手勢を汀に並べ、そこから先は平家の動き次第でどうとでも」
何らかの秘策を匂わす盛綱。無理な作戦をしてあたら兵を死なすのは範頼も避けたいし、今後の糧秣の不安もある。
「それは、確かなのですね」
「参州殿、拙者らは貴方が御厨にある頃よりずっと武を研き、戦場を駆けて来たのですぞ」
それ以上は要らぬ事を言うなと、言外に含める。
これには範頼も少し苛つき、射命丸は本人よりも憤る。鼻につく態度に、諸将の中にも憤る者が若干居た。
それでも範頼は、射命丸を飛ばすという決心をする気は無かった。
明くる日、汀(みぎわ)に十数騎を並べた盛綱の姿があった。
馬で渡海を図れば、すぐさま児島から戦船が漕ぎ出し、矢の雨を降らすであろう。そうでなくとも遠浅で波が高い、矢にやられる前に溺れる。
鎌倉軍全体から見たら大変小規模ではあるが、盛綱ほどの将が討たれれば一大事。範頼は彼らを見守る。
「蒲殿、やはり――」
「堪えて下さい」
盛綱らを見据えながら射命丸の申し出を却下する。二陣では太郎や頼景も待機していたが、出番は無いであろうとたかを括っていた。
しばらくすると、児島から戦船が漕ぎ出して来て、矢を射始める。浜まで届かぬ程であるが、挑発代わりの鏑矢の鳴らす音が、誰にも耳障りであった。
それに耐えかねたのか、盛綱が先頭を切り、手勢らもそれに続く。
「そんな!」
ここまで考え無しの吶喊(とっかん)だとは、誰も想像だにしていなかった。範頼は慌てて盛綱らに転進の命令を叫ぶ。
「何をしている! それでは渡れない、退けっ!」
鬨(とき)の声を上げるのは僅かに六騎。範頼から、更に数人が叫ぶその指示は聞こえているはずである。盛綱は意図的に範頼らの叫びを無視していた。
常ならば既に馬の足が海底より離れている頃。だがその脚の落ち方は、渡河作戦時ぐらいに留まっている。確かに、これならば兵船の矢などにかかずらわずに進めるかも知れないと、諸将は見ながら思った。
しかし何故。その答えの半分に射命丸は気付く。
「そうか、大潮」
「大潮ですか?」
「はい、今日は新月であります。であれば、干満の差が大きいのです。月の中で二回だけ現れる浅瀬があるのではと」
成るほどと範頼は納得すると、先程の命令を撤回してすぐに前進を命じる。
「第一陣! 佐々木隊の後を辿って前進せよ! 必ずその足跡を辿れ! 第二陣は前進準備!」
言われ、一陣は即前進を開始する。ただしたった六騎が通った場所は極めて狭隘で、吊り橋を渡るのと大差が無い。
それでも順次送られて来る騎馬には、平家兵船の対応はもはや飽和していた。何より遙かに大量の矢が、彼らに襲いかかり始めたのだ。
それは船上の隊だけの話ではなかった。
児島では既に、盛綱以下六騎が獅子奮迅の活躍を見せ、対応の遅れた行盛以下児島の平家勢は、船をひっくり返しながらほうほうの体で城から逃げ出して行く。
辛うじて踏みとどまっていた行盛も、次々と送り込まれる兵を見て撤退して行くのであった。
結局当地での正面切っての戦は、結果を見れば圧倒的な勝利で終えたのである。
∴
勝利が確定した時点で送り込まれる隊は局限され、二陣以降から戦闘態勢より下げられていった。
干潮の間に藤戸の汀まで返して来ようとする盛綱の隊、これは当然讃えられるべき者達。のはずであった。
だが、再び渡海を始めた彼らに、異変が襲いかかる。
《返せ……》
くぐもった男の声。殿の一騎はそんな声を聞いたと同時に、一瞬にして海に引きずり込まれる。
「どうした!?」
盛綱が気付き、振り返る。
《戻せ……》
また一騎、消えた。
汀と児島の中間辺りでの異変、なんとかして進むしか無い盛綱達。
陸の方でも異変を察知していた。特に本営の射命丸、そして二陣に居た太郎達が。
