幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット 前編 マリオネット前編 第1話
所属カテゴリー: 幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット 前編
公開日:2015年08月26日 / 最終更新日:2015年10月02日
アリスの章
1
鳥のさえずりで目が覚めた。
アリス・マーガトロイドはぼんやりとする意識のまま上体だけを起こし、ベッドの上でうんと背伸びをした。
つられて大きな欠伸が出る。いつも通りの目覚め方だった。朝には比較的強く、目覚まし時計がなくても起床時間に不安はないが、鳥が鳴いてくれると目覚めがいい。
壁際にある置時計で時刻を確認すると、五時十五分だった。涙で滲み、文字盤や指針が歪んで見えるが、たぶん間違いない。鳥のさえずりが聞こえて来た日は、大抵同じような時間に目が覚める。だから今日もきっと同じだ。
何度か目をしばたたかせると、涙が引いて視界が晴れた。まだ少しばかり残っている眠気を堪え、身体にかかった薄めの毛布を払いのける。薄暗い部屋の中、靴を履いて足を床に下ろすと、窓辺に移った。
カーテンの隙間から光が漏れている。室内はまだ暗がりだが、開け放ってみると、ちょうど朝陽が昇ってくるところだった。
「あら」
露わになったガラス窓の向こうに、鳥の群れを発見した。五、六匹はいるだろうか。雀のような姿形をしている。
「おはよう」
アリスは鳥のさえずりを聞くのが好きだった。どんな種類の鳥であっても、鳴き声が耳に入るたび、自然と体が反応してしまう。これは幼い頃からずっと変わらない、性質のようなものだった。だから目覚まし代わりにもなる。
しかし、好きだからといって特段鳥に詳しいわけでもない。鳴き声だけでなく、こうして実物を眺めていても、まったく見分けが付かないでいる。おそらくあの種類だろう、と見当をつけるくらいが関の山だ。
鳥たちがじゃれ合う様子をじっくりと時間をかけて堪能すると、静かにその場から離れた。
四月の半ばということもあり、窓からは暖かな光が入ってくる。
すっかり明るくなった部屋を見渡すと、ベッドの上、枕の横に転がる上海人形を認めた。
「上海も、おはよう」
意思表示が何も返ってこない。どうやらまだ熟睡しているようだった。
上海は、西洋の幼い女子を模った――というより昔のアリスの容姿そのまま――人形だ。持てる技術の全てを注ぎ込んで作った傑作であり、現時点で人形師として最高のモノだと断じられる逸品である。
しょうがないと小声で呟いて、そのまま部屋を出た。まだ朝も早い。起こすのも可哀想だと思った。
寝室のドアを開くとすぐ、リビングが広がる。
一人暮らしとしては広すぎるきらいのあるリビングには、ソファーやテーブルが並んでいる。客間としても使うため、それなりに上質なモノを選んであった。
そしてソファーの間を縫うように抜けると、キッチンへと辿り着く。
キッチンは西側にあり、窓も小さいせいか少し足元が冷えた。四月といっても、まだ春になったばかりだ。本格的な暖気はまだこれからなのだろう。
流し台の横に常設してあるポッドを持ち上げると、アリスは蛇口を捻って水を流し込んだ。半分ほど注ぐと、それをコンロのようなものの上に置き、魔法をかけて着火する。ぼっ、と小気味よい音が立った。
アリスの本業は人形師だが、魔法のスキルも持ち合わせている。魔法は人形師を究める過程で必要に迫られて修得したものだったが、それでも専業の魔法使いと同等の、下手をすればそれ以上の優秀な使い手だ。
湯が沸くと、専用の器材にろ紙をセットし、そこに黒い粉末の塊を一つ入れた。器材の底にはカップが置かれている。粉末の塊にまんべんなく湯をかければ、いわゆる即席コーヒーの出来上がりである。
黒い液体のたゆたうカップを手に、アリスはリビングにあるソファーに座った。リビングはキッチンと目と鼻の先の位置にあり、仕切りも何もない。
「うーん、今日も優雅ね」
鼻で香りを楽しみ、舌で苦みを味わう。実に爽やかで優雅な朝だ。
しかし、その優雅な朝のひとときも長くは続かなかった。早朝だというのに、来客を告げる鐘が鳴ったからだ。
家の外に、引くと鳴るように細工をした小さな鐘を取りつけてある。それを鳴らされれば、出て行かないわけにもいかない。そのための呼び鈴なのだから。
壁に寄せ置かれた古時計をちらりと見ると、針は五時四十五分を指していた。
面倒だと思いつつもドアを開けると、鮮やかな紫色に包まれたパチュリー・ノーレッジが立っていた。
紫色というのは彼女の髪の色なのだが、その髪は地面に届いてしまいそうなほどに長い。おかげで身体を包み込んでいるように見えてしまうのだった。
そしてこのパチュリーこそ、一流の専業魔法使いである。アリスとは違い、魔法の道だけを歩んでいる女性だ。
彼女は、いつも何かしらの本を持ち歩いている。今日とて例外ではなかった。ただ、彼女にしては珍しく厚みがない本だった。
そのパチュリーの目が、ぽっと丸くなった。同時に、左右の耳横から垂れ下がるぼってりとした髪房も揺れた。
「早朝からどうしたのよ。しかも変な顔をして」
アリスは冗談のつもりで言ったのだが、変な顔をしているのは事実だ。怪訝そうな目を向けてくるパチュリーは、子リスのように小さく口を開き、細い眉を持ち上げている。面食らった、という表現がしっくりくるような表情だった。
「何? どうしたの」
焦れて語気が強まる。
パチュリーは遠慮がちに答えた。
「この場合……なんて言えばいいのかしら」
「何よ。毒舌がウリのパチュリーから言葉が出てこないなんて」
パチュリーは毒舌である。本人は否定しているが、彼女と交友を持つ者なら、誰もが知っていることだ。アリスも常々ストレートすぎる物言いだな、と思っていた。そのパチュリーが言葉を濁している――不思議に思わない方が変ではないか。
少しの間をおいて、ためらいがちにパチュリーが指をさしてきた。「それ」
アリスはさされた方を見遣ったが、自分の胸が見えるだけだった。疑問は解けるどころか深みを増した。
「胸がどうしたのよ。貴方の方が大きいと自慢したいわけ?」
決して胸は小さくない、はずだ。ただ、パチュリーの胸が大きすぎるだけで。
