―10―
「で、蓮子、これからどうするの。まさか閻魔様に直接聞きに行くの?」
稗田邸を辞し、私は蓮子にそう訊ねる。蓮子はちっちっと指を振った。
「いくらなんでも、そこまで無謀じゃないわよ。むしろ、キャプテンたちが地上に脱出したことを閻魔様に知られたら藪蛇じゃない。閻魔様が聖白蓮の復活をどう扱うかまだ解らない以上、なるべく閻魔様に悟られないよう動かないと」
「まあ、そうよね。でも稗田家で調べて解らないことを、これ以上どうやって調べるの?」
聖白蓮が閻魔様と相対したとき、ムラサさんや一輪さんが寺を脱出して逃亡していたなら、閻魔様がどんな裁定を下したのかは彼女たちも知らないだろう。
「とりあえずは、資料を探すしかないわね。稗田の歴史から漏れた資料を」
「資料って、そんなものがどこにあるのよ。あとの関係者は博麗の巫女だけど、博麗神社の歴史はこの前の地震で更地になっちゃったって霊夢さんが……」
「甘いわねメリー。霊夢ちゃんは『処分した』と言っただけよ」
「だから、捨てちゃったんじゃないの?」
「霊夢ちゃんが神社の古いものを捨てるとして、どこに捨てると思う?」
「え、まさかゴミ漁り? って、いつの話だと思ってるのよ、地震は去年よ」
「メリー、今日は鈍いわねえ」
蓮子が呆れ顔で振り返る。私はむっと頬を膨らませた。
「ねえ、本を処分するって言ったとき、メリーはゴミ捨て場に持っていく?」
「え? いや、捨てるぐらいだったら古本屋に……あっ」
思わず私はぽんと手を叩く。そうか、なぜその可能性を見落としていたのか、自分でも不可解なぐらいにすっかり、あの店のことが頭から抜け落ちていた。博麗神社が古物を処分するという話になれば、間違いなく引き取りに来るだろう店があるではないか。
「香霖堂ね」
「そゆこと。というわけで、ちょっくら魔法の森まで行くわよ!」
かくして、やって来たるは魔法の森の入口にひっそりと居を構える古道具屋、香霖堂である。店の前に雑然と積み上げられた物品の山は、相変わらず古道具屋というより粗大ごみ置き場のようだ。どうやって運んできたのかわからないようなものもいくつかある。
「ねえ見てメリー、これ電話ボックスよ電話ボックス。実物は博物館以外で初めて見たわ」
その昔、携帯電話に絶滅させられたという公衆電話ボックスが、店の入口横に鎮座している。どこにも繋がらないだろう電話機がガラスケースの中にぽつんと置かれている様は、しみじみとした哀愁があった。
「売り物なのかしら?」
「インテリアにしては大きすぎるけどね」
蓮子が扉を開け、「おお、レトロスペクティブ!」とか言いながら受話器をとり、カチカチとボタンを押して遊び始める。小学生か。
「うっかりどこかに繋がったりしないかしらね」
「馬鹿言ってないの。だいたい小銭入れないとダメなんじゃなかった?」
「古い誘拐ものだと公衆電話に犯人から連絡の電話が掛かってくるのも定番なんだけど」
「ホントに鳴り出したら怖いわよ。どこに繋がってるかわからないんだから」
ここで実際に公衆電話が鳴り出したらホラーだが、あいにくそんな展開はなかった。私は蓮子を電話ボックスから引きずり出し、「今は資料探しでしょ」と店の入口へ引っ張る。
「はいはい、ごめんくださーい」
蓮子が先に立って店の入口のドアを開く。埃っぽい店内に外からの光が差し込み、店の奥で本を読んでいた人物が顔を上げた。ここの店主、森近霖之助さんである。
「ああ、君たちか。いらっしゃい」
それだけ言って、霖之助さんはまた本に視線を戻す。相変わらず商売っけのないマイペースな人だ。まあ、趣味人としては理想的な生活かもしれない。
蓮子はつかつかとそこへ歩み寄り、「ちょっと探し物があるんですけど」と身を乗り出す。霖之助さんは再び顔を上げ、「ふむ」と本に栞を挟んで閉じた。
「うちの店にはあるものしかないが、なんだい」
「去年の夏、博麗神社が倒壊したじゃないですか。そのとき、博麗神社から物置の古物を引き取りませんでしたか?」
「博麗神社の? ああ、確かに壊れた物置の中身の処分を頼まれたよ。地震で壊れたものも多かったが、書物や書類の類いはだいたい無事だったから、まとめて引き取った。霊夢に任せたら竈の種火にしてしまいかねないからね」
霖之助さんはそう言い、本棚の並んだ壁の方を見やる。
「あそこの一番右下にまとめて突っ込んである。買っていった者はいないから、引き取った当時のまま全部残っているはずだ」
「さすが霖之助さん!」
蓮子は手を叩いて、本棚の方に駆け寄っていく。霖之助さんは首を傾げて私の方を振り返り、「霊夢の頼みかい?」と訊ねた。私は首を横に振る。
「ちょっと諸般の事情で、博麗神社の歴史を調べてるんです」
「そういう話なら、稗田のところ……には当然もう行っているか。稗田の歴史に記録されていない部分を知りたいということかな」
「……まあ、そういうことです」
「さて、僕が引き取った中に、そんな神社の逸史を示すものがあったかどうか。博麗神社の史料は阿礼乙女も目を通しているはずだと思うが……」
そんなことを話していると、蓮子が古い巻物や和本を抱えて「メリー、ちょっと手伝ってよ」と私を呼んだ。私は肩を竦めて蓮子の方に歩み寄る。
「いやー、意外と量があるわ。これ整理するだけで結構な大仕事よ」
「どうするの蓮子。まさか全部持って帰る気?」
「うーん、霖之助さん、ここの博麗神社資料の中身ってわかります?」
「比較的新しい和本は、代々の博麗の巫女が当時の幻想郷の地誌をまとめた『幻想郷風土記』シリーズのはずだよ。巻物の方は、過去の博麗の巫女の武勇伝をまとめた絵巻物だったかな」
「だったら絵巻物の方かしら」
「いつ頃の話を調べたいんだい?」
「だいたい千年前なんですけど」
「そこにある史料に、そこまで古いものはないよ。一番古いもので四百年前といったところだ」
「ええー! それを先に言ってくださいよぉ」
「訊かなかったのは君だろう」
呆れ顔の霖之助さんに、蓮子は「うう、徒労……」と床にへたりこむ。
「必要ないなら元通り片付けておいてくれるかな」
「はーい……メリー、手伝って」
「はいはい」
まあ、こんなことになるだろうとは思った。稗田の歴史から抹消されている事実の証拠がそう簡単に手に入ったら、稗田の歴史から抹消されている意味がない。
私たちがごそごそと和本やら巻物やらを片付けていると、霖之助さんが「暗くなってきたな」と呟き、店の奥に姿を消した。どこへ行ったのだろう、と思っていると、霖之助さんは何やら光るものを手にして戻ってくる。踏み台に足を掛け、天井にそれを吊すと、薄暗い香霖堂の店内がほのかに明るくなった。ランプにしては光の感じが違うような……。
