【第4話――2日前〜前日】
―10―
さて、紅魔館でのどったんばったん大騒ぎが終わった翌日――即ち、地震二日前については、語ることは特にない。なぜかというと、早苗さんが事務所に来なかったのもあるが、何より慧音さん主導での自警団・消防団による防災呼びかけに駆り出されてしまったからである。
「そもそもの言い出しっぺは君たちなんだから、しっかり頼むぞ」
「いや、私たちは情報を聞き込んできただけなんですけど」
「だから、それを知らせずに被害が出たら君たちも寝覚めが悪いだろう? 寺子屋の教師として、生徒の安全を守ることも仕事のうちではないか?」
慧音さんに笑顔でそう言われてしまっては、雇用されている身としては抗う術もない。かくして私と蓮子は、寺子屋の終わったあと、慧音さんや小兎姫さんらと一緒に、防災の備えを呼びかけながら里を練り歩く羽目になったわけである。
里じゅうを練り歩いてくたくたになってからでは、地震の宏観前兆を調べる気力もない。せめて家の中の家具の固定だけでもと、蓮子とともに軽く箪笥の固定程度はしたのだが、屋根が崩れてきたらひとたまりもないので、気休め程度のものである。
そんなこんなで一日が何事もなく過ぎ、その翌日。その日も私たちは寺子屋を閉めたあと、慧音さんに連れられて防災呼びかけの練り歩きに駆り出されていたのだが――。
「……ねえ、蓮子」
「うん? どうしたのメリー」
先頭を歩く慧音さんが拍子木を打ち鳴らしながら防災の備えを訴える声に紛れて、私は小声で相棒に呼びかけた。
「なんだか、誰かに見られてるっぽいんだけど……」
「え? 藍さんじゃなくて?」
賢者の式神である八雲藍さんは、私たちに危険が及ばないように、普段それとなく私たちのことを見張っているらしい。どこまで本当なのかはわからないが。
「藍さんは里の中までは見張ってないと思うけど……そうじゃなくて、もっと解りやすい、はっきりした視線」
「そう? 私は感じないけど。メリーの目だから何か視えてるのかしら?」
相棒は首を傾げ、一行が大通りに差し掛かったところで、先頭の慧音さんに声を掛けた。
「慧音さん、すみません。ちょっとメリーとお花摘みに……済んだら追いかけますから、先に進んでてください」
「うん? そうか、それは構わんが、このあたりで厠を借りる宛てはあるのか?」
「ええ、大丈夫ですわ。では、ちょっと失礼します。ほらメリー、行くわよ」
「あ、う、うん」
蓮子に手を引かれ、私たちは防災呼びかけの列から外れ、慧音さんたちの視界の外に出る。さて、と私たちは顔を見合わせた。もちろん、探す相手は視線の主であるのだが――。
里の雑踏に紛れていたのだろう、その視線の主は、私たちが列から外れたことで少し慌てたのか、意外とあっさりボロを出した。私はそこに視線を向ける。一見、何も無いように見える空間――蓮子にはそう見えているのだろう。だが、私はその空間の位相がずれていることがわかる。知り合いで、そんな能力を持っているひとと言えば――永遠亭の兎さんだ。
「……鈴仙さんですよね?」
「しーっ! ああもう、なんで見つかるのよ」
位相のずれが私たちのそばに近付いてきて、そこから鈴仙さんが姿を現した。甚平に編笠姿ではなく、夏服らしいワイシャツに青いスカートを身につけていることからすれば、里に薬売りに来たわけではなさそうだ。そもそも薬売りなら姿を隠す理由もあるまい。
姿を現した鈴仙さんに「おおう」と目を丸くした蓮子は、しかし次の瞬間には目を輝かせて、「これはこれは、マクスウェルの兎さんが何の御用かしら? そろそろその目の能力について私に詳しく実験させていただけるのなら嬉しいけれど」と笑みを浮かべた。
「それはお断り」
「えー」
すげなく却下され、蓮子は口を尖らせる。鈴仙さんはそれに構わず、私の方を見やった。
「それより、里で防災を呼びかけているってことは、里の人間も気付いているの?」
「……地震の宏観前兆のことですか? ひょっとして、鈴仙さんもそれを調べに?」
「そうよ。不自然な天気に不自然な色の雲……大きな地震が来る前兆だわ。幻想郷の連中はみんな気付いてないのかと思ってたけど。あの吸血鬼も解ってないみたいだったし」
「吸血鬼って、紅魔館の?」
「そう、昨日情報収集であちこち回ってて、紅魔館にも行ったんだけど……なんか突然犯人扱いされて、酷い目に遭ったわ」
鈴仙さんは大きくため息をつく。レミリア嬢は蓮子に誤魔化されたことに気付いて、自力で犯人探しを始めたのだろう。まあ、お嬢様の場合「怪しい奴を全員倒せばその中に犯人がいるだろう」式の総当たり(物理)捜査だろうが。
「だから驚いたのよ。里に来てみたら貴方たちが防災の呼びかけなんかしているから。貴方たち、地震に関して何か知っているの?」
「いやあ、それがどうも、私たちもこの異常気象と緋色の雲が地震の前兆らしいという話を、アリスさんから聞いただけで。この呼びかけも念のため、程度のものですわ」
「なんだ、そうなの。アリスって、あのとき永遠亭に攻めてきた人形遣いだっけ?」
蓮子の答えに、鈴仙さんは拍子抜けしたように肩を竦めた。
「そっちは、八意先生の指示で動いているの?」
「そうよ。お師匠様が気になるから調べて来なさい、って」
「じゃあ、八意先生も具体的にいつ地震が起こるかまでは把握してないのかしら」
「いくらなんでもお師匠様でも地震予知までは……出来るのかなあ?」
外の世界を凌駕する超科学を擁するらしい(伝聞)月の民である永琳さんなら、そのぐらいは普通にありそうに思えるから困ったものである。
「そうそう、鈴仙ちゃんは今までどこを見てきたのかしら」
「貴方にちゃん付けで呼ばれる筋合いはないんだけど」
「まあまあ。永夜異変から数えたらもうそれなりの付き合いじゃない」
「付き合ってません。そっちが勝手にまとわりついてくるだけでしょ!」
「その目を調べさせてくれればいいだけなのに」
「お師匠様みたいなこと言わないでってば」
「で、各地の異常気象は実際どうなの?」
「急に話が戻るのね……。目立ったところだと、冥界は完全に季節外れの雪景色だったわ」
