2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊 幻影都市の亡霊 第3話
所属カテゴリー: 2XXX年の幻想少女第1章 幻影都市の亡霊
公開日:2016年11月10日 / 最終更新日:2016年11月10日
妙な乱入者はあったものの湯浴みは実に心地良いものだった。今日はもう何もしたくないなあというぐうたらな気持ちで神社に戻り、すぐにその希望が打ち砕かれたことを知った。開封確認を求めるメールが一通届いていたのだ。メールは私信を気安く交わすために開発された仕組みであり、読むタイミングも返すタイミングもある程度の幅が認められて然るべきはずだが、仕事に使う輩どもは平気でその日のうちに返せだの今すぐ返せだの言ってくる。
すっかりと萎えた気持ちを立て直し、届いたメールを開くと見たことのない差出人名が見えた。
十六夜咲夜。
この名前を見た途端、背筋がぞわりとした。鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなる。見てはいけないものを見てしまったと全身が訴えていた。それなのに思い当たる節は何もない。わたしではない霊夢ならば知っているのだろうか。こいしの言う共時性が、過去から現在へと伝わっているのだろうか。初代の霊夢は無双の如き強さを誇っていたと聞くが、そんな彼女にとってさえ只者ではないのだろうか。
思考に止まっていた手を動かし、本文を確認する。十六夜咲夜が何者であれ、今の霊夢はほとんど何も知らない。だから少しでも情報が欲しかった。
>>題名:初めまして
>>本文:博麗霊夢様
初めまして、と言うのも何だか不思議な気がしますね。
でもあの頃の霊夢は既にいない。
それならばやはり、初めましてと挨拶するのが妥当なのでしょう。
本当ならば電信など用いず、直接お会いして伝えるのが筋なのかもしれません。
しかし、ゆえあってわたしは持ち場を離れることができません。
インク一滴の重みもない電信をもって重大事を訴える不躾を許してください。
わたしは昼夜を問わず晴れることのない霧の元凶を知っています。
紅魔館の主、偉大なる吸血鬼を自称する幼子。
かつてわたしの主でもあった御方、名をレミリア・スカーレットと言います。
彼女はかつてその稚気ゆえ、霧を放って太陽を覆い尽くそうとしました。
吸血鬼は太陽に弱いからです。今回も全く同じ理由でことに及びました。
繰り返しなのです。歯車が延々と同じ場所で回り続けるように。
何故ならば幻想郷は全てを記憶しないからです。
かつてはわたしがいました。しかし今はいません。
お諌めすること叶わぬ身なればこそ、霊夢の名と潜在する力に縋るのです。
わたしの代わりに霧を止めていただけないでしょうか。
唐突な申し出となりますが、善処いただければ幸いです。
>>
何度も読み返したが、霊夢にはこの短い文章に込められた全てを読み取ることができなかった。辛うじて読み解けたのは十六夜咲夜なる人物がかつての主を告発していること。何らかの事情があって主を諌めることができず、霊夢に代行を依頼しているのだということ。咲夜は霊夢にそれだけの力があると判断しているということ。
一息置いてから、霊夢は十六夜咲夜の名前を検索する。十六夜の意味を説明する辞書サイトがトップからいくつか続き、次いで西の里で活躍する咲夜という俳優のサイトが引っかかった。念のために確認してみたが、銀幕デビューを夢見る若者であることが分かっただけだ。怪異のかの字も知らないことがブログの文章から容易に想像できた。
次にレミリア・スカーレットを検索し、こちらは想定していた情報が引っかかった。といっても数はそんなに多くないし、フランドールの添え物として簡単な説明が記されている程度だ。レディ・スカーレットの名で親しまれるフランドールと違い、姉のレミリアは紅魔館に詳しい人間ですらその実情がはっきりとしないのだ。過去に猛威を振るったとされるのだが、数百年前ものこととなれば人間の残した記録も少なく、妖怪の記憶でさえもかなり不鮮明になっているはずだ。
タイミングが悪いなと思った。射命丸文は天狗にしては珍しく過去の記憶を数多く有しているはずであり、レミリアのことも知っていたに違いないに違いないからだ。
もちろん他にも手はある。求聞持の法を持つ遠子ならば、間違いなくレミリアのことを知っているだろう。もしかすると十六夜咲夜にも心当たりがあるかもしれない。その代わり、何らかの対価を求められるのだが。
『知識はただではないの。特に情報が氾濫するこの時代ではね』
というのが遠子の持論だ。確かにネットを使って調べ物をするたび、霊夢はそのことを大なり小なり実感する。知識が氾濫すれば、そこから正しさを峻別するのには手間がかかる。もしかすると今の時代こそ識者と呼ばれるべき、知識をふるいにかける存在が一人でも多く必要なのかもしれない。
遠子の鼻を天狗のように伸ばす機会を与えてしまうのは少しだけ癪に触るけれど、直観はできる限り早く事実関係を整理せよとせっついている。
霊夢は早速メールを打とうとしてすんでのところで手を止め、パソコンを消して立ち上がる。レスポンス待ちの僅かな時間さえ耐えられるかどうか自信がなかったからだ。
稗田家は始祖の誕生より二千年も近くも続き、これまで十五人の子を世に送り出した名門中の名門である。これだけ古い家を他に探そうとなれば、自然と人の外に限られてしまう。それほどの家系なのだが、郷の他の名士に比べ飛び抜けて権力を持つわけでも、裕福なわけでもない。むしろここ数百年では徐々に凋落の傾向を示している。
繁栄の中心が北や西に移り変わっていったのも一因だが、稗田の存在意義を機械の発達が徐々に奪っていったのが最たる原因だろう。書籍や新聞の大量生産が可能になり、特に直近二百年の歴史は図書館で容易に触れることができるし、今ならばネットのアーカイブを調べれば大抵のものは見つけることができる。幻想郷縁起は里に人外の在り方を語る特権的な書物から、歴史的価値が少しだけ高いありふれた読み物へと変わってしまった。
