【第五話――前日〜地震当日】
―13―
「私もそう詳しいわけじゃないが、天界というのは要するに、雲の上の世界のことだ」
妹紅さんの家で晩御飯を食べながら、相棒が慧音さんに天界について尋ねると、返ってきたのはそんな説明だった。しかしそれはまた、随分と漠然とした説明である。
「幻想郷縁起には、正確には冥界の空の上、と書かれてませんでしたっけ」
筍の煮付けを囓りながら問う蓮子に、慧音さんはしばし思案するように首を傾げた。
「……君たちには、より正確なところを伝えておくべきだろうな。どうせ放っておいたって勝手に調べるのだろうから。――阿求殿によると、幻想郷縁起の記述は、一部は意図的に不正確なものになっているらしい。天界の所在もそのひとつだ」
「というと?」
「実際の天界は、幻想郷と冥界や彼岸を足したよりも、さらに広大な世界なんだそうだ。だから冥界の空の上にも天界はあるし、この幻想郷の空の上にも天界はある。天界には閻魔様の裁きで成仏した死者のや、修行を積んで欲を捨てた仙人が暮らしているという。幻想郷の上空にある天界は、空を飛べるならば、行こうと思えば行けるんだ。妖怪の山の頂上から向かうのが一番近いと聞いたことがある」
「ははあ。幻想郷縁起でそのことを隠蔽しているのは――」
「里の人間に、安易に天界を目指されても困るからな。天界は仕事をせずに歌って踊って楽しく暮らせる楽園――と言われているが、そんな場所に、空を飛べる者に頼めば行ける、と広く知られたら、みんな天界に行きたがってしまうだろう。まあ、修行も成仏もしていない地上の民が天界に住もうとしても、普通は天人に追い返されるとは思うが、それでも行きたがる者は絶対に出る。だから幻想郷縁起には、簡単には行けないという風に書いている」
「なるほど。……慧音さんは行きたいとは思わないんです?」
「私は里に愛着があるからな。そもそも遊んで暮らすだけの生活なんて、まず三日で飽きる」
「ご立派ですわ」
「君たちも、この話は口外無用だぞ」
「承知しておりますわよ。探偵は口が堅いのです」
笑って言う蓮子を怪しむような目で見つめる慧音さん。
「で、天界がどうしたんだ? 輝夜どもと何か悪巧みでもしてるのか」
妹紅さんが胡乱げに言う。「さあ、それはまだ何とも」と蓮子は肩を竦めた。
――先ほどまで訪問していた永遠亭で、八意永琳さんから聞き出せた情報は、実際のところあまりはっきりしない推測だった。いわく――。
『天人がなぜ地上にちょっかいを?』
『さあ。暇潰しか何かじゃないかしら。天人は退屈しているでしょうからね』
『暇潰しで異常気象や地震を起こされたらたまりませんね』
『それが幻想郷らしいのではなくて? 異変や弾幕ごっこも要は暇潰しでしょう』
『まあ、それはそうなんでしょうけどね――』
『あるいは、地上の妖怪が天人の機嫌を損ねるようなことでもしたのかもしれないわね。なんにしても、理由なんて私の知ったことではないわ。私はただ、地震が起きてこの永遠亭に被害が出たら迷惑だから、鈴仙に調べさせているだけ』
『――では、八意先生。月と天界は別の世界なんですか?』
蓮子のその問いに、永琳さんは特に表情を変えることなく、『それは、天界の定義によるわね』と首を傾げた。
『地上から見れば、どちらも天界であることに変わりはないだろうし、わりと似た部分も多い世界ではあるけれど、だからといって一緒くたにされても困るというところかしら。たとえば、貴方たちの暮らす人間の里から見れば、この永遠亭も妖怪の山も冥界も、里の外であるという点では一緒でしょう』
『ははあ。つまり月は広い意味での天界には含まれるけれど、天人の暮らす妖怪の山から行ける天界とはまた異なる領域であると』
『そういうことね』
なるほど、永琳さんにしては解りやすい説明である。
『だから、天人のやっていることを私に訊かれても、詳しいことは解らないのよ。そもそも私は月の都を捨てた立場なのだから』
――永琳さんから得られたのは、だいたい以上のような情報である。
「ただ、今の異常気象の原因がどうも天界の方にありそうだ、ということでして」
「そうなのか? ――って、蓮子。天界に行こうなどと考えているんじゃないだろうな?」
じろりと慧音さんが蓮子を睨む。相棒は「ダメです?」と純朴に首を傾げた。
「ダメだ。どうして君たちは毎度そう無鉄砲に冥界だの妖怪の山だのあちこち出歩くんだ。いい加減少しは落ち着いてだな――」
「まあまあ慧音、いいじゃないか。蓮子たちだって別に遊んで暮らすために天界に行きたいわけじゃないだろう」
「いやあ、遊んで暮らせるなら遊んで暮らしたいですけどね」
「蓮子!」
妹紅さんの取りなしを台無しにする蓮子である。私はその横でため息ひとつ。
「だいたい、異変の調査や解決なら専門家に任せておけ。そのために霊夢がいるんだ。私の方から明日、霊夢に話しておく。だから君たちは大人しくしているんだ。いいな? そもそも君たちはあまりに里の大人としての自覚が足りない。寺子屋の教師なのだからもっと子供たちの範になるように、常日頃から自らの行動を律し、立派な大人の手本となるようにだな――」
「慧音、私まで怒られてる気分になるからお説教は後にしてくれよ」
くどくどとお説教を始める慧音さんに、妹紅さんがため息をつき、蓮子は飄々とそれを聞き流し、私は殊勝に縮こまるしかなかった。
――もちろん、この時点で私たちはまだ知らない。
翌日の朝、博麗神社が局所的大地震により瓦礫の山と化すことを。
また、この時点で既に何人かは、この異変の首謀者の元に辿り着いていたことを。
複数人が順繰りに異変の首謀者に辿り着いたという意味で、今回の異変は《三日置きの百鬼夜行》に類似していた。あのときは私たちは、誰より早く首謀者を見つけ出したのだが。
私たちが今回の異変の首謀者と邂逅するのは、この翌日――地震当日のこととなる。
―14―
「おやぶーん、てぇへんだ、てぇへんだぁー!」
私たちに、その事態を告げたのは無論のこと、東風谷早苗さんであった。
午前九時半の授業中、戸を蹴破るようにして、早苗さんは寺子屋に駆け込んできたのである。ちょうど私と蓮子は別々の教室でそれぞれ国語と算学を教えていたところで、早苗さんが飛び込んできたのは蓮子の方の教室だったが、私も騒ぎに思わず授業を中断して顔を出した。
