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2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊   幻影都市の亡霊 第6話

所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊

公開日:2016年12月01日 / 最終更新日:2016年12月01日

幻影都市の亡霊 第6話
「地下図書館が広大なのには二つの理由があります」パチュリーと別れてしばし、先導する小悪魔がいきなりそんなことを口にする。「一つは日々増え続ける書籍を完全に格納するためです。もっとも現在は半ば機能不全に陥っています。本の増加量に広さが追い付いていないからです」
 見渡す限りの書架からは整然とした印象を覚えるのだが、見えない場所では大変らしい。エリーから聞いた屋敷の実情にしてもそうだが、表面こそ上手く繕われているけれど、水面下では必死にもがいているというのが現実らしい。
「咲夜さんがいた頃は本当に楽だったんですよね。本が増えた分、いくらでも空間を広げてくれたんですから。パチュリー様は人の手に余ると言ってあまり良い顔をしませんでしたが、やはり便利ですからね。無意識のうちに頼っていたのだと思います。だが人間としての生を全うするならば寿命から逃れることはできません。ましてや咲夜さんは時を操る力の使い手でした。その影響かは知りませんが、屋敷にやって来て十年か二十年かそこらでその生を終えたのです」
 十六夜咲夜が何歳の時にこの屋敷へやって来たのか、怖くてとても訊くことができなかった。皆の話ぶりから自分とあまり変わらない年頃だというのは分かったし、若くして死にゆく命を考えるというのはあまり気持ちの良いことではなかった。その死に疑義を抱いておいて虫の良い話だというのは分かっていたけれど、自嘲は恐怖を収める役には立たなかった。
「パチュリー様も増え続ける本を格納するため、術式によって空間を拡大していますが、咲夜さんほど自在というわけにはいきません。それに拡張を続けた空間はいよいよ限界に至ろうとしている。そろそろ抜本的な改築が必要なのかもしれません。あるいは咲夜さんと同じ力を持つ何者かを連れてくるか。個人的には彼女と同じ力を持つ人間なんて、現れて欲しくないですけどね。真っ当な寿命を迎えられない人間というのはヒロイックですが、悲しいものです」
 小悪魔を自称しているのに、なんとも悪魔らしからぬ発言だった。
「人生とは一冊の本であるべきですよ。小冊子というのは些か物足りません」
 もとい、書に埋もれて暮らす悪魔らしい発言だった。彼女はこの世界に氾濫する書物だけでは飽きたらず、いまこの世に生を持つ全てをも本になぞらえているのかもしれなかった。
「閑話休題。もう一つの理由ですが、迷路のような複雑さを演出することであるものを外に出さない……否、この場所に入り込んだものをある場所に辿り着かないようにするためです」
「こんな所にやって来る輩が他にもいるの? わたしが言うのもなんだけど、こんな危ない所まで忍び込んで来るだなんて狂気の沙汰だと思うけど」
 なんとも命知らずだなと思ったのだが、小悪魔は何故か噴き出すような笑い声を立て、慌てて咳払いする。思い当たる節があったのかは知らないが、どうやら突発的な、意図しない感情が漏れたらしい。
「稀に狂人も現れますが、本を蒐集する過程で迷い込む人間もいるのです。それというのもひとえに本……書物という代物が持つ幅広さにありまして。書物は必ずしも紙や皮でできているわけではなく、背を糊や糸で閉じてぱらぱらめくるようにできているものが全てではない。例えば紙が普及していない時代ですと文字を木に書いたり石に刻んだりしましたし、背を糊や糸で綴じるのではなく、丸めて端から開いていく形式の書物もあるわけです。だからこそ定義を広く取る必要があるわけですが、そのため博覧強記の人間をどうやっても条件から取り除けないんです」
