―1―
この物語を語り始めるにあたって、最初に異変より時間を5ヶ月ほど遡りたい。
まだ春雪異変の始まる前――2月の出来事から語るべきであろう。もちろんそれ自体はあの異変とは関係がないのだが、前提として書いておかなければならないことはある。
即ち、節分の豆まきについての話だ。
「2月3日に豆まきをするのだが。君たちは――節分の風習は知っているよな?」
1月の終わり頃、寺子屋の授業を終えたあとで、慧音さんが確認するように私たちにそう問うた。80年後の未来から来た私たちなので、あるいは外の世界では節分の風習がなくなっているかもしれない、と考えたのかもしれない。
「ええ、もちろん。80年後の外の世界でも健在の風習ですわ」
「それは良かった。ここでも、3日は授業の後に子供たちに豆まきをさせようと思っている」
蓮子の答えにほっと息を吐いて、慧音さんはこほんとひとつ咳払いをした。
「そこでだ。せっかくなので、君たちのどちらかに鬼の役をしてもらいたいのだが」
「ははあ、構いませんよ。ねえメリー」
「はい、そのぐらいならいくらでも」
「そうか。ありがとう、子供たちも喜ぶだろう。では当日の段取りだが――」
と、慧音さんは律儀に豆や鬼の面の手配から、具体的にどのように豆まきを進行するかまで緻密なプランを語り始める。豆まき程度、何もそこまで厳密に計画を立てる必要もないと思うのだが、どうも慧音さんは何事も、しっかり計画を立てないと気が済まないらしい。
緻密なプランと言っても、要約すれば、授業終了後に子供たちに豆を配り、鬼に扮した私たちを相手に豆まきをさせ、その後豆を食べさせるというだけの話である。
「以上のような段取りを考えているが、何か意見があるか?」
「……意見というか、外の世界とあまり変わらないですね。幻想郷だからもっと、それこそ霊夢さんを呼んで本格的なお祓いのようにやるのかと――」
私がそう言うと、慧音さんは苦笑を返す。
「霊夢は霊夢で、神社で豆まきをしているだろう。だいたい里中で豆まきをするんだ、そのひとつひとつに霊夢が出張っていたら、霊夢が何人いても足りない」
「ああ、なるほど……それはそうですね」
納得である。日付が不定で重なることが少ない冠婚葬祭とは違うのだ。
「しかし慧音さん。幻想郷では、鬼を寄せ付けない、という豆まきの意味は、外の世界の私たちが考えるよりも重大なんじゃないですか。幻想郷には鬼だって実在するでしょう?」
蓮子がそう問うと、慧音さんは不意に目をしばたたかせて、それから「――ああ、そうか。君たちは知らないのか」と独りごちた。
「幻想郷に、鬼はいないんだよ」
「――え?」
私たちは、思わず顔を見合わせる。鬼がいない?
妖怪の楽園である幻想郷に、妖怪の代表の中の代表である鬼が存在しないというのか?
「だから、豆まきもあくまで形式的なものだ。実在の鬼を祓うという意味はなく、せいぜいお守り程度の意味合いだな。何しろ外も何も鬼がいないのだから」
「……いや、ちょっと待ってください慧音さん。鬼は幻想郷に本当にいないんですか?」
蓮子が思わず慧音さんに詰め寄る。慧音さんは頷いた。
「昔は妖怪の山にいたらしいんだがな。記録上はもう長いこと、鬼は幻想郷において存在が確認されていない。どこかに去ってしまったというのが通説だ。――詳しいことは阿求殿が専門だから、そちらに聞いてくれ」
私と蓮子は、狐につままれたような顔をもう一度見合わせた。
――幻想郷に鬼がいない。ここが妖怪の楽園であると聞いたときから、妖怪の代表格である鬼は当たり前に存在するものだとばかり思っていた。それがいないと言われたのだから、水族館に魚がいないと言われたような気分である。
なんとなく、幻想郷にはあらゆる妖怪が暮らしているのだと、そう思っていたのだが。
現実には、幻想郷といえども、全ての妖怪にとっての楽園ではないのか――。
「はい、鬼の存在が最後に確認できたのは、記録においては博麗大結界が出来る少し前ですから、100年以上前になります。私の先代である、稗田阿弥の時代ですね」
所変わって、里の中心にある稗田邸。寺子屋を閉めたあと、いつもなら私たちは離れの探偵事務所で来ない依頼人を待つのだが、今日は《不在》の札を下げ、この広大な屋敷を訪れていた。幻想郷における鬼の不在について、阿求さんに問うためである。
「それは絶滅したというわけではなく、どこかへ去って行ったということなんですかね」
蓮子の問いに、阿求さんは頷く。
「おそらくは。そう簡単に滅びるような種族ではありませんから、どこか幻想郷とは別の世界で暮らしているのでしょう」
「冥界とか、魔界とか――」
「地獄かもしれませんね」
確かに鬼といえば地獄の番人というイメージが強い。もじゃもじゃ頭に2本の角、棘のついた金棒を持って、虎柄の腰巻き一丁――というイメージはあまりに陳腐に過ぎるか。
「もともと、妖怪の山に棲む鬼は、人間にとって最強の敵というべき存在でした。戯れに人を攫う鬼の被害は、幻想郷における妖怪被害の中でも大きな割合を占めており、鬼退治の専門家が存在して何度となく戦いを挑んでいたといいます」
「鬼退治といえば桃太郎だけど……」
「鬼ヶ島は幻想郷にはないでしょ。山なら大江山、源頼光の酒呑童子退治じゃない?」
私の呟きに、蓮子が的確なツッコミを入れる。全くもってその通りだ。
「数百年前から、鬼は次第に数を減らしていきました。鬼の被害も減り、鬼退治の技術も今は忘れられて久しいですね。まあ、もう人間が鬼と戦うことはほぼ無いでしょうが」
「なるほど。……鬼はなぜ幻想郷から去ったのでしょうね?」
「それは当の鬼に聞かなければ解りませんが」
「鬼に限らず、幻想郷でも見かけなくなった妖怪というのはいるんですか?」
「はい。かつて存在が確認されていたもので、今は存在が確認されなくなった妖怪といえば、土蜘蛛やサトリなどが挙げられます」
「ははあ。幻想郷に馴染めない妖怪というのも一定数いるということですか」
「そうかもしれません。特に大結界が出来てからの幻想郷は平穏ですから、暴れ者の妖怪にとってはあまり居心地が良くないのかもしれませんね」
そうそう頻繁に強力な妖怪に暴れられては、幻想郷の限られた人間はすぐ滅びてしまいかねない、ということだろう。スペルカードルールも、妖怪が暴れることが里の人間に被害を及ぼさないように定められたルールという側面が強いのかもしれない。
「しかし、幻想郷に人間がいるのは、その畏れが妖怪の力の源だからなのでしょう? そんな妖怪が幻想郷を離れて大丈夫なんですか」