すると頬を赤らめたパチュリーが、「違う。その……服のこと」と絞り出すように言った。
「服?」
もう一度、胸の辺りを見てみる。
いつも通りの肌に、いつも通りの胸。
そして、いつも通りの――寝間着。
「……そういうこと」
今度はアリスが頬を赤らめる番だった。
一気に全身が熱くなる。まるで羞恥そのものが熱を孕んでいるかのような熱さだった。
このまま溶けてしまえたら、溶けていなくなってしまえたら、と焦熱にのたうちまわる心がいらぬ妄想まで生み出し始める。
「意外と大胆だったのね、貴方……」
憐れんでいるような声色が鼓膜に届いた。
アリスの今日の寝間着は、透けるほど薄い、ピンクの生地で作られた長袖のネグリジェだった。
2
紫の魔女と囁かれているパチュリーをリビングに案内し、ソファーを勧め、自分も座ると、アリスは気を取り直して会話を始めた。
「で、今日はどうしたの? 急用ってわけでもなさそうだけど」
「それより貴方、着替えなくてもいいの? また誰か来たら悲劇の二の舞よ?」
「大丈夫よ。いざとなったら上海が布団を被せてくれるわ」
まだ眠っているであろうことは伏せた。
「まぁ、本人がいいならいいのだけれど」
「いいのよ。それで?」
「用件ってわけでもないのだけれど」
これ、と言って、パチュリーが差し出してきたのは、ずっと手に持っていた一冊の本だった。
「これは?」
訊くと、パチュリーは神妙な顔つきになった。
「本物はイェツィラの書、と呼ばれているらしいのだけれど。それの写しみたい」
「い、いぇ……? 聞いたこともないわね」
「なんでも、昨日の昼時に外の世界から流れ着いたらしいわ。っていうか、発見したのね。霖之助がくれたのよ」
「へぇ」
相槌を打ち、ページをめくってみる。
と、相当な古物らしく、ばりっと嫌な音が出た。破れてしまわないかと心配しながら開かねばならないほどに――汚れで紙が茶ばんでしまっているほどに、古い物だった。虫食いされていないのが奇跡だと思えるほどの古さだ。
「読めないわね。というか、読めるけど、意味がわからないわ」
「でしょうね。私もそうだったし」
ふん、と短く鼻息を吐いて、パチュリーは続ける。
「たぶんだけど。これ、暗号だと思うわ」
「暗号? そんな風には見えないけれど」
一見、文はきちんとしたためられているように見える。ただ、なんの意味があるのかがわからないだけで。
例えばこの一文。
『陽は沈む。ただし、昇る。銀に沈み、白に登る』
意味はわからないが、かといって文章になっていないかといえば、そうでもない。まるで幼い子が、自分の知っている言葉だけを繋ぎあわせて、なんとか文体を整えているような、そんな文章だ。
だから意味はなくても、文として形はあるのだと言える。ただ、これが暗号だと言われても、散文にしか見えないアリスとしては、解釈を変えていけるような気がしなかったが。
「私にも見えないわ」
パチュリーは後ろ髪を掻きながら、
「でも、魔導書なんかもそうだけれど、結構暗号って使われるじゃない。この書は、そのキーワードが今まで見たことのないものっていうだけかもしれないし」
「仮にそうだとしても、何で私のところに? 貴方が持っているべきものでしょうに」
アリスは魔導書をコレクトしているわけではない。それはパチュリーの趣味だ。魔導書は最低限確保していればいい、というのが、人形師としての持論だった。
「いつもならそうなんだけど」
「何か曰くつきとか?」
「いいえ。昨日この本を持ち帰った後、色々と調べてみたのだけれど。どうもこの本、人形に関するものらしいのよ」
「人形に?」
人形と言われてしまっては、流し聞きしていられない。
「そう。えっと……どこだったか」
パチュリーは呟きながら書をめくっていく。ばりばり、びきり、ぱき、などなど、聞いていて冷や汗の出るような音が、次々に耳へと届いてくる。
いくつ、その音を聞いただろうか。ふとパチュリーの手が止まった。
「ここ。ちょっと見てみて」
アリスは立ち上がり、そのページを見下ろした。
そこに描かれていたのは、一体の人形のようなモノだった。表情を失くしてしまったかのような、のっぺりとした顔立ちに、逆立った髪がよく似合っている。背はぴんと張っているが、肩が撫で下りており、幽霊を想起させる出で立ちだった。
「死人みたいね」
それが正直な感想だった。パチュリーも同意らしく、二度頷いた。
「ここに『ゴーレム』って書かれているのだけれど、見える?」
「消えかかってるけど、確かにそう読めるわ」
「で、昨日徹夜でこのゴーレムっていうのを調べてみたんだけどね」
その、注意して聞いていなければすぐに逃してしまうであろう一言を聞いた瞬間、疑問が一つ、氷塊した。
――ああ、徹夜したから、こんな早くに来たんだ。
こちらの心の中を読めるわけでもないパチュリーは、そのまま説明を続けていた。
そして次に彼女が口にした言葉を聞いて、アリスは自分の耳を疑った。
「つまりこのゴーレムとやらは、自律人形らしいわ」
「え、自律人形?」
「ええ、そう。どうやら神代には、自律人形を作るだけの技術があったのね」遠い太古の世界に想いを馳せるように目を細めるパチュリー。
だがアリスは、そんな悠長に構えていられなかった。
腋には早くも汗が滲み始めている。鼓動が高鳴ってくるのがわかる。体温も、窓際で日差しを浴びていた時とは比べ物にならないほどの上昇具合だ。
「そ、それ」
ごくりと唾を飲み込み、甲高い声になりかけながら訊いた。「もらっても?」
心音が邪魔をし、返事すらまともに耳に入らなかった。
3
一般的に、朝の方が物事に集中出来ると言うが、アリスは夜の方が遙かに集中することが出来た。
朝から昼にかけては昨日のまとめをし、昼から夕方にかけては外出や雑務をこなす。そして夜に重要な案件を済ませる、というのが、一番効率的に物事をこなせる生活リズムだった。
そのリズム通り、今日も夜に作業を行うことにした。内容はもちろん、例の書物の解読である。
ボロボロな装丁を、上から優しく指で撫でていく。
写本であるとはいえ、これが解読できれば長年の夢が叶うかもしれないのだから、宝の本も同じだ。
夢で膨らんでいく胸に手を当て、アリスは瞳を閉じた。そして一度大きく深呼吸をする。気分を落ち着かせるためにしたことだったが、結果的には興奮の漣が大きくなっただけだった。
