東方二次小説

木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編   木ノ花中編 第3話

所属カテゴリー: 木ノ花、疾風に咲く木ノ花 中編

公開日:2016年04月14日 / 最終更新日:2016年04月16日

 十八./鬘物『熊野』(第129季,西暦1184年)

 舞台を見上げながら文は呟く。
「次の演目は『熊野』です」
 何の呼び掛けも無く、知っていますか等とも言わないまま。隣に座するヤマメへ暗黙の問い掛け。
 地底から怨霊が噴出した異変の時、この神社の巫女である博麗霊夢と連携して対応に当たった文が――実働は霊夢とその友人の霧雨魔理沙であったが――旧地獄跡に至る縦坑で先ず対峙したのが、このヤマメだった。
 文が当初気付かなかったほど、彼女の印象は大きく変わっていた。“あの後”何事かあったのか、全くの別人なのか、実のところ今の今まで量りかねていた。
 そのヤマメからの返事は無い。
 文は続ける。
「これは、平家物語における平重衡の海道下(かいどうくだり)の段(※1)を元に、謡曲として構成されたものだそうです」
 声音に一切の感情を込めない文の言葉に、ヤマメも素っ気無く、ただ「ふうん」と相槌を打つ。
「あらすじは、時の平家惣領、内府宗盛が囲っていた寵姫(ちょうき)熊野御前が、老いた母の病を知り、遠江国池田荘への帰郷をなんとか許されるという物ですが――」
 ヤマメが「ギリ」と歯を鳴らすのが文にも分かった。
「元の話はと言えば、一ノ谷で捕らえられ鎌倉に護送中であった前三位中将平重衡が、池田宿で歌を交わし合った相手が宗盛の寵姫であったのを知る、というものです。まったく、人間の想像力というのは逞しい」
 もっとも、その平家物語とて事実を伝える物ではない、ある程度の脚色がされた“物語”である。文はそう付け加える。
「そうだよね、寵姫だなんて。その話を書いた人達、熊野御前がそうだったなんて事を書いてるなら、子供が居たかとかそういうのは、気にしなかったのかな」
 先程歯を鳴らしたのとは裏腹に、ヤマメの声は落ち着いたもの。
 その言葉は、文が己から語るか迷っていた件だった。
 胸を締め付けられる錯覚を文は覚える。己も未だにわだかまりを持つ事であるからこそ、気持ちを押し殺している。彼女のそれはどれほどのものかと、推し量りつつ問う。
「ヤマメさんは、どう思います?」
「どうって、本人から聞いたから。重衡って人に助けられてたのも」
「やはり、聞いてましたか……」
 二人の話の中で、目の前で始まる物語の熊野御前と、ゆやという少女が交錯する。
 一貫坊射命丸が少女から聞いた、余りにも惨たらしい告白。
 文は今の答えから、ヤマメがそれを知っている事を認識し、しかしそれを確認するでも無く、今度は沈黙して舞台の上の椛を見守る。

 囃子の中、小面を被り唐織を着たシテ――椛が演じる熊野御前の横に、長絹を纏ったワキのこころが立つ。こころはワキを演じつつワキツレも演じる。そしてそのワキとは、平内府宗盛。
 舞台上、ワキが滑らかな運歩(はこび)で前に出て、床几に腰掛けて言う。
「これは平宗盛なり。池田の荘の熊野と申すを、久しく都に留め置き候。
 池田の荘に在りし老母の労りとて暇を乞い候えども、せめてこの春ばかりはと留め置きて候。
 誰ぞ在るか」
 こころはスッと下がると、今まで宗盛として座っていた床几へ向かい、蹲踞の姿勢を取る。この場では従者の役だ。
「御前に」
 またもワキに入れ替わり、こころは独演を続ける。
「熊野の来たりなば、こなたに申せ」
「畏まりまして候」
 こころは運歩で、また一旦下がる。
 ここで小面の椛が前に出で、謡い始めた。
「夢の間惜しき春なれや、夢の間惜しき春なれや、咲く頃の都の山吹を見ん」
「これは池田の荘司の御側に仕える木ノ花と申す女にて候。
 さても熊野の久しく都に御入り候が、老母の御労り給いてたびたび人をして御下り候わず、
 ここで木ノ花が御迎えに上がり候」
 熊野の従者、木ノ花なる者として歩み、
「この度の、旅の衣の日も添いて、旅の衣のひも添いて、幾夕暮れの宿ならん。
 夢も数添うかり枕、明かして暮らして程もなく、みやこに早く着きにけり」
 観客の中から僅かにヒソヒソという話し声が洩れ始める。本来なら上演中の私語などマナー違反で当然咎めるべきだが、ここはそうなっても不思議は無いのだ。全く知らない者が見ても何が違うのかなど分からない。知っている者からこそ、この様な囁きが出て来る。
 これを為したのは椛であろうか、それともこころであろうか。いずれにせよ、いくらか大きな改変がされているのを文も認識する。そして、これで良いのだとも思う。
 本来の『熊野』の中では、『朝顔』という名の侍女が現れる。代わりに今そこに居るのが、椛の演じる『木ノ花』だった。
 椛は、今までこころがしていた様に、そこにツレの存在を残しつつ、面を若女に変え扇を手に取る。その面は熊野御前を表す物、彼女も一人二役を演じていた。
 旅を終えて京に着いた木ノ花は、すぐに熊野の下に参じ、池田荘の母が病の様子を伝える。
 熊野は故事古歌を引いてまで、宗盛に暇を求めるが、宗盛はなんとしてもと熊野を京に留めようとするのであった。
――謡曲の作者の意図としては、宗盛が如何に熊野を愛していたか伝えたいのであろうが、文もヤマメも無論椛も、真実がどうであるかは知っている――
 それよりも桜狩りをと、宗盛は熊野を牛車に乗せ、花見に向かう。
 そこでワキは物着(※2)をし、ゆったりとしていた長絹から、隙の無い折り目の付いた狩衣に装束を替える。誰か別の人物に成り代わったのだ。
「さても兄上は、下向を願う女を御執心からなおも留めたり。何を思うか、涙に伏し沈む悲しさの見ゆる事、あわれなり」
 新たな人物が熊野の前に進み、熊野に向かって問う。一体何をそれほど悲しむのかと。
 ここで熊野が歌う――