「さて、鬼が去って行った先にも人間がいるのかもしれませんし、鬼ほどになれば人間の畏れがなくても力を維持できるということかもしれません。そのあたりはやはり、鬼に直接聞いてみなければ解りませんね」
「古い記録に、そのあたりの情報は――」
「残念ながら。過去の私も、鬼に直接取材することは叶わなかったようですね」
阿求さんは嘆息する。――過去の私、という表現は何とも奇妙に聞こえるが、人工的に輪廻転生を繰り返しているという阿礼乙女のアイデンティティ、自己認識はどういう風になっているのだろう。相対性精神学の徒としては気になって仕方ないところである。
ともかく、幻想郷に鬼はいない。それは歴然たる事実でしかないようだった。
―2―
そんなこんなで、2月3日。
寺子屋で読み書きを教えている私は、豆まきについての説明からの流れで、大江山の鬼退治の話を子供たちに聞かせることになった。源頼光の鬼退治については、事前に慧音さんからレクチャーを受けたので、だいたいその受け売りである。もちろん慧音さんの話は例によって長くて退屈なので、大幅に端折る必要があったが。
「大江山に住み着いた、酒呑童子たち鬼は、平安京から人間を攫うので、みんな困り果てていました。ついには都の偉い中納言の娘まで攫われてしまい、帝は源頼光というとても強い武将を呼んで、酒呑童子たち鬼を退治することを命じました。
頼光は部下の四天王――渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光の4人と、叔父の藤原保昌を連れ、神仏にお参りしたあと、山伏に化けて大江山へ向かいました。この中で、坂田金時はみんな知ってると思うけど、わかるかしら?」
私の問いに、子供たちは皆首を傾げる。と、ひとりが手を挙げて、「宇治金時!」と叫んだ。
「それはかき氷ね。そうじゃなくて、坂田金時は、大人になった金太郎なの」
「まさかりかついだ?」
「そう、足柄山の金太郎。熊にまたがりお馬の稽古」
馴染みの名前が出てきたことで、子供たちの興味がこちらに向いてきた。こうなると話す方としても楽しくなってくる。
「さて、大江山に入った頼光たちは、その途中で山小屋を見つけ、中を見ると3人の老人がいました。老人たちは鬼に攫われた家族の仇をとるために来たのだと言います。老人たちは頼光たちを休ませて、こう言いました。『酒呑童子は、その名前の通り大酒飲みです。そこで、ここに不思議なお酒があります。このお酒を飲ませれば、鬼は力を失い、逆にあなたたちは力を得るでしょう』――そのお酒を手渡し、老人たちは頼光たちを鬼の住処の近くまで案内すると、すっと消えてしまいました。老人は、頼光たちが出発前にお祈りした神仏の化身だったのです。
老人たちの示した方向へ進むと、泣きながら洗濯をしている娘がいました。それは攫われた中納言の娘でした。中納言の娘は泣いて鬼を退治してくださいと頼光たちに頼みます。その案内を受けて、頼光たちはとうとう酒呑童子たちの住処にやって来ました。鬼の住処は、熊童子、星熊童子、虎熊童子、金熊童子という酒呑童子の部下の四天王が守っていました」
「鬼も四天王なの?」
「そう、どっちも四天王。さて、頼光たちは山伏のふりをして鬼の住処に入り込み、酒呑童子と対面します。頼光たちは、鬼の住処を訪れるのは山伏としての修行の一環だと説明しました。酒呑童子は頼光たちを怪しみましたが、頼光が差し出したお酒を飲むと、その味に感激して気を許しました。そうして、頼光たちを加えて大宴会が開かれたのです」
――『御伽草子』によれば、頼光たちは酒呑童子の信頼を得るため、酒肴として出された人間の肉を喰らうという場面があるのだが、さすがに子供たちにその話は刺激が強すぎる。
「宴会が終わると、不思議なお酒の力で鬼たちは残らず眠りこけてしまい、逆に頼光たちは力が湧いてきました。頼光たちは囚われていた人々を助け出すと、眠りこけた鬼たちを次々と退治していきました。酒呑童子は目を覚ましましたが、お酒のせいで力を出せず、ついに頼光によって討ち果たされてしまいます。そうして頼光たちは全ての鬼を退治して、攫われた人々を都へ連れ戻し、平安京に平和が戻ったのでした」
「卑怯だ!」
子供たちの誰かがそう声をあげる。ほほー、という顔で聞いていた子供たちが、その一言に微かにざわめき始める。確かに、寝込みを襲うのは卑怯と誹られても致し方ない。
ぱんぱん、と私は軽く手を叩き、子供たちの注目をこちらに集める。
「そう、頼光たちは鬼をやっつけたけれど、正々堂々戦わなかったから、鬼は今でも人間を恨んでいる……のかもしれない。だから、みんなが鬼に攫われないように、豆を撒いて鬼を追い払いましょう、ということよ。いいかしら?」
はーい、と元気のいい返事が返ってくる。実際のところ、鬼が人間を恨んでいるかどうかは解らないけれども、とりあえず名目が立てばいいのである。
――と、そこへ突然障子戸を開き、飛び込んでくる影がひとつ。
「がおー! 鬼だぞー! 悪い子はいねがー!」
鬼の面をつけ、蓑笠を被った蓮子である。それでは鬼というよりなまはげでは、と思ったが、ともかく突然の乱入に子供たちは悲鳴をあげて逃げ惑う。というか、まだ豆も配っていないのに鬼の乱入はちょっと早すぎる。
「さあみんな! 豆を撒いて鬼を追い払うぞ!」
と、反対側から障子戸を開けて現れたのは慧音さんである。「鬼はー外ー!」と小脇に抱えた豆を蓮子扮する鬼へ投げつける慧音さん。「ひゃー」と今度は蓮子が逃げ惑い、子供たちも我先に慧音さんが運んで来た豆を掴むと、蓮子へ向けてばらばらと投げ始める。
「おにはーそとー」
「ふくはーうちー」
「痛い痛い! ひー!」
悲鳴を上げる蓮子鬼に、子供たちが歓声をあげてさらに豆をばらまく。これではほとんど弾幕ごっこだ。「メリー先生も!」と子供たちが私の手を引き、私は心を鬼にして蓮子へ向けて全力で豆を投げつけた。
「なんか私ひとりだけ散々な目に遭った気がするんだけど」
「気のせいよ」
後片付けを済ませ、子供たちを送り出したあと、私たちは離れの探偵事務所で一服していた。相変わらず事務所は暇で、雪の中依頼に来る酔狂な人間は見当たらない。
「ま、子供たちが喜んでくれたならいいんだけどね」
ぽりぽりと豆を囓りながら、蓮子は言う。私もつまんだ豆を口に放り込みながら、「そういえば、なんで鬼は炒った豆が弱点なのかしら」と呟いた。
「豆は魔目から魔滅に通じるからとか、旅人に騙されて豆粒に化けたら食べられてしまったからとか、色々説はあったと思うけど、これといった通説は無かったと思うわ。むしろ、季節の変わり目に体調を崩さないように豆を食べようってのが先なのかもしれないわね。大豆は畑の肉って言うし」