「雪景色? そういえば霊夢ちゃんが、幽々子お嬢様が来ると雪が降ったって言ってたわね。冥界がこの季節に冬を集めたせいで幻想郷の自然のバランスが崩れたのかしら」
「さあ……って、とにかく、貴方たちが特に情報持ってないなら私はこれで失礼するわ」
鈴仙さんは憤然とそう言って、くるりと私たちに背を向ける。
「あ、鈴仙ちゃん」
「だからちゃん付けするな!」
それを呼び止めた蓮子に、振り返って吠える鈴仙さん。無視もできただろうに、ちゃん付けに反応して振り返るあたり、律儀なのか、それとも相棒の作戦勝ちなのか。
そんなことはともかく、相棒はにっと猫のように笑って、帽子の庇を持ち上げた。
「あとで、永遠亭にお邪魔したいから、八意先生によろしく伝えておいていただける?」
「――はあ?」
―11―
鈴仙さんと別れた後、慧音さんたちに追いつき、里の巡回と呼びかけを済ませると、時間はもう夕刻に近付こうとしていた。真夏なのでまだ陽は高いが、里の外に出かけるには心もとない時間である。遅くなるとまた慧音さんに怒られるし。
ならば、慧音さん公認の状況で外に出れば良い、という結論に至るのは必然と言える。
「慧音さん。今晩、妹紅のところ行きません?」
「うん? それは構わないが、君たちの方から言い出すとは珍しいな」
帰り際、蓮子がそう声を掛けると、慧音さんは意外そうに首を傾げた。確かに、私たちが妹紅さんのところに遊びに行くのは大抵の場合、慧音さんからの誘いか、あるいは慧音さん抜きで勝手に竹林に向かうかであるからして。
「……何か企んでいるな?」
察しの良い慧音さんは、じろりと半眼でこちらを睨んだ。蓮子は「さすが慧音さん、聡明であらせられますわ」と開けっ広げに笑う。「君らが何か言い出したときは大抵そうだ」と慧音さんは呆れ顔で息を吐いた。
「いやあ、ちょっと永遠亭に行きたくてですね」
「今からか? どこか悪いのか」
「いえいえ、そういうわけではなく。ちょっとした野暮用ですわ。でも今から行ったら帰りが遅くなっちゃうので、妹紅のところで晩御飯食べて慧音さんと一緒に帰るのが一番安全かなあと愚考した次第で」
「それは、今日でなくてはならないのか?」
「だって明日もこの呼びかけ巡回をやるんでしょう?」
「……まあ、いつまで続けるかは検討中だが」
慧音さんはしばし考えるように目を閉じ、「解った」と観念したように息を吐いた。
「君たちのことだ、どうせ止めても勝手に動き回るだろう。それなら予め話を通して無茶をしない約束をしてくれるだけ有難い。だが、気を付けるんだぞ。竹林の方は何やら暑いらしいし」
「ご心配なく。それじゃあ、私たちは先に竹林に行ってますので」
「あ、こら、まだ話が途中――」
くだくだしく言い募ろうとした慧音さんを振り切るように、相棒は私の手を引いて勝手に歩き出した。私は慧音さんに頭を下げつつ、蓮子に引きずられていく。――全く、早苗さんがいないならいないで、相棒はこれなのだから、どっちにしても私は振り回されるばかりだ。
「……で、永遠亭に何しに行くの?」
私がそう問いかけると、相棒は得意げな笑みを浮かべて、帽子の庇を持ち上げる。
「八意先生が、どういう理由で鈴仙ちゃんに調査を命じたのか――それを聞きに行くの」
かくして、やって来たるは通い慣れた迷いの竹林であるわけだが。
「なんか、暑くない?」
「暑いわねえ。これも異常気象の一部かしら」
鬱蒼とした竹林は、普段は薄暗く、陽が差さないので涼しい……はずなのだが。
今、妹紅さんの家に向かいながら、私たちは異様な暑さに汗を拭っていた。蒸す暑さではない。砂漠のような――いや、実際の砂漠を歩いたことはないが、そんな乾いた炎天の暑さだ。竹林の陰も、突き刺すような日射しを遮りきれず、私たちの足元に濃い影を落としている。変温動物の相棒も、さすがにトレンチコートを脱いで腕に掛けていた。
「博麗神社も日照りで暑かったけど、こっちもすごいわね。メリー、大丈夫?」
「早いところ屋内に避難させてほしいわ」
「もうちょっとの辛抱よ。――あ、あそこ」
目指す妹紅さんのあばら屋が見えてきて、私たちはほっと息を吐く。どうにかその玄関まで辿り着き、蓮子が「妹紅、いる?」と戸を叩くと、中から「おう、入れ」と妹紅さんの声。
「お邪魔しま……って妹紅、なんて格好してるの」
「暑いんだから仕方ないだろ。慧音みたいなこと言うなよ」
家に足を踏み入れる。日射しが遮られても、熱気は籠もって、やっぱり暑い。その中で妹紅さんは、ほとんど半裸に近い格好で団扇を忙しなく動かしていた。まあ、気持ちは解る。私も脱げるものなら脱いでしまいたい暑さだ。
「妹紅、普段から炎使ってるじゃない」
「ありゃ別だ。今年の暑さは異常だよ。お前らこそ、よくそんな格好で平気だな」
「いやあ、里はここまで暑くないわよ。竹林だけ暑さが異常なんだわ」
「そうなのか?」
妹紅さんはきょとんと目をしばたたかせる。妹紅さんは竹林の外にはあまり出ないから、竹林の気候が幻想郷のスタンダードだと思っていたのだろう。そういえば、アリスさんも幻想郷中で雹が降っているように考えていたような……。
「ってことは、あの藪医者と輝夜がまた何かやってるのか?」
「さあ、そこまでは。竹林だけじゃなく幻想郷全体が異常気象だからねえ。妹紅は竹林に籠もってるから解らないでしょうけど、場所によって雹が降ったり雪が降ったりしてるのよ」
「なんだそれ。だいたい、私はそんな引きこもりじゃないぞ。輝夜と一緒にするな」
「じゃあ、最近どこか出かけた?」
「ええと……ああ、三日前の朝方、霧の湖に釣りに行ったけど、あっちも暑かったぞ。霧も出ないぐらいな。ろくに釣れなかったから昼には引き揚げたが」
「――え、三日前?」
私たちは思わず顔を見合わせる。三日前といえば……早苗さんがこの異常気象を異変だと言い出して、私たちが博麗神社や紅魔館に行ったあの日ではないか。
三日前に私たちが紅魔館に行ったのは午後のことだが、紅魔館と霧の湖の周辺は曇っていて、いつも通り霧が立ちこめていた。少なくともこんな異様な炎天ではなかったはずだ。そんなにすぐに天気が変わったのか。