 そこまで説明されてようやく霊夢にも話の筋が見えた。
「莫大な知識を蓄えた人間も、書物として認識されるのね?」
「その通りです。大概は大きな騒ぎになる前にお帰り願うというか強制送還するのですが、たまに無鉄砲というか運が悪いというか、あるいは本の虫が騒いで堪えきれなくなるのか、探索に出る人間もいるのですね。そして辿り着いてはいけない場所を見つけ出してしまう。それを避けるために書架の迷宮を構築したわけです。これから霊夢さんをお連れする場所こそ禁忌の領域なのです。もっとも今はレミリア様の隠遁所となっていますが」
 霊夢には同じような場所をぐるぐる回っているようにしか見えないが、小悪魔は完全に道を把握しているのか、一方的なお喋りをしながら道に迷う様子がない。数百年同じ所に住んでいれば覚えてしまうのか、それとも魔術による目印を残しているのか。
「よし、着きました。どうやらレミリア様の機嫌はそんなに悪くないと見えます。これはかなり珍しいことですよ。ここ百年は寝ているか、機嫌が悪いか、稀に少しだけ機嫌が良いかの三通りでしたからね。やはり博麗の巫女というのは望外な運を持ち合わせているのですね」
 小悪魔が停止した場所には、パチュリーが書を読んでいた休憩所のようにテーブルや椅子が置いてあるわけではなく、もちろん他の目印も見当たらない。それでいて霊夢はここが正解だと分かっていた。
「そしてここが目的地だと分かっている。このまま進んでも良いですが、それではいまいち盛り上がりに欠けますね」小悪魔が指をぱちりと鳴らし、すると一瞬で書架が全て消え失せた。ただっ広いだけの空間の至るところに本が積まれており、児童向けの説話に出てくる賽の河原を思わせた。「昔は本当に何もない場所だったんですよ。ただ恐るべき怪物のいつでも抜け出せる檻としてだけあった。でも今はいくつかの意味がある。整理しきれない虚ろな知識の集積場、屋敷から溢れてしまって行き場のない調度品の墓場、そして虚ろと化した紅魔館の当主がなおも君臨する場所。ここからはもう、迷うことはないでしょう」
 小悪魔の言葉に霊夢は小さく頷く。端がどこか分からないほどの広さだが、ぼんやりしていても感じられるほどの妖気が前方から漂ってくる。この気配を辿って先に進めば良いのであって、小悪魔が言った通り迷う要素はどこにもなかった。
 本の塔や調度品にぶつかるたび迂回し、歩くことしばし。黒塗りの棺桶が霊夢の前に姿を現した。肌寒いほどの妖気が辺りを満たしており、吸血鬼という種族の凄まじさが嫌というほど伝わってくる。
「霊夢さんはどうやら歓迎されているらしいですね」
 小悪魔の耳打ちとともに妖気が更に膨れ上がり、刺々しい感情までもが放射され始めた。あまりに強いと感情ですら圧力を持つらしい。
「これのどこが歓迎なのよ、明らかに怒って……」
「しっ、静かに」小悪魔が口元に指を立てる。もっと言ってやりたかったが、霊夢もそれどころではないとすぐに察した。棺の蓋がかたかたと動き、内側から押し開けられようとしていた。重たそうな石の蓋だというのに、まるで掛け布団を払いのけるように無造作で、すぐにごとんと重たい音が響いた。「どうやら起こす必要はなかったようですね、これも幸いですよ。何しろレミリア様と来たら無理矢理起こされるのが太陽と流水と炒った豆の次に嫌いなんですから」
 小悪魔の声はほぼ右から左に素通りしていた。棺の中から姿を現したものに目を奪われていたからだ。話に聞いていた通りの容貌だったが、それでも言葉にすれば失われるものもあるのだと思い知らされた。銀の髪に緋の瞳、肌は透き通るように白く、雪花石膏の彫像と言われれば信じてしまいそうなほど、そのかんばせはあどけなくも美しく完成されていて。吸血鬼がその瞳だけで魅了をかけるという逸話もさもありなんと思ってしまう。
