廿五./参州公凱旋(西暦1185年)
秋の気配が訪れようとする鎮西。壇ノ浦の近海に幕府を置き、未だに神剣の探索を担当する範頼。駐屯する幕府の、擁壁(ようへき)で囲われた仮の屋形で、役務を負う漁師の頭(かしら)から本日の捜索が終了した報告を受け一息つく。
地元の漁師や海女を動員しての作業は芳しくなく、水中に今も漂う多くの亡骸が、いよいよ神剣の姿を隠していた。冬になれば海に潜るのもいよいよ命がけ。
当初より捜索は冬までとされていたし、神剣は失われたものと諦める時が訪れようとしていた。それは天邪鬼の、――致命的とはならない微かな物に留まるが――皇統そのものをを害するという企みの一端が成ったと言っても過言では無い。
範頼も神剣発見の見通しは低いと思っていたが、鎌倉の意志は除いても、個人的にこれは不本意ではある。
(射命丸様が言っていた通り、あの物怪の手に渡らなかっただけ、まだ幸いか)
黄泉が溢れる事と並行して、射命丸が語っていた危惧。――今は水底に在る――形代たる剣璽(※1)を辿って、熱田の社に祀られている真の神剣が傷つけられるという事態も避けられたのだ。
(それに鎮西の平定も、まだ北部に限られているし)
当然鎌倉には、範頼からその旨が伝えられている。逆に彼らには、鎌倉の消息は入って来ない。鎌倉との文書の接受はあっても、あちらからは命令や指示を受けるだけに限られている。
鎌倉の様子が知れたのは、射命丸が京で重衡の事を聞きつけ、範頼の名代としてあちらに赴いた時が最後。却って京での情勢の方が、寺社筋からの伝手でよく知る事が出来ていた。
範頼が一人であれやこれやと考えを巡らせていると、そこへ射命丸が戻り、彼女は膝をついて帰着の挨拶をする。
「一貫坊、ただ今戻りました」
「お疲れ様です、一貫坊様」
常光をはじめ、まだ鎮西に残る鎌倉の御家人は、それぞれに縁のある地域において活動している。その中でも射命丸に役目はある。寺社筋とつなぎを付けるのは専ら彼女であったし、引き続き祐筆も勤めている。
叡山や周防まで飛んでいた射命丸は、鎌倉の消息にも関わる、京からの特段の情報を範頼にもたらす。
「九郎殿が伊予守(いよのかみ)に?」
「はい、恐らくは院から直接賜ったものかと」
伊予国は三河と同じく上国。国司の官位も、守であれば今の範頼と同様、従五位下が当てられる。それまで義経が就いていた検非違使、左衛門少尉が従六位下相当官であるから、それらよりも重い任官となる。
源平の合戦での働きだけを見るのであれば、これでもまだ足りぬ待遇と見られよう。ただそれは、確固たる軍紀や独歩を許さぬ鎌倉の気風を知らない者からすればの事。範頼は屋島の合戦の直前の、義経が熊野水軍と独断で同盟をした時の事を思い出す。
「何故鎌倉殿から御気色を被っているのか、分かっておられないのでしょうか?」
射命丸が首をひねりながら言う。範頼に深刻な風は見られない。彼のそんな様子を受けた射命丸も、さほど深刻には受け止めなかった。
実のところこの任官は鎌倉で重大な問題として取り上げられているのであるが、二人とも、範頼が墨俣で頼景と乱闘した際の怒りを受け、相当の詫びを送って許された時の、あの程度の事と同列に考えていた。
もちろん乱闘騒ぎも十分に軍紀を乱すものであり、あちらは範頼が殊勝に詫びたからこそ許されたのでもあった。
「まあ、九郎殿はお若いですからねぇ」
のほほんと言う範頼。二人は義経が腰越に留められ鎌倉中に入れなかったのは知っていても、のちに彼が飛ばした檄と、それに対する鎌倉の意志は知らない。
乱闘の方が若者のやらかす事であるのにと、射命丸は年に比して若く見える範頼の相貌を見ながら思う。そこにまた役目を終えた常光が姿を現し、まず範頼への帰着の挨拶と報告を行い、次いで射命丸を労う。
「一貫坊殿、お帰りなさいませ。京とこちらとでは、往復だけで大変だったでしょう」
「ありがとうございます、土佐坊殿。早馬を走らせるよりはだいぶ楽ですので」
袈裟頭巾を脱ぎながら常光はそれなら良かったと応じる。彼は彼で、土豪らにつなぎを付けに回っていた。にこやかな顔に刻まれた皺、それに負けずに走る多くの傷が、彼が歴戦の古強者であるのを思い出させる。
「そうそう、今蒲殿とも話していたのですが、九郎殿が伊予守に任じられたそうです」
「何ですと?」
常光のこめかみが微かに動き、表情は皺の深さと共に一瞬険しくなるが、それもすぐに普段通りの柔和なものに戻る。射命丸ですら見逃す程の刹那の変化であった。
「なるほど。では九郎殿はこれより、予州殿と呼ばねばなりませんね」
伊予国の“予”を以てする、範頼の参州と同様の唐風の呼称。これを聞き、ようやく彼は英傑に相応しい立場になったのだ、と、範頼は心から喜ぶ。範頼自身が三河守に任じられた際は衆目もあってそうして見せただけ、今この時の喜びこそが誠のものであった。
常光の笑顔を見た二人は、いよいよ義経が無断任官の怒りを受けた事を忘れる。これは祝っても良いことなのかも知れないと。
二人がまた語り合うのを後ろにし、場を辞する常光。そこには義朝の供回り、金王丸の顔が戻っていた。
∴
義経の任官から十日と経たず鎌倉から、遠州灘や熊野灘、豊後水道を経由して早舟が到着する。普段ならば陸路を早馬が走るはず、これが特別な便であるのを誰もが認識した。
船足を稼ぐためなのか、乗っていたのは主に海賊を警戒して武装していた侍だけ。需品などは補給分どころか乗員分の最低限しか積んでおらず、馬も居ない。使いの雑色すら居ないのにも範頼は気付いた。
「参州殿。梶原平三景時以下、鎌倉よりまかり越しまして候」
早舟は景時らの手勢の水軍の物。そこはそれと、景時“以下”の一人に範頼は気付き、少し可笑しくなる。ただでさえ無愛想な顔を、景時に手勢の一人と数えられたことにより、なお不機嫌そうにする年寄り。次長がそこに並んでいた。
ともあれ、景時が開陳した鎌倉からの書状には、範頼が時期的に予想していた命令――鎮西を奉行する将を残し、鎌倉へ戻るようにとの旨が記されていた。他にも、細々とも言えないいくつかの指示や命令があるが、帰れるというのが一番大きな事であった。
結局鎮西での仕事は、神剣捜索よりも西国からこちらの平定の下準備に終わった。やり残しや不本意なことは数あれど、また見知った人々に会えるのを考え、範頼も射命丸も安堵するのであった。
かしこまった場から屋形の一室に移り、次長が範頼に再会の挨拶をする。
だがそれもつかの間、彼はまたもかしこまり、一通の書状を取り出す。しかし差し出した先は範頼ではなく、射命丸と共に脇に控えていた常光。
「金王丸殿、鎌倉殿よりの別命にござる」
常光は平静な様子でそれを受け取り、一度うやうやしく掲げてから折られた書状を開く。
「拝見いたします」
右から左へゆっくりと目を運ぶ常光。
射命丸はよからぬ事と知りつつも、チラと彼の手元に目をやる。見えるのは書状の端だけ、それでも一つだけ気付いた事があった。
(鎌倉殿直筆の文?)