「なんでえ、ハチ谷早苗ちゃん。何事?」
「大変なんですよ! 大事件です! いや超事件と言うべきです!」
息を切らせて早苗さんは言う。《文々。新聞》の大げさな見出しでもあるまいに。生徒たちも顔を見合わせ、「なになに?」「あ、山の巫女さんだ」などと言い合っている。
「はいはい深呼吸。で、何が大変なの」
「なんだなんだ、授業中だぞ。何の騒ぎだ?」
そこへ、職員室にいた慧音さんも顔を出した。慧音さんは早苗さんを見やって、「なんだ君か。今は授業中だぞ。探偵活動なら後で――」と呆れ顔で腰に手を当てる。
「それどころじゃありませんよ! 衝撃の展開です! スーパー戦隊だったら最終回近くでもう使わない基地のセットを最後に景気よくぶっ壊すようなアレが! もう第四十八話とかそのへんです! 次の戦隊のアイテムが玩具CMでネタバレされるあたりです!」
「すまないが、私たちにも解る言葉で話してもらえないか」
「どうどう、早苗ちゃん。具体的に、何があったのか話して。守矢神社に何かあったの?」
蓮子が肩に手を置いてなだめる。早苗さんは「ウチは無事ですよ!」と口を尖らせた。「じゃあ――」と蓮子が首を傾げると、早苗さんは東の方を指さして、叫ぶように言った。
「――いま博麗神社に行ったら、神社が破壊されてたんです! 全壊ですよ!」
博麗神社が全壊とは、全くもって穏やかな事態ではない。
急遽寺子屋を閉めて子供たちを帰宅させると、私たち――私と蓮子、慧音さんと早苗さんの四人は博麗神社へと急いだ。慧音さんは「私が様子を見てくるから君たちは授業を続けてくれ」と言ったのだが、雰囲気的にもう授業どころではなかったし、ここぞとばかりに蓮子が「私たちも霊夢ちゃんが心配ですよ」と情に訴え、それに慧音さんが折れたのである。まあ、もちろん私も蓮子も、霊夢さんのことを心配しているのは事実なのだが。
私は慧音さんに、蓮子は早苗さんに掴まって空を飛び、東へ向かう。里を出て、野道の上を進むと、その先に石段が見える、その上に博麗神社の本殿が――。
無かった。いや、正確には、建物としての本殿は既にその機能を喪失していた。
「……これは」
半信半疑という顔だった慧音さんも、目の前に広がったその光景には呆然と息を飲む。「ほら、言ったじゃないですか!」となぜか得意げな早苗さんを除いて、私と蓮子もわりと愕然と破壊された博麗神社を見つめるしかなかった。屋根が建物を押しつぶすような格好で、ぺしゃんこに潰れている。大震災の被災地の写真としてよく見た光景だった。からりと能天気な晴天が、寒々しい残骸を照りつけて焦がしている。
――そして、潰れた神社の梁の上に、呆然と座り込んだ博麗霊夢さんの姿がある。
「霊夢!」
「ん、ああ、慧音じゃない。あんた、こんなところに居ていいの? 里は大丈夫?」
「うん? 何があったんだ、いったい。神社がどうしてこんな――」
「は? 何言ってるのよ。凄かったじゃない、さっきの地震。おかげでこの有様よ」
頭を抱えてため息をつく霊夢さんの言葉に、私たちは顔を見合わせる。――地震?
「……地震なんて、私は気付かなかったが。いつのことだ?」
「はあ? ついさっきよ、朝の九時頃。境内の掃除してたら、とんでもない揺れがきて――あっという間にこれよ。外にいたから良かったけど、中にいたらと思うとぞっとするわ。ああもう、どうしてくれるのよウチの神社――」
と言いかけたところで、霊夢さんの視線が早苗さんに留まる。
「――まさかこれ、あんたの仕業じゃないでしょうね?」
「へ?」
お祓い棒を突きつけられ、早苗さんはきょとんと目をしばたたかせる。
「な、何ですか藪から棒に! 濡れ衣ですよ!」
「だったら、なんであんたんトコの分社は無事なのよ?」
霊夢さんが視線を向けた先を振り向くと――確かに、境内の片隅の守矢神社の分社だけは、倒壊した本殿とは対照的に、ヒビひとつなく元通り鎮座している。
「それは――神奈子様と諏訪子様の神徳というものです! そちらの不信心と信仰不足がこんな事態を招いたんじゃないですか? だから最初からウチに神社を譲っておけば良かったんですよ。基地も壊されたんですし、幻想戦隊ハクレイジャーは放送終了です! 来週からは新番組、守矢戦隊ミシャグジャーの放送開始ですから守矢神社に天下を譲り渡すのです!」
「なんだか解らないけど、やっぱりアンタたちがウチを乗っ取りに実力行使に出たってわけね。いい度胸してるじゃない。幻想郷に神社はひとつで充分よ!」
「異議あり! 冤罪です! 守矢神社は断固として無実を主張します! 解って頂けないようなら、実力で解らせるしかありませんね!」
巫女二人、お祓い棒を構えて対峙する。慧音さんが止めに入るかと思ったが、神社の残骸を見ながら「どういうことだ……?」と唸っており、それどころではなさそうだ。――そうこうしているうちに、神社上空で早苗さんと霊夢さんの弾幕ごっこが始まってしまった。
「蓮子、ちょっと、どうするの?」
「まあ、あの二人は気が済むまでやり合わせておけばいいとして――問題はこれよ」
相棒も倒壊した神社に視線を向け、腕を組んで唸った。
「慧音さん、何か解ります?」
「私は建築や地盤の専門家ではないから、はっきりとしたことは言えないが……地震で崩れたという霊夢の言葉に嘘はなさそうだな。屋根が落ちてくる形で建物が潰れるのは、大きな地震のときに見られる壊れ方だと私も聞いたことがある」
「ええ、それはこちらも同一見解ですわ。でも――」
「……そんな地震、なかったわよね?」
「そう、それだ。霊夢は九時頃と言っていたが――」
九時なら、寺子屋に生徒が集まって、授業が始まった時間である。博麗神社が潰れるほどの大きな地震があったなら、里にも相当の被害が出たはずなのだ。誰ひとりとして地震そのものに気付かなかったなど、有り得る話ではない。
少なくとも、里にいた私たちは一切、地震らしきものを感知しなかった。だが、目の前の現実として、博麗神社はぺしゃんこに潰れており、霊夢さんは大地震があったという。まさか、博麗神社の境内だけが震度7級に揺れるような超局所的地震でも起きたというのか?
