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楽園の確率~Paradiseshift.第3章 怨霊の聲   怨霊の聲 第1話

所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第3章 怨霊の聲

公開日:2017年06月05日 / 最終更新日:2017年06月05日

怨霊の聲 第1話
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第3章
怨霊の聲 第1話



 黒髪を風に靡かせる鴉天狗が、現像されたばかりの銀塩写真を手に唸る。
 写し込まれたおおよそが不鮮明である。大元の写真を撮影した本人にも。
「で、そんなのガン見して、何か楽しい?」
 己が『念写する程度の能力』にてその某かを撮影した鴉天狗、姫海棠はたては、これを無理矢理引き延ばした物を凝視する黒髪の同族、射命丸文に、唸り続ける理由を問う。
 返事は無い。不鮮明な写真の中の、主たる被写体の輪郭への思索のみがそれではある。
 煙るもやに隠れたその姿の中で、眼と見られる物が反射する八つの光、四対の脚らしき物が明らかになっているだけ。
 はたては「むう」とふくれてから文の額に自分の額を押し付け、同じ点へ視線を落とす。
「やっぱ蜘蛛、だよね」
 またも返事は無い。
「だぁもう! ちょっとぐらいなんか言えっての!」
「……はたて。これは“今”を写した物ですか? それとも過去? 未来?」
 問いの意味は当然分かっているはたて。だが意趣返しとばかりに迂遠に答える。
「さてね。撮った時から見たら、どっちにしろ過去でしょが」
「分からないんですね。いつも通り」
 写真を凝視したまま、苛立つ様子も無く文が言う。はたては一拍だけ息を詰まらせて、
「だってさ、ネタ探してたら勝手に映り込んだんだもん。いつも通り……」
 彼女の能力は、識閾下での完全な制御が可能な類では無いらしい。
 過去(当然撮影した瞬間よりずっと以前の)が写される場合もあるし、驚くべき事に未来を映し出す事もままある。
 先見(さきみ)、とでも言うべきだろうか。
 ただしこちらは、確定した未来を映し出す物ではなく、精度の高い占術と言うべき物である。そのような能力の由来は、彼女の血筋を知る文であればこそ知っていた。
 過去視、遡及透視はと言えば、人間にも一定数見られるメジャーな能力である。事象その物に封がされてさえいなければ、掘り出すのも容易であろう。
 この撮像風景が過去視か先見の結果かは、当然、文の思索で重要な意味を持っている。
「仕方ないですね……ここに白狼天狗が一人居ます」
「ええ、居ますね。ったって椛じゃん。いちいち白狼――なんて言う必要ある?」
 今の今まで後ろに控えていた白狼天狗、犬走椛は、ゴワゴワの白髪を一度梳いた後、極めてうざったそうな貌で文に応じる。
「これが蜘蛛で、新聞のネタになるかも知れない何かで、いつ起こる事態に絡むか分からないから、とりあえず視(み)てみろと。そういう事ですか」
「そういう事です」
 哨戒任務を担う彼女の『千里先まで見通す程度の能力』、即ち千里眼(テレグノシス)を以て、この写真に係るかも知れない場所を探ろうというのが、文の意図。
 常からいがみ合う風な場面が目立つ文と椛であるが、これは互いに、言外の意図まで汲み過ぎる程ツーカーであるからだとも言われる。
 過去、未来を見透そうとするならはたての能力が、今(ナウ)を視ようとするなら椛の能力が、それぞれうってつけ。文はひとまず現在を視るのに、椛を起用する腹づもり。
 その視るべき先は何処か。これは椛のみならず、はたてにも分かっていた。
「でもさ、地底――旧地獄って、監視困難なんじゃなかったっけ?」
「ですよ」
 だからこそ、千里眼を用いる白狼の哨戒団は、広目天を奉る祭礼を月例で執り行い、集団の神通力の収斂による監視を行っている。旧地獄が約定を破って地上に溢れないように。
「それをさ、椛一人で何させんの。あっ、今のは椛の力が足りないとか言ってるんじゃないからね? ほら、椛の実力は私もよく知ってる……あ、今のもナシ!」
 文には不機嫌な貌を向けつつ、椛に対する僅かな失言にはしどろもどろ。椛は苦笑しながら「分かってますよ」と応じる。文はそんなやりとりに、少しも声音を変えずに答える。
「いい増幅装置(アンプリファイア)がありますね」
「……私かい」
 験力だけを量れば、椛よりはたての方が遙かに勝る。そして元は、浄天眼として同じ由来を持つ遠見(とおみ)の能力同士。文は、これを重ね合わせようと言うのだ。
「コレをアンタに持ちかけたのは私だしね。しゃーない、椛、いっちょよろしく」
「ええ、よろしくです!」
 尻尾を振りながら椛は笑顔で答え、片膝で座る。
 視覚に意識を集中する椛。はたては調息、調心から椛に呼吸を合わせ、そのまま坐禅の如く瞑想。無我の状態で己の験力を椛に預ける。
 妖怪の山から視界だけが飛び出し、妖怪と神々の箱庭から半歩ズレた“そこ”へ向け降下してゆく。