「妹紅、それ三日前で間違いない?」
「なんだ? まあ、そりゃ私にとっちゃ三日も一ヵ月も一年も同じようなもんだけど、釣りに行ったのは三日前だな。三匹釣れた魚を一日一匹食って昨日なくなったから。それがどうかしたのか?」
「どうかしたも何も、それ、たぶん今回の異変のめちゃくちゃ重要な手がかりよ。さすが妹紅、伊達に長生きしてないわね」
「だから何の話だ? こっちに解るように話してくれ、蓮子」
呆れ顔の妹紅さんに構わず、蓮子は楽しげな笑みを浮かべて何度も頷く。相棒が何を考えているのか、私にはさっぱりわからない。
「ねえ蓮子、私も解らないんだけど、どういうこと?」
「――メリー、私たちは今まで、根本的な思い違いをしていたのよ」
「思い違い?」
「そう。この天候不順は、場所に依存するものだという誤解をね。そうでないとすれば、博麗神社に幽々子お嬢様が現れたときに雪が降ったっていうのも説明できるわ。――ああ、そうか。だから気質の異変なのかしら? 天気は天の気質、じゃあ人の気質が……」
「ちょっと蓮子、だから独り合点しないでよ」
「まあ待って。まだちょっと仮説の整理中だから」
そう言って蓮子はその場をぐるぐると歩き回ると、「どうやら、そういうことだと考えるべきなんでしょうね」と頷いた。
「……考えはまとまった?」
「ええ。――単純にまとめれば、この異常気象は場所じゃなく、個人に依存するんだわ」
「個人に……?」
「そう。博麗神社は快晴、守矢神社は梅雨、魔法の森は雨や雹、紅魔館は曇りで人間の里は至極不安定、冥界は雪、そして迷いの竹林は真夏の炎天――私たちはこの異常気象を、場所に依存するものだと思い込んでいたの。過去に、冥界に春が集められたこともあったしね。それと同じように、今回の異変も幻想郷の各地で異常気象が起きているのだと、私も思い込まされていたわ。そりゃそうね、科学世紀の論理なら天候は地球的自然現象であって、個人的現象では有り得ない。雨男は単なる確率論というのが理性的態度というもの。――だけど、幻想郷では科学世紀の論理は通用しないわ。雨男は幻想郷なら正しい理屈として成立するのよ」
「……え? つまりこの異常気象は、場所が問題なんじゃなく、その場にいる人が問題だっていうこと?」
「そういうことよ、メリー」
パチンと指を鳴らし、相棒は三和土に腰を下ろしてひとつ頷く。
「妹紅が霧の湖に行ったら霧の湖も炎天下になった。幽々子お嬢様が博麗神社に現れたら雪が降り出した。これは、場所依存の異常気象では起こりえない現象だわ。となれば、今のこの竹林の暑さを呼んでいるのは――妹紅、貴方自身なのよ」
「は? 私がか?」
ぽかんと口を開けた妹紅さんに、蓮子は頷く。
「そう。美鈴さんはこれが気の流れの異変、気質の異変だと言っていたし、パチュリーさんも魔法使いは気質に敏感だと言っていたわ。そう、私たちはひとりひとり、何らかの気質を持っている。そして天気が天の気質だとすれば、私たち自身の気質が流れ出るか何かして、天の気質に影響を及ぼしているんじゃないかしら。――アリスさんの言う緋色の雲っていうのも、それと関係あるのかもしれないわね」
「気質が流れ出る……って、それ、大丈夫なの? っていうか私たちも?」
「さあ、まだ仮説だから何ともだけど。要するに、博麗神社が晴れ続きなのは霊夢ちゃんが極端な晴れ女になっているからで、魔法の森に雹が降るのもアリスさんが雹女になってるから、と考えるべきなんだと思うわ。だから霊夢ちゃんはずっと日照り続きだと、アリスさんは雹続きだと思っていたのよ。どこに行っても自分の周囲はずっと同じ天気だから」
――なるほど、理屈は通っているようにも思える。思えるけれど。
「蓮子、質問」
「はいメリー、なに?」
「言いたいことは解るけど。じゃあその場合、霊夢さんとアリスさんが同じ場所にいたら、天気はどうなるわけ? 晴れた空から雹が降るの?」
「そう、そこが問題なのよ。――守矢神社は梅雨続きって、早苗ちゃんが言ってたでしょ? でも早苗ちゃんが里や紅魔館や魔法の森に言っても、雨は降らなかった。ということは、守矢神社を明けない梅雨にしているのは八坂様か洩矢様なんでしょうね。――そして早苗ちゃん自身はこの異変の影響を受けていないか、あるいは何か別の天気を引き起こしているけれど、他の誰かの天気に掻き消されているんじゃないかと思うわ」
「掻き消され……?」
「そうよ。そう考えないと本当にしっちゃかめっちゃかだもの。もし私たちひとりひとりが別の天気を引き起こす状態になっていたとして、それが全て同時に発動するなら、人間の里はとんでもないことになってたはずだわ。晴れながら曇りで雨と雪と雹とみぞれと雷と台風が同時に来るとかね。でも、里の天気は不安定なだけで、そこまでおかしなことにはなっていなかったでしょう? ということは、天候の発現には何らかの優先順位が働いているんだと思うわ」
「優先順位……じゃあ、今私たちがいるこの竹林がこの暑さなのは、妹紅さんの気質による天候が優先的に発動してるってこと?」
「そういうことじゃないかしらね。私とメリーも何らかの天候を引き起こしているのかもしれないけど、何しろ私たちの周囲は人間も妖怪も強者揃いだから、脆弱な人間風情の気質なんて掻き消されちゃってるんじゃないかしら」
「魔理沙さんが雨続きだって言ってるのに、博麗神社が晴れてたのも」
「何らかの理由で、霊夢ちゃんの気質が優先されたんでしょうね」
今の幻想郷は雨男と晴れ女がデートに出かけたらどういう天気になるのか、というジョークめいた思考実験が現実化した状態ということか。しかし聞けば聞くほど理屈が通っているような、強引なような、なんとも判断しがたい推理である。
「私にはなんだかさっぱり解らん」
妹紅さんはお手上げといった様子で、水桶から柄杓でごくごくと水を飲んでいる。
「……で、お前たちは何しに来たんだ? 慧音がいないところからすると察しはつくが」
「だいたいお察しの通りだと思いますわ」
「また永遠亭に行くから案内しろって言うんだろ。――本当に人体実験されても知らんぞ」