「……私は、里の様子を見てくる。現実問題として神社がこれなんだ、里のどこかで被害が出ているかもしれない」
慧音さんが不安げな顔で里の方を振り向いた。晴れた空に黒煙は見えないから、少なくとも火事が起きているということはなさそうであるが――里の端の方で被害が出ていたら、中心部にいた私たちには情報が届いていなかった可能性は確かにある。私たちが揺れを一切関知しなかったという矛盾に目を瞑れば、だが。
「解りました。お気を付けて」
「君たちも注意しろ。本当に地震なら、余震が来るかもしれない」
「あるいは、これが前震で、本震はこれからということも有り得ますね」
「……そうだな。とにかく、霊夢は任せた」
慧音さんはそう言い残し、忙しなく地を蹴って里の方へ飛んでいった。それを見送って、また神社の方を振り向くと、弾幕ごっこの勝負がついたようで、ふたりが舞い降りてくる。
「東風谷早苗、逆転無罪です! やはり正義は勝つのですね!」
「ああもうっ、やってらんないわ」
晴れやかな笑顔の早苗さんと、仏頂面で地団駄を踏む霊夢さん。どうやら早苗さんが勝ったらしい。それのせいなのかどうか、心なしか日射しが弱まった気がした。
まあ、それはいいとして――。
「霊夢ちゃん、大丈夫? 地震で怪我とかしなかったの?」
「ん? ああ、それは平気だけど」
「じゃあ、地震が起きたときのこと、詳しく教えてくれない?」
「そんなこと言われてもね。さっきも言った通り、境内の掃除してたら急にとんでもない揺れがきて、立ってられないぐらいで――目の前で神社がめりめりめりって音たてて崩れて、ご覧の有様ってわけ」
「揺れはどのくらいで収まったの?」
「さあ……数分じゃない? ていうか、あんたたちこそ大丈夫だったの?」
「いやあ――それは、里ではぴくりとも揺れを感じなかったのよ。ねえメリー」
「ええ、全く」
「どういうことよ? あんな大きな地震、目と鼻の先の里が揺れないわけ――」
「でも実際揺れなかったのよ。慧音さんが確認に行ってるけど、少なくとも里の中心部にも、私たちがここに来るまでに見えた光景にも、それらしき被害の様子はなかったわ」
「……本当に? だったら、あの揺れは何だったっていうのよ」
「神様を蔑ろにして信仰集めをサボっている神社への天罰じゃないですかあ?」
「うっさい黙れ」
煽るような意地の悪い笑みを浮かべる早苗さんに、霊夢さんが木材の破片を投げつける。
「ふむ。まあ、何にしても、霊夢ちゃんどうするのこれ。神社、家も兼ねてたんでしょ?」
「ああ、そうよ! 今日私どこで寝ればいいのよ! あーもう腹立つ!」
唸る霊夢さんに、蓮子は「まあそれは慧音さんにでも相談して」と肩を叩くと、私と早苗さんの方を振り返った。
「ちょっとちょっと、三人で相談」
「なんですか、所長」
ふて腐れた霊夢さんから離れ、私たちは境内の隅で顔を突き合わせてしゃがみ込む。
「整理しましょ。昨日までの調査で、異常気象と緋色の雲は地震の宏観前兆であることが判明した。そして今日、博麗神社が謎の局所的地震で倒壊したわ。――これはもう、ひとつながりの異変と考えるべきでしょう。そして、早苗ちゃんにはまだ言ってなかったんだけど、昨日私たちは永遠亭で重大な情報を聞き込んできたわ」
「犯人がわかったんですか?」
「その可能性もあるわね。――永遠亭の八意先生の見立てだと、この異変は天界の天人が地上にちょっかいをかけている可能性が高いようなの?」
「天界? って、天国ですか?」
「さて、天国なのかどうかは知らないけど、この幻想郷の上空にある、解脱した仙人や成仏した魂が行く場所らしいわ。――で、その場所に行く近道があるそうなの」
「ああ……」
私は頷いて早苗さんを見やる。早苗さんは不思議そうに首を傾げた。
「近道、ですか」
「そう。――妖怪の山の頂上から行くのが早いらしいのよ」
相棒のその言葉に、早苗さんはきょとんと目を見開き――次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「そういうことですか! それならこの東風谷早苗にお任せください、所長!」
「……って蓮子、それ霊夢さんに伝えないの?」
「いやあ、だってまだ確証があるわけじゃないし。先に私たちが行って確かめてきた方がいいでしょ? 濡れ衣だったら向こうが迷惑じゃない。また地震起こされたらたまらないわ」
蓮子はぬけぬけとそう言うけれど、単に異変の首謀者のところへ先回りしたいだけだろう。
私は霊夢さんの方を振り返る。霊夢さんは「うがー」とまだ唸っていた。あれは、立ち直るのにもう少しかかりそうだ。
「というわけで、メリー、早苗ちゃん。私たちは天界を目指すわよ!」
「おー!」
「ああ、こうやってまた霊夢さんからの疑いが深まるのね……」
小声で気合いを入れるふたりを尻目に、私はただため息をつくしかないのだった。
―15―
かくして、早苗さんに抱えられての、毎度の空飛ぶ山登りである。ただし普段の目的地は五合目にある守矢神社だが、今日は山頂のその先だ。
「でも、山頂のさらに上って生身で行って大丈夫なのかしら。酸素とか気温とか……」
「大丈夫ですメリーさん! そのへんは守矢の風祝の力でなんとでもなります!」
「ご都合主義って素晴らしいわね」
「起こせるから奇跡っていうんですよ」
そんなことを言い合いながら、妖怪の山の頂上へ向かって飛んでいく。――と。
木立が途切れ、山の岩肌が見えて来たあたりで、不意に風が強まってきた。私と蓮子は帽子が飛ばされないように慌てて押さえる。おまけに頬に当たるのは雨だ。山の天気は変わりやすいとは言うけれど――これは。
「早苗ちゃん、ちょっと風起こしすぎじゃない?」
「いや、これ私じゃありませんよ」
「てことは――これも誰かの気質が起こした天候かしら?」
蓮子がそう呟き、目をすがめる。そこへ、ばさりと羽音をたてて舞い降りてくる影ひとつ。
「あやややや、これはこれは、守矢の巫女さんに探偵事務所のおふたりではないですか。神社はもう通り過ぎてますよ?」