      ∴

 妖怪と神々の箱庭――幻想郷より、半歩ズレた地。役目を終えた焦熱地獄跡地、旧地獄。
 その焦熱地獄すら飲み込むほどの神火がそこここに噴き出し続けていた頃、地上に無数に出来た風穴(ふうけつ)のいくつかは、そこに通じる道でもある。
 そのうちの一等大きな風穴を下ると、巨大な蟻の巣を思わせる多数の横穴が、一見ランダムに開いている。いずれもが人間大か、それより少し大きい程度の者が通れる程度。
 これらは土蜘蛛の坑道。地底に至るまでの途の始めには、彼らの目が光っている。
 地底の妖怪などは地上の妖怪からすれば、勢力を増した彼らがいつ地上に溢れ出ないかという不安のタネであるが、彼ら土蜘蛛の目からは、地上の妖怪こそ、いつ約束を反故にして地底に攻め寄せはしないかという、信用ならぬ者どもと映るであろう。
 彼らは地底世界の防人だ。
 ただ彼らも、常に警戒の目を光らせているわけでは無い。生業のために坑道を走らせ、幻想の鉱脈(要は幻想郷の外で忘れ去られ、うち捨てられた鉱脈群)で採掘を進めている。
 話は逸れるが、この鉱脈群、河童の地質学者がもんどり打つだけに留まらず、鉱山書(デ・レ・メタリカ)が自身の前編を引き千切り、溶鉱炉に沈めるであろうほどの出鱈目な代物でもある。金属非金属問わず、掘り進めれば大抵の鉱物が採れるのだ。
 そんな訳でこの鉱脈の存在もまた、地上の妖怪に警戒心を起こさせる一因になっている。
 土蜘蛛達の、相当に目の粗いザルな警戒網、いや、彼らの里を更に下れば、ようやくと地底世界へと辿り着く。ここが奈落の底、とはまだ言い難い。
 空を飛べる者なら、妨害が無い限りはまだまだ戻れる場所であるし、ここより先には真に奈落と呼べよう、焦熱地獄の深奥も口を広げているからだ。
 ここまで来るともう、辺りには土蜘蛛の坑道も見当たらない。代わりに、ひたすら啓開された地底世界が、地平線すら見えるのではないかと思えるほどの広がりを見せている。ただし残念ながら向こうには丘陵や山稜も形成されており、それを眺めることは叶わない。
 なお今の視点も、やや小高い場所である。
 そもそもが、地底である事を忘れるほどに天井が高い。天上は見えないというのに。下に見える街の灯からの高度は、百丈(三百三十三メートル)でも足りないかも知れない。
 そう、あれに見える街こそ、この旧地獄の中核、旧都。地底世界の中核にして、鬼を始めとした引きこもり妖怪――基へ、恐れられ、忌み嫌われた妖怪達の新天地。
 近場から壁際を見下ろせば、崖の中腹で僅かな柱に支えられた明かりの消えたあばら屋や、宋様の無駄に豪勢な寺院風の建物が、真っ二つになってびったりと張り付いていたりする。いずれにせよ住み心地は、地上の、妖怪の山の辺縁よりも悪そうである。
 地上の者からすれば、悪いのは単なる住み心地だけではない。
 肉体を持ってここに至れば、肺の腑から瘴気に冒される。人間なら一日も居れば危ういし、妖怪であっても、好んでこちらに住む現今の住人以外は、長く留まれば同じくなる。
 だが見るだけなら、そのきらいも無い。
 街と同じ高さに降り立てば、ここには土蜘蛛達の集落に続く、第二の関門がある。
 赤線地帯にも見える灯火の手前には、水無川が横たわる。こんな物はひとっ飛びに渡ってしまえばいいと思えるが、ここはそうもいかない。
 川は境界。境界の此方と彼方は、此岸と彼岸ほどの開きがある――らしい。そのためここは、ある特定の場所を渡るか、導きが必要になるそうだ。
 その特定の場所と言うのは、ここに架かる橋。
 此岸となる地上側からは、朱塗りの、地底などには似つかわしくない荘厳な橋に見えるが、それも街に向かうに従って剥がれ、飾りの金物も一切が剥がされているという有り様になってゆく。
 竜頭蛇尾を体現したかのようだ、などと言ったら、橋守の手荒い歓待を受けるだろう。
 そしてこの橋こそ第二の関門。招きも無く渡ろうとすれば、さっきみたいな暴言を吐かずとも……とにかく恐ろしいことになるらしい。
 ここに在するのは、光を湛えたエメラルド色の緑眼は美しく見えるが、まつわる逸話は妬み嫉みと、新聞の記事にすれば面白そうな物に溢れる気色悪い橋守。橋姫だ。
 しかし、その橋守の姿は見当たらない。土蜘蛛軍団に続いて職場放棄か。
 どの道こちらには好都合も不都合も無い。前進あるのみ。
 このまま進めば旧都のメインストリート。歓楽街としての賑わいだけなら妖怪の山の門前町にも勝る、旧地獄街道に――