定かでは無いものの、僅かに見えた本文と花押が付された署名の筆跡が、射命丸には同じに見えた。頼朝直々の書状であることもだが、やはり重要なのはその内容。果たしてどの様な言い付けが記されているのか。それを誰彼が問うより先に常光が言う。
「参州殿、どうやらお別れのようです」
刺す様な眼差しで読んでいた書状から目を外すと、それをそっと閉じ、普段通りの穏やかな貌でそう伝える。それは余りに唐突な言葉であった。
皆が戸惑う中。まず、平治の乱以来の付き合いの古強者、次長が驚きの声を上げる。彼も書状の内容は知らなかったのだ。
「別れですと!?」
「はい、参州殿の下でのお役目は御免となり、改めて別のお役目を賜りました」
範頼の下での役目、彼の目付役の事だ。
総大将の任が終わり、また今までの動きからして範頼に目付役など必要の無い事を頼朝も理解したのであろう、射命丸はそう考える。
そうした鎌倉の――頼朝の信を得たはずの範頼の貌は暗い。
神剣捜索まで含めた長きに渡る遠征において、義経を英雄視する世間の批評とは裏腹に、地道に戦を進め、先達や古い者達の意見をよく聞いた範頼の評価は良い。
その武力の見せ方は全く違えど、人をとりまとめる事に腐心してきた彼に対する、それが鎌倉としての評だ。たとえそれが子供の使いだなんだと言われようが、最終的にここに至った事実を見ればそうである。
それが成ったのもひとえに常光のお陰。板東の流儀を知らない遠江の住人らの集まりであった範頼達にそれをよく教え、陰に日向にと助けて来た彼の存在あってこそであった。
「鎌倉への凱旋を前にして、ここでお別れなどと……次の役目とは如何なるものなのですか?」
「一貫坊殿」
いつもなら出て来ないうかつな言葉が射命丸の口を突き、次長がそれをたしなめる。射命丸の胸中には、今までには無かった寂しさが沸き上がっていた。
己が妖であると聞いても、範頼達が鎌倉に上がって来た事情を知っても、お目付役とは名ばかりに様々な形で助けてくれた彼。射命丸は肉親とはこういうものなのではないかと、そんな気持ちすら覚えていたのだ。
「次の役目ですか。今度は九郎判官を鎌倉にお連れせよとの事でして」
「っ! 金王丸殿、それは!」
それは決して言ってもよい事とは思えない、次長は叱責せんばかりの声音で、今度は常光をたしなめる。
「あ、いやこれは、つい口が滑ってしまいました」
後ろ頭をかいて笑う常光。言葉通りの、そしていつも通りのついうっかりでは無く、意図して言ったのであろう。彼の誤魔化し笑いも、今ばかりはわびしげだ。
「先の壇ノ浦での活躍がようやくと認められたのでしょう。ですので参州殿の下で働くのは、これが最後になりましょう」
「そうですか、九郎殿は、鎌倉に帰れるのですね!」
範頼は英雄の凱旋を喜んで見せているが、常光の話の前後はつながらない、射命丸はそう訝る。
同時の帰着は難しくとも、鎌倉に帰ればまた共に働く事になるかも知れないのに、常光は何故わざわざ最後などと言うのか。
「では、これから発たれるのか?」
「ええ、早舟で先んじて鎌倉へ戻り、準備を整えてからのお役目になりますから」
「であるから、そこまで言わずとも……」
これからの事の運びまで知らせるのはよろしくないと、次長が再三の苦言を呈する。
「や、これはまた」
またも誤魔化し笑いをし、しばらくしてそれを止めると、居住まいを正して範頼に向き直る。
「参州殿、ゆや御前を大事になさって下さい。貴方様が、全てを賭けて取り戻したのですから」
「それが叶ったのも土佐坊様のお陰です」
「勝間田殿、どうかお歳を考え、無茶はお控えなさいますよう。いらぬ事と思わず、この金王丸の言葉をお聞き下さい」
「う、む……少しは、考えよう」
まるで今生の別れではないか、とても鎌倉で再開する者の言葉とは思えない。そう不安を募らせる射命丸にも、常光は言う。
「一貫坊殿、何卒、何卒参州殿とゆや御前をお守り下さい。それと御身の想いも叶う事、拙僧は祈念いたします」
言ってからついでにと、御岳の桜坊にもよろしくなどと冗談めかして続ける。
己の想いとはなんであろうか。やはりゆやと範頼が幸せになる事、二人の間に子が生まれ、夫婦親子が穏やかに暮らす事か。それはなんとしてもと強く頷きつつも、常光の言葉に感じる侘しさは益々強くなる。
やはり彼とはもう二度と会えないのではないか。射命丸は不安を確信へと変えつつ、どうして範頼達はそれに気付かないのであろうかと不思議がる。
「あの――」
「さて、こうして別れを惜しんでいてはいつまでも出立できません。それでは参州殿、これにて」
「はい、お役目の完遂、心より願っております」
「金王丸殿、達者で」
二人とも言葉は少ない。
席を立ち、屋形から出で足早に自陣に戻ろうと歩む常光。それを追いかけようと射命丸も席を立つ。最後かも知れない、役目とやらの真実を聞けるのは今しか無いと。だが――
(問うて、どうする……?)
