昨晩は、おくうにもさとりにも逢わなかった。
燐は久しぶりに地霊殿の外で一夜を過ごした。
これで二日連続気まずい思いをすることになったが、一昨日の徹夜がかなり響いていたので、兎にも角にもゆっくりと身体を休めたかった。地霊殿に戻れば、二人の目を気にしなくてはならなくなる。それを避けたかったのだ。
正体をなくすほどに眠り込んだ翌日、燐は細心の注意を払い、黒猫の姿で鈴奈庵へと足を運んだ。ぐっすり眠れたおかげか、足取りも気分も軽かった。
独特なデザインをした看板の下を、辺りをよくよく確認した上で一気にすり抜ける。猫の姿であっても、二股に裂けた尻尾が目立ってしまうので、人と遭遇しないことが第一だった。
店舗の中に入り込むと、人型のときには気にも留めなかった、すえた臭いが鼻腔を刺激してきた。本が陳列されている棚に近づけば近づくほど、臭いがきつくなっていく。
もしやこの臭い、本のせいなのか?
帰ったら手持ちの本を嗅いでみよう、と思い巡らせながら、棚の影から首だけを出してテーブルの方を窺ってみる。
と、ぎょっとしてヒゲがぴんと張り詰めた。
目に飛び込んできたのは、テーブルに突っ伏した小鈴だった。筆を握ったままぴくりとも動かない。
まさか、と燐は慌ててテーブルへとジャンプをした。そこそこの高さがあるように見えたが、実際は一旦椅子に飛び乗らずともいけるくらいの高さだった。
着地の際、少しばかりテーブルが揺れたが、小鈴は不動のままだ。燐は背筋に嫌なむず痒さを感じながらも、にゃあ、と鳴いてみた。
小鈴に変化はない。もう一度、今度はもう少し大きな声で鳴いてみよう。そう意気込んで肺に空気を送り込んだときだった。
「邪魔するぞい」
――この声、マミゾウ?
首をよじって出入り口の方を見ると、いかにも気怠そうな目を、丸メガネの奥から覗かせたマミゾウが立っていた。縦長の暖簾を手で払い、今にも入店しようとしているところで固まってしまっている。
「み」
自分が今、猫であることを忘れていた燐は「あ」と言ったつもりだった。
「なんじゃお主、来ておったん――」
語尾の方が掠れ、掻き消えた。マミゾウの視線が、横の空間に注がれている。
肉球が、きゅうっと締め付けられる。いっぺんに血の気が引いたせいか、妙に腹の底が冷えた。
マミゾウの目に生気が宿った。と思う間に、大股で近寄ってくる。テーブルにまで辿り着くと、彼女はいきなり燐の首根っこ目がけて手を伸ばしてきた。
あまりの素早さに、避けることは叶わなかった。首を鷲掴みにされ、呼吸が一瞬止まる。
視界が激しくぶれて、気が付けば天井が見えていた。
何事、と脳が悲鳴をあげるのと同時に、背に形容しがたい衝撃を受けていた。まるで背中が硝子のように砕け、身体が散り散りになってしまったような衝撃だった。
「何をしたんじゃ」
意識が朦朧とする中、耳はそんな言葉を拾っていた。
◇
遠くから、ぼそぼそと哀切なる声が聞こえてきた。
――ああ哀しや。
何が悲しいのか。
問いかけてみたが、返ってきたのは、
――哀しや哀し、恨めしや恨めし。
という、より痛ましい声だった。
どうしたんだい? 何が恨めしいんだい?
もう一度問いかけたところで、燐はふと違和感を覚えた。
問いかけているはずなのに、自分の声が聞こえない。五感を研ぎ澄ませているはずなのに、視界は真っ暗だ。
――苦しや苦し、昏しや昏し。
ごう、と何かの音。それが断続的に聞こえてくる。
ごう、ごうと、こちらに近づいていくるのがわかる。
光はおろか、何もかもが黒く塗りつぶされている世界の中、燐は音を頼りにそちらを見た。
奥のまた奥に、仄かな白色が浮いている。ごま粒ほどの大きさしかないが、そこだけは黒くない。
音が近づいてくるのに従って目玉大になり、拳大になってくると、白色ではなく赤色であることが判明した。赤い何かが音を響かせながら、奥からやってくる。
根気よく待っていると、またあの声が聞こえてきた。
――悔しや悔し、憎しや憎し。
恨み言を募り続ける相手に、燐は苛立って仕方がなかった。何が言いたいんだ、もっと具体的に言っておくれよと歯ぎしりまでする。
その苛立ちに呼応するかのように、目の前で炎が立ち上った。ぼっ、と景気よく、爆ぜるように。一つや二つではなく、円状にいくつも――ざっと十は超えている――現われた。
音が止むと、炎の群れは乱れなく一つの輪となっていた。しかも、それはただの輪ではなかった。輪の内側、その中心に向かって、細い線が何本もはしっている。
まるで車輪だ、と燐は思った。
あたいは今、炎でできた車輪の側面を見ているんだ、と口をぽっかりと開けて眺める。
炎の車輪が前進する。
回転する際に、小さく、きぃ、と軋む。ごう、ごうと炎の揺らめきとともに進む一輪の車輪。
合間に、例の声があがる。
――熱しや熱し、痛しや痛し。
そのとき、燐ははっきりと見た。揺らめく炎の中に、人の顔が浮き出ているのを。
なんだ? なんで人の顔なんかが?