 だがそれも僅かな間のことだった。盛大な欠伸を浮かべ、噛み殺す様子は少しだけ容姿に恵まれた子供でしかない。それにしても、姉妹だというのにフランドール・スカーレットの面影がほとんど感じられない。髪の色はまるで違うし、背中から覗くのはシャンデリアをぶら下げたような、羽根と呼ぶことさえ躊躇われるような器官ではなく、蝙蝠によく似た漆黒の翼である。
 レミリアと思しき少女は小動物のように鼻をひくひくさせ、霊夢の方に鋭く振り向いた。同類を見る目ではなく、この珍獣は一体何者かと言わんばかりの冷ややかさが強く含まれているように思えた。
「くっさい」レミリアは開口一番、失礼にも程があることを口にし、あまつさえ鼻をぎゅっと摘んでしまった。「変な臭いをまとっているし、巫女のような霊力を帯びている。おまけに容姿までそっくりときた。まさかわたしは博麗霊夢です、などと名乗るわけではないだろうな?」
 そんなことは認められるはずがないとばかりの断言だった。だが本名は別にあるにしろ、今は巫女として名乗るほかなかった。
「わたしは混じりっ気なしの博麗霊夢よ。だとしたら、どうするわけ? わたしのこと、その爪で八つ裂きにでもするの?」
 レミリアはわざとらしく舌打ちをし、霊夢ではなく小悪魔に怒りの視線と表情を向ける。漏れ出しているだけでもおっかないほどの妖気が明確な指向性を持っただけで、それも自分に向けられているわけでもないのに、それでも背筋が凍りそうなほどの威圧感を覚えた。
「おい、パチュリーの小間使い。誰がわたしの所にこんな無礼者を連れて来いと言った?」
 小悪魔の表情から主人であるパチュリーと話している時でさえ崩れなかった余裕が消え失せていた。人間だけでなく魔的な存在であっても……もしかするとより近しいからこそより強く恐怖を覚えるのかもしれない。
「申し訳ありません。パチュリー様から通して良いと言われまして」
「馬鹿かお前は、いつからあのもやしが当主面できるようになったんだ。この屋敷の当主は今も昔も変わらずわたしだろうが」
 見当違いにも程があった。小悪魔は自分の勤めを果たしただけに過ぎない。こうも頭ごなしに叱責されるいわれなどどこにもないはずだ。
「それは、その……申し訳ございません」
「申し訳ございません、じゃないよ」繰り返される謝罪を切って捨てると、レミリアはわざとらしく大きな溜息をつく。「謝罪して切り抜けられると考えてるんだろ。お前みたいな奴はいつだってそうだ。小狡く逃げることばかり考える。すみません、申し訳ございません。いくら寛大なわたしでもそこまで虚仮にされたら許せるものも許せなくなるというものだ。おい、わたしの言ってることが分かるか?」
「はい、分かります……その、申し訳ございません」
「だから申し訳ございません、じゃないよ!」声の調子が一つ高くなり、いよいよ不快感が増してきた。「こんな霊力をちょっとばかしくっつけてるだけの、おむつも取れてなさそうな餓鬼を連れてきて。いいか、こいつをさっさと追い出してしまえ。全く、使えない奴ってのはこれだから嫌だ」
 それだけを一方的に告げると、レミリアはこちらに背を向けて棺桶に手をかける。このまま二度寝するつもりなのだろう。あれだけ言いたい放題、しかも自分ではなくて役目をきちんと果たした従者を叱責するなんて、到底許される態度ではなかった。
「ちょっと待ちなさい!」霊夢はレミリアの背中に声をかける。この暴君に気持ちの一つでもぶつけてやらなければ気持ちが収まりそうになかった。「どうしても訊きたいことがあるの。あんたの……」
「お前に話すことなど何もない。たとえ世界が明日にでも滅びるとして、救うための方法を持ってきたと言われてもな。おい、何をぼうっと突っ立ってる、この無礼な人間を早く追い出してしまえ」
 取り付くしまがないとは正にこのことだった。そして館の主が追い出せと言った以上、霊夢がここにいる正当性は消失している。なおもここに留まり続けることは無礼に当たるだろう。
 それがどうした。心の中でそう呟くと、霊夢は一歩前に出た。