駆け寄ろうとし、声を上げようともしてから、いずれも踏みとどまる。彼が行く先に何があろうと、どうにもならないのだ。
遠ざかる常光の背を、三人は黙って見送る。
「征ってしまわれたか」
常光の姿がついに見えなくなり、次長が呟く。すると範頼は今まで溜めていた息を吐き出し、問いかける。
「勝間田様、九郎殿は今、鎌倉でどの様な扱いを」
「……正直、余りよろしくない」
射命丸の背に、つと汗が伝う。やはりそうなのか、常光はあの英雄と対峙することになるのかと、今更に別れを実感した。鎌倉に居た次長はおおよその事情を察していたし、範頼もまた、決して暢気に別れの挨拶をしていた訳ではなかったのだ。
人間のこの様な部分が、未だに射命丸には理解できなかった。お互い分かりきった事、通じた事を、何故あえて口に出さないのかと。
だが射命丸こそ気付いていなかった。言葉に出来る形で理解していなくとも、己が彼らと同じくしているのを。人との暮らしの中でそれを身につけたのを。
そしてその様な心は、そもそも言葉になど出来ない、もっと奥深い所からの共感から顕(あらわ)れる物なのだから。
「蒲殿、悪僧一人との惜別に暮れている時ではない。蒲殿にも、これからただ帰るだけで無く、相当のお役目が課せられているのである」
次長が、僅かばかり強く発する。確かに範頼に課せられた役目は軽くない。
範頼の心中は如何ばかりかと射命丸は案ずる。
「……はい!」
それでも範頼は強く応え、己の役割を果たさんと、ただ邁進するのであった。
悪天候の所為もあって長門国への渡海も遅れ、京に着いたのは予定より一ヶ月遅れ。季節はもう冬にさしかかろうとしていた。
範頼に課せられた役目とは、鎌倉の新たな寺院の落慶祝賀式に際し、園城寺の僧正やその同伴の僧達を鎌倉まで護衛すること。まだ平家の残党が居るかも知れず、山道海道には野党も跋扈する、次長が言った通り重い役目である。
範頼は道々、重衡や宗盛が最期を迎えた地を訪ねつつ、鎌倉への帰途に就いた。
∴
半年余りを置いての鎌倉入りは、範頼にも射命丸にとっても寂しいものであった。
常光の姿はやはり、鎌倉中には無かった。ちょうど範頼の隊と入れ替えに、六十余騎を連れて上洛して行ったのだ。常光だけではなく重衡も、それに鎌倉を出る時に率いた多くの郎党を亡くしての帰還でもある。
それでも範頼達には、帰れる場所があった。
「ここも、久しぶりですね」
「ええ、もう何年も経ったような気分です」
浜の館の門を見上げる範頼と射命丸。彼らの姿を見た門衛が、慌てて館の内に消える。「参州殿御帰着」と叫びながら。
「そう言えば、先触れを出していませんでしたね」
射命丸が思い出したように言う。余り大々的に迎えられるのは嫌だからと、範頼があえて館へそれを出させないように指示していたのだ。
館からは下男下女がすぐに出で、その先頭に頼景が姿を見せる。
「今日帰ると何故知らせを寄越さぬ、お主らの夕餉の用意は無いぞ!」
「えーかん――と言っても私とは四ヶ月ぶりですか。でもそれだけぶり挨拶がそれですか」
射命丸はそう応じ、苦笑しながら範頼を見る。その顔には、頼朝を始めとした重鎮から凱旋の労いを受けた時にも無かった笑顔が浮かぶ。
頼景に続いて、明るい紅色の袿を着た女房が、ほっそりした頬を膨らませながら駆け寄る。
「頼景様、勝手にそんなことを言わないで下さい。私は昨日から明日、明後日まで、いつお帰りになられてもと準備していたのですからね」
今の衣もすぐに着付けられる物ではない、本当に毎日準備しながら待っていたのだ。昨日一昨日の事で無く、ずっと。
「ゆや、ただ今戻りました」
「お帰りなさいませ、範頼様」
短くない距離と時を経てようやく再開した夫婦ではあるが、やはり触れ合うことは無い。
だがそれ必要無いほど、二人の間には再会の喜びが満ちていた。
* * *
神剣が安徳天皇と共に水底の竜宮に安置され、天の愁い未だ止まぬ元暦二年。
内裏にも被害を与えた大地震に代表される災害を経て文治と元号が改められる中、範頼は西国、鎮西よりの凱旋を果たした。
平家との戦いが完全に終わり、新たな都である鎌倉が立ち上がろうとする中、彼ら彼女らには、源平の戦いの当時には思いも寄らなかった、新たな戦いが訪れる。
幕間./金王丸正尊(西暦1160年)
鴉は今一度と、“彼”の姿を追って西へ飛ぶ。しかし折り悪く激しい吹雪に襲われ、その翼を凍えさせながら雪深い大地に降り立つ羽目になった。
折角“彼”に救われた命だというのにこれを危険に晒すとは、己はなんと愚かな事をしているのだ。彼女はそう、自身の軽率な行動を悔やみながら、風雪を耐えるに足る場所を探して短く飛んでは降りるを繰り返し、辛うじて雪を免れそうな森の中に分け入った。
ひと心地着いた彼女の前に、今度は真白な景色と真逆の光景が広がる。森の中を流れる川の縁。積もった雪の一部が、朱に染まっていたのだ。
(これは血かな、それもまだ新しいな)
雪に映える赤々とした鮮血。これを流した主もすぐ側に居るであろうかと、まず興味のままに鴉は首を廻らせる。血痕の主の姿は見当たらない。彼女は柔らかい雪を蹴ってなんとか羽ばたくと、木の間を注意深く飛び、眼下を睨みながら旋回する。
(あれか!)
凍てつく大気の中で羽ばたくのを止め、滑空して血痕の主の側へ舞い降りる。それは青年の、武者であった。
この寒さの中でこの出血、息が絶えていても仕方が無いと青年の躰を検める鴉。血に濡れてなお打刀を握り続けるその手が微かに動く、鴉はそれを見逃さなかった。
生きている。それを理解した彼女は――
(いや、私の身だって危ういのに、どうしようと?)