 一ノ谷での戦の後、捕虜となった者の多くは京に送られていた。しかしその中でも特に高い地位を持つ人物、生田口で鎌倉の大手勢と真っ向から対峙した重衡は大手勢の幕府――範頼が座する本営に留め置かれながら、丁重な扱いを受けていた。
 太郎が景季を救援しつつ、無理を押してあえて重衡を捕らえた理由。頼景は戦の後それを太郎から伝えられ、範頼には射命丸から伝えてられている。それがあったからこその対応であった。
 大手勢の総大将範頼が彼に礼を尽くす事自体は不思議ではなかったため、これを咎める者は無かった。
「本三位中将殿におかれましては、この様な無体な扱い、平(ひら)にご容赦下さい」
 言いながら、床几に座する重衡に対し、水干に烏帽子を被った範頼が蹲踞になって更に頭を下げ、頼景がそれに続く。二人とも帯刀はしていない。
 それを受けた重衡は、ふっと笑みを浮かべて応じる。
「お体を上げなされ。囚人に頭を下げる必要などありませぬぞ、蒲御曹司。ところで――」
「はい」
「ゆやは、今どうしておられますか?」
 範頼の貌が陰るのを頼景が、また重衡も見て取る。そして彼の問いには、頼景が「僭越ながら」と前置きして答える。
「三位殿。ゆやは今草津の宿に居るのですが、残念ながら御曹司は、未だゆやに会う事、叶っておりませぬ」
 重衡は少し驚くと、すぐに無念そうな表情を浮かべ、
「そんな、あんなに蒲御曹司に会うのを楽しみにしていたのに、何事かあったのか……」
 先程までの余裕のある様を潜めて言葉を詰まらせた。
 やはり彼は太郎が伝えた通り、ゆやを救った人物だ。二人はそれを改めて認識する。
「いえ、京から馬に乗って草津へ行ったぐらいですから、その身は無事ではあるのです」
 頼景が続けて答える。これは事実であり、範頼に対しても謀るでなく言った事であった。だが何が本当の問題なのか重衡は知っている事であろうと、頼景は察していた。
「そうか、お主がゆやを。であれば、お主が相良次郎殿か?」
「はっ、それはゆやが言ったのでしょうか、しかし少々誤りが。家の事情で次郎より四郎に改めさせられましたので。申し遅れました、拙者、蒲冠者に仕える遠江国相良荘の国人、相良四郎頼景と申します」
 それを聞いてまた、重衡は穏やかな表情に戻る。ゆやは己の事はどう言ったのだろうかと頼景は考えた。そして範頼も、彼女の事はひたすら思いつつも、先般まで強敵として立ちはだかったとは思えぬ重衡の振る舞いを不思議に思った。
「三位中将殿、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんなりと。私の事はただの重衡とお呼び下さい」
 どうせ官位も何も剥奪されるのだからと、落ち着いて言う。範頼には益々不思議だった。本当にこれがあの横暴極まる平家の者、それも宗盛の弟か。何より、南都で衆徒や大衆を多くの寺社と共に焼いた者かと。
「私も、皆より蒲殿と呼ばれておりますので、そうして頂ければ。では重衡様、改めて伺います。重衡様は南都焼いた大悪人と聞いておりました。しかしゆやの事を救っても下さった。ですがまたこうして我々と敵対し、ここに居わします。故に私は、重衡殿をどう遇したものか迷っております」
 途中頼景が小声でたしなめるが、それを無視して範頼は言い切り、重衡はしばしの沈黙の後これに答える。
「そうですな。それらは一貫しない事柄かも知れないが、私としては一つの意思の元での行動に相違無い」
 南都への攻撃はあくまでも軍事行動であった、これは武家である故当然、しかし衆徒も大仏殿も焼いてしまったのは許されぬ事であろうと認識している。
 不法に囲われた者達を助けたのは、来世、無間地獄に堕ちる己の行く末が定まっていたとしても、現世にある限りは徳を積もうという心からの行動であり――
「そうであっても、やはり武家である以上、戦に出て戦う事は生来よりの業であります。例えそれが、ゆやの思い人を敵とするのであっても」
 思い人とは己の事か、ゆやはその様に語ったのか。範頼は、彼女が余りにも不甲斐ない自分をそう思っていてくれた事を知り、苦しくなる。
 もし重衡が居なければ、彼女はどうなっていた事か。
「ゆやは重衡様の事を信頼していたのですね。しかし見ず知らずの者達のために、なぜそこまで」
「私は、私に出来る事をしたまで。戦にしてもゆやの事にしても。裏返せば、内府の横暴を間近で見ながらも、その程度の事しか私には出来なかったのだ」
 それを言えば己はもっと酷い。範頼はうつむき、苦渋の表情を浮かべる。
 己は唯一彼女を守るべき者であったのに、それが叶わず、誰かの力を頼ってしかここに来られなかった。頼景と太郎、次長に頼綱、常光、頼朝や義経ら異母兄弟、鎌倉の将兵。そして何より――
「御免、火急の用件にてご無礼つかまつります」
 僧姿の射命丸が、常光と共に陣幕を開いて現れた。
――何より彼女。範頼は一時の昏い思惟を止め、二人を招き入れる。
「どうぞ、お入り下さい。して火急の用件とは?」
「蒲殿、人払いはせずともよろしいのですかな?」
 すぐに話を求め始めた範頼に重衡が言い、はたとした貌を浮かべる範頼。頼景がそれに応じて重衡を案内しようとすると、今度は常光がこれを止める。
「御大将。これは左中将殿の処遇についての話なのですが、左中将殿にはこの場に留まって頂いた方がよろしいかと」
「しかし俺はいらんでしょう」
「頼景殿もですよ」
 頼景は少し面倒そうにしつつも、同じく残る。
「いち郎党がこんな話を聞いても、どうするもこうするも無いと思うのですがな。して、何が」
 改めて常光が話そうとすると、重衡がまた先んじる。
「何事かは察しが付きますな。院か南都の大衆(だいしゅ)が、私を引き渡す様に言って来ているのでしょう」
 常光が感嘆し、射命丸は眉根を寄せる。その通りだというのは、三人の男達にもよく分かった。当然と言えば至極当然の事であり、京に後送すれば問答無用にそちらに身柄を持って行かれる恐れがあったからこそ、重衡を今こうしてここに居させているのだから。
「大衆の求めは俺でも分かりますが、院が?」
 大衆の理由などは極めて分かり易くで、南都を焼いた男をとっとと斬罪に処し、首を晒してしまおうというもの。それよりも複雑なのは院の方。
「それは私が」
 今度は射命丸が答える。
「院は神器の奪還をご所望なのです」
 これを聞いて、頼景もすぐ納得した。
 帝の践祚には神器は絶対不可欠。今も正式に即位した幼帝が平家の元に在り、神器もそこに有る。
 京では院が――その選定には幾人かの思惑を含みつつも――擁立した新たな幼帝が居るが、神器を欠いた即位であったし、今上(※3)が禅譲の意思を表す訳も無い。正当な帝の身はまだ平家の手の内にある。
「では重衡殿と引き替えに神器と玉体の還御をと、院はその様にお考えなのですか?」(※4,5)
「はい」
 確かに重衡は、今回の戦で捕らえられた中でも最も位が高く、宗盛にも近しい人物である。もし交換を考えるならば、これ以上の人物は居るまい。半ば分かっていたことではあるがと、範頼は頭を振りながら言う。
「たとえ院のお言葉でも即答する訳にはいきません。我々はあくまでも、鎌倉の軍であります故」
 実のところ、今ここに彼の身柄を留め置いているのは、何もゆやの恩人だからという理由だけでは無い。範頼達は軍事的な全権を鎌倉より得ているが、この様に重大な政治的決定権は、与えられていない。
 特に地位の高い囚人の処遇については鎌倉――頼朝の判断を待つこととなり、現在論功行賞のための戦闘詳報と共に、そちらを諮(はか)る書状が鎌倉へ走っている。
「無論、それはその通りと。あくまで拙僧の予想ですが、鎌倉殿としても左中将殿の身柄はこちらに置くべきと考えているかと」
 動機は院とそう変わるまい。渋い顔の範頼や頼景と裏腹に、当の重衡は微笑みながら言う。
「内府がそんな殊勝な人間なら苦労はせぬな。玉体と神器いずれかが大事なのかと問われれば、恐らくは神器と答え、その上何より己が身の大事なお方だ」
 神器が大事。なるほど、それは皇統その物と言っても過言では無い代物。今上の身より大事というのも道理。射命丸はそう考えながらも、ふと思い浮かべる。
「本三位中将殿。小僧は一貫坊射命丸と申す蒲御曹司に仕える僧にございます。一つだけ、お伺いしたいのですが」
「貴女が一貫坊殿か。重衡と呼んでくだされ、なんなりとどうぞ」
 重衡はまた表情を柔らかくして応じる。
「重衡殿、内府はいつ頃より神器を側に置きたがっておられたのですか? 今の身の安きを得るための道具として以外、何かしら特別な執着があったとかは」
 頼景がこれを聞いて眉をひそめ、「もしや」と、続く言葉に耳をそばだてる。
「内府は神器を人質以上の物として見ているのであろうと、そうは考えていたが。いや、何か特段の事と言われれば、その兆候が無かったでもない」
「何かに取り憑かれていた様な、そんな素振りは?」
「一貫坊殿!」
 頼景が慌てて止めるが、その彼を範頼が制し、射命丸には続けるよう目配せで促す。
 頼景の並ならぬ態度は目に止めつつも、重衡は射命丸の言葉に答える。
「どの様な事情か分からぬが……取り憑かれた、か。ありそうな話、いや、本当にそうかも知れぬ」
 重衡はよくよくと思い返せばと前置きし、宗盛が内裏でそういった態度を取っていたと語る。
 しかし例え平家が皇統と繋がりを持つことになったとはいえ、侍従でも無い者が神器をみだりに取り扱うなど出来ない。都落ちという一大事に際して遂に、それが持ち出されたのだ。
 それ以前の直近では、福原遷都の際に内裏から外に出たが、その際は行幸と言われつつの実質的“遷都”であり、今の様な状況とは大きく異なる。
「一貫坊様。私には、一貫坊様の考えが何となく分かります。一貫坊様が懸念されるのは、奴が神器や玉体を掌握し、皇統に疵を付ける事でしょう? ですが、通常用いられる賢所(かしこどころ)や神剣はいずれも形代です。それでは――形代ではそれを成すには不十分なのでは」
 範頼が察しながら問い掛ける。
“奴”即ち天邪鬼が皇統にとって極めて重要な神宝を奪い、幼帝の身のみならず皇統そのものを害そうとしているのだと言う。それを宗盛にやらせたのだと。
 射命丸は強く頷いて、まず肯定してから答える。
「はい、私の考えは正にその通りです。補足しますと、術には類感(※6)という考え方があります。形代をして実体への害を逸らす事もあれば、逆を行う事もあるのです。それに目的が本当にそうなら形代でも十分であります。特に、神器の様に強い因果を持つ物同士であれば」
 二人の間にだけ言葉が飛び交うが、遺された男達は要領を得ない話に苦笑したり首を傾げたりしている。特に頼景はさっぱりといった様子。
「失礼、一貫坊殿。故相国入道以下、我が一門は徳子様――建礼門院が国母となる事で、皇統に係る者になったのだ。それを内府が? 一体彼に何が取り憑いたと言うのかな?」
 重衡は宗盛と同様、国母(※7)たる徳子(とくこ)と同じ母を持つ。これ以上はどう言っていいものかと、勢いに任せて吐いた言葉の迂闊さに射命丸は気付く。
 一時言葉に窮した彼女に代わり、範頼が答える。
「遙か遡って神代より、皇祖に恨みを抱く者。そんな物怪が、存在するのです」
 鎌倉での雑談の中で範頼が語った話の一つ、箱根の山で頼景が語ったのとは異なる、天邪鬼の本性。頼景らもそれを聞いて、なるほどとそれぞれに呟く。
 重衡は神代とはまた大層な事だと苦笑しながらも、射命丸の心底を見ようと視線を交錯させる。
「一貫坊殿、短気はならんぞ」
 頼景が牽制して言う。彼女が己らに見せた事をまたやるのではないかと、心配しているのだ。
「小僧が鴉天狗だと言って、左中将殿には信じて頂けますでしょうか?」
 頼景は顔に手を当て頭を振り、重衡はきょとんとして目をしばたかせ、次に愉快そうに、静かに笑う。
「なんと、妖とはどこにでも居るものなのだな。御伽草子もかくやと言うほどに」
「重衡殿、一貫坊の申すは誠にございます」
 その態度を嘲笑と受け取ったのか、範頼が言い添える。すると重衡は笑いを鎮めて穏やかな様子に戻る。
「これは失礼。いや、そういう縁に思うところも少なくないので、つい可笑しくなってしまいましてな。それにしても一貫坊殿はお美しゅうございますな、これも妖であるが故でしょうか」
 笑っていたのにはともかく、後の句に対しては唐突に何を言い出すのだと、どぎまぎする射命丸。範頼は逆に、何故か先程より毅然として言う。
「重衡殿、確かに射命丸様はお美しいですが、あくまで僧身故、御身に供するなどお控えさせて頂きたい」
「蒲殿まで何を言い出すのです!? そうだ、ゆやから聞いております。左中将殿はそうやって城中で女子をおだてて後押しして、世話焼きしたりするなどと」