「蒲殿、水の上を征くぐらいは許して頂けますか!?」
「はい!」
「ヲフ!」
「待て、俺も行く」
物怪の仕業、彼ら彼女らはそう判じた。殊に射命丸と太郎の二人は、それに関わりのある妖の存在に気づいていた。
大気に刺激臭を伴う妖気が満ちている。
わざと脚を水に浸けながら駆ける射命丸。そして強引に駆ける太郎、後に続く頼景。
辛くもその魔手から逃げ延びた盛綱隊とすれ違い、その怪異の正体を見極めようとする。
「オーム ヴィシュラ マナーヤ ソヴァハ!」
悪鬼調伏の真言を海に向かって唱える。するとその者は水底より正体を現した。それは漁師であった、ただその胸に刃で突かれた跡があり、己が首を小脇に抱えているが。
「またこの手合いかっ!」
射命丸が独鈷杵を構え、法力を込めようとすると、その側面を光の飛礫が遅う。
「現れたか!」
海の上に、奴が立っていた。
射命丸と同じく飛行自在の天邪鬼、天と地を、海と空をひっくり返しているからそう出来るのであろうか。その飛行の原理はともかくと、法力を向ける先を変える射命丸。
「オーム マユラ キランティ ソヴァハ!!」
片手で印を組み、今度は調伏どころではない、殲滅の一撃を放つ。手応えが射命丸の手に返る、だが効果が見えない。
「どうした小鴉、そんなものか?」
歯を鳴らして再度の一撃を加えようとする射命丸、ふと背後の気配に気付く。
「しまった!」
屍の漁師が射命丸を引きずり込みに掛かっていた。対応が間に合わない、やられる。そう射命丸が思った刹那、漁師の胴が横薙ぎに真っ二つに絶たれた。
《憎しや、佐々木、恨めしや……》
「畜生が、邪魔をしやがって」
「ガウッ!」
太郎はそのまま返す刀を浴びせようとする。海上だろうとその脚はお構いなしに跳ねる。だが大太刀の切っ先は僅かに届かない。
「ケケッ、次だ次、今度こそ、楽しみにしてな」
言い残して塵風の中に姿を消す天邪鬼、一瞬にして上空に飛び去って行った。
追おうとする射命丸、だが――
(あれが通じないんじゃ、どうしようも無い……)
空を飛ぶ術も無い太郎も、同じく黙って見送るほか無かった。
∴
汀に戻った盛綱に待っていたのは、功績を称える声だけでは無かった。
射命丸は沈み行く屍の言葉を聞いていた。間違いなくそれは、盛綱への怨嗟(えんさ)であった。
「一貫坊殿の法力は確かです、それに我が郎党の当麻太郎もそれを聞いていました。佐々木殿は一体、何をしたのです?」
「先の海上の道を漁師より聞き出した後、機密保持のため、切って捨てた。それだけのこと」
諸将の間に僅かにざわめきが起き、範頼は顔を青くする。
「勝利のために、土地の者を殺したのですか!?」
「御厨の住人の貴方には分かるまい、勝利を掴むためにはこういう犠牲も必要であるのだ」
未だ態度を改めない盛綱。そこに常光が声を上げる。
「佐々木殿、その様な法、頭殿のお側に仕え続けた私でも、聞いた記憶はありませんよ?」
「金王丸殿」
「いえ、むしろ非戦闘員に手を出すなど言語道断。海戦に在って水主(かこ)(※3)を射る事すら、咎められる所業でありますのに」
徹底した軍紀の下に源氏の一党を纏めて来た源義朝の規律を語り、盛綱を諭す常光。
「そんな甘いことでは、勝てませぬ」
「だから、頭殿は討たれた、とでも、仰いますか?」
先んじて、断じて言えぬ言葉をぶつけられ、盛綱は沈黙する。
「御大将、恐れながら申し上げます。此度の佐々木殿の所業、看過出来る物ではありますまい。ですが、ご郎党共々上げた戦功は大であります。何卒、寛大なご沙汰を」
範頼はしばし思いを巡らせ、下す。
「佐々木殿の功は讃えられるべきものです。しかし、その為に無辜の民を死に至らしめたこと、それはそのままにしておけません。当地に於いてその菩提を弔うことを命じます」