「あんたが閉じこもろうと言うなら、蓋をこじ開けて無理矢理引きずり出してやるわ」
 既に無礼ならば、もう一つ無礼を重ねても構わないと思った。
「それから耳をぐいと引っ張って、嫌でも話を聞いてもらう」
 あんたにかつて仕えていた従者の名前を騙る何者かが現れ、紅魔館の主が霧の元凶だと告発した。何か心当たりはないのか。ここまで来ても核心に至るための情報を一つも得られていないのだから、レミリアを絞って聞き出すしかない。このまま棺桶に戻るつもりなら本当にそうしてやるつもりだった。
 レミリアは霊夢の言葉に肩を震わせる。侮辱されて激しい怒りに駆られたのかと思ったが、すぐに違うと分かった。くつくつと、噛み殺すような笑い声が聞こえてきたからだ。可笑しくて可笑しくてたまらないのをどうにか堪えているといった様子であり、棺桶にかけていた手を離し、こちらを振り向くとともに腹を抱えてげらげらと笑い始めた。
 その小さな体でどうやってというほどの呵々大笑であった。先程までの怒りなど一瞬で吹き飛んでしまい、霊夢はただただ呆然としているほかなかった。横をちらりと見れば小悪魔も神妙な表情をいつの間にか笑みに変え、忍び笑いを漏らしている。
「まあ、悪くない……いやうん、悪くないなあ……」笑いを堪えてなんとかそれだけ口にすると再び笑い始める。流石に堪忍袋の尾が少しばかり緩んできて、失礼な吸血鬼をきつく睨みつける。「すまんすまん。その一瞬で火が点く怒りっぷり、あまりにも霊夢だなと思ったんだ。ふん、パチェのやつがわざわざ寄越して来るだけのことはある」
 そして今更ながら試されていることに気付く。パチュリーといいレミリアといい、会うや否や霊夢という名に相応しいかを測ろうとしてくるのはやはり癪に障る。まるで自分を見られていないように感じる。
「そしてかつての霊夢よりは若干育ちが良い。あいつは話半ばで、問答無用で襲い掛かってきたからな。鎖の外れた狂犬という喩えがあまりにもしっくりくる奴だった」
 狂犬というたとえはしばしば悪評価として使われるものだが、レミリアにとっては好印象の相手に使うものらしい。吸血鬼という強者であることを顧みない蛮勇を好んだのだろうか。あるいはもっと個人的な好意を抱いていたのだろうか。過去の二人を知らない今の霊夢にその機微を知る術はないし、考えている暇もなかった。レミリアの放つ妖気が徐々に高まり、霊夢を圧迫し始めたからだ。
「対するお前は今のところ、首輪のついた飼い犬と言ったところだろう。狩りの仕方は知っているようだが、喉に牙を突き立てたことはあるかい? 血が噴き出し、徐々に失われていく命を尽きるまで見送ったことは?」
 背筋が寒くなるような問いかけだった。名言こそ避けたが、レミリアはこう語りかけていた。誰かを殺したことはあるのかと。そしてその有無に拘わらず、命を賭けて来いと訴えている。
「夜の王たるわたしから何かを引き出そうとするならば、対価が必要となる。博麗を名乗る人の巫女、これからせいぜいわたしを楽しませてみろ。ただし、できるものならばな」
 思わずごくりと唾を飲み込んだ。パチュリーも強い力の持ち主だったが、レミリアの強さはまた質が違う。荒々しく、相手を踏み躙り倒すまでは収まらない、殺意にも似た気を発している。生半可な気持ちでは瞬く暇も与えられないかもしれない。
「目つきが変わったぞ。お前やったことがあるな? そしていざとなれば躊躇いなくやる奴だ」
 レミリアは拳を強く握りしめる。鋭い爪が肌に食い込み、流血がぽたりと零れ……次の瞬間には直刀の短剣に変化していた。レミリアはゆっくりと掌を広げ、すると血がふわふわと浮かび、次々と短剣へ姿を変えていく。その手でものを放る仕草をすると同時、短剣が一斉に飛びかかってきた。パチュリーと同じパターンだなと思いながら上空へ逃れると短剣は地面に突き刺さる……直前で向きを変え、霊夢を追いかけて来る。誘導性能があると察し、霊夢も誘導型の霊札を放って迎撃に移った。