 彼自身の人柄と、程良い具合に言葉巧みな事もあってか、大内裏に在った時は自然と女官などが彼の側に集まって来ていたと聞いていた。射命丸は、今のも彼の常套句なのだろうと、心を落ち着かせる。
 頼景などは、のろけも何もどうとでも、もう諦めた、好きにしろと呆れ顔。射命丸は居住まいを正し、改めて話し始める。
「さておき、小僧が天狗であると信じて下さるのでありましょうか?」
「左様」
 おどけた調子をすぐに潜め、真剣な眼差しで応じる重衡。それを見た射命丸は、彼が信じられる者であると確信する。
「しからば続きを。数年前、宗盛卿が遠江国へ長逗留した事はご存知でしょうか」
「……北の方(※8)を亡くされ、傷心の内にあった時の事だな、どうも公に出来ぬ旅であった様だが。そうか、ゆや達を京へ召し上げて来たのもその時か」
「小僧はその時、当地秋葉山の寺社の権現より直々に、悪行を繰り返す物怪の調伏を仰せ付かり、国府の在する磐田の見附天神に向かったのです」
「そして、その物怪が取り憑いたと」
 重衡は調伏に失敗したのか等の穿った事情には言及せず、今の話に関する点についてのみ問う。
「はい、天邪鬼なる物怪です」
「天邪鬼、ですと」
 彼の知識にはそれがあるのか、少し驚いた風に聞き返してから、顎に手を当て考え込む。
 ここで範頼が、情報の共有をしようと説明する。
「この――我が郎党相良四郎は、天邪鬼を[天から堕ちて来た、山をも築き壊す巨人]と語り、私は[皇統に恨みを持つ妖]と識(し)っておりました。重衡殿はこの妖を、どの様に認識されておられるのでしょうか?」
「……天邪鬼、歪曲と回天の妖。誰かが、その様に言っていたと記憶しています」
 その言葉に射命丸はハッとする。それは――商人入間善吉として横見に出入りする――天狗、御岳の桜坊が彼女にもたらした言葉そのままであった。
 桜坊は広汎な者達がこの事態の推移を見守っているとも言っていた。そうした者の中に、殿上人までも居るであろう事が察せられた。
 重衡は思い出した事を続ける。
「本当に何気ない雑談の中での事でいつかは失念したが、聞いた記憶がありますな。御伽話の一節かと思っていたが、内府ともあろう者がまさかその様な者に」
 否、と彼は軽く首を振って、また言う。
「思えば内府――兄上は、いつも腐っていたな。叙位も昇叙も早かったが、父上や母上には温かくされるどころか冷たく当たられて。その様に培われた性分が、件の妖の付け入る隙を作ってしまったのかな」
 重盛という次代を期待されていた兄、多くの重要事を任され遂行した重衡、今も病を押して軍事面で平家を支えているであろう知盛。そのいずれとも――その他の兄弟らよりも、宗盛は遅れを取っているのだ。
 生来の気質。それを克服する事も、あるいは高める事も出来ない故、そう扱われてしまったのであろう。
 たまたま平家一門であったから昇叙し、そう生まれてしまったから軍事の建制の如くそのまま後継者となった。宗盛とはそういう人なのであろうと、重衡が口には出さずとも居並ぶ者は感じ取った。
 清盛の暴虐無尽とも言える行いには彼なりの理合(りあい)があった。しかし新たな惣領宗盛の行いには、殆どと言っていいほどそれが無い。
 たった今天邪鬼の件を聞いた重衡は、それらの行い全てが奴の仕業である事を祈ってすらいた。
「蒲殿、申し訳ないが私には妖の如何などは分かりませぬ。これについては力になれそうには無い」
 重衡が心からすまなそうに言うのに対し、範頼は彼が真面目に受け取ってくれるのを有り難いと思いながらも、やはり不思議に感じていた。
 重衡は話を戻そうと――射命丸の言伝の先――己の身を如何にすべきかを、範頼への助言も兼ねて言う。
「今は兵衛佐殿のご指示に従うが、適切と思われる」
 その先で、己が院御所に連れられようと鎌倉で梟首されようと構わない。先程とうって変わって浮き世から離れた微笑みを浮かべている。
「本三位中将殿、誠に僭越ながら――」
「重衡と、頼景殿」
 名で呼ばさせるなど、いつも自分がしている事を重衡にされ、恐縮する頼景。それを押して改めて言う。
「重衡様、度々いち郎党の身で僭越ながら、拙者も、恐らくは蒲御曹司も御身の無事を願っております。何卒、短慮はなされませぬよう」
 妹も同然のゆやを救ってくれた人物。敵ではあったがそれを知った今は、その身の安泰を願う心が湧いている。それに、いくら戦場で敵味方と別れて切り結ぼうとも、個々人互いに恨む気持ちなど無いのだ。
「私も頼景殿と同じく思います。出来る事なら、貴方の身をお守りいたしたい」
 これに重衡は、笑みを浮かべたまま厳しく答える。
「蒲殿、大将たる者にとって、その様な甘い考えは愚かと同義。それはいずれ一軍を滅ぼしますぞ」
 範頼は言葉を詰まらせる、これが武将というものかと。宗盛始め公家然となった平家にあって、この様な人物が戦いを支えて来たのかと、皆もただただ感心する。しかし、彼の様な人物はもはや僅かであろうとも、同時に思う。
「急ぎ、鎌倉殿に院の御意向を加味した上、命令を請いましょう。一貫坊様、準備をお願いします」
「はい」
 射命丸に命じたのは飛んで書状を運べという話では無い。上洛からこちら、範頼が文書を発簡する機会も増えたため、彼女が祐筆を務めるようになっていた。
 射命丸が支度をと一旦陣屋の外へ出ようとすると、その目の前に、侍烏帽子が乗った白髪頭と、もう一つ別の大きな影が現れた。
「太郎、何故ここに――と、この馬は何だ?!」
「ヲフ……」
 濡れた様な深い褐色の馬体、美しい黒鹿毛の馬がそこに居た。引き綱は太郎が取っているが、彼女が連れて来たと言うよりは連れて来られたという雰囲気。
「太郎ですと?」
 重衡と範頼に非礼の詫びを入れてから、頼景も陣屋の外に現れ、
「頼綱との留守を任せていたのに、何があったのだ」
 その馬に見とれつつも太郎に問う。
「クゥーン、ヲフ」
 取りあえず身振り手振りで伝えようと試みる太郎、陣の内を示したり馬を指したりとする。射命丸がそんな事では分からないだろうと訝しむ横で、頼景が得心して手を打つ。
「この馬が左中将殿に会いたいと、そういう事か?」
「ヲン!」
 何故それで分かるのだと射命丸でも驚く。すると太郎の声を聞き、陣幕の内から――
「ん? この陣には一貫坊殿の他にも女人がいらっしゃるのかな?」
 またも浮き世に戻った風に、楽しげに言う重衡。太郎の鳴き声を正しく女の物と理解していた。
 範頼らは、彼に正室も居り仲むつまじいとの評も聞いていたが、また先程とは認識が一転、それが本当なのかと疑わしく思ってしまう。
 重衡は立ち上がり、声の主を一目見ようと現れ、そして驚く。太郎にも、黒鹿毛の馬にも。
「お主はあの大太刀の徒武者……当麻太郎殿か! それに影身(かげみ)、よくぞ……!」
 影身とは一体何者か、範頼と常光も続いて出でる。
「いやはや、まさかあの武者が女とは。木曾殿の下に在った女達も百人力の大力とは聞いていたが」
「木曾殿の女達はともかく、此奴に相手ではさしもの重衡殿でも致し方の無い事かと」
 頼景は思う所を一つ二つ潜め、太郎の侍烏帽子を脱がせる。露わになった山犬の耳を認めつつ、重衡は言う。
「なんと、当麻殿も……そうか、さすれば、もしやそなたは、ゆやが話していた山犬か」
「はっ、宗盛卿に攫われたゆやを救わんと一貫坊殿と共に卿の牛車を追い、奴――天邪鬼に射られました。それが天上におわす方々の仕業か、ここに居ります」
 射命丸はこの言葉に身を強ばらせ、太郎の方に視線を向ける。あの事を太郎は恨みに思っているだろうと。しかし太郎は素知らぬ顔どころか、それには感心すら無い風に頼景の話を聞き流している。今の感心の対象は、――自身が生け捕った――ゆやの恩人の重衡。正体を知った彼が、己をどう思うかであった。
「そうか、どんな形であれそなたが参った事、ゆやも喜んだ事であろうな」
 その彼は、太郎が妖である事も彼女に打ち負けた事も、さほど気にしてはいなかった。
 まるで今まで会った人々の好ましい所を一点に集めた様な人物だと、太郎だけでなく射命丸も思う。ただ、聖人では無い。
「もし当麻殿に守って頂けるのならば私も安心だ」
 下心がありありと見える顔で言う。女に優しいのはよく分かるが、いかんせん過ぎる所もあるらしい。
 これには頼景が否と答える。
「いや、此奴を左中将殿になどにとは誠に足りぬ事。もっと相応しい女子が――」
「グルルル……」
 太郎の唸り声を聞いて頼景は脂汗を流す、本気だ。本当に冗談が通じない奴だと、苦笑いで誤魔化す頼景。彼――と発端となった重衡――に嘆息しつつ、範頼は問い掛ける。
「重衡様、この影身なる馬、一体如何なる素性でありましょうか?」
 重衡は何かを懐かしむ風に目を細め、穏やかに言う。
「我が兄、新中納言知盛(とももり)の愛馬です」
 重衡が今“兄”と言ったとおり、知盛は紛れもなく彼の兄、宗盛と同じ同母兄である。そして平家一門でも最も武勇に優れるとされている。
 その馬がここに居る意味とは。それは常光が察して言葉を掛ける。
「本三位中将殿。不躾を承知で申しますが、将の愛馬が捕らわれて今ここに居ると言うことは、新中納言殿はもう……」
 馬は刀同じく武士と一体のもの、それがここに在る。もし知盛が生きていれば連れて行くか、先の戦の様に小舟などに乗るしかなくなれば、放って敵の手に渡るより殺そうとするであろう。
 常光の悼む言葉に、重衡は顔色を変えること無く答える。
「いや……影身がここに居る事こそ、彼の方の生きている証である。あの方は、兵馬をあたら死なせる様なことはせぬ。それが今まで己と共に在った愛馬であれば、敵の手に渡ろうとも生き延びることを望むであろう」
 また、もし知盛が死してこの馬を連れて行けないとなれば、周りの者は、やはりこの馬を殺したであろうとも彼は言う。
 範頼はここで、幾たびか思ってきた事を、またもつくづくと思う。やはり宗盛とは大違いだと。
 範頼が思い出すのはこの乱の発端、源三位頼政が以仁王を奉った事の、平家との確執の一因。宗盛は、頼政の嫡子仲綱(なかつな)から『木ノ下』(※9)なる名の愛馬を召し上げ、そればかりでなくその馬に大変惨い仕打ちをしたという。これは京に来てから知った事であった。
 そしてまた、その様な精強な人物が生きている。重衡には決して言えないが、これは鎌倉にとっての脅威であり、鎌倉の将としては喜ばしいことでは無い。
 範頼の思惟の向こうを見た様に重衡が言う。
「蒲殿には大変な無礼を申すが、中納言が生きているならば、たとえ我が身がどうあろうとも平家は盤石。さあ、急ぎ兵衛佐殿に、我が沙汰を仰がれるとよい」
 なんと清々しく言い放つのか、何故この様な人々と敵同士でなくてはならぬのか。範頼は残念に思う。そしてその心情に追い討ちを掛ける様に、重衡はまた言葉を重ねる。
「しかし蒲殿、何がどうあろうとも帝の、言仁(ときひと)様の身だけは、何卒大事にして下され」
「帝の?」
 あえて言われるまでも無いことではあったが、重衡の言には――不敬を押せば玉体という道具とも言える――ただ帝としての身を慮るという以上の思いやりが、その場に在る者達にも感じ取れた。
 平家は盤石などと言ったのとは真逆の言葉、いずれが真意なのかは誰にも量りかねる。
「それは無論の事であります。しかし何故、帝の身を殊更に?」
「……言仁様が践祚の折、この手の内で御衣(おんぞ)(※10)をむずがって妻が困ったのも、昨日の事の様だ」
 己が両の手の平に視線を落としながら、重衡は語る。
 彼の妻は藤原摂関家の女(むすめ)であり、それ故に幼帝の乳母となった。彼もまたその側に在って、皇子としての誕生から践祚、それ以降も、祭事等の重要事には常にその脇に控えていたのだ。
 範頼は思う。天子という身の、ただの親としては接する事の無い――いずれの今上にとっても――実の父であった高倉天皇よりは、重衡の方がよほどそう呼べる者なのかも知れない。己が幼帝ならばそう思うであろうと、自身の身の上と重ねる。義朝の子と言われるより蒲御厨の蒲清倫の子と、そうでなければ僅かな間であったが京で養育してくれた藤原範季の子と、そう言われる方が実感があるのだ。だが、天子といち武家の子では違うだろうと、己の思惟を否定して軽く頭を振り、重衡の言葉を受け止める。
「承知致しました、私の手の届く限りを尽くします」
 果たして己にどれだけの事が出来るのか。範頼は自身の力の不足は自覚しながらも、ゆやの恩人である重衡にはそう言わざるを得なかった。
 その不安の半分を頼景が拭う。
「重衡殿、蒲殿の周りには我らが控えております。平家には負けませぬ。そして、貴方を捕らえたよりも丁重に、帝の身は安堵してご覧に入れられるでしょう」
「なるほど、それは安心。しかし当麻殿の拳は痛うあったな」
 鳩尾をさすりながら愉快そうに笑う重衡。太郎以外の皆もそれに釣られて、今だけはと笑うのであった。