「なるほどねえ。節分って字義は《季節の分かれ目》ってことだものね」
科学世紀において迷信とされたことには、実際には古来の知恵が隠されていることが多い。たとえば「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」というのは、電気のない暗い夜に鋏で爪を切ると怪我をする可能性が高く、そこから破傷風などの感染症に罹りやすくなるということだ。「雷におへそを取られる」というのも、雷が鳴って夕立が来ると気温が下がるので、お腹を出していると冷えて体調を崩すという、経験則に基づいた当時の合理性だったわけだ。
そういった昔ながらの風習が、科学と縁遠いこの幻想郷では重要な知恵として語られている。
「昔幻想郷にいた鬼って、実際どんな姿をしてたのかしらね」
「さてねえ。どうも阿求さんの記録を見ても、幻想郷では力のある妖怪ほど人間に近い姿をとる傾向があるみたいだから、鬼も私たちが想像する鬼よりもさらに人間に近い姿じゃないかしら。女性の鬼がいたら、見た目は私たちより年下の角の生えた女の子だったりしてね」
「レミリア嬢みたいに?」
「そうそう」
幼女の姿をした鬼か。あまり想像ができないが、少なくとも威厳はなさそうである。
「というか、蓮子。どうして幻想郷の妖怪は人間に近い姿をとるのかしら。人間に怖れられてなんぼなら、むしろ見た目からして怖ろしい異形の方が効率的じゃない?」
「むしろ、だからこそ強い妖怪は人間の姿をとるんじゃない?」
「どういう意味?」
「人間に近い姿をとるということは、わざわざ外見で人間を怖れさせなくても大丈夫っていうことでしょ? つまりそれだけ、自分が妖怪として確固たる力を持っているという証になる。むしろ異形をとるということは、そうやって積極的に人間を怖れさせないと力を保てない弱い妖怪である、っていう理屈になるんだと思うわ」
「ははあ。毒のある生き物が毒々しい色をするような理屈ね」
「微妙に違う気がするけど、まあ、そういうことだから鬼はたぶんほとんど人間と変わらない姿でしょうね。さすがに鬼のアイデンティティである角は生えてるでしょうけど」
「でも、豆をぶつけられると逃げると。それ本当に強いのかしら?」
まあ、それを言ったら弱点の多すぎる吸血鬼は相当弱い妖怪ということになってしまうが、紅魔館のお嬢様は断固として認めないだろう。
「そういえば紅魔館のお嬢様に、豆は効くのかしら」
「吸血鬼も鬼の一種だからって? メリー、紅魔館に行って投げてみる?」
「命知らずは蓮子だけにしておいて」
レミリア嬢なら案外、ノリノリで節分の鬼役もやってくれそうな気もしないでもないが。
「まあ、幻想郷の理に従えば、幻想郷の鬼には豆が効くんでしょうね。伝承がそのまま力を持つ世界だもの。メリー、本当に鬼が来たときのために豆を常備しておく?」
「蓮子はなまはげに連れ去られる悪い子だものね」
「それはメリーも一緒でしょ」
「悪い子が先生をしていて、子供たちに悪影響がないといいけど」
「慧音さんには秘密よね」
私たちは忍びやかに笑い合った。慧音さんの寺子屋もようやく軌道に乗り始めたところである。事務所に閑古鳥が啼いている現状、寺子屋の経営は私たちの生活にも直結しているのだし、なるべく寺子屋の評判を落とさないように努めなければならない。
私たちが探偵事務所を開いたこと自体が寺子屋の評判に影響を与えている可能性については、なるべく考えないようにしておきたかった。
―3―
もうひとつ、節分とは別に、語っておくべき出会いがある。
節分から3ヶ月ほどが過ぎた5月――ちょうど春雪異変が終わって少し経った頃のことだ。
寺子屋の授業が終わり、私は離れの事務所の戸を開けようとして、戸に何かが挟まっているのに気が付いた。取りだしてみると、天狗の新聞である。《文々。新聞》――茶店などでよく見る新聞だったが、購読した覚えはない。
「メリー、どうしたの?」
「天狗の新聞が届いてたんだけど、蓮子、契約でもした?」
「え? 私も覚えはないわよ」
蓮子も首を捻る。寺子屋宛のものが間違って届いたのかと思って慧音さんに確認してみたが、寺子屋では新聞はとっていないという。
「お試しサービスってことなんじゃない?」
「タダより高いものはないって言うけど」
結局、うちに届いていたものなのだから読んでも文句は言われまい、という結論に至り、依頼人の来ない事務所で、蓮子はばさりとその新聞紙を広げた。
「何か面白い記事でもある?」
「西行寺のお嬢様が、幻想郷に春を返して回ってる話が記事になってるわね。話題が微妙に遅い気がするけど、幻想郷だとそんなものかしら」
「速報性を重んじるような生活はしてないわよね、人間も妖怪も」
私たちも幻想郷に来てから、随分と暢気になったような気がする。元の世界の京都で追われていた大学の課題やらレポートやらから解放され、子供たちに読み書き算術を教えて暇な事務所でぼんやりし、里やその周辺を探索する――そんな毎日を過ごしているのだから、むべなるかなという話ではあるが。
「蓮子がこの前解き明かした、春雪異変の真相を売り込んだら、面白い記事になるかしら?」
「天狗の新聞に載せるには、ちょっとシリアスな話題過ぎるわよ。外の世界の新聞ならともかくね」
ちなみに私たちの暮らしていた2080年代でも、紙の新聞という文化は辛うじて生き延びていた。メディアとしての価値はとうに失われていたが、新聞社という組織が存続する限り、その持つ取材力、情報収集力は失われず、そこに個人主義的な小規模の後発メディアは太刀打ちできない。情報の拡散ではなく、むしろ蒐集して秘匿することによる一次発信の特権性を確保することで、新聞はメディアとして生き延びたわけだ。
そんなメディア戦争など全く縁がなく、そもそも大きなニュース自体滅多にないだろうこの幻想郷では、新聞は情報発信メディアというより、面白おかしい読み物として消費されている節がある。まして書いているのが人間ではなく、妖怪の山に棲んでいる天狗だというのだからなおさらだ。人間社会の情報は、噂話として伝播する速度の方がずっと早いのである。
「ん、待てよ。天狗の新聞しか無いってことは、人間の人間による人間のための新聞を作れば里で売れるかしら?」
「誰が書いて印刷するのよ。鈴奈庵は印刷を請け負ってるらしいけど、木版印刷でしょ?」
「それが問題よねえ。メリーの書いてる記録も大量生産は夢のまた夢ね」
「いいのよこれは。暇潰しだし」
――そんな益体もない話をしていたときだった。
「ごめんくださーい」