 そこまで頑丈ではないのか、それとも霊力に弱いためか、短剣は札に接触するやいなや紅い煙となって蒸発する。だが、いかんせん数が多過ぎて各個撃破では埒があかない。そしてレミリアは第二陣、第三陣の短剣を容赦なく繰り出し、霊夢の努力を完全に無としてしまった。
 一網打尽にしなければと思考を巡らしながら、今度は針を速射する。先程よりは拮抗できているが、それでも相手の手数を圧倒するには程遠い。次にとことん逃げを打って追尾しなくなるのを待ったが、いくら方向を変えても追跡が衰えることはなく、それどころか徐々に加速を強めてきている。点ではなく線でもなく、面で迎え撃たなければ近いうちに押し切られるのは明白だった。
 そこまで考えてようやく対処法を思いついた。少しだけ速度を上げ、短剣の群れと距離を取ってから今度は捕獲用の札を射出する。接触する直前で網を広げると短剣は一斉に蒸発し、第一射を抜けてきたナイフも同じ札を撃って次々と落としていく。だが対処はできても、レミリアはいくらでもナイフを生み出して来て、近付く隙すら与えてくれない。まるで永遠に尽きない魚群を相手に漁をしているような気分になった。
 それでも同様の攻防を繰り返しているうち、少しだけ別のパターンが見えてきた。血がナイフの群れになるまでほんの数秒だけタイムラグがある。ナイフを相殺したのち、直後に攻撃を仕掛けることができれば、こちらの攻撃を当てることができるはずだ。しかし遮二無二近付けば適切な距離を取られるだろう。大技を使えば突破できるかもしれないが、これはスペルでさえなく単なる手慰みのような技だ。パチュリーと違い、本気の一端すら出していない。力の出し惜しみができないことは分かっていたが、最初から一気呵成で攻めて大丈夫なのだろうか。パチュリーの時には最初から切れた全力を躊躇わせる底知れなさのようなものが、目の前の吸血鬼にはあった。
「どうした? 守ってばかりじゃないか。こうも一方的だとちっとも面白くないな」レミリアは空いた手を口元にあて欠伸の振りをする。「血を流し過ぎて消耗するとでも思っているのか? 残念だが、こんなものを生み出すのは脈を打つのと同じくらい自動的で容易いんだよ。消耗させたいならばもっと大きな技をわたしに打たせることだ」
 逆に言えば大技を打たせれば、弱らせることも可能ということだ。しかし今の状況では万が一にもその芽はない。レミリアもそれを分かっているからこそ、もっと血を使わせて見ろと挑発してくるのだ。やはり大技を形振り構わずに切るべきか……その前に一つだけ試してみたいことがあった。
 続けて短剣を放ってくるレミリアに、霊夢はこれまでと同じように捕獲用の札を投射する。ただし今回は隠し玉を、それとばれないよう無造作に発射した。短剣と捕獲用の札は今度も互いを打ち消し合い、赤い煙とともに蒸発していく。僅かに遅れて撃った隠し玉はだから一瞬の間だけ赤い靄に包まれて、姿が見えなくなった。
 消失間際の妖力に反応し、隠し玉が文字通り巨大な霊力の球体として顕現する。それはこの場で最も大きな妖力の源であるレミリアに向け、脇目も振らずに飛んでいく。彼女の血はまだ短剣と変化しておらず、空中を漂うだけだ。
 当たると思った直前、レミリアの姿が掻き消えた高速移動したと察し、慌てて歯を何度も噛み合わせてギアを入れ替える。四速まで上げたところでようやく辛うじてレミリアの動きを捉えることができた。彼女は霊力の球から十分な距離を取っており、左手を手刀の形にすると肘から手首にかけて素早く振るう。噴き出した血はレミリアの掌に集い、赤い盾に形を変えると霊力の球を真っ向から受け止める。赤い煙がもうもうと立ち込め、霊力がみるみるうちに小さく萎んでいく。そして最後の抵抗とばかり、僅かな間だけ強い光を放つと完全に消滅してしまった。
 痛手は与えられなかったが、これまでよりは消耗させられたはずだ。そんな思いを瞬時に砕く、刃物のように鋭い妖力が霊夢を打つ。レミリアの右手には熱した鉄のように赤々と輝く槍が握られていた。