だが少なくとも今はまだ、他家に替えられない大きな価値がある。記録が充実していない頃の幻想郷を探るなら、今でも稗田の資料に頼らないわけにはいかないからだ。これまでも稗田家に眠る膨大な資料や記憶を電子化しようと打診されたことは何度かあったらしいが、とりつくしまもなかったらしい。長年に渡る蓄積の大半が倉に眠っているだけというのは霊夢からすれば勿体ないとも思えるののだが、折角の成果をただ同然で持っていくなんて真っ平御免だとはねつける気持ちも分からないではない。
だから郷の歴史を研究する者たちは稗田に頭が上がらない。霊夢はかつて遠子にぺこぺこと頭を下げる歴史家の姿を見たことがある。良い年をした大人が、霊夢と同い年の子供に臆面もなくおべっかを使い、そして遠子は当主として厳然と相対していた。霊夢と話をしている時に見せる年相応の表情や態度はすっかりと消し飛んでおり、大学で研究されている歴史がいかに浅いかを厭らしく語り、侮りを露わにしていた。
霊夢が仕事として遠子に相談したくなかったのは、借りを作るのが嫌だったというのもあるけれど、あんな態度を取られたら耐えられないと思っているからだ。これまでには一度もなかったけれど、今日それが覆らない保証はない。
だからいつものように遠子の部屋まで通されても、いつもみたいに話しかけられなかった。それだけで何か察するところがあったのだろう。遠子はごついパソコンと巨大なモニタの置かれた机をこつこつと叩いた。苛々しているのが顔を見なくても分かった。
「何か困ったことがあって相談しに来たのよね? わたしの所まで来て遠慮がちにする奴らはみんなそうなの。でも霊夢まで同じ態度を取るとは思わなかった」
要するに遠慮するなということなのだろう。霊夢は勝手にそう解釈し、いつもの調子で遠子に話しかける。
「確認したいことがあるの。西の里に居座り続ける霧についての新情報が飛び込んで来たのよ。もしかしたら遠子なら思い当たる節があるかと思って」
遠子はふんと鼻を鳴らし、パソコンから目を離すと霊夢の顔をじっと見る。その言葉が嘘でないかをしっかり見定めようとしていた。
「霊夢の話が出鱈目と言いたいわけじゃないの。ただ、ここ数日の間に煽りや極論を吐き散らかす輩が一気に増えてね。霧が晴れなくて不安が噴出しかけているのだと思うけれど、誰もが感情的になっている。ネットに溢れる情報を眺めているだけで気が滅入りそうになるわ」
「それならば見なければ良いのに」
霊夢はネットが面倒になったらひょいと離れてしまうことが時々ある。そのたびに連絡が滞って困ると叱られて戻るのだが、距離を置くことで冷静になれることもあると常々考えている。対する遠子はいつもネットにかじり付きで、しばしば知恵熱を溜息の形で吐き出している。つまるところネットに対する考え方が根本的に違うし、少なくとも霊夢は遠子の性質を簡単に矯正できるとは思っていない。それでも遠子の憔悴ぶりを見ていると口にせずにはいられなかった。
「そういうわけにもいかないのよ。幻想郷を記録するのは御阿礼の子の努めだから。たとえ九割九分九厘は屑同然の情報でもね。ああ、稗田の当主って本当に辛いわ。たまには友人の気軽な相談でも息抜きで受けないとやっていられないってものよ」
肩を揉みほぐす仕草を見せる遠子の姿を見て、霊夢は安堵の息を吐く。確かに機嫌を悪くしているけれど、怒らせているわけではないし、有象無象の書き込みよりは信じられていると分かったからだ。
「気軽な相談になるかは分からないけれど、それでも大丈夫?」
「気心の知れたものとの会話ならどんなことであっても気は抜けるものよ。遠慮するなんて霊夢らしくもない、ぽーんとあけすけに、軽率に口にしてご覧なさい」
「では遠慮なく。遠子は十六夜咲夜って人を知ってる?」
「いざよい……」明らかに引っかかる名前だったのだろう。遠子はこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激する。「覚えはあるけれど不明瞭だわ。きっと相当前の代が関係している記憶に違いない。ちょっと待っててね、引き出すから」
指が埋まるのではないかというくらいに、遠子はこめかみを強く押さえ、何事かを引きだそうとしていた。あらゆる事柄を記憶していられる法といっても、なんでも瞬時に取り出せるということではないらしい。パソコンで検索して答えが返ってくるのに時間がかかるのと同じで、遠子の頭もそういう仕組みになっているのだろう。二千年近くも前の人間が既に、効率的な記憶の形をある程度理解ないし推測していたのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。
「見つけた!」
遠子の声が霊夢の物思いを遮る。よほど強烈な体験と結びついた記憶だったのか、遠子は激しく瞬きを繰り返し、溢れ出る情報をいなそうとしていた。
「わたしより六つも前、阿求と呼ばれてた頃の記憶に潜んでいたわ。この幻想郷で初めて弾幕決闘が流行し、最優の巫女が数多の異変と踊っていた、そんな時代を生きていた人間の一人よ」
「ということは七百年近く前の……人間?」
「そう、人間よ。十六夜咲夜はその時代に紅魔館で働いていたメイドでね、人間なのに吸血鬼という偏屈の塊みたいな妖怪にえらく気に入られていたみたい。異変と呼ばれる事件にもたびたび関わり、ひっかき回していたようね。最初の霊夢ほどではないけれど歴戦の強者と言って差し支えないわ」
「だけど、人間なのよね?」凄い人物だったということは遠子の掻い摘んだ説明だけでもよく伝わってくる。だがいま大切なのは、十六夜咲夜が人間であるかどうかだ。「吸血鬼に仕えていたと言ったけれど、最終的には眷属になったのかしら」
吸血鬼は血を啜ることで相手を支配し、その代わりに人ならざる寿命と力の一部を譲渡することができると言われている。咲夜が眷属になったならば、実態をもってメールを送ることもできるはずだ。
しかし、遠子は即座に首を横に振った。
「いいえ、十六夜咲夜は眷属にはならなかった。それどころか当時の平均寿命に照らしてさえ半分も生きられなかった。彼女は密やかに弔われ、当主であるレミリア・スカーレットが隠遁する原因ともなった。どちらも悲しい出来事として記憶されているわ。咲夜の死は短命を運命づけられた当時の稗田、阿求を酷く傷つけたみたい」
