2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊 幻影都市の亡霊 第9話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊
公開日:2016年12月22日 / 最終更新日:2017年01月05日
霊夢がお札を扇状に構えると、咲夜は一際大きなしゃっくりをあげ、嵐の中からもナイフを撃ち出してくる。霊夢は縦横無尽に飛んでくるナイフの隙間を見つけると体を強引にねじ込んでいく。側を通過していく弾なんて怖くない。肌や服をかすってもそれは当たってないのと同じ。ナイフの竜巻が関係なくなるまで近付き、しゃっくりが止まる程度の一発を食らわせ、黙ってもらうつもりだった。
いつどこでナイフが生まれるか分からず、自分が変化の対象になるかもしれないから緊張の連続だった。目の前でいきなりナイフが現れてひやりとすることも一度や二度ではなく、そのたびに札を撃って、あるいは結界に展開して防ぐ。湖面からの射撃で何度も迂回を余儀なくされ、また白い霧からもナイフが発射されることを失念してあわや被弾ということもあった。超加速が失われても、分別がなくても彼女は十分すぎるほどの強敵だ。もっと場数を踏んで、弾幕決闘のやり方をきちんと身に着けていたらと思うだけで背筋がひやりとする。こうしている間にももしかしたら成長しているかもしれない。可能性が過ぎるたび慌てて打ち消し、霊夢は回避と接近に専念する。
「もう、どうして、あたら、ないの!」
苛ついているということは、相手も必死ということだ。こちらの対応が間違っていないという証明でもある。霊夢はナイフが渦巻く竜巻の眼前に迫っており、もう一息だという希望が湧いてくる。
その思いは竜巻に踏み込んだところで鋭い痛みとなって消えた。何の予告もなく左腕を切り裂かれており、身に着けていたはずの袖がいつのまにかなくなっていた。
右袖を慌てて脱ぎ、恐れていたことが現実になったのだと察する。空中に投げ出された袖が一本のナイフに変わり、霊夢を狙ってきたのだ。慌てて竜巻から退き、こちらを狙ってくるナイフから身をかわしながら周囲を旋回し、様子をうかがう。とにかく動き続けていなければ狙いを集中されて終わってしまう。だがこのまま距離を詰めないでいることもできない。
一応、近付けなくても手がないわけではなかった。物質ではないもの、すなわち霊力の塊を撃ち込めば良い。おそらくはナイフの竜巻を打ち破り、咲夜に命中するはずだ。だが霊夢はこの手段を最後まで取っておきたかった。人間であるなら死ぬほど痛いだけだが、魔力を放出し続けているあの体はただの人間というにはあまりに異質だ。強い霊力を食らえば比喩なしに消し飛んでしまうこともあり得る。
自分の仕事は異変を解決することだ。迅速に最短でことを片付けるならば、さっさと撃って相手を始末すれば良いだけだ。だが本当にそれをやって良いのだろうかという迷いを捨てきれなかった。人間かもしれないものを本当に殺す勢いで狙って良いのか。
異変解決において博麗の権限は全てに優先する。それはどのような無法を働いても構わないということだ。その中には当然ながら殺人も含まれる。魔力が全身から空気のように漏れるような奴が人間かどうかと聞かれたら、かつての霊夢なら即座に首を振っただろう。
「わたしは、甘いのだろうか?」
そうぽつりと呟く。先程のように心が答えを返してくれると期待して。だがいつまで経っても納得する結論は返って来ない。勘すらもどちらが正しいのか指し示してくれない。容赦なく討つべきか、ぎりぎりまで考え続けるべきなのか。
命の危険に曝されながら迷うなんて、あまりにも面倒で己の矜持に反する。ましてや巫女としては不覚悟も甚だしい。あまりに結論が明らかだからこそ、横道や別の可能性すら有り得ないということなのだろうか。
霊夢は符を構え、大きく息を吐く。霊力を注ぎ縦に引き裂けば、術はこの中で最も大きな力を持つ咲夜を狙うはずだ。一発なら死なないかもしれないし、死んだとしても気に病む必要はない。白い煙を噴き出す機械を護っているならば異変の片棒を担いでいると言って差し支えないはずだ。そもそもあれは偽物である可能性が高いし、本物であっても人間であった頃とは全くの別物になっている。素人のように戦い、びいびいと泣き喚く様から一目瞭然だ。
仕留められるはずだ。自分にはできる。力を振るい、相手を倒す。妖精を一回休みにしたことなんていくらでもあるし、解放派の妖怪に酷い怪我を負わせたことだったある。何かを殺したり滅ぼしたりしたことはないけれど、これを最初にすれば良いだけのことだ。
霊夢は大きく息を吸い、彼女が死ぬ様を頭に思い浮かべ……土壇場のところで符を懐に収める。
もう一つだけできることがある。面倒でリスクも高く、いつもならば無視するような手段だが今はそれに縋るしかない。覚悟の一語をどれだけ積み重ねても、今の自分にはできないのだとどうしようもなく気付いてしまったからだ。
やることは単純明快だった。ナイフに変換されるよりも早く咲夜に到達する、ただそれだけのことだ。
ナイフの竜巻を最短かつ全速力で駆ければ数秒で咲夜の側まで接近できる。抵抗を避けるため結界は最小限、服は……上に着ているものから順番に変換されることを祈るしかない。服も下着も一緒くたに変換されたら全身ずたずたになるだろう。
そうならないように祈りながら竜巻の周囲をぐるぐると回り続ける。攻め倦ねている風に見えるよう、かつ相手を挑発するように。咲夜が苛々していることを最大限に利用するつもりだった。
「ほらほら、ちっとも当たらないわよ。もっと数をぶつけてこないとわたしは倒せないんだから」
白い肌がはっきりと赤く染まり、しゃっくりと怒りで忙しない。大気がますます鳴動し、竜巻が更に範囲を広げ、ナイフが一斉に霊夢の方へと向いた。だが、それは霊夢の狙い通りだった。ランダムに襲いかかってくるより標的を合わせてくれたほうがかわしやすく、隙もできやすい。霊夢の目に咲夜までの道がぴたりと見え、一気呵成の全速力で突入する。巫女服がみるみるナイフに変換されていくのが分かっても決して立ち止まらなかった。少しでも速度を落とせば変換したばかりのナイフによって切り裂かれてしまう。
服が完全に消失し、インナーとスカートだけになってしまったところでようやく咲夜の側まで辿り着く。停止したところで肩を浅く薙がれたが、構わず額に札を貼り付けた。
「ひゃう!」主に妖精を脅かすために使う、びりっと来る札を受け、咲夜は一際高い声を上げる。喉を抑え、何をするんだと霊夢を睨んだところでぴたりと嵐がやむ。霊力が漏れ出さなくなり、あらゆるものをナイフに変換する魔法も停止していた。「何をするのよ、痛いじゃない!」
「そりゃそうよ、痛くしたんだもの。それよりあんたの攻撃はすっかり止まってしまったわよ。これはわたしの勝ちってことになるのかしら?」
咲夜はぷいとそっぽを向き、言うことを聞く様子は全く見せなかった。だがこれ以上の攻撃を仕掛けては来なかった。ちらちらと霊夢を見、何かを言い出したそうにしている。こういうとき、促したら逆に黙り込んでしまうと分かっていたから、霊夢はじっと言葉を待った。だが咲夜は思うところがあったとしても何も言わなかった。突如として体の力が抜け、墜落を始めたからだ。
霊夢は咲夜を慌てて回収し、背に負ってから思わず苦笑する。これまでの剣幕が嘘のようにすうすうと寝息を立てていたからだ。無防備な寝顔はあまりにもあどけなく、警戒の欠片もない。下手に傷つけないで済んだことに安堵し、それからがたごとと苦しそうに回る歯車お化けに目を向ける。塔の形こそ維持しているものの、ところどころ歯車が外れており、白い霧の勢いもすっかりと弱まっている。放っておいてもいずれは倒れてしまいそうだった。
「さて、これで本当にあんただけになったわけだけど」
「ま、待て。話せば分かる。話し合おう、ね?」
言葉遣いこそ偉ぶっているが、声音からはすっかり威厳が剥がれて甲高くなり、僅かに違和感は覚えるものの流暢に言葉を操っている。ぎくしゃくした喋り方は演技だったのか、それとも威厳を出すためのものだったのか。どちらにしろ少女の声を使ったくらいで絆されるつもりはなかった。
「ちょっと待て、話せば分かる」