「あの、それなんですか? 今そこに吊した灯り」
「うん? ああ、これか」
私が訊ねると、霖之助さんは吊した灯りを見上げて眼鏡の位置を直す。
「宝塔だ」
「ほうとう?」
うどんみたいなやつ? と一瞬思ってしまった。そんなはずはない。
「毘沙門天の持ち物だよ。毘沙門天、あるいは多聞天像は見たことがあるかい。片方の手に持っている棍棒が宝棒、もう片方の手に持っているミニチュアの塔のようなものが宝塔だ。毘沙門天はもともとインドの財宝神だが、中国に伝わる過程で武神としての性格が生まれ、四天王の一尊となったとされている。四天王の中で宝塔を手にしているのは、北方を守護するリーダー格である毘沙門天だけだ。宝塔はそもそも仏舎利を安置する仏塔の一種だから、それを持っている毘沙門天が特別だということがわかる。またこの毘沙門天の宝塔は、もともとの財宝神の性格のためか、富をもたらすとされている。だから日本では七福神の一尊として、勝負事に利益をもたらす神様としておなじみなわけだね」
あ、霖之助さんの長広舌が始まってしまった。この人も、自分の興味の範疇の物事について説明を始めると果てしなく長くなる、慧音さんと同じタイプの性格をしている。
「霖之助さん、仏教徒だったんです?」
蓮子が問うと、「別にそういうわけじゃない」と霖之助さんは肩を竦める。
「単に売り物として置いているだけだ。随分と霊験あるもののようで、黙っていても光り続けているから、照明代わりに使っているんだ」
「いや、それってだいぶ罰当たりなんじゃ……ん、毘沙門天?」
私は蓮子と顔を見合わせる。確か命蓮寺は、毘沙門天を祀る真言宗のお寺でなかったか?
「霖之助さん、そんなものどこで手に入れたんです?」
蓮子が問うと、霖之助さんは「さて、どこだったかな」と腕を組んで首を傾げた。
「だいぶ前からうちの倉庫にあったものだからな……どこかの廃寺あたりから流れてきたものだとは思うが」
――ということは、命蓮寺から流れてきたものの可能性もある。
私たちは頭上で光る宝塔を見上げる。香霖堂の店内を照らすだけの役割に堕してしまった哀しみか、ゆらゆらと揺れる宝塔の姿に哀愁が漂っていた。
私たちは頷きあう。これも何かの縁だろう。蓮子が宝塔を指さし、口を開く。
「霖之助さん、この宝塔、おいくらです?」
―11―
「いやあ、結構ふっかけられたわねえ。寺子屋のお給料上がってなかったらピンチだったわ」
「上がってなかったらって、今月の給料日までまだ二週間あるんだけど」
「まあ、そのへんは何とかなるなる。本当に命蓮寺のものだったらキャプテンに買い取って貰ったっていいし」
「そんな罰当たりな……」
香霖堂からの帰り道。すっかり辺りも薄暗くなり、私たちは霖之助さんから買い取った宝塔を提灯代わりに足元を照らしながら、里への道を急いでいた。私たちも結局照明として使っているのだから大概罰当たりだが、実際に霊験ある宝塔なら、野良妖怪から私たちを守ってくれるだろう。たぶんきっと。
「命蓮寺と関係なかったら、我が家の照明に使いましょ」
「毘沙門天に怒られても知らないわよ」
「大丈夫よ、私阪神ファンだから」
「……どういう意味?」
「信貴山の朝護孫子寺は、物部守屋を討伐しようとしていた聖徳太子のもとに、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に毘沙門天が現れ、守屋討伐の秘法を授けたことから建立されたという伝説があるの。だから虎は毘沙門天の使いなわけで、阪神タイガースは朝護孫子寺に必勝祈願のお参りをするのが伝統なのよ」
「つまり?」
「これが毘沙門天の宝塔なら、阪神ファンにもご加護があるはず!」
「……だといいわね」
幻想郷で阪神ファンも何もないだろう。京都にいた頃には蓮子と甲子園球場に行ったこともあるけれど、残念ながら幻想郷にはそもそも野球がない。
「で、明日はどうするの? ムラサさんにその宝塔を見せに行く?」
「うーん、その前に魔界についてもうちょっと情報収集しておきたいわね。観光地とか美味しいお店とか、今の季節何かイベントやってるかとか」
「ちょっと蓮子」
「小粋なジョークよ。ま、とりあえず明日は紅魔館にでも行きましょうか」
確か図書館の小悪魔さんが、魔界出身だったはずだ。ひょっとしたら封印された聖白蓮を知っているかもしれない。
「了解。じゃあ、今日はさっさと里に帰りましょ。明日も寺子屋あるんだし」
「慧音さんみたいなこと言わないでよメリー。夜はこれからよ。あんまり健康的で規則正しい生活ばかりしてたら秘封倶楽部の名が廃るわ」
「いいのよ、だってこの幻想郷での生活が続く限り、秘封倶楽部の活動は継続中なんだから」
「あらメリー、それは一生秘封倶楽部でいましょうっていうプロポーズ?」
「馬鹿なこと言ってないの! ていうか、蓮子はもう科学世紀の京都に帰る気ないの?」
「幻想郷の生活に馴染みすぎて、もう科学世紀に戻れる気がしないわ。メリーはまだ帰りたいと思ってる?」
「……まあ、私ももう、帰る気ほとんどなくしてるけど」
私は月を見上げて呟く。もうこの世界に来てどれだけ経ったか。それでも未だに外来人という意識は抜けないし、科学世紀の記憶がある限り、私たちは永遠に幻想郷において異邦人のままだろうとは思う。かといって、今さら科学世紀の京都に戻っても、幻想郷の記憶を丸ごと失いでもしない限り、この世界に来る前の私たちには戻れない。
だとすれば私たちは、幻想郷に暮らしながら幻想郷の人間ではない、漂白の民としてこの世界で生きていくしかないのだろう。そうしていつか、科学世紀のことが完全に夢になってしまえば、私たちは幻想郷の人間としてこの地に骨を埋めることになるのかもしれない――。
そんなことを思いながら野道を歩いていると、不意に空から私たちの眼前に下りたってくる影があった。私たちは足を止めて身構える。こんな時間に空を飛んで来るということは、まず間違いなく妖怪だ。闇にまぎれてよく見えないが、できれば顔見知りであってほしい。
「どなた?」
蓮子が宝塔の光をかざすと、その人影は眩しそうに目を細めた。光の中に浮かび上がった顔は、幸いにして見知ったものである。人形遣いのアリス・マーガトロイドさんだった。
「誰かと思ったら貴方たちだったの。こんばんは」
「あら、アリスさんこんばんは。里からの帰り道ですか?」