毎度おなじみ、射命丸文さんだった。短いスカートを強風にはためかせながら、こちらを怪訝そうに見つめる射命丸さんに、早苗さんは「ああ、天狗の新聞屋さん」と笑いかける。
「今日は三人で山登りなんです」
「こんな強風の中ですか? 遭難しても知りませんよ。だいたいこの先は天狗の領域でして、友好条約を結んだとはいえそうホイホイ入って来られても困るのですが」
「えー。いいじゃないですか、ちょっと山頂を目指すぐらい。そっちこそホイホイうちの神社にやって来てしょっちゅう宴会してるじゃないですかー」
「いや、あれはそちらの神様が我々を呼びつけているんでしょう」
「じゃあ新聞屋さんが私たちを天狗の領域に招待してくださいよ。水臭いじゃないですか」
「あやや。そう言われましても私の一存では何とも」
「天狗の偉い人の代行じゃなかったんです?」
「代行とは一時的なものなのです。山頂に何をしに行くんですか?」
「それはですね――」
「企業秘密ですわ、射命丸さん」
得意げに言いかけた早苗さんを遮って、蓮子が指を立てて言う。「あや?」と射命丸さんはまた怪訝そうに目を細めて、「怪しいですね」とひとつ唸った。
「にわかに山登りブームでも起きているのですか? 天狗にとっては迷惑なブームですが」
「ん? 同じように山頂を目指した人が前にもいたんです?」
蓮子の問いに、「ええ、それはもう」と射命丸さんは頷く。
「昨日は紅魔館のメイドが通っていきましたし、その前には同じく紅魔館の魔法使いが飛んでいったという報告が。さらにその前には伊吹様が来たり、冥界のお嬢様が来たり……」
私達は顔を見合わせる。咲夜さんにパチュリーさん、萃香さんに幽々子さんが、既に私たちと同じように天界を目指していたのか。――ということはやはり、異変の首謀者は天界にいると考えていいのだろうか。
「……というか射命丸さん、この様子だとまだ博麗神社のこと知らなさそうね」
蓮子が小声で言う。確かに、博麗神社が倒壊するというビッグニュースを知りながら、射命丸さんが山でのんびりしているとは考えにくい。
「もうそれだけ通ってるなら、私たちも通してくださいよ」
早苗さんが言うと、射命丸さんは腕を組んで首を振る。
「そうは言われましてもね。一応立場上止めないわけにもいかないわけですが……」
射命丸さんは困ったように、早苗さんの小脇に抱えられた私と蓮子を見やった。
「……巫女さんひとりなら、まあ戦ってもいいんですが。そちらが探偵事務所のおふたりを抱えながらの弾幕ごっこはフェアではありませんね。とはいえただで通すわけにも……」
「あ、それなら取引しましょう! 取引!」
「取引ですか?」
得意げな顔で言う早苗さんに、射命丸さんが眉を寄せる。
「何か面白いネタでもお持ちです?」
「そりゃもう。――博麗神社で大事件ですよ! たぶん前代未聞の事態です!」
「大事件? ほほう、本当ですね? ガセで追い払おうという算段なら後が怖いですよ?」
「失礼ですね! 神奈子様と諏訪子様の名に誓って本当ですよ!」
「……ですか?」
「本当ですわ」
確認するように私たちを見やった射命丸さんに、私たちは頷く。
「――いいでしょう。では取引成立です。私が話を通しておくので、勝手に山頂なりどこへなり、お好きにどうぞ」
「はーい! 天狗さん、ありがとうございまーす!」
「射命丸です。そろそろ名前覚えてくれませんかね、巫女さん」
「それなら私の名前も覚えてくださいよ写メさん。東風谷早苗です! あと風祝です!」
「射命丸です! あと私は新聞記者です!」
そんなじゃれ合いのようなやりとりを合図に、私たちは射命丸さんの脇を通り過ぎて再び山頂へ向かって飛んでいく。射命丸さんの姿が見えなくなる頃には、風雨も収まっていた。やはりあれは射命丸さんの気質が引き起こしていた天候だったらしい。
「――早苗さん、射命丸さんと仲良いのね」
「え、そんなことないですよ。あの新聞屋さん、酒癖悪いので宴会ではあんまり顔合わせたくないんですよね」
「でも、天狗も風祝も風を起こす同士、わりとお似合いじゃない? 早苗ちゃん」
「ええー? 天狗と一緒にしないでくださいよぉ。私は神様ですから! 天狗なんかよりずっと偉いんです!」
「幻想郷の場合、神様もピンキリだからねえ」
「あ、なんかひどいこと言ってますね蓮子さん! ピンでもキリでも……あれ、ピンキリのピンとキリってどっちが偉いんですか? 穴を開ける能力的にキリですかね?」
「いや、ピンとキリってそっちの意味じゃなかったと思うけど」
そんな益体のない話をしているうちに、雲の覆い被さった山頂が近付いてくる。気温が下がってきて、私はぶるりと身を震わせた。やっぱりもうちょっと防寒対策してくれば良かった。相棒の季節感を無視したトレンチコートが今は羨ましい。
「あ、蓮子さんメリーさん、見てください! あれですよあれ!」
と、早苗さんが指さした先――。
「……あれが、緋色の雲」
私たちの頭上に、緋色に染まった奇妙な雲が覆い被さっていた。不意に雷音が唸るように響く。あの雲の向こうが天界なのだろうか。
「なんか、ワクワクしてきますね! ラピュタは本当にあったんだ! 一切れのパンとナイフとランプの準備はいいですか! 四〇秒で支度していきますよー!」
前世紀の古典的名作アニメの主題歌を鼻歌で口ずさみながら、早苗さんはぐっと上昇するスピードを速めた。私たちはぎゅっと早苗さんに強くしがみつくしかない。
――そして、私たちは緋色の雲に突入した。
―13―
「私もそう詳しいわけじゃないが、天界というのは要するに、雲の上の世界のことだ」
妹紅さんの家で晩御飯を食べながら、相棒が慧音さんに天界について尋ねると、返ってきたのはそんな説明だった。しかしそれはまた、随分と漠然とした説明である。
「幻想郷縁起には、正確には冥界の空の上、と書かれてませんでしたっけ」
筍の煮付けを囓りながら問う蓮子に、慧音さんはしばし思案するように首を傾げた。