書の名はイェツィラ――創造を意味しているらしい。
他にもバヒル、ゾハルという二つの書があると記載されていたが、具体的な中身については一切触れていなかった。
イェツィラの書は百ページほどの本で、表紙だけでなく、すべてのページに固めの紙が用いられていた。めくるたびにバリバリ音を立てていたのは、何も劣化だけが原因ではなかったのだ。
記されているのは文字と記号、それにイラストの三点。これらのすべてが暗号かもしれず、そう思うと気が重くなりかけたが、『宝探し』と称することで解読にめげそうになる心を奮い立たせた。
まずしなければならないのは、表面的な意味だとしても、全体を把握することだ。
ここが工程の中で一番重要となる。何度も読み返し、頭に叩き込まなくてはならない。それこそ暗記してしまえるくらいに。
そして全体を俯瞰できるところまで読み込めたら、一字一句に共通点はないか、法則性はないかと疑っていく。ここまでしてやっと、自分なりの解を見つけ出し、検証までこぎつけるのだから。
「こりゃ、骨が折れそうね」
机の上に片肘を立て、頬杖をつく。悪態をついてはみたが、緩みっぱなしの頬は少しも引き締まってくれない。無理からぬことか、とアリスは思った。
この書の解読に成功すれば悲願を達成できるだけでなく、魔法使いとしての格も上がることになる。まさに空前のチャンスが目の前にぶら下がっている状態だ。モチベーションが最高潮にまで達してしまうのも無理もない。
そう、無理もないのだ。
意気揚々と取りかかるところまではよかったが、予想の通り、解読作業は難航を極めた。
共通点を見つけようとしても、法則性を見つけようとしても、さっぱり見つけられない。数ある魔導書の暗号を解いてきたが、これほど壁の厚さを感じる書もなかった。
結局、一週間ほどは無為な日々として送る羽目になってしまった。
それでも十日を過ぎた頃からは、少しずつではあるが前進しているという手応えを感じることができた。
ふつう、暗号というのはパズルのようなモノで、一つ解けると図解を作れて作業が一気に進むものだ。
しかしこのイェツィラの書は、一言一句をいちいち置き換えていかなければならないらしく、法則性や共通点があるとすれば、この一点のみに絞られた。地道に解いていけということらしい。解読が終われば、もしかしたらそれを図解に表すことが出来て、可視化が可能になるかもしれないが、今は期待しない方がよさそうだった。
毎日部屋に籠りきりになって一ヶ月が過ぎ、いつの間にか二ヶ月が過ぎようとしていた頃、作業はようやく終わりを見た。
「終わった……」
と、アリスは天を仰ぐように両手を天井に突き出した。
喜びよりも、はるかに脱力感が勝っていた。やっと終われた、というのが、正直な心境だ。肩から力が抜けきり、鏡を見れば自分が人形に見えたに違いないほど、身体からはありとあらゆる力が(気力のようなものも含め)抜け落ちていた。
髪に指を突っ込むと、がさりと乾いた感触がかえってきた。もう何日も手入れをサボっていたからに違いなかったが、普段はめているカチューシャもここのところずっと外していたし、他人と会う約束をしていたわけでもなかったので、気にしないことにした。
というより、髪を気にするほどの余裕がわいてこなかった。疲労困憊すぎて。
「あー……」
椅子の背もたれにもたれかかり、口を大きく開けて呻く。
しばらくあー、とか、うー、とか呻いていたが、徐々に気力が回復してきたおかげで、なんとか椅子から立ち上がることができた。人差し指でこめかみを押すと、少し強めの痛みがあった。
ふらつく身体のバランスをどうにかとりながら、洗面所に入る。
洗面台には半身を映し出せるだけの大きさをもった鏡が備え付けてあるが、アリスはそこに映る自分の姿には見向きもせず、代わりに小さめのバケツに溜め込んだ水を手で少量すくうと、顔を洗った。
都合五度の洗顔は、普段より三度も多かった。が、それも気持ちを入れ替えるために必要なことだった。
暗号の解読は済んだ。あとは書に忠実に創造を再現するのみ。
そうすれば、『七色の人形遣い』――周りにそう称された、アリス・マーガトロイドの願いが叶う。
書を手にしたときは興奮に血肉が湧き踊ったが、今は逆だった。どこまでも冷静で、どこまでも臆病になっている自分がいる。
失敗を恐れているわけではない。
書と、その解読が不完全だと思っているわけでもない。
ただ、ここで成功したとしたら、明日から一体何を生き甲斐に――標に――して生きていけばいいのか。それがわからず、恐ろしくなったのだ。
自律人形の制作は長年の夢だった。その夢を実現させるために、ひたすら魔道を突き進んできた。
だが気付けば、いつの間にか夢が自分の生きる標になってしまっていた。
思い返せば、夢のために疾駆してきた人生だった。もちろん、他にもやりたいことは山のようにあるし、やりがいを感じるものもたくさんある。だが、それでも自律人形を作るという一つの巨大な山は他のどんな欲の山より高く。
故に、一番高い山を登ってしまったその後、二番目に高い山を登ることに意味を見いだせなくなってしまうのではないか。それが今、脳裏に浮かんだことであった。
「……まぁ」
長いこと沈黙した後、アリスは声に力を持たせて言った。
「後悔だけはしたくないし」
それは未来の落胆に備えての、先回りの言い訳に違いなかった。
4
ゴーレム制作の秘術は、その厳重な暗号施術とは裏腹に、内容としてはさほど難しいものではなかった。
手に入らないような希少種のアイテムが要るわけでもなく、手順さえ教えればそこいらの女子供にでもできてしまいそうなもので、アリスは段々と解き明かした中身が間違っているのではないかと弱気になってきていた。
だが現時点では、導き出した解に頼るほかなかった。たとえあらぬ方向に解読してしまっているのだとしても、これ以上は確かめる術がない。
アリスは机に広げた解読結果を、立ったまま読み返してみた。
ゴーレムを作るには、十の手順を踏まねばならない。
一つ、聖別された土を集め。
一つ、聖別された水を集め。
一つ、土と水を混ぜて粘土とせん。
一つ、粘土を捏ね、容を与えれば、汝の頭髪を同位に与えるべし。