自問自答する。
何より、危険は気候や他の獣だけではない。この青年はどう見ても誰かと争った様にしか見えない。目を覚ませば、消耗に助長された凶暴性が鴉に向く事も考えられる。
意識が混濁しているのか、青年は小さく身じろぎしながら呻くだけ。
鴉はその様子を目に収めつつ、また深雪を蹴った。
∴
(頭殿に、この一振りを……)
青年は右手の中にあるはずのそれを、より強く握り込む。しかし、主君に渡すべき一振りは、そこに無かった。
彼の意識は急速に清明になり、同時にここまで自身の辿った道程も取り戻す。
――忠致の刺客だ! 頭殿が討たれた!
――奴め、婿の鎌田次郎殿をも手に掛けおった。人の面をした畜生めらが!
――長田親子だ! 逃げた、追うぞ!
――駄目だ、平家が寄せて来る!
――京の由良様に頭殿の死お伝えするのだ!
失ったのは手の中の刃だけでは無い。渡すべき主君こそ、既に喪われていたのだ。
主君、源義朝は長田荘で裏切りに遭った。それをその正室の由良御前に伝えるべく、敵中で山越えを繰り返した青年。
今は尾張を越え、三河国に辿り着いている、青年自身の記憶ではそのはずだった。しかし現実は、それより先に進んでいる。
「そうだ、俺は……」
長田忠致らが逃げ延びた鳳来寺(※2)までただ一人で寄せ、そして結局、何も果たせなかったのだった。
傷は痛んだが、何よりも悔恨が胸中を埋め尽くしている。
(早く刃を手に取らねば。そして仇を)
最大の力を込めても、突っ伏した顔を上げるのが精一杯。
青年のその目に飛び込んで来たのは、主君の二人の子を、嫡男である鬼武者とその兄松田冠者朝長を奪い去った真白い雪。
これが無ければ、鬼武者殿は東国に落ち延びられたのに。
これが無ければ、松田殿は命を落とさずに済んだのに。
青年は降りしきる雪が恨めしかった。それは今、己の体温から、命までを奪おうとしている。尚更であった。
「まだ、死ねぬ」
雪を掴み、這って前に進もうとするも、それを赤く染めながら掻くだけ。ただもがいているのと変わらない。
その動きを制止するかのように青年の手に刀傷とは別の鋭い痛みが走り、彼は伸ばした己の手の先を見る。そこには黒い塊があった。
塊――鴉は首を傾げると「クワァ」と鳴き、嘴で咥えていた草の束を放す。青年は、彼女の放したいくつかの種類の野草の中に、有用な物を認める。
「お主は、いずこかの権現様の使いか?」
青年が投げかけた問いに、ふいっとそっぱを向く鴉。彼にはこれが、人間がするのと同じ否定の行動と見て取れた。
鴉は結局、青年を見捨てなかった。
戦で武士が死ぬなど世の常。それをこうしていちいち助けるなど、鴉をしても全く無意味と知っていた。にも関わらず、である。この青年が“彼”に敵する側の者かも知れない、それを踏まえてもなお、彼女は青年を助ける道を選んだ。
この行いは、自身が“彼”に救われたから出来る事であり、今すべき事だと考えていたのだ。
己とて自然の営みの中で生きて来た、そこには助けてくれる者など居ない。それを“彼”は助けてくれた。己がこの様な行いをする事で“彼”に近づけるのかも知れない。鴉は、この行いがその様な考えの元での、手前勝手なものであると自覚していた。それでも、こうせずには居られなかった。
当然青年には、その様な彼女の心など分からない。
「使いでなくば、当地におわす神仏か」
先ほどは否定として見た彼女の態度も、そうであればこそとすら思っていた。
「ギャッギャッ!」
彼女は翼をばたつかせながら、「だから違うと言っているだろう!」と今度は全力で否定。
だが青年にとっては、いずれであっても変わりは無い。天に助けられ、ここに命を繋いだ事には。
青年は横たえていた身体を徐々に起こし、木の幹に依託するまでになると、今まであった事を語り始める。それは鴉に話すとも、独白とも言えるものであった。
平家との間に起こった争い。己が源氏の棟梁の近侍であり、役目を果たせずここに居る苦痛。そこに至る前、二人の御曹司を失った無念。
「せめて、藤蔵人大夫様の元の蒲冠者や、今若様達が無事であれば……」
そうか、この青年は源氏、“彼”の味方なのかと、鴉はそれには安心した。しかし今取り巻く状況は良くないのだろうとも同時に理解。
――この時の彼女は知らなかった。あの“彼”が源氏の者であるのは知れど、蒲冠者である事を――
今ほど人語を発したいと思った事は無い。焦がれ続ける姿を、青年に尋ねたかった。
しかし彼女はそうする代わりに、黙って青年を見上げ、願った。
(早く傷を癒やせ。そして願わくば、あの優しい“彼”を助けてやってくれ……)
* * *
青年は傷を癒やした後、紆余曲折を経て、乱暴狼藉の限りを尽くす悪僧土佐坊昌俊として、相模国住人土肥実平に身柄を預けられる。そこで彼は、失ったものの一つを取り戻すのだった。
そして彼は、一つまた一つと、幼子が川辺の綺麗な石を集める如く、失ったものを取り戻し、あるいは得てゆく。
しかし“今”――
「土佐坊。お前は、俺を討ちに来たのか?」
「いえ、私は貴方を迎えに来たのです。源九郎判官、義経様」
――彼は、何があっても守ろうと誓った人物の一人と、対峙していた。
第20話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 剣璽:神剣と同義。璽は印章等の意で、玉璽などが本来の形。日本では八尺瓊勾玉を璽と言い、それに対して神剣をこう呼んだ。
※2 鳳来寺:現在の愛知県新城市に所在する寺院。金王丸に係る伝説では長田親子が一旦逃げ込んだが、逆に頼朝が匿われたという伝説も残っている。
頼朝の兄朝長は、落ち延びる最中に容態を悪化させて死去し、葬られた。頼朝自身はその前に吹雪の中馬上で居眠りし、隊列から落伍している。
秋の気配が訪れようとする鎮西。壇ノ浦の近海に幕府を置き、未だに神剣の探索を担当する範頼。駐屯する幕府の、擁壁(ようへき)で囲われた仮の屋形で、役務を負う漁師の頭(かしら)から本日の捜索が終了した報告を受け一息つく。
地元の漁師や海女を動員しての作業は芳しくなく、水中に今も漂う多くの亡骸が、いよいよ神剣の姿を隠していた。冬になれば海に潜るのもいよいよ命がけ。
当初より捜索は冬までとされていたし、神剣は失われたものと諦める時が訪れようとしていた。それは天邪鬼の、――致命的とはならない微かな物に留まるが――皇統そのものをを害するという企みの一端が成ったと言っても過言では無い。