「……君たちには、より正確なところを伝えておくべきだろうな。どうせ放っておいたって勝手に調べるのだろうから。――阿求殿によると、幻想郷縁起の記述は、一部は意図的に不正確なものになっているらしい。天界の所在もそのひとつだ」
「というと?」
「実際の天界は、幻想郷と冥界や彼岸を足したよりも、さらに広大な世界なんだそうだ。だから冥界の空の上にも天界はあるし、この幻想郷の空の上にも天界はある。天界には閻魔様の裁きで成仏した死者のや、修行を積んで欲を捨てた仙人が暮らしているという。幻想郷の上空にある天界は、空を飛べるならば、行こうと思えば行けるんだ。妖怪の山の頂上から向かうのが一番近いと聞いたことがある」
「ははあ。幻想郷縁起でそのことを隠蔽しているのは――」
「里の人間に、安易に天界を目指されても困るからな。天界は仕事をせずに歌って踊って楽しく暮らせる楽園――と言われているが、そんな場所に、空を飛べる者に頼めば行ける、と広く知られたら、みんな天界に行きたがってしまうだろう。まあ、修行も成仏もしていない地上の民が天界に住もうとしても、普通は天人に追い返されるとは思うが、それでも行きたがる者は絶対に出る。だから幻想郷縁起には、簡単には行けないという風に書いている」
「なるほど。……慧音さんは行きたいとは思わないんです?」
「私は里に愛着があるからな。そもそも遊んで暮らすだけの生活なんて、まず三日で飽きる」
「ご立派ですわ」
「君たちも、この話は口外無用だぞ」
「承知しておりますわよ。探偵は口が堅いのです」
笑って言う蓮子を怪しむような目で見つめる慧音さん。
「で、天界がどうしたんだ? 輝夜どもと何か悪巧みでもしてるのか」
妹紅さんが胡乱げに言う。「さあ、それはまだ何とも」と蓮子は肩を竦めた。
――先ほどまで訪問していた永遠亭で、八意永琳さんから聞き出せた情報は、実際のところあまりはっきりしない推測だった。いわく――。
『天人がなぜ地上にちょっかいを?』
『さあ。暇潰しか何かじゃないかしら。天人は退屈しているでしょうからね』
『暇潰しで異常気象や地震を起こされたらたまりませんね』
『それが幻想郷らしいのではなくて? 異変や弾幕ごっこも要は暇潰しでしょう』
『まあ、それはそうなんでしょうけどね――』
『あるいは、地上の妖怪が天人の機嫌を損ねるようなことでもしたのかもしれないわね。なんにしても、理由なんて私の知ったことではないわ。私はただ、地震が起きてこの永遠亭に被害が出たら迷惑だから、鈴仙に調べさせているだけ』
『――では、八意先生。月と天界は別の世界なんですか?』
蓮子のその問いに、永琳さんは特に表情を変えることなく、『それは、天界の定義によるわね』と首を傾げた。
『地上から見れば、どちらも天界であることに変わりはないだろうし、わりと似た部分も多い世界ではあるけれど、だからといって一緒くたにされても困るというところかしら。たとえば、貴方たちの暮らす人間の里から見れば、この永遠亭も妖怪の山も冥界も、里の外であるという点では一緒でしょう』
『ははあ。つまり月は広い意味での天界には含まれるけれど、天人の暮らす妖怪の山から行ける天界とはまた異なる領域であると』
『そういうことね』
なるほど、永琳さんにしては解りやすい説明である。
『だから、天人のやっていることを私に訊かれても、詳しいことは解らないのよ。そもそも私は月の都を捨てた立場なのだから』
――永琳さんから得られたのは、だいたい以上のような情報である。
「ただ、今の異常気象の原因がどうも天界の方にありそうだ、ということでして」
「そうなのか? ――って、蓮子。天界に行こうなどと考えているんじゃないだろうな?」
じろりと慧音さんが蓮子を睨む。相棒は「ダメです?」と純朴に首を傾げた。
「ダメだ。どうして君たちは毎度そう無鉄砲に冥界だの妖怪の山だのあちこち出歩くんだ。いい加減少しは落ち着いてだな――」
「まあまあ慧音、いいじゃないか。蓮子たちだって別に遊んで暮らすために天界に行きたいわけじゃないだろう」
「いやあ、遊んで暮らせるなら遊んで暮らしたいですけどね」
「蓮子!」
妹紅さんの取りなしを台無しにする蓮子である。私はその横でため息ひとつ。
「だいたい、異変の調査や解決なら専門家に任せておけ。そのために霊夢がいるんだ。私の方から明日、霊夢に話しておく。だから君たちは大人しくしているんだ。いいな? そもそも君たちはあまりに里の大人としての自覚が足りない。寺子屋の教師なのだからもっと子供たちの範になるように、常日頃から自らの行動を律し、立派な大人の手本となるようにだな――」
「慧音、私まで怒られてる気分になるからお説教は後にしてくれよ」
くどくどとお説教を始める慧音さんに、妹紅さんがため息をつき、蓮子は飄々とそれを聞き流し、私は殊勝に縮こまるしかなかった。
――もちろん、この時点で私たちはまだ知らない。
翌日の朝、博麗神社が局所的大地震により瓦礫の山と化すことを。
また、この時点で既に何人かは、この異変の首謀者の元に辿り着いていたことを。
複数人が順繰りに異変の首謀者に辿り着いたという意味で、今回の異変は《三日置きの百鬼夜行》に類似していた。あのときは私たちは、誰より早く首謀者を見つけ出したのだが。
私たちが今回の異変の首謀者と邂逅するのは、この翌日――地震当日のこととなる。
―14―
「おやぶーん、てぇへんだ、てぇへんだぁー!」
私たちに、その事態を告げたのは無論のこと、東風谷早苗さんであった。
午前九時半の授業中、戸を蹴破るようにして、早苗さんは寺子屋に駆け込んできたのである。ちょうど私と蓮子は別々の教室でそれぞれ国語と算学を教えていたところで、早苗さんが飛び込んできたのは蓮子の方の教室だったが、私も騒ぎに思わず授業を中断して顔を出した。
「なんでえ、ハチ谷早苗ちゃん。何事?」
「大変なんですよ! 大事件です! いや超事件と言うべきです!」