「もう話し合いで片がつく状況はとっくの昔に終わっているの。あんたは取り返しのつかないことをした。けじめをつける必要があるのよ」
咲夜をどこかに下ろしてから引き返し、煙を吐き出す機関を破壊する。二度と動かないことを確認できれば、今度こそ仕事も終わりだ。
「さっきも言ったろう。わたしが失われば……」
「そんなことはどうでもいい!」あまりに往生際が悪くてつい怒鳴ってしまう。大人気ないとは分かっていても、この苛々はいかんともし難かった。歯車お化けはがくんと揺れ、まるで霊夢の一喝に身を震わせたように見えた。「あんた、自分のこと以外何も考えてないでしょ。悪いことじゃないと思うけど、そんな奴が人類のため、知性のためなんて言っても信じられるはずがない」
子供でも分かる理屈だと思った。だが歯車お化けはがたごとと危うい音を立て、蒸気をぴゅうと笛のように吐き出す。それだけは言ってはならないと言わんばかりに。
「わ、わたしを疑うのか? わたし……わたしを!」歯車お化けは完全に取り繕うのをやめてしまい、幼い少女の声で激しい気持ちを響かせる。「わたしはそのためだけに作られたのに! 他の在り方を示すようにはできないのに! お前はわたしがかつていた世界の奴らみたいに、役立たずと指差して笑うのか! 誇りを足蹴にするのか!」
ぴゅうぴゅうと続けて音が鳴り、離れていても耳が少し痛くなるほどだった。だが、どんな激情を秘めていても見逃すつもりはなかった。霊夢は煙の噴出口を記憶すると、歯車お化けに背を向ける。咲夜を置いてから戻ってくるつもりだったが、そんなことは許さないとばかり、ぽおおおと先程よりも少しだけ低い音を鳴らしてきた。
「待て、逃げるのか!」そしてあろうことか霊夢を挑発してくる。戦う手段すら持たないのになんという無謀かと思った。「逃げるな! わたしは怒っているんだぞ!」
一つの武器も持たないくせに怒りを主張するなんてなんという蛮勇かと思った。自分も今日は無茶ばかりを繰り返してきたが、ここまで酷いことはしなかったはずだ。
あまりにも幼稚で馬鹿らしかった。それならばどんなに無様でも、たとえ意識してなくても力を振り絞って襲いかかってきた咲夜のほうが何十倍もましだった。こんな奴の言うことなんてもう一言でも聞きたくなかった。振り返ることなく立ち去ろうとしたが、歯車のお化けはぴいーっと一際高い音を必死に上げ続ける。
意味のない抵抗だった。勝手にやってろと胸の内で呟きかけ、突如として湧き上がってきた気配にぱちんと弾ける。躊躇いがちに振り向くと、吐き出された大量の霧が歯車お化けのてっぺんで渦を巻いていた。
「何かがあの中に……いや、違うわね」
霊夢は口にしたことが過ちだと気付き、頭の中で訂正する。
何かがいるのではない。今から何かが生まれようとしているのだ。
音が収まると、渦巻く煙も徐々に晴れていく。その中から小さな少女が姿を現していた。見かけはレミリアよりもさらに幼く八、九歳ほどで、子供っぽいオーバーオールを身に着けている。手足には歯車の形をした腕輪と足輪を装着しており、頭には歯車をあしらった帽子を被っている。髪の毛は咲夜と同じ銀色、まん丸眼鏡の奥にある赤い瞳の内側では歯車がぐるぐると回っており、彼女が人ならざるものであることをはっきりと示していた。
物が付喪神になる瞬間を目撃するだなんて、いまこの瞬間まで霊夢は夢にも思っていなかった。多くの妖怪研究家が追い求めながら捉えることができなかった光景だ。彼らならばとんでもない幸運だと言うのだろう。だが霊夢にとっては違う。付喪神になったということは、霊夢と戦うことのできる力を得たかもしれないということだ。
少女は己の身に起きた変化が理解できないのか、しきりに体を見回している。霊夢がどうするべきか考えあぐねていると、少女はいきなりわははと大声で笑ってみせた。どうやら何が起きたのかを把握した様子だった。
「わたしはわたしでいながら、こうして新たなわたしを手に入れた。誰かに頼らなければ何もできない不動の機械ではない。自分で動けるんだ!」
喜びに呼応するよう、蒸気が激しく噴き上がる。それで霊夢は我に返り、やるべきことを思い出す。早く咲夜を置いて来なければと思ったが、その前に歯車の少女が霊夢を指差した。
「これまでよくもやってくれたな。自由に動けるようになれたらこっちのものだ。我が中に眠る力をもって、お前をこてんぱんにやっつけてやる!」
威勢の良い啖呵を切ると、歯車の少女は足腰に力を入れ……そのまま硬直する。顔を真っ赤にし、全身を震わせているが、特に何かをしてくる様子もない。ぴょんぴょんと飛び跳ね出したのを見て、ようやく何をしているのかが分かった。里の子供たちが空を飛ぼうとして悪戦苦闘する姿そのものだったからだ。
霊夢は片方の手で咲夜を支え、もう片方の手で札を構える。付喪神として顕現した時はどうしようかと思ったが、何のことはない。力の使い方を知らず、空の飛び方さえ分からないのだ。歯車お化けの頂上、僅かなスペースしか彼女に逃げられる場所はない。物から妖となったことで霊夢にとってより御し易い形となったのだ。素早く動けなくても誘導型の札を使い、ちまちまと一方的に削り倒すことができる。
「遠くから狙い撃てば一方的に倒せるみたいな顔はやめろ!」
何をされるのか気付いたらしく、少女は必死に抗議の声をあげる。ブラフの可能性も疑って試しに一発撃ってみたが、追いかけてくる札を歯車少女は迎え撃つことすらせず、所狭しと逃げ回ったところで健闘虚しく追いつかれてしまった。
歯車少女は札を咄嗟につかみ、すると肘から下が一瞬にして蒸発する。形を成して間もないせいか存在自体が不安定であり、ちょっとしたことで形を崩すようだった。咲夜と同じで痛みに激しい反応を示すから、まるで子供を虐めているようでしのびない気持ちになる。
数十年、数百年と経てば一端くらいにはなれたのかもしれない。生まれたばかりの姿をよりにもよって博麗の巫女に見られたのが、最初にして最低の不運だったというだけのことだ。
「待て! その……理由はないが待て!」
理由のない待てに誰かを静止させる力はない、だからこれで終わりなのだ。霊夢は札の残りを一気に投擲し、彼女の動きを永遠に止めなければならない。先程は運良く殺さないで済ませることができたけど、再び逃れることのできない選択を突きつけられていた。そして咲夜と違い、彼女は殺さなければ異変を解決することはできない。
霊夢が再び悩んでいると、歯車少女の後ろで微かに何かが揺らめく。すると苦しみに歪んだ表情から急に笑顔を取り戻し、霊夢を再びしかと指差した。
「これは決闘なのだろう! ならばこちらが何もできず一方的というのは規則に反するのではないか?」
それはお互いに戦える手段があってこそ言えることだ。それに彼女はそんなものなど目的のためには投げ捨てて良いと最初に宣言している。だから指摘にはまるで意味がない。だが霊夢にも規則に絡め取って咲夜を制したという引け目はあったし、捨てきれない迷いが胸に残っている。それらが霊夢に一つだけ譲歩の言葉を口にさせた。
「戦おうというならばそのための手段を持ってきなさい。それがないというならば一顧だにする必要はないと判断するわ」
そんなものはないと分かっていての最後通牒だった。はたして歯車少女は深く俯いてしまう。全身を激しく震わせているのは緊張しているためか、それとも何も思いつかない恐怖のためか。震えによって彼女の影はゆらゆらと左右に揺れ……いきなり水面のような波紋が立った。何事かと思う暇もなく、影から突如として人の形をしたものがせり上がってくる。
輝くような金の髪、琥珀のような色の瞳。赤いリボンのついた妙な形状の帽子に、同じく赤いリボンで飾られた日傘を差している。紫を基調とした前掛けのような服には霊夢にとって馴染みの深い陰陽の紋様と、卦を示すであろう記号があしらわれている。口元は愉快そうに歪み、傘を閉じてひらりとお辞儀する様は不愉快なほど胡散臭い。
これまでに彼女を見たことは一度もないが、何故だかすぐに正体が分かった。代々の博麗を見守り、あるいは監視するとされている結界の管理者だ。
霊夢は記録として残されていた一節をありありと頭の中に思い浮かべる。
『八雲を名乗るなら注意せよ、紫を帯びているならば警戒せよ。彼女こそ博麗の巫女を駆り立てる操り手なのだから』
すなわち八雲紫こそが彼女の真名に違いなかった。
「これまでずっと事態を静観してきて、今更出しゃばるつもりなの?」