一つ、己の血を以て、シュム・ハ・メフォラシュなる符を作り、彼の者の口内、舌なる底土に貼りつけよ。
一つ、「ヴァラン」と唱えよ。して刻を七度歩いて戻せ。
一つ、「オーラーコースル」と唱えよ。して己が裡を見よ。彼の者は生きるための炎を纏わん。
一つ、再び「ヴァラン」を唱えん。再び刻を戻せ。
一つ、「カバラッサ」と唱え念じん。彼の者は霧に包まれ、今度こそ形を得る。
一つ、己が息吹を吹き込め。扉は口、吐くは自身ぞ。心して吹け。
――この十個の手順だけで、ゴーレムは作り出せるらしい。
少し謎めいた言葉が散らばっているが、それでも考えればすぐにわかるものばかりで、特段難しいことは何もない。ちょっと面倒なことをして、手順通りに実行していけばいいだけのことだ。
だからこそ、余計に不安が生じる。
いつもは物事をシンプルに考えるアリスだったが、この件については、いつになく慎重になってしまうのだった。
それが失敗したくないという気持ちの表れなのか、それとも、こんなに簡単に夢が実現してしまってもいいのだろうかという気持ちの表れなのか――判然としないから、こんなにも不安になってしまうのか。
溜め息をつくと、秘術を書き込んだ用紙を机に放った。考えても詮無いことばかり考えてしまう。このまま悶々としていたのでは、簡単なことさえ上手くこなせなくなってしまいかねない。
「……そうね」
そう、自分を納得させるために呟いてみる。
行き詰ったときは、まず行動してみる――。
「けれどその前に」
まずはこの疲れを癒すのが先だと、アリスは目先にいる上海人形に向かって微笑んだ。
人形はベッドの真横にもたれかかり、すでに休息に入っているようだった。
5
やはりというべきか、バケツ一杯では全然足りなかった。
「駄目ね……」
アリスは力なく笑った。
自分の手と、傍らにいる上海人形の全身のほとんどが泥だらけになっている。
書に書かれていた粘土を作る工程と、形を作る工程の二つに腐心しているところだったのだが、持っている一番大きいバケツでも、たった一杯では全然駄目だということに、今更ながら気が付いたのだった。
書には作り方の詳細が記載されており、人の形に粘土をこねる作業は、自分と同じ背丈を目指して作ると上手くいくと書いてあった。だからこそ大きなバケツを用意したのだが、一杯では頭部と首の半分ほどまでしか作れなかった。もう一杯分くらいの粘土は必要かなと思いながら作業を進めてきたが、まさか全然足りないとは……予想外すぎて、ゴーレム作りへの意欲が揺らぎかけた。
とはいえ、ゴールはもう目前で、その向こう側には欲し続けたモノがぶらさがっている。ここで歩みを止めるわけにもいかず、アリスは渋々上海を引き連れて、重い材料を再調達しに庭へ行った。
結局、粘土をこねての容作りには、丸一日を要した。
バケツに換算すると九杯分の粘土を、朝から晩までこね続けたことになる。地上より冷える地下でやっていたのも一因かもしれないが、肩が凝りに凝って仕方がない。土こねからもう三つ、四つ工程を消化したが、いまだに肩が張っていた。
その肩をほぐそうと、付け根を軸に回しながらアリスは完成した泥人形――もとい、ゴーレムの基礎を見た。同時に、ぞくりと背に寒気が奔るのを感じた。
今まで数多の人形を作ってきたが、一度として不気味だと感じた制作物はない。むしろ愛らしいとさえ感じる出来のものばかりだった。
それがどうだろう。このゴーレムとやらは、陶器で作られた人形のような滑らかな肌も、綿で作られた人形のような温もりも存在しない。踏んでしまえば簡単に崩れる、脆さだけが目立つヒトガタだ。土が焼けたのだから脆くなるのも当然かもしれないが。
しかし脆さと違い、不気味さは頭部に埋め込んだ自分の金髪が原因かもしれなかった。
書には埋め込む髪の長さや本数については一切触れていなかったこともあり、適当に引き抜いたりハサミで切ったりしたものを埋め込んだ。結果、みすぼらしい風貌になってしまったのである。いや、不気味さを伴ってしまったのである。
だが、これも作品の一つだと思えば、不気味さも気にならなくなってくる。アリスは自分にそう言い聞かせ、最後の工程に移ることにした。
舌に符を貼りつけ、火炎が立ち上り、水蒸気が放散したところまで終えている現在、残るは息を吹き込む、という工程のみだ。この行為に、果たして何の意味があるのか。考えてみても答えは出そうになく、やはりやってみるしかなさそうだった。
「……よし」
ゴーレムは動き出す予兆すら見せてくれない。もしかしたら解読が不正解だったのかもしれない。
それでも、最後の一工程だ。もう考え込むのはやめにしよう。
アリスは迷いを掻き消すように首を振ると、そっと瞳を閉じた。肩から力を抜き、自然体をつくる。
そしてゆっくりと、静かに空気を吸い込み、肺に溜めていく。これ以上は無理だというギリギリ一杯まで空気を溜め込むと、懺悔するようにゴーレムの横で跪いた。
口先を少しばかり尖らせ、ゴーレムのぽっかりと開いた口めがけて息を吹きかけていく。蝋燭式ランタンの、その仄かな明かりが、彼の者と記されたゴーレムの、闇のように深い黒穴を照らしている。
ふぅーっと、自分の吐息が耳に届いてくる。三十秒ほどの時間が、十分にも感じられる。
息を吐いていると、なぜか徐々に身体がだるくなってきた。力が抜けていくような、奇妙な感覚だったが、疲れが出はじめたのだろうと思った。気が張っている分、疲れやすくなっているに違いない。
重い静寂の中、吐き切った空気を補充するため、一度ゆっくりと瞳を開き。
その最中、あるモノが見えて、思わず息をのんだ。
「――――え」
目の前の光景に、つい魅入ってしまう。
開かれた青い瞳。
肩で揃えられた金色の髪。
灯りに照らされて恍惚と光る肌。
どこかで見たような――けれど見間違いようもない――顔。
「何で貴方が……?」
そう言うので精一杯だった。
アリスは驚愕で乱れる心を一刻も早く落ち着けようとし、
「何でと言われても」
と不思議そうに言う、目の前の女性に絶たれた。
言葉と、それから意識を。
「――――、」
叫ぶことも叶わない刹那、身体が後方へと傾いていくのを知覚した。直後、後頭部に爆発的な衝撃が奔り、目の前にぱっと火花が飛び散るのを見た。
どう倒された?
いや、でも殴られたのは後頭部……?