範頼も神剣発見の見通しは低いと思っていたが、鎌倉の意志は除いても、個人的にこれは不本意ではある。
(射命丸様が言っていた通り、あの物怪の手に渡らなかっただけ、まだ幸いか)
黄泉が溢れる事と並行して、射命丸が語っていた危惧。――今は水底に在る――形代たる剣璽(※1)を辿って、熱田の社に祀られている真の神剣が傷つけられるという事態も避けられたのだ。
(それに鎮西の平定も、まだ北部に限られているし)
当然鎌倉には、範頼からその旨が伝えられている。逆に彼らには、鎌倉の消息は入って来ない。鎌倉との文書の接受はあっても、あちらからは命令や指示を受けるだけに限られている。
鎌倉の様子が知れたのは、射命丸が京で重衡の事を聞きつけ、範頼の名代としてあちらに赴いた時が最後。却って京での情勢の方が、寺社筋からの伝手でよく知る事が出来ていた。
範頼が一人であれやこれやと考えを巡らせていると、そこへ射命丸が戻り、彼女は膝をついて帰着の挨拶をする。
「一貫坊、ただ今戻りました」
「お疲れ様です、一貫坊様」
常光をはじめ、まだ鎮西に残る鎌倉の御家人は、それぞれに縁のある地域において活動している。その中でも射命丸に役目はある。寺社筋とつなぎを付けるのは専ら彼女であったし、引き続き祐筆も勤めている。
叡山や周防まで飛んでいた射命丸は、鎌倉の消息にも関わる、京からの特段の情報を範頼にもたらす。
「九郎殿が伊予守(いよのかみ)に?」
「はい、恐らくは院から直接賜ったものかと」
伊予国は三河と同じく上国。国司の官位も、守であれば今の範頼と同様、従五位下が当てられる。それまで義経が就いていた検非違使、左衛門少尉が従六位下相当官であるから、それらよりも重い任官となる。
源平の合戦での働きだけを見るのであれば、これでもまだ足りぬ待遇と見られよう。ただそれは、確固たる軍紀や独歩を許さぬ鎌倉の気風を知らない者からすればの事。範頼は屋島の合戦の直前の、義経が熊野水軍と独断で同盟をした時の事を思い出す。
「何故鎌倉殿から御気色を被っているのか、分かっておられないのでしょうか?」
射命丸が首をひねりながら言う。範頼に深刻な風は見られない。彼のそんな様子を受けた射命丸も、さほど深刻には受け止めなかった。
実のところこの任官は鎌倉で重大な問題として取り上げられているのであるが、二人とも、範頼が墨俣で頼景と乱闘した際の怒りを受け、相当の詫びを送って許された時の、あの程度の事と同列に考えていた。
もちろん乱闘騒ぎも十分に軍紀を乱すものであり、あちらは範頼が殊勝に詫びたからこそ許されたのでもあった。
「まあ、九郎殿はお若いですからねぇ」
のほほんと言う範頼。二人は義経が腰越に留められ鎌倉中に入れなかったのは知っていても、のちに彼が飛ばした檄と、それに対する鎌倉の意志は知らない。
乱闘の方が若者のやらかす事であるのにと、射命丸は年に比して若く見える範頼の相貌を見ながら思う。そこにまた役目を終えた常光が姿を現し、まず範頼への帰着の挨拶と報告を行い、次いで射命丸を労う。
「一貫坊殿、お帰りなさいませ。京とこちらとでは、往復だけで大変だったでしょう」
「ありがとうございます、土佐坊殿。早馬を走らせるよりはだいぶ楽ですので」
袈裟頭巾を脱ぎながら常光はそれなら良かったと応じる。彼は彼で、土豪らにつなぎを付けに回っていた。にこやかな顔に刻まれた皺、それに負けずに走る多くの傷が、彼が歴戦の古強者であるのを思い出させる。
「そうそう、今蒲殿とも話していたのですが、九郎殿が伊予守に任じられたそうです」
「何ですと?」
常光のこめかみが微かに動き、表情は皺の深さと共に一瞬険しくなるが、それもすぐに普段通りの柔和なものに戻る。射命丸ですら見逃す程の刹那の変化であった。
「なるほど。では九郎殿はこれより、予州殿と呼ばねばなりませんね」
伊予国の“予”を以てする、範頼の参州と同様の唐風の呼称。これを聞き、ようやく彼は英傑に相応しい立場になったのだ、と、範頼は心から喜ぶ。範頼自身が三河守に任じられた際は衆目もあってそうして見せただけ、今この時の喜びこそが誠のものであった。
常光の笑顔を見た二人は、いよいよ義経が無断任官の怒りを受けた事を忘れる。これは祝っても良いことなのかも知れないと。
二人がまた語り合うのを後ろにし、場を辞する常光。そこには義朝の供回り、金王丸の顔が戻っていた。
∴
義経の任官から十日と経たず鎌倉から、遠州灘や熊野灘、豊後水道を経由して早舟が到着する。普段ならば陸路を早馬が走るはず、これが特別な便であるのを誰もが認識した。
船足を稼ぐためなのか、乗っていたのは主に海賊を警戒して武装していた侍だけ。需品などは補給分どころか乗員分の最低限しか積んでおらず、馬も居ない。使いの雑色すら居ないのにも範頼は気付いた。
「参州殿。梶原平三景時以下、鎌倉よりまかり越しまして候」
早舟は景時らの手勢の水軍の物。そこはそれと、景時“以下”の一人に範頼は気付き、少し可笑しくなる。ただでさえ無愛想な顔を、景時に手勢の一人と数えられたことにより、なお不機嫌そうにする年寄り。次長がそこに並んでいた。
ともあれ、景時が開陳した鎌倉からの書状には、範頼が時期的に予想していた命令――鎮西を奉行する将を残し、鎌倉へ戻るようにとの旨が記されていた。他にも、細々とも言えないいくつかの指示や命令があるが、帰れるというのが一番大きな事であった。
結局鎮西での仕事は、神剣捜索よりも西国からこちらの平定の下準備に終わった。やり残しや不本意なことは数あれど、また見知った人々に会えるのを考え、範頼も射命丸も安堵するのであった。
かしこまった場から屋形の一室に移り、次長が範頼に再会の挨拶をする。
だがそれもつかの間、彼はまたもかしこまり、一通の書状を取り出す。しかし差し出した先は範頼ではなく、射命丸と共に脇に控えていた常光。
「金王丸殿、鎌倉殿よりの別命にござる」
常光は平静な様子でそれを受け取り、一度うやうやしく掲げてから折られた書状を開く。
「拝見いたします」
右から左へゆっくりと目を運ぶ常光。
射命丸はよからぬ事と知りつつも、チラと彼の手元に目をやる。見えるのは書状の端だけ、それでも一つだけ気付いた事があった。
(鎌倉殿直筆の文?)