「――あれ? ちょっと、椛。なんかめっちゃノイズ乗ってんだけど」
 そう言ったはたてに、椛がやんわりと答えようとしている所へ、
「そりゃそうでしょう。何のために普段、白狼の長まで交えて祭礼を執り行っていると思ってるんです」
 文がそう言って、大きなため息をつく。
「いや待ていや待て、おかしいって。これ言い出したの文なのに、なんで私らがそんなに言われにゃならんの」
 椛もはたての言に同意と、牙を剥かんばかりに奥歯を噛みしめている。
 当然の怒りを向ける二人を――煽り気味に――なだめつつ、文は補足。
「一回で無理なら反復して試行すればいいでしょう。上手くいくなら旧地獄全体を見透したいですけど、ここで主に視るべきは土蜘蛛の動向なんですから」
 はたてからは、別の不満がぶつけられる。
「いやさ、そりゃ私から文に「あの写真の中身が何か確かめるのに、なんか良いアイデアはないかなー」なんてお願いはしたけどさ、延々旧地獄の監視をさせられるなんて思ってなかったわ。それにこっちは文と違って正式な勤めが無いんだし、こんなこと続けてたら速攻で食い扶持が尽きるって」
「正式な勤めって、私だって下っ端も下っ端の更に権官(ごんかん)(員数外)で、そのうえ万年非常勤状態なんですから、サラリーなんて自由稼業のあなたと大差ないですよ」
 そう言い合う二人の目が椛に向く。
「ちょっと、そこでなんで私なんですか!?」
 この場で一番の高給取りと判明した彼女からの猛抗議。これには文があっさり折れる。
「分かりましたよ。椛の有給の方は私が上へ調整しますし、私は興味がありますから分析に付き合いますし、はたてはそもそも言い出しっぺなんですから、我慢しなさいよ」
 折れたと言うより――
「調整って言って、文にそんな権限無いでしょ」
「ええ。ですからここで言う調整とは[我の要求を彼に強制する]こと、です」
「つまり誰かを脅すつもりかい……」
「ですから! なんで私が勝手に有給を取らされる事になってるんですか!」
――椛へのとばっちりが、ようようと深刻になってゆくだけだった。