「はっ……」
常光の説得に既に折れていた盛綱は、範頼の言いつけを受け容れるより他無かった。
ただの一合ではあったが天邪鬼との再戦を果たした射命丸。必殺のはずの法力すらもが通用しないことに驚き、思い返していた。
決して己の力不足では無い、その自負があった。絶対的に、奴が余りにも強くなりすぎたのだ。
それにも増して気がかりなのは奴の企て。二度に渡って屍を動かしにかかるなどとは。あれらは何かの実験のようにも射命丸には思えた。
発端はたまたまではあったにせよ、止ん事無き方の側に奴は在る。その奴が企む事とは。
「歪曲と回天の妖……まさか」
奴が天とこの世と、皇統に恨みを持つモノであるのなら。射命丸は自身の予想が間違っていると願いつつ、ある思惟を確信に向かって進めるのであった。
* * *
児島の平家勢は八島へ退き、山陽の陸地に於ける平家の主たる拠点はほぼ消えた。
藤戸での戦いの後、後顧の憂いを除いた鎌倉軍は鎮西へ向かって進軍を続行する。
だが未だに兵船の調達の見込みが無く、先行きの見えない戦は、将兵らの精神を大きく消耗させるのであった。
第15話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 藤戸:現在の岡山県倉敷市藤戸に当たる地域。現在は干拓されているため陸地。史実では、範頼達は前進した後に補給線を断たれ、取って返して対抗している。
※2 宇多源氏:清和源氏の庶流では無く、宇多天皇(※4)の皇子を祖とする氏族。旧陸軍大将の乃木希典(のぎまれすけ)はこの氏族の末裔
※3 水主:船乗り、水夫、船頭などの事。水手とも言う。
※4 宇多天皇:貞観9年~承平元年(867~931)。第59代天皇、在位仁和3年~寛平9年(887~897)。譲位前後、菅原道真を政治的な意図で支援
(今回のモチーフは、謡曲『藤戸』。旧暦ではまだ年は明けていないが、この戦は西暦で1185年1月の出来事。月齢は創作で、正確には不明)
範頼ら鎌倉の西国遠征軍は、京を過ぎて一ノ谷を越え、鎮西を目指す。
現在の平家の本拠は八島。そこに行宮を設け、幼帝が鎮座していた。
これを助ける鎮西の勢力と分断するのが、まだ西国で水軍の当ての無い鎌倉軍の戦略であった。
水軍については、先遣として西国へ入っていた土肥実平と梶原景時が担当しているが、西国にはまだ平家に協力する者が多く上手くいかない。これは逆から見ればに、平家の下には十分な水軍勢力が確保されているのと同義であった。
その為の鎮西への前進であったがしかし、備前国に至った鎌倉軍は、山陽を通る上で素通り出来ない要害に打ち当たる。
島の点在する藤戸(ふじと)(※1)の浦。その一つ児島(こじま)に城を築いた平家は、播磨守(はりまのかみ)平行盛(たいらのゆきもり)にそこを守らせていた。
船が無ければ数町向こうの島になど手は出せない。頼景は馬を水に浸けてみてはやはりだけだと戻すなどを繰り返していた。その側で太郎は泳ごうとする動きを見せる。
「胴丸を着込んだままでは沈むぞ。あと裸で泳ぐのも駄目だ」
当然、尾の露わになる裸で泳ぐ気など彼女にも無い。何より水が相当冷たい、無理だと諦める。
「ヲフー」
じゃあどうしようかと太郎が嘆息すると、頼景も同じく嘆息する。
それを考えるのは首脳陣の役目であったが、そちらも船が無ければ、策の立てようが無かった。
本営では軍議が続くが、船が無ければただの寄り合いに近い。ああだこうだと話しては、やはりどこかから船を、となる。
範頼も他の大将も、何度も繰り返してお定まりになったこのやりとりに辟易していた。