 範頼達は影身を太郎に引かせ、ゆっくりと自陣への帰途につく。
 道すがら、ぽつりと範頼はこぼす。
「愚鈍な兄という点では、私も似た様なものかも知れませんが……哀れなものですね」
 範頼にも、上を見れば頼朝が、下には義経が居る。
 ただお飾りで居るだけの己などは、先程の話の中での宗盛と大して変わらないのではないか。卑屈になるでも無く、あくまで冷静に自身を俯瞰してそう言った。
 射命丸も太郎もそうでは無いと言おうとするが、二人よりも早く頼景が振り返り、
「何を抜かすか。殴り合いでも学でも、剣でも兵法でもお主が内府に負けるなぞ想像できん。それに――」
 ちらと射命丸に視線をやってから続ける。
「妖を側に抱える度量も、側に置いている女に手を出さぬ辛抱強さも、宗盛なぞには無いであろう」
 いずれも射命丸と太郎に共通する話だが、今の言葉は射命丸に対してだけの事。頼景はそう意図して言ったし、範頼も、彼女自身もそう理解し――赤面している。
「おっと、のろけるなら俺の居ない所でやってくれ。後、ゆやの事も、忘れるなよ」
 一途である必要は無い。ただ彼女の事だけはたとえ何事があろうとも、もう二度と悲しい目には遭わすな。おどけながらも願いを込める。
 だが射命丸は、あくまでもと求める。
「何を言うのです頼景殿。蒲殿にはゆやだけですよ、ねぇ?」
「え、あ、はい」
 射命丸の勢いに押され、範頼もただ肯定するのみ。
「ヲフー」
 太郎はそれを見て、やれやれと言う代わりに思いっきり嘆息した。