      ∴

 土蜘蛛達は日頃と何ら変わらず、微かな瘴気に曝されつつ坑道の掘削を進めている。
 いくら瘴気が希薄であっても、この様な場所でも激しい肉体労働が続けられるのは、いにしえより瘴気の中で過ごして来た彼らならでは。彼らにとっては、未だに怨霊達が渦巻く旧地獄の深奥に比べれば、むしろ穏やかに過ごせるほどですらある。
――通常の、生物界の存在として分類される生物が肉体を主とし、魂などを従とするのとは反対に、魑魅魍魎、勿怪、妖怪と称されるモノの主体は精神や想念そのもの、肉体が従として依り憑く。そして怨霊は、人間相手なら取り憑くだけで済むし祓うことも叶うが、妖怪にとってはむき出しの精神を冒し、存在の根源を消失させてしまうからだ――
 ただし、彼らが瘴気の中にいるのを好むかどうかと言うと、そうでもない。彼らとて、淀みや瘴気を知らない水や空気を望むし、腐肉よりも血の滴るほどに新鮮な肉を、同じぐらい瑞々しい野菜だって好む。
 ここを住処とするのは、地上と摩するのを止めたがために過ぎない。そういったジレンマはしかし、日々の労働と数少ないながら存在する娯楽によって購われ、表出もしないが。
 真新しい、質の良い鉄を用いたツルハシや円匙(えんぴ)が鋭く岩と打ち合う音に混じり、最近は、地上の――古来より犬猿の仲であったはずの――河童から購入するなどした削岩機の振動が、一定の周期を保って響きあっている。
 その周期が不意に乱れ、止まる。誰が意図してそうなったわけでもない。
 これも日常茶飯事で、毎度のような会話が彼らの間で交わされる。
「また止まったぞ」
「どうせ河童の作った物だからしょうがない」
「これなら鋤で掘った方がマシだ」
「そうは言ってもこれが無いと面倒だ」
「じゃあ修理の算段を――」
 と言ったところで、このいつもの会話は止まってしまう。それをすべき人物が今ここにいないのを思い出したからだった。