定かでは無いものの、僅かに見えた本文と花押が付された署名の筆跡が、射命丸には同じに見えた。頼朝直々の書状であることもだが、やはり重要なのはその内容。果たしてどの様な言い付けが記されているのか。それを誰彼が問うより先に常光が言う。
「参州殿、どうやらお別れのようです」
刺す様な眼差しで読んでいた書状から目を外すと、それをそっと閉じ、普段通りの穏やかな貌でそう伝える。それは余りに唐突な言葉であった。
皆が戸惑う中。まず、平治の乱以来の付き合いの古強者、次長が驚きの声を上げる。彼も書状の内容は知らなかったのだ。
「別れですと!?」
「はい、参州殿の下でのお役目は御免となり、改めて別のお役目を賜りました」
範頼の下での役目、彼の目付役の事だ。
総大将の任が終わり、また今までの動きからして範頼に目付役など必要の無い事を頼朝も理解したのであろう、射命丸はそう考える。
そうした鎌倉の――頼朝の信を得たはずの範頼の貌は暗い。
神剣捜索まで含めた長きに渡る遠征において、義経を英雄視する世間の批評とは裏腹に、地道に戦を進め、先達や古い者達の意見をよく聞いた範頼の評価は良い。
その武力の見せ方は全く違えど、人をとりまとめる事に腐心してきた彼に対する、それが鎌倉としての評だ。たとえそれが子供の使いだなんだと言われようが、最終的にここに至った事実を見ればそうである。
それが成ったのもひとえに常光のお陰。板東の流儀を知らない遠江の住人らの集まりであった範頼達にそれをよく教え、陰に日向にと助けて来た彼の存在あってこそであった。
「鎌倉への凱旋を前にして、ここでお別れなどと……次の役目とは如何なるものなのですか?」
「一貫坊殿」
いつもなら出て来ないうかつな言葉が射命丸の口を突き、次長がそれをたしなめる。射命丸の胸中には、今までには無かった寂しさが沸き上がっていた。
己が妖であると聞いても、範頼達が鎌倉に上がって来た事情を知っても、お目付役とは名ばかりに様々な形で助けてくれた彼。射命丸は肉親とはこういうものなのではないかと、そんな気持ちすら覚えていたのだ。
「次の役目ですか。今度は九郎判官を鎌倉にお連れせよとの事でして」
「っ! 金王丸殿、それは!」
それは決して言ってもよい事とは思えない、次長は叱責せんばかりの声音で、今度は常光をたしなめる。
「あ、いやこれは、つい口が滑ってしまいました」
後ろ頭をかいて笑う常光。言葉通りの、そしていつも通りのついうっかりでは無く、意図して言ったのであろう。彼の誤魔化し笑いも、今ばかりはわびしげだ。
「先の壇ノ浦での活躍がようやくと認められたのでしょう。ですので参州殿の下で働くのは、これが最後になりましょう」
「そうですか、九郎殿は、鎌倉に帰れるのですね!」
範頼は英雄の凱旋を喜んで見せているが、常光の話の前後はつながらない、射命丸はそう訝る。
同時の帰着は難しくとも、鎌倉に帰ればまた共に働く事になるかも知れないのに、常光は何故わざわざ最後などと言うのか。
「では、これから発たれるのか?」
「ええ、早舟で先んじて鎌倉へ戻り、準備を整えてからのお役目になりますから」
「であるから、そこまで言わずとも……」
これからの事の運びまで知らせるのはよろしくないと、次長が再三の苦言を呈する。
「や、これはまた」
またも誤魔化し笑いをし、しばらくしてそれを止めると、居住まいを正して範頼に向き直る。
「参州殿、ゆや御前を大事になさって下さい。貴方様が、全てを賭けて取り戻したのですから」
「それが叶ったのも土佐坊様のお陰です」
「勝間田殿、どうかお歳を考え、無茶はお控えなさいますよう。いらぬ事と思わず、この金王丸の言葉をお聞き下さい」
「う、む……少しは、考えよう」
まるで今生の別れではないか、とても鎌倉で再開する者の言葉とは思えない。そう不安を募らせる射命丸にも、常光は言う。
「一貫坊殿、何卒、何卒参州殿とゆや御前をお守り下さい。それと御身の想いも叶う事、拙僧は祈念いたします」
言ってからついでにと、御岳の桜坊にもよろしくなどと冗談めかして続ける。
己の想いとはなんであろうか。やはりゆやと範頼が幸せになる事、二人の間に子が生まれ、夫婦親子が穏やかに暮らす事か。それはなんとしてもと強く頷きつつも、常光の言葉に感じる侘しさは益々強くなる。
やはり彼とはもう二度と会えないのではないか。射命丸は不安を確信へと変えつつ、どうして範頼達はそれに気付かないのであろうかと不思議がる。
「あの――」
「さて、こうして別れを惜しんでいてはいつまでも出立できません。それでは参州殿、これにて」
「はい、お役目の完遂、心より願っております」
「金王丸殿、達者で」
二人とも言葉は少ない。
席を立ち、屋形から出で足早に自陣に戻ろうと歩む常光。それを追いかけようと射命丸も席を立つ。最後かも知れない、役目とやらの真実を聞けるのは今しか無いと。だが――
(問うて、どうする……?)
