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幽玄なるマリオネット幽玄なるマリオネット  前編   マリオネット前編 第9話

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公開日:2015年10月21日 / 最終更新日:2015年10月21日

パチュリーの章

          1

「いやぁ、朝の紅茶って素敵ですねー」
 そう言ってティーカップをソーサーに置く文は、にへらとだらしのない笑顔を作った。「コーヒーもいいですが」
「そう思うのなら、明日から紅茶にすればいいわ」
 パチュリーは、早く帰れと念じながら答えた。
「でもウチ、こんなに美味しい紅茶の葉なんて持っていませんよ」
「それならこぁに聞いてみれば? どこで摘んできているかくらいなら教えてくれるでしょうから」
「そうしてみます。実は私、苦いものより甘いものの方が好きなんですよね」
 朝の七時と言えば、まだ夢の中にいる者も少なからずいる時間だ。そんな非常識ともいえる時間に、文は紅魔館に現れた。今朝の朝刊と号外だ、と言って。
 追い返すわけにもいかないだろうと、とりあえず中に通したのが失敗だった。
 こぁは張り切って紅茶を作り始めるし、文は霊夢に対する愚痴を連ね始めるし。適当に相槌を打っておけばすぐに退散するだろうと踏んでいたが、紅茶を飲みきっても腰を上げる気配がない。
「パチュリーさんは紅茶派ですか? それともコーヒー派?」
「私は……どちらかと言えばコーヒーね」
 どうやらまだ世間話を続けたいらしい。
 だが、こちらとて暇を持て余しているわけではない。軽く空咳をして強引にでも話を進めようと試みた。
「それより、今日の用件は?」
「あ、そうだ忘れてました。あまりにも紅茶が美味しくて」
「…………」
 あり得ない台詞に、嘆息を吐きかけた。
 一杯の紅茶のせいで用件を忘れた挙げ句、無意味な世間話を延々としていたというのか。
 呆れてものも言えない――そう思っていると、文が楽しげに口を開いた。
「犯人が捕まったのですよ」
「は?」
 寝耳に水な一言に、思考が瞬間凍結した。
 徐々に解凍されてきても、なかなか混乱は収まらなかった。
 犯人が捕まった? 容疑者もまともに絞れていなかったのに?
「驚いていますね」
「……そりゃあ」
「まぁ私も、霊夢さんから連絡が来たときは焦りましたよ。まさか捕まえられるとは思っていませんでしたから」
「私も同じよ」
「ですから愚痴も言いたくなったんですよ。私には調査禁止令を出しておいて、自分は美味しいところを掻っ攫っていくんですから」
「あ、そういえば」
 昨日のアリスとの会話を思い出し、気になっていた点を質すことにした。あくまで軽めに。気軽な態度を意識して。
「どうして自分で解決しようとしなかったの?」
 すると文はきょとんとした。質問の意味がわからなかったようだ。
「霊夢を挟まなきゃ、こんなことにはならなかったでしょうに」
「ああ、そういうことですか」文は後ろ髪を掻いた。「それなら単純なことですよ。ちょっとした実験です」
「実験?」
「ですです。私が本気を出せばこんな事件、三日で解決できちゃいますから」
「……凄い自信ね」
 いくら頭がきれるからと言って、三日はさすがに無理がありそうだが、文には自信があるようだった。
「で、なんの実験?」
「それはですね」文は嬉しそうに言った。「頭が悪い人は、どういう風に物事を捉えていて、それをどう行動に反映させるのか、という実験です」
「また際どいことを考え付いたものね」
「そうでもないですよ。最初は、どれくらいのヒントがあれば問題解決できるのか、っていう命題だったのですが、思慮や過程そのものを追跡していく方が面白いと思ったんです」
 そんな時に格好の材料がやってきた。一連の殺人事件だ。
「チルノみたいなのは論外の頭の悪さですから、霊夢さんに白羽の矢を射てみたのです」
「それで霊夢に事件を解決させようとしたのね」
「はい。最初は全然やる気なさそうで困っていたのですが、ワッショイしているうちに何とか火が付いてくれまして」
「そうなると、別に貴方が調査をしなくてもよさそうに聞こえてくるんだけど?」
「いえいえ。私も一応は謎解きしないと、考え方の相違がわからないじゃないですか。それにヒントも出してあげなきゃいけませんし」
「ああ、そっちはそっちで併せて、ってこと」
「もちのろんですよ。まあ、今回は失敗に終わっちゃいましたが」
「でも」意地悪は承知で訊ねた。「調査を禁止されたのは、事件が発生してから余裕で三日を過ぎていたんじゃ?」
 本気を出せば三日で解決できるのなら、三日目時点ですでに解決できていたことになる。
 だが文はうまく躱した。
「それは本気じゃなかったからですよ。今回の事件は、最初から楽しもうと決めていましたから」
「またそんなこと言って」
「本当ですよ。嘘じゃありません。その証拠に、ここ一週間の新聞を見直してみてください。調査よりも紙面作りに力を入れていることがわかりますから」
「紙面?」
「そうです。いつもより細かいところまで凝って作ったんですよ。ぱっと見ただけではわからないかもしれませんが」
 新聞がないかと辺りを見渡してみた。が、大広間は毎朝清掃を行っているため、余計なものはすぐに片付けてしまっている。しかもこういう時に限ってこぁもいない。
「囲い枠とか文章の書き方とか。後で確認してみて下さい」
「残っていればそうするわ」
 新聞だけでもすぐに処分されていそうなのに、号外のようなぺらぺらの紙一枚では、すぐに燃料行きになっているであろうことは想像に易い。残っている可能性の方が低そうだ。
「ああ、それと。今回は周辺への聞き込みもかなり頑張っているので、その点も見て頂ければ」
「聞き込みねぇ」
 そう言えば、噂話についても触れてあったような気がする。あまり記憶にはないが。
「わかった。ま、うちになくてもアリスならとってあるでしょ」
「おそらくは」
 話題が一息ついた雰囲気だったので、話を戻すことにした。
「それで、犯人は誰だったの?」
「聞いて驚いて下さい。――ルーミアです」
「ルーミア?」
 まさか、という思いが脳内を高速で駆け巡った。
 ルーミアと言えば、妖怪の中でも底辺に近い実力しかない少女だ。能力も闇を操る程度のもので、しかもその闇の中では自分も視界を失うという、まるで使えないものである。頭の方もかなり弱く、精霊のチルノたちとさほど変わらない。
 そんな少女が事件を引き起こしたとは、とても信じられなかった。
「いやぁ、パチュリーさんの驚く顔が見れて嬉しいなぁ」
「喜んでないで説明を頂戴」
「まぁまぁ、順を追って説明しますから」
 そう言って文はポーチから四つ折りの紙を出し、手渡してきた。
「今朝の号外です。読んでみて下さい」
 言われるままに号外を受け取り、中身を開く。
「これは……」
 文字の群れに目が吸い寄せられ、言葉が継げなくなってしまった。
 そこに書かれていた内容は、あまりにも衝撃的なものだった。