表から声がして、私たちは顔を見合わせる。声からして女性だ。珍しく寺子屋の生徒以外の依頼人だろうか。蓮子が新聞を閉じて置き、立ち上がって玄関に向かう。
「はーい、こちら《秘封探偵事務所》――」
がらり、と引き戸を開けると、そこには見慣れぬ少女が立っていた。黒い髪に赤みがかった瞳。蓮子と似たような白いブラウスに黒いスカート。足元はなぜか高下駄を履いていて、頭には赤い山伏の頭襟を乗せている。
「あやや、どうもどうも初めまして。うちの新聞はお読み頂けましたか?」
その言葉に、私たちは顔を見合わせる。新聞? ということは――。
「貴方は――」
「おっと、申し遅れました。《文々。新聞》発行者、清く正しい鴉天狗の射命丸文です」
少女――射命丸さんはそう名乗って、にっと人なつっこい笑みを浮かべた。
「未来の外の世界からやって来た外来人が、里で妙な仕事をしている、という面白げな噂を耳にしまして。是非、取材させていただきたいと思いましてね」
事務所に上がり込んだ射命丸さんはそう言って、私が出したお茶を啜った。
「取材ですか」
「ええ。ご存じかと思いますが、我が《文々。新聞》は人里シェアナンバーワンの天狗新聞。お仕事の宣伝にもなるかと存じます。見たところあまり繁盛してはいらっしゃらないようですし、いかがでしょう?」
一言多い気はしたが、繁盛していないのは事実なので反論もできない。
私が相棒の方を見やると、蓮子の目は好奇心に輝いていた。あ、これはスイッチが入ったな、と察して私は一歩下がったところに腰を下ろす。何しろ目の前に鴉天狗の新聞記者がいるのだ。相棒の好奇心をどうぞ満たしてくださいと言っているようなものである。
「もちろん大歓迎ですわ。なんでも聞いてくださいまし」
「これはどうも。ご協力感謝いたします。ではまず、外の世界……についてはあまり言いふらすと妖怪の賢者がいい顔をしないので、この事務所についてお伺いしましょうか。そもそも探偵事務所というのは?」
「不思議な出来事の調査と解明を請け負う事務所ですわ。秘め封じられた物事を探り調べる、名付けて秘封探偵事務所。説明のつかない摩訶不思議な事象・現象の謎をずばりとこの頭脳で解き明かしてみせますよ」
「ほうほう、我々新聞記者ともどこか相通じるようなお仕事ですねえ」
「そうですね。何が起きたかを調査し公表するという意味では、よく似たお仕事と言えるでしょう。まあ、うちは依頼人が来てくれないことにはどうにもならないのですが。天狗の新聞の方はどのように事件のネタを嗅ぎつけているのでしょう?」
「あやや、そこはそれ、独自の情報網と幻想郷最速のこの翼で迅速な情報収集を」
突然ばさりと背中に翼を広げて見せる射命丸さん。私は思わずのけぞる。どこに仕舞っていたのだろう。取り外し自由なのだろうか。
「独自の情報網とは、たとえばどのような?」
「あやや、それは企業秘密です」
「残念。あやかりたいものです。しかし、その翼でそれほど速く飛べるなら、取材も捗るでしょうね。飛べない人間には羨ましい話です」
「それほどでも、ま、ありますが。ふふふ」
「《文々。新聞》以外の天狗の新聞もたまに見かけますが、天狗は新聞作りが生業なのですか?」
「あやや、天狗全てが新聞を作っているわけではありませんが。我々鴉天狗の間では、新聞作りが一種のステータスでありまして、日夜取材に明け暮れ、新聞の内容で切磋琢磨を繰り広げているのです」
「ははあ。弾幕ごっこのかわりに新聞作りで勝負をしていると」
「まあ、そう言ってもいいでしょうねえ」
「妖怪の山には、人間の里より優れた印刷技術が備わっているようですね」
「山には河童がいますので。このカメラも河童の提供です」
「河童。ははあ、河童は技術者なんですか。芥川龍之介の世界ですね」
「あやや、どなたですか?」
「いえ、こっちの話。河童はカメラも作れるのですか。ちょっと拝見しても?」
「おっと、これは命の次に大事な商売道具、ただで触らせるわけには参りません」
「それは残念。その万年筆も河童製ですか?」
「ええ――」
「いいですね。私も河童にお願いして作ってもらおうかしら」
「河童は人見知りの気がありますからねえ、人間が近付いても逃げてしまいますよ」
「あら、そうなんですか。天狗の皆さんは河童とはお友達なのです?」
「お友達? いやいや、どちらかといえば手下ですねえ。今の妖怪の山は我々天狗の天下ですので」
「今の――というと、昔は山に鬼がいたと伺ってますが」
「あやや、ええまあ、もう長いこと留守にしていますが」
「元々は妖怪の山は鬼が支配していたと?」
「そうですね。もう100年以上前の話です」
「鬼はどうして幻想郷からいなくなったのですか?」
「さて――人間に愛想を尽かした、と小耳に挟みましたが」
「人間に、ねえ」
「鬼退治で人間が卑怯な手でも使ったのでしょう。鬼は嘘や卑怯な手段を何より嫌いますから。天狗としては融通が利かなくてやりにくいのです」
「なるほどなるほど。そんな面倒な上司がいなくなって、天狗の皆さんは我が世の春を謳歌しているわけですね。頭の固い人が上に居ると大変なのはわかります」
「あやや、それはここの寺子屋の先生のことですかね?」
「ノーコメントで。ところで鴉天狗以外にはどのような天狗が――」
「あやや――」
――とまあ、そんな調子で、気が付けばいつの間にか取材する側とされる側が見事に逆転していた。矢継ぎ早に質問を重ねていく蓮子に、射命丸さんはいつの間にか乗せられてぺらぺらと蓮子の好奇心を刺激する情報を提供していく。私はその背後でこっそり息をついた。
射命丸さんには、ご愁傷様、と言うほかないが――これでは結局この事務所の宣伝にはならないのでは、と私が気付いたのは、蓮子と射命丸さんが話し疲れて、ほとんど私たちの取材にならないまま彼女が飛び去っていった後のことだった。
そして結局、私たちの事務所についての記事は、新聞に載ることはなかったわけで。
相棒の好奇心が満たされたのはいいが、事務所の閑古鳥は変わらないわけである。
さて、前置きが随分と長くなってしまった。
改めて、《三日置きの百鬼夜行》の物語を語り始めるとしよう。
その異変の始まり――最初の宴会が起こったのは、7月のはじめのことだった。
この物語を語り始めるにあたって、最初に異変より時間を5ヶ月ほど遡りたい。
まだ春雪異変の始まる前――2月の出来事から語るべきであろう。もちろんそれ自体はあの異変とは関係がないのだが、前提として書いておかなければならないことはある。
即ち、節分の豆まきについての話だ。
「2月3日に豆まきをするのだが。君たちは――節分の風習は知っているよな?」