鋭い指摘にも彼女はなんら動じることなく、むしろ面白がるような表情を見せる。
「その物言い、わたしが誰であるか分かってるって顔ね?」
「ええ。八雲紫って名前の妖怪でしょう?」
「ご名答」紫はおざなりの拍手をもって慧眼を労う。霊夢には当然ながら馬鹿にされているようにしか思えなかった。「ならば話が早いわね、わたしが何者かを説明する手間が省けるのだから」
「あんたのことなんてどうでも良いの。わたしが知りたいのはあんたが決闘を止めに来たのかってこと」
「まさか、わたしはそこまで無粋ではない。ここに現れたのは決闘を行うという意志があり、立ち会いと些かの手伝いをするべきではないかと考えたからよ」
「それならば不必要よ。決闘とは言ったけど、彼女はおおよそ戦える相手ではない。それともまさか、貴方が代理で戦うんじゃないでしょうね? 結界の管理人だかなんだか知らないけど、邪魔をするなら容赦しないわ」
彼女が博麗に言い伝えられている結界の管理人ならば、郷の中でも相当の実力者であるはずだ。それなのに何故か強気の啖呵が頭の中にすらすらと湧いてくる。まるでそんなことを前にも口走ったことがあるかのように。
「わたしを退治するつもり? お荷物を背負ったその身で一体、何ができるというのかしら」
くすくすと嘲笑うような笑い声が、まるで耳元で囁かれているかのような近さで聞こえてくる。霊夢は歯車少女のために用意していた札を乱入者に向けて問答無用で投げつけた。躊躇いなど見せるべき相手ではないと心の奥底が叫んでいる。それだけでなく、もっと力を練り出せと訴えかけられていた。
乱入者は笑みを崩さず、札の攻撃をまともに受ける。妖気を祓う白い煙が派手に上がったけれど、苦痛を訴えるどのような声も聞こえては来なかった。
「いつもながらせっかちなのね……もとい、霊夢でも貴方は初めましてよね。あまりにも似ているから間違えてしまったわ」
彼女の声は今度も間近にいるかのように聞こえてきて気持ち悪い。どんな術を使っているのかと訝しむのも束の間、お尻を這うひやりとした感触に悪寒が背筋を伝った。
「この形は霊夢に負けず劣らず芸術的ね。これでもう少し胸の方にも栄養がいけば完璧なのだけど」
「このっ!」破廉恥な行為に振り向きざまお祓い棒を振るうが、既に誰もおらず空を切るだけだった。お尻を撫でる遠慮のなさに背中が痒くなり、咄嗟に手を伸ばしたところで大事なものが失われていることにようやく気付く。紫が再び歯車少女の横に立ったが、咲夜はどこにも見当たらない。「あんた、咲夜をどこに隠したのよ!」
「確かにわたしは色々隠すけど、彼女は隠していないわ。決闘の邪魔になるだろうから一時的に退避させただけ。いわゆるお膳立てってやつかしら。そしてもう一つ」
紫は虚空から霊夢の装備によく似た符を取り出すと、歯車少女にそっと差し出した。博麗の装備に似ていたから大袈裟なほどに怯えていたが、辛抱強く待ち続ける紫にようやく害意がないと判断したのだろう。おそるおそる手に取り、しげしげと眺め回し始めた。
「貴方にお譲りしますわ。どのようなものかはご存じですよね?」
「分かる、と思う。これはきっと弾幕決闘用の道具だ」
「ご名答。空っぽの、これから可能性が込められる符ですわ。ここに貴方のあるべき姿、至るべき可能性を込めてください。強い願いであればあるほど、呼応して強大な世界を構築する。今の貴方に必要なものですわ」
歯車少女は大きく頷き、空っぽの符をじっと見つめる。やられる前に仕留めたかったが、紫は歯車少女の前に立っており、先制攻撃を許すつもりは一切なさそうだった。
「どうしてこんなものをわたしに? 何故ここまで良くしてくれる?」
「貴方こそがわたしの証立てたかったものであり、呼び水でもあるからよ。だから後で利子を取り立てようなんて気はない。さあ、貴方の世界を示して。幻想郷はその全てを受け入れる場所なのだから」
その言葉とともに紫は冥い影そのものとなり、大気に溶けるようにして消えていく。同時に辺りを覆っていた煙が、まるで吸い込まれるようにして歯車少女の持つ符の中に集まっていく。
突如として眩しさに撃たれ、霊夢は咄嗟に目を細める。赤々とした西日が差し込み、歯車お化けが突き出した湖面を鮮やかに、そして寂しげに映し出す。あちこちが欠け、あるいは傾き、今にも崩れそうな塔の頂上にいる少女の元に煙が集う。
あの煙に含まれていた微弱な魔力のことを今更ながらに思い出す。歯車お化けを動かすために何かの燃料だけでなく魔力も使われていたとしたら、それを一所に集中すれば莫大な魔力となるのではないか。
霊夢の推測はすぐに形となって現れる。ぼろぼろだった歯車お化けが元の形を取り戻していき、湖面から何十もの似たような歯車お化けがせり出して来たのだ。その隙間を埋めるように背の高い真四角の建物や平らに舗装された道が築かれ、金属で組み立てられた機械が人型のものもそうでないものも自由に闊歩する。道をゆく乗り物はどれも無人であり、忙しないのにお互いの行き来を遮ることはない。歯車お化けはどれもが激しい勢いで回っているのに、煙や騒音をまき散らすことはない。
霊夢の知るどの里と比べてさえあまりにも異質で、ほれぼれするほどに完璧だった。黄昏の光すらもその威容を陰らせることはなく、どれほどの夜が訪れ、朝が来ても衰えることなく、永遠に続くで光景であるように思えた。
そして何よりも霊夢を驚かせたのは背の高い建物の上を、あるいは建物を縫うようにして飛び交う飛行機械の存在だった。郷の科学者たちが長年研究を続けてきながらなおも果たせないでいる夢の光景を彼女は易々と思い浮かべていた。もしかするとここにはロケットを月に打ち出すための乗り物さえあるのかもしれない。
「これだ、わたしが皆に教えたかったものは」圧倒的な光景に目を奪われていると、歯車少女が喜びに満ち溢れた表情を浮かべながら言った。「分かるだろう? この都市の魅力が。かくも輝かしく整っていて、煌びやかで、そして果てしない未来を向いている。あらゆる知性が望めばこれを手に入れられるのだ。重力のくびきを解き放ち、やがては遙かな宇宙の果てまでをも目指すことができる」
言葉だけでは決して信じることができなかっただろう。だがこうして夢想の完成を垣間見れば信念も揺らぎそうになる。これだけの機会を与えられるものを己の一存だけで滅ぼしてしまっても良いのか。空飛ぶ夢を、宇宙への憧れを、彼女は完全に満たしてくれるのではないか。
「そう……もの珍しい歯車の機械ではなく、未来を見据える先駆者としてのわたしを信じて欲しかったのだ」
歯車少女は表情を正して霊夢に向き直る。これまでの我侭気侭な態度からは考えられないほどに真摯で、そして霊夢の瞳をひたと見据えている。
「博麗の巫女、いま君はわたしの理想を見ている。かくも素晴らしきこの都市は今でこそ彼女がくれた符の力で再現されているだけかもしれない。だがこれを幻影だけで終わらせず、現実のものにすることもできる」
そして霊夢に選択を突きつけてきた。彼女の示した理想を現実にするか否か。それは今の霊夢にはあまりにも重く、たった一人で決められるようなものではない。無意識のうちに紫の姿を探したが、彼女の気配や妖気はどこにも見当たらない。あの歯車少女を助けたように救いの手を差し伸べるつもりはないのだ。どうしてか分からないけれど、そのことが霊夢には寂しいことのように思えてならなかった。
「改めて問う、それでも貴方はわたしを破壊するのか?」
霊夢の仕事は西の里を覆う白い霧を払い、異変を解決することだ。ならば答えは壊すに決まっている。それで霧は晴れ、万事は解決するのだから。でも、それではこれだけのものを見せてくれた彼女に対してあまりにも不義理であるように思えた。結末は変わらなくても、何かできることはあるのではないか。
せめて対峙したものを自分なりの方法と流儀で受け止めることだ。霊夢はそう結論し、彼女に答えを返す。
「これは決闘よ。もしもわたしの気持ちを曲げたいと言うのならば」
「勝利するしかないってこと?」頷きとともに各々の動きを見せていた飛行機械が接近し、霊夢の周りをぐるぐると回り始める。その意図は実にはっきりとしていた。「では貴方に勝ち、この夢を現実に変える!」