「蒲殿、やはり上空より偵察してみたいのですが」
射命丸が耳打ちをする。
彼女はこの辺の海底が浅いことまでは確認しており、もしかしたら児島へ前進出来る経路があるのではと期待していた。
「いえ、それは後の手段です。人の目が多すぎます。いよいよと極まったら、その時は」
「はい」
太郎にもこれを伝えて視させたが、彼女には水中は上手く見通せないらしく、危うく頼綱が馬ごと溺れそうにもなっていた。
もう糧秣も大夫消耗している、余り悠長にもしていられない。やりとりはお定まりでも、諸将の焦りは日に日に募っていたのだ。
ここで、時は熟したと見た一人の将が声を上げる。
「明日、我らに先陣を任せて下され、たちどころに児島の平家を平らげてご覧に入れましょう」
そう言ったのは、頼朝の伊豆配流時代から仕える宇多源氏(うだげんじ)(※2)の一族、佐々木盛綱(ささきもりつな)であった。
兵力で言えば平らげるという言葉は全くおかしくない、児島の平家には五百騎ほどしか無く、対して鎌倉軍は数万を数える。それであっても攻められないのであるから、兵船が無いというのは致命的であった。
彼はそれを覆すというのだ
「では、いずこかから兵船を調達する当てが出来たのですか?」
範頼が問うと、盛綱は笑い飛ばす。
「それが出来れば苦労は無いでしょう」
「佐々木殿、先陣とは言うが攻め寄せる術も無しに如何な戦が出来ようか」
隣りに居た和田義盛も当然の疑問を投げかける。
「まあ見ていて下され、まずは我が手勢を汀に並べ、そこから先は平家の動き次第でどうとでも」
何らかの秘策を匂わす盛綱。無理な作戦をしてあたら兵を死なすのは範頼も避けたいし、今後の糧秣の不安もある。
「それは、確かなのですね」
「参州殿、拙者らは貴方が御厨にある頃よりずっと武を研き、戦場を駆けて来たのですぞ」
それ以上は要らぬ事を言うなと、言外に含める。
これには範頼も少し苛つき、射命丸は本人よりも憤る。鼻につく態度に、諸将の中にも憤る者が若干居た。
それでも範頼は、射命丸を飛ばすという決心をする気は無かった。
明くる日、汀(みぎわ)に十数騎を並べた盛綱の姿があった。
馬で渡海を図れば、すぐさま児島から戦船が漕ぎ出し、矢の雨を降らすであろう。そうでなくとも遠浅で波が高い、矢にやられる前に溺れる。
鎌倉軍全体から見たら大変小規模ではあるが、盛綱ほどの将が討たれれば一大事。範頼は彼らを見守る。
「蒲殿、やはり――」
「堪えて下さい」
盛綱らを見据えながら射命丸の申し出を却下する。二陣では太郎や頼景も待機していたが、出番は無いであろうとたかを括っていた。
しばらくすると、児島から戦船が漕ぎ出して来て、矢を射始める。浜まで届かぬ程であるが、挑発代わりの鏑矢の鳴らす音が、誰にも耳障りであった。
それに耐えかねたのか、盛綱が先頭を切り、手勢らもそれに続く。
「そんな!」
ここまで考え無しの吶喊(とっかん)だとは、誰も想像だにしていなかった。範頼は慌てて盛綱らに転進の命令を叫ぶ。
「何をしている! それでは渡れない、退けっ!」
鬨(とき)の声を上げるのは僅かに六騎。範頼から、更に数人が叫ぶその指示は聞こえているはずである。盛綱は意図的に範頼らの叫びを無視していた。
常ならば既に馬の足が海底より離れている頃。だがその脚の落ち方は、渡河作戦時ぐらいに留まっている。確かに、これならば兵船の矢などにかかずらわずに進めるかも知れないと、諸将は見ながら思った。
しかし何故。その答えの半分に射命丸は気付く。
「そうか、大潮」
「大潮ですか?」
「はい、今日は新月であります。であれば、干満の差が大きいのです。月の中で二回だけ現れる浅瀬があるのではと」
成るほどと範頼は納得すると、先程の命令を撤回してすぐに前進を命じる。