       ∴

 鎌倉への報告や指示を仰ぐ書状を運ぶ早馬を追う形で、射命丸は草津の宿(しゅく)へ向かう。一ノ谷での戦を終えてはや十日、他の誰が無理でも己だけはと道を急いだ。
 そしてその後ろには――
「お前は蒲殿の下に居なくていいのか?」
「ヲン」
 太郎が続く。頼景達が居るから心配は無いと、彼女もそれ以上は応えない。
 射命丸にしても、太郎がゆやの所に戻るのを止めようとはしない。太郎が側に居た方が、彼女が安心するであろう事は分かっているのだ。
 ゆやの待つ宿へ着くと、二人を待っていたのか、彼女は一人、不安そうな貌をしながら往来に出ていた。
「ゆや、まだ具合もよくないのだから、こんな所に居ては……」
 身体の方はだいぶ落ち着いたことであろう、問題は心の方。特に今は多くの男達が行き交っている、そんな場所に居るのはよろしくないと。
「いえ、射命丸様が戻って来ると聞いたので、今日だけの事です」
 太郎も一緒に戻って来たのは望外の事だったと、なお嬉しそうにするゆや。宿の中に入りながら、射命丸は範頼達の健闘と無事を伝える。
「あの範頼様が、頼景様も、良かった……」
「それに重衡殿の身もご無事ですよ」
「ヲフ、ヲフ」
 討たせずに済ませたのは己の働きだぞと強調する太郎。ゆやはそれに微笑みで返してから言う。
「範頼様や頼景様達より、射命丸様や太郎の方が活躍したんでしょ? なんとなく、分かります」
「蒲殿は総大将ですから――でも、前線まで出て来られたとか、なあ太郎」
「ヲフ!」
「頼景殿などはもう言うまでも無く、そうだな?」
「ヲン!」
 宗盛の遁走を許し、今後も戦が続くことはまだ言い出せない。それに天邪鬼の存在も、彼女には明かせない。今この時ようやくひと心地ついたゆやの様子を見るに、それ以上は言い出せななかった。

 しばらくして下った鎌倉からの指示は、重衡を京に上がらせ、留め置くという内容であった。鎌倉はまず、院との関係を重視したのである。重衡の身柄は京へ送られると、城内を引き回された挙げ句、院御所へ召し出される運びとなった。これはやはり、神器返還交渉のためであった。
 重衡は院の求めに応じて宗盛と、実の母二位尼平時子(ときこ)(※11)に対しても文を送る。当然、宗盛が応じないと知りつつ。
 重衡が時子に文を出したのは、己が身の消息を母に伝えたいという孝行心からであったが、神器の返上が叶わないのを理解している彼女は、我が子の身の上を知り嘆くばかりであった。
 交渉決裂を以て院御所より鎌倉に身柄を渡された重衡。そして鎌倉は南都大衆の求めを退け、彼を鎌倉に上げる決定を下したのであった。

       ∴

 四国へ退いた平家の追討は成らず、鎌倉勢の大半は坂東へ戻る命令が下る。後は畿内に最低限の兵を置き、西国で盛り返しを図るであろう平家を牽制する。
 この決断は鎌倉勢の需品及び兵糧の具合と、西国の飢饉による被害の具合を勘案して下された物であった。それに板東での作付けの時期も近い。撤退軍の中には、鎌倉で一働きしようという果敢な公家や、その周辺の雑色や女房の姿もあった。
 結局ゆやと範頼は会う事無く、鎌倉軍本隊は凱旋の途に就いた。範頼にとっては心を裂かれるほどの事であったが、彼はそれを全うせねばならなかった。しかしゆやの元には、射命丸と太郎、鎌倉勢の一隊が付けられた。ただしそれを率いるのは次長でも頼綱でも、ましてや頼景でも無かった。
「土佐坊殿。出発の準備、整いました」
「ゆや姫も、宜しいですか?」
「ええもちろん、これに遅れたら後々大変ですので」
 先んじて凱旋した範頼らに遅れて一ヶ月余り、射命丸は後発の鎌倉勢の凱旋に伴い、常光の護衛の下、東海道を東進しようとしていた。
 彼女らの行く先は鎌倉ではなく、その途上の遠江。ゆやの故郷池田荘。
 自分の勝手で範頼との再開の機会をふいにしてしまったのを、彼以上に悔やんでいたゆや。せめて母の藤には顔を見せようと、帰郷を決心したのであった。
 この度凱旋する後発の鎌倉勢は、重衡の護送という使命を帯びていた。常光の隊はそこに同道する形となる。護送を奉行するのは、重衡の身柄を預かる土肥実平。それと、かつては囚人としてその実平に預けられていた景時が、隊を掌握する。
 景時の事だ、遅れれば待ってなどはくれないであろう。そうなれば道中は常光の手勢のみ。野盗や、万が一には平家の余党に出くわすかも知れないのに、流石にこれは心許ない。
 護送隊と動いた場合に重衡を取り戻そうとする輩が現れたりしないかと射命丸は不安になったが、常光が「これだけの軍勢に襲いかかれるだけの勢力は現在近国に無い」と言い、射命丸もこれを信じる事にした。