 ルーミアが引き起こしたのは、二件目の事件だった。岸崎玲奈が帰らぬ人となった事件である。
 人間を食べたいという欲求に負けた彼女は、一件目の事件をそのまま真似ることでそれを成就させようとした。
 真似するだけなら、頭の強弱なんて関係がない。そこに工夫を挟むなら頭も使わねばならないが、そうでないのなら、ただなぞるだけで事件は再現することができる。嫌疑を躱すのにも役立ち、まさに一石三鳥だ。
 だが記事を読み終えてみても、どうにもしっくりとこなかった。事件のあらましは理解できたが、ここには肝心なことが書かれていない。
「ちょっと聞きたいのだけれど」文の目を見て訊ねた。「殺人方法はどんなものだったの?」
「やっぱり気になりますよね、そこ」
「そりゃあそうよ。一番の謎だったんだから」
 奇異な殺害方法でなければ、別段気にならなかっただろうが。
「それがですねー」
 文は語尾を伸ばし、目を瞑りながら腕を組んだ。
「何よ」つい語気が荒れた。
「わからないんです」
「――わからない?」
「自白してきたルーミアが答えないからですよ」と文は肩をすくめた。
「ちょっと待って。それなら今、ルーミアは自分が犯人だと認めてはいるけれど、それ以外のことは黙秘してるってこと?」
「ずばり、その通りです」
 人差し指を立てて快活に笑った。
「いや、笑いごとじゃないから」
「でも実際、笑うしかないんですよ。犯人だって名乗り上げていても、犯行の仔細は喋らない。そうなると、誰かをかばっているんじゃないかって話にもなってくるわけで」
「まさか」
「そのまさかですよ。だから紫さんが動き出したんですから」
 紫――八雲紫が間に入るという情報は、今し方読んだ号外の中にも書かれていた。
 ところが記事には、犯人をどうするかについて霊夢と里とを交えて話し合う、と書かれているのみだった。捜査をするなど、どこにも書いていない。
 真意を問うと、
「紫さんの要望でそうなったんですよ。事件は解決した、だからあとのことについて話し合うのみだ――こう書けと」
「事実を伝えるための新聞じゃないの」
 非難めいた台詞が口をついて出てしまったが、文はけろりとしている。気にも留めていないようだった。
「紫さんが言ったことをまとめると、第一の事件とルーミアが関係しているかもしれないから、まずは第一の事件を解決すること。もし犯人が捕まれば、その者が事実を吐かないとしても、関係性くらいはわかるはずだと。もちろんその間、ルーミアの身柄は八雲家で預かるそうですが」
「……なるほど。里の人たちの反発を抑えるために、紫は自分から打って出ることにしたのね。それで時間を稼いでいる間に全てを明るみにできれば儲けものだし、もしダメだとしても、ルーミアはもう犯人だと宣告しているから、里人も騒ぐに騒げなくなる、と。これから後の流れが違ってくるだけで」
「おそらくそうでしょう。でなければ『干渉せず』っていう方針に逆らってまで紫さんは出てこないでしょうから」
 紫はこの幻想郷を創った妖怪として広く認識されており、また非常に強力な能力と頭脳を有していることから、影響力が及ばないようにと常に中立の立場をとってきた。干渉しなければ、影響も与えないという解釈である。
 だが今回、こうして姿を現したところを見ると、イレギュラーな案件だと割り切ったようだ。
「結構デリケートな問題ですからね、今回の事件」
「そうね。内輪揉めとか起きなきゃいいんだけど」
 妖怪と人間の共存は、一般的には徐々に垣根が低くなってきていると言われているが、やはり中には快く思わない者も少なからずいる。差別意識とでもいうのか、とにかく生理的に受け付けないのだろう。これは両者共に当てはまることである。
 今回の事件は、ルーミアが「人間を食べたかったから」という動機で殺人を犯したことになっている。人間側からみたら理不尽極まりないに違いない。
 もし仮にルーミアが許されたとしたら、人間だって「妖怪が怖かったから」という理由だけで妖怪を殺してしまおうとするだろう。極端なたとえかもしれないが、少し間違えばこれくらいのことは起きかねない事件なのだ(ただし、元の木阿弥に戻ってもらった方がいいと考えている連中もいるので、一概に悪いとは言えない)。
「心配したところで、私らには何も出来やしませんよ」
「それはそうだけど」
「ま、紫さんが出てきたんですから、あとは任せましょうよ。うちらより断然頭のいい方ですし」
「頭の良さなら、貴方だって負けていないんじゃないの?」
「とんでもない!」文はわざとらしく目を見開いて手を振った。「レベルが違いますよ」
「そうかしら」
「同列になろうとしたら、あと千年はかかりますって」
「そんな大袈裟な」
 自然と会話に笑いの花が咲き始めた頃、こぁがティーポッドを手にやってきた。
「盛り上がっていますね。お代わり、どうです?」
「是非是非。美味しいですね、ここの紅茶」
「咲夜さんが手入れされていますからね」
 こぁは嬉しそうに答え、文のカップに紅茶を注いだ。
「へえ。咲夜さんが」
「はい。特別仕様ですよ、うちの葉っぱは」
 自慢げに応対するこぁを見て、パチュリーは静かに鼻から息を吐いた。

          2

「となると、ミイラの謎は残ったままなのですか」
「そうよ」
 文が館を出て行ってから、こぁとパチュリーは地下図書館に移動した。紅魔館の住人は滅多なことがない限りここには立ち入らないため、人目を気にせず談話をするにはもってこいの場所である。
「でもルーミアさんが犯人だなんて……私、信じられません」
「それが普通の反応でしょうね」
 自分もそうだったし、とパチュリーは心の中で付け加えた。
「いくら人を食べたかったからって、こんなことしますかね?」
「場合によってはするんじゃないかしら」
「たとえば?」
「……そう、そこなのよね」
 衝動的に人食いをしたくなったとしても、人間以上に自分をコントロールできる妖怪が、果たして「食べたかったから」という理由だけで事を起こすだろうか。起こさないからこそ、禁止令が出てから今まで騒動がなかったのではないか。
 その考えの壁が、なかなか乗り越えられない。
「ひょっとして」こぁの蝙蝠翼がぴんと緊張した。「ルーミアさん、誰かを庇っているとか?」
「その可能性は無視出来ないと思うわ」
 こぁの口から文と同じ意見が出てくるとは思っていなかっただけに、少々面食らった。
「たぶんそうなんですよ。だから殺し方とか言えないんですよ」
「筋は通っているし、十分有り得そうよね」
 人間でも獣でもそうだが、弱者は群れる傾向にある。そしてその群れは仲間意識が非常に強く、お互いを庇護しあう習性を持っている。妖怪もなんら変わりがない。弱いからこそ仲間を集い、足りない部分を補い合っているのだ。
 ルーミアは弱小妖怪であり、チルノたちと普段からよくつるんでいる。こぁと文の推理は、十分に有り得そうな内容だった。
「その線でも考えてみる必要がありそうね」
「でも、私なんかよりもパチュリー様の方が良い案を考えられているんじゃないですか?」
「そうでもないわよ」
 いまだに貴方たちより優れた案を考え付けていないの――従者を相手に言えるはずのない言葉を呑み込み、パチュリーはテーブルの上で肘をついた。
 ルーミアが誰かを庇っているとして、紫はその真犯人をどう見つけ、どう処理しようとしているのだろうか。
「彼女が庇うとしたら、誰かしら」
「どうなんでしょう。やっぱり仲のいいチルノさんとか、リグルさん辺りなんじゃないですかね」
「チルノにリグルねぇ……」
 よく一緒にいる姿は見かけるが、果たしてあの二人に殺人が犯せるだろうか?
 特に氷精であるチルノには動機が微塵もないはずなのだ。精霊には生物を殺めるという行為を実行するだけの動機は持ち得ない、というのが通説であり、また歴史を振り返ってみても例がない。
 蟲妖怪であるリグルにならあるのだろうが、こちらは逆に人を怖がっている節があり(蟲だからという理由だけではあるが嫌われ方が半端ではなく、迫害まがいの仕打ちを受けたこともあるとか)、まさか襲うとは思えない。
「やっぱり想像できないですよねぇ」
「最近逢っていないけれど、見るからに平和そうな顔をしてるしね、二人とも」
「そうなると、後は誰がいたかな」
 こぁが額に人差し指を当て、唸りながら考える仕草を見せた。
 パチュリーも同様の格好で記憶をまさぐった。
 だが、特にこれといった心当たりも見つけられないまま、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。
「駄目ですね、全然浮かんできません」
「私もよ。というか」自然、溜め息が出た。「この際、誰を庇っているのかなんて、考えてもしょうがない気がする」
「ですねぇ。庇うにしても、仲がいいっていうだけじゃないかもしれませんし。何か他に理由があるんだったら、わたしたちじゃお手上げですよ。何かしら弱みを握られているとか」
「本人に直接あたってみるしかないか」
「それができれば一番いいんでしょうけど……」
 今となっては手遅れだ。容疑者となったルーミアは今、紫の元で監視されている。逢いに行ったとしても、玄関先で追い返されるのがおちだろう。
 それに、もし逢えたとしても、ルーミアが本当のことを話すわけがないと思った。今こぁが言ったように、弱みを握られているとすれば尚更だ。
「この事件、八方塞ばかりで全然前に進んで行かないわね。こんなことって今まであったかしら」
「どうでしょう。そもそも事件ってなかなか起きませんし」
「異変が起きても、大抵は霊夢が腕力に物を言わせて解決しているしね」
 そう考えると、こうして案を出し合っている現状が馬鹿らしくなってくるわけで。
「……気晴らしに散歩にでも出ようかしら」
 溜め息と一緒に、ゆるゆると頭を振った。
「今からですか」
「そうだけど?」
「あっ、いえ、深い意味はないんですけど」
 と言いつつ、もじもじと指を動かしているところを見ると、何か言いたいことがあるようだ。
「浅い意味ならあるのね」
「あ、浅くはないですけど」
「じゃあ何よ。時間は命も同然だっていつも言っているでしょう」
「うう、それはそうですけど」
 蝙蝠翼が萎れた。
「なに、また早く帰って来いとか?」
 昨日のことを思い出し、冗談混じりに言ってみた。
 するとビンゴだったらしく、こぁは俯いたまま頷いた。
「あのね」
 早く帰って来いと言われ、意識して早めに切り上げて帰宅したのだが、昨日は何事もなかったように一日を終えた。イベントがあるものだとばかり思っていたのだが、こぁはそんな素振りさえ見せなかった。
 それでも早く帰って来いと言うのはなぜなのか、皆目見当もつかない。
「どうしてかくらい、理由を聞かせて頂戴」
「そ、それは……」
「それは?」
「と、とにかく!」翼が元気を取り戻した。「理由は今晩言いますから!」
「はぁ?」
「お願いします、もう一回だけチャンスをください」
「チャンスって、」
「この通りですから!」
 胸元で両手を合わせて懇願してくるこぁに、これ以上の追及はやめようとパチュリーは思った。意固地になって聞き出したところで、後味の悪いことになるに決まっている。
「わかったわ。そこまで言うなら、早めに帰って来る」
「ありがとうございます!」
 今にも羽ばたき出しそうなほど喜ぶこぁを見て、少しばかり心が和んだ。