宣言とともに少女の姿が消え、飛行機械の先端に取り付けられた装置から大量の弾丸がばらまかれる。予期していた動きだったから咄嗟に反応し、霊夢は湖面すれすれ……今はすっかり舗装された道と接するぎりぎりまで高度を落とし、射撃を回避する。飛行機は水平に速く飛ぶことができても垂直の動きや急転換は難しいと何かの本で読んだのを思い出したからだ。しかし飛行機械たちは当然のように空中で静止し、急降下しながら弾丸をばらまいてくる。今度は地面と平行に移動して回避、用意していた札を手癖で放つ。鉄の塊だかか効かないかもしれないと思ったが、接触した一機が白い煙と共に蒸発した。
残りの飛行機械たちは慌てて引き返し、十分に距離を取ってから弾丸の乱射で札を撃ち落とす。霊力が効くと分かったのは朗報だったが、何十機もの飛行機械を全て撃ち落とし、歯車少女が都市と呼んだ建造物群を制圧するには装備が万全でも無理だろう。かといって符の持ち主は完全に都市と溶け込み、直接狙うことができそうにない。
この状況を霊夢は何度か体験したことがある。表現に特化し、己自身をも舞台から消してしまう特別製の符が発動しているのだ。相手を一方的に狙うことができる代わりに消耗が激しく、長時間展開することは難しい。他に切る手がなくなったとき最後の手段として発動するか、もしくは最終手段を放つための時間稼ぎに利用するかのどちらかだ。符は一枚だけだから前者の可能性を考える必要はなく、凌ぎ切ることだけ考えれば良い。霊夢はそう判断すると残弾をざっと計算し、上手く逃げ切るための力の使い方を頭の中でこねくり回していく。
取りあえずは次の襲来に備えようと思った矢先、道路を高速で走りながら近付いてくる自動車の姿が見えた。屋根には飛行機械についていたのと同じ弾丸発射装置が備え付けられており、霊夢に向けて容赦なく撃ってくる。どうやら空だけでなく陸にも安全な所はなさそうだった。
自動車は小回りが効かないはずなのに、どんなに小刻みに動いても狭い道に入っても執拗に追いかけてくる。空からも再び弾丸が降り注いできて、気の休まる暇がない。
こんなものが実現化されたら、妖怪退治に空飛ぶ力を頼む必要はなくなる。博麗の巫女も神社を管理するだけの公務員になり、高い霊力を持つ子供が何年も拘束されることはなくなるのかもしれない。そんな思いがふと霊夢の頭を過ぎる。
悪くはないはずなのに、あまり良い気持ちになれなかった。それに霊夢はこの都市に少なからぬ違和感を覚えていた。ここには在るべきものが決定的に足りていない。それが霊夢の足を動かし、攻撃への意志を保ち続けた。
あらゆる方向から放たれる弾丸を、霊夢は強化された身体能力によって回避し続けながら、落とされにくい針に切り替えて慎重に狙い撃っていく。だが撃ち落としても撃ち落としても機械の数は減ることなく、弾の量は増えていくばかりだ。
霊夢を完全に包囲しようと、機械たちはじりじりと距離を詰めていく。それだけは何とか避けようと立ち回ったが、飛行機械のせいで上空に抜けるのは難しく、地上すれすれを進んでいくしかなかった。それもとある交差点にさしかかったところで完全に逃げ場がなくなった。霊夢はそのの中央に立たされ、自動車が四方から迫り、蟻の這い出る隙間さえなかった。
回避だけではこの状況を切り抜けることはできないのだと察し、霊夢は使う予定のなかったもう一つの符を取り出すと霊力を込める。力が吸われる感覚に視界が一瞬ぐらりと揺らいだけれど、霊夢は頬を叩いて意識を保ち、符を破り捨てる。
発動とともに霊夢を中心にして半円状の結界が瞬時に形成され、札の形をした霊撃を四方八方へと放ち始めた。
博麗の術に本来ならば札や針などの道具は必要ない。霊力によってどんな形も作り、自由自在に操ることができる。霊夢にお祓い棒を剣にして戦う技を教えてくれた天人が、かつてそんなことを語ってくれたことがある。
『わたしの力は気質そのものであり、この身に携える天剣ですらその触媒にしか過ぎないの。だけど千年以上の時を経た類稀な天与の才能を持つこのわたしでさえも、それだけで力を表現しきることはできない。あんたはそれこそ弱っちい人間なんだから、どんどん道具に頼りなさい。わたしが知ってる霊夢もいざという時以外はそうしてたわ』
だが無慈悲な数に対抗するには、こちらも尽きることのない弾を使うしかない。己の身を守りながら、霊力がある限り攻撃を続けられる攻防一帯の結界。これこそ今の状況にうってつけだと考えた。かつての霊夢が封魔陣と名付けた、最大強化している時にしか使えない符の一つ、そして夢想封印に並ぶもう一つの切り札。
霊夢の周りを囲んでいた車や飛行機械が次々と白い煙をあげて蒸発していく。だが相手も魔力によって再生産を続け、守りを突き崩そうと大量の弾丸を放ってくる。どちらの根が先に尽きるかという、機械が発達しきった世界においてあまりにも単純で原始的な勝負になっていた。
霊夢は自分のことを常々、根性のない人間だと思っていたが、この勝負にはどれだけ歯を食い縛ってでも負けたくなかった。理屈など何もないが、歯車少女の生み出したこの世界を耐えきることが、どうしても必要なのだという気がした。いつもの勘だったが、今日はこれまでよりもよく自分のことを助けてくれた。ならば今度は勘に報いて勝つべきだった。歯車少女の見せた世界への渇望を受け止め、それでも耐えて久しく在る姿を見せつけてやるべきなのだ。
「さあ、もっと来なさい! 全部受け止めて……いや、撃ち落としてやるから!」
宣言とともに結界の密度が増し、敵を撃つ札の数も目に見えて増える。息苦しいほどの数で編隊を組んでくる飛行機械も、目につくものは全て狙い撃つ。辺りは白い煙で満たされ、濃い魔力でむせかえりそうだった。
突如として視界がぐらぐらと揺れる。こちらはまだ意識を保っているはずだと心の中に言い聞かせ、体の中にある力を一滴残らず振り絞ろうとした。だが揺れは大きくなるばかりで、全く反応する様子がない。霊夢はようやく、揺らいでいるのは自分でなく、見えているもの全てなのだと気付く。
都市が形を保っていられず、徐々に威勢を失いつつあった。飛行機械や自動車が姿を消し、背の高い建物はどんどんと消え、道路も湖面に戻っていく。慌てて空を飛び、湖面から距離を取ると同時、全ての建物と道路が消え去り、あとには最初に姿を現した歯車お化けの群れだけが残った。それらもすぐに失われてしまい、ただ一つこの世界にやってきた歯車お化けすらもその姿を消してしまった。
霊夢の目に映っているのは湖に浮かぶ離れ小島にぽつんと佇む、ピアノほどの大きさの機械だった。大量の歯車を組み込んだそれは惨たらしいと言えるほどにぼろぼろの姿であり、歯車の一部が欠けたり抜け落ちたりしている。
咲夜がナイフに変えてしまった部品もあるだろうが、それだけでは説明がつかない。明らかに長い時を経ており、全身がすっかり錆び、あるいは朽ち果ててしまっていた。触れただけで崩れてしまいそうなほどに脆く、痛々しいものだった。
「どうやら決着したみたいね」憎たらしい声とともに、紫が機械の横に現れる。その腕には歯車少女が抱えられており、ぐったりしているものの命に別状はなさそうだった。紫は地面に少女を置くと、満足そうな様子で霊夢に声をかける。「よく頑張ってくれたわ。これで郷が白い煙に悩まされることもなくなるでしょう。めでたしめでたしね」
「いやいや、めでたしじゃないでしょう?」
一方的に締めようとする紫に霊夢はついつい口を挟む。歯車少女の符を耐えきったことは分かったけれど、それ以外のことはまるでさっぱり解明していない。
「ここにあったはずの歯車お化けはどうしたの? いまここにある古びた機械とはまるで違う。歯車でできた機械だってことだけは一緒だけど。それに……」
「それよりも大丈夫なのかしら?」紫は霊夢の質問を遮り、困ったものでも見つけてしまったかのような表情で訊ねてくる。「霊力をすっかり出し切ったみたいだけど、空を飛んでいて大丈夫なのかしら?」
言われてみればと考えた途端、体から一気に力が抜けた。空を飛んでいることができなくなり、湖へと真っ逆さまに落ちていく。だが着水することはなかった。柔らかい感触が霊夢をしっかりと抱き留めたからだ。ほれ見たことかと言わんばかりの余裕ありげな笑みに、たちまち怒りが湧いてくる。だがそれを形にすることはできなかった。すっかりと気が抜けたせいか意識を保っていることさえできなくなったからだ。
気を失う直前、霊夢はもう一度だけ紫の顔をうかがう。そこには安堵と、まるで愛しいものでも見るかのような、暖かみが滲んでいるように見えた。