1月の終わり頃、寺子屋の授業を終えたあとで、慧音さんが確認するように私たちにそう問うた。80年後の未来から来た私たちなので、あるいは外の世界では節分の風習がなくなっているかもしれない、と考えたのかもしれない。
「ええ、もちろん。80年後の外の世界でも健在の風習ですわ」
「それは良かった。ここでも、3日は授業の後に子供たちに豆まきをさせようと思っている」
蓮子の答えにほっと息を吐いて、慧音さんはこほんとひとつ咳払いをした。
「そこでだ。せっかくなので、君たちのどちらかに鬼の役をしてもらいたいのだが」
「ははあ、構いませんよ。ねえメリー」
「はい、そのぐらいならいくらでも」
「そうか。ありがとう、子供たちも喜ぶだろう。では当日の段取りだが――」
と、慧音さんは律儀に豆や鬼の面の手配から、具体的にどのように豆まきを進行するかまで緻密なプランを語り始める。豆まき程度、何もそこまで厳密に計画を立てる必要もないと思うのだが、どうも慧音さんは何事も、しっかり計画を立てないと気が済まないらしい。
緻密なプランと言っても、要約すれば、授業終了後に子供たちに豆を配り、鬼に扮した私たちを相手に豆まきをさせ、その後豆を食べさせるというだけの話である。
「以上のような段取りを考えているが、何か意見があるか?」
「……意見というか、外の世界とあまり変わらないですね。幻想郷だからもっと、それこそ霊夢さんを呼んで本格的なお祓いのようにやるのかと――」
私がそう言うと、慧音さんは苦笑を返す。
「霊夢は霊夢で、神社で豆まきをしているだろう。だいたい里中で豆まきをするんだ、そのひとつひとつに霊夢が出張っていたら、霊夢が何人いても足りない」
「ああ、なるほど……それはそうですね」
納得である。日付が不定で重なることが少ない冠婚葬祭とは違うのだ。
「しかし慧音さん。幻想郷では、鬼を寄せ付けない、という豆まきの意味は、外の世界の私たちが考えるよりも重大なんじゃないですか。幻想郷には鬼だって実在するでしょう?」
蓮子がそう問うと、慧音さんは不意に目をしばたたかせて、それから「――ああ、そうか。君たちは知らないのか」と独りごちた。
「幻想郷に、鬼はいないんだよ」
「――え?」
私たちは、思わず顔を見合わせる。鬼がいない?
妖怪の楽園である幻想郷に、妖怪の代表の中の代表である鬼が存在しないというのか?
「だから、豆まきもあくまで形式的なものだ。実在の鬼を祓うという意味はなく、せいぜいお守り程度の意味合いだな。何しろ外も何も鬼がいないのだから」
「……いや、ちょっと待ってください慧音さん。鬼は幻想郷に本当にいないんですか?」
蓮子が思わず慧音さんに詰め寄る。慧音さんは頷いた。
「昔は妖怪の山にいたらしいんだがな。記録上はもう長いこと、鬼は幻想郷において存在が確認されていない。どこかに去ってしまったというのが通説だ。――詳しいことは阿求殿が専門だから、そちらに聞いてくれ」
私と蓮子は、狐につままれたような顔をもう一度見合わせた。
――幻想郷に鬼がいない。ここが妖怪の楽園であると聞いたときから、妖怪の代表格である鬼は当たり前に存在するものだとばかり思っていた。それがいないと言われたのだから、水族館に魚がいないと言われたような気分である。
なんとなく、幻想郷にはあらゆる妖怪が暮らしているのだと、そう思っていたのだが。
現実には、幻想郷といえども、全ての妖怪にとっての楽園ではないのか――。
「はい、鬼の存在が最後に確認できたのは、記録においては博麗大結界が出来る少し前ですから、100年以上前になります。私の先代である、稗田阿弥の時代ですね」
所変わって、里の中心にある稗田邸。寺子屋を閉めたあと、いつもなら私たちは離れの探偵事務所で来ない依頼人を待つのだが、今日は《不在》の札を下げ、この広大な屋敷を訪れていた。幻想郷における鬼の不在について、阿求さんに問うためである。
「それは絶滅したというわけではなく、どこかへ去って行ったということなんですかね」
蓮子の問いに、阿求さんは頷く。
「おそらくは。そう簡単に滅びるような種族ではありませんから、どこか幻想郷とは別の世界で暮らしているのでしょう」
「冥界とか、魔界とか――」
「地獄かもしれませんね」
確かに鬼といえば地獄の番人というイメージが強い。もじゃもじゃ頭に2本の角、棘のついた金棒を持って、虎柄の腰巻き一丁――というイメージはあまりに陳腐に過ぎるか。
「もともと、妖怪の山に棲む鬼は、人間にとって最強の敵というべき存在でした。戯れに人を攫う鬼の被害は、幻想郷における妖怪被害の中でも大きな割合を占めており、鬼退治の専門家が存在して何度となく戦いを挑んでいたといいます」
「鬼退治といえば桃太郎だけど……」
「鬼ヶ島は幻想郷にはないでしょ。山なら大江山、源頼光の酒呑童子退治じゃない?」
私の呟きに、蓮子が的確なツッコミを入れる。全くもってその通りだ。
「数百年前から、鬼は次第に数を減らしていきました。鬼の被害も減り、鬼退治の技術も今は忘れられて久しいですね。まあ、もう人間が鬼と戦うことはほぼ無いでしょうが」
「なるほど。……鬼はなぜ幻想郷から去ったのでしょうね?」
「それは当の鬼に聞かなければ解りませんが」
「鬼に限らず、幻想郷でも見かけなくなった妖怪というのはいるんですか?」
「はい。かつて存在が確認されていたもので、今は存在が確認されなくなった妖怪といえば、土蜘蛛やサトリなどが挙げられます」
「ははあ。幻想郷に馴染めない妖怪というのも一定数いるということですか」
「そうかもしれません。特に大結界が出来てからの幻想郷は平穏ですから、暴れ者の妖怪にとってはあまり居心地が良くないのかもしれませんね」
そうそう頻繁に強力な妖怪に暴れられては、幻想郷の限られた人間はすぐ滅びてしまいかねない、ということだろう。スペルカードルールも、妖怪が暴れることが里の人間に被害を及ぼさないように定められたルールという側面が強いのかもしれない。
「しかし、幻想郷に人間がいるのは、その畏れが妖怪の力の源だからなのでしょう? そんな妖怪が幻想郷を離れて大丈夫なんですか」
「さて、鬼が去って行った先にも人間がいるのかもしれませんし、鬼ほどになれば人間の畏れがなくても力を維持できるということかもしれません。そのあたりはやはり、鬼に直接聞いてみなければ解りませんね」
「古い記録に、そのあたりの情報は――」
「残念ながら。過去の私も、鬼に直接取材することは叶わなかったようですね」
阿求さんは嘆息する。――過去の私、という表現は何とも奇妙に聞こえるが、人工的に輪廻転生を繰り返しているという阿礼乙女のアイデンティティ、自己認識はどういう風になっているのだろう。相対性精神学の徒としては気になって仕方ないところである。