 常光が言った通り護送隊と帯同しての道程は順調で、伊賀から伊勢を抜け、尾張から範頼が国司として任命されている三河へ、半月も経たずに到着する。その半月の間にも、春の気配は梅に桜にと移り変わり、遠く見える桜は残雪の如く山を覆っている。彼方には本物の残雪を纏った富士の山。
 ゆやにとって生まれてからずっと見慣れていた霊峰。彼女は、本当に帰って来たのだと実感する。
 明日には遠江に入り、同日中には池田に到着するであろう。そこに至って、重衡が護送隊に対してある事を求めていた。
 まだ三位中将としての扱いを受ける重衡は、隊の中央で輿に担がれての移動。護送の実務は景時が負うため、担ぐのも主に彼の麾下(きか)の者。そのため、直接求められた兵の次にこの件を受けたのは景時であった。
「三位中将殿、恐れながら申し上げるが、貴方様は囚の身。斯様な願いは受け容れられませぬ」
「そうだな、千騎を超える兵馬を泊める宿を変えろなど、無理な相談であったな」
 無理を言ってわがままを通すかと思えば、あっさりと引き下がる。景時は意外に思い、何故その様な事を言い出したのかを尋ねる。
「遠江の池田に、あるお方を待たせておるのだ」
 景時もそんな言われ方をして分からぬほど鈍くはなく、女人であると察する。とは言ってもそれを叶えるべき立場にはない。
 実平に取り次ぐべきかと、珍しく迷う景時。そこへ早足で一人の僧が近付く。
「これは土佐坊殿、いかがなされた」
「いえ、拙僧がさる位の高い尼公をお連れしているのはご存じでしょうが、そのお方が池田にて行動を別にいたしますので、その前に三位中将殿にご挨拶差し上げたいと申しておりまして」
 ゆやの事は、京から下る尼僧の一人という扱いになっていた。そうでなくては、わざわざ常光が護衛に付く理由が無いからだ。
「ふむ、そちらも池田でありますか」
 景時はしばらく思案顔を浮かべてから、しばし待たれたいと言ってその場を離れる。
 輿の上に居るため、徒歩の常光とは言葉を交わす事が叶わないながらも、ちょうど良い時に来てくれたと重衡は目配せし、常光は微笑みで応じる。常光が折良くこの様な事を景時に言ったのも、太郎が重衡と景時が話し合っているのを視たからであった。
 一町、二町と常光が重衡の輿と並んで歩むと、景時が帰って来て、二人に進言の結果を伝える。
「土肥殿より承知との旨であります。国府で宿泊の予定を前倒しにし、池田宿に停止するとの事」
「おお、それはかたじけない」
 昨今天気も芳しくない時があり、川止めになるのを見越しての沙汰。これより池田宿へこの軍勢を受け入れられるか打診の飛脚を出すとの報を聞き、重衡も常光も安堵の表情を浮かべるのであった。

 明くる日、護送隊はまだ日も高い内に池田宿に到着する。兵にも馬にとっても休みが長く取れるのは有り難い事であった。
 射命丸は宿で尼僧の姿に着替えると、外に待つ常光と合流する。
「それにしても、遅滞の恐れもあるのに土肥殿はよく大休止を決定されましたね」
「まあ、土肥殿がこちらに用事があるのは知っていましたから。正確には蒲御厨に、ですが」
「蒲御厨に?」
 思い当たる節はある。士川の戦いで平家を追い落とし、なし崩しに遠江守に補任された安田義定の存在だ。彼は今、よりにもよって蒲御厨に拠点を置いている。
 何事かは分からずとも、蒲御厨に用事があるとすれば、相手が彼であるのは察せられる。
「見附から赴くよりは楽でしょうから、渡りに船と、土肥殿にはそんな意図もあったのでしょう」
 そういう事ならこの大休止も納得出来る。ただしこちらは、常光のついた嘘の通り尼僧を用意しなければならないため、それを射命丸が勤めるのだ。
 そして重衡の言う待ち人の役は、当然ゆや。射命丸に続いて彼女が姿を現すと、常光は感心しながら言う。
「これなら、どこから見ても公家の娘で通じますね」
「そう、でしょうか?」
 色とりどりの袿を重ねて着込んだゆやに、己の女(むすめ)か孫を見る眼差しを向ける常光。荘官の家に生まれ育ったゆやではあったが、京風に染まったのは重衡に匿われて以来。彼女自身には常光が言った様な自覚は無い。
「いえいえ、そこらの公家の娘などとも比べものになりません。大変綺麗ですよ」
「ヲフヲフ」
 気になるのは身体が細過ぎる事ぐらい、それでも器量の良さが勝っていると射命丸は見る。それに同意と、こちらはつも通りの、胴丸に侍烏帽子の太郎が頷く。
「では行きましょう」
「ええ」
 重衡の宿所には宿場の長者の屋敷が当てられている。そこらの宿では泊めるのを憚るとの配慮からであった。
 重袿(かさねうちぎ)を着ての徒歩や乗馬は目立つが、ゆやが車に乗るのを嫌がったため、射命丸が彼女を助ける形で馬に乗る。だが尼僧姿の射命丸も、やはり馬上では目立った。
 宿場より離れて数町、重衡の在する屋敷へ着くと、常光の取りなしによりすぐに立ち入る二人。それに太郎も彼女らの護衛として同道する。
 門の外で既に馬からは下りていたが、射命丸にはひとつの方向から強い視線が突き刺さっていた。ここの兵を掌握する人物、またも景時だ。
 彼とは面識もある。剃髪ではない小芥子頭でも、尼削ぎ(※12)と同じく見えるため尼僧として通じるが、彼の視線を避けるため帽子(もうす)(※13)は深く被る。
 景時はそれをより訝しむ様子を見せるが、常光や、一ノ谷で己の嫡子景季を助けた太郎の姿を見て、しばらくすると平静に服した。
 屋敷の庭を、濡れ縁から見つめる重衡。彼を目にとめたゆやは足早にその側に寄り、やはり一定の距離を取って止まる。
「では拙僧らはあちらで待ちます。さあ、当麻殿も」
 彼に会いに来たのは、あくまでも池田荘の待ち人と京から下って来た尼君、と言う事になっているゆやと射命丸。常光は太郎を諭しつつ場を離れる。
 重衡はゆやの姿を目に留めると、にこりと笑んで迎えた。これから裁かれるであろう囚人とはとても思えない、清々しい貌である。
「重衡様、その、私はこれから……」
 もしかしたら会えるのはこれで最後かも知れない。ゆやはそう考え、言葉を詰まらせる。
 次の言葉が出てこない。そんな彼女に重衡は優しく語りかける。
「そなたの家では花が所狭しと咲いていると言っていたな。西国も今は、音羽(おとわ)の山から吉野(よしの)から、実に見頃であろう。しかしここは、なんともわびしい……」
 屋敷とは言ってもさほど広くなく、庭には春を彩る花の姿は無い。ゆやの生家である藤原重徳(しげのり)の屋敷と比べ、趣に欠けていた。
 重衡は、塀に囲われ外の花々も眺められぬなら、いっそそこらの宿(やど)でも良かったのにと残念がる。
 ゆやはそんな重衡の心中を察し、口を開いた。