「貴方はいつも、最も困難な道を往くのね」
その声は意識を失った霊夢の耳には届かなかった。
いつどこでナイフが生まれるか分からず、自分が変化の対象になるかもしれないから緊張の連続だった。目の前でいきなりナイフが現れてひやりとすることも一度や二度ではなく、そのたびに札を撃って、あるいは結界に展開して防ぐ。湖面からの射撃で何度も迂回を余儀なくされ、また白い霧からもナイフが発射されることを失念してあわや被弾ということもあった。超加速が失われても、分別がなくても彼女は十分すぎるほどの強敵だ。もっと場数を踏んで、弾幕決闘のやり方をきちんと身に着けていたらと思うだけで背筋がひやりとする。こうしている間にももしかしたら成長しているかもしれない。可能性が過ぎるたび慌てて打ち消し、霊夢は回避と接近に専念する。
「もう、どうして、あたら、ないの!」
苛ついているということは、相手も必死ということだ。こちらの対応が間違っていないという証明でもある。霊夢はナイフが渦巻く竜巻の眼前に迫っており、もう一息だという希望が湧いてくる。
その思いは竜巻に踏み込んだところで鋭い痛みとなって消えた。何の予告もなく左腕を切り裂かれており、身に着けていたはずの袖がいつのまにかなくなっていた。
右袖を慌てて脱ぎ、恐れていたことが現実になったのだと察する。空中に投げ出された袖が一本のナイフに変わり、霊夢を狙ってきたのだ。慌てて竜巻から退き、こちらを狙ってくるナイフから身をかわしながら周囲を旋回し、様子をうかがう。とにかく動き続けていなければ狙いを集中されて終わってしまう。だがこのまま距離を詰めないでいることもできない。
一応、近付けなくても手がないわけではなかった。物質ではないもの、すなわち霊力の塊を撃ち込めば良い。おそらくはナイフの竜巻を打ち破り、咲夜に命中するはずだ。だが霊夢はこの手段を最後まで取っておきたかった。人間であるなら死ぬほど痛いだけだが、魔力を放出し続けているあの体はただの人間というにはあまりに異質だ。強い霊力を食らえば比喩なしに消し飛んでしまうこともあり得る。
自分の仕事は異変を解決することだ。迅速に最短でことを片付けるならば、さっさと撃って相手を始末すれば良いだけだ。だが本当にそれをやって良いのだろうかという迷いを捨てきれなかった。人間かもしれないものを本当に殺す勢いで狙って良いのか。
異変解決において博麗の権限は全てに優先する。それはどのような無法を働いても構わないということだ。その中には当然ながら殺人も含まれる。魔力が全身から空気のように漏れるような奴が人間かどうかと聞かれたら、かつての霊夢なら即座に首を振っただろう。
「わたしは、甘いのだろうか?」
そうぽつりと呟く。先程のように心が答えを返してくれると期待して。だがいつまで経っても納得する結論は返って来ない。勘すらもどちらが正しいのか指し示してくれない。容赦なく討つべきか、ぎりぎりまで考え続けるべきなのか。
命の危険に曝されながら迷うなんて、あまりにも面倒で己の矜持に反する。ましてや巫女としては不覚悟も甚だしい。あまりに結論が明らかだからこそ、横道や別の可能性すら有り得ないということなのだろうか。
霊夢は符を構え、大きく息を吐く。霊力を注ぎ縦に引き裂けば、術はこの中で最も大きな力を持つ咲夜を狙うはずだ。一発なら死なないかもしれないし、死んだとしても気に病む必要はない。白い煙を噴き出す機械を護っているならば異変の片棒を担いでいると言って差し支えないはずだ。そもそもあれは偽物である可能性が高いし、本物であっても人間であった頃とは全くの別物になっている。素人のように戦い、びいびいと泣き喚く様から一目瞭然だ。
仕留められるはずだ。自分にはできる。力を振るい、相手を倒す。妖精を一回休みにしたことなんていくらでもあるし、解放派の妖怪に酷い怪我を負わせたことだったある。何かを殺したり滅ぼしたりしたことはないけれど、これを最初にすれば良いだけのことだ。
霊夢は大きく息を吸い、彼女が死ぬ様を頭に思い浮かべ……土壇場のところで符を懐に収める。
もう一つだけできることがある。面倒でリスクも高く、いつもならば無視するような手段だが今はそれに縋るしかない。覚悟の一語をどれだけ積み重ねても、今の自分にはできないのだとどうしようもなく気付いてしまったからだ。
やることは単純明快だった。ナイフに変換されるよりも早く咲夜に到達する、ただそれだけのことだ。
ナイフの竜巻を最短かつ全速力で駆ければ数秒で咲夜の側まで接近できる。抵抗を避けるため結界は最小限、服は……上に着ているものから順番に変換されることを祈るしかない。服も下着も一緒くたに変換されたら全身ずたずたになるだろう。
そうならないように祈りながら竜巻の周囲をぐるぐると回り続ける。攻め倦ねている風に見えるよう、かつ相手を挑発するように。咲夜が苛々していることを最大限に利用するつもりだった。
「ほらほら、ちっとも当たらないわよ。もっと数をぶつけてこないとわたしは倒せないんだから」
白い肌がはっきりと赤く染まり、しゃっくりと怒りで忙しない。大気がますます鳴動し、竜巻が更に範囲を広げ、ナイフが一斉に霊夢の方へと向いた。だが、それは霊夢の狙い通りだった。ランダムに襲いかかってくるより標的を合わせてくれたほうがかわしやすく、隙もできやすい。霊夢の目に咲夜までの道がぴたりと見え、一気呵成の全速力で突入する。巫女服がみるみるナイフに変換されていくのが分かっても決して立ち止まらなかった。少しでも速度を落とせば変換したばかりのナイフによって切り裂かれてしまう。
服が完全に消失し、インナーとスカートだけになってしまったところでようやく咲夜の側まで辿り着く。停止したところで肩を浅く薙がれたが、構わず額に札を貼り付けた。
「ひゃう!」主に妖精を脅かすために使う、びりっと来る札を受け、咲夜は一際高い声を上げる。喉を抑え、何をするんだと霊夢を睨んだところでぴたりと嵐がやむ。霊力が漏れ出さなくなり、あらゆるものをナイフに変換する魔法も停止していた。「何をするのよ、痛いじゃない!」
「そりゃそうよ、痛くしたんだもの。それよりあんたの攻撃はすっかり止まってしまったわよ。これはわたしの勝ちってことになるのかしら?」
咲夜はぷいとそっぽを向き、言うことを聞く様子は全く見せなかった。だがこれ以上の攻撃を仕掛けては来なかった。ちらちらと霊夢を見、何かを言い出したそうにしている。こういうとき、促したら逆に黙り込んでしまうと分かっていたから、霊夢はじっと言葉を待った。だが咲夜は思うところがあったとしても何も言わなかった。突如として体の力が抜け、墜落を始めたからだ。
霊夢は咲夜を慌てて回収し、背に負ってから思わず苦笑する。これまでの剣幕が嘘のようにすうすうと寝息を立てていたからだ。無防備な寝顔はあまりにもあどけなく、警戒の欠片もない。下手に傷つけないで済んだことに安堵し、それからがたごとと苦しそうに回る歯車お化けに目を向ける。塔の形こそ維持しているものの、ところどころ歯車が外れており、白い霧の勢いもすっかりと弱まっている。放っておいてもいずれは倒れてしまいそうだった。
「さて、これで本当にあんただけになったわけだけど」
「ま、待て。話せば分かる。話し合おう、ね?」
言葉遣いこそ偉ぶっているが、声音からはすっかり威厳が剥がれて甲高くなり、僅かに違和感は覚えるものの流暢に言葉を操っている。ぎくしゃくした喋り方は演技だったのか、それとも威厳を出すためのものだったのか。どちらにしろ少女の声を使ったくらいで絆されるつもりはなかった。
「ちょっと待て、話せば分かる」
「もう話し合いで片がつく状況はとっくの昔に終わっているの。あんたは取り返しのつかないことをした。けじめをつける必要があるのよ」
咲夜をどこかに下ろしてから引き返し、煙を吐き出す機関を破壊する。二度と動かないことを確認できれば、今度こそ仕事も終わりだ。
「さっきも言ったろう。わたしが失われば……」
「そんなことはどうでもいい!」あまりに往生際が悪くてつい怒鳴ってしまう。大人気ないとは分かっていても、この苛々はいかんともし難かった。歯車お化けはがくんと揺れ、まるで霊夢の一喝に身を震わせたように見えた。「あんた、自分のこと以外何も考えてないでしょ。悪いことじゃないと思うけど、そんな奴が人類のため、知性のためなんて言っても信じられるはずがない」