ともかく、幻想郷に鬼はいない。それは歴然たる事実でしかないようだった。
―2―
そんなこんなで、2月3日。
寺子屋で読み書きを教えている私は、豆まきについての説明からの流れで、大江山の鬼退治の話を子供たちに聞かせることになった。源頼光の鬼退治については、事前に慧音さんからレクチャーを受けたので、だいたいその受け売りである。もちろん慧音さんの話は例によって長くて退屈なので、大幅に端折る必要があったが。
「大江山に住み着いた、酒呑童子たち鬼は、平安京から人間を攫うので、みんな困り果てていました。ついには都の偉い中納言の娘まで攫われてしまい、帝は源頼光というとても強い武将を呼んで、酒呑童子たち鬼を退治することを命じました。
頼光は部下の四天王――渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光の4人と、叔父の藤原保昌を連れ、神仏にお参りしたあと、山伏に化けて大江山へ向かいました。この中で、坂田金時はみんな知ってると思うけど、わかるかしら?」
私の問いに、子供たちは皆首を傾げる。と、ひとりが手を挙げて、「宇治金時!」と叫んだ。
「それはかき氷ね。そうじゃなくて、坂田金時は、大人になった金太郎なの」
「まさかりかついだ?」
「そう、足柄山の金太郎。熊にまたがりお馬の稽古」
馴染みの名前が出てきたことで、子供たちの興味がこちらに向いてきた。こうなると話す方としても楽しくなってくる。
「さて、大江山に入った頼光たちは、その途中で山小屋を見つけ、中を見ると3人の老人がいました。老人たちは鬼に攫われた家族の仇をとるために来たのだと言います。老人たちは頼光たちを休ませて、こう言いました。『酒呑童子は、その名前の通り大酒飲みです。そこで、ここに不思議なお酒があります。このお酒を飲ませれば、鬼は力を失い、逆にあなたたちは力を得るでしょう』――そのお酒を手渡し、老人たちは頼光たちを鬼の住処の近くまで案内すると、すっと消えてしまいました。老人は、頼光たちが出発前にお祈りした神仏の化身だったのです。
老人たちの示した方向へ進むと、泣きながら洗濯をしている娘がいました。それは攫われた中納言の娘でした。中納言の娘は泣いて鬼を退治してくださいと頼光たちに頼みます。その案内を受けて、頼光たちはとうとう酒呑童子たちの住処にやって来ました。鬼の住処は、熊童子、星熊童子、虎熊童子、金熊童子という酒呑童子の部下の四天王が守っていました」
「鬼も四天王なの?」
「そう、どっちも四天王。さて、頼光たちは山伏のふりをして鬼の住処に入り込み、酒呑童子と対面します。頼光たちは、鬼の住処を訪れるのは山伏としての修行の一環だと説明しました。酒呑童子は頼光たちを怪しみましたが、頼光が差し出したお酒を飲むと、その味に感激して気を許しました。そうして、頼光たちを加えて大宴会が開かれたのです」
――『御伽草子』によれば、頼光たちは酒呑童子の信頼を得るため、酒肴として出された人間の肉を喰らうという場面があるのだが、さすがに子供たちにその話は刺激が強すぎる。
「宴会が終わると、不思議なお酒の力で鬼たちは残らず眠りこけてしまい、逆に頼光たちは力が湧いてきました。頼光たちは囚われていた人々を助け出すと、眠りこけた鬼たちを次々と退治していきました。酒呑童子は目を覚ましましたが、お酒のせいで力を出せず、ついに頼光によって討ち果たされてしまいます。そうして頼光たちは全ての鬼を退治して、攫われた人々を都へ連れ戻し、平安京に平和が戻ったのでした」
「卑怯だ!」
子供たちの誰かがそう声をあげる。ほほー、という顔で聞いていた子供たちが、その一言に微かにざわめき始める。確かに、寝込みを襲うのは卑怯と誹られても致し方ない。
ぱんぱん、と私は軽く手を叩き、子供たちの注目をこちらに集める。
「そう、頼光たちは鬼をやっつけたけれど、正々堂々戦わなかったから、鬼は今でも人間を恨んでいる……のかもしれない。だから、みんなが鬼に攫われないように、豆を撒いて鬼を追い払いましょう、ということよ。いいかしら?」
はーい、と元気のいい返事が返ってくる。実際のところ、鬼が人間を恨んでいるかどうかは解らないけれども、とりあえず名目が立てばいいのである。
――と、そこへ突然障子戸を開き、飛び込んでくる影がひとつ。
「がおー! 鬼だぞー! 悪い子はいねがー!」
鬼の面をつけ、蓑笠を被った蓮子である。それでは鬼というよりなまはげでは、と思ったが、ともかく突然の乱入に子供たちは悲鳴をあげて逃げ惑う。というか、まだ豆も配っていないのに鬼の乱入はちょっと早すぎる。
「さあみんな! 豆を撒いて鬼を追い払うぞ!」
と、反対側から障子戸を開けて現れたのは慧音さんである。「鬼はー外ー!」と小脇に抱えた豆を蓮子扮する鬼へ投げつける慧音さん。「ひゃー」と今度は蓮子が逃げ惑い、子供たちも我先に慧音さんが運んで来た豆を掴むと、蓮子へ向けてばらばらと投げ始める。
「おにはーそとー」
「ふくはーうちー」
「痛い痛い! ひー!」
悲鳴を上げる蓮子鬼に、子供たちが歓声をあげてさらに豆をばらまく。これではほとんど弾幕ごっこだ。「メリー先生も!」と子供たちが私の手を引き、私は心を鬼にして蓮子へ向けて全力で豆を投げつけた。
「なんか私ひとりだけ散々な目に遭った気がするんだけど」
「気のせいよ」
後片付けを済ませ、子供たちを送り出したあと、私たちは離れの探偵事務所で一服していた。相変わらず事務所は暇で、雪の中依頼に来る酔狂な人間は見当たらない。
「ま、子供たちが喜んでくれたならいいんだけどね」
ぽりぽりと豆を囓りながら、蓮子は言う。私もつまんだ豆を口に放り込みながら、「そういえば、なんで鬼は炒った豆が弱点なのかしら」と呟いた。
「豆は魔目から魔滅に通じるからとか、旅人に騙されて豆粒に化けたら食べられてしまったからとか、色々説はあったと思うけど、これといった通説は無かったと思うわ。むしろ、季節の変わり目に体調を崩さないように豆を食べようってのが先なのかもしれないわね。大豆は畑の肉って言うし」
「なるほどねえ。節分って字義は《季節の分かれ目》ってことだものね」
科学世紀において迷信とされたことには、実際には古来の知恵が隠されていることが多い。たとえば「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」というのは、電気のない暗い夜に鋏で爪を切ると怪我をする可能性が高く、そこから破傷風などの感染症に罹りやすくなるということだ。「雷におへそを取られる」というのも、雷が鳴って夕立が来ると気温が下がるので、お腹を出していると冷えて体調を崩すという、経験則に基づいた当時の合理性だったわけだ。