「ええ。貴方たちは魔理沙のところにでも行っていたのかしら?」
「香霖堂に行った帰りです」
「ああ――妙なものを手に入れたみたいね」
蓮子が手に提げた宝塔を見やって、アリスさんは小首を傾げる。
「それ、毘沙門天の宝塔かしら」
「よくご存じで。アリスさん、仏教にもご関心が?」
「仏像は人形の一種だから」
人形の範囲も広いものだ。アリスさんの家には兵馬俑もあったから、仏像まで蒐集対象だと言われても、さもありなん。
「母の知り合いに仏教の僧侶もいたしね」
「お母様の? ……そういえばアリスさん、『幻想郷縁起』には元人間って書かれてましたけど、確か実際は違いましたよね?」
「あれは里に出入りするための方便だから。私は魔界の出身だって言わなかったかしら?」
――さらっと言われたその言葉に、私たちは目をしばたたかせ、そして顔を見合わせた。
実のところ、後日過去の事件簿を見直してみると、春雪異変のときに私たちはアリスさん自身から魔界出身だと聞いていた。しかし春雪異変から結構な時間が経っているため、私も蓮子も、このときすっかり記憶から抜け落ちていたことは責められまいと思う。
「あ、アリスさん、魔界出身でしたっけ」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
魔界出身ということは、アリスさんの母上は魔界にいるということになる。その知り合いに仏教の僧侶がいるということは――まさか。
「じゃあ、お母様のお知り合いの僧侶という方のお名前、ご存じですかしら」
「え? ええと確か……白蓮さんだったかしら?」
私たちは、ぽかんと口を開けた。
―12―
さすがにこれは、早く里に帰って明日に備えるどころの話ではない。「その話、詳しく伺いたいんですが」と蓮子が詰め寄ると、アリスさんは面食らったような顔をしながらも、断りはせず「じゃあ、うちに来る?」と言ってくれた。こればかりは相棒の人徳とやらを認めるにも吝かでない。
というわけで急遽私たちは、魔法の森のマーガトロイド邸にお邪魔していた。アリスさんの操る人形が紅茶を用意してきてくれ、私たちは三人でテーブルを囲む。
「とりあえず、私が話す前にそっちの事情を聞かせてもらえない?」
アリスさんがそう言うので、相棒がこれまでの事情をかいつまんで説明する。ふんふんと聞いていたアリスさんは、話を聞き終えて納得したように頷いた。
「なるほど。彼女が魔界にいたのって、そういう事情だったわけね。ならその宝塔も、おそらく彼女の持ち物だわ。その光、魔力光だもの」
テーブルに置かれた宝塔を指さし、アリスさんはさらりとそう言う。
「たぶん宝塔の中に、高純度な魔力の結晶体が入ってるのね。そこから漏れ出てるエネルギーが光になって見えているわけ」
「……聖白蓮は魔法の力で若返ったとは聞いてましたが、つまり種族上は魔法使いになるわけですか?」
「元人間の《成り変わり》なら、私やパチュリーみたいな《種族》としての魔法使いとは別だけど、まあ人間から見れば同じようなものでしょうね」
アリスさんは紅茶を一口飲み、「さて、私はどこから話したものかしら」と首を捻る。
「まあ、そもそも魔界にいた頃は、私は彼女とはほとんど交流がなかったんだけど……同じ魔法使いではあっても、彼女の魔法は私とはタイプが違ったしね」
「アリスさんのお母様と聖白蓮は、どういう関係だったのです?」
蓮子が問うと、アリスさんは、「そうね」と頷く。
「母のことから説明するのが一番早いわね。――母は、魔界の創造神なの」
「創造神?」
それはまた大きく出たものだ。
「母は魔界のものは全て自分が創ったとか言っていたけど、実際は八雲紫が幻想郷を創った、というのと同じぐらいの意味だと思うわ。立場的には、八雲紫が幻想郷を、西行寺幽々子が冥界を管理しているのと同じような、魔界の管理者」
「ははあ。魔界は悪魔や堕天使が暮らしていると聞いていたのですが」
「魔界と一口に言っても広いから。悪魔や堕天使が暮らしている領域もあるし、他にもいろいろあってね。母はやたらと面倒見がいいから、あちこちに目を配っていたわ。その聖白蓮とも、そういう過程で知り合ったんでしょうね」
「つまり、お母様は魔界での聖白蓮の庇護者のような立場だったと?」
「簡単に言えばそういうことになるかしら。庇護者といっても、向こうが封印されていたから、たまに様子を見に行く程度の程度の関係だけれど」
なるほど、私たちにとっての慧音さんというよりは、藍さんとの距離感だと考えればいいらしい。そういえば藍さんは今も私たちの様子を見張っているのだろうか。
「聖白蓮が封印されているというのは、完全に身動きがとれないような拘束を受けている、というわけではなかったんですね?」
「魔界の辺境に、法界と呼ばれている領域があるの。彼女はそこに閉じ込められていたわ。要するに幻想郷に出てくるな、妖怪は妖怪の領域で暮らせ、っていう意味での封印なんでしょうね。彼女のことは、人間に裏切られて封印された魔法使いの僧侶――と母が言っていた記憶があるわ」
「人間に裏切られて……」
妖怪を匿っていたことを糾弾され封印されたことは、聖白蓮にとっては人間から裏切りを受けたということになるのか。本人がどういうつもりで行動していたのかは知るべくもないが、妖怪を匿う行為を裏切りと見なした人間側との溝は深そうだ。
「お母様は聖白蓮を解放しようとはしなかったんです?」
「そこは何か、彼女を封印した際に取り決めがあったんでしょうね。母はとにかく他人の面倒を見るのが好きだったから、聖白蓮にも世話を焼いていたけれど、自分から彼女を解放しようとはしなかったわ。聖白蓮の方が断っていたのかもしれないけれど」
「なるほど。では、アリスさんはどのようにして聖白蓮と知り合ったんですか?」
「一度だけ、母に連れられて彼女に会いに行ったことがあるの。私は母に魔法使いとして産み出されたから、《成り変わり》とはいえ同じ魔法使いである聖白蓮に、私の師にでもなってほしかったのかもね。まあ、結局彼女の魔法は私の魔法とは根本的にタイプが違うものだったから、師弟関係にはなりようもなかったわ」
「聖白蓮の魔法って、どんなものだったんです?」
「端的に言えば肉体強化系ね。私とはまるきり正反対だわ。着ぐるみのスーツアクターは人形浄瑠璃の師匠にはなれない、っていうところかしら」
尼僧の魔法が肉体強化とはずいぶんイメージと違う気がするが、僧侶といえば回復魔法という古典的ビデオゲームの刷り込みかもしれない。