          3

 両翼に花園が広がるアプローチを抜け、門を前にしたところで足が止まった。斜向かい側に、珍客とも言うべき人物が立っている。
 どう見ても、昨日地霊殿にいた星熊勇儀だった。
「何してるのよ、こんなところで」
 声をかけてみたが、勇儀はふくよかな胸を押し潰す形で両腕を組み、仁王立ちし続けるだけだった。返事はおろか、微動だにしない。
 不思議に思って門を潜り抜けてみると、そこに納得のいく展開が待っていた。
「あ、パチュリー様! 侵入者です、侵入者ですよ!」
 中国拳法の使い手である紅美鈴が、謎の構えで勇儀を威嚇していた。片足を上げ、両手を頭上に振りかざし、今にも飛びかかろうとしている。
「侵入者ねぇ」
 溜め息を禁じ得なかった。
 本当に館に侵入する気なら、とうに攻撃してきているはずだ。だが勇儀は腕を組んだまま動かない。となると、相手には戦う意思がないということになる。
「危ないから下がっていてください」
 どうやら美鈴は本気らしく、職務をまっとうしようと鼻息を荒げている。
 仕方ない、とパチュリーは内心で呟き、二人の間に立った。
「な、何を」
 うろたえる美鈴に手をかざし、制止を促した。目は勇儀に据えたままにして。
「ようやくまともなのが来たな」
 勇儀がにやりと口元を歪めた。どうやら門番以外の人物を待っていたらしい。
「誰がご希望かしら。何ならレミィでも起こしに行くわよ」
「いや、貴方でいい。というか、貴方に用があったんだ」
「私?」
 何用だろうか。
「パチュリー様のお客様だったんですか?」
 後ろから美鈴の声。パチュリーは振り向いて、「そうみたい」と答えた。
「ちょっといいかな。と言っても、変な奴のせいで随分と時間を浪費しちゃって、あんまり話せないんだけど」
「変な奴だって?」
 許さん、と飛びかかろうとする美鈴を宥め、パチュリーは勇儀に提案をした。
「私も散歩に出ようと思っていたところだから、歩きながら話しましょう」
「それは助かる。何分、抜け出してきたもんだから」
 ぶちぶちと聞こえてくる美鈴の文句には聞こえぬフリをして、門をまたいだ。
 外は、もうすぐ春も終わりだと告げるような暑さだった。
 実はすでに腋下が湿ってきている。小一時間もすれば腋どころか、肌という肌に服の生地が張り付きそうだ。
 妖怪の山までの道中を話しながら歩こうと思っていたが、早くも挫けてしまいそうだった。
 なんとか気を紛らわせようと、勇儀に先んじて訊いた。
「それで、話しと言うのは?」
「それが……」彼女は言いにくそうに話し出した。「あまり良くない話でね」
「地霊殿が絡んで良かった事案なんて、これまでもなかったような気がするけれど」
「はは、これは手厳しい」
 がりがりと、跳ねっけのある後ろ髪を掻く。
「で、どんな内容? 早くしないと縦穴に着いちゃうわよ」
「それもそうだ」
 はああ、と勇儀は大きく息を吐いた。気合を入れているようだった。
「そんなに力まないと話せないようなことなの」
 冗談半分で言ったつもりだったのだが、勇儀の返事は真剣そのものだった。
「実はそうなんだ」
 ただならぬ気配を感じ、パチュリーは唾を飲み込んだ。勇儀の表情が「険しい」の一言に尽きるものとなっていたからだ。
「これから話す内容は、裏切り行為にも等しいものだから」
「裏切り?」
「そう、裏切り。と言っても、私はさとりの配下でもなければ地霊殿に住み着いているわけでもないから、正確には裏切りじゃないんだけど」
「なんだか聞くのが怖くなってくるような言い回しね」
「それでも聞いてもらわないと。ここまで来た意味がなくなっちゃう」
 パチュリーは歩きながらこくりと頷いた。
 勇儀が満足そうに頷き返す。
「それじゃあ話そう。内容は他でもない、アリスさんのことだ」
「アリス?」
 鬼らしく、核心から入ってきたな、とパチュリーは思った。
 ただならぬ気配を感じた時から、おそらくアリスに関する話を持ち出してくるだろうと睨んでいたが、やはりそうきたか。勇儀は渋面を作り、語った。
「さとりに言われるままに監禁の手伝いをしたが、あれは不本意なものだったんだ」
「まぁ、そんな言い訳めいたことを言わなくてもわかってるわよ。貴方は鬼だしね」
 鬼は命よりも誇りを大切にする種族だ。そして勇儀は骨の髄まで鬼である。自ら尊厳を捨てるような真似――この場合は監禁――をするなど、想像すら難しかった。おそらく、彼女を知る者なら皆が皆、一様にそう思うことだろう。
「彼女には本当に済まないことをしたと思っている。こちらに来る前に詫びを入れに行ったのだけれど、留守のようだったから」
「色々と忙しいでしょうしね。それでアリスがどうかしたの?」
「ああ、アリスさんというか」
 勇儀は歩きつつ腕を組んだ。どうやら腕を組むのが彼女の癖らしい。「今回の事件のことなのだけれど」
 どっ、と心臓が跳ねた。もしかしたら、今までで一番実りのある話を聞けるかもしれないという期待が、全身の穴という穴から熱となって噴き出してくる。
「それは――」震え出しそうになる声に力を持たせ、パチュリーは訊いた。「どんなこと?」
「昨日貴方はこう言ったよね。アリスを探すために、命蓮寺に寄ってナズーリンの居場所を聞いた、って。アリスはナズーリンを追って出かけたんだから、ここにいるはずだと」
「確かに言ったわ。細かくは覚えていないけど、大体そんな感じだったと思う」
「それだ」勇儀は人差し指を向けてきた。「ずばり、それが監禁の理由だったんだよ」
「は?」
「さとりには、ナズーリンを捕まえておく必要があったんだ」
「捕まえておくって、まさか」
 ナズーリンが命蓮寺に帰ってこないのは、まさか。
「そのまさかなんだ。さとりはナズーリンを閉じ込めてる」