遠子は酷く辛そうな表情を浮かべていた。転生することで一定のリセットがかかるとはいえ同一人物なのだから、追体験に苦しむのもやむなしなのだろう。このまま相談を続けてより苦しい記憶を思い出したらどうしようと思ったが、遠子は両頬を挟むように叩いて気を張り直した。
「ごめんなさい、取り乱して。もう大丈夫よ」強がりとは分かっていたけれど、霊夢はそれ以上踏み込まなかった。遠子の記憶がどうしても必要だったからだ。「繰り返すけれど、彼女はもう生きてはいない。不思議な力を持っていたから完全に死ぬことはないのかもしれないけれど、少なくとも肉体は完全に失われている。ところで霊夢は先程、咲夜が眷属になったのではないかと、かなり強い確信をもって訪ねてきたわね。そうでなければ話が合わないと言わんばかりだった。それはどうして?」
「わたしのパソコンにメールが届いたの。差出人の名前が十六夜咲夜だった」
霊夢はプリントアウトした本文を遠子に手渡す。彼女の記憶術ならばそんなことをする必要はないのに、一字一句くまなく目を通していた。そこまでして吟味する必要があると判断したのだろう。そして確認が終わるやいなやくしゃくしゃに丸めて壁に叩きつけた。よほど腹が据えかねたに違いなかった。
「なんて酷い文章かしら。霊夢、このメールを送って来た十六夜咲夜は決して本物ではないわ。彼女は死の直前まで主に忠実だった。それをこんなにもあっさりと告発するなんて決してあり得ない」
遠子の顔は憤慨で紅潮していた。激しやすい性格ではあるけれど、ここまで感情を強く露わにする様子を見るのは霊夢にも初めてだった。
「ふざけているわ……でも、全て出鱈目というわけでもない」遠子の顔から紅が徐々に取れていき、呼吸も伴って整っていく。「レミリア・スカーレットが過去に霧を生み出し、幻想郷を覆い尽くそうとしたのは事実よ。一連の騒動を阿求は紅霧異変と呼称し、関係者からそれなりの言質を取って当時の縁起にまとめていたの。晴れない霧の漂う現状と共通点がなくもないけれど、異なる点も多いわ。霊夢が話を持ち込んで来るまでそのことを思い出しもしなかったのはきっとそのせいだと思う」
確かにかつての出来事とそっくりであったならば、遠子はもっと前に気付いていたかもしれない。六代も前の記憶と繋がるのは難しいようだから、そのまま素通りしていたかもしれないが。
「かつての異変は身も心も茹だるような夏の日に突如として押し寄せてきたの。当時は空調なんてなかったから冷たい水に足を付けたり、涼しげな音を立てたり、井戸の中で冷やした果物や野菜を食べたりして涼を取っていたの。暑さの記憶もより明瞭な形で甦ってきたわ。対して今回の霧は真冬に現れている。犯人がレミリア・スカーレットならば、ここでまずおかしなことになる。かつて彼女が霧を出したのは、暑苦しい太陽を隠してしまいたかったからなの」
遠子の話が本当ならば、早速前提の一つが崩れてしまうことになる。冬の太陽も吸血鬼には毒かもしれないが、かつて夏の太陽を隠そうとしたのに、力の弱い冬のそれで妥協するとは考えられなかった。
「もう一つ根本的に異なることがある。かつての異変は妖力を帯びた『紅い』霧による浸食だった。でも今回は普通の霧とさして変わらない色をしている。正体が露見しないようかつてとやり方を変えた? それはあり得ないとわたしは考えるわね」
霊夢も同意見とばかりに頷く。かつて堂々と『紅』をさらした吸血鬼が、普通の霧に見せかけるため今度は『白』を選ぶとは想像しにくかった。それはフランドールの身近な逸話から取ってみても明らかだった。吸血鬼は己の力に誇りを感じる種族なのだ。
「犯人が何者であれ、吸血鬼をろくに知らないことは間違いない。でも郷に住む者ならどんなに無知でも吸血鬼の気位の高さくらいは知っているはず。もしかしたらメールの差出人は外からやってきたのかもしれない」
だとしたら異変であるか否かの区別なく博麗の巫女が解決しなければならない問題であるかもしれない。結界の維持、侵犯者への対処は昔から博麗が一手に担ってきた。外部から郷へ入ってくる輩などとうに絶えて久しいと思っていたのだが、そうではないのかもしれない。
「でも、それにしては昔の事情をよく知っている。かつて郷にちょっかいを出したけど撤退を余儀なくされ、今になって再びやってきたのかもしれない。あるいはもっと別の手段を使って知り得たのかもしれない。でもどうして十六夜咲夜だなんて、過去の亡霊をわざわざ引っ張り出してきたの?」
遠子の疑問に、少なくとも霊夢は何も答えることができなかった。ここに来て判明したことよりも新しく生まれてきた疑問のほうが多く、全てが過去か、あるいは霊夢の預かり知らぬところに起因しているため、とっかかりさえつかめなかった。
だとすれば今の自分にできることは何か。じいっと押し黙り、じっくりと考えてみたけれど、方針は一つしか浮かばなかった。
「被害が広がれば今回の件はそう遠くないうちに異変となる。その時にはまず紅魔館を訪ねてみるわ。そして住人たちに問いただすの。この霧はあんたらの仕業か、って」
「わたしの見立てでは、紅魔館に犯人はいないと思うけど」
「間違っていることが確定すれば、探索の目を異なる場所へと集中できる。それに可能性は低くても容疑者リストからは外れていないから調べる価値はある。もしかしたら真の犯人に迫るヒントが得られるかもしれない」
「吸血鬼は冤罪を押しつけられてなお許すような広い心は持っていない。興を削いだ報いは必ず支払わされる。弾幕決闘が何度目かの流行に乗っているいることは知っているはずだから、きっと勝負をふっかけてくるわ。わたしの記憶が確かならば紅魔館の住人は皆、決闘に慣れているはず。かなりの危険を伴うと考えられるわ」
「それはまあ、虎穴に入らずんば虎子を得ず、よ」
「もしかすると火中の栗を拾わされているのかもしれない」
「でも、誰かに利用されているとしても、他に取っかかりはないしなあ。つついてみるしかないんじゃない?」