「生活圏が違ったから、私が彼女と顔を合わせたのはその一度きり。だから、彼女の人物像を詳しく知っているほどの関係じゃないし、どんな話をしたかもよく覚えてないわ。彼女がなぜ封印されたか、という質問にも答えられない。ごめんなさいね」
「いえいえ、たいへん貴重な情報ありがとうございます。じゃあ、聖白蓮は今も魔界の片隅で元気に暮らしていると考えていいんでしょうか?」
「私が幻想郷に来てから今までの間に何事もなければね」
「アリスさんがこちらで暮らし始めたのはいつ頃でしたっけ?」
「貴方たちと知り合う少し前ぐらいよ」
「あら、じゃあ私たちと同じ頃に幻想郷に来たんですか」
「そうだったの? まあ、それはどうでもいいけれど――まあ、魔界の時間の流れは幻想郷よりずっとゆっくりしてるから、たかだか数年でどうこうってことはないと思うわ」
「そうですか。キャプテンたちが聖白蓮を解放しに行った場合、なにか問題は生じると思います? たとえばアリスさんのお母様はどうでしょう」
「さあ、彼女の封印についてどんな取り決めがあったのかは知らないから、なんとも言えないわね。母個人としては、聖白蓮が解放されて幻想郷に帰ると言えば、良かったわねって祝福すると思うけど。純粋な魔界の民が外に出るのは今はいろいろと面倒なはずだけど、もともと外の住民だったのが解放されるってことなら、そんなに面倒なことはないと思うわ」
「なるほど。――アリスさんはその面倒なことを乗り越えて外に出てきたわけですか?」
「私もいろいろあるのよ」
その件はノーコメントということらしい。アリスさんの家庭の事情は本題ではないので、蓮子もそれ以上は深く追及しなかった。
「ところで、魔界ってどこから行けるんですかね」
「博麗神社の裏山のトンネル」
予想外に身近な地名に、飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。そんなところに魔界の入口があったのか。むせた私に、アリスさんが「大丈夫?」とハンカチを差し出す。
「ははあ、だから博麗の巫女が聖白蓮を魔界に封印したって話になるわけね」
蓮子は腕を組んで頷く。
「どうもありがとうございました、アリスさん。大変参考になりましたわ」
「そう? あまり役に立てなかった気がするけれど」
「いえいえ、聖白蓮が魔界で元気に暮らしていることがわかっただけでも、キャプテンたちにとっては朗報でしょうから」
「……そうね、そうかもしれないわね」
アリスさんは冷めかけた紅茶を飲み干すと、「帰るなら、里まで送るわよ」と立ち上がった。
「え? そこまでしていただくわけには。森の外までで結構ですわ」
「もう暗いわよ。野良妖怪が出るかもしれないわ。私が貴方たちを襲って食べたなんて誤解されても困るから」
それはそうだろう。ここはお言葉に甘えるべきだと思う。
というわけでアリスさんに掴まって空を飛び、私たちは里の入口まで送り届けてもらった。光り続ける宝塔を手に、私たちはアリスさんに「お世話になりました」と頭を下げる。
「いいのよ。それより貴方たち、その船に乗って魔界へ行くんでしょう?」
「ええ、そのつもりですけれど」
「だったら、もしうちの母に会うことがあったら、よろしく伝えておいて。元気にしているから心配しないでって」
「承知しましたわ。――でも、たまには御自分で里帰りされては?」
蓮子がそう言うと、アリスさんはふっと視線を逸らし、「そのうち、ね」とはぐらかすように答えた。やっぱり何か複雑な事情がありそうだが、それを追及しても仕方ない。
「――ああ、そうだ。ひとつ思いだしたわ」
私たちが「それじゃあ」と踵を返しかけたところで、アリスさんが不意にそう声をあげた。
「なんです?」
「聖白蓮の話よ。一度だけ法界で彼女に会ったとき、彼女が私にしてくれた話を思いだしたわ」
アリスさんは目を細め、月を見上げて呟くように口にする。
「私の師にはなれないとわかって、別れ際に彼女が私を見下ろして言ったわ。『きょうだいはいますか?』って」
「アリスさん、ご兄弟がいらっしゃるんです?」
「ええ。まあ、母の言うことを真に受ければ魔界の住民はみんな私の兄弟姉妹になるんだけど、その中でも母と一緒に暮らしていた姉が五人いたわ。私はその末っ子」
ということはアリスさんは六人姉妹か。ちょっとした大家族である。
「私が頷くと、彼女は私の頭を撫でて言ったわ。――『兄弟姉妹は、大切にしなくちゃダメよ』」
そこで一度言葉を切り、アリスさんは月に向かって息を吐く。
「『――本当に助けてあげたいと思ったときには、手遅れになってしまうから』って」
「で、蓮子、これからどうするの。まさか閻魔様に直接聞きに行くの?」
稗田邸を辞し、私は蓮子にそう訊ねる。蓮子はちっちっと指を振った。
「いくらなんでも、そこまで無謀じゃないわよ。むしろ、キャプテンたちが地上に脱出したことを閻魔様に知られたら藪蛇じゃない。閻魔様が聖白蓮の復活をどう扱うかまだ解らない以上、なるべく閻魔様に悟られないよう動かないと」
「まあ、そうよね。でも稗田家で調べて解らないことを、これ以上どうやって調べるの?」
聖白蓮が閻魔様と相対したとき、ムラサさんや一輪さんが寺を脱出して逃亡していたなら、閻魔様がどんな裁定を下したのかは彼女たちも知らないだろう。
「とりあえずは、資料を探すしかないわね。稗田の歴史から漏れた資料を」
「資料って、そんなものがどこにあるのよ。あとの関係者は博麗の巫女だけど、博麗神社の歴史はこの前の地震で更地になっちゃったって霊夢さんが……」
「甘いわねメリー。霊夢ちゃんは『処分した』と言っただけよ」
「だから、捨てちゃったんじゃないの?」
「霊夢ちゃんが神社の古いものを捨てるとして、どこに捨てると思う?」
「え、まさかゴミ漁り? って、いつの話だと思ってるのよ、地震は去年よ」
「メリー、今日は鈍いわねえ」
蓮子が呆れ顔で振り返る。私はむっと頬を膨らませた。
「ねえ、本を処分するって言ったとき、メリーはゴミ捨て場に持っていく?」
「え? いや、捨てるぐらいだったら古本屋に……あっ」
思わず私はぽんと手を叩く。そうか、なぜその可能性を見落としていたのか、自分でも不可解なぐらいにすっかり、あの店のことが頭から抜け落ちていた。博麗神社が古物を処分するという話になれば、間違いなく引き取りに来るだろう店があるではないか。
「香霖堂ね」
「そゆこと。というわけで、ちょっくら魔法の森まで行くわよ!」