 旧地獄街道沿い、商店もいかがわしい店も雑多に混じる盛り場の一角。『どん底』との銘が白ペンキで書かれた、ブリキの看板を掲げる居酒屋からは、老若男女を問わず楽しげな喧噪が、穴だらけの壁越しに往来に漏れ出ている。
 それらの賑わいに加えて店先の赤提灯が常夜の地底を煌々と照らしており、一見すると華やかに見える。が、看板も屋根も、瘴気のお陰で錆びゝゝの有り様。
 居酒屋であるので、当然、男女の別なく接待役など居ないわけだが、そこはそれ、『彼女』には相応に、お酌をする者が付く。これも男女の別なく。
「ヤマメよぉ、アンタがこんな時間からこっちに居るなんて珍しいじゃないかい?」
「そりゃ今日は、ちゃんとお休み取りましたからね。最近新しい坑道に詰めっぱなしだったし、上手くいけばこっちで丸々懐に入れられる分を稼げるし」
 自慢の『星熊盃』に酌を受けるのは、怪力乱神を振るい、殊に“勇力”において比肩する者の無い鬼、星熊勇儀。
 彼女が笑うたびに揺れる金髪と額の一本角を見上げながら酌をするのは、その坑道で掘削機が壊れた事など露知らぬ、土蜘蛛の黒谷ヤマメ。
 二人の他、他にも大小の鬼やらイッチョメ(一つ目入道)、イッチョメの向こうを張った風な百目や、畜生(動物)の面(つら)をした鬼など、実にバリエーション豊富な妖怪達が飲んだくれる。
 その脇にはまた一人、ひっそりと酒を煽る妖怪の姿がある。
「まったく、誘っておいて放置ってどんだけよ。自分だけ和気藹々と、本当に妬ましい」
 彼女の呟きに、続いて緑眼の明るみを認めた妖怪達は、慌ててそちらから離れる。
「いやだってさ、まさか姐さんがここに居るなんて思ってなかったし。私もホラ、一族の分も挨拶しなきゃならなかったんだ。許してよぉ」
 笑いながら手を合わせて「ゴメン」とアピールをするヤマメに向く緑眼は、より深く明るく輝く。他者の嫉妬を操るだけでなく、自身の嫉妬すら力に転化してしまう彼女、水橋パルスィに恐れを成した者達は、そそくさと店を出て行ってしまう始末。
 なお一部は、店主の「ツケ払いはお断りだよ」との冷静な言葉を浴びせられて立ち往生。
「ははっ、ヤマメも無理して酌しなくてもいいって。わたしゃ手酌でも結構さ」
「いやでも、そちらさんの目が、ね」
 取り巻きの鬼達が「粗相をしたらどうなるか」と言いたげに、剣呑な視線を向けている。
 ヤマメも勇儀に及ばずとも、そこらの取り巻き如きに後れは取らない。しかし彼らと争う気こそ毛ほども無い。この酌も、勇儀の御機嫌取りと言うより、彼女を奉じる取り巻きの機嫌を取っているようなものだ。
「やれ、あんただって土蜘蛛達の中じゃそこそこの奴なのに、悪いねぇ。ほらパルスィ、そんなに眼を光らせてないで、私らと呑もうや」
「ベタベタと面倒だから、アンタと呑むのはヤなのよ」
 離れては妬ましい、近づいては面倒だと言われながらも、勇儀は気を悪くした様子を見せず、鬼らしく豪放磊落に笑い声を上げる。
「あっはっはっは、いやぁ嫌われたモンだ。でもさ、その緑の眼をギラギラ光らせるのはホント、止めておくれよ。ご主人に悪いからさ」
 店主が「別に構いませんよ」と返事すると、勇儀は露骨に嫌そうな貌をするパルスィの方へと歩み寄ろうとする。
「姐さん、気が乗ってない時は止めなさいって」
 と、苦笑しながら制止の言葉は放ちつつも、ニヤニヤと見守るヤマメ。
 二人の態度には怒り心頭と、ついにパルスィの本日一発目の雷が落ちようとする――
「ああもう、鬱陶しいから――」
――が、
「ちょいとご免よ」
 しわがれた老爺の声に、パルスィの怒りも勇儀の悪戯心も一緒に引っ込む。
 現れた老爺は、雨も降らないこの地で蓑を背負い、右に左にと探る風に杖を突き出している。店主は、入り口近くに屯していた妖怪達をジェスチュアで追っ払い、カウンターのど真ん中に座っていた男に席を譲るよう促してから、老爺に声を掛ける。
「田道間(たぢま)様、どうぞこちらへ」