子供でも分かる理屈だと思った。だが歯車お化けはがたごとと危うい音を立て、蒸気をぴゅうと笛のように吐き出す。それだけは言ってはならないと言わんばかりに。
「わ、わたしを疑うのか? わたし……わたしを!」歯車お化けは完全に取り繕うのをやめてしまい、幼い少女の声で激しい気持ちを響かせる。「わたしはそのためだけに作られたのに! 他の在り方を示すようにはできないのに! お前はわたしがかつていた世界の奴らみたいに、役立たずと指差して笑うのか! 誇りを足蹴にするのか!」
ぴゅうぴゅうと続けて音が鳴り、離れていても耳が少し痛くなるほどだった。だが、どんな激情を秘めていても見逃すつもりはなかった。霊夢は煙の噴出口を記憶すると、歯車お化けに背を向ける。咲夜を置いてから戻ってくるつもりだったが、そんなことは許さないとばかり、ぽおおおと先程よりも少しだけ低い音を鳴らしてきた。
「待て、逃げるのか!」そしてあろうことか霊夢を挑発してくる。戦う手段すら持たないのになんという無謀かと思った。「逃げるな! わたしは怒っているんだぞ!」
一つの武器も持たないくせに怒りを主張するなんてなんという蛮勇かと思った。自分も今日は無茶ばかりを繰り返してきたが、ここまで酷いことはしなかったはずだ。
あまりにも幼稚で馬鹿らしかった。それならばどんなに無様でも、たとえ意識してなくても力を振り絞って襲いかかってきた咲夜のほうが何十倍もましだった。こんな奴の言うことなんてもう一言でも聞きたくなかった。振り返ることなく立ち去ろうとしたが、歯車のお化けはぴいーっと一際高い音を必死に上げ続ける。
意味のない抵抗だった。勝手にやってろと胸の内で呟きかけ、突如として湧き上がってきた気配にぱちんと弾ける。躊躇いがちに振り向くと、吐き出された大量の霧が歯車お化けのてっぺんで渦を巻いていた。
「何かがあの中に……いや、違うわね」
霊夢は口にしたことが過ちだと気付き、頭の中で訂正する。
何かがいるのではない。今から何かが生まれようとしているのだ。
音が収まると、渦巻く煙も徐々に晴れていく。その中から小さな少女が姿を現していた。見かけはレミリアよりもさらに幼く八、九歳ほどで、子供っぽいオーバーオールを身に着けている。手足には歯車の形をした腕輪と足輪を装着しており、頭には歯車をあしらった帽子を被っている。髪の毛は咲夜と同じ銀色、まん丸眼鏡の奥にある赤い瞳の内側では歯車がぐるぐると回っており、彼女が人ならざるものであることをはっきりと示していた。
物が付喪神になる瞬間を目撃するだなんて、いまこの瞬間まで霊夢は夢にも思っていなかった。多くの妖怪研究家が追い求めながら捉えることができなかった光景だ。彼らならばとんでもない幸運だと言うのだろう。だが霊夢にとっては違う。付喪神になったということは、霊夢と戦うことのできる力を得たかもしれないということだ。
少女は己の身に起きた変化が理解できないのか、しきりに体を見回している。霊夢がどうするべきか考えあぐねていると、少女はいきなりわははと大声で笑ってみせた。どうやら何が起きたのかを把握した様子だった。
「わたしはわたしでいながら、こうして新たなわたしを手に入れた。誰かに頼らなければ何もできない不動の機械ではない。自分で動けるんだ!」
喜びに呼応するよう、蒸気が激しく噴き上がる。それで霊夢は我に返り、やるべきことを思い出す。早く咲夜を置いて来なければと思ったが、その前に歯車の少女が霊夢を指差した。
「これまでよくもやってくれたな。自由に動けるようになれたらこっちのものだ。我が中に眠る力をもって、お前をこてんぱんにやっつけてやる!」
威勢の良い啖呵を切ると、歯車の少女は足腰に力を入れ……そのまま硬直する。顔を真っ赤にし、全身を震わせているが、特に何かをしてくる様子もない。ぴょんぴょんと飛び跳ね出したのを見て、ようやく何をしているのかが分かった。里の子供たちが空を飛ぼうとして悪戦苦闘する姿そのものだったからだ。
霊夢は片方の手で咲夜を支え、もう片方の手で札を構える。付喪神として顕現した時はどうしようかと思ったが、何のことはない。力の使い方を知らず、空の飛び方さえ分からないのだ。歯車お化けの頂上、僅かなスペースしか彼女に逃げられる場所はない。物から妖となったことで霊夢にとってより御し易い形となったのだ。素早く動けなくても誘導型の札を使い、ちまちまと一方的に削り倒すことができる。
「遠くから狙い撃てば一方的に倒せるみたいな顔はやめろ!」
何をされるのか気付いたらしく、少女は必死に抗議の声をあげる。ブラフの可能性も疑って試しに一発撃ってみたが、追いかけてくる札を歯車少女は迎え撃つことすらせず、所狭しと逃げ回ったところで健闘虚しく追いつかれてしまった。
歯車少女は札を咄嗟につかみ、すると肘から下が一瞬にして蒸発する。形を成して間もないせいか存在自体が不安定であり、ちょっとしたことで形を崩すようだった。咲夜と同じで痛みに激しい反応を示すから、まるで子供を虐めているようでしのびない気持ちになる。
数十年、数百年と経てば一端くらいにはなれたのかもしれない。生まれたばかりの姿をよりにもよって博麗の巫女に見られたのが、最初にして最低の不運だったというだけのことだ。
「待て! その……理由はないが待て!」
理由のない待てに誰かを静止させる力はない、だからこれで終わりなのだ。霊夢は札の残りを一気に投擲し、彼女の動きを永遠に止めなければならない。先程は運良く殺さないで済ませることができたけど、再び逃れることのできない選択を突きつけられていた。そして咲夜と違い、彼女は殺さなければ異変を解決することはできない。
霊夢が再び悩んでいると、歯車少女の後ろで微かに何かが揺らめく。すると苦しみに歪んだ表情から急に笑顔を取り戻し、霊夢を再びしかと指差した。
「これは決闘なのだろう! ならばこちらが何もできず一方的というのは規則に反するのではないか?」
それはお互いに戦える手段があってこそ言えることだ。それに彼女はそんなものなど目的のためには投げ捨てて良いと最初に宣言している。だから指摘にはまるで意味がない。だが霊夢にも規則に絡め取って咲夜を制したという引け目はあったし、捨てきれない迷いが胸に残っている。それらが霊夢に一つだけ譲歩の言葉を口にさせた。
「戦おうというならばそのための手段を持ってきなさい。それがないというならば一顧だにする必要はないと判断するわ」
そんなものはないと分かっていての最後通牒だった。はたして歯車少女は深く俯いてしまう。全身を激しく震わせているのは緊張しているためか、それとも何も思いつかない恐怖のためか。震えによって彼女の影はゆらゆらと左右に揺れ……いきなり水面のような波紋が立った。何事かと思う暇もなく、影から突如として人の形をしたものがせり上がってくる。
輝くような金の髪、琥珀のような色の瞳。赤いリボンのついた妙な形状の帽子に、同じく赤いリボンで飾られた日傘を差している。紫を基調とした前掛けのような服には霊夢にとって馴染みの深い陰陽の紋様と、卦を示すであろう記号があしらわれている。口元は愉快そうに歪み、傘を閉じてひらりとお辞儀する様は不愉快なほど胡散臭い。
これまでに彼女を見たことは一度もないが、何故だかすぐに正体が分かった。代々の博麗を見守り、あるいは監視するとされている結界の管理者だ。
霊夢は記録として残されていた一節をありありと頭の中に思い浮かべる。
『八雲を名乗るなら注意せよ、紫を帯びているならば警戒せよ。彼女こそ博麗の巫女を駆り立てる操り手なのだから』
すなわち八雲紫こそが彼女の真名に違いなかった。
「これまでずっと事態を静観してきて、今更出しゃばるつもりなの?」
鋭い指摘にも彼女はなんら動じることなく、むしろ面白がるような表情を見せる。
「その物言い、わたしが誰であるか分かってるって顔ね?」
「ええ。八雲紫って名前の妖怪でしょう?」
「ご名答」紫はおざなりの拍手をもって慧眼を労う。霊夢には当然ながら馬鹿にされているようにしか思えなかった。「ならば話が早いわね、わたしが何者かを説明する手間が省けるのだから」
「あんたのことなんてどうでも良いの。わたしが知りたいのはあんたが決闘を止めに来たのかってこと」
「まさか、わたしはそこまで無粋ではない。ここに現れたのは決闘を行うという意志があり、立ち会いと些かの手伝いをするべきではないかと考えたからよ」