かくして、やって来たるは魔法の森の入口にひっそりと居を構える古道具屋、香霖堂である。店の前に雑然と積み上げられた物品の山は、相変わらず古道具屋というより粗大ごみ置き場のようだ。どうやって運んできたのかわからないようなものもいくつかある。
「ねえ見てメリー、これ電話ボックスよ電話ボックス。実物は博物館以外で初めて見たわ」
その昔、携帯電話に絶滅させられたという公衆電話ボックスが、店の入口横に鎮座している。どこにも繋がらないだろう電話機がガラスケースの中にぽつんと置かれている様は、しみじみとした哀愁があった。
「売り物なのかしら?」
「インテリアにしては大きすぎるけどね」
蓮子が扉を開け、「おお、レトロスペクティブ!」とか言いながら受話器をとり、カチカチとボタンを押して遊び始める。小学生か。
「うっかりどこかに繋がったりしないかしらね」
「馬鹿言ってないの。だいたい小銭入れないとダメなんじゃなかった?」
「古い誘拐ものだと公衆電話に犯人から連絡の電話が掛かってくるのも定番なんだけど」
「ホントに鳴り出したら怖いわよ。どこに繋がってるかわからないんだから」
ここで実際に公衆電話が鳴り出したらホラーだが、あいにくそんな展開はなかった。私は蓮子を電話ボックスから引きずり出し、「今は資料探しでしょ」と店の入口へ引っ張る。
「はいはい、ごめんくださーい」
蓮子が先に立って店の入口のドアを開く。埃っぽい店内に外からの光が差し込み、店の奥で本を読んでいた人物が顔を上げた。ここの店主、森近霖之助さんである。
「ああ、君たちか。いらっしゃい」
それだけ言って、霖之助さんはまた本に視線を戻す。相変わらず商売っけのないマイペースな人だ。まあ、趣味人としては理想的な生活かもしれない。
蓮子はつかつかとそこへ歩み寄り、「ちょっと探し物があるんですけど」と身を乗り出す。霖之助さんは再び顔を上げ、「ふむ」と本に栞を挟んで閉じた。
「うちの店にはあるものしかないが、なんだい」
「去年の夏、博麗神社が倒壊したじゃないですか。そのとき、博麗神社から物置の古物を引き取りませんでしたか?」
「博麗神社の? ああ、確かに壊れた物置の中身の処分を頼まれたよ。地震で壊れたものも多かったが、書物や書類の類いはだいたい無事だったから、まとめて引き取った。霊夢に任せたら竈の種火にしてしまいかねないからね」
霖之助さんはそう言い、本棚の並んだ壁の方を見やる。
「あそこの一番右下にまとめて突っ込んである。買っていった者はいないから、引き取った当時のまま全部残っているはずだ」
「さすが霖之助さん!」
蓮子は手を叩いて、本棚の方に駆け寄っていく。霖之助さんは首を傾げて私の方を振り返り、「霊夢の頼みかい?」と訊ねた。私は首を横に振る。
「ちょっと諸般の事情で、博麗神社の歴史を調べてるんです」
「そういう話なら、稗田のところ……には当然もう行っているか。稗田の歴史に記録されていない部分を知りたいということかな」
「……まあ、そういうことです」
「さて、僕が引き取った中に、そんな神社の逸史を示すものがあったかどうか。博麗神社の史料は阿礼乙女も目を通しているはずだと思うが……」
そんなことを話していると、蓮子が古い巻物や和本を抱えて「メリー、ちょっと手伝ってよ」と私を呼んだ。私は肩を竦めて蓮子の方に歩み寄る。
「いやー、意外と量があるわ。これ整理するだけで結構な大仕事よ」
「どうするの蓮子。まさか全部持って帰る気?」
「うーん、霖之助さん、ここの博麗神社資料の中身ってわかります?」
「比較的新しい和本は、代々の博麗の巫女が当時の幻想郷の地誌をまとめた『幻想郷風土記』シリーズのはずだよ。巻物の方は、過去の博麗の巫女の武勇伝をまとめた絵巻物だったかな」
「だったら絵巻物の方かしら」
「いつ頃の話を調べたいんだい?」
「だいたい千年前なんですけど」
「そこにある史料に、そこまで古いものはないよ。一番古いもので四百年前といったところだ」
「ええー! それを先に言ってくださいよぉ」
「訊かなかったのは君だろう」
呆れ顔の霖之助さんに、蓮子は「うう、徒労……」と床にへたりこむ。
「必要ないなら元通り片付けておいてくれるかな」
「はーい……メリー、手伝って」
「はいはい」
まあ、こんなことになるだろうとは思った。稗田の歴史から抹消されている事実の証拠がそう簡単に手に入ったら、稗田の歴史から抹消されている意味がない。
私たちがごそごそと和本やら巻物やらを片付けていると、霖之助さんが「暗くなってきたな」と呟き、店の奥に姿を消した。どこへ行ったのだろう、と思っていると、霖之助さんは何やら光るものを手にして戻ってくる。踏み台に足を掛け、天井にそれを吊すと、薄暗い香霖堂の店内がほのかに明るくなった。ランプにしては光の感じが違うような……。
「あの、それなんですか? 今そこに吊した灯り」
「うん? ああ、これか」
私が訊ねると、霖之助さんは吊した灯りを見上げて眼鏡の位置を直す。
「宝塔だ」
「ほうとう?」
うどんみたいなやつ? と一瞬思ってしまった。そんなはずはない。
「毘沙門天の持ち物だよ。毘沙門天、あるいは多聞天像は見たことがあるかい。片方の手に持っている棍棒が宝棒、もう片方の手に持っているミニチュアの塔のようなものが宝塔だ。毘沙門天はもともとインドの財宝神だが、中国に伝わる過程で武神としての性格が生まれ、四天王の一尊となったとされている。四天王の中で宝塔を手にしているのは、北方を守護するリーダー格である毘沙門天だけだ。宝塔はそもそも仏舎利を安置する仏塔の一種だから、それを持っている毘沙門天が特別だということがわかる。またこの毘沙門天の宝塔は、もともとの財宝神の性格のためか、富をもたらすとされている。だから日本では七福神の一尊として、勝負事に利益をもたらす神様としておなじみなわけだね」
あ、霖之助さんの長広舌が始まってしまった。この人も、自分の興味の範疇の物事について説明を始めると果てしなく長くなる、慧音さんと同じタイプの性格をしている。
「霖之助さん、仏教徒だったんです?」
蓮子が問うと、「別にそういうわけじゃない」と霖之助さんは肩を竦める。
「単に売り物として置いているだけだ。随分と霊験あるもののようで、黙っていても光り続けているから、照明代わりに使っているんだ」
「いや、それってだいぶ罰当たりなんじゃ……ん、毘沙門天?」
私は蓮子と顔を見合わせる。確か命蓮寺は、毘沙門天を祀る真言宗のお寺でなかったか?