「で、でも、地霊殿には誰も――」
「灼熱地獄跡だよ」勇儀は遮るように言った。「そこにある小屋に閉じ込めているんだ。見張りはお空がやってる」
「お空……」
 お空の名前を出した時、さとりが逡巡する仕草を見せたのはそのせいだったのか。
 彼女が口にした「仕事が大変ではないかと案じただけ」という台詞は、そのままナズーリンの監禁を指していたのだ。
 よくも白々しく答えられたものだ、とパチュリーは奥歯を噛んだ。人をコケにするだなんて――悔しさがじくりと胸に染みた。
「お空は馬鹿正直だから、さとりが困っていると言えば喜んで力になろうとしたはずだ。多分だけど、間欠泉地下センターの仕事も放って帰って来たんだろうさ」
「……なるほど。でも、どうしてナズーリンを閉じ込めておく必要があるわけ? 今回の事件と何か関係が?」
「大有りなんだよ、それが。事件のせいでさとりはナズーリンを束縛しなければならなくなったんだから」
 話の先が見えず首を傾げると、勇儀が足を止めた。パチュリーも一足遅れで止まった。
「燐だ」
「リン?」一瞬何を言われたのかわからなかったが、記憶の回路はすぐに繋がった。「ああ、火焔猫燐のことね」
 火焔猫燐は周りから「お燐」と呼ばれている。姿は二又の尻尾を持った黒猫に近く、人の姿でも猫耳と尻尾が生えているが、妖怪としての正体は火車である。
 伝承に曰く、年老いた猫が猫又となり、それが火車となる。火車は死者の亡骸を奪い、地獄へ連れ込んで責め苦を与えるという。燐のポジションも同じようなものだ。
 地霊殿に住む彼女は現在、灼熱地獄跡で怨霊の管理をしている。
「あの暢気な猫又が事件に関係しているようには思えないけれど」
「勿論そうだろう。しかしさとりは、そうは考えていない」
「どうして? もしかしてお燐を疑っているの?」
「違うよ。逆だ。匿うためにナズーリンを呼び出したのさ」
 勇儀が再び歩き出したので、パチュリーも続いた。
「ナズーリンの能力は説明しなくてもわかるだろう。さとりは彼女の能力が危険だと判断して捕縛しようと決意したんだ」
「危険って。ただダウジングするだけじゃない」
「だからそれが危険だと言っている。慎重に隠匿したとしても、ナズーリンの能力の前では無意味だからね」
 なるほど、とパチュリーは納得した。
 ダウジングといえば失せ物探しという固定概念があったせいで気が回らなかったが、勇儀の言う通りだ。人探しもお手の物だろう。
「それで」核心に突っ込んでみる。「隠す理由は?」
「外部者に犯人扱いされるおそれがあったからだよ」
「犯人扱いって」
 それこそわからない話だ。地霊殿に棲む妖怪が、人を襲うためだけに夜中上がってくるだろうか。人間に害をなすだけの理由があるだろうか。
 勇儀はまた腕を組んだ。
「よく思い出してくれ。最初に起きた事件の被害者の死に方を」
「死に方……」
 第一の事件、その被害者である金本理沙の死に方は――。
「ミイラ、だったわね」
「そう、それ。ミイラって奴。そのことを聞いたさとりは、燐のところへ素っ飛んで行ったんだよ。で、貴方が犯人なのですか、と詰め寄ったんだ」
「それで?」
 つい急かすような口調になった。
「勿論燐なわけがない。あたいは知らないよ、と酷く困惑していたらしい。私は直接そのやり取りを見ていないから、さとりの話を聞いたままに話しているだけだけど」
「ふうん。でも、どうしてさとりはお燐が犯人だと思ったのかしら。身内も同然なのに」
「ミイラと聞いてもぴんとこないか」
 ふっと吐く息に蔑みが感じられ、カチンときたが、ぐっと堪えて出方を待った。
「燐が犯人だと思われた理由は」
 勇儀は腕組を解き、首に掌を押し当てて、
「猫又だからさ」
「――はい?」
 どうして猫又だと犯人扱いされるのか。
 目で疑問を訴えると、勇儀は首の骨をごきりと鳴らした。
「妖怪の猫っていうのは、精気を吸うことで有名なんだ」
「え、」
 初めて知る事実に、肌が粟立った。
 猫が精気を吸う? 死体を食うのではなく?
「知らなかったみたいだね。妖怪の猫には〈化け猫〉っていうのがいて、精気を吸うのはこいつが有名なんだけど」
 東洋の妖怪話に興味が湧いてこないからと、今まで探ろうともしなかった愚に、パチュリーは深く悔恨した。
 事件後すぐに部屋にこもってあれこれ調べていた時、少しでも東洋の妖怪について触れておけば、推理にも幅を持たせられたのではないかと省みると、やりきれない思いで一杯になる。
「これで満足してもらえたかな。さとりは燐に疑いの目をかけられるであろうことを予測して、隠すことにした。でもそうなるとナズーリンの存在が邪魔になる。だから監禁したのさ。アリスさんはナズーリンが地霊殿にいることを知って、しかも実際に地霊殿に来てしまったものだから監禁されたってこと」
 でもまぁ、と勇儀は苦笑いを浮かべた。「その役を任されたのは私なんだけどさ」
「さとりの配下でもないのに、よくそんなこと引き受けたわね」
 嫌味たっぷりに言うと、
「状況的にどうしようもなかったんだよ。さとりはああ見えてかなり心が脆いんだ」
「つまりそのか弱い心を守るために、貴方はアリスを監禁したってわけね」
「私がやらなきゃ、代わりにヤマメたちにやらせるって言うものだから、ね。だからこうして詫びを入れに来たんだけど」
 勇儀の足が止まる。パチュリーもそれに倣って足を止めた。
 いつの間にか、妖怪の山の麓まで辿りついていた。ぽっかりと地面に開いた黒い穴の先に、勇儀の住処がある。
「タイムオーバーってところだね」
「そうね、裏切り者さん」
 皮肉を言わねば気がすまない口がそう動くと、勇儀は肩をすくめた。
「相変わらずの毒舌、どうも」