息を切らせて早苗さんは言う。《文々。新聞》の大げさな見出しでもあるまいに。生徒たちも顔を見合わせ、「なになに?」「あ、山の巫女さんだ」などと言い合っている。
「はいはい深呼吸。で、何が大変なの」
「なんだなんだ、授業中だぞ。何の騒ぎだ?」
そこへ、職員室にいた慧音さんも顔を出した。慧音さんは早苗さんを見やって、「なんだ君か。今は授業中だぞ。探偵活動なら後で――」と呆れ顔で腰に手を当てる。
「それどころじゃありませんよ! 衝撃の展開です! スーパー戦隊だったら最終回近くでもう使わない基地のセットを最後に景気よくぶっ壊すようなアレが! もう第四十八話とかそのへんです! 次の戦隊のアイテムが玩具CMでネタバレされるあたりです!」
「すまないが、私たちにも解る言葉で話してもらえないか」
「どうどう、早苗ちゃん。具体的に、何があったのか話して。守矢神社に何かあったの?」
蓮子が肩に手を置いてなだめる。早苗さんは「ウチは無事ですよ!」と口を尖らせた。「じゃあ――」と蓮子が首を傾げると、早苗さんは東の方を指さして、叫ぶように言った。
「――いま博麗神社に行ったら、神社が破壊されてたんです! 全壊ですよ!」
博麗神社が全壊とは、全くもって穏やかな事態ではない。
急遽寺子屋を閉めて子供たちを帰宅させると、私たち――私と蓮子、慧音さんと早苗さんの四人は博麗神社へと急いだ。慧音さんは「私が様子を見てくるから君たちは授業を続けてくれ」と言ったのだが、雰囲気的にもう授業どころではなかったし、ここぞとばかりに蓮子が「私たちも霊夢ちゃんが心配ですよ」と情に訴え、それに慧音さんが折れたのである。まあ、もちろん私も蓮子も、霊夢さんのことを心配しているのは事実なのだが。
私は慧音さんに、蓮子は早苗さんに掴まって空を飛び、東へ向かう。里を出て、野道の上を進むと、その先に石段が見える、その上に博麗神社の本殿が――。
無かった。いや、正確には、建物としての本殿は既にその機能を喪失していた。
「……これは」
半信半疑という顔だった慧音さんも、目の前に広がったその光景には呆然と息を飲む。「ほら、言ったじゃないですか!」となぜか得意げな早苗さんを除いて、私と蓮子もわりと愕然と破壊された博麗神社を見つめるしかなかった。屋根が建物を押しつぶすような格好で、ぺしゃんこに潰れている。大震災の被災地の写真としてよく見た光景だった。からりと能天気な晴天が、寒々しい残骸を照りつけて焦がしている。
――そして、潰れた神社の梁の上に、呆然と座り込んだ博麗霊夢さんの姿がある。
「霊夢!」
「ん、ああ、慧音じゃない。あんた、こんなところに居ていいの? 里は大丈夫?」
「うん? 何があったんだ、いったい。神社がどうしてこんな――」
「は? 何言ってるのよ。凄かったじゃない、さっきの地震。おかげでこの有様よ」
頭を抱えてため息をつく霊夢さんの言葉に、私たちは顔を見合わせる。――地震?
「……地震なんて、私は気付かなかったが。いつのことだ?」
「はあ? ついさっきよ、朝の九時頃。境内の掃除してたら、とんでもない揺れがきて――あっという間にこれよ。外にいたから良かったけど、中にいたらと思うとぞっとするわ。ああもう、どうしてくれるのよウチの神社――」
と言いかけたところで、霊夢さんの視線が早苗さんに留まる。
「――まさかこれ、あんたの仕業じゃないでしょうね?」
「へ?」
お祓い棒を突きつけられ、早苗さんはきょとんと目をしばたたかせる。
「な、何ですか藪から棒に! 濡れ衣ですよ!」
「だったら、なんであんたんトコの分社は無事なのよ?」
霊夢さんが視線を向けた先を振り向くと――確かに、境内の片隅の守矢神社の分社だけは、倒壊した本殿とは対照的に、ヒビひとつなく元通り鎮座している。
「それは――神奈子様と諏訪子様の神徳というものです! そちらの不信心と信仰不足がこんな事態を招いたんじゃないですか? だから最初からウチに神社を譲っておけば良かったんですよ。基地も壊されたんですし、幻想戦隊ハクレイジャーは放送終了です! 来週からは新番組、守矢戦隊ミシャグジャーの放送開始ですから守矢神社に天下を譲り渡すのです!」
「なんだか解らないけど、やっぱりアンタたちがウチを乗っ取りに実力行使に出たってわけね。いい度胸してるじゃない。幻想郷に神社はひとつで充分よ!」
「異議あり! 冤罪です! 守矢神社は断固として無実を主張します! 解って頂けないようなら、実力で解らせるしかありませんね!」
巫女二人、お祓い棒を構えて対峙する。慧音さんが止めに入るかと思ったが、神社の残骸を見ながら「どういうことだ……?」と唸っており、それどころではなさそうだ。――そうこうしているうちに、神社上空で早苗さんと霊夢さんの弾幕ごっこが始まってしまった。
「蓮子、ちょっと、どうするの?」
「まあ、あの二人は気が済むまでやり合わせておけばいいとして――問題はこれよ」
相棒も倒壊した神社に視線を向け、腕を組んで唸った。
「慧音さん、何か解ります?」
「私は建築や地盤の専門家ではないから、はっきりとしたことは言えないが……地震で崩れたという霊夢の言葉に嘘はなさそうだな。屋根が落ちてくる形で建物が潰れるのは、大きな地震のときに見られる壊れ方だと私も聞いたことがある」
「ええ、それはこちらも同一見解ですわ。でも――」
「……そんな地震、なかったわよね?」
「そう、それだ。霊夢は九時頃と言っていたが――」
九時なら、寺子屋に生徒が集まって、授業が始まった時間である。博麗神社が潰れるほどの大きな地震があったなら、里にも相当の被害が出たはずなのだ。誰ひとりとして地震そのものに気付かなかったなど、有り得る話ではない。
少なくとも、里にいた私たちは一切、地震らしきものを感知しなかった。だが、目の前の現実として、博麗神社はぺしゃんこに潰れており、霊夢さんは大地震があったという。まさか、博麗神社の境内だけが震度7級に揺れるような超局所的地震でも起きたというのか?