「霖之助さん、そんなものどこで手に入れたんです?」
蓮子が問うと、霖之助さんは「さて、どこだったかな」と腕を組んで首を傾げた。
「だいぶ前からうちの倉庫にあったものだからな……どこかの廃寺あたりから流れてきたものだとは思うが」
――ということは、命蓮寺から流れてきたものの可能性もある。
私たちは頭上で光る宝塔を見上げる。香霖堂の店内を照らすだけの役割に堕してしまった哀しみか、ゆらゆらと揺れる宝塔の姿に哀愁が漂っていた。
私たちは頷きあう。これも何かの縁だろう。蓮子が宝塔を指さし、口を開く。
「霖之助さん、この宝塔、おいくらです?」
―11―
「いやあ、結構ふっかけられたわねえ。寺子屋のお給料上がってなかったらピンチだったわ」
「上がってなかったらって、今月の給料日までまだ二週間あるんだけど」
「まあ、そのへんは何とかなるなる。本当に命蓮寺のものだったらキャプテンに買い取って貰ったっていいし」
「そんな罰当たりな……」
香霖堂からの帰り道。すっかり辺りも薄暗くなり、私たちは霖之助さんから買い取った宝塔を提灯代わりに足元を照らしながら、里への道を急いでいた。私たちも結局照明として使っているのだから大概罰当たりだが、実際に霊験ある宝塔なら、野良妖怪から私たちを守ってくれるだろう。たぶんきっと。
「命蓮寺と関係なかったら、我が家の照明に使いましょ」
「毘沙門天に怒られても知らないわよ」
「大丈夫よ、私阪神ファンだから」
「……どういう意味?」
「信貴山の朝護孫子寺は、物部守屋を討伐しようとしていた聖徳太子のもとに、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に毘沙門天が現れ、守屋討伐の秘法を授けたことから建立されたという伝説があるの。だから虎は毘沙門天の使いなわけで、阪神タイガースは朝護孫子寺に必勝祈願のお参りをするのが伝統なのよ」
「つまり?」
「これが毘沙門天の宝塔なら、阪神ファンにもご加護があるはず!」
「……だといいわね」
幻想郷で阪神ファンも何もないだろう。京都にいた頃には蓮子と甲子園球場に行ったこともあるけれど、残念ながら幻想郷にはそもそも野球がない。
「で、明日はどうするの? ムラサさんにその宝塔を見せに行く?」
「うーん、その前に魔界についてもうちょっと情報収集しておきたいわね。観光地とか美味しいお店とか、今の季節何かイベントやってるかとか」
「ちょっと蓮子」
「小粋なジョークよ。ま、とりあえず明日は紅魔館にでも行きましょうか」
確か図書館の小悪魔さんが、魔界出身だったはずだ。ひょっとしたら封印された聖白蓮を知っているかもしれない。
「了解。じゃあ、今日はさっさと里に帰りましょ。明日も寺子屋あるんだし」
「慧音さんみたいなこと言わないでよメリー。夜はこれからよ。あんまり健康的で規則正しい生活ばかりしてたら秘封倶楽部の名が廃るわ」
「いいのよ、だってこの幻想郷での生活が続く限り、秘封倶楽部の活動は継続中なんだから」
「あらメリー、それは一生秘封倶楽部でいましょうっていうプロポーズ?」
「馬鹿なこと言ってないの! ていうか、蓮子はもう科学世紀の京都に帰る気ないの?」
「幻想郷の生活に馴染みすぎて、もう科学世紀に戻れる気がしないわ。メリーはまだ帰りたいと思ってる?」
「……まあ、私ももう、帰る気ほとんどなくしてるけど」
私は月を見上げて呟く。もうこの世界に来てどれだけ経ったか。それでも未だに外来人という意識は抜けないし、科学世紀の記憶がある限り、私たちは永遠に幻想郷において異邦人のままだろうとは思う。かといって、今さら科学世紀の京都に戻っても、幻想郷の記憶を丸ごと失いでもしない限り、この世界に来る前の私たちには戻れない。
だとすれば私たちは、幻想郷に暮らしながら幻想郷の人間ではない、漂白の民としてこの世界で生きていくしかないのだろう。そうしていつか、科学世紀のことが完全に夢になってしまえば、私たちは幻想郷の人間としてこの地に骨を埋めることになるのかもしれない――。
そんなことを思いながら野道を歩いていると、不意に空から私たちの眼前に下りたってくる影があった。私たちは足を止めて身構える。こんな時間に空を飛んで来るということは、まず間違いなく妖怪だ。闇にまぎれてよく見えないが、できれば顔見知りであってほしい。
「どなた?」
蓮子が宝塔の光をかざすと、その人影は眩しそうに目を細めた。光の中に浮かび上がった顔は、幸いにして見知ったものである。人形遣いのアリス・マーガトロイドさんだった。
「誰かと思ったら貴方たちだったの。こんばんは」
「あら、アリスさんこんばんは。里からの帰り道ですか?」
「ええ。貴方たちは魔理沙のところにでも行っていたのかしら?」
「香霖堂に行った帰りです」
「ああ――妙なものを手に入れたみたいね」
蓮子が手に提げた宝塔を見やって、アリスさんは小首を傾げる。
「それ、毘沙門天の宝塔かしら」
「よくご存じで。アリスさん、仏教にもご関心が?」
「仏像は人形の一種だから」
人形の範囲も広いものだ。アリスさんの家には兵馬俑もあったから、仏像まで蒐集対象だと言われても、さもありなん。
「母の知り合いに仏教の僧侶もいたしね」
「お母様の? ……そういえばアリスさん、『幻想郷縁起』には元人間って書かれてましたけど、確か実際は違いましたよね?」
「あれは里に出入りするための方便だから。私は魔界の出身だって言わなかったかしら?」
――さらっと言われたその言葉に、私たちは目をしばたたかせ、そして顔を見合わせた。
実のところ、後日過去の事件簿を見直してみると、春雪異変のときに私たちはアリスさん自身から魔界出身だと聞いていた。しかし春雪異変から結構な時間が経っているため、私も蓮子も、このときすっかり記憶から抜け落ちていたことは責められまいと思う。