「大丈夫ですわ。もしされるとしてもメリーの方だから」
「大丈夫じゃないわよ!」
呵々と笑う蓮子の後頭部を私ははたき、妹紅さんは呆れたように肩を竦めた。
―12―
永遠亭に辿り着くと、妹紅さんは「じゃあ、後で迎えに来る」と言い残して引き返していった。妹紅さんの姿が視界から消えるとともに、不意に暑さが和らぐ。これまでが極端な炎天だっただけに、その落差はいっそ清々しいほどだった。
「ほら、私の言った通りでしょ?」
「……どうやら、そうみたいね」
妹紅さんがいなくなった途端に日射しが大人しくなり気温が下がったのだから、蓮子の異常気象個人依存説に強い裏付けが得られたと考えるべきだろう。あの炎天を引き起こしていたのは妹紅さんだったわけだ。
「さて、そのへんも含めて八意先生の見解を伺えればいいけど……ごめんくださーい」
蓮子が永遠亭の中へ向けて声をあげると、庭の方からわらわらとイナバたちが駆け寄ってきた。その中心にいるのは、おなじみ因幡てゐさんである。
「お、いつもの二人じゃん。今日は誰に用?」
「八意先生にお目通り願いたいですわ」
「お師匠様に? いいけど、人体実験されないように気を付けなよー」
というわけで、てゐさんに案内されて私たちは永遠亭に足を踏み入れる。長い廊下を進み、ひとつの襖の前で「お師匠様ー、お客さんだよー」とてゐさんが声を掛けると、襖を開け放って顔を出した永琳さんが「あら」と小首を傾げた。
「こんにちは、ご無沙汰してますわ」
「ど、どうも」
「いらっしゃい。私に用ということは、どこか具合でも悪いの? それともその子の目と脳をいよいよ提供してもらえるのかしら」
怖いことを言わないでほしい。というかまだ私の目の構造に興味を持っていたのか。
「いえいえ、二人とも健康そのものですし、メリーを献体する予定もありませんわ、残念ながら。――今日はちょっと、調べていることがありまして」
「ふうん。まあいいわ、どうぞお入りなさい」
永琳さんに促され、和室に足を踏み入れる。座布団に腰を下ろすと、永琳さんは何か書き物をしていたらしい文机を脇に寄せて、私たちに向き直った。
「それで、私のところまで何の調査に?」
「そちらが、鈴仙さんに調べさせていることと同じですよ。今、幻想郷で起きている気質の乱れによる異常気象と、地震の前兆についてです」
「あら、この宏観前兆をもう把握しているとは、さすがに聡明ね」
永琳さんは驚いたように目を見開くが、彼女の場合どこまで本心なのかは計り知れない。何しろ何万年生きているのかも解らないような月の民、その賢者である。
「けれど、そこまで把握しているなら、もうここで私が教えられることは特にないわよ。指南できるとすれば、今すぐできる地震対策ぐらいかしら?」
「――なるほど、さすがは月の賢者様。今幻想郷で何が起きているかはとうにお見通しですか」
「鈴仙にいろいろと調べてきてもらったからよ」
肩を竦めた永琳さんに、蓮子はにやりと笑みを浮かべて、脱いだ帽子をひらりと振った。
「では八意先生、具体的に地震がいつ起きるかまではご存じない?」
「さすがに、そこまでは私の手に余るわね。しっかり備えをしておくことね」
「月の技術で、地震を阻止することは?」
「今の私は幻想郷の住民、月からの逃亡者よ。もしそんなものがあったとしても、今の私に使う術はないわ」
「それは仕方ありませんね。――では八意先生、もうひとつ」
「何かしら?」
「今回の異変の首謀者に、心当たりはありませんか?」
蓮子のその問いに、不意に永琳さんはすっと目を細めた。
「……どうしてそれを私に訊くのかしら?」
「月の賢者の叡知をもってすれば、あるいはご存じかとも思ったのですが」
「いくら月の民といっても、万物を見通すわけではないわよ」
「ええ、そうでしょう。――ただ、容疑者が天にいるとすれば、月は案外近しいのではないかと思いまして、ひょっとしたら八意先生と関わりがあるのではないかと」
唐突な蓮子の言葉に、私は思わず隣の相棒の横顔を見つめた。――容疑者が天に?
「その、容疑者が天にいる、というのはどういうことかしら?」
「いえ、推理というほどでもない当てずっぽうの推測ですわ。――おそらく現在の異常気象は、個人の気質が天気、すなわち天の気質に干渉して天候を狂わせているものと思われます。そしてこの異常気象と緋色の雲が地震の宏観前兆であるならば、気質の乱れによって異常気象が生じているように、緋色の雲も同様の気質を要因として発生しているのではないかと。――つまり、何者かが個人の気質を集めて緋色の雲を作り、それによって異常気象を発生させているのではないか、と考えました。――異常気象に対し、地上の民は常に天に対して祈りを捧げてきた歴史があります。ならば、緋色の雲を作り異常気象を起こしている主犯は、この天上にいる神様なのではないか――と考えた次第ですわ。たとえば、龍神とか」
「……なるほど」
蓮子の長広舌に、永琳さんはひとつ息を吐き、それから興味深げに蓮子を見つめた。
「貴方、やはり地上の民にしておくには惜しいわね。貴方の脳も調べさせてほしいものだわ」
「恐縮ですが、脳検査は死後でよろしくお願いいたしたいですね」
「まあ、それはいいとして――そこまで解っているなら、ひとつの誤解は解いておきましょう」
「誤解?」
首を傾げた蓮子に、永琳さんは目を細めて微笑んだ。
「少なくとも、龍神は気質を集めて緋色の雲を作って異常気象を起こす――などというまどろっこしいことはしないわ。龍神の力はもっと強大なものよ」
「では――」
「おそらくは、天人の仕業でしょうね」
「……天人?」
「そう。天界に暮らす暇を持て余した長寿の民。それが、地上にちょっかいをかけているのよ」
―10―
さて、紅魔館でのどったんばったん大騒ぎが終わった翌日――即ち、地震二日前については、語ることは特にない。なぜかというと、早苗さんが事務所に来なかったのもあるが、何より慧音さん主導での自警団・消防団による防災呼びかけに駆り出されてしまったからである。