「この血は我が右腕、ゆえに全てを穿つ神代の槍の如く敵を撃たん!」
 己の血に対する自負を唱えると、槍はいよいよ光輝の如き煌めきを見せる。
《神槍『スピア・ザ・グングニル』》
 強大な力を持つ赤き血の槍を、レミリアは鬼の膂力でもって投擲する。霊夢は迷うことなく符を切り、前方に妖力の侵入を拒む結界を二枚、一挙に展開する。霊夢が現状で使いこなせる防御術の中で最も強い符だが、一瞬の接触で一枚目を砕かれた。二枚目もほぼ瞬時に砕かれたが、辛うじて回避するだけの余裕を稼ぐことはできた。ほぼ無意味だったが、結界で僅かでも時間を稼いでいなければ瞬く暇もなく体を貫いていただろう。正に雷の如く敵を撃つ、半ば反則とも言える威力の符だった。
 そして霊夢に息つく暇はなかった。槍の二発目が既にレミリアの手中で形成されようとしていたからだ。再び霊力の球体を生み出し、血が槍と成すまでに相殺しようと試みたが、レミリアは空いていた左手を掲げて再度血の盾を作り、先程と同じように霊力を難なく凌いでしまった。同時に二本目の槍が完成し、霊夢は身体感覚をもう一段階上げてから二重の結界を再び張り巡らせる。
 今度は二枚の結界とも瞬時に貫かれた。必死で回避を試みるも槍は霊夢のごく間近を通過し、身を焼くような痛みが左半身を苛んだ。強い妖力はそれだけで人間を害するものだが、歯を食いしばらないと気を失うほどの痛みを感じたのは初めてだった。恐怖に頭が真っ白になりそうだったが、霊夢は必死で歯を食いしばって負の感情に耐える。
 辛うじてかわせたのは第五段階まで身体機能を強化していたためだろう。あれよりも速く槍を投擲することは可能なのだろうか。それともあの速さがレミリアの、身体能力としての限界なのだろうか。どちらにしても霊夢にできることは一つしかなかった。
 歯を噛み合わせ、身体能力を更にもう一つ上げる。槍が通過した時とは異なる鋭い痛みが全身を駆け巡り、霊夢は思わず大きく息を吐く。恐怖でなく純粋な痛さで気を失いそうになったが、何とか耐えることができた安堵から出たものだった。
 第六段階は負荷が大きく、強い電撃に撃たれるような痛みと痺れが体を襲う。修練の際には思わず気絶することも少なくないし、この技を教えてくれた魔法使いからもよほどのことがない限り第六段階以上の強化は使うなと言われている。だが目の前にいる吸血鬼相手では、強化を完全にしなければとてもではないが戦えそうになかった。
 そして痛みに耐えただけの成果はあった。第五段階にも増して五感が研ぎ澄まされ、力の細かい流れすらも感じることができ、動きは流れる水のように滑らかになる。何よりも有り難いのは、あらゆる術をより強い霊力を持って使用することができることだ。第五段階まではあくまでも身体能力の強化だが、第六段階はあらゆる能力が強化される。
 だが代償も激しいものとなる。こうして立っているだけでも体内に蓄えられた霊力がどんどん失われているのがはっきりと分かる。これを使ったからには必ず短期で決着を付けなければならない。吸血鬼相手にそれが果たして可能なのだろうか。
 その覚悟は三本目の槍が生まれると同時に決まった。レミリアが大きく振りかぶると同時に四枚の結界を同時に展開し、力の源をしかと見据える。槍はこれまでの二本を越える速さと力を秘めており、霊夢の張った結界を一気に四枚とも貫いたが、結界は砕け散ることなく、槍は中空でぴたりと動きを止めた。
「結界よ、ねじ切れ!」
 霊夢の宣言とともに一枚目と三枚目の結界が右回り、二枚目と四枚目の結界が左回りに転じ、槍をへし折った。そのまま赤い煙と変じたことを確認すると、霊夢は使うかどうかさえも決めずに持ってきた符を取り出す。これまでのように一発だけ撃ち出すまがいものではなく四発同時に発動させる、稗田の記録が確かならば原型の術と同じ威力を発揮するはずの符。霊夢が有する、正しく最終手段の一つだ。