          4

 勇儀と別れてからすぐ、パチュリーは香霖堂に向かった。店主の霖之助に用があったのだ。
「おや、パチュリーか」
 カウンター越しに座っている霖之助は、目が合うなりメガネのブリッジを人差し指で押し上げた。「まだ新しいモノは入荷していないが」
「今日は買い物に来たんじゃないの」
「ほう。これは珍しい。実利主義の君が、まさかお喋りしたさにここへやって来たとでも?」
 信じられないというように目を丸くさせる霖之助。いつになくわざとらしく見える。
「そうよ、そのまさかよ。貴方に訊きたいことがあるの」
 実はこぁを置いて紅魔館を出たのは、霊夢のことで凹んだから、というわけではなかった。微弱ではあるが、そのことで凹んだことは事実だ。が、外に出てきたのは、昨日アリスの家で見たモノを解明するためだった。
 上海人形に付いていた謎の紅い染みと白い粉について。こぁには教えてもいないことである。道具と人形には通ずるものがあるのではないかと考え、ここに来たのだ。
「人形で紅い染みと言えば?」
「紅い染み?」
 彼は鸚鵡返しをした。
「そう、紅い染み。深みのある紅色で、人形の服に付いているのだけれど」
「さぁな。そういう模様なのか、そうじゃなきゃ汚れじゃないのか?」
 模様というのは新しい発想だったが、ただの汚れだと考えるのは妥当だと思われた。だから熟考まではしていなかったのだが、気にし出すと止まらなくなる性格なのだから仕方がない。
「模様……とは違うと思う。一点だけで、しかも不自然だし。それに、汚れにしては妙なのよ。その染みは滲んでいたわけではなくて、擦ったような感じになっていて」
「模様論は却下か。ん、擦る? ますますわからんね。そう言うのは染みとは言わないんじゃないか?」
「そうね、染みじゃないのかもしれない。だけど他に適当な表現が見つからなくて」
「ふうん。しかし擦ったような感じと言われても、染み以上に想像しにくいんだが」
 彼は顎をさすった。
「どう言えばいいのかしら……」
 昨日見た場面をよく思い出そうと、こめかみを軽く押してみる。頭部に刺激を与えると脳の働きがよくなるという持論を、パチュリーは昔から持っていた。
「幅としては、小指の先端から第一関節くらいの長さだったかしら」
「またたとえが凄いな。大体二、三センチくらいか」
「そうね。で、染みは点じゃなくて少し弧を描くような感じだったのよ」
 こんな感じで、と空に描く。
「擦ったのなら、そうなるかもしれないね」
「後の特徴と言えば、さっき言った色くらいなのだけれど」
 一生懸命に記憶をまさぐってみたが、やはり思い出せるのはそれくらいだった。
「たったそれだけで謎解きしろと言われてもね。現物はないのかい」
「アリスの家にはあるけれど。……そうね、借りてこればよかった」
 当時はそこまで頭が回らなかったが、せめて人形の服だけでも借りておけば、ここまで深く悩まなくても済んだに違いなかった。
「なんだ。何の人形かと思えば、アリスのか。だったら今から行って借りてこればいいじゃないか。しかし話を聞く限り、染みがついていたからって、だからどうしたと言うのが関の山だと思うが」
「そう思うのも当然かもしれないけれど、私の質問に、彼女、気になる返事を寄越してきたのよ」
「ほう。それはどんな?」
「『この人形、最近使った?』という質問に、『最近はずっとそこにいたはずだけれど』って。ソファーの上に人形を置いていたのだけれど」
「なるほどね。気にならないようなレベルな気がするが、君にそう言われると気になるかもしれない」
 霖之助は髪に指を突っ込んだ。
「気にならないかしら」
「現品を見てないからな。しかし女の直感とやらは、理屈抜きで当たる確率高いからなぁ」
「なんだか小馬鹿にされてるような感じがするけど。まぁそれはいいとして。で、だから気になっちゃってね。変な事件が相次いだせいかもしれないけど」
「そうだね。単なる気にしすぎと断言してしまっても、僕的には何の差し支えもなさそうだ。今の話しだけで判断するなら」
「そうなるわよね、やっぱり」
 人形の服が汚れていたからといって、それは何かの拍子に汚れてしまっただけなのかもしれない。例えば、食事の時に何かしらが飛んだ、とか。
「でもね、紅い染みだけなら私もここまで気にかけないわよ」
「と言うと?」
 まだ何かあるのかと言いたげな顔だ。
「染み以外にね、白い粉末も付着していたのよ。こちらは薄らとだけど」
「紅い染みに白い粉末ね……」
 彼は虚空を睨んだ。思案に耽り始めたようだったので、口を閉ざすことにした。
 それから間もなく、霖之助は陰鬱そうに顔を歪めて声を発した。
「ちょっとこれはよくない想像だな」
「よくない? どういうことよ」
「そのままの意味だ。僕の想像……もとい、妄想が正しければ、ちょっとまずい事態かもしれない」
 深刻そうに言う彼に、パチュリーはたまらず訊いた。
「一体何がまずいのよ。白い粉末に何か心当たりがあるの?」
「心当たりと言うよりも推察だよ。もちろん、無理やり事件と結びつけるのなら、という意味だ」
「だからどんな」
 つい荒くなった語気を、霖之助が静かに受けて流した。
「その紅色の染みと白色の粉末は、僕なんかよりも君の方が詳しいはずだ。香りとかはなかったかい?」
「えっ――。 ど、どういうこと? 香りなんてなかったと思うけれど」
「そうか。なら時間が経って匂いが消えてしまったんだろう。その汚れの正体は多分」
 彼の喉仏が一度、上下する。唾を飲み込んだようだ。
 そして次に放ってきた言葉は、パチュリーの弱った思考回路を粉砕するのに、十分すぎるものだった。
「口紅と白粉――つまり化粧品だよ」

          5

 香霖堂を出ると、空がちょうど茜色に染まり出したところだった。
 夏が近くなり、日の入りの時間も春に比べて長くなってきているとはいえ、歩きで帰れば紅魔館に着く頃には夜の帳が降りきっていることだろう。色々と思案しながら帰りたかったが、こぁとの約束を守るには飛んで帰るしかなさそうだった。
「ん」
 短く吐息を吐くと、パチュリーはゆらりと身体を地面から浮かせた。上昇していくにつれ、風が強くなっていく。少し鳥肌が立った。
 紅魔館には、それから五分とかからず到着した。
 仄かな灯りがぽつぽつと見える。咲夜が館内の灯りをつけ始めたのだろう。
 パチュリーは正門の前で降り立った。中庭に降りてすぐ館内に入っていってもよかったのだが、孤独と戦っているはずの美鈴に挨拶くらいはしていこうと思ったのだ。
「帰ったわ」
「ああ、これはどうも」
 美鈴は塀にもたれ、腕を組んでいた。降りてきたことに気がつかなかったところを見ると、どうやら寝ていたようだ。夕方は比較的涼しいため、眠気に襲われやすいのかもしれない。
「何か収穫ありました?」
「まあ、それなりに」
 平静を装って返事をした。それなりどころのレベルではない収穫があったことは、頭の中が整理できるまで誰にも伏せておきたかった。
「そっちこそ。侵入者はいなかった?」
 どぎまぎしないようにと気を付けながら問うと、美鈴は白い歯を覗かせた。
「異常なしでありますよ」
「それはよかったわ。最近物騒だから気を抜かずにね」
「もちろんですよ」
 任せて下さいと、自信たっぷりに言う門番であった。

「あ、パチュリー様」
 リビングに行くと、なぜかこぁにぎょっとした顔を向けられた。
「なに変な顔してるのよ」
「えっと、あの」わたわたと言葉を返してくる。「はっ、早かったですね、今日は」
「誰かさんに早く帰って来いと言われたからね」
「あ、そうでした」苦笑いをするこぁが、指先で頬を掻く。
 どうしてこうも態度がよそよそしいのか、全く心当たりがなかった。また何かやらかしたのかと思ったが、それならもっと慌てふためいているはずだ。
 気にはなったが、どうせまた咲夜にきつく叱られたのだろうと勘を働かせ、余計なことは言わず部屋に戻ることだけを告げた。
「では後ほど窺います」
「コーヒーを頼むわ。砂糖は一個で」
「了解です」
 こぁは嬉しそうに笑みを浮かべた。その表情に、緊張の色は見られなかった。もしかしたら御門違いな想像を膨らませていたのかもしれない。