「そもそもの言い出しっぺは君たちなんだから、しっかり頼むぞ」
「いや、私たちは情報を聞き込んできただけなんですけど」
「だから、それを知らせずに被害が出たら君たちも寝覚めが悪いだろう? 寺子屋の教師として、生徒の安全を守ることも仕事のうちではないか?」
慧音さんに笑顔でそう言われてしまっては、雇用されている身としては抗う術もない。かくして私と蓮子は、寺子屋の終わったあと、慧音さんや小兎姫さんらと一緒に、防災の備えを呼びかけながら里を練り歩く羽目になったわけである。
里じゅうを練り歩いてくたくたになってからでは、地震の宏観前兆を調べる気力もない。せめて家の中の家具の固定だけでもと、蓮子とともに軽く箪笥の固定程度はしたのだが、屋根が崩れてきたらひとたまりもないので、気休め程度のものである。
そんなこんなで一日が何事もなく過ぎ、その翌日。その日も私たちは寺子屋を閉めたあと、慧音さんに連れられて防災呼びかけの練り歩きに駆り出されていたのだが――。
「……ねえ、蓮子」
「うん? どうしたのメリー」
先頭を歩く慧音さんが拍子木を打ち鳴らしながら防災の備えを訴える声に紛れて、私は小声で相棒に呼びかけた。
「なんだか、誰かに見られてるっぽいんだけど……」
「え? 藍さんじゃなくて?」
賢者の式神である八雲藍さんは、私たちに危険が及ばないように、普段それとなく私たちのことを見張っているらしい。どこまで本当なのかはわからないが。
「藍さんは里の中までは見張ってないと思うけど……そうじゃなくて、もっと解りやすい、はっきりした視線」
「そう? 私は感じないけど。メリーの目だから何か視えてるのかしら?」
相棒は首を傾げ、一行が大通りに差し掛かったところで、先頭の慧音さんに声を掛けた。
「慧音さん、すみません。ちょっとメリーとお花摘みに……済んだら追いかけますから、先に進んでてください」
「うん? そうか、それは構わんが、このあたりで厠を借りる宛てはあるのか?」
「ええ、大丈夫ですわ。では、ちょっと失礼します。ほらメリー、行くわよ」
「あ、う、うん」
蓮子に手を引かれ、私たちは防災呼びかけの列から外れ、慧音さんたちの視界の外に出る。さて、と私たちは顔を見合わせた。もちろん、探す相手は視線の主であるのだが――。
里の雑踏に紛れていたのだろう、その視線の主は、私たちが列から外れたことで少し慌てたのか、意外とあっさりボロを出した。私はそこに視線を向ける。一見、何も無いように見える空間――蓮子にはそう見えているのだろう。だが、私はその空間の位相がずれていることがわかる。知り合いで、そんな能力を持っているひとと言えば――永遠亭の兎さんだ。
「……鈴仙さんですよね?」
「しーっ! ああもう、なんで見つかるのよ」
位相のずれが私たちのそばに近付いてきて、そこから鈴仙さんが姿を現した。甚平に編笠姿ではなく、夏服らしいワイシャツに青いスカートを身につけていることからすれば、里に薬売りに来たわけではなさそうだ。そもそも薬売りなら姿を隠す理由もあるまい。
姿を現した鈴仙さんに「おおう」と目を丸くした蓮子は、しかし次の瞬間には目を輝かせて、「これはこれは、マクスウェルの兎さんが何の御用かしら? そろそろその目の能力について私に詳しく実験させていただけるのなら嬉しいけれど」と笑みを浮かべた。
「それはお断り」
「えー」
すげなく却下され、蓮子は口を尖らせる。鈴仙さんはそれに構わず、私の方を見やった。
「それより、里で防災を呼びかけているってことは、里の人間も気付いているの?」
「……地震の宏観前兆のことですか? ひょっとして、鈴仙さんもそれを調べに?」
「そうよ。不自然な天気に不自然な色の雲……大きな地震が来る前兆だわ。幻想郷の連中はみんな気付いてないのかと思ってたけど。あの吸血鬼も解ってないみたいだったし」
「吸血鬼って、紅魔館の?」
「そう、昨日情報収集であちこち回ってて、紅魔館にも行ったんだけど……なんか突然犯人扱いされて、酷い目に遭ったわ」
鈴仙さんは大きくため息をつく。レミリア嬢は蓮子に誤魔化されたことに気付いて、自力で犯人探しを始めたのだろう。まあ、お嬢様の場合「怪しい奴を全員倒せばその中に犯人がいるだろう」式の総当たり(物理)捜査だろうが。
「だから驚いたのよ。里に来てみたら貴方たちが防災の呼びかけなんかしているから。貴方たち、地震に関して何か知っているの?」
「いやあ、それがどうも、私たちもこの異常気象と緋色の雲が地震の前兆らしいという話を、アリスさんから聞いただけで。この呼びかけも念のため、程度のものですわ」
「なんだ、そうなの。アリスって、あのとき永遠亭に攻めてきた人形遣いだっけ?」
蓮子の答えに、鈴仙さんは拍子抜けしたように肩を竦めた。
「そっちは、八意先生の指示で動いているの?」
「そうよ。お師匠様が気になるから調べて来なさい、って」
「じゃあ、八意先生も具体的にいつ地震が起こるかまでは把握してないのかしら」
「いくらなんでもお師匠様でも地震予知までは……出来るのかなあ?」
外の世界を凌駕する超科学を擁するらしい(伝聞)月の民である永琳さんなら、そのぐらいは普通にありそうに思えるから困ったものである。
「そうそう、鈴仙ちゃんは今までどこを見てきたのかしら」
「貴方にちゃん付けで呼ばれる筋合いはないんだけど」
「まあまあ。永夜異変から数えたらもうそれなりの付き合いじゃない」
「付き合ってません。そっちが勝手にまとわりついてくるだけでしょ!」
「その目を調べさせてくれればいいだけなのに」
「お師匠様みたいなこと言わないでってば」
「で、各地の異常気象は実際どうなの?」
「急に話が戻るのね……。目立ったところだと、冥界は完全に季節外れの雪景色だったわ」
「雪景色? そういえば霊夢ちゃんが、幽々子お嬢様が来ると雪が降ったって言ってたわね。冥界がこの季節に冬を集めたせいで幻想郷の自然のバランスが崩れたのかしら」
「さあ……って、とにかく、貴方たちが特に情報持ってないなら私はこれで失礼するわ」
鈴仙さんは憤然とそう言って、くるりと私たちに背を向ける。