「……私は、里の様子を見てくる。現実問題として神社がこれなんだ、里のどこかで被害が出ているかもしれない」
慧音さんが不安げな顔で里の方を振り向いた。晴れた空に黒煙は見えないから、少なくとも火事が起きているということはなさそうであるが――里の端の方で被害が出ていたら、中心部にいた私たちには情報が届いていなかった可能性は確かにある。私たちが揺れを一切関知しなかったという矛盾に目を瞑れば、だが。
「解りました。お気を付けて」
「君たちも注意しろ。本当に地震なら、余震が来るかもしれない」
「あるいは、これが前震で、本震はこれからということも有り得ますね」
「……そうだな。とにかく、霊夢は任せた」
慧音さんはそう言い残し、忙しなく地を蹴って里の方へ飛んでいった。それを見送って、また神社の方を振り向くと、弾幕ごっこの勝負がついたようで、ふたりが舞い降りてくる。
「東風谷早苗、逆転無罪です! やはり正義は勝つのですね!」
「ああもうっ、やってらんないわ」
晴れやかな笑顔の早苗さんと、仏頂面で地団駄を踏む霊夢さん。どうやら早苗さんが勝ったらしい。それのせいなのかどうか、心なしか日射しが弱まった気がした。
まあ、それはいいとして――。
「霊夢ちゃん、大丈夫? 地震で怪我とかしなかったの?」
「ん? ああ、それは平気だけど」
「じゃあ、地震が起きたときのこと、詳しく教えてくれない?」
「そんなこと言われてもね。さっきも言った通り、境内の掃除してたら急にとんでもない揺れがきて、立ってられないぐらいで――目の前で神社がめりめりめりって音たてて崩れて、ご覧の有様ってわけ」
「揺れはどのくらいで収まったの?」
「さあ……数分じゃない? ていうか、あんたたちこそ大丈夫だったの?」
「いやあ――それは、里ではぴくりとも揺れを感じなかったのよ。ねえメリー」
「ええ、全く」
「どういうことよ? あんな大きな地震、目と鼻の先の里が揺れないわけ――」
「でも実際揺れなかったのよ。慧音さんが確認に行ってるけど、少なくとも里の中心部にも、私たちがここに来るまでに見えた光景にも、それらしき被害の様子はなかったわ」
「……本当に? だったら、あの揺れは何だったっていうのよ」
「神様を蔑ろにして信仰集めをサボっている神社への天罰じゃないですかあ?」
「うっさい黙れ」
煽るような意地の悪い笑みを浮かべる早苗さんに、霊夢さんが木材の破片を投げつける。
「ふむ。まあ、何にしても、霊夢ちゃんどうするのこれ。神社、家も兼ねてたんでしょ?」
「ああ、そうよ! 今日私どこで寝ればいいのよ! あーもう腹立つ!」
唸る霊夢さんに、蓮子は「まあそれは慧音さんにでも相談して」と肩を叩くと、私と早苗さんの方を振り返った。
「ちょっとちょっと、三人で相談」
「なんですか、所長」
ふて腐れた霊夢さんから離れ、私たちは境内の隅で顔を突き合わせてしゃがみ込む。
「整理しましょ。昨日までの調査で、異常気象と緋色の雲は地震の宏観前兆であることが判明した。そして今日、博麗神社が謎の局所的地震で倒壊したわ。――これはもう、ひとつながりの異変と考えるべきでしょう。そして、早苗ちゃんにはまだ言ってなかったんだけど、昨日私たちは永遠亭で重大な情報を聞き込んできたわ」
「犯人がわかったんですか?」
「その可能性もあるわね。――永遠亭の八意先生の見立てだと、この異変は天界の天人が地上にちょっかいをかけている可能性が高いようなの?」
「天界? って、天国ですか?」
「さて、天国なのかどうかは知らないけど、この幻想郷の上空にある、解脱した仙人や成仏した魂が行く場所らしいわ。――で、その場所に行く近道があるそうなの」
「ああ……」
私は頷いて早苗さんを見やる。早苗さんは不思議そうに首を傾げた。
「近道、ですか」
「そう。――妖怪の山の頂上から行くのが早いらしいのよ」
相棒のその言葉に、早苗さんはきょとんと目を見開き――次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「そういうことですか! それならこの東風谷早苗にお任せください、所長!」
「……って蓮子、それ霊夢さんに伝えないの?」
「いやあ、だってまだ確証があるわけじゃないし。先に私たちが行って確かめてきた方がいいでしょ? 濡れ衣だったら向こうが迷惑じゃない。また地震起こされたらたまらないわ」
蓮子はぬけぬけとそう言うけれど、単に異変の首謀者のところへ先回りしたいだけだろう。
私は霊夢さんの方を振り返る。霊夢さんは「うがー」とまだ唸っていた。あれは、立ち直るのにもう少しかかりそうだ。
「というわけで、メリー、早苗ちゃん。私たちは天界を目指すわよ!」
「おー!」
「ああ、こうやってまた霊夢さんからの疑いが深まるのね……」
小声で気合いを入れるふたりを尻目に、私はただため息をつくしかないのだった。
―15―
かくして、早苗さんに抱えられての、毎度の空飛ぶ山登りである。ただし普段の目的地は五合目にある守矢神社だが、今日は山頂のその先だ。
「でも、山頂のさらに上って生身で行って大丈夫なのかしら。酸素とか気温とか……」
「大丈夫ですメリーさん! そのへんは守矢の風祝の力でなんとでもなります!」
「ご都合主義って素晴らしいわね」
「起こせるから奇跡っていうんですよ」
そんなことを言い合いながら、妖怪の山の頂上へ向かって飛んでいく。――と。
木立が途切れ、山の岩肌が見えて来たあたりで、不意に風が強まってきた。私と蓮子は帽子が飛ばされないように慌てて押さえる。おまけに頬に当たるのは雨だ。山の天気は変わりやすいとは言うけれど――これは。
「早苗ちゃん、ちょっと風起こしすぎじゃない?」
「いや、これ私じゃありませんよ」
「てことは――これも誰かの気質が起こした天候かしら?」
蓮子がそう呟き、目をすがめる。そこへ、ばさりと羽音をたてて舞い降りてくる影ひとつ。
「あやややや、これはこれは、守矢の巫女さんに探偵事務所のおふたりではないですか。神社はもう通り過ぎてますよ?」