最初は見間違いかと思った。もしくは炎の形が、偶然人の顔になったのではないかと思った。だが、目を凝らして穴が空くほどに睨み続けても、顔は間違いなく炎の中にある。
ぞっとして目を逸らそうとした。しかしどうしたことか、できなかった。瞼を下ろそうと試みても、どうにもうまくいかない。
車輪の回転が止まる。
すると、まるで見せつけてやろうとばかりに、炎のひとつひとつが膨れあがってきた。併せて中の顔も肥大し、表情が読み取れるまでになった。
顔はみな、同じ表情をしていた。影のような黒い何かで形作られた目や口が、これ以上は無理だというところまで垂れ下がっている。
言葉にも表れているように、訴えているのは主に苦痛なのだろう。顔を見た瞬間こそ、燐の胸には悲しみの色がぽっと滲んだが、表情をよく見てみると、すぐにそうではないということに気が付いた。
そうして悟った。
これが本物の火車なのだ、と。
火車は、生ける者も死せる者も乗せてはしる車だ。乗せる者たちの身を、魂を、懐を焼いてはしる車だ。そして火車を火車たらしめている車輪の炎は、彼らの魂を焼くことで燃え盛っている。
なんて業の深い妖怪なんだ、と燐は身震いした。
あたいはこんなにも怖ろしい妖怪と同列とされているのか。ひたすら苦痛を与え、どうしようもない、殺してくれても構わないから早く解放してくれと願われるほどの責め苦を与える存在として、人間から畏れられているのか。
いやだ。そんなのは、絶対にいやだ。
あたいは単なる死体好きの、単なる猫又にすぎないんだよ――
「本当にそうなのか?」
どこからか声が湧いてきた。男の、嗄れた声だ。
何者かと訊ねることなく燐は反論した。
「そうだよ!」
今度はきちんと声になった。腹から力強い声が出る。
「本当に?」
次に湧いてきた声は、女の嗄れ声だった。
「本当だって! 信じておくれよ」
叫ぶように嘆願すると、車輪を成していた炎の一体が、ゆらゆらと右に左に揺れながら燐の目の前までやってきた。
そいつは、「嘘だろう」と言ってきた。
「嘘じゃない!」
「いいや嘘だね」嘲笑された。
目も口も垂れ下がったままで苦しげだが、嫌な笑い方をしているであろうことが一見してわかる。
「では訊こう」
一拍の間を開けて、
「火焔猫燐。どうしてお前は、怨霊をはべらせているのだ?」
質され、燐は息を呑んだ。いや、息を呑むことしかできなかった。
――まさか。
まさかこの炎は。この炎たちは。
「答えてくれ」
「答えて頂戴」
「お前には答える義務がある」
わらわらと、炎たちが火の玉と化してあちらこちらに彷徨い、車輪の軸は闇に溶けてゆく。
燐は答えられない。なぜなら燐にとって、彼ら怨霊はコレクションであり、集めたいから集めた、というほどのものでしかないからだ。
されこうべを抱いていると落ち着くから、という理由で手にしているのと同じで、怨霊は癒しとして傍に置いているだけ。深い理由などない。強いて挙げるならば、されこうべも怨霊も、好きだから手元に置いている。
「火焔猫燐。やはりお前は根っからの火車なのだよ」
そうだとも。お前は長生きをして妖怪化したというだけの猫又ではない。
死体を攫い、喰らい、魂を怨霊に変え、その怨霊を車輪に仕立てあげる、立派な火車だ。
精気を吸い上げ、財物を焼き、怨嗟の声を集めて概念を――化生をも侵す、無情で非道な火車なのだよ。
「違う……違う!」
ぎゅっと目を瞑り、耳を塞いでしゃがみこんでしまいたかった。何も聞きたくない。何も考えたくない。そっとしてよ。みんな消えて、お願いだから。
しかしそれは許されず、今もなお焼かれ続け、苦しみ悶えながらも呪いを炎という形に変えて自らごと燃やし続ける魂たちが、様々な怨嗟を吐いていく。
燐は耐えかね、絶叫した。
「やめておくれよぉ……っ!」
◇
底知れぬ恐怖のせいか、覚醒には激しい頭痛が伴った。ずき、ではなく、びき、という音が似合うような、頭が割れるような痛みだった。
「おう、起きたか」
声をかけられ、燐は目だけをそちらに動かした。
いたのはマミゾウだった。メガネを外し、持ち前の大きな狸尻尾の上にあぐらをかいて乗っており、似合いもしない神妙な顔つきをしている。
「……にゃ?」
見たこともない場所だった。
太陽光が遮られるほどに葉が茂った樹木が、辺りを囲うように何本も生えている。
それに、身体がとても柔らかい何かに抱かれていて心地が良かった。
「何はともあれ、死んでなくてよかったわい。ほれ、さっさと人型にならんかい。話もできんじゃろ」
なあ、と燐は生返事をし、疼痛へと切り替わった頭痛を堪えて人型に変化する。
途中、半端ではない倦怠感にも蝕まれていることに気が付いた。
「さて。まずは詫びる方が先じゃろうな」
すまなかった、といきなりマミゾウが頭を下げてくる。
「どうして?」
困惑して訊くと、彼女も困ってしまったようだった。
「どうしてって」
「ごめんよ、ちょっと頭が痛くてね」
「背中から入ったと思ってたが、まさか頭を打ったのか」
眉間に縦皺が入る。
「いやあ、ちょっと。前後の記憶があやふやで」
マミゾウに説明を求めると、すぐに記憶が戻ってきた。大雑把にだが事の全容も掴めた。頭が痛い理由も、寝心地の良い木の葉のベッドに寝かされている理由も解した。
彼女は、燐が小鈴に何かやったのではないかと思ったらしい。で、燐の首根っこを掴んで放り投げた、というわけだ。
でも、誰だってあの現場を見たらそう思うだろう。真相としては、夜更かしをした小鈴が、物音にも気づけないほど爆睡していただけらしいのだが。
「すまんかった」