 意を決して符を破るとともに、体内に残る霊力がごそっと抜けていき、眩暈がしそうになる。身体強化を保つための霊力に加えて、符を発動させるための力を消費しているのだから当然なのだが、何度味わってもこの吸い出されていく感覚は嫌なものだと思う。強化しなくても術が撃てれば良いのだが、今の霊夢では強化された身体でなければ四発の霊力を同時に発生させ、形を保つことができない。
 辛うじて耐えられたのはレミリアの槍による痛みがまだ残っていたためでもあり、不穏の高まりに危惧を覚えたからでもあった。今後に及んでレミリアが発する力は強くなる一方であり、すぐにも想像を絶する一撃が飛んでくるのは明らかだった。ここで踏み留まらなければ踏みにじられるだけという恐怖が、今は霊夢の心を支えていた。
「その技を持ってくるならば、わたしも応えなければなるまい」
 レミリアの言葉とともに左腕が無数の蝙蝠に変じ、右腕に牙を突き立て始める。たちまち至るところから血が噴き出し、それらは巨大な腕を形作っていく。腕の形をした血ではなく、血の腕と呼ぶのが相応しい代物だった。
 霊夢は自分が酷い勘違いをしていることに気付いた。レミリアは血を武器に変化させているのではなく、血そのものが力なのだ。短剣や槍の形をしていたのは、見栄えを整えるために無駄な加工をしているだけに過ぎない。体裁や美意識さえかなぐり捨てて血を直接ぶつけてくるこの攻撃は、これまでと比べものにならないほどの威力を秘めているに違いなかった。
 早く術を完成させなければいけないという焦りのためか、先程までの研ぎ澄まされていた集中が解け始めていた。折角の術が雲散霧消するのだけは避けたかったのに、気持ちとやりたいことがどんどんと離れていき、球の形が崩れ始める。夢想封印は精緻に組まれた結界の中に大量の霊力を注入して放つ術だ。少なくとも今の霊夢では、球の形以外で術を放つことはできない。
 そんな霊夢の気持ちを支え直したのは、レミリアの高く通る檄だった。
「人の身で我が力と拮抗する、お前の在り方を示して見せろ」無様な霊夢を叱ったのか、かつての霊夢を自分の中に見たいのか。レミリアの顔は大量の血を失ったためか蝋のように白ずみ、その気迫は年端もいかない少女のそれとは思えぬほど凄絶で。瞳の奥には微かな寂しさのようなものが潜んでいるように、霊夢には見えた。「熱き血潮よ、我が意とともに全てを吹き散らせ!」
《紅符『スカーレットシュート』》
 迫り来る力に、霊夢の心臓がどくりと、一際大きく波打つ。あれに打ち勝つだけの力がいま欲しかった。そんな気持ちに呼応するよう、四つの球体が急速に形を取り戻し、術として完成する。今なら行けると思考ではなく、心の深いところで理解する。
「博麗の名において命じる。猛き妖の力、夢の如く散るべし!」
 霊夢は高らかにそう宣言し、符に込められた力を血の腕に向けて放つ。
《霊符『夢想封印』》
 暴虐の力に過たず、一つ目の球が命中する。それは腕の持つ妖力によって一気に押し潰されそうになったが、間髪入れずに二つ、三つ、四つと突き刺さり、一斉に白光と化して激しい爆発を起こす。轟音が耳をつんざき、それでも霊夢は目を閉ざすことなく、目を閉じることもなくひたすらに前を見据え続ける。
 光が収まると、まず見えたのは堂々と形を保つ赤い腕の姿だった。あれでも倒しきれないのかという畏れがまず浮かび、次には無意識に安堵の息をつく。腕が赤い霧へと分解され、跡形もなくなったからだ。
 だが安堵もすぐに消えた。レミリアは既に二発目の腕を形成しようとしていた。ほぼ形を成し、いつでもこちらを狙えるのだと言わんばかりの不敵な笑みを浮かべている。あまりに自力が違うと思った。どうやってこんな怪物に勝てば良いのか。かつての霊夢はどうやって彼女を倒したのか。今の霊夢には何も浮かばなかった。
 結界はあといくつ残っているか。夢想封印を立て続けに撃つことは可能か。札と針だけならどれだけ当てれば相殺できるのか。頭の中に様々な可能性が浮かび、すぐに消えていく。手持ちの装備であの腕をもう一度受け止めることはできないだろう。