 コーヒーが来るまでの間、という制約を己に課して、物思いに耽ることにした。材料はもちろん、霖之助が解いた染みの真相についてだ。着席すると、早速机の上で両肘をつき、掌に顎を乗せて脳を動かし始める。
 彼は人形に付着した汚れを、口紅と白粉ではないかと推察した。事件にこじつけるなら、と前置きをして。
 正直、この説にはかなり戸惑いを感じる。もし彼の言い分が正しいとすれば、金本理沙を殺した犯人はアリスである可能性が非常に高いということになるからだ。
 だがアリスに動機はない。では彼女は犯人になり得ないだろうか?
 ここで持ち上がってくるのがゴーレムだ。彼女自身に殺意や動機がなくとも、ゴーレムにはあるのかもしれない。もしかしたらアリスが言っていた通り、イェツィラの書から生み出されたゴーレムには人を襲う習性があって、金本理沙を殺めた後、そのまま逃走したのかも。
 しかしゴーレム犯人説には無理があるような気がする。
 アリスを昏倒させて人形を持ち出した、と仮定しても、人形師としてのスキルがなければ人形を使っての殺人は不可能だ。姿形が似通っているからといって、長い年月をかけなければ身に着かないようなスキルをすぐに行使できるとは思えない。
 それにゴーレムが人形を使ったのなら、アリスの家に残っていること自体おかしい。
 主人を殴り倒した足で犯行に及んだのなら、家には戻っていないはずだ。戻ったとしても、人形を置いていくとは考えにくい。人形師のスキルがあるのなら、強力な武器にもなる上海人形を手放すはずがない。
 そもそも、死体はミイラだった。死因はわからないままだが、外傷はなかったという。まさかアリスの作った上海人形に精気を吸う能力があるとは思えない。むろんゴーレムにも。
 やはりこれは違う――。
 そうなると、霖之助の推察は間違っているということになる。もしくはアリスが化粧を使った際に、誤って付けてしまったものか。紅い染みは擦ったような跡があったが、あれにしても付着したことに気が付かないまま人形をいじり、擦れたのかもしれない。こう考える方が、遙かに現実的だ。
 ゴーレムは犯人ではない。そしてアリスも犯人ではない。はずだ。というより、もう何度もアリスを疑っては否定しての繰り返しで、正直疲れてきた。友人を疑うことがどれだけ精神的にきついのか、今回の一件でよくわかった。
 そうだ、これでいい。自分は考えすぎで、アリスは犯人ではない。ゴーレムは臆病で、主人の手から逃れた今も、こそこそと逃げ回っている。金本理沙を殺めた犯人も、岸崎玲奈を殺めた犯人もきっと別人だ。
「やめやめ」
 疑念を頭から振り払おうと、パチュリーは頭を左右に振った。
 ちょうどそのタイミングでノックの音が飛び込んできた。
「どうぞ」
ドアに声を投げると、すぐに取っ手が降りる音がした。
「失礼します」
 入ってきたのはこぁだった。手に銀の丸いトレイを持っている。
「コーヒーをお持ちしました」
「ああ、そこに置いて頂戴」
 顎でテーブルを示しながら、そちらに移動する。椅子に座ると、こぁが目の前にカップ一式を置いた。
「砂糖は一つでよかったんですよね」
「ええ、一個でいいわ」
 真っ白な陶器のカップからは仄かに湯気が立ち上っており、コーヒー特有の香りが漂っている。その香りを嗅ぐと、心が落ち着いてくるようだった。
「夕飯までもう少し――そうですね、あと一時間くらいはかかると思います」
「了解」
 ソーサーごと引き寄せると、カップに人差し指を当て、熱を測った。どうやら淹れたてらしく、かなり熱い。少し冷まさなければ飲めなさそうだった。
 こぁはトレイを持ち直し、出て行こうとしている。どうせ冷ます間は暇なのだからと、パチュリーは軽い世間話でもしようかと考えた。
 と、あることを思い出し、それを題材にすることにした。
「ねえこぁ。この前くれたアレなんだけど」
 机の上の隅に置いた、例のクエスチョンマークを指差しながら言うと、こぁは後ろ髪を掻いて苦笑を浮かべた。
「はい」
「アレって何なの? 結構考えたのだけれど、全然わからなかったから」
「…………」
 苦笑が絶句に変わった。信じられない、という眼差しを向けてくる。
「ひ、ヒントくらい欲しいかなって」
 どうして自分がたじろがなければならないのだろう。そう思いつつも、こぁの迫力に負けて、言い訳めいた言葉が出てくる。
「ほら、変わった形しているし」
「見てわかりません?」呆れたとばかりに溜め息をつかれた。「そんな特殊なモノでもないのですが」
 この奇怪な形が特殊でないと言われても、まるで納得できなかった。今まで見てきたどんな装飾品よりも謎めいて見えるというのに。
 とは言え、こちらはプレゼントを受け取った側だ。ケチをつけるわけにもいかず、下手に出るしかない。
「ごめんなさい。全然わからないわ」
「……そうですか」
 こぁは顔を背けた。落胆しているのが傍目からでもわかる。パチュリーは、せめて場の空気だけでもよくしようと意識的に明るい声を出した。
「ヒントを貰えればすぐにわかると思うのだけれど」
 その呼びかけに、こぁは一拍の間を置いて答えた。
「パチュリー様がよく使っていらっしゃるモノですよ」
「私が?」
「はい。それも頻繁に使うモノです」
「頻繁に……」
 使う、という表現から、飾りでないことはわかったが、逆に道具にはあまり頼っていないはずでもあり、益々疑問が深くなってしまった。
「それでは、私は食事の準備がありますので」
 微苦笑を浮かべたこぁが、お辞儀一つ残して部屋から去っていった。