そういった昔ながらの風習が、科学と縁遠いこの幻想郷では重要な知恵として語られている。
「昔幻想郷にいた鬼って、実際どんな姿をしてたのかしらね」
「さてねえ。どうも阿求さんの記録を見ても、幻想郷では力のある妖怪ほど人間に近い姿をとる傾向があるみたいだから、鬼も私たちが想像する鬼よりもさらに人間に近い姿じゃないかしら。女性の鬼がいたら、見た目は私たちより年下の角の生えた女の子だったりしてね」
「レミリア嬢みたいに?」
「そうそう」
幼女の姿をした鬼か。あまり想像ができないが、少なくとも威厳はなさそうである。
「というか、蓮子。どうして幻想郷の妖怪は人間に近い姿をとるのかしら。人間に怖れられてなんぼなら、むしろ見た目からして怖ろしい異形の方が効率的じゃない?」
「むしろ、だからこそ強い妖怪は人間の姿をとるんじゃない?」
「どういう意味?」
「人間に近い姿をとるということは、わざわざ外見で人間を怖れさせなくても大丈夫っていうことでしょ? つまりそれだけ、自分が妖怪として確固たる力を持っているという証になる。むしろ異形をとるということは、そうやって積極的に人間を怖れさせないと力を保てない弱い妖怪である、っていう理屈になるんだと思うわ」
「ははあ。毒のある生き物が毒々しい色をするような理屈ね」
「微妙に違う気がするけど、まあ、そういうことだから鬼はたぶんほとんど人間と変わらない姿でしょうね。さすがに鬼のアイデンティティである角は生えてるでしょうけど」
「でも、豆をぶつけられると逃げると。それ本当に強いのかしら?」
まあ、それを言ったら弱点の多すぎる吸血鬼は相当弱い妖怪ということになってしまうが、紅魔館のお嬢様は断固として認めないだろう。
「そういえば紅魔館のお嬢様に、豆は効くのかしら」
「吸血鬼も鬼の一種だからって? メリー、紅魔館に行って投げてみる?」
「命知らずは蓮子だけにしておいて」
レミリア嬢なら案外、ノリノリで節分の鬼役もやってくれそうな気もしないでもないが。
「まあ、幻想郷の理に従えば、幻想郷の鬼には豆が効くんでしょうね。伝承がそのまま力を持つ世界だもの。メリー、本当に鬼が来たときのために豆を常備しておく?」
「蓮子はなまはげに連れ去られる悪い子だものね」
「それはメリーも一緒でしょ」
「悪い子が先生をしていて、子供たちに悪影響がないといいけど」
「慧音さんには秘密よね」
私たちは忍びやかに笑い合った。慧音さんの寺子屋もようやく軌道に乗り始めたところである。事務所に閑古鳥が啼いている現状、寺子屋の経営は私たちの生活にも直結しているのだし、なるべく寺子屋の評判を落とさないように努めなければならない。
私たちが探偵事務所を開いたこと自体が寺子屋の評判に影響を与えている可能性については、なるべく考えないようにしておきたかった。
―3―
もうひとつ、節分とは別に、語っておくべき出会いがある。
節分から3ヶ月ほどが過ぎた5月――ちょうど春雪異変が終わって少し経った頃のことだ。
寺子屋の授業が終わり、私は離れの事務所の戸を開けようとして、戸に何かが挟まっているのに気が付いた。取りだしてみると、天狗の新聞である。《文々。新聞》――茶店などでよく見る新聞だったが、購読した覚えはない。
「メリー、どうしたの?」
「天狗の新聞が届いてたんだけど、蓮子、契約でもした?」
「え? 私も覚えはないわよ」
蓮子も首を捻る。寺子屋宛のものが間違って届いたのかと思って慧音さんに確認してみたが、寺子屋では新聞はとっていないという。
「お試しサービスってことなんじゃない?」
「タダより高いものはないって言うけど」
結局、うちに届いていたものなのだから読んでも文句は言われまい、という結論に至り、依頼人の来ない事務所で、蓮子はばさりとその新聞紙を広げた。
「何か面白い記事でもある?」
「西行寺のお嬢様が、幻想郷に春を返して回ってる話が記事になってるわね。話題が微妙に遅い気がするけど、幻想郷だとそんなものかしら」
「速報性を重んじるような生活はしてないわよね、人間も妖怪も」
私たちも幻想郷に来てから、随分と暢気になったような気がする。元の世界の京都で追われていた大学の課題やらレポートやらから解放され、子供たちに読み書き算術を教えて暇な事務所でぼんやりし、里やその周辺を探索する――そんな毎日を過ごしているのだから、むべなるかなという話ではあるが。
「蓮子がこの前解き明かした、春雪異変の真相を売り込んだら、面白い記事になるかしら?」
「天狗の新聞に載せるには、ちょっとシリアスな話題過ぎるわよ。外の世界の新聞ならともかくね」
ちなみに私たちの暮らしていた2080年代でも、紙の新聞という文化は辛うじて生き延びていた。メディアとしての価値はとうに失われていたが、新聞社という組織が存続する限り、その持つ取材力、情報収集力は失われず、そこに個人主義的な小規模の後発メディアは太刀打ちできない。情報の拡散ではなく、むしろ蒐集して秘匿することによる一次発信の特権性を確保することで、新聞はメディアとして生き延びたわけだ。
そんなメディア戦争など全く縁がなく、そもそも大きなニュース自体滅多にないだろうこの幻想郷では、新聞は情報発信メディアというより、面白おかしい読み物として消費されている節がある。まして書いているのが人間ではなく、妖怪の山に棲んでいる天狗だというのだからなおさらだ。人間社会の情報は、噂話として伝播する速度の方がずっと早いのである。
「ん、待てよ。天狗の新聞しか無いってことは、人間の人間による人間のための新聞を作れば里で売れるかしら?」
「誰が書いて印刷するのよ。鈴奈庵は印刷を請け負ってるらしいけど、木版印刷でしょ?」
「それが問題よねえ。メリーの書いてる記録も大量生産は夢のまた夢ね」
「いいのよこれは。暇潰しだし」
――そんな益体もない話をしていたときだった。
「ごめんくださーい」
表から声がして、私たちは顔を見合わせる。声からして女性だ。珍しく寺子屋の生徒以外の依頼人だろうか。蓮子が新聞を閉じて置き、立ち上がって玄関に向かう。
「はーい、こちら《秘封探偵事務所》――」
がらり、と引き戸を開けると、そこには見慣れぬ少女が立っていた。黒い髪に赤みがかった瞳。蓮子と似たような白いブラウスに黒いスカート。足元はなぜか高下駄を履いていて、頭には赤い山伏の頭襟を乗せている。
「あやや、どうもどうも初めまして。うちの新聞はお読み頂けましたか?」