面倒だけどそこを掘り下げる以外、現状では手の打ちようがない。文を始めとして、複数の勢力が水面下で動いている節はあるのだけど、牽制し合っているのか手の出し辛いものなのか、一向に話の動く様子がない。その中でようやく転がり込んできた情報なのだから出所が怪しいといってもそこから探るしかない。
そういう意味で言ったのだが、遠子は苦過ぎる珈琲をうっかり口にしたような表情を浮かべていた。そんな顔をされてもと思ったが、自分でも無謀な試みであることは分かっていた。付喪神や妖精を追い払うのでさえてんてこまいの自分にはきっと荷が重い。しかし博麗の巫女が携わる業務の中に異変の調査が含まれているのだからしょうがない。公務員はその名の通り公務を放棄できないし、博麗の巫女を自分の意志で下りることはできない。それならばできることを探して手を付けるしかないのだ。
遠子もそれは理解しているのだろう。ひとしきりぶつくさ零したのち、吸血鬼がどういう生き物であるかを語り始めた。
「吸血鬼は鬼並の膂力、天狗並の早さを持ち、個体としての強さだけを取ってみれば郷においても及ぶものはそういない。代償として数多くの弱点を併せ持つけれど、逆に言えば弱点を考えなくても良い場所、時間でならば比類なき強さを発揮すると考えて良いわ。日中の屋外に誘導することができればベストだけど、吸血鬼はそうそうねぐらから出て来ないから、無理筋だと考えて良い。しかも吸血鬼は個としての強さに加え蝙蝠や狼など数種類の動物に化けことができ、それだけでなくもっと細かい単位、例えば霧のような姿も取ることができる。一度追われたら逃げることはほぼ叶わないと見て良いわね」
話には聞いていたが、郷の生き字引きから改めてそのスペックを聞かされるとそれだけでげんなりしてくる。遠子も霊夢のそんな態度は察しているだろうが、語りの勢いを弱めることはなかった。
「その反面、先にも述べたように弱点が多い。とはいっても眉唾なものも多くてね。吸血鬼の弱点とされる代表的なものに十字架や大蒜、銀の武器、宗教的聖遺物などがあるのだけど、紅魔館の吸血鬼に効いたという記録や伝聞は一切ない。明確に効果があるとされているのは太陽の光、流水、それから……ふむ、煎った豆が効くらしいわ」
「吸血鬼だからって鬼の弱点が効くの?」
意外な弱点に霊夢は思わず目をぱちくりとさせる。遠子は驚きの知識を披露できたせいか得意げに頷いてみせた。
「吸血鬼というのはあくまでも自称に過ぎないし、歴代の稗田はその正体を若干怪しんでいた節があるわね。何しろ眷属をただの一人も作ったことがないのだから。血肉を食らうとはされているけれど、それは何も吸血鬼の専売特許ってわけじゃない。単なる西洋かぶれの、特殊な体質を持った日本の鬼であるということも十分に考えられる」
なるほどと頷いては見たものの、よく考えてみれば悪い知らせ以外の何者でもない。陽光や流水を嫌うのが吸血鬼の振りをするための芝居であるならば、ただでさえ強大な相手だというのにいよいよ手がつけられないということになる。
「まあ、正体が何であれ純度の高い妖であることに変わりはないから霊力を練って繰り出す博麗の術は覿面に効くのよね。かつての霊夢が吸血鬼に勝利できたのもおそらくは相性の良さゆえだと思う」
退魔の術が有効であるのは霊夢にとってようやくの朗報だった。お札や針を可能な限り持ち歩き、スペルカードも対妖に特化して揃えれば良い。それでも敵う見込みは全くないのだけれど。大豆のストックはあっただろうかと思いを巡らせかけ、遠子の不安げな眼差しに気付いた霊夢は愛想の良い笑顔を見せた。
「そんな気楽そうな顔をしないでよ。紅魔館には吸血鬼だけでなく、凄腕の魔法使いとその従者が潜んでいるんだから。レディ・スカーレットの従者である美鈴という名の妖怪も格闘の手練れだし、誰に出会っても油断はできないのよ」
「別に楽観してるわけじゃないのよ。でもさ、避けられない面倒事ならば成し遂げられないかもしれないと暗い顔をして望むより、成し遂げられると明るい顔をして挑むほうが幾分かはましじゃない?」
「ものは言いようだわ」ぴしゃりと言い切られたが、遠子の不機嫌は若干収まったようだった。「でもそうね、わたしも縁起を編纂するときは似たような気持ちで臨んでいるところはあるかもしれない」
遠子はそう言って、額をとんとんと指で叩く。
「過去のわたしに今のわたしを上乗せして新しい価値を付与する。そんな仕事が本当にできるかどうか、今だって酷く悩ましい。そして稗田の当主である以上、死ぬまで付きまとう問題よ。そんなわたしを励ましてくれるのは先人たちが皆やり遂げたという事実なの。だからこそわたしもできなければならない」
稗田の重さを霊夢はそれなりに知っていたはずだったが、改めて聞かされるとやはり重苦しいなあと思う。
「霊夢もそういう星の元に生まれた人間としてきちんと心構えを持っているのね」
数年前まで普通の人間だった霊夢には遠子ほどの覚悟はない。博麗の巫女だって年間行事に沿って忙しい時はあるし、最近は世を騒がす一派の退治に駆り出されることも増えてはいる。だが己の存在意義を賭けて挑むものではない。遠子に話した理屈も博麗の巫女として少しでも楽に生きるための自己暗示みたいなものだ。決して上等なものではない。
「そう、その通り。わたしは博麗の巫女なのだから、できるのよ」
それでも霊夢ははっきりと言い切った。ここでお茶を濁してしまえば二度と遠子の覚悟に釣りあえなくなってしまう。それは恐ろしい妖怪と戦う未来よりも嫌なことだった。そんな霊夢の気持ちを察したかは分からないが、遠子はすっかりといつもの調子に戻っていた。
「吸血鬼、魔法使い、悪魔、正体がいまいち分からない華人。全ての資料を用意するわ。本当はじっくりと読んで欲しいけれど、そんな時間はないのでしょう? 一日漬けで徹底的に叩き込んであげる」
そして妙なやる気を出していた。今日明日で劇的に話が転がるわけでもなし、何日かに分けて少しずつでも良いと考えていたのだが、水を差しても仕方がない。だから今日は遠子にとことん付き合おうと思った。
結論から言えばこれは正しい選択だった。