――旅の空
    赤土小屋のいぶせさに
      ふるさといかに 恋しかるらん――

 この様な侘しい所に宿を取る貴方の、どんなにか京が恋しい事でしょうか。そう彼をいたわる心を、ゆやは歌に込めた。
 重衡はしばらく黙想し、一句一句紡ぐ。

――ふるさとも
    恋しくもなし旅の空
      都も終(つい)の すみかならねば――

 この様な身の上である以上、寂しいなどと感じるべきでは無かった、それに京もいつまでも住んでいられる場所などではなかったのだ。
 己の身の上を嘆いてなど居られない、ましてや貴女を心配させるなどは論外。虚勢か本心か、重衡はそう返した。
 ゆやは彼の気丈さに却って哀しみを募らせ、とうとう袖で顔を覆ってしまった。嗚咽を抑えて泣く彼女を、射命丸がそっと支える。
「三位中将殿、ゆやの事、本当に大事にして下さっていたのですね」
 荘司邸の生まれとはいえ田舎育ちの娘が、先の様な歌を吟じるなど、これも重衡のお陰であろう。彼に本当に善く扱われていたのだなと、射命丸は感じ入った。
「何処の尼君かと思えば、一貫坊殿であったか」
 重衡は素直に驚く。
「お声を落として下さい、梶原殿は私の事を知っておりますので」
「おっと、そうか」
 彼はハッとして口をつぐむと、小さく愉快そうに笑い、肩を振るわせる。
「いや、あの堅物そうな御仁を謀るとは、ゆやも一貫坊殿も大した肝の据わりようだ」
 確かにそうだと、言われた射命丸が可笑しく思うと、そこにゆやが問い掛ける。
「そんなに、怖いお方なのですか?」
「ええ、それはもう。蒲殿の鎌倉入りの時も一悶着あったのですから」
 重衡もそれは如何なる事かと興味深げにする。射命丸が二人に当時の事を聞かせると、二人ともつい声を上げて笑ってしまった。
「何事でありますか?」
 それを目にした当の景時が歩み寄って問いかける。これはしまったと射命丸は肝を冷やすが、そこは重衡が上手く丸め込む。
「いや、この尼君におかしな問答を授けられてな、たまらず笑ってしまったのだ」
「左様でありますか。待ち人にお逢い出来た喜びもありましょうが、派手な挙措(きょそ)はお控えなさいますよう」
「うむ、軽率であった。失礼したな」
 殊勝に応える重衡に景時は一礼し、また持ち場へ戻ってゆく。彼が背を向けたのを見て、重衡はまた小さく笑い始める。
「なるほど、あれは怖い。しかしあの様な御仁を相手に、この様に大胆に振る舞えるゆやを見られて、本当に良かった」
 彼女が元来の性分を取り戻しつつある。重衡はそう、己の行いが僅かばかりでも実を結んだ事を喜んでいた。
「その様子なら大丈夫であろう、ご母堂と幸せに暮らすのだぞ」
 重衡は、手に舞い降りた揚羽蝶を放つかの如く、柔らかくも確かな言葉で別れを促す。
 これで最後になるのであろう。そう悟ったゆやの目にまたも涙が溢れそうになるが、今度はそれを抑え、笑顔で重衡に別れを告げる。
「ええ、重衡様も」
 元気でとも、幸せにとも、通り一遍の別れの言葉は彼には言えない。鎌倉に下った先の運命は決まっていると言っても過言で無いからだ。
 そんな如何ともならない暇乞いを終え、重衡に背を向ける射命丸とゆや。
 最後になって彼に心配をかけまいと、ゆやは堪えて歩み出すのであった。

 宿場に戻った射命丸達には、常光との別れも待っていた。
 旧荘司邸には、周囲の助けもあって今も藤が暮らしている。ゆやが帰る先は、太郎と共に生まれたそこ。射命丸にしても、ゆやをそちらに送って一段落付いたら、また鎌倉に上がらなければならない。太郎についてもそうなるであろう。二人はなんとしても天邪鬼を調伏せねばならないのだ。常光とは再会を期する故に、別れの言葉は少ない。
 だが、常光がゆやと言葉を交わすのは最後かも知れない。京からの護送の間の僅かな縁であったが、旅を共にした者として、互いに名残惜しそうにする。
「土佐坊様、これまで有り難うございました。どうか、鎌倉で範頼様をお助け下さい」
「拙僧の如きに出来る事など限られましょうが、しかと承りました。ゆや姫もいつか鎌倉に参られ、蒲殿の側に居られる日が来るよう、拙僧も八幡大菩薩への祈念を続けましょう」
 そう、いつの日かゆやを彼の側に。射命丸も太郎も、そればかりは心を一つにするのであった。

 常光と別れ、旧荘司邸へ歩みを進める射命丸達。
 かつてはゆやを疎ましがっていた己も、今は範頼に次いで彼女を気にかけている自負がある。もしあの時そうであったら、多くの悲しみに出会う事も無かったのに。射命丸は未だ明かせぬ過ちを胸に歩む。太郎はどうか。射命丸が彼女に目をやると、何かの身振りと小さな鳴き声を上げる太郎に、ゆやが笑顔で相づちを返している。頼景同様、太郎からの“言葉”が通じているようにも見えた。
 そうしているうちにたどり着いた邸宅。射命丸が見るそこは、鎌倉に上がる前、最後に範頼と訪れた時と変わらずに見えた。
 ゆやにとっては父の姿も無い、かつてと全く違うどこかなのかも知れない。例え仮であっても、彼女にとって重徳は父であったのだ。しかし母の藤はそこに居る。
 門の前に来る、門衛が居ない以外は変わらない。
 以前と様子は僅かに異なるが、作付けが始まっているためか庭には人が溢れていた。そこに居た百姓の一人が門前のゆやに気付く。
 姫御のお帰りだと大声で叫び、屋敷の中に消えてゆく百姓。ゆやの事を知っている者はもとより、知らぬ者も、何事かと野次馬の如く集まる。
 男衆も多い。射命丸と太郎は、ゆやを囲う様に左右に位置し、その接近を阻んだ。
「ゆや、ゆやなの?」
 そうゆやを呼ぶのは、藤であった。
 髪には白い物が多くなり、まるで娘と同体であるかの如くやつれて、幾分か老け込んだ様にも見える。単衣を重ねて着込み、百姓の肩を借りて歩む足下はおぼつかない。具合が悪いのが察せられた。
 心労故か、はたまた別の病か。それでも藤はゆやの側まで来ると一人で歩み、変わり果てた娘の顔を検めもせず抱き寄せる。
「ゆや、ああ本当になんと言えば良いのか。よく帰って来てくれて……」
「母様、母様……」
 再会を諦めてすらいた母娘は、こうして互いの心身をいたわりながら、今この時を喜び合うのであった。

「藤様の余命は長くない、それは誠ですか?」
 旧荘司邸の一室。射命丸は、自身の目の前に座り白湯をすする老爺の言葉を受け、肩を落とす。
「残念ですが、心を痛めてそれでも無理をしたのでしょう。人間の心が妖より幾分強いとはいえ、傷つけば病むのですよ」
 老爺は武蔵国に本拠を置く天狗、御岳の桜坊。当初は三尺坊に何か用事があったのであろうが、ここしばらくは天邪鬼調伏に絡んだ犠牲となったこの屋敷に通い、藤の様子を窺っていたのであった。
 せっかく再会したのになんという事だ。世の無常とは、この様なささやかな幸せすら止まる事を許さぬのかと、射命丸は自身への呵責と共に理不尽を覚える。
「今ひとときは持つでしょう。末期にお子に会えただけでも、幸いと思いたいものです」
 三尺坊の霊験あらたかな秘薬も大陸由来の宋医の術も施した、これ以上打つ手は無しと、桜坊は無念そうに言う。
 ならばせめて見守ろう。射命丸もひたすらの無念を抱えながら、心に決めるのであった。

 ゆやの帰郷からの半月は、実に穏やかな時であった。そしてその半月が経ち、母娘は別れる事になる。桜坊が言った通り、藤が臨終を迎えたのであった。もしかしたら、娘が帰るまではという強い想いが、既に尽きていてもおかしくない命をここまで長らえさせたのかも知れなかった。
 そう思わせるほど、藤の死は呆気ないものであった。
 末期の床で母娘と、そして正体を明かされた太郎もが何事か言葉を交わす側で、射命丸にはそれを見送る以外は何も出来なかった。