その言葉に、私たちは顔を見合わせる。新聞? ということは――。
「貴方は――」
「おっと、申し遅れました。《文々。新聞》発行者、清く正しい鴉天狗の射命丸文です」
少女――射命丸さんはそう名乗って、にっと人なつっこい笑みを浮かべた。
「未来の外の世界からやって来た外来人が、里で妙な仕事をしている、という面白げな噂を耳にしまして。是非、取材させていただきたいと思いましてね」
事務所に上がり込んだ射命丸さんはそう言って、私が出したお茶を啜った。
「取材ですか」
「ええ。ご存じかと思いますが、我が《文々。新聞》は人里シェアナンバーワンの天狗新聞。お仕事の宣伝にもなるかと存じます。見たところあまり繁盛してはいらっしゃらないようですし、いかがでしょう?」
一言多い気はしたが、繁盛していないのは事実なので反論もできない。
私が相棒の方を見やると、蓮子の目は好奇心に輝いていた。あ、これはスイッチが入ったな、と察して私は一歩下がったところに腰を下ろす。何しろ目の前に鴉天狗の新聞記者がいるのだ。相棒の好奇心をどうぞ満たしてくださいと言っているようなものである。
「もちろん大歓迎ですわ。なんでも聞いてくださいまし」
「これはどうも。ご協力感謝いたします。ではまず、外の世界……についてはあまり言いふらすと妖怪の賢者がいい顔をしないので、この事務所についてお伺いしましょうか。そもそも探偵事務所というのは?」
「不思議な出来事の調査と解明を請け負う事務所ですわ。秘め封じられた物事を探り調べる、名付けて秘封探偵事務所。説明のつかない摩訶不思議な事象・現象の謎をずばりとこの頭脳で解き明かしてみせますよ」
「ほうほう、我々新聞記者ともどこか相通じるようなお仕事ですねえ」
「そうですね。何が起きたかを調査し公表するという意味では、よく似たお仕事と言えるでしょう。まあ、うちは依頼人が来てくれないことにはどうにもならないのですが。天狗の新聞の方はどのように事件のネタを嗅ぎつけているのでしょう?」
「あやや、そこはそれ、独自の情報網と幻想郷最速のこの翼で迅速な情報収集を」
突然ばさりと背中に翼を広げて見せる射命丸さん。私は思わずのけぞる。どこに仕舞っていたのだろう。取り外し自由なのだろうか。
「独自の情報網とは、たとえばどのような?」
「あやや、それは企業秘密です」
「残念。あやかりたいものです。しかし、その翼でそれほど速く飛べるなら、取材も捗るでしょうね。飛べない人間には羨ましい話です」
「それほどでも、ま、ありますが。ふふふ」
「《文々。新聞》以外の天狗の新聞もたまに見かけますが、天狗は新聞作りが生業なのですか?」
「あやや、天狗全てが新聞を作っているわけではありませんが。我々鴉天狗の間では、新聞作りが一種のステータスでありまして、日夜取材に明け暮れ、新聞の内容で切磋琢磨を繰り広げているのです」
「ははあ。弾幕ごっこのかわりに新聞作りで勝負をしていると」
「まあ、そう言ってもいいでしょうねえ」
「妖怪の山には、人間の里より優れた印刷技術が備わっているようですね」
「山には河童がいますので。このカメラも河童の提供です」
「河童。ははあ、河童は技術者なんですか。芥川龍之介の世界ですね」
「あやや、どなたですか?」
「いえ、こっちの話。河童はカメラも作れるのですか。ちょっと拝見しても?」
「おっと、これは命の次に大事な商売道具、ただで触らせるわけには参りません」
「それは残念。その万年筆も河童製ですか?」
「ええ――」
「いいですね。私も河童にお願いして作ってもらおうかしら」
「河童は人見知りの気がありますからねえ、人間が近付いても逃げてしまいますよ」
「あら、そうなんですか。天狗の皆さんは河童とはお友達なのです?」
「お友達? いやいや、どちらかといえば手下ですねえ。今の妖怪の山は我々天狗の天下ですので」
「今の――というと、昔は山に鬼がいたと伺ってますが」
「あやや、ええまあ、もう長いこと留守にしていますが」
「元々は妖怪の山は鬼が支配していたと?」
「そうですね。もう100年以上前の話です」
「鬼はどうして幻想郷からいなくなったのですか?」
「さて――人間に愛想を尽かした、と小耳に挟みましたが」
「人間に、ねえ」
「鬼退治で人間が卑怯な手でも使ったのでしょう。鬼は嘘や卑怯な手段を何より嫌いますから。天狗としては融通が利かなくてやりにくいのです」
「なるほどなるほど。そんな面倒な上司がいなくなって、天狗の皆さんは我が世の春を謳歌しているわけですね。頭の固い人が上に居ると大変なのはわかります」
「あやや、それはここの寺子屋の先生のことですかね?」
「ノーコメントで。ところで鴉天狗以外にはどのような天狗が――」
「あやや――」
――とまあ、そんな調子で、気が付けばいつの間にか取材する側とされる側が見事に逆転していた。矢継ぎ早に質問を重ねていく蓮子に、射命丸さんはいつの間にか乗せられてぺらぺらと蓮子の好奇心を刺激する情報を提供していく。私はその背後でこっそり息をついた。
射命丸さんには、ご愁傷様、と言うほかないが――これでは結局この事務所の宣伝にはならないのでは、と私が気付いたのは、蓮子と射命丸さんが話し疲れて、ほとんど私たちの取材にならないまま彼女が飛び去っていった後のことだった。
そして結局、私たちの事務所についての記事は、新聞に載ることはなかったわけで。
相棒の好奇心が満たされたのはいいが、事務所の閑古鳥は変わらないわけである。
さて、前置きが随分と長くなってしまった。
改めて、《三日置きの百鬼夜行》の物語を語り始めるとしよう。
その異変の始まり――最初の宴会が起こったのは、7月のはじめのことだった。
第3章 萃夢想編 一覧
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プロローグと第1話のリンクが反対ですよ。
勘違いでした^^;
前置きでも力入ってますねえ。今後が楽しみです。
うぉ!?
地霊殿の伏線が…!
これは、地霊殿に繋がっていく感じ……?深読みのし過ぎかな?
次回も首を飛ばして待ってます。
EOさんも大変かと思いますが頑張って下さい!!
文と蓮子の二人の会話が最高です
事件に首を突っ込みたがる好奇心と
お喋り好きな所がソックリなので
今後の二人の関係に期待大ですww
文は話しに乗せやすく乗せられやすいので
蓮子にベラベラある事無い事喋りそうですw
東方萃夢想のタイトル曲は10年たっても焦ることのない名曲ですね。それにしても未来にも豆まきの風習が果たして残ってくれるのか、未来が見たいです。
秘封探偵事務所の日常、いいですね…