稗田の家から帰宅した霊夢のもとに開封確認を求めるメールが届いていた。そこには西の里を覆う霧が第三種緊急事態として認定されたこと、霊夢に博麗の巫女としてあらゆる機関を飛び越える調査権限が与えられたことが書かれており、無期限だが危急の任務として事に当たるべしと締められていた。
第三種緊急事態とは異変のことである。つまり郷の一部を覆う霧が正式に、博麗の巫女が解決するべき案件となったのだ。
すっかりと萎えた気持ちを立て直し、届いたメールを開くと見たことのない差出人名が見えた。
十六夜咲夜。
この名前を見た途端、背筋がぞわりとした。鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなる。見てはいけないものを見てしまったと全身が訴えていた。それなのに思い当たる節は何もない。わたしではない霊夢ならば知っているのだろうか。こいしの言う共時性が、過去から現在へと伝わっているのだろうか。初代の霊夢は無双の如き強さを誇っていたと聞くが、そんな彼女にとってさえ只者ではないのだろうか。
思考に止まっていた手を動かし、本文を確認する。十六夜咲夜が何者であれ、今の霊夢はほとんど何も知らない。だから少しでも情報が欲しかった。
>>題名:初めまして
>>本文:博麗霊夢様
初めまして、と言うのも何だか不思議な気がしますね。
でもあの頃の霊夢は既にいない。
それならばやはり、初めましてと挨拶するのが妥当なのでしょう。
本当ならば電信など用いず、直接お会いして伝えるのが筋なのかもしれません。
しかし、ゆえあってわたしは持ち場を離れることができません。
インク一滴の重みもない電信をもって重大事を訴える不躾を許してください。
わたしは昼夜を問わず晴れることのない霧の元凶を知っています。
紅魔館の主、偉大なる吸血鬼を自称する幼子。
かつてわたしの主でもあった御方、名をレミリア・スカーレットと言います。
彼女はかつてその稚気ゆえ、霧を放って太陽を覆い尽くそうとしました。
吸血鬼は太陽に弱いからです。今回も全く同じ理由でことに及びました。
繰り返しなのです。歯車が延々と同じ場所で回り続けるように。
何故ならば幻想郷は全てを記憶しないからです。
かつてはわたしがいました。しかし今はいません。
お諌めすること叶わぬ身なればこそ、霊夢の名と潜在する力に縋るのです。
わたしの代わりに霧を止めていただけないでしょうか。
唐突な申し出となりますが、善処いただければ幸いです。
>>
何度も読み返したが、霊夢にはこの短い文章に込められた全てを読み取ることができなかった。辛うじて読み解けたのは十六夜咲夜なる人物がかつての主を告発していること。何らかの事情があって主を諌めることができず、霊夢に代行を依頼しているのだということ。咲夜は霊夢にそれだけの力があると判断しているということ。
一息置いてから、霊夢は十六夜咲夜の名前を検索する。十六夜の意味を説明する辞書サイトがトップからいくつか続き、次いで西の里で活躍する咲夜という俳優のサイトが引っかかった。念のために確認してみたが、銀幕デビューを夢見る若者であることが分かっただけだ。怪異のかの字も知らないことがブログの文章から容易に想像できた。
次にレミリア・スカーレットを検索し、こちらは想定していた情報が引っかかった。といっても数はそんなに多くないし、フランドールの添え物として簡単な説明が記されている程度だ。レディ・スカーレットの名で親しまれるフランドールと違い、姉のレミリアは紅魔館に詳しい人間ですらその実情がはっきりとしないのだ。過去に猛威を振るったとされるのだが、数百年前ものこととなれば人間の残した記録も少なく、妖怪の記憶でさえもかなり不鮮明になっているはずだ。
タイミングが悪いなと思った。射命丸文は天狗にしては珍しく過去の記憶を数多く有しているはずであり、レミリアのことも知っていたに違いないに違いないからだ。
もちろん他にも手はある。求聞持の法を持つ遠子ならば、間違いなくレミリアのことを知っているだろう。もしかすると十六夜咲夜にも心当たりがあるかもしれない。その代わり、何らかの対価を求められるのだが。
『知識はただではないの。特に情報が氾濫するこの時代ではね』
というのが遠子の持論だ。確かにネットを使って調べ物をするたび、霊夢はそのことを大なり小なり実感する。知識が氾濫すれば、そこから正しさを峻別するのには手間がかかる。もしかすると今の時代こそ識者と呼ばれるべき、知識をふるいにかける存在が一人でも多く必要なのかもしれない。
遠子の鼻を天狗のように伸ばす機会を与えてしまうのは少しだけ癪に触るけれど、直観はできる限り早く事実関係を整理せよとせっついている。
霊夢は早速メールを打とうとしてすんでのところで手を止め、パソコンを消して立ち上がる。レスポンス待ちの僅かな時間さえ耐えられるかどうか自信がなかったからだ。
稗田家は始祖の誕生より二千年も近くも続き、これまで十五人の子を世に送り出した名門中の名門である。これだけ古い家を他に探そうとなれば、自然と人の外に限られてしまう。それほどの家系なのだが、郷の他の名士に比べ飛び抜けて権力を持つわけでも、裕福なわけでもない。むしろここ数百年では徐々に凋落の傾向を示している。
繁栄の中心が北や西に移り変わっていったのも一因だが、稗田の存在意義を機械の発達が徐々に奪っていったのが最たる原因だろう。書籍や新聞の大量生産が可能になり、特に直近二百年の歴史は図書館で容易に触れることができるし、今ならばネットのアーカイブを調べれば大抵のものは見つけることができる。幻想郷縁起は里に人外の在り方を語る特権的な書物から、歴史的価値が少しだけ高いありふれた読み物へと変わってしまった。
だが少なくとも今はまだ、他家に替えられない大きな価値がある。記録が充実していない頃の幻想郷を探るなら、今でも稗田の資料に頼らないわけにはいかないからだ。これまでも稗田家に眠る膨大な資料や記憶を電子化しようと打診されたことは何度かあったらしいが、とりつくしまもなかったらしい。長年に渡る蓄積の大半が倉に眠っているだけというのは霊夢からすれば勿体ないとも思えるののだが、折角の成果をただ同然で持っていくなんて真っ平御免だとはねつける気持ちも分からないではない。