自分の身に何が起きたのか、考える余裕は一瞬だった。
混乱しきった意識は、上から押し潰してくる黒い重力に、あっと言う間に飲み込まれていった。
1
鳥のさえずりで目が覚めた。
アリス・マーガトロイドはぼんやりとする意識のまま上体だけを起こし、ベッドの上でうんと背伸びをした。
つられて大きな欠伸が出る。いつも通りの目覚め方だった。朝には比較的強く、目覚まし時計がなくても起床時間に不安はないが、鳥が鳴いてくれると目覚めがいい。
壁際にある置時計で時刻を確認すると、五時十五分だった。涙で滲み、文字盤や指針が歪んで見えるが、たぶん間違いない。鳥のさえずりが聞こえて来た日は、大抵同じような時間に目が覚める。だから今日もきっと同じだ。
何度か目をしばたたかせると、涙が引いて視界が晴れた。まだ少しばかり残っている眠気を堪え、身体にかかった薄めの毛布を払いのける。薄暗い部屋の中、靴を履いて足を床に下ろすと、窓辺に移った。
カーテンの隙間から光が漏れている。室内はまだ暗がりだが、開け放ってみると、ちょうど朝陽が昇ってくるところだった。
「あら」
露わになったガラス窓の向こうに、鳥の群れを発見した。五、六匹はいるだろうか。雀のような姿形をしている。
「おはよう」
アリスは鳥のさえずりを聞くのが好きだった。どんな種類の鳥であっても、鳴き声が耳に入るたび、自然と体が反応してしまう。これは幼い頃からずっと変わらない、性質のようなものだった。だから目覚まし代わりにもなる。
しかし、好きだからといって特段鳥に詳しいわけでもない。鳴き声だけでなく、こうして実物を眺めていても、まったく見分けが付かないでいる。おそらくあの種類だろう、と見当をつけるくらいが関の山だ。
鳥たちがじゃれ合う様子をじっくりと時間をかけて堪能すると、静かにその場から離れた。
四月の半ばということもあり、窓からは暖かな光が入ってくる。
すっかり明るくなった部屋を見渡すと、ベッドの上、枕の横に転がる上海人形を認めた。
「上海も、おはよう」
意思表示が何も返ってこない。どうやらまだ熟睡しているようだった。
上海は、西洋の幼い女子を模った――というより昔のアリスの容姿そのまま――人形だ。持てる技術の全てを注ぎ込んで作った傑作であり、現時点で人形師として最高のモノだと断じられる逸品である。
しょうがないと小声で呟いて、そのまま部屋を出た。まだ朝も早い。起こすのも可哀想だと思った。
寝室のドアを開くとすぐ、リビングが広がる。
一人暮らしとしては広すぎるきらいのあるリビングには、ソファーやテーブルが並んでいる。客間としても使うため、それなりに上質なモノを選んであった。
そしてソファーの間を縫うように抜けると、キッチンへと辿り着く。
キッチンは西側にあり、窓も小さいせいか少し足元が冷えた。四月といっても、まだ春になったばかりだ。本格的な暖気はまだこれからなのだろう。
流し台の横に常設してあるポッドを持ち上げると、アリスは蛇口を捻って水を流し込んだ。半分ほど注ぐと、それをコンロのようなものの上に置き、魔法をかけて着火する。ぼっ、と小気味よい音が立った。
アリスの本業は人形師だが、魔法のスキルも持ち合わせている。魔法は人形師を究める過程で必要に迫られて修得したものだったが、それでも専業の魔法使いと同等の、下手をすればそれ以上の優秀な使い手だ。
湯が沸くと、専用の器材にろ紙をセットし、そこに黒い粉末の塊を一つ入れた。器材の底にはカップが置かれている。粉末の塊にまんべんなく湯をかければ、いわゆる即席コーヒーの出来上がりである。
黒い液体のたゆたうカップを手に、アリスはリビングにあるソファーに座った。リビングはキッチンと目と鼻の先の位置にあり、仕切りも何もない。
「うーん、今日も優雅ね」
鼻で香りを楽しみ、舌で苦みを味わう。実に爽やかで優雅な朝だ。
しかし、その優雅な朝のひとときも長くは続かなかった。早朝だというのに、来客を告げる鐘が鳴ったからだ。
家の外に、引くと鳴るように細工をした小さな鐘を取りつけてある。それを鳴らされれば、出て行かないわけにもいかない。そのための呼び鈴なのだから。
壁に寄せ置かれた古時計をちらりと見ると、針は五時四十五分を指していた。
面倒だと思いつつもドアを開けると、鮮やかな紫色に包まれたパチュリー・ノーレッジが立っていた。
紫色というのは彼女の髪の色なのだが、その髪は地面に届いてしまいそうなほどに長い。おかげで身体を包み込んでいるように見えてしまうのだった。
そしてこのパチュリーこそ、一流の専業魔法使いである。アリスとは違い、魔法の道だけを歩んでいる女性だ。
彼女は、いつも何かしらの本を持ち歩いている。今日とて例外ではなかった。ただ、彼女にしては珍しく厚みがない本だった。
そのパチュリーの目が、ぽっと丸くなった。同時に、左右の耳横から垂れ下がるぼってりとした髪房も揺れた。
「早朝からどうしたのよ。しかも変な顔をして」
アリスは冗談のつもりで言ったのだが、変な顔をしているのは事実だ。怪訝そうな目を向けてくるパチュリーは、子リスのように小さく口を開き、細い眉を持ち上げている。面食らった、という表現がしっくりくるような表情だった。
「何? どうしたの」
焦れて語気が強まる。
パチュリーは遠慮がちに答えた。
「この場合……なんて言えばいいのかしら」
「何よ。毒舌がウリのパチュリーから言葉が出てこないなんて」
パチュリーは毒舌である。本人は否定しているが、彼女と交友を持つ者なら、誰もが知っていることだ。アリスも常々ストレートすぎる物言いだな、と思っていた。そのパチュリーが言葉を濁している――不思議に思わない方が変ではないか。
少しの間をおいて、ためらいがちにパチュリーが指をさしてきた。「それ」
アリスはさされた方を見遣ったが、自分の胸が見えるだけだった。疑問は解けるどころか深みを増した。
「胸がどうしたのよ。貴方の方が大きいと自慢したいわけ?」
決して胸は小さくない、はずだ。ただ、パチュリーの胸が大きすぎるだけで。
すると頬を赤らめたパチュリーが、「違う。その……服のこと」と絞り出すように言った。
「服?」
もう一度、胸の辺りを見てみる。
いつも通りの肌に、いつも通りの胸。
そして、いつも通りの――寝間着。
「……そういうこと」
今度はアリスが頬を赤らめる番だった。
一気に全身が熱くなる。まるで羞恥そのものが熱を孕んでいるかのような熱さだった。