「それならば不必要よ。決闘とは言ったけど、彼女はおおよそ戦える相手ではない。それともまさか、貴方が代理で戦うんじゃないでしょうね? 結界の管理人だかなんだか知らないけど、邪魔をするなら容赦しないわ」
彼女が博麗に言い伝えられている結界の管理人ならば、郷の中でも相当の実力者であるはずだ。それなのに何故か強気の啖呵が頭の中にすらすらと湧いてくる。まるでそんなことを前にも口走ったことがあるかのように。
「わたしを退治するつもり? お荷物を背負ったその身で一体、何ができるというのかしら」
くすくすと嘲笑うような笑い声が、まるで耳元で囁かれているかのような近さで聞こえてくる。霊夢は歯車少女のために用意していた札を乱入者に向けて問答無用で投げつけた。躊躇いなど見せるべき相手ではないと心の奥底が叫んでいる。それだけでなく、もっと力を練り出せと訴えかけられていた。
乱入者は笑みを崩さず、札の攻撃をまともに受ける。妖気を祓う白い煙が派手に上がったけれど、苦痛を訴えるどのような声も聞こえては来なかった。
「いつもながらせっかちなのね……もとい、霊夢でも貴方は初めましてよね。あまりにも似ているから間違えてしまったわ」
彼女の声は今度も間近にいるかのように聞こえてきて気持ち悪い。どんな術を使っているのかと訝しむのも束の間、お尻を這うひやりとした感触に悪寒が背筋を伝った。
「この形は霊夢に負けず劣らず芸術的ね。これでもう少し胸の方にも栄養がいけば完璧なのだけど」
「このっ!」破廉恥な行為に振り向きざまお祓い棒を振るうが、既に誰もおらず空を切るだけだった。お尻を撫でる遠慮のなさに背中が痒くなり、咄嗟に手を伸ばしたところで大事なものが失われていることにようやく気付く。紫が再び歯車少女の横に立ったが、咲夜はどこにも見当たらない。「あんた、咲夜をどこに隠したのよ!」
「確かにわたしは色々隠すけど、彼女は隠していないわ。決闘の邪魔になるだろうから一時的に退避させただけ。いわゆるお膳立てってやつかしら。そしてもう一つ」
紫は虚空から霊夢の装備によく似た符を取り出すと、歯車少女にそっと差し出した。博麗の装備に似ていたから大袈裟なほどに怯えていたが、辛抱強く待ち続ける紫にようやく害意がないと判断したのだろう。おそるおそる手に取り、しげしげと眺め回し始めた。
「貴方にお譲りしますわ。どのようなものかはご存じですよね?」
「分かる、と思う。これはきっと弾幕決闘用の道具だ」
「ご名答。空っぽの、これから可能性が込められる符ですわ。ここに貴方のあるべき姿、至るべき可能性を込めてください。強い願いであればあるほど、呼応して強大な世界を構築する。今の貴方に必要なものですわ」
歯車少女は大きく頷き、空っぽの符をじっと見つめる。やられる前に仕留めたかったが、紫は歯車少女の前に立っており、先制攻撃を許すつもりは一切なさそうだった。
「どうしてこんなものをわたしに? 何故ここまで良くしてくれる?」
「貴方こそがわたしの証立てたかったものであり、呼び水でもあるからよ。だから後で利子を取り立てようなんて気はない。さあ、貴方の世界を示して。幻想郷はその全てを受け入れる場所なのだから」
その言葉とともに紫は冥い影そのものとなり、大気に溶けるようにして消えていく。同時に辺りを覆っていた煙が、まるで吸い込まれるようにして歯車少女の持つ符の中に集まっていく。
突如として眩しさに撃たれ、霊夢は咄嗟に目を細める。赤々とした西日が差し込み、歯車お化けが突き出した湖面を鮮やかに、そして寂しげに映し出す。あちこちが欠け、あるいは傾き、今にも崩れそうな塔の頂上にいる少女の元に煙が集う。
あの煙に含まれていた微弱な魔力のことを今更ながらに思い出す。歯車お化けを動かすために何かの燃料だけでなく魔力も使われていたとしたら、それを一所に集中すれば莫大な魔力となるのではないか。
霊夢の推測はすぐに形となって現れる。ぼろぼろだった歯車お化けが元の形を取り戻していき、湖面から何十もの似たような歯車お化けがせり出して来たのだ。その隙間を埋めるように背の高い真四角の建物や平らに舗装された道が築かれ、金属で組み立てられた機械が人型のものもそうでないものも自由に闊歩する。道をゆく乗り物はどれも無人であり、忙しないのにお互いの行き来を遮ることはない。歯車お化けはどれもが激しい勢いで回っているのに、煙や騒音をまき散らすことはない。
霊夢の知るどの里と比べてさえあまりにも異質で、ほれぼれするほどに完璧だった。黄昏の光すらもその威容を陰らせることはなく、どれほどの夜が訪れ、朝が来ても衰えることなく、永遠に続くで光景であるように思えた。
そして何よりも霊夢を驚かせたのは背の高い建物の上を、あるいは建物を縫うようにして飛び交う飛行機械の存在だった。郷の科学者たちが長年研究を続けてきながらなおも果たせないでいる夢の光景を彼女は易々と思い浮かべていた。もしかするとここにはロケットを月に打ち出すための乗り物さえあるのかもしれない。
「これだ、わたしが皆に教えたかったものは」圧倒的な光景に目を奪われていると、歯車少女が喜びに満ち溢れた表情を浮かべながら言った。「分かるだろう? この都市の魅力が。かくも輝かしく整っていて、煌びやかで、そして果てしない未来を向いている。あらゆる知性が望めばこれを手に入れられるのだ。重力のくびきを解き放ち、やがては遙かな宇宙の果てまでをも目指すことができる」
言葉だけでは決して信じることができなかっただろう。だがこうして夢想の完成を垣間見れば信念も揺らぎそうになる。これだけの機会を与えられるものを己の一存だけで滅ぼしてしまっても良いのか。空飛ぶ夢を、宇宙への憧れを、彼女は完全に満たしてくれるのではないか。
「そう……もの珍しい歯車の機械ではなく、未来を見据える先駆者としてのわたしを信じて欲しかったのだ」
歯車少女は表情を正して霊夢に向き直る。これまでの我侭気侭な態度からは考えられないほどに真摯で、そして霊夢の瞳をひたと見据えている。
「博麗の巫女、いま君はわたしの理想を見ている。かくも素晴らしきこの都市は今でこそ彼女がくれた符の力で再現されているだけかもしれない。だがこれを幻影だけで終わらせず、現実のものにすることもできる」
そして霊夢に選択を突きつけてきた。彼女の示した理想を現実にするか否か。それは今の霊夢にはあまりにも重く、たった一人で決められるようなものではない。無意識のうちに紫の姿を探したが、彼女の気配や妖気はどこにも見当たらない。あの歯車少女を助けたように救いの手を差し伸べるつもりはないのだ。どうしてか分からないけれど、そのことが霊夢には寂しいことのように思えてならなかった。
「改めて問う、それでも貴方はわたしを破壊するのか?」
霊夢の仕事は西の里を覆う白い霧を払い、異変を解決することだ。ならば答えは壊すに決まっている。それで霧は晴れ、万事は解決するのだから。でも、それではこれだけのものを見せてくれた彼女に対してあまりにも不義理であるように思えた。結末は変わらなくても、何かできることはあるのではないか。
せめて対峙したものを自分なりの方法と流儀で受け止めることだ。霊夢はそう結論し、彼女に答えを返す。
「これは決闘よ。もしもわたしの気持ちを曲げたいと言うのならば」
「勝利するしかないってこと?」頷きとともに各々の動きを見せていた飛行機械が接近し、霊夢の周りをぐるぐると回り始める。その意図は実にはっきりとしていた。「では貴方に勝ち、この夢を現実に変える!」
宣言とともに少女の姿が消え、飛行機械の先端に取り付けられた装置から大量の弾丸がばらまかれる。予期していた動きだったから咄嗟に反応し、霊夢は湖面すれすれ……今はすっかり舗装された道と接するぎりぎりまで高度を落とし、射撃を回避する。飛行機は水平に速く飛ぶことができても垂直の動きや急転換は難しいと何かの本で読んだのを思い出したからだ。しかし飛行機械たちは当然のように空中で静止し、急降下しながら弾丸をばらまいてくる。今度は地面と平行に移動して回避、用意していた札を手癖で放つ。鉄の塊だかか効かないかもしれないと思ったが、接触した一機が白い煙と共に蒸発した。