だから郷の歴史を研究する者たちは稗田に頭が上がらない。霊夢はかつて遠子にぺこぺこと頭を下げる歴史家の姿を見たことがある。良い年をした大人が、霊夢と同い年の子供に臆面もなくおべっかを使い、そして遠子は当主として厳然と相対していた。霊夢と話をしている時に見せる年相応の表情や態度はすっかりと消し飛んでおり、大学で研究されている歴史がいかに浅いかを厭らしく語り、侮りを露わにしていた。
霊夢が仕事として遠子に相談したくなかったのは、借りを作るのが嫌だったというのもあるけれど、あんな態度を取られたら耐えられないと思っているからだ。これまでには一度もなかったけれど、今日それが覆らない保証はない。
だからいつものように遠子の部屋まで通されても、いつもみたいに話しかけられなかった。それだけで何か察するところがあったのだろう。遠子はごついパソコンと巨大なモニタの置かれた机をこつこつと叩いた。苛々しているのが顔を見なくても分かった。
「何か困ったことがあって相談しに来たのよね? わたしの所まで来て遠慮がちにする奴らはみんなそうなの。でも霊夢まで同じ態度を取るとは思わなかった」
要するに遠慮するなということなのだろう。霊夢は勝手にそう解釈し、いつもの調子で遠子に話しかける。
「確認したいことがあるの。西の里に居座り続ける霧についての新情報が飛び込んで来たのよ。もしかしたら遠子なら思い当たる節があるかと思って」
遠子はふんと鼻を鳴らし、パソコンから目を離すと霊夢の顔をじっと見る。その言葉が嘘でないかをしっかり見定めようとしていた。
「霊夢の話が出鱈目と言いたいわけじゃないの。ただ、ここ数日の間に煽りや極論を吐き散らかす輩が一気に増えてね。霧が晴れなくて不安が噴出しかけているのだと思うけれど、誰もが感情的になっている。ネットに溢れる情報を眺めているだけで気が滅入りそうになるわ」
「それならば見なければ良いのに」
霊夢はネットが面倒になったらひょいと離れてしまうことが時々ある。そのたびに連絡が滞って困ると叱られて戻るのだが、距離を置くことで冷静になれることもあると常々考えている。対する遠子はいつもネットにかじり付きで、しばしば知恵熱を溜息の形で吐き出している。つまるところネットに対する考え方が根本的に違うし、少なくとも霊夢は遠子の性質を簡単に矯正できるとは思っていない。それでも遠子の憔悴ぶりを見ていると口にせずにはいられなかった。
「そういうわけにもいかないのよ。幻想郷を記録するのは御阿礼の子の努めだから。たとえ九割九分九厘は屑同然の情報でもね。ああ、稗田の当主って本当に辛いわ。たまには友人の気軽な相談でも息抜きで受けないとやっていられないってものよ」
肩を揉みほぐす仕草を見せる遠子の姿を見て、霊夢は安堵の息を吐く。確かに機嫌を悪くしているけれど、怒らせているわけではないし、有象無象の書き込みよりは信じられていると分かったからだ。
「気軽な相談になるかは分からないけれど、それでも大丈夫?」
「気心の知れたものとの会話ならどんなことであっても気は抜けるものよ。遠慮するなんて霊夢らしくもない、ぽーんとあけすけに、軽率に口にしてご覧なさい」
「では遠慮なく。遠子は十六夜咲夜って人を知ってる?」
「いざよい……」明らかに引っかかる名前だったのだろう。遠子はこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激する。「覚えはあるけれど不明瞭だわ。きっと相当前の代が関係している記憶に違いない。ちょっと待っててね、引き出すから」
指が埋まるのではないかというくらいに、遠子はこめかみを強く押さえ、何事かを引きだそうとしていた。あらゆる事柄を記憶していられる法といっても、なんでも瞬時に取り出せるということではないらしい。パソコンで検索して答えが返ってくるのに時間がかかるのと同じで、遠子の頭もそういう仕組みになっているのだろう。二千年近くも前の人間が既に、効率的な記憶の形をある程度理解ないし推測していたのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。
「見つけた!」
遠子の声が霊夢の物思いを遮る。よほど強烈な体験と結びついた記憶だったのか、遠子は激しく瞬きを繰り返し、溢れ出る情報をいなそうとしていた。
「わたしより六つも前、阿求と呼ばれてた頃の記憶に潜んでいたわ。この幻想郷で初めて弾幕決闘が流行し、最優の巫女が数多の異変と踊っていた、そんな時代を生きていた人間の一人よ」
「ということは七百年近く前の……人間?」
「そう、人間よ。十六夜咲夜はその時代に紅魔館で働いていたメイドでね、人間なのに吸血鬼という偏屈の塊みたいな妖怪にえらく気に入られていたみたい。異変と呼ばれる事件にもたびたび関わり、ひっかき回していたようね。最初の霊夢ほどではないけれど歴戦の強者と言って差し支えないわ」
「だけど、人間なのよね?」凄い人物だったということは遠子の掻い摘んだ説明だけでもよく伝わってくる。だがいま大切なのは、十六夜咲夜が人間であるかどうかだ。「吸血鬼に仕えていたと言ったけれど、最終的には眷属になったのかしら」
吸血鬼は血を啜ることで相手を支配し、その代わりに人ならざる寿命と力の一部を譲渡することができると言われている。咲夜が眷属になったならば、実態をもってメールを送ることもできるはずだ。
しかし、遠子は即座に首を横に振った。
「いいえ、十六夜咲夜は眷属にはならなかった。それどころか当時の平均寿命に照らしてさえ半分も生きられなかった。彼女は密やかに弔われ、当主であるレミリア・スカーレットが隠遁する原因ともなった。どちらも悲しい出来事として記憶されているわ。咲夜の死は短命を運命づけられた当時の稗田、阿求を酷く傷つけたみたい」
遠子は酷く辛そうな表情を浮かべていた。転生することで一定のリセットがかかるとはいえ同一人物なのだから、追体験に苦しむのもやむなしなのだろう。このまま相談を続けてより苦しい記憶を思い出したらどうしようと思ったが、遠子は両頬を挟むように叩いて気を張り直した。