「第一陣! 佐々木隊の後を辿って前進せよ! 必ずその足跡を辿れ! 第二陣は前進準備!」
言われ、一陣は即前進を開始する。ただしたった六騎が通った場所は極めて狭隘で、吊り橋を渡るのと大差が無い。
それでも順次送られて来る騎馬には、平家兵船の対応はもはや飽和していた。何より遙かに大量の矢が、彼らに襲いかかり始めたのだ。
それは船上の隊だけの話ではなかった。
児島では既に、盛綱以下六騎が獅子奮迅の活躍を見せ、対応の遅れた行盛以下児島の平家勢は、船をひっくり返しながらほうほうの体で城から逃げ出して行く。
辛うじて踏みとどまっていた行盛も、次々と送り込まれる兵を見て撤退して行くのであった。
結局当地での正面切っての戦は、結果を見れば圧倒的な勝利で終えたのである。
∴
勝利が確定した時点で送り込まれる隊は局限され、二陣以降から戦闘態勢より下げられていった。
干潮の間に藤戸の汀まで返して来ようとする盛綱の隊、これは当然讃えられるべき者達。のはずであった。
だが、再び渡海を始めた彼らに、異変が襲いかかる。
《返せ……》
くぐもった男の声。殿の一騎はそんな声を聞いたと同時に、一瞬にして海に引きずり込まれる。
「どうした!?」
盛綱が気付き、振り返る。
《戻せ……》
また一騎、消えた。
汀と児島の中間辺りでの異変、なんとかして進むしか無い盛綱達。
陸の方でも異変を察知していた。特に本営の射命丸、そして二陣に居た太郎達が。
「蒲殿、水の上を征くぐらいは許して頂けますか!?」
「はい!」
「ヲフ!」
「待て、俺も行く」
物怪の仕業、彼ら彼女らはそう判じた。殊に射命丸と太郎の二人は、それに関わりのある妖の存在に気づいていた。
大気に刺激臭を伴う妖気が満ちている。
わざと脚を水に浸けながら駆ける射命丸。そして強引に駆ける太郎、後に続く頼景。
辛くもその魔手から逃げ延びた盛綱隊とすれ違い、その怪異の正体を見極めようとする。
「オーム ヴィシュラ マナーヤ ソヴァハ!」
悪鬼調伏の真言を海に向かって唱える。するとその者は水底より正体を現した。それは漁師であった、ただその胸に刃で突かれた跡があり、己が首を小脇に抱えているが。
「またこの手合いかっ!」
射命丸が独鈷杵を構え、法力を込めようとすると、その側面を光の飛礫が遅う。
「現れたか!」
海の上に、奴が立っていた。
射命丸と同じく飛行自在の天邪鬼、天と地を、海と空をひっくり返しているからそう出来るのであろうか。その飛行の原理はともかくと、法力を向ける先を変える射命丸。
「オーム マユラ キランティ ソヴァハ!!」
片手で印を組み、今度は調伏どころではない、殲滅の一撃を放つ。手応えが射命丸の手に返る、だが効果が見えない。
「どうした小鴉、そんなものか?」
歯を鳴らして再度の一撃を加えようとする射命丸、ふと背後の気配に気付く。
「しまった!」
屍の漁師が射命丸を引きずり込みに掛かっていた。対応が間に合わない、やられる。そう射命丸が思った刹那、漁師の胴が横薙ぎに真っ二つに絶たれた。
《憎しや、佐々木、恨めしや……》
「畜生が、邪魔をしやがって」
「ガウッ!」
太郎はそのまま返す刀を浴びせようとする。海上だろうとその脚はお構いなしに跳ねる。だが大太刀の切っ先は僅かに届かない。
「ケケッ、次だ次、今度こそ、楽しみにしてな」
言い残して塵風の中に姿を消す天邪鬼、一瞬にして上空に飛び去って行った。
追おうとする射命丸、だが――
(あれが通じないんじゃ、どうしようも無い……)
空を飛ぶ術も無い太郎も、同じく黙って見送るほか無かった。
∴
汀に戻った盛綱に待っていたのは、功績を称える声だけでは無かった。