駆け寄ろうとし、声を上げようともしてから、いずれも踏みとどまる。彼が行く先に何があろうと、どうにもならないのだ。
遠ざかる常光の背を、三人は黙って見送る。
「征ってしまわれたか」
常光の姿がついに見えなくなり、次長が呟く。すると範頼は今まで溜めていた息を吐き出し、問いかける。
「勝間田様、九郎殿は今、鎌倉でどの様な扱いを」
「……正直、余りよろしくない」
射命丸の背に、つと汗が伝う。やはりそうなのか、常光はあの英雄と対峙することになるのかと、今更に別れを実感した。鎌倉に居た次長はおおよその事情を察していたし、範頼もまた、決して暢気に別れの挨拶をしていた訳ではなかったのだ。
人間のこの様な部分が、未だに射命丸には理解できなかった。お互い分かりきった事、通じた事を、何故あえて口に出さないのかと。
だが射命丸こそ気付いていなかった。言葉に出来る形で理解していなくとも、己が彼らと同じくしているのを。人との暮らしの中でそれを身につけたのを。
そしてその様な心は、そもそも言葉になど出来ない、もっと奥深い所からの共感から顕(あらわ)れる物なのだから。
「蒲殿、悪僧一人との惜別に暮れている時ではない。蒲殿にも、これからただ帰るだけで無く、相当のお役目が課せられているのである」
次長が、僅かばかり強く発する。確かに範頼に課せられた役目は軽くない。
範頼の心中は如何ばかりかと射命丸は案ずる。
「……はい!」
それでも範頼は強く応え、己の役割を果たさんと、ただ邁進するのであった。
悪天候の所為もあって長門国への渡海も遅れ、京に着いたのは予定より一ヶ月遅れ。季節はもう冬にさしかかろうとしていた。
範頼に課せられた役目とは、鎌倉の新たな寺院の落慶祝賀式に際し、園城寺の僧正やその同伴の僧達を鎌倉まで護衛すること。まだ平家の残党が居るかも知れず、山道海道には野党も跋扈する、次長が言った通り重い役目である。
範頼は道々、重衡や宗盛が最期を迎えた地を訪ねつつ、鎌倉への帰途に就いた。
∴
半年余りを置いての鎌倉入りは、範頼にも射命丸にとっても寂しいものであった。
常光の姿はやはり、鎌倉中には無かった。ちょうど範頼の隊と入れ替えに、六十余騎を連れて上洛して行ったのだ。常光だけではなく重衡も、それに鎌倉を出る時に率いた多くの郎党を亡くしての帰還でもある。
それでも範頼達には、帰れる場所があった。
「ここも、久しぶりですね」
「ええ、もう何年も経ったような気分です」
浜の館の門を見上げる範頼と射命丸。彼らの姿を見た門衛が、慌てて館の内に消える。「参州殿御帰着」と叫びながら。
「そう言えば、先触れを出していませんでしたね」
射命丸が思い出したように言う。余り大々的に迎えられるのは嫌だからと、範頼があえて館へそれを出させないように指示していたのだ。
館からは下男下女がすぐに出で、その先頭に頼景が姿を見せる。
「今日帰ると何故知らせを寄越さぬ、お主らの夕餉の用意は無いぞ!」
「えーかん――と言っても私とは四ヶ月ぶりですか。でもそれだけぶり挨拶がそれですか」
射命丸はそう応じ、苦笑しながら範頼を見る。その顔には、頼朝を始めとした重鎮から凱旋の労いを受けた時にも無かった笑顔が浮かぶ。
頼景に続いて、明るい紅色の袿を着た女房が、ほっそりした頬を膨らませながら駆け寄る。
「頼景様、勝手にそんなことを言わないで下さい。私は昨日から明日、明後日まで、いつお帰りになられてもと準備していたのですからね」
今の衣もすぐに着付けられる物ではない、本当に毎日準備しながら待っていたのだ。昨日一昨日の事で無く、ずっと。
「ゆや、ただ今戻りました」
「お帰りなさいませ、範頼様」
短くない距離と時を経てようやく再開した夫婦ではあるが、やはり触れ合うことは無い。
だがそれ必要無いほど、二人の間には再会の喜びが満ちていた。
* * *
神剣が安徳天皇と共に水底の竜宮に安置され、天の愁い未だ止まぬ元暦二年。
内裏にも被害を与えた大地震に代表される災害を経て文治と元号が改められる中、範頼は西国、鎮西よりの凱旋を果たした。
平家との戦いが完全に終わり、新たな都である鎌倉が立ち上がろうとする中、彼ら彼女らには、源平の戦いの当時には思いも寄らなかった、新たな戦いが訪れる。
幕間./金王丸正尊(西暦1160年)
鴉は今一度と、“彼”の姿を追って西へ飛ぶ。しかし折り悪く激しい吹雪に襲われ、その翼を凍えさせながら雪深い大地に降り立つ羽目になった。
折角“彼”に救われた命だというのにこれを危険に晒すとは、己はなんと愚かな事をしているのだ。彼女はそう、自身の軽率な行動を悔やみながら、風雪を耐えるに足る場所を探して短く飛んでは降りるを繰り返し、辛うじて雪を免れそうな森の中に分け入った。
ひと心地着いた彼女の前に、今度は真白な景色と真逆の光景が広がる。森の中を流れる川の縁。積もった雪の一部が、朱に染まっていたのだ。
(これは血かな、それもまだ新しいな)
雪に映える赤々とした鮮血。これを流した主もすぐ側に居るであろうかと、まず興味のままに鴉は首を廻らせる。血痕の主の姿は見当たらない。彼女は柔らかい雪を蹴ってなんとか羽ばたくと、木の間を注意深く飛び、眼下を睨みながら旋回する。
(あれか!)
凍てつく大気の中で羽ばたくのを止め、滑空して血痕の主の側へ舞い降りる。それは青年の、武者であった。
この寒さの中でこの出血、息が絶えていても仕方が無いと青年の躰を検める鴉。血に濡れてなお打刀を握り続けるその手が微かに動く、鴉はそれを見逃さなかった。
生きている。それを理解した彼女は――
(いや、私の身だって危ういのに、どうしようと?)