「ごめんなさい、取り乱して。もう大丈夫よ」強がりとは分かっていたけれど、霊夢はそれ以上踏み込まなかった。遠子の記憶がどうしても必要だったからだ。「繰り返すけれど、彼女はもう生きてはいない。不思議な力を持っていたから完全に死ぬことはないのかもしれないけれど、少なくとも肉体は完全に失われている。ところで霊夢は先程、咲夜が眷属になったのではないかと、かなり強い確信をもって訪ねてきたわね。そうでなければ話が合わないと言わんばかりだった。それはどうして?」
「わたしのパソコンにメールが届いたの。差出人の名前が十六夜咲夜だった」
霊夢はプリントアウトした本文を遠子に手渡す。彼女の記憶術ならばそんなことをする必要はないのに、一字一句くまなく目を通していた。そこまでして吟味する必要があると判断したのだろう。そして確認が終わるやいなやくしゃくしゃに丸めて壁に叩きつけた。よほど腹が据えかねたに違いなかった。
「なんて酷い文章かしら。霊夢、このメールを送って来た十六夜咲夜は決して本物ではないわ。彼女は死の直前まで主に忠実だった。それをこんなにもあっさりと告発するなんて決してあり得ない」
遠子の顔は憤慨で紅潮していた。激しやすい性格ではあるけれど、ここまで感情を強く露わにする様子を見るのは霊夢にも初めてだった。
「ふざけているわ……でも、全て出鱈目というわけでもない」遠子の顔から紅が徐々に取れていき、呼吸も伴って整っていく。「レミリア・スカーレットが過去に霧を生み出し、幻想郷を覆い尽くそうとしたのは事実よ。一連の騒動を阿求は紅霧異変と呼称し、関係者からそれなりの言質を取って当時の縁起にまとめていたの。晴れない霧の漂う現状と共通点がなくもないけれど、異なる点も多いわ。霊夢が話を持ち込んで来るまでそのことを思い出しもしなかったのはきっとそのせいだと思う」
確かにかつての出来事とそっくりであったならば、遠子はもっと前に気付いていたかもしれない。六代も前の記憶と繋がるのは難しいようだから、そのまま素通りしていたかもしれないが。
「かつての異変は身も心も茹だるような夏の日に突如として押し寄せてきたの。当時は空調なんてなかったから冷たい水に足を付けたり、涼しげな音を立てたり、井戸の中で冷やした果物や野菜を食べたりして涼を取っていたの。暑さの記憶もより明瞭な形で甦ってきたわ。対して今回の霧は真冬に現れている。犯人がレミリア・スカーレットならば、ここでまずおかしなことになる。かつて彼女が霧を出したのは、暑苦しい太陽を隠してしまいたかったからなの」
遠子の話が本当ならば、早速前提の一つが崩れてしまうことになる。冬の太陽も吸血鬼には毒かもしれないが、かつて夏の太陽を隠そうとしたのに、力の弱い冬のそれで妥協するとは考えられなかった。
「もう一つ根本的に異なることがある。かつての異変は妖力を帯びた『紅い』霧による浸食だった。でも今回は普通の霧とさして変わらない色をしている。正体が露見しないようかつてとやり方を変えた? それはあり得ないとわたしは考えるわね」
霊夢も同意見とばかりに頷く。かつて堂々と『紅』をさらした吸血鬼が、普通の霧に見せかけるため今度は『白』を選ぶとは想像しにくかった。それはフランドールの身近な逸話から取ってみても明らかだった。吸血鬼は己の力に誇りを感じる種族なのだ。
「犯人が何者であれ、吸血鬼をろくに知らないことは間違いない。でも郷に住む者ならどんなに無知でも吸血鬼の気位の高さくらいは知っているはず。もしかしたらメールの差出人は外からやってきたのかもしれない」
だとしたら異変であるか否かの区別なく博麗の巫女が解決しなければならない問題であるかもしれない。結界の維持、侵犯者への対処は昔から博麗が一手に担ってきた。外部から郷へ入ってくる輩などとうに絶えて久しいと思っていたのだが、そうではないのかもしれない。
「でも、それにしては昔の事情をよく知っている。かつて郷にちょっかいを出したけど撤退を余儀なくされ、今になって再びやってきたのかもしれない。あるいはもっと別の手段を使って知り得たのかもしれない。でもどうして十六夜咲夜だなんて、過去の亡霊をわざわざ引っ張り出してきたの?」
遠子の疑問に、少なくとも霊夢は何も答えることができなかった。ここに来て判明したことよりも新しく生まれてきた疑問のほうが多く、全てが過去か、あるいは霊夢の預かり知らぬところに起因しているため、とっかかりさえつかめなかった。
だとすれば今の自分にできることは何か。じいっと押し黙り、じっくりと考えてみたけれど、方針は一つしか浮かばなかった。
「被害が広がれば今回の件はそう遠くないうちに異変となる。その時にはまず紅魔館を訪ねてみるわ。そして住人たちに問いただすの。この霧はあんたらの仕業か、って」
「わたしの見立てでは、紅魔館に犯人はいないと思うけど」
「間違っていることが確定すれば、探索の目を異なる場所へと集中できる。それに可能性は低くても容疑者リストからは外れていないから調べる価値はある。もしかしたら真の犯人に迫るヒントが得られるかもしれない」
「吸血鬼は冤罪を押しつけられてなお許すような広い心は持っていない。興を削いだ報いは必ず支払わされる。弾幕決闘が何度目かの流行に乗っているいることは知っているはずだから、きっと勝負をふっかけてくるわ。わたしの記憶が確かならば紅魔館の住人は皆、決闘に慣れているはず。かなりの危険を伴うと考えられるわ」
「それはまあ、虎穴に入らずんば虎子を得ず、よ」
「もしかすると火中の栗を拾わされているのかもしれない」
「でも、誰かに利用されているとしても、他に取っかかりはないしなあ。つついてみるしかないんじゃない?」
面倒だけどそこを掘り下げる以外、現状では手の打ちようがない。文を始めとして、複数の勢力が水面下で動いている節はあるのだけど、牽制し合っているのか手の出し辛いものなのか、一向に話の動く様子がない。その中でようやく転がり込んできた情報なのだから出所が怪しいといってもそこから探るしかない。
そういう意味で言ったのだが、遠子は苦過ぎる珈琲をうっかり口にしたような表情を浮かべていた。そんな顔をされてもと思ったが、自分でも無謀な試みであることは分かっていた。付喪神や妖精を追い払うのでさえてんてこまいの自分にはきっと荷が重い。しかし博麗の巫女が携わる業務の中に異変の調査が含まれているのだからしょうがない。公務員はその名の通り公務を放棄できないし、博麗の巫女を自分の意志で下りることはできない。それならばできることを探して手を付けるしかないのだ。