射命丸は沈み行く屍の言葉を聞いていた。間違いなくそれは、盛綱への怨嗟(えんさ)であった。
「一貫坊殿の法力は確かです、それに我が郎党の当麻太郎もそれを聞いていました。佐々木殿は一体、何をしたのです?」
「先の海上の道を漁師より聞き出した後、機密保持のため、切って捨てた。それだけのこと」
諸将の間に僅かにざわめきが起き、範頼は顔を青くする。
「勝利のために、土地の者を殺したのですか!?」
「御厨の住人の貴方には分かるまい、勝利を掴むためにはこういう犠牲も必要であるのだ」
未だ態度を改めない盛綱。そこに常光が声を上げる。
「佐々木殿、その様な法、頭殿のお側に仕え続けた私でも、聞いた記憶はありませんよ?」
「金王丸殿」
「いえ、むしろ非戦闘員に手を出すなど言語道断。海戦に在って水主(かこ)(※3)を射る事すら、咎められる所業でありますのに」
徹底した軍紀の下に源氏の一党を纏めて来た源義朝の規律を語り、盛綱を諭す常光。
「そんな甘いことでは、勝てませぬ」
「だから、頭殿は討たれた、とでも、仰いますか?」
先んじて、断じて言えぬ言葉をぶつけられ、盛綱は沈黙する。
「御大将、恐れながら申し上げます。此度の佐々木殿の所業、看過出来る物ではありますまい。ですが、ご郎党共々上げた戦功は大であります。何卒、寛大なご沙汰を」
範頼はしばし思いを巡らせ、下す。
「佐々木殿の功は讃えられるべきものです。しかし、その為に無辜の民を死に至らしめたこと、それはそのままにしておけません。当地に於いてその菩提を弔うことを命じます」
「はっ……」
常光の説得に既に折れていた盛綱は、範頼の言いつけを受け容れるより他無かった。
ただの一合ではあったが天邪鬼との再戦を果たした射命丸。必殺のはずの法力すらもが通用しないことに驚き、思い返していた。
決して己の力不足では無い、その自負があった。絶対的に、奴が余りにも強くなりすぎたのだ。
それにも増して気がかりなのは奴の企て。二度に渡って屍を動かしにかかるなどとは。あれらは何かの実験のようにも射命丸には思えた。
発端はたまたまではあったにせよ、止ん事無き方の側に奴は在る。その奴が企む事とは。
「歪曲と回天の妖……まさか」
奴が天とこの世と、皇統に恨みを持つモノであるのなら。射命丸は自身の予想が間違っていると願いつつ、ある思惟を確信に向かって進めるのであった。
* * *
児島の平家勢は八島へ退き、山陽の陸地に於ける平家の主たる拠点はほぼ消えた。
藤戸での戦いの後、後顧の憂いを除いた鎌倉軍は鎮西へ向かって進軍を続行する。
だが未だに兵船の調達の見込みが無く、先行きの見えない戦は、将兵らの精神を大きく消耗させるのであった。
第15話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 藤戸:現在の岡山県倉敷市藤戸に当たる地域。現在は干拓されているため陸地。史実では、範頼達は前進した後に補給線を断たれ、取って返して対抗している。
※2 宇多源氏:清和源氏の庶流では無く、宇多天皇(※4)の皇子を祖とする氏族。旧陸軍大将の乃木希典(のぎまれすけ)はこの氏族の末裔
※3 水主:船乗り、水夫、船頭などの事。水手とも言う。
※4 宇多天皇:貞観9年~承平元年(867~931)。第59代天皇、在位仁和3年~寛平9年(887~897)。譲位前後、菅原道真を政治的な意図で支援
(今回のモチーフは、謡曲『藤戸』。旧暦ではまだ年は明けていないが、この戦は西暦で1185年1月の出来事。月齢は創作で、正確には不明)
木ノ花 中編 一覧
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