残りの飛行機械たちは慌てて引き返し、十分に距離を取ってから弾丸の乱射で札を撃ち落とす。霊力が効くと分かったのは朗報だったが、何十機もの飛行機械を全て撃ち落とし、歯車少女が都市と呼んだ建造物群を制圧するには装備が万全でも無理だろう。かといって符の持ち主は完全に都市と溶け込み、直接狙うことができそうにない。
この状況を霊夢は何度か体験したことがある。表現に特化し、己自身をも舞台から消してしまう特別製の符が発動しているのだ。相手を一方的に狙うことができる代わりに消耗が激しく、長時間展開することは難しい。他に切る手がなくなったとき最後の手段として発動するか、もしくは最終手段を放つための時間稼ぎに利用するかのどちらかだ。符は一枚だけだから前者の可能性を考える必要はなく、凌ぎ切ることだけ考えれば良い。霊夢はそう判断すると残弾をざっと計算し、上手く逃げ切るための力の使い方を頭の中でこねくり回していく。
取りあえずは次の襲来に備えようと思った矢先、道路を高速で走りながら近付いてくる自動車の姿が見えた。屋根には飛行機械についていたのと同じ弾丸発射装置が備え付けられており、霊夢に向けて容赦なく撃ってくる。どうやら空だけでなく陸にも安全な所はなさそうだった。
自動車は小回りが効かないはずなのに、どんなに小刻みに動いても狭い道に入っても執拗に追いかけてくる。空からも再び弾丸が降り注いできて、気の休まる暇がない。
こんなものが実現化されたら、妖怪退治に空飛ぶ力を頼む必要はなくなる。博麗の巫女も神社を管理するだけの公務員になり、高い霊力を持つ子供が何年も拘束されることはなくなるのかもしれない。そんな思いがふと霊夢の頭を過ぎる。
悪くはないはずなのに、あまり良い気持ちになれなかった。それに霊夢はこの都市に少なからぬ違和感を覚えていた。ここには在るべきものが決定的に足りていない。それが霊夢の足を動かし、攻撃への意志を保ち続けた。
あらゆる方向から放たれる弾丸を、霊夢は強化された身体能力によって回避し続けながら、落とされにくい針に切り替えて慎重に狙い撃っていく。だが撃ち落としても撃ち落としても機械の数は減ることなく、弾の量は増えていくばかりだ。
霊夢を完全に包囲しようと、機械たちはじりじりと距離を詰めていく。それだけは何とか避けようと立ち回ったが、飛行機械のせいで上空に抜けるのは難しく、地上すれすれを進んでいくしかなかった。それもとある交差点にさしかかったところで完全に逃げ場がなくなった。霊夢はそのの中央に立たされ、自動車が四方から迫り、蟻の這い出る隙間さえなかった。
回避だけではこの状況を切り抜けることはできないのだと察し、霊夢は使う予定のなかったもう一つの符を取り出すと霊力を込める。力が吸われる感覚に視界が一瞬ぐらりと揺らいだけれど、霊夢は頬を叩いて意識を保ち、符を破り捨てる。
発動とともに霊夢を中心にして半円状の結界が瞬時に形成され、札の形をした霊撃を四方八方へと放ち始めた。
博麗の術に本来ならば札や針などの道具は必要ない。霊力によってどんな形も作り、自由自在に操ることができる。霊夢にお祓い棒を剣にして戦う技を教えてくれた天人が、かつてそんなことを語ってくれたことがある。
『わたしの力は気質そのものであり、この身に携える天剣ですらその触媒にしか過ぎないの。だけど千年以上の時を経た類稀な天与の才能を持つこのわたしでさえも、それだけで力を表現しきることはできない。あんたはそれこそ弱っちい人間なんだから、どんどん道具に頼りなさい。わたしが知ってる霊夢もいざという時以外はそうしてたわ』
だが無慈悲な数に対抗するには、こちらも尽きることのない弾を使うしかない。己の身を守りながら、霊力がある限り攻撃を続けられる攻防一帯の結界。これこそ今の状況にうってつけだと考えた。かつての霊夢が封魔陣と名付けた、最大強化している時にしか使えない符の一つ、そして夢想封印に並ぶもう一つの切り札。
霊夢の周りを囲んでいた車や飛行機械が次々と白い煙をあげて蒸発していく。だが相手も魔力によって再生産を続け、守りを突き崩そうと大量の弾丸を放ってくる。どちらの根が先に尽きるかという、機械が発達しきった世界においてあまりにも単純で原始的な勝負になっていた。
霊夢は自分のことを常々、根性のない人間だと思っていたが、この勝負にはどれだけ歯を食い縛ってでも負けたくなかった。理屈など何もないが、歯車少女の生み出したこの世界を耐えきることが、どうしても必要なのだという気がした。いつもの勘だったが、今日はこれまでよりもよく自分のことを助けてくれた。ならば今度は勘に報いて勝つべきだった。歯車少女の見せた世界への渇望を受け止め、それでも耐えて久しく在る姿を見せつけてやるべきなのだ。
「さあ、もっと来なさい! 全部受け止めて……いや、撃ち落としてやるから!」
宣言とともに結界の密度が増し、敵を撃つ札の数も目に見えて増える。息苦しいほどの数で編隊を組んでくる飛行機械も、目につくものは全て狙い撃つ。辺りは白い煙で満たされ、濃い魔力でむせかえりそうだった。
突如として視界がぐらぐらと揺れる。こちらはまだ意識を保っているはずだと心の中に言い聞かせ、体の中にある力を一滴残らず振り絞ろうとした。だが揺れは大きくなるばかりで、全く反応する様子がない。霊夢はようやく、揺らいでいるのは自分でなく、見えているもの全てなのだと気付く。
都市が形を保っていられず、徐々に威勢を失いつつあった。飛行機械や自動車が姿を消し、背の高い建物はどんどんと消え、道路も湖面に戻っていく。慌てて空を飛び、湖面から距離を取ると同時、全ての建物と道路が消え去り、あとには最初に姿を現した歯車お化けの群れだけが残った。それらもすぐに失われてしまい、ただ一つこの世界にやってきた歯車お化けすらもその姿を消してしまった。
霊夢の目に映っているのは湖に浮かぶ離れ小島にぽつんと佇む、ピアノほどの大きさの機械だった。大量の歯車を組み込んだそれは惨たらしいと言えるほどにぼろぼろの姿であり、歯車の一部が欠けたり抜け落ちたりしている。
咲夜がナイフに変えてしまった部品もあるだろうが、それだけでは説明がつかない。明らかに長い時を経ており、全身がすっかり錆び、あるいは朽ち果ててしまっていた。触れただけで崩れてしまいそうなほどに脆く、痛々しいものだった。
「どうやら決着したみたいね」憎たらしい声とともに、紫が機械の横に現れる。その腕には歯車少女が抱えられており、ぐったりしているものの命に別状はなさそうだった。紫は地面に少女を置くと、満足そうな様子で霊夢に声をかける。「よく頑張ってくれたわ。これで郷が白い煙に悩まされることもなくなるでしょう。めでたしめでたしね」
「いやいや、めでたしじゃないでしょう?」
一方的に締めようとする紫に霊夢はついつい口を挟む。歯車少女の符を耐えきったことは分かったけれど、それ以外のことはまるでさっぱり解明していない。
「ここにあったはずの歯車お化けはどうしたの? いまここにある古びた機械とはまるで違う。歯車でできた機械だってことだけは一緒だけど。それに……」
「それよりも大丈夫なのかしら?」紫は霊夢の質問を遮り、困ったものでも見つけてしまったかのような表情で訊ねてくる。「霊力をすっかり出し切ったみたいだけど、空を飛んでいて大丈夫なのかしら?」
言われてみればと考えた途端、体から一気に力が抜けた。空を飛んでいることができなくなり、湖へと真っ逆さまに落ちていく。だが着水することはなかった。柔らかい感触が霊夢をしっかりと抱き留めたからだ。ほれ見たことかと言わんばかりの余裕ありげな笑みに、たちまち怒りが湧いてくる。だがそれを形にすることはできなかった。すっかりと気が抜けたせいか意識を保っていることさえできなくなったからだ。
気を失う直前、霊夢はもう一度だけ紫の顔をうかがう。そこには安堵と、まるで愛しいものでも見るかのような、暖かみが滲んでいるように見えた。
「貴方はいつも、最も困難な道を往くのね」
その声は意識を失った霊夢の耳には届かなかった。
第1章 幻影都市の亡霊 一覧
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丸々1話分抜けてる?
文章が途中で途切れてますね。
あと、霊夢vs咲夜→紫が登場のシーンは1話使って書いて欲しかったかも。
大変申し訳ありません。
うっかり丸々1話分飛ばして投稿していましたので全文修正して再更新しました。
霊夢(過去)は最もめんどくさくないルートを選んでたと思うんですけど