「あ、アリスさん、魔界出身でしたっけ」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
魔界出身ということは、アリスさんの母上は魔界にいるということになる。その知り合いに仏教の僧侶がいるということは――まさか。
「じゃあ、お母様のお知り合いの僧侶という方のお名前、ご存じですかしら」
「え? ええと確か……白蓮さんだったかしら?」
私たちは、ぽかんと口を開けた。
―12―
さすがにこれは、早く里に帰って明日に備えるどころの話ではない。「その話、詳しく伺いたいんですが」と蓮子が詰め寄ると、アリスさんは面食らったような顔をしながらも、断りはせず「じゃあ、うちに来る?」と言ってくれた。こればかりは相棒の人徳とやらを認めるにも吝かでない。
というわけで急遽私たちは、魔法の森のマーガトロイド邸にお邪魔していた。アリスさんの操る人形が紅茶を用意してきてくれ、私たちは三人でテーブルを囲む。
「とりあえず、私が話す前にそっちの事情を聞かせてもらえない?」
アリスさんがそう言うので、相棒がこれまでの事情をかいつまんで説明する。ふんふんと聞いていたアリスさんは、話を聞き終えて納得したように頷いた。
「なるほど。彼女が魔界にいたのって、そういう事情だったわけね。ならその宝塔も、おそらく彼女の持ち物だわ。その光、魔力光だもの」
テーブルに置かれた宝塔を指さし、アリスさんはさらりとそう言う。
「たぶん宝塔の中に、高純度な魔力の結晶体が入ってるのね。そこから漏れ出てるエネルギーが光になって見えているわけ」
「……聖白蓮は魔法の力で若返ったとは聞いてましたが、つまり種族上は魔法使いになるわけですか?」
「元人間の《成り変わり》なら、私やパチュリーみたいな《種族》としての魔法使いとは別だけど、まあ人間から見れば同じようなものでしょうね」
アリスさんは紅茶を一口飲み、「さて、私はどこから話したものかしら」と首を捻る。
「まあ、そもそも魔界にいた頃は、私は彼女とはほとんど交流がなかったんだけど……同じ魔法使いではあっても、彼女の魔法は私とはタイプが違ったしね」
「アリスさんのお母様と聖白蓮は、どういう関係だったのです?」
蓮子が問うと、アリスさんは、「そうね」と頷く。
「母のことから説明するのが一番早いわね。――母は、魔界の創造神なの」
「創造神?」
それはまた大きく出たものだ。
「母は魔界のものは全て自分が創ったとか言っていたけど、実際は八雲紫が幻想郷を創った、というのと同じぐらいの意味だと思うわ。立場的には、八雲紫が幻想郷を、西行寺幽々子が冥界を管理しているのと同じような、魔界の管理者」
「ははあ。魔界は悪魔や堕天使が暮らしていると聞いていたのですが」
「魔界と一口に言っても広いから。悪魔や堕天使が暮らしている領域もあるし、他にもいろいろあってね。母はやたらと面倒見がいいから、あちこちに目を配っていたわ。その聖白蓮とも、そういう過程で知り合ったんでしょうね」
「つまり、お母様は魔界での聖白蓮の庇護者のような立場だったと?」
「簡単に言えばそういうことになるかしら。庇護者といっても、向こうが封印されていたから、たまに様子を見に行く程度の程度の関係だけれど」
なるほど、私たちにとっての慧音さんというよりは、藍さんとの距離感だと考えればいいらしい。そういえば藍さんは今も私たちの様子を見張っているのだろうか。
「聖白蓮が封印されているというのは、完全に身動きがとれないような拘束を受けている、というわけではなかったんですね?」
「魔界の辺境に、法界と呼ばれている領域があるの。彼女はそこに閉じ込められていたわ。要するに幻想郷に出てくるな、妖怪は妖怪の領域で暮らせ、っていう意味での封印なんでしょうね。彼女のことは、人間に裏切られて封印された魔法使いの僧侶――と母が言っていた記憶があるわ」
「人間に裏切られて……」
妖怪を匿っていたことを糾弾され封印されたことは、聖白蓮にとっては人間から裏切りを受けたということになるのか。本人がどういうつもりで行動していたのかは知るべくもないが、妖怪を匿う行為を裏切りと見なした人間側との溝は深そうだ。
「お母様は聖白蓮を解放しようとはしなかったんです?」
「そこは何か、彼女を封印した際に取り決めがあったんでしょうね。母はとにかく他人の面倒を見るのが好きだったから、聖白蓮にも世話を焼いていたけれど、自分から彼女を解放しようとはしなかったわ。聖白蓮の方が断っていたのかもしれないけれど」
「なるほど。では、アリスさんはどのようにして聖白蓮と知り合ったんですか?」
「一度だけ、母に連れられて彼女に会いに行ったことがあるの。私は母に魔法使いとして産み出されたから、《成り変わり》とはいえ同じ魔法使いである聖白蓮に、私の師にでもなってほしかったのかもね。まあ、結局彼女の魔法は私の魔法とは根本的にタイプが違うものだったから、師弟関係にはなりようもなかったわ」
「聖白蓮の魔法って、どんなものだったんです?」
「端的に言えば肉体強化系ね。私とはまるきり正反対だわ。着ぐるみのスーツアクターは人形浄瑠璃の師匠にはなれない、っていうところかしら」
尼僧の魔法が肉体強化とはずいぶんイメージと違う気がするが、僧侶といえば回復魔法という古典的ビデオゲームの刷り込みかもしれない。
「生活圏が違ったから、私が彼女と顔を合わせたのはその一度きり。だから、彼女の人物像を詳しく知っているほどの関係じゃないし、どんな話をしたかもよく覚えてないわ。彼女がなぜ封印されたか、という質問にも答えられない。ごめんなさいね」