このまま溶けてしまえたら、溶けていなくなってしまえたら、と焦熱にのたうちまわる心がいらぬ妄想まで生み出し始める。
「意外と大胆だったのね、貴方……」
憐れんでいるような声色が鼓膜に届いた。
アリスの今日の寝間着は、透けるほど薄い、ピンクの生地で作られた長袖のネグリジェだった。
2
紫の魔女と囁かれているパチュリーをリビングに案内し、ソファーを勧め、自分も座ると、アリスは気を取り直して会話を始めた。
「で、今日はどうしたの? 急用ってわけでもなさそうだけど」
「それより貴方、着替えなくてもいいの? また誰か来たら悲劇の二の舞よ?」
「大丈夫よ。いざとなったら上海が布団を被せてくれるわ」
まだ眠っているであろうことは伏せた。
「まぁ、本人がいいならいいのだけれど」
「いいのよ。それで?」
「用件ってわけでもないのだけれど」
これ、と言って、パチュリーが差し出してきたのは、ずっと手に持っていた一冊の本だった。
「これは?」
訊くと、パチュリーは神妙な顔つきになった。
「本物はイェツィラの書、と呼ばれているらしいのだけれど。それの写しみたい」
「い、いぇ……? 聞いたこともないわね」
「なんでも、昨日の昼時に外の世界から流れ着いたらしいわ。っていうか、発見したのね。霖之助がくれたのよ」
「へぇ」
相槌を打ち、ページをめくってみる。
と、相当な古物らしく、ばりっと嫌な音が出た。破れてしまわないかと心配しながら開かねばならないほどに――汚れで紙が茶ばんでしまっているほどに、古い物だった。虫食いされていないのが奇跡だと思えるほどの古さだ。
「読めないわね。というか、読めるけど、意味がわからないわ」
「でしょうね。私もそうだったし」
ふん、と短く鼻息を吐いて、パチュリーは続ける。
「たぶんだけど。これ、暗号だと思うわ」
「暗号? そんな風には見えないけれど」
一見、文はきちんとしたためられているように見える。ただ、なんの意味があるのかがわからないだけで。
例えばこの一文。
『陽は沈む。ただし、昇る。銀に沈み、白に登る』
意味はわからないが、かといって文章になっていないかといえば、そうでもない。まるで幼い子が、自分の知っている言葉だけを繋ぎあわせて、なんとか文体を整えているような、そんな文章だ。
だから意味はなくても、文として形はあるのだと言える。ただ、これが暗号だと言われても、散文にしか見えないアリスとしては、解釈を変えていけるような気がしなかったが。
「私にも見えないわ」
パチュリーは後ろ髪を掻きながら、
「でも、魔導書なんかもそうだけれど、結構暗号って使われるじゃない。この書は、そのキーワードが今まで見たことのないものっていうだけかもしれないし」
「仮にそうだとしても、何で私のところに? 貴方が持っているべきものでしょうに」
アリスは魔導書をコレクトしているわけではない。それはパチュリーの趣味だ。魔導書は最低限確保していればいい、というのが、人形師としての持論だった。
「いつもならそうなんだけど」
「何か曰くつきとか?」
「いいえ。昨日この本を持ち帰った後、色々と調べてみたのだけれど。どうもこの本、人形に関するものらしいのよ」
「人形に?」
人形と言われてしまっては、流し聞きしていられない。
「そう。えっと……どこだったか」
パチュリーは呟きながら書をめくっていく。ばりばり、びきり、ぱき、などなど、聞いていて冷や汗の出るような音が、次々に耳へと届いてくる。
いくつ、その音を聞いただろうか。ふとパチュリーの手が止まった。
「ここ。ちょっと見てみて」
アリスは立ち上がり、そのページを見下ろした。
そこに描かれていたのは、一体の人形のようなモノだった。表情を失くしてしまったかのような、のっぺりとした顔立ちに、逆立った髪がよく似合っている。背はぴんと張っているが、肩が撫で下りており、幽霊を想起させる出で立ちだった。
「死人みたいね」
それが正直な感想だった。パチュリーも同意らしく、二度頷いた。
「ここに『ゴーレム』って書かれているのだけれど、見える?」
「消えかかってるけど、確かにそう読めるわ」
「で、昨日徹夜でこのゴーレムっていうのを調べてみたんだけどね」
その、注意して聞いていなければすぐに逃してしまうであろう一言を聞いた瞬間、疑問が一つ、氷塊した。
――ああ、徹夜したから、こんな早くに来たんだ。
こちらの心の中を読めるわけでもないパチュリーは、そのまま説明を続けていた。
そして次に彼女が口にした言葉を聞いて、アリスは自分の耳を疑った。
「つまりこのゴーレムとやらは、自律人形らしいわ」
「え、自律人形?」
「ええ、そう。どうやら神代には、自律人形を作るだけの技術があったのね」遠い太古の世界に想いを馳せるように目を細めるパチュリー。
だがアリスは、そんな悠長に構えていられなかった。
腋には早くも汗が滲み始めている。鼓動が高鳴ってくるのがわかる。体温も、窓際で日差しを浴びていた時とは比べ物にならないほどの上昇具合だ。
「そ、それ」
ごくりと唾を飲み込み、甲高い声になりかけながら訊いた。「もらっても?」
心音が邪魔をし、返事すらまともに耳に入らなかった。
3
一般的に、朝の方が物事に集中出来ると言うが、アリスは夜の方が遙かに集中することが出来た。
朝から昼にかけては昨日のまとめをし、昼から夕方にかけては外出や雑務をこなす。そして夜に重要な案件を済ませる、というのが、一番効率的に物事をこなせる生活リズムだった。
そのリズム通り、今日も夜に作業を行うことにした。内容はもちろん、例の書物の解読である。
ボロボロな装丁を、上から優しく指で撫でていく。
写本であるとはいえ、これが解読できれば長年の夢が叶うかもしれないのだから、宝の本も同じだ。
夢で膨らんでいく胸に手を当て、アリスは瞳を閉じた。そして一度大きく深呼吸をする。気分を落ち着かせるためにしたことだったが、結果的には興奮の漣が大きくなっただけだった。
書の名はイェツィラ――創造を意味しているらしい。
他にもバヒル、ゾハルという二つの書があると記載されていたが、具体的な中身については一切触れていなかった。
イェツィラの書は百ページほどの本で、表紙だけでなく、すべてのページに固めの紙が用いられていた。めくるたびにバリバリ音を立てていたのは、何も劣化だけが原因ではなかったのだ。