「あ、鈴仙ちゃん」
「だからちゃん付けするな!」
それを呼び止めた蓮子に、振り返って吠える鈴仙さん。無視もできただろうに、ちゃん付けに反応して振り返るあたり、律儀なのか、それとも相棒の作戦勝ちなのか。
そんなことはともかく、相棒はにっと猫のように笑って、帽子の庇を持ち上げた。
「あとで、永遠亭にお邪魔したいから、八意先生によろしく伝えておいていただける?」
「――はあ?」
―11―
鈴仙さんと別れた後、慧音さんたちに追いつき、里の巡回と呼びかけを済ませると、時間はもう夕刻に近付こうとしていた。真夏なのでまだ陽は高いが、里の外に出かけるには心もとない時間である。遅くなるとまた慧音さんに怒られるし。
ならば、慧音さん公認の状況で外に出れば良い、という結論に至るのは必然と言える。
「慧音さん。今晩、妹紅のところ行きません?」
「うん? それは構わないが、君たちの方から言い出すとは珍しいな」
帰り際、蓮子がそう声を掛けると、慧音さんは意外そうに首を傾げた。確かに、私たちが妹紅さんのところに遊びに行くのは大抵の場合、慧音さんからの誘いか、あるいは慧音さん抜きで勝手に竹林に向かうかであるからして。
「……何か企んでいるな?」
察しの良い慧音さんは、じろりと半眼でこちらを睨んだ。蓮子は「さすが慧音さん、聡明であらせられますわ」と開けっ広げに笑う。「君らが何か言い出したときは大抵そうだ」と慧音さんは呆れ顔で息を吐いた。
「いやあ、ちょっと永遠亭に行きたくてですね」
「今からか? どこか悪いのか」
「いえいえ、そういうわけではなく。ちょっとした野暮用ですわ。でも今から行ったら帰りが遅くなっちゃうので、妹紅のところで晩御飯食べて慧音さんと一緒に帰るのが一番安全かなあと愚考した次第で」
「それは、今日でなくてはならないのか?」
「だって明日もこの呼びかけ巡回をやるんでしょう?」
「……まあ、いつまで続けるかは検討中だが」
慧音さんはしばし考えるように目を閉じ、「解った」と観念したように息を吐いた。
「君たちのことだ、どうせ止めても勝手に動き回るだろう。それなら予め話を通して無茶をしない約束をしてくれるだけ有難い。だが、気を付けるんだぞ。竹林の方は何やら暑いらしいし」
「ご心配なく。それじゃあ、私たちは先に竹林に行ってますので」
「あ、こら、まだ話が途中――」
くだくだしく言い募ろうとした慧音さんを振り切るように、相棒は私の手を引いて勝手に歩き出した。私は慧音さんに頭を下げつつ、蓮子に引きずられていく。――全く、早苗さんがいないならいないで、相棒はこれなのだから、どっちにしても私は振り回されるばかりだ。
「……で、永遠亭に何しに行くの?」
私がそう問いかけると、相棒は得意げな笑みを浮かべて、帽子の庇を持ち上げる。
「八意先生が、どういう理由で鈴仙ちゃんに調査を命じたのか――それを聞きに行くの」
かくして、やって来たるは通い慣れた迷いの竹林であるわけだが。
「なんか、暑くない?」
「暑いわねえ。これも異常気象の一部かしら」
鬱蒼とした竹林は、普段は薄暗く、陽が差さないので涼しい……はずなのだが。
今、妹紅さんの家に向かいながら、私たちは異様な暑さに汗を拭っていた。蒸す暑さではない。砂漠のような――いや、実際の砂漠を歩いたことはないが、そんな乾いた炎天の暑さだ。竹林の陰も、突き刺すような日射しを遮りきれず、私たちの足元に濃い影を落としている。変温動物の相棒も、さすがにトレンチコートを脱いで腕に掛けていた。
「博麗神社も日照りで暑かったけど、こっちもすごいわね。メリー、大丈夫?」
「早いところ屋内に避難させてほしいわ」
「もうちょっとの辛抱よ。――あ、あそこ」
目指す妹紅さんのあばら屋が見えてきて、私たちはほっと息を吐く。どうにかその玄関まで辿り着き、蓮子が「妹紅、いる?」と戸を叩くと、中から「おう、入れ」と妹紅さんの声。
「お邪魔しま……って妹紅、なんて格好してるの」
「暑いんだから仕方ないだろ。慧音みたいなこと言うなよ」
家に足を踏み入れる。日射しが遮られても、熱気は籠もって、やっぱり暑い。その中で妹紅さんは、ほとんど半裸に近い格好で団扇を忙しなく動かしていた。まあ、気持ちは解る。私も脱げるものなら脱いでしまいたい暑さだ。
「妹紅、普段から炎使ってるじゃない」
「ありゃ別だ。今年の暑さは異常だよ。お前らこそ、よくそんな格好で平気だな」
「いやあ、里はここまで暑くないわよ。竹林だけ暑さが異常なんだわ」
「そうなのか?」
妹紅さんはきょとんと目をしばたたかせる。妹紅さんは竹林の外にはあまり出ないから、竹林の気候が幻想郷のスタンダードだと思っていたのだろう。そういえば、アリスさんも幻想郷中で雹が降っているように考えていたような……。
「ってことは、あの藪医者と輝夜がまた何かやってるのか?」
「さあ、そこまでは。竹林だけじゃなく幻想郷全体が異常気象だからねえ。妹紅は竹林に籠もってるから解らないでしょうけど、場所によって雹が降ったり雪が降ったりしてるのよ」
「なんだそれ。だいたい、私はそんな引きこもりじゃないぞ。輝夜と一緒にするな」
「じゃあ、最近どこか出かけた?」
「ええと……ああ、三日前の朝方、霧の湖に釣りに行ったけど、あっちも暑かったぞ。霧も出ないぐらいな。ろくに釣れなかったから昼には引き揚げたが」
「――え、三日前?」
私たちは思わず顔を見合わせる。三日前といえば……早苗さんがこの異常気象を異変だと言い出して、私たちが博麗神社や紅魔館に行ったあの日ではないか。
三日前に私たちが紅魔館に行ったのは午後のことだが、紅魔館と霧の湖の周辺は曇っていて、いつも通り霧が立ちこめていた。少なくともこんな異様な炎天ではなかったはずだ。そんなにすぐに天気が変わったのか。
「妹紅、それ三日前で間違いない?」
「なんだ? まあ、そりゃ私にとっちゃ三日も一ヵ月も一年も同じようなもんだけど、釣りに行ったのは三日前だな。三匹釣れた魚を一日一匹食って昨日なくなったから。それがどうかしたのか?」