毎度おなじみ、射命丸文さんだった。短いスカートを強風にはためかせながら、こちらを怪訝そうに見つめる射命丸さんに、早苗さんは「ああ、天狗の新聞屋さん」と笑いかける。
「今日は三人で山登りなんです」
「こんな強風の中ですか? 遭難しても知りませんよ。だいたいこの先は天狗の領域でして、友好条約を結んだとはいえそうホイホイ入って来られても困るのですが」
「えー。いいじゃないですか、ちょっと山頂を目指すぐらい。そっちこそホイホイうちの神社にやって来てしょっちゅう宴会してるじゃないですかー」
「いや、あれはそちらの神様が我々を呼びつけているんでしょう」
「じゃあ新聞屋さんが私たちを天狗の領域に招待してくださいよ。水臭いじゃないですか」
「あやや。そう言われましても私の一存では何とも」
「天狗の偉い人の代行じゃなかったんです?」
「代行とは一時的なものなのです。山頂に何をしに行くんですか?」
「それはですね――」
「企業秘密ですわ、射命丸さん」
得意げに言いかけた早苗さんを遮って、蓮子が指を立てて言う。「あや?」と射命丸さんはまた怪訝そうに目を細めて、「怪しいですね」とひとつ唸った。
「にわかに山登りブームでも起きているのですか? 天狗にとっては迷惑なブームですが」
「ん? 同じように山頂を目指した人が前にもいたんです?」
蓮子の問いに、「ええ、それはもう」と射命丸さんは頷く。
「昨日は紅魔館のメイドが通っていきましたし、その前には同じく紅魔館の魔法使いが飛んでいったという報告が。さらにその前には伊吹様が来たり、冥界のお嬢様が来たり……」
私達は顔を見合わせる。咲夜さんにパチュリーさん、萃香さんに幽々子さんが、既に私たちと同じように天界を目指していたのか。――ということはやはり、異変の首謀者は天界にいると考えていいのだろうか。
「……というか射命丸さん、この様子だとまだ博麗神社のこと知らなさそうね」
蓮子が小声で言う。確かに、博麗神社が倒壊するというビッグニュースを知りながら、射命丸さんが山でのんびりしているとは考えにくい。
「もうそれだけ通ってるなら、私たちも通してくださいよ」
早苗さんが言うと、射命丸さんは腕を組んで首を振る。
「そうは言われましてもね。一応立場上止めないわけにもいかないわけですが……」
射命丸さんは困ったように、早苗さんの小脇に抱えられた私と蓮子を見やった。
「……巫女さんひとりなら、まあ戦ってもいいんですが。そちらが探偵事務所のおふたりを抱えながらの弾幕ごっこはフェアではありませんね。とはいえただで通すわけにも……」
「あ、それなら取引しましょう! 取引!」
「取引ですか?」
得意げな顔で言う早苗さんに、射命丸さんが眉を寄せる。
「何か面白いネタでもお持ちです?」
「そりゃもう。――博麗神社で大事件ですよ! たぶん前代未聞の事態です!」
「大事件? ほほう、本当ですね? ガセで追い払おうという算段なら後が怖いですよ?」
「失礼ですね! 神奈子様と諏訪子様の名に誓って本当ですよ!」
「……ですか?」
「本当ですわ」
確認するように私たちを見やった射命丸さんに、私たちは頷く。
「――いいでしょう。では取引成立です。私が話を通しておくので、勝手に山頂なりどこへなり、お好きにどうぞ」
「はーい! 天狗さん、ありがとうございまーす!」
「射命丸です。そろそろ名前覚えてくれませんかね、巫女さん」
「それなら私の名前も覚えてくださいよ写メさん。東風谷早苗です! あと風祝です!」
「射命丸です! あと私は新聞記者です!」
そんなじゃれ合いのようなやりとりを合図に、私たちは射命丸さんの脇を通り過ぎて再び山頂へ向かって飛んでいく。射命丸さんの姿が見えなくなる頃には、風雨も収まっていた。やはりあれは射命丸さんの気質が引き起こしていた天候だったらしい。
「――早苗さん、射命丸さんと仲良いのね」
「え、そんなことないですよ。あの新聞屋さん、酒癖悪いので宴会ではあんまり顔合わせたくないんですよね」
「でも、天狗も風祝も風を起こす同士、わりとお似合いじゃない? 早苗ちゃん」
「ええー? 天狗と一緒にしないでくださいよぉ。私は神様ですから! 天狗なんかよりずっと偉いんです!」
「幻想郷の場合、神様もピンキリだからねえ」
「あ、なんかひどいこと言ってますね蓮子さん! ピンでもキリでも……あれ、ピンキリのピンとキリってどっちが偉いんですか? 穴を開ける能力的にキリですかね?」
「いや、ピンとキリってそっちの意味じゃなかったと思うけど」
そんな益体のない話をしているうちに、雲の覆い被さった山頂が近付いてくる。気温が下がってきて、私はぶるりと身を震わせた。やっぱりもうちょっと防寒対策してくれば良かった。相棒の季節感を無視したトレンチコートが今は羨ましい。
「あ、蓮子さんメリーさん、見てください! あれですよあれ!」
と、早苗さんが指さした先――。
「……あれが、緋色の雲」
私たちの頭上に、緋色に染まった奇妙な雲が覆い被さっていた。不意に雷音が唸るように響く。あの雲の向こうが天界なのだろうか。
「なんか、ワクワクしてきますね! ラピュタは本当にあったんだ! 一切れのパンとナイフとランプの準備はいいですか! 四〇秒で支度していきますよー!」
前世紀の古典的名作アニメの主題歌を鼻歌で口ずさみながら、早苗さんはぐっと上昇するスピードを速めた。私たちはぎゅっと早苗さんに強くしがみつくしかない。
――そして、私たちは緋色の雲に突入した。
第7章 緋想天編 一覧
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まさか本当に山を登るとは。ある程度予想できたとはいえ、好奇心旺盛な蓮子のことだから早い内に行くだろうとは思ってましたけど、翌日にもう行くとは。メリーも大変ですね。
次回に衣玖さんかな?早苗との空気が読めるのかどうか気になります。