記されているのは文字と記号、それにイラストの三点。これらのすべてが暗号かもしれず、そう思うと気が重くなりかけたが、『宝探し』と称することで解読にめげそうになる心を奮い立たせた。
まずしなければならないのは、表面的な意味だとしても、全体を把握することだ。
ここが工程の中で一番重要となる。何度も読み返し、頭に叩き込まなくてはならない。それこそ暗記してしまえるくらいに。
そして全体を俯瞰できるところまで読み込めたら、一字一句に共通点はないか、法則性はないかと疑っていく。ここまでしてやっと、自分なりの解を見つけ出し、検証までこぎつけるのだから。
「こりゃ、骨が折れそうね」
机の上に片肘を立て、頬杖をつく。悪態をついてはみたが、緩みっぱなしの頬は少しも引き締まってくれない。無理からぬことか、とアリスは思った。
この書の解読に成功すれば悲願を達成できるだけでなく、魔法使いとしての格も上がることになる。まさに空前のチャンスが目の前にぶら下がっている状態だ。モチベーションが最高潮にまで達してしまうのも無理もない。
そう、無理もないのだ。
意気揚々と取りかかるところまではよかったが、予想の通り、解読作業は難航を極めた。
共通点を見つけようとしても、法則性を見つけようとしても、さっぱり見つけられない。数ある魔導書の暗号を解いてきたが、これほど壁の厚さを感じる書もなかった。
結局、一週間ほどは無為な日々として送る羽目になってしまった。
それでも十日を過ぎた頃からは、少しずつではあるが前進しているという手応えを感じることができた。
ふつう、暗号というのはパズルのようなモノで、一つ解けると図解を作れて作業が一気に進むものだ。
しかしこのイェツィラの書は、一言一句をいちいち置き換えていかなければならないらしく、法則性や共通点があるとすれば、この一点のみに絞られた。地道に解いていけということらしい。解読が終われば、もしかしたらそれを図解に表すことが出来て、可視化が可能になるかもしれないが、今は期待しない方がよさそうだった。
毎日部屋に籠りきりになって一ヶ月が過ぎ、いつの間にか二ヶ月が過ぎようとしていた頃、作業はようやく終わりを見た。
「終わった……」
と、アリスは天を仰ぐように両手を天井に突き出した。
喜びよりも、はるかに脱力感が勝っていた。やっと終われた、というのが、正直な心境だ。肩から力が抜けきり、鏡を見れば自分が人形に見えたに違いないほど、身体からはありとあらゆる力が(気力のようなものも含め)抜け落ちていた。
髪に指を突っ込むと、がさりと乾いた感触がかえってきた。もう何日も手入れをサボっていたからに違いなかったが、普段はめているカチューシャもここのところずっと外していたし、他人と会う約束をしていたわけでもなかったので、気にしないことにした。
というより、髪を気にするほどの余裕がわいてこなかった。疲労困憊すぎて。
「あー……」
椅子の背もたれにもたれかかり、口を大きく開けて呻く。
しばらくあー、とか、うー、とか呻いていたが、徐々に気力が回復してきたおかげで、なんとか椅子から立ち上がることができた。人差し指でこめかみを押すと、少し強めの痛みがあった。
ふらつく身体のバランスをどうにかとりながら、洗面所に入る。
洗面台には半身を映し出せるだけの大きさをもった鏡が備え付けてあるが、アリスはそこに映る自分の姿には見向きもせず、代わりに小さめのバケツに溜め込んだ水を手で少量すくうと、顔を洗った。
都合五度の洗顔は、普段より三度も多かった。が、それも気持ちを入れ替えるために必要なことだった。
暗号の解読は済んだ。あとは書に忠実に創造を再現するのみ。
そうすれば、『七色の人形遣い』――周りにそう称された、アリス・マーガトロイドの願いが叶う。
書を手にしたときは興奮に血肉が湧き踊ったが、今は逆だった。どこまでも冷静で、どこまでも臆病になっている自分がいる。
失敗を恐れているわけではない。
書と、その解読が不完全だと思っているわけでもない。
ただ、ここで成功したとしたら、明日から一体何を生き甲斐に――標に――して生きていけばいいのか。それがわからず、恐ろしくなったのだ。
自律人形の制作は長年の夢だった。その夢を実現させるために、ひたすら魔道を突き進んできた。
だが気付けば、いつの間にか夢が自分の生きる標になってしまっていた。
思い返せば、夢のために疾駆してきた人生だった。もちろん、他にもやりたいことは山のようにあるし、やりがいを感じるものもたくさんある。だが、それでも自律人形を作るという一つの巨大な山は他のどんな欲の山より高く。
故に、一番高い山を登ってしまったその後、二番目に高い山を登ることに意味を見いだせなくなってしまうのではないか。それが今、脳裏に浮かんだことであった。
「……まぁ」
長いこと沈黙した後、アリスは声に力を持たせて言った。
「後悔だけはしたくないし」
それは未来の落胆に備えての、先回りの言い訳に違いなかった。
4
ゴーレム制作の秘術は、その厳重な暗号施術とは裏腹に、内容としてはさほど難しいものではなかった。
手に入らないような希少種のアイテムが要るわけでもなく、手順さえ教えればそこいらの女子供にでもできてしまいそうなもので、アリスは段々と解き明かした中身が間違っているのではないかと弱気になってきていた。
だが現時点では、導き出した解に頼るほかなかった。たとえあらぬ方向に解読してしまっているのだとしても、これ以上は確かめる術がない。
アリスは机に広げた解読結果を、立ったまま読み返してみた。
ゴーレムを作るには、十の手順を踏まねばならない。
一つ、聖別された土を集め。
一つ、聖別された水を集め。
一つ、土と水を混ぜて粘土とせん。
一つ、粘土を捏ね、容を与えれば、汝の頭髪を同位に与えるべし。
一つ、己の血を以て、シュム・ハ・メフォラシュなる符を作り、彼の者の口内、舌なる底土に貼りつけよ。
一つ、「ヴァラン」と唱えよ。して刻を七度歩いて戻せ。
一つ、「オーラーコースル」と唱えよ。して己が裡を見よ。彼の者は生きるための炎を纏わん。
一つ、再び「ヴァラン」を唱えん。再び刻を戻せ。
一つ、「カバラッサ」と唱え念じん。彼の者は霧に包まれ、今度こそ形を得る。
一つ、己が息吹を吹き込め。扉は口、吐くは自身ぞ。心して吹け。
――この十個の手順だけで、ゴーレムは作り出せるらしい。