「どうかしたも何も、それ、たぶん今回の異変のめちゃくちゃ重要な手がかりよ。さすが妹紅、伊達に長生きしてないわね」
「だから何の話だ? こっちに解るように話してくれ、蓮子」
呆れ顔の妹紅さんに構わず、蓮子は楽しげな笑みを浮かべて何度も頷く。相棒が何を考えているのか、私にはさっぱりわからない。
「ねえ蓮子、私も解らないんだけど、どういうこと?」
「――メリー、私たちは今まで、根本的な思い違いをしていたのよ」
「思い違い?」
「そう。この天候不順は、場所に依存するものだという誤解をね。そうでないとすれば、博麗神社に幽々子お嬢様が現れたときに雪が降ったっていうのも説明できるわ。――ああ、そうか。だから気質の異変なのかしら? 天気は天の気質、じゃあ人の気質が……」
「ちょっと蓮子、だから独り合点しないでよ」
「まあ待って。まだちょっと仮説の整理中だから」
そう言って蓮子はその場をぐるぐると歩き回ると、「どうやら、そういうことだと考えるべきなんでしょうね」と頷いた。
「……考えはまとまった?」
「ええ。――単純にまとめれば、この異常気象は場所じゃなく、個人に依存するんだわ」
「個人に……?」
「そう。博麗神社は快晴、守矢神社は梅雨、魔法の森は雨や雹、紅魔館は曇りで人間の里は至極不安定、冥界は雪、そして迷いの竹林は真夏の炎天――私たちはこの異常気象を、場所に依存するものだと思い込んでいたの。過去に、冥界に春が集められたこともあったしね。それと同じように、今回の異変も幻想郷の各地で異常気象が起きているのだと、私も思い込まされていたわ。そりゃそうね、科学世紀の論理なら天候は地球的自然現象であって、個人的現象では有り得ない。雨男は単なる確率論というのが理性的態度というもの。――だけど、幻想郷では科学世紀の論理は通用しないわ。雨男は幻想郷なら正しい理屈として成立するのよ」
「……え? つまりこの異常気象は、場所が問題なんじゃなく、その場にいる人が問題だっていうこと?」
「そういうことよ、メリー」
パチンと指を鳴らし、相棒は三和土に腰を下ろしてひとつ頷く。
「妹紅が霧の湖に行ったら霧の湖も炎天下になった。幽々子お嬢様が博麗神社に現れたら雪が降り出した。これは、場所依存の異常気象では起こりえない現象だわ。となれば、今のこの竹林の暑さを呼んでいるのは――妹紅、貴方自身なのよ」
「は? 私がか?」
ぽかんと口を開けた妹紅さんに、蓮子は頷く。
「そう。美鈴さんはこれが気の流れの異変、気質の異変だと言っていたし、パチュリーさんも魔法使いは気質に敏感だと言っていたわ。そう、私たちはひとりひとり、何らかの気質を持っている。そして天気が天の気質だとすれば、私たち自身の気質が流れ出るか何かして、天の気質に影響を及ぼしているんじゃないかしら。――アリスさんの言う緋色の雲っていうのも、それと関係あるのかもしれないわね」
「気質が流れ出る……って、それ、大丈夫なの? っていうか私たちも?」
「さあ、まだ仮説だから何ともだけど。要するに、博麗神社が晴れ続きなのは霊夢ちゃんが極端な晴れ女になっているからで、魔法の森に雹が降るのもアリスさんが雹女になってるから、と考えるべきなんだと思うわ。だから霊夢ちゃんはずっと日照り続きだと、アリスさんは雹続きだと思っていたのよ。どこに行っても自分の周囲はずっと同じ天気だから」
――なるほど、理屈は通っているようにも思える。思えるけれど。
「蓮子、質問」
「はいメリー、なに?」
「言いたいことは解るけど。じゃあその場合、霊夢さんとアリスさんが同じ場所にいたら、天気はどうなるわけ? 晴れた空から雹が降るの?」
「そう、そこが問題なのよ。――守矢神社は梅雨続きって、早苗ちゃんが言ってたでしょ? でも早苗ちゃんが里や紅魔館や魔法の森に言っても、雨は降らなかった。ということは、守矢神社を明けない梅雨にしているのは八坂様か洩矢様なんでしょうね。――そして早苗ちゃん自身はこの異変の影響を受けていないか、あるいは何か別の天気を引き起こしているけれど、他の誰かの天気に掻き消されているんじゃないかと思うわ」
「掻き消され……?」
「そうよ。そう考えないと本当にしっちゃかめっちゃかだもの。もし私たちひとりひとりが別の天気を引き起こす状態になっていたとして、それが全て同時に発動するなら、人間の里はとんでもないことになってたはずだわ。晴れながら曇りで雨と雪と雹とみぞれと雷と台風が同時に来るとかね。でも、里の天気は不安定なだけで、そこまでおかしなことにはなっていなかったでしょう? ということは、天候の発現には何らかの優先順位が働いているんだと思うわ」
「優先順位……じゃあ、今私たちがいるこの竹林がこの暑さなのは、妹紅さんの気質による天候が優先的に発動してるってこと?」
「そういうことじゃないかしらね。私とメリーも何らかの天候を引き起こしているのかもしれないけど、何しろ私たちの周囲は人間も妖怪も強者揃いだから、脆弱な人間風情の気質なんて掻き消されちゃってるんじゃないかしら」
「魔理沙さんが雨続きだって言ってるのに、博麗神社が晴れてたのも」
「何らかの理由で、霊夢ちゃんの気質が優先されたんでしょうね」
今の幻想郷は雨男と晴れ女がデートに出かけたらどういう天気になるのか、というジョークめいた思考実験が現実化した状態ということか。しかし聞けば聞くほど理屈が通っているような、強引なような、なんとも判断しがたい推理である。
「私にはなんだかさっぱり解らん」
妹紅さんはお手上げといった様子で、水桶から柄杓でごくごくと水を飲んでいる。
「……で、お前たちは何しに来たんだ? 慧音がいないところからすると察しはつくが」
「だいたいお察しの通りだと思いますわ」
「また永遠亭に行くから案内しろって言うんだろ。――本当に人体実験されても知らんぞ」
「大丈夫ですわ。もしされるとしてもメリーの方だから」
「大丈夫じゃないわよ!」
呵々と笑う蓮子の後頭部を私ははたき、妹紅さんは呆れたように肩を竦めた。
―12―
永遠亭に辿り着くと、妹紅さんは「じゃあ、後で迎えに来る」と言い残して引き返していった。妹紅さんの姿が視界から消えるとともに、不意に暑さが和らぐ。これまでが極端な炎天だっただけに、その落差はいっそ清々しいほどだった。