「いえいえ、たいへん貴重な情報ありがとうございます。じゃあ、聖白蓮は今も魔界の片隅で元気に暮らしていると考えていいんでしょうか?」
「私が幻想郷に来てから今までの間に何事もなければね」
「アリスさんがこちらで暮らし始めたのはいつ頃でしたっけ?」
「貴方たちと知り合う少し前ぐらいよ」
「あら、じゃあ私たちと同じ頃に幻想郷に来たんですか」
「そうだったの? まあ、それはどうでもいいけれど――まあ、魔界の時間の流れは幻想郷よりずっとゆっくりしてるから、たかだか数年でどうこうってことはないと思うわ」
「そうですか。キャプテンたちが聖白蓮を解放しに行った場合、なにか問題は生じると思います? たとえばアリスさんのお母様はどうでしょう」
「さあ、彼女の封印についてどんな取り決めがあったのかは知らないから、なんとも言えないわね。母個人としては、聖白蓮が解放されて幻想郷に帰ると言えば、良かったわねって祝福すると思うけど。純粋な魔界の民が外に出るのは今はいろいろと面倒なはずだけど、もともと外の住民だったのが解放されるってことなら、そんなに面倒なことはないと思うわ」
「なるほど。――アリスさんはその面倒なことを乗り越えて外に出てきたわけですか?」
「私もいろいろあるのよ」
その件はノーコメントということらしい。アリスさんの家庭の事情は本題ではないので、蓮子もそれ以上は深く追及しなかった。
「ところで、魔界ってどこから行けるんですかね」
「博麗神社の裏山のトンネル」
予想外に身近な地名に、飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった。そんなところに魔界の入口があったのか。むせた私に、アリスさんが「大丈夫?」とハンカチを差し出す。
「ははあ、だから博麗の巫女が聖白蓮を魔界に封印したって話になるわけね」
蓮子は腕を組んで頷く。
「どうもありがとうございました、アリスさん。大変参考になりましたわ」
「そう? あまり役に立てなかった気がするけれど」
「いえいえ、聖白蓮が魔界で元気に暮らしていることがわかっただけでも、キャプテンたちにとっては朗報でしょうから」
「……そうね、そうかもしれないわね」
アリスさんは冷めかけた紅茶を飲み干すと、「帰るなら、里まで送るわよ」と立ち上がった。
「え? そこまでしていただくわけには。森の外までで結構ですわ」
「もう暗いわよ。野良妖怪が出るかもしれないわ。私が貴方たちを襲って食べたなんて誤解されても困るから」
それはそうだろう。ここはお言葉に甘えるべきだと思う。
というわけでアリスさんに掴まって空を飛び、私たちは里の入口まで送り届けてもらった。光り続ける宝塔を手に、私たちはアリスさんに「お世話になりました」と頭を下げる。
「いいのよ。それより貴方たち、その船に乗って魔界へ行くんでしょう?」
「ええ、そのつもりですけれど」
「だったら、もしうちの母に会うことがあったら、よろしく伝えておいて。元気にしているから心配しないでって」
「承知しましたわ。――でも、たまには御自分で里帰りされては?」
蓮子がそう言うと、アリスさんはふっと視線を逸らし、「そのうち、ね」とはぐらかすように答えた。やっぱり何か複雑な事情がありそうだが、それを追及しても仕方ない。
「――ああ、そうだ。ひとつ思いだしたわ」
私たちが「それじゃあ」と踵を返しかけたところで、アリスさんが不意にそう声をあげた。
「なんです?」
「聖白蓮の話よ。一度だけ法界で彼女に会ったとき、彼女が私にしてくれた話を思いだしたわ」
アリスさんは目を細め、月を見上げて呟くように口にする。
「私の師にはなれないとわかって、別れ際に彼女が私を見下ろして言ったわ。『きょうだいはいますか?』って」
「アリスさん、ご兄弟がいらっしゃるんです?」
「ええ。まあ、母の言うことを真に受ければ魔界の住民はみんな私の兄弟姉妹になるんだけど、その中でも母と一緒に暮らしていた姉が五人いたわ。私はその末っ子」
ということはアリスさんは六人姉妹か。ちょっとした大家族である。
「私が頷くと、彼女は私の頭を撫でて言ったわ。――『兄弟姉妹は、大切にしなくちゃダメよ』」
そこで一度言葉を切り、アリスさんは月に向かって息を吐く。
「『――本当に助けてあげたいと思ったときには、手遅れになってしまうから』って」
第9章 星蓮船編 一覧
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更新お疲れさまです。
予想通りアリスの魔界人がここで活かされましたね。白蓮についてどんな話が聞けるのか楽しみにしてました。
最後の会話が鍵となるのでしょうか?これからが楽しみです。
これは、神綺様や夢子ちゃんも登場する流れですね。
2人の魔界での冒険が楽しみです。
未来の野球はどうなっているのか 想像が膨らみます‼︎
いやはや世界は広いんだか狭いんだか・・・これもまた蓮子がこれまで築いてきた妖怪との繋がりのなせる技ですね!
これから魔界人組と絡みがあれば、何気に花映塚編に並ぶくらいキャラ多数登場(予定)?
蓮メリの百合が欲しい…
私の呪いはまだ効いているかね?
お疲れ様です~。アリスがロリスと呼ばれていた時のお話が星蓮船で、出てくるとは意外でした。
アリスの過去(旧作)の事を頭を回転させれば「魔界」というワードで繋がるのでしょうけども、最後の部分白蓮がアリスに言った台詞が弟への愛情深さと消失感の重さが伝わる形だったので少し、涙ぐみました。次作楽しみです
コロンボじゃありませんが、些細な事が気になるクチでして、アリスの話だと「人間に裏切られた」で、人間に裏切り者と判断されたのとは事情が変わってきますね…
これが単純に主観の話で関係なかったら、邪推というか深読みしすぎで自分はおかしくなってしまったんだ