 ベッドの上で横になりながら、こぁからプレゼントされたクエスチョンマークを、もう何十分――下手したら一時間はいっているかも――眺めているだろう。
 何の木材を使用しているのかは不明だが、手触りの良さから、そこいらの雑木林で取れるようなものではなさそうだった。他に特色はなく、形状が不可思議なだけで髪飾りにしか見えない。だがパチュリーは髪飾りなど使わない。いつも帽子をかぶっているから、使う機会がないのである。そんなものをこぁが寄越してくるとは思えない。
 他に考え付くことといえば、月の装飾だ。お気に入りのもので、もう何十年と帽子に付けている。その代わりにどうぞ、ということなのだろうか。
 しかしこぁはこのクエスチョンマークを「使う」と表現した。「身に着ける」ではない。
 道具としてコレが機能する。そう考えてみても、一向に用途が見えてこない。形が変なだけで、機能としては大したことがないのか?
 思案に明け暮れていると、またしてもノックの音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します」
 現れたのは、食事の準備にかかったはずのこぁだった。しかもどういうわけか、ドレスのようなモノを着ている。白くて薄い生地の、レースがついたものだ。手にも服らしき何かを持っている。
 見覚えのあるドレスだなとぼんやり思っていると、こぁが口を開いた。
「お休み中でした?」
「そうでもないけれど」
 パチュリーはそう答え、クエスチョンマークを枕元に置くと、ベッドから降りた。
「どうしたの? もう夕食ができたのかしら」
「ですね。なので呼びに来ました」
「そう。なら行きましょうか」
 言いながら一歩を踏み出すと、「ちょっと待って下さい」と止められた。
 何事かと顔を上げると、満面の笑みを浮かべたこぁが、手に持っているモノを手渡してきた。
「これ着てください」
「え?」
「理由は後から話しますから」
 さぁさぁと押し付けてくる。パチュリーは、こぁのこういう押し付けに滅法弱い。甘えてくる子供を相手にするようで、邪険にできないのだ。
 パチュリーは押されるように着替えた。
 それから、こぁに先導されるままについていくと、リビングからどんどん遠ざかっていった。しかも二階へ上がっていく。食事をしようとしていたはずだが、一体どこへ向かっているのか。
 大人しくついていけばいいか、と黙って足を動かしていると、ある場所でこぁが足を止めた。
「ここです」
「ここですって……バルコニーじゃない」
 着いたのは、二階の中央バルコニーだった。
 紅魔館にはバルコニーが六つある。二階に三つ、三階に三つだ。建物の外から見れば一目瞭然だが、内側からでは少々わかりにくく作られている。バルコニーは普段、洗濯物を干したり、レミリアの酒処として使ったりしている。たまにここで紅茶を淹れて黄昏ることもあるが、夕食をとった記憶はない。
 だがバルコニーを見ると、その夕食がテーブルの一面に用意されていた。
「ささ、座ってください」と言って、こぁが椅子を引く。
 パチュリーは戸惑いながらも、勧められるがままに腰を下ろした。こぁもそそくさとテーブルの反対側へと回り、向かい合う形になる。
 改めてテーブルを見渡すと、様々な料理が所狭しと並べられていた。二人では到底食べきれないほどの量だ。こんなにも豪勢な夕食を用意してどうするつもりなのだろう?
 パチュリーは疑問をそのまま口にした。
「どういう風の吹き回し? 何かあったの?」
 するとこぁは頬を膨らませ、
「もう。まだ思い出せないんですか」とむくれた。
「思い出せと言われても……」
 祝い事でもあったかと記憶から引っ張り出そうとしたが、これといって引っかかるものはなかった。
 お互い誕生日はまだ先であるし、怠惰な生活を送ってばかりの日々では、何か新しいことに挑戦するということも少ない。魔法は別にして。
「全然思い出せないのだけれど」
「酷いですね」
 あからさまに傷ついた顔をされた。アリスの言っていた「主従逆転の未来」は、もうすぐそこまでやってきているのかもしれない。
「六月二十一日です」こぁは胸を反らした。「これでも思い出せませんか?」
「六月二十一日?」
 二十一日といえば昨日ではないか。
 昨日と言えば、早く帰ってきてくれと最初に言われた日だ。それと何か関係があるのか?
 必死に考えてみたが、答えには至らなかった。
「降参するわ」両手を挙げた。「何の日だったかしら」
「……本当に酷いですね」
 こぁは呟き、席を立った。
 何事かと顎を上げると、「この服」と続ける。
「この服を見ても思い出せないんですか」
 自分の胸に右手を当て、左手でドレスの縁を摘む。レースのドレスは純白のはずだが、夕陽の光を反射して橙色に染まっていた。
「パチュリー様がくれたドレスですよ?」
「私が……?」
 その瞬間、あっと小さく叫んでいた。
 ――そうか、六月二十一日って。
 もう百年も前のことで、すっかり忘れてしまっていた。
「――ようやく思い出せたわ」パチュリーは瞼を閉じて言った。「契約を結んだ日ね」
「やっと思い出してくれましたか」
 心底嬉しそうに、こぁが弾んだ声を出す。
 そうか、あれからもう百年か。
 こぁと主従の関係を結んだのは、今からちょうど百年前のこと、出会いは一冊の本だった。
 こぁは本の中に封じられていた。魔道書には稀に何かを封印しているものがあるが、こぁもその手の魔道書に封じられていた。記憶が正しければ、悪魔の翼を剥がして装丁に使ったという曰くつきのものだったはずだ。
 読み解いていくと、途中、何箇所かに魔法陣が描かれており、そこに魔力を通していくと封印が解ける、という仕組みになっていることが判明した。それらを解錠した果てに、さてどんな悪魔が出てくるのかと、パチュリーは面白半分で解いてみることにした。どうせ人間が作ったまがい物だろうとも思っていただけに、ちゃんと封印が解けたときは少しばかり驚いたものだ。
 中から出てきたのは、紅色に染まった裸体を曝した女悪魔だった。
 とは言っても、別に全身が紅に染まっていたわけではない。地面にまで届きそうな紅色の長髪が、身体にとぐろを巻くような形で巻きついていたのだ。
 パチュリーが思い描いていた悪魔のイメージは、厳つい顔をした、もしくはヒトとは程遠い、何かしらの獣の顔を持った姿だったのだが、本から出てきたのは、いかにも華奢といった感じの女だった。それが二重に驚かされる要因となった。
 しかし珍事には慣れっこだ。驚きはすぐに引っ込み、代わりに冷静さが表に出てきて口を動かした。
「貴方は誰?」
 冷酷非道、ひいては強力無比である者が圧倒的に多いと聞く悪魔に対して、機械的に質す。
「名前は?」
 魔道書には名前が書かれておらず、だからこそ第一声は質問で始めたのだが、召喚された紅の女悪魔は茫然自失としており、呼びかけても反応が見られなかった。
「ちょっと、貴方」
 心配になって肩に手を置くと、女はびくりと身体を震わせ、勢いよく飛び退いた。気のたった猫を彷彿とさせる俊敏さだった。
「び、びっくりした……」
 彼女の声は、丸みを帯びていて悪魔らしくなかった。パチュリーはまずそのことに違和感を持ち、次いで肩に触れただけで飛び退くほど精神が軟弱な悪魔に違和感を持った。悪魔と呼ばれるくらいなのだから、常人より肉体的にも精神的にも強靱だという先入観があったのだ。
 見れば見るほど悪魔らしくない女は、眉をハの字にして言った。
「あなたは誰ですか? ここはどこです?」
 この後、パチュリーはまず自室に戻り、クローゼットから適当に服を見繕って渡した。着終えるのを見届けてから、女に状況を細かく訊いた。そして、どうやら何百年も前に封印されたのではないか、と推論に達すると、女は行き場がないと泣き出した。またしても悪魔らしからぬ行為に、パチュリーはいよいよ不審を確信に変えた。この女は悪魔ではない、と。
 とはいえ、彼女をこのまま放っておくわけにもいかなかった。
 封印を解いたのはパチュリーだ。女悪魔からしてみれば、時間旅行をしてきたに等しい状況である。親しい者もいなければ、時代も国もすっかり変わってしまっていて、解放して自由にさせてやったところで途方に暮れるしかないのは目に見えている。
 再封印を施すか、使い魔にするか。もしくは――。
 女悪魔に意見を訊くと、下僕でも何でもいいから一緒にいさせて欲しいとすがりついてきた。もう封印されるのはイヤ、こんな思いをするのはイヤだと、わんわん泣いて。
 パチュリーの腹は決まった。
「私の従僕として使い魔となるなら、魔法で契約を結びましょう。おいそれと破れない契約だからよく考えて。それでも一緒にいたいというのなら歓迎するわ」
 女悪魔は快諾した。が、彼女は名前を失っていたのですぐには魔法契約を結べず、後日改めて契約する運びとなった。
 しかしこの日この瞬間から、二人は実質の主従関係となった。家族の仲にもなった。それが百年前の六月二十一日のことだったのだ。