少し謎めいた言葉が散らばっているが、それでも考えればすぐにわかるものばかりで、特段難しいことは何もない。ちょっと面倒なことをして、手順通りに実行していけばいいだけのことだ。
だからこそ、余計に不安が生じる。
いつもは物事をシンプルに考えるアリスだったが、この件については、いつになく慎重になってしまうのだった。
それが失敗したくないという気持ちの表れなのか、それとも、こんなに簡単に夢が実現してしまってもいいのだろうかという気持ちの表れなのか――判然としないから、こんなにも不安になってしまうのか。
溜め息をつくと、秘術を書き込んだ用紙を机に放った。考えても詮無いことばかり考えてしまう。このまま悶々としていたのでは、簡単なことさえ上手くこなせなくなってしまいかねない。
「……そうね」
そう、自分を納得させるために呟いてみる。
行き詰ったときは、まず行動してみる――。
「けれどその前に」
まずはこの疲れを癒すのが先だと、アリスは目先にいる上海人形に向かって微笑んだ。
人形はベッドの真横にもたれかかり、すでに休息に入っているようだった。
5
やはりというべきか、バケツ一杯では全然足りなかった。
「駄目ね……」
アリスは力なく笑った。
自分の手と、傍らにいる上海人形の全身のほとんどが泥だらけになっている。
書に書かれていた粘土を作る工程と、形を作る工程の二つに腐心しているところだったのだが、持っている一番大きいバケツでも、たった一杯では全然駄目だということに、今更ながら気が付いたのだった。
書には作り方の詳細が記載されており、人の形に粘土をこねる作業は、自分と同じ背丈を目指して作ると上手くいくと書いてあった。だからこそ大きなバケツを用意したのだが、一杯では頭部と首の半分ほどまでしか作れなかった。もう一杯分くらいの粘土は必要かなと思いながら作業を進めてきたが、まさか全然足りないとは……予想外すぎて、ゴーレム作りへの意欲が揺らぎかけた。
とはいえ、ゴールはもう目前で、その向こう側には欲し続けたモノがぶらさがっている。ここで歩みを止めるわけにもいかず、アリスは渋々上海を引き連れて、重い材料を再調達しに庭へ行った。
結局、粘土をこねての容作りには、丸一日を要した。
バケツに換算すると九杯分の粘土を、朝から晩までこね続けたことになる。地上より冷える地下でやっていたのも一因かもしれないが、肩が凝りに凝って仕方がない。土こねからもう三つ、四つ工程を消化したが、いまだに肩が張っていた。
その肩をほぐそうと、付け根を軸に回しながらアリスは完成した泥人形――もとい、ゴーレムの基礎を見た。同時に、ぞくりと背に寒気が奔るのを感じた。
今まで数多の人形を作ってきたが、一度として不気味だと感じた制作物はない。むしろ愛らしいとさえ感じる出来のものばかりだった。
それがどうだろう。このゴーレムとやらは、陶器で作られた人形のような滑らかな肌も、綿で作られた人形のような温もりも存在しない。踏んでしまえば簡単に崩れる、脆さだけが目立つヒトガタだ。土が焼けたのだから脆くなるのも当然かもしれないが。
しかし脆さと違い、不気味さは頭部に埋め込んだ自分の金髪が原因かもしれなかった。
書には埋め込む髪の長さや本数については一切触れていなかったこともあり、適当に引き抜いたりハサミで切ったりしたものを埋め込んだ。結果、みすぼらしい風貌になってしまったのである。いや、不気味さを伴ってしまったのである。
だが、これも作品の一つだと思えば、不気味さも気にならなくなってくる。アリスは自分にそう言い聞かせ、最後の工程に移ることにした。
舌に符を貼りつけ、火炎が立ち上り、水蒸気が放散したところまで終えている現在、残るは息を吹き込む、という工程のみだ。この行為に、果たして何の意味があるのか。考えてみても答えは出そうになく、やはりやってみるしかなさそうだった。
「……よし」
ゴーレムは動き出す予兆すら見せてくれない。もしかしたら解読が不正解だったのかもしれない。
それでも、最後の一工程だ。もう考え込むのはやめにしよう。
アリスは迷いを掻き消すように首を振ると、そっと瞳を閉じた。肩から力を抜き、自然体をつくる。
そしてゆっくりと、静かに空気を吸い込み、肺に溜めていく。これ以上は無理だというギリギリ一杯まで空気を溜め込むと、懺悔するようにゴーレムの横で跪いた。
口先を少しばかり尖らせ、ゴーレムのぽっかりと開いた口めがけて息を吹きかけていく。蝋燭式ランタンの、その仄かな明かりが、彼の者と記されたゴーレムの、闇のように深い黒穴を照らしている。
ふぅーっと、自分の吐息が耳に届いてくる。三十秒ほどの時間が、十分にも感じられる。
息を吐いていると、なぜか徐々に身体がだるくなってきた。力が抜けていくような、奇妙な感覚だったが、疲れが出はじめたのだろうと思った。気が張っている分、疲れやすくなっているに違いない。
重い静寂の中、吐き切った空気を補充するため、一度ゆっくりと瞳を開き。
その最中、あるモノが見えて、思わず息をのんだ。
「――――え」
目の前の光景に、つい魅入ってしまう。
開かれた青い瞳。
肩で揃えられた金色の髪。
灯りに照らされて恍惚と光る肌。
どこかで見たような――けれど見間違いようもない――顔。
「何で貴方が……?」
そう言うので精一杯だった。
アリスは驚愕で乱れる心を一刻も早く落ち着けようとし、
「何でと言われても」
と不思議そうに言う、目の前の女性に絶たれた。
言葉と、それから意識を。
「――――、」
叫ぶことも叶わない刹那、身体が後方へと傾いていくのを知覚した。直後、後頭部に爆発的な衝撃が奔り、目の前にぱっと火花が飛び散るのを見た。
どう倒された?
いや、でも殴られたのは後頭部……?
自分の身に何が起きたのか、考える余裕は一瞬だった。
混乱しきった意識は、上から押し潰してくる黒い重力に、あっと言う間に飲み込まれていった。
幽玄なるマリオネット 前編 一覧
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自分の髪をつかい、自分の息吹を吹きかけるというからまさかとは思ったがやっぱりだったか・・・
ドッペルゲンガーかな
しっとりした文体で読みやすいですね。今後も期待です!
あかんやつやん!!
次回も楽しみにしています!!
(それにしても・・・薄手のピンクのネグリジェか・・・ふぅ・・・)