 老爺田道間は、剃り上げた頭をぺちっとひと撫でしてから、「いつもすまんなぁ」と、また杖を左右に小さく振りつつ歩む。きちんと草鞋を履いているにも関わらず、足を踏み出し、降ろすたびに「ひたり、ひたり」と湿った音がその足下に滲む。
 そうしてカウンターの中央へ収まった彼に、勇儀にも先んじてヤマメが声を掛ける。
「ちょっと田道間様、また下ノ町から一人で来たの?」
 呆れた風な彼女の声音に、田道間は振り向きながら答える。
「最近は、こっちに来ることも憚るような奴ばかりだからのお、仕方ないさ。亭主、今週のオススメは何かな?」
 その言葉を受けるが早いか、店主は冷蔵庫を開き、小さな筵に包んだ皿を取り出す。
「ほら、シャケのルイベで作ったカルパッチョだ。もう少しで賞味期限が切れる所だったんだ、田道間様が来るのが間に合って良かったよ」
 そんな物があるならもったいぶらずに出せとブーイングを飛ばす客をよそに、店主は本来のお通しを取りに板場へ引っ込む。
「へえ、店の佇まいに似合わずハイカラなモンを出すようになったねぇ」
「いやさ姐さん、始めは洋風酒屋(モダンバー)だったのに、みんな敬遠して寄りつかなかったから、今みたいになってるんでしょ。それに冷蔵庫だって導入は最近だし」
 冷蔵庫の方は、間欠泉地下センターという名の、謎の技術の研究所から引かれたタービン動力用の蒸気のお裾分け。それも街道界隈の限定的な物。
 勇儀が「そうだったっけ」との言葉に続けた大きな笑い声に、田道間が再び振り向く。
「おおこれは星熊殿、ご挨拶が遅れてすまぬ。お邪魔させて貰いますよ」
「こっちになんて気にせず呑みなって。それともお相伴を所望かい?」
 勇儀の言葉は何ら悪意も無い軽口。それでも取り巻き達の目が一斉に田道間の方を向く。いくら勇儀がよくても、己らは許さないと言うのに替わる行為だ。
 しかし彼らの視線は田道間には刺さらない。そもそも彼の目には何も映っていないのだ。
「はいはい私がお酌しますから。じゃあ姐さん、失礼します」
 そう言ってヤマメが席を立つと、右隣に座っていた豹頭の男から向こうが、一つずつ席をスライドさせてゆく。これも偶にであるが、この界隈では見られる光景だったりする。
「おや、ヤマメの酌は久しぶりだな。これは雪でも降るかな?」
 カラカラと、しわがれた喉一杯に笑い声を上げる田道間に、ヤマメは「まだそんな時季じゃ無いでしょ」と返しながら酒を注ぐ。
 その様子を認め、彼の来店から沈黙を守っていたパルスィが席を立つ。
「あ、ゴメン、パルスィ。折角だからこっちに来て――」
「いやいい、帰るから」
 ヤマメは完全に機嫌を損ねたかと不安になり、パルスィの目を見るが、意外にもそこにある表情は平静そのもの。
「おや、橋姫様には嫌われてしまったかな?」
「違うのよ、田道間さん。ヤマメも。ちょっと、胸騒ぎがしてね……」
 その胸騒ぎの元が、誰が彼女に押し付けたでもなく、そうする義務がある訳でも無い役目――放って来た橋の番だとは口に出さない。
 胸騒ぎは本物であるし、さりとて連れてき来てくれたヤマメに、今以上に気を遣わせたくないという気持ちもあるがゆえの言葉である。
「じゃ、お暇するわ。亭主、お愛想」
 これにはヤマメが奢りを申し出、パルスィは素直にそれを受けてから店を出て行った。
「胸騒ぎねぇ、もしかして侵入者とかかな?」
 ヤマメの呟きに、それが聞こえていた一同からは一斉に「それは無いだろう」との否定の言葉が返る。
 あの橋は既に、渡る者の途絶えた橋、であるはずなのだから。

 パルスィと入れ替わる形で、居酒屋『どん底』の前で一人の小鬼が足を止めた。
 頭には短い二本の角を生やし、前髪の一房が獣の舌のように赤く染まった小鬼は、全く噛み合わない乱杭歯を口から覗かせながら、小さく下卑た笑い声を上げている。
「鬼か河童か、どっちがいいかなぁ」
 小鬼は腰に提げた金箔貼りの小槌に手を当てると、提灯よりも赤い目を爛々と光らせつつ、店に向かい足を踏み出した。

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