「ほら、私の言った通りでしょ?」
「……どうやら、そうみたいね」
妹紅さんがいなくなった途端に日射しが大人しくなり気温が下がったのだから、蓮子の異常気象個人依存説に強い裏付けが得られたと考えるべきだろう。あの炎天を引き起こしていたのは妹紅さんだったわけだ。
「さて、そのへんも含めて八意先生の見解を伺えればいいけど……ごめんくださーい」
蓮子が永遠亭の中へ向けて声をあげると、庭の方からわらわらとイナバたちが駆け寄ってきた。その中心にいるのは、おなじみ因幡てゐさんである。
「お、いつもの二人じゃん。今日は誰に用?」
「八意先生にお目通り願いたいですわ」
「お師匠様に? いいけど、人体実験されないように気を付けなよー」
というわけで、てゐさんに案内されて私たちは永遠亭に足を踏み入れる。長い廊下を進み、ひとつの襖の前で「お師匠様ー、お客さんだよー」とてゐさんが声を掛けると、襖を開け放って顔を出した永琳さんが「あら」と小首を傾げた。
「こんにちは、ご無沙汰してますわ」
「ど、どうも」
「いらっしゃい。私に用ということは、どこか具合でも悪いの? それともその子の目と脳をいよいよ提供してもらえるのかしら」
怖いことを言わないでほしい。というかまだ私の目の構造に興味を持っていたのか。
「いえいえ、二人とも健康そのものですし、メリーを献体する予定もありませんわ、残念ながら。――今日はちょっと、調べていることがありまして」
「ふうん。まあいいわ、どうぞお入りなさい」
永琳さんに促され、和室に足を踏み入れる。座布団に腰を下ろすと、永琳さんは何か書き物をしていたらしい文机を脇に寄せて、私たちに向き直った。
「それで、私のところまで何の調査に?」
「そちらが、鈴仙さんに調べさせていることと同じですよ。今、幻想郷で起きている気質の乱れによる異常気象と、地震の前兆についてです」
「あら、この宏観前兆をもう把握しているとは、さすがに聡明ね」
永琳さんは驚いたように目を見開くが、彼女の場合どこまで本心なのかは計り知れない。何しろ何万年生きているのかも解らないような月の民、その賢者である。
「けれど、そこまで把握しているなら、もうここで私が教えられることは特にないわよ。指南できるとすれば、今すぐできる地震対策ぐらいかしら?」
「――なるほど、さすがは月の賢者様。今幻想郷で何が起きているかはとうにお見通しですか」
「鈴仙にいろいろと調べてきてもらったからよ」
肩を竦めた永琳さんに、蓮子はにやりと笑みを浮かべて、脱いだ帽子をひらりと振った。
「では八意先生、具体的に地震がいつ起きるかまではご存じない?」
「さすがに、そこまでは私の手に余るわね。しっかり備えをしておくことね」
「月の技術で、地震を阻止することは?」
「今の私は幻想郷の住民、月からの逃亡者よ。もしそんなものがあったとしても、今の私に使う術はないわ」
「それは仕方ありませんね。――では八意先生、もうひとつ」
「何かしら?」
「今回の異変の首謀者に、心当たりはありませんか?」
蓮子のその問いに、不意に永琳さんはすっと目を細めた。
「……どうしてそれを私に訊くのかしら?」
「月の賢者の叡知をもってすれば、あるいはご存じかとも思ったのですが」
「いくら月の民といっても、万物を見通すわけではないわよ」
「ええ、そうでしょう。――ただ、容疑者が天にいるとすれば、月は案外近しいのではないかと思いまして、ひょっとしたら八意先生と関わりがあるのではないかと」
唐突な蓮子の言葉に、私は思わず隣の相棒の横顔を見つめた。――容疑者が天に?
「その、容疑者が天にいる、というのはどういうことかしら?」
「いえ、推理というほどでもない当てずっぽうの推測ですわ。――おそらく現在の異常気象は、個人の気質が天気、すなわち天の気質に干渉して天候を狂わせているものと思われます。そしてこの異常気象と緋色の雲が地震の宏観前兆であるならば、気質の乱れによって異常気象が生じているように、緋色の雲も同様の気質を要因として発生しているのではないかと。――つまり、何者かが個人の気質を集めて緋色の雲を作り、それによって異常気象を発生させているのではないか、と考えました。――異常気象に対し、地上の民は常に天に対して祈りを捧げてきた歴史があります。ならば、緋色の雲を作り異常気象を起こしている主犯は、この天上にいる神様なのではないか――と考えた次第ですわ。たとえば、龍神とか」
「……なるほど」
蓮子の長広舌に、永琳さんはひとつ息を吐き、それから興味深げに蓮子を見つめた。
「貴方、やはり地上の民にしておくには惜しいわね。貴方の脳も調べさせてほしいものだわ」
「恐縮ですが、脳検査は死後でよろしくお願いいたしたいですね」
「まあ、それはいいとして――そこまで解っているなら、ひとつの誤解は解いておきましょう」
「誤解?」
首を傾げた蓮子に、永琳さんは目を細めて微笑んだ。
「少なくとも、龍神は気質を集めて緋色の雲を作って異常気象を起こす――などというまどろっこしいことはしないわ。龍神の力はもっと強大なものよ」
「では――」
「おそらくは、天人の仕業でしょうね」
「……天人?」
「そう。天界に暮らす暇を持て余した長寿の民。それが、地上にちょっかいをかけているのよ」
第7章 緋想天編 一覧
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もこたんが半裸?
しかも暑そうにしてたから汗だく?
何故そんな素晴らしい場面の絵を書いてくださらない!
EO様!
永琳に会うのに普段から人体実験を注意されるて、何回かやってきたからなのか。ちょっと気になります。
少しずつ天子へと近づいていますね。次回でまた蓮子は山に登ろうとか言い出しそう。
やっと追いついた!
これからも楽しみにしてます!
もこたんの気質はもっと荒れ果てたと言うか砂塵の吹く荒野みたいな感じを想像してましたが、文字通りの熱い女だったか