 池田荘の南に位置する興行寺(こうぎょうじ)。ゆやの養父重徳の墓所であるため、藤も葬られる事になった。
 桜も散ったそこへ、ゆやは母の名にちなんで藤の木を植え、弔うのであった。(※14)
 百姓やそこらの村里の者であれば野辺に亡骸を転がされても当然の時節、こうして厳かに送り送られるだけ、彼女らは幸せであるとも言えた。
 それらの葬儀一式が終わり、いよいよ主人を失った旧荘司邸。ここもいずれは人手に渡すのか、それともずっと住み続けるのか。射命丸が庭で思いふけっていると、太郎を連れたゆやが呼び掛ける。
「射命丸様」
 悲しみに暮れると言うより神妙な面持ち。何かを決意したのかと、射命丸は読み取る。
「どうしました?」
「私を、三尺坊大権現の元へお連れ下さい」
 鎌倉へ上がる決心をしたと予想していた射命丸は、まさかの求めに驚き、訳を問う。
「それは何故」
「仏門に入りとうございます」
 出家して尼になろうと、それは分かる。それにしても彼女はまだ若い、元からそうして育ってきたので無ければそれは早い。今は落ち着くべきだと諭す。
「ゆや、藤様を失った悲しみは分かります。でもそんなに急いてに僧籍を取る事はありません、今は静かにお母上の冥福を祈りましょう」
 それに出家しては範頼と結ばれる事すら叶わなくなるかも知れない。射命丸の懸念の一つはそれ。
 だがゆやは射命丸の言葉に首を振る、藤の死だけが理由では無いと。
「父や母の他に、もう一人、私は弔わなくてはならないんです」
「それは誰です?」
「私の子です、私が殺した……」
「……え? ゆや、今なんと」
 子、殺した。それらの単語だけが射命丸の耳に届く。有意な言葉であるのに、余りの衝撃にそれを認識し得なかったのだ。
「この手で、殺したんです。生まれたばかりの赤子を、私の子を」
 重衡に助けられるまでどんな目に遭っていた事かと考えれば、誰の子かなど問うのもおぞましい。
 射命丸は一瞬意識を遠のかせ、足下をふらつかせる。胸の内側から何かが上って来る。腹の底からも上がって来た物を堪えて、柱にもたれかかる。
「教えて下さい、射命丸様。我が子を殺した者は、どんな報いを受けるべきなのか。殺めてしまった子に、何をしてあげたらいいのか」
「そんな……そんな……」
 そんな事があっていいはずが無い。だが、何故今までその事に考えが及ばなかったのかと言えるぐらい、想定すべき話であった。
 範頼や頼景は、この事に考えを巡らせていただろうか、次長はどうか。そう考える射命丸の喉の奥に、また何かが上がって来る。これを吐き出さねば、正気で居られそうには無かった。
 ゆやは太郎から我が所行を聞いており、己に告白と贖罪(しょくざい)を求めているのではないのか。射命丸は自らへの呵責に押し潰されそうになり、混乱の中でそう解した。
「ゆや、あの時、私は――」
 言いかけた所で、太郎が射命丸に覆い被さる。ゆやからは、足下のおぼつかない射命丸を支えた様に見えたが、射命丸には太郎が止めにかかったのが分かった。
「何の……つもりだ」
 彼女は威嚇する風に牙を剥いている。怒りとは違うのが、度々それを浴びせられた射命丸には分かった。
 そこから先は言うなということか。それが正しいとすれば、止めた意味は何か。
「お前、何も話していないのか?」
 喉を鳴らしつつ首を小さく縦に振り、肯定する。
 太郎自身を殺させたこと、ゆやを攫われるに任せたこと、憎かろううに、何故それを訴えぬのか。射命丸は驚くと同時に、喉の奥まで上がって来ていたものが治まるのを感じていた。
「射命丸様?」
「ごめん、ゆや。辛いのは貴女なのに、取り乱してしまって。それはあの時貴女を守れなかった私の所為。貴女は何も悪くない、仏も貴女を赦すでしょう。もし仏が赦さなくても、貴女の事は私が護るから。どこで、何があろうとも」
 足取りを確かにし、ゆやの肩を抱きながら言う。範頼との仲に平穏が訪れるまでか、それが叶わぬならば最期まで。いや、その先までも。
 射命丸の腕の中で、表情を無くしていたゆやがむせび泣く。何が出来るか、何をしてやれるか、先は見通せないがそう誓った。

 夜半、眠りの浅いゆやが本当に寝入ったのを確認してから、別室に移った射命丸と太郎。
 射命丸には、太郎が未だあの時の事を話していないのが不思議でならなかった。
「お前は何故、ゆやに本当の事を話さないんだ?」
 問われた太郎はツンとそっぱを向くと寝転がり、筵を被ってしまう。何かを企んでいるのかと合点のいかない射命丸も、それ以上は問おうとしなかった。
 太郎には深い訳など全く無かった。しかしそれ故に、射命丸がいくら考えても分からない理由でもあった。
 太郎が横見で範頼達と再会した時には、射命丸は既に彼らのかけがえのない存在になっており、彼女が心の底から悔やみ、ゆやを救おうとしているのも同時に知った。だから範頼達には伝えなかったし、今更ゆやにそれを明かしても傷つくだけ。ただそれだけの事。
 己が恨みつらみも、太郎の中には無いのだ。それに今は――
(ゆやがお前を頼りにするなら、それでいい)
 もとよりただの山犬でしかなかった己が身、ゆや達の元に居られるだけで幸せなのだからと。
 射命丸のことは――元が山犬と鴉であった故か――、今となってはただ、気に食わないだけなのであった。

     * * *

 舞台上の“ゆや”が歌を詠む。

――いかにせん 都の春も惜しけれど
         慣れし東の(あずま) 花や散るらん――

 京にも名残惜しい事はあれど、今は余命幾ばくも無い母に会いに、郷里へ下る暇を賜りたい。
 本来この歌を受けるのはワキの宗盛。だがこれを受けた新たな人物は、宗盛を兄と言う者だった。
 能舞台を見上げる観客はようやく気付いた。シテである熊野御前の暇乞いの歌を受けたワキは、宗盛から、牡丹の武者重衡に成り代わっていたのだ。
「げにあわれな道理なり。はやはや暇取らすゆえ、東に下り候へ」
 内府宗盛に囲われて故郷に帰れずに居た熊野御前、それを解放したのは三位中将重衡。そう、シナリオが変えられていた。
 だがこの舞台は射命丸や、ましてや椛の溜飲を下げるための物では無い。これは“彼女”を助けた多くの善き人々に捧げる物。
 舞台に取り上げられた重衡、この後に来たる範頼達、そしてヤマメ。彼ら彼女らに。
 椛の胸中には文と同様、数多の感慨が満ちていたが、それは決して表に出さず、留拍子(とめびょうし)(※15)を踏んでこの曲を締めるのだった。

 そしてまだ、宴は続く。

第13話注釈―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

※1 海道下りの段:平家物語の巻十の一節。鎌倉へ召し上げられる途上の重衡が池田宿で歌を交わし、その相手が宗盛の寵姫の侍女と知るというもの。
※2 物着:能や狂言の舞台上で、装束の一部または全部を変える事
※3 今上:現在在位中の天皇の意、今上天皇、今上帝など。平家からは安徳天皇を指しているが、この当時は後醍醐天皇も今上と言える。
※4 玉体:天皇及びそれに準じる貴人の、身体その物を敬った言葉
※5 還御:天皇や上皇、皇后が行幸あるいは行啓から帰ること。神器も本来の所在地を離れているため、作中では還御との表現を用いている。
※6 類感:呪術の分類の一つ。形代等、何かを模倣した物に呪詛を込めることにより、模倣元へ呪詛を加えるという物。神器は逆に実物から神性を頂いている。
※7 国母:天皇の母。天子とは即ち国その物であるとの考えから、その母をこう呼んだ。
※8 北の方:公卿等、位の高い人物の妻。寝殿造りの住居の北に住まう場合が一般的であった事からこう呼ばれた。
※9 木ノ下:平家物語の巻四『競』にて描かれる。頼政が退治した鵺が馬となり、囲われていたという寓話もある。(先述『悲しきかなや身は籠鳥』も参照の事)
※10 御衣:天皇、皇族等、貴人の着物。“ぎょい”とも読む。着物自体に霊性が宿るという考えから、貴人の脱いだ物はそれ自体が尊いとされる。
※11 時子:平清盛の正室(継室、後妻)、建礼門院(徳子)の母。子は他に宗盛、知盛、重衡。従二位に叙され、清盛と共に出家した後は二位の尼と称した。
※12 尼削ぎ:出家した女性の髪型。肩の上辺りで揃えた、所謂セミロングに近い。女性の場合、出家しても剃髪せずに髪を残していた場合も多い。
※13 帽子:僧衣の一部、僧侶が被る頭巾。本来は宗派によって呼び方が異なる。
※14 藤の木:熊野御前手植えの『熊野の長藤』が、現在の静岡県磐田市に所在する行興寺に伝わり、今も開花時期には多くの人々の目を楽しませている。
※15 留拍子:能において曲の最後に踏む、二度の足拍子

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