遠子もそれは理解しているのだろう。ひとしきりぶつくさ零したのち、吸血鬼がどういう生き物であるかを語り始めた。
「吸血鬼は鬼並の膂力、天狗並の早さを持ち、個体としての強さだけを取ってみれば郷においても及ぶものはそういない。代償として数多くの弱点を併せ持つけれど、逆に言えば弱点を考えなくても良い場所、時間でならば比類なき強さを発揮すると考えて良いわ。日中の屋外に誘導することができればベストだけど、吸血鬼はそうそうねぐらから出て来ないから、無理筋だと考えて良い。しかも吸血鬼は個としての強さに加え蝙蝠や狼など数種類の動物に化けことができ、それだけでなくもっと細かい単位、例えば霧のような姿も取ることができる。一度追われたら逃げることはほぼ叶わないと見て良いわね」
話には聞いていたが、郷の生き字引きから改めてそのスペックを聞かされるとそれだけでげんなりしてくる。遠子も霊夢のそんな態度は察しているだろうが、語りの勢いを弱めることはなかった。
「その反面、先にも述べたように弱点が多い。とはいっても眉唾なものも多くてね。吸血鬼の弱点とされる代表的なものに十字架や大蒜、銀の武器、宗教的聖遺物などがあるのだけど、紅魔館の吸血鬼に効いたという記録や伝聞は一切ない。明確に効果があるとされているのは太陽の光、流水、それから……ふむ、煎った豆が効くらしいわ」
「吸血鬼だからって鬼の弱点が効くの?」
意外な弱点に霊夢は思わず目をぱちくりとさせる。遠子は驚きの知識を披露できたせいか得意げに頷いてみせた。
「吸血鬼というのはあくまでも自称に過ぎないし、歴代の稗田はその正体を若干怪しんでいた節があるわね。何しろ眷属をただの一人も作ったことがないのだから。血肉を食らうとはされているけれど、それは何も吸血鬼の専売特許ってわけじゃない。単なる西洋かぶれの、特殊な体質を持った日本の鬼であるということも十分に考えられる」
なるほどと頷いては見たものの、よく考えてみれば悪い知らせ以外の何者でもない。陽光や流水を嫌うのが吸血鬼の振りをするための芝居であるならば、ただでさえ強大な相手だというのにいよいよ手がつけられないということになる。
「まあ、正体が何であれ純度の高い妖であることに変わりはないから霊力を練って繰り出す博麗の術は覿面に効くのよね。かつての霊夢が吸血鬼に勝利できたのもおそらくは相性の良さゆえだと思う」
退魔の術が有効であるのは霊夢にとってようやくの朗報だった。お札や針を可能な限り持ち歩き、スペルカードも対妖に特化して揃えれば良い。それでも敵う見込みは全くないのだけれど。大豆のストックはあっただろうかと思いを巡らせかけ、遠子の不安げな眼差しに気付いた霊夢は愛想の良い笑顔を見せた。
「そんな気楽そうな顔をしないでよ。紅魔館には吸血鬼だけでなく、凄腕の魔法使いとその従者が潜んでいるんだから。レディ・スカーレットの従者である美鈴という名の妖怪も格闘の手練れだし、誰に出会っても油断はできないのよ」
「別に楽観してるわけじゃないのよ。でもさ、避けられない面倒事ならば成し遂げられないかもしれないと暗い顔をして望むより、成し遂げられると明るい顔をして挑むほうが幾分かはましじゃない?」
「ものは言いようだわ」ぴしゃりと言い切られたが、遠子の不機嫌は若干収まったようだった。「でもそうね、わたしも縁起を編纂するときは似たような気持ちで臨んでいるところはあるかもしれない」
遠子はそう言って、額をとんとんと指で叩く。
「過去のわたしに今のわたしを上乗せして新しい価値を付与する。そんな仕事が本当にできるかどうか、今だって酷く悩ましい。そして稗田の当主である以上、死ぬまで付きまとう問題よ。そんなわたしを励ましてくれるのは先人たちが皆やり遂げたという事実なの。だからこそわたしもできなければならない」
稗田の重さを霊夢はそれなりに知っていたはずだったが、改めて聞かされるとやはり重苦しいなあと思う。
「霊夢もそういう星の元に生まれた人間としてきちんと心構えを持っているのね」
数年前まで普通の人間だった霊夢には遠子ほどの覚悟はない。博麗の巫女だって年間行事に沿って忙しい時はあるし、最近は世を騒がす一派の退治に駆り出されることも増えてはいる。だが己の存在意義を賭けて挑むものではない。遠子に話した理屈も博麗の巫女として少しでも楽に生きるための自己暗示みたいなものだ。決して上等なものではない。
「そう、その通り。わたしは博麗の巫女なのだから、できるのよ」
それでも霊夢ははっきりと言い切った。ここでお茶を濁してしまえば二度と遠子の覚悟に釣りあえなくなってしまう。それは恐ろしい妖怪と戦う未来よりも嫌なことだった。そんな霊夢の気持ちを察したかは分からないが、遠子はすっかりといつもの調子に戻っていた。
「吸血鬼、魔法使い、悪魔、正体がいまいち分からない華人。全ての資料を用意するわ。本当はじっくりと読んで欲しいけれど、そんな時間はないのでしょう? 一日漬けで徹底的に叩き込んであげる」
そして妙なやる気を出していた。今日明日で劇的に話が転がるわけでもなし、何日かに分けて少しずつでも良いと考えていたのだが、水を差しても仕方がない。だから今日は遠子にとことん付き合おうと思った。
結論から言えばこれは正しい選択だった。
稗田の家から帰宅した霊夢のもとに開封確認を求めるメールが届いていた。そこには西の里を覆う霧が第三種緊急事態として認定されたこと、霊夢に博麗の巫女としてあらゆる機関を飛び越える調査権限が与えられたことが書かれており、無期限だが危急の任務として事に当たるべしと締められていた。
第三種緊急事態とは異変のことである。つまり郷の一部を覆う霧が正式に、博麗の巫女が解決するべき案件となったのだ。
第1章 幻影都市の亡霊 一覧
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「言質を取って」の用法が不適かもしれません。