 ぎりぎりまで耐えるべきか、引くべきか。その答えを出したのは自分の体だった。空を飛ぶだけの力さえ維持できず、徐々に高度が落ち始めたのだ。どんなに踏ん張っても体に霊力を乗せることができず、高めていた身体能力も一気に元通りとなった。地面に下り立つと無性に体が重たくて、立っていることさえままならない。強烈な吐き気だけは何とか堪えたが戦える状態ではなかった。
「ふむ、これが限界か」レミリアは自分の限界を指摘しているのだと思った。だがすぐにそうでないことが明らかになった。腕の形をしていた血が一気に崩れ、床に巨大な血溜まりを作ったからだ。「えっと、どれくらい眠ってたんだっけな?」
「今日でちょうど一ヶ月ですね」横から聞き覚えのある小悪魔の声がする。戦いの最中に姿が見えなかったから、遠く離れたところで様子を見守っていたのだろう。「もっと早くガス欠になると思っていましたが、意外と長丁場でした。随分と興が乗られていたご様子で」
「ああ、最初は単なるへなちょこだと思ったが、存外に楽しめると分かったからな」レミリアはそう言って、ぱちりと指を鳴らす。すると血溜まりが無数の蝙蝠に変じ、欠けていた左手の付け根に群らがって、あっという間に元通りの左手が形作られていく。気が付くと傷だらけだった右腕もすっかりと治っており、服に付着した僅かな血の染みが先程までの決闘を思わせる唯一の証となった。「博麗の術だけでなく色々な技を身に着けているな。天才ではないが、持ち合わせた才能をフルに活用するタイプだ。霊夢よりもむしろ魔理沙の戦い方を彷彿とさせる。あいつも追い込まれれば追い込まれるほど粘り強くなるタイプだったからね」
 魔理沙にたとえられるのは少しだけ複雑な気持ちだった。彼女のように才能をふるいたいとは常々思っていたが、同時にその評価は博麗の巫女らしからぬと言われるようなものだからだ。でもどんな方法であれレミリアほどの力を持つ存在に評価されるのは嬉しかったし、それに彼女は肝心なことを口にしていた。
「わたしとの戦いが、楽しかったの?」
「ああ、寝起きの調整以上の意味があった。だから一つだけ」レミリアは霊夢に向けて人差し指を立てて見せる。鋭い爪が一瞬、ぎらりと光った気がした。「質問を許そう。このレミリア・スカーレットの名に賭けて、嘘偽りなく答えてみせよう」
 レミリアは紅魔館の当主であり、おそらくは旧き幻想郷を記憶する生き字引きの一人である。彼女に何かを訊きたいと願う者は歴史家を始めとして枚挙に暇がないはずだ。しかし霊夢がレミリアに訊きたいのはただ一つだった。
「では十六夜咲夜について、話して頂戴」
 咲夜の名前を出した途端、余裕の笑みが一気に凍り付いた。力ある者が持つ豪放な殺意ではなく、鋭い憎悪が霊夢を鋭く貫こうとする。約束は守られないかもしれないと察し、この場から何とか逃れる算段をつけようとした。とはいえ霊力もほとんど尽き、身体強化もままならない現状で吸血鬼の速さから逃れるなんて万が一にも叶わない。
 ここで死ぬかもしれないと思うだけでその場に崩れ落ちそうになる。体よりも先に心が挫けてしまいそうだった。実際にそうならなかったのは、レミリアが怒りから徐々に思索へとその表情を変えていったからだ。やがて何かに気付いたらしく、レミリアは怒りを収めると霊夢に子供らしい足取りで近付き、くんくんと鼻を鳴らした。
「この不快な臭い、どこかで嗅いだ覚えがあるなとずっと引っかかってたんだ。ようやく思い出したよ、こいつはくそったれ英国人どもがうようよと住んでいた、あの都の臭いだ」

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この小説へのコメント

  1. 毎度毎度過去の霊夢と比べられてますね…誰か1人ぐらい「お前はお前だよ、(過去の)霊夢とは違う」ぐらい言ってくれる奴はいないんですかね…

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