自問自答する。
何より、危険は気候や他の獣だけではない。この青年はどう見ても誰かと争った様にしか見えない。目を覚ませば、消耗に助長された凶暴性が鴉に向く事も考えられる。
意識が混濁しているのか、青年は小さく身じろぎしながら呻くだけ。
鴉はその様子を目に収めつつ、また深雪を蹴った。
∴
(頭殿に、この一振りを……)
青年は右手の中にあるはずのそれを、より強く握り込む。しかし、主君に渡すべき一振りは、そこに無かった。
彼の意識は急速に清明になり、同時にここまで自身の辿った道程も取り戻す。
――忠致の刺客だ! 頭殿が討たれた!
――奴め、婿の鎌田次郎殿をも手に掛けおった。人の面をした畜生めらが!
――長田親子だ! 逃げた、追うぞ!
――駄目だ、平家が寄せて来る!
――京の由良様に頭殿の死お伝えするのだ!
失ったのは手の中の刃だけでは無い。渡すべき主君こそ、既に喪われていたのだ。
主君、源義朝は長田荘で裏切りに遭った。それをその正室の由良御前に伝えるべく、敵中で山越えを繰り返した青年。
今は尾張を越え、三河国に辿り着いている、青年自身の記憶ではそのはずだった。しかし現実は、それより先に進んでいる。
「そうだ、俺は……」
長田忠致らが逃げ延びた鳳来寺(※2)までただ一人で寄せ、そして結局、何も果たせなかったのだった。
傷は痛んだが、何よりも悔恨が胸中を埋め尽くしている。
(早く刃を手に取らねば。そして仇を)
最大の力を込めても、突っ伏した顔を上げるのが精一杯。
青年のその目に飛び込んで来たのは、主君の二人の子を、嫡男である鬼武者とその兄松田冠者朝長を奪い去った真白い雪。
これが無ければ、鬼武者殿は東国に落ち延びられたのに。
これが無ければ、松田殿は命を落とさずに済んだのに。
青年は降りしきる雪が恨めしかった。それは今、己の体温から、命までを奪おうとしている。尚更であった。
「まだ、死ねぬ」
雪を掴み、這って前に進もうとするも、それを赤く染めながら掻くだけ。ただもがいているのと変わらない。
その動きを制止するかのように青年の手に刀傷とは別の鋭い痛みが走り、彼は伸ばした己の手の先を見る。そこには黒い塊があった。
塊――鴉は首を傾げると「クワァ」と鳴き、嘴で咥えていた草の束を放す。青年は、彼女の放したいくつかの種類の野草の中に、有用な物を認める。
「お主は、いずこかの権現様の使いか?」
青年が投げかけた問いに、ふいっとそっぱを向く鴉。彼にはこれが、人間がするのと同じ否定の行動と見て取れた。
鴉は結局、青年を見捨てなかった。
戦で武士が死ぬなど世の常。それをこうしていちいち助けるなど、鴉をしても全く無意味と知っていた。にも関わらず、である。この青年が“彼”に敵する側の者かも知れない、それを踏まえてもなお、彼女は青年を助ける道を選んだ。
この行いは、自身が“彼”に救われたから出来る事であり、今すべき事だと考えていたのだ。
己とて自然の営みの中で生きて来た、そこには助けてくれる者など居ない。それを“彼”は助けてくれた。己がこの様な行いをする事で“彼”に近づけるのかも知れない。鴉は、この行いがその様な考えの元での、手前勝手なものであると自覚していた。それでも、こうせずには居られなかった。
当然青年には、その様な彼女の心など分からない。
「使いでなくば、当地におわす神仏か」
先ほどは否定として見た彼女の態度も、そうであればこそとすら思っていた。
「ギャッギャッ!」
彼女は翼をばたつかせながら、「だから違うと言っているだろう!」と今度は全力で否定。
だが青年にとっては、いずれであっても変わりは無い。天に助けられ、ここに命を繋いだ事には。
青年は横たえていた身体を徐々に起こし、木の幹に依託するまでになると、今まであった事を語り始める。それは鴉に話すとも、独白とも言えるものであった。
平家との間に起こった争い。己が源氏の棟梁の近侍であり、役目を果たせずここに居る苦痛。そこに至る前、二人の御曹司を失った無念。
「せめて、藤蔵人大夫様の元の蒲冠者や、今若様達が無事であれば……」
そうか、この青年は源氏、“彼”の味方なのかと、鴉はそれには安心した。しかし今取り巻く状況は良くないのだろうとも同時に理解。
――この時の彼女は知らなかった。あの“彼”が源氏の者であるのは知れど、蒲冠者である事を――
今ほど人語を発したいと思った事は無い。焦がれ続ける姿を、青年に尋ねたかった。
しかし彼女はそうする代わりに、黙って青年を見上げ、願った。
(早く傷を癒やせ。そして願わくば、あの優しい“彼”を助けてやってくれ……)
* * *
青年は傷を癒やした後、紆余曲折を経て、乱暴狼藉の限りを尽くす悪僧土佐坊昌俊として、相模国住人土肥実平に身柄を預けられる。そこで彼は、失ったものの一つを取り戻すのだった。
そして彼は、一つまた一つと、幼子が川辺の綺麗な石を集める如く、失ったものを取り戻し、あるいは得てゆく。
しかし“今”――
「土佐坊。お前は、俺を討ちに来たのか?」
「いえ、私は貴方を迎えに来たのです。源九郎判官、義経様」
――彼は、何があっても守ろうと誓った人物の一人と、対峙していた。
第20話注釈――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 剣璽:神剣と同義。璽は印章等の意で、玉璽などが本来の形。日本では八尺瓊勾玉を璽と言い、それに対して神剣をこう呼んだ。
※2 鳳来寺:現在の愛知県新城市に所在する寺院。金王丸に係る伝説では長田親子が一旦逃げ込んだが、逆に頼朝が匿われたという伝説も残っている。
頼朝の兄朝長は、落ち延びる最中に容態を悪化させて死去し、葬られた。頼朝自身はその前に吹雪の中馬上で居眠りし、隊列から落伍している。
木ノ花 中編 一覧
感想をツイートする
ツイート