「本当は、プレゼントを渡したときに気がついて欲しかったんですけど」
「悪かったわ。でもよく覚えていたわね、細かい日にちまで」
「そりゃあそうですよ。私にとっては運命の出会いだったんですから」
 こぁは椅子に座りなおすと、唇を尖らせてワインボトルに手を伸ばし、それを掴んだ。そのままパチュリーの目の前に置いてあるグラスに中身を注いでいく。色合いからして、どうやら赤ワインのようだった。
「パチュリー様にしてみれば、単なる厄介事の一つだったんでしょうけど」
「そんなこともないけれど。そりゃあ日にちは覚えていないなかったけれど、内容くらいちゃんと覚えているわよ、当時のことは」
「本当ですかね」
 小動物のようにクスッと小さく笑い、こぁは自分のワイングラスにもワインを満たしていった。それを見届けた後、パチュリーはグラスを持ち上げた。
「本当よ」赤い液体がたゆたうグラスを突き出す。「なんなら、魔道書の魔法陣、今すぐにでも展開してあげましょうか?」
「さらっと怖いこと言いますね」こぁもグラスを持った。「封印するつもりですか」
「やろうと思えばやれるわよ? 何せ全部思い出したから」
 グラスの縁を軽く当てると、チン、と脆い音が鳴った。
「とりあえず、乾杯ね」
「乾杯って、言ってからグラスを当てるものだと思います」
 こうして一日遅れの、二人の記念日祝いが始まった。
 パチュリー自身、あまり酒は飲まないほうだが、別に飲めないわけではない。こぁにしてもそうだ。二人とも普段飲まないだけで、飲もうと思えば飲める体質だった。
「このワイン美味しいわね。さすが咲夜」
 半分目が降りているのを自覚しながらも、パチュリーはワインを喉に流した。
 紅魔館で消費される酒の、実に九割以上が咲夜の手製である。彼女は時間を操る能力を持っており、それを存分に活かして作っているというわけだ。ヴィンテージワインも顔負けの深みと味が伴っているだけに、美味しくないわけがないのである。
「そりゃあ咲夜さんですもん。不味いはずがないですよ」
 受け応えするこぁも、目が開ききっていなかった。美味しいからとボトルを五本も空にすれば、酔いが回るのも無理はない。
「レミリアも飲んでばっかだけど、わかる気がするわ」
「ですね、甘くて美味しいですもん」
 テーブルの上には、まだ手も付けていない料理がいくつかあったが、二人はもうそれどころではなくなっていた。なんとか寝ないようにと、水代わりにワインを口へ運んでいく。ぐいっと一気にあおると、なんとか意識を繋ぎ止められた。
「そんなことより」覗き込むようにこぁを見る。「アレはなんなのよ、アレは」
「アレとは?」
「アレはアレに決まってるじゃない。そう、アレよ。あのへんてこな形の木」
「へんてこな形の木ィ? へんてこなのはパチュリー様の顔じゃないですかー」
 酔いが回りきらなければ出てこないような台詞が、こぁの咽喉からするりと吐き出される。だがパチュリーはそれを咎めようとはしなかった。というより、そんな気にもならなかった。自身もフワフワとした感覚下にあり、耳から入ってくる情報は全て、反対側に抜けていってしまっているような状況だった。
「私の顔は正常よ。そうじゃなくて、あのハテナマークっぽいやつよ。答えを教えて頂戴」
「あーあれですかー」
 グラスのステムを指で回し、だらしのない顔でこぁは答えた。
「そんなの、栞に決まってるじゃないですか。ブックマーカーってやつですよ」
「ブックマーカー……」
 動きの鈍い脳を必死に動かし、使い方を想像してみる。
「?」の頂点部、フックのところを本の背に引っ掛ける。なだらかに弧を描いている部分をページの間に挟む。
 ――ああ、なるほど。
「言われてみれば、そんな感じがするわね」
「言われなくたって、見ればわかるじゃないですか。本当、パチュリー様って頭固いんだから」
 けらけらと無邪気に笑うこぁ。自分がどれだけ大胆な言動に出ているのか、記録にでもとっておけば後から面白いかもしれない。
「これがブックマーカーだなんて。さすがにわからなかったわ」
「もっと頭柔らかくしましょう」
「柔らかさの問題じゃないと思うけれど」
 あのクエスチョンマークを見て、すぐに木製の栞だと答えられる人はほとんどいないのではないだろうか。
「ちゃんと使ってくださいねー。頑張って作ったんですから」
「まさかとは思ったけれど」パチュリーは頬杖をついた。「お手製だったの」
「そりゃあお手製ですよー。せっかくの契約百周年なんですから」
「それなら私も何か用意しなくちゃね」
「もう遅いですよ、パチュリー様ったら。私が催促してるみたいじゃないですかー。それにこのパーティーですら一日遅れなんですから」
「ああ、そういえば昨日は延期にしたみたいね。どうしてなのかしら」
「それはですね」こぁは指を組み、その上に顎を乗せた。「お砂糖が手に入らなかったからです」
「砂糖? なんで」
 そんなもの、市場に行けば手に入るでしょうに――そう続けたパチュリーに、こぁが溜め息をつく。
「よくわかんないんですけど、近いうちに手に入りにくくなるかもしれないからって。次の日に、なら物々交換しませんかって持ちかけたら、案外あっさり応じてくれましたけどねー」
 不思議な話だな、とパチュリーは小首を傾げた。幻想郷に住みだしてから今まで、そんな話題は上がったことがない。
「ケーキに砂糖は欠かせませんから」
「そうね」
 こぁはあまり気にしていないようだが、どこか違和感のある話だと思った。近々砂糖が供給不足に陥る事件でも起こるというのか。
「詳しい話は聞いていないの?」
「聞いてはみたんですが、詳しくはわからないと言われたので」
「そう」
 それならば単なる噂話かもしれない。
「それよりも」こぁはグラスを持ち上げた。「もっと飲みましょうよ。今日は朝までいきますよ!」
「そんなテンション上げてどうするのよ」
 そういうパチュリーは、今の会話で酔いが少し醒めてしまっていた。
「飲みすぎると明日に響くわよ」
「大丈夫ですよ。明日は咲夜さんにお休みもらってますから」
「そういう問題じゃないのだけれど」
 二日酔いの方を心配したのだが、当の本人は気にせずグラスを空にする。仕方なく、パチュリーも飲酒を再開することにした。祝われる側が盛り下がっていては失礼な気がした。
「あー、美味しい。こんなに美味しいワインが飲めて、わたし、幸せですぅ」
 こぁは甘い声を出した。
「本当よね」お世辞でもなんでもなく、純粋な気持ちが出た。「もしかしたら本物よりも美味しいかも」
「ホンモノ?」
「本物のヴィンテージワインってことよ。能力で作ったワインじゃなく、ゆっくり時間をかけて熟成させた年代もののワインのこと」
「ホンモノとかニセモノとか、そんなの関係ありませんよ。美味しいか美味しくないかだけです」
「それもそうね」
 暢気に相槌を打った瞬間、頭からすっと血の気が抜けていった。酔いで鈍くなっていた脳も、秒を待たずして明瞭になっていく。
「どうしたんですか?」のんびりとした口調で問うてくる。
 しかしパチュリーは、酔っているこぁと呑気に話している場合ではなくなった。ある一つのことに対し全神経を動員し、思考に没頭しなければならなくなったのだ。
 それは、ぬめり気のある魚を、素手で捕まえているような難解さを伴った熟考だったが――やがて考えがまとまると、ふぅーっと長い息を吐いた。張っていた肩が解れ、落ちる。
 グラスを掴んだままのこぁが訊いてきた。
「何かあったんですか?」
「……ええ、ちょっとね」
 心配そうな双眸を向けてくる彼女に気を使わせまいと、パチュリーは笑顔を意識して話した。
「大したことではないわ。ちょっと煮詰まっていた事案のヒントが閃いたものだから」
 嘘ではないからか、すんなりと言葉が出た。
 ――例の殺人事件は、間違いようもなく煮詰まっている。
「そうなんですか」
 こぁは不思議そうな顔をしたが、それ以上突っ込んではこなかった。
 パチュリーが得たヒント。それはアリスについてのことだった。

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この小説へのコメント

  1. パチュリーと地霊組が俺得すぎた!
    地霊殿以来だしなー。探偵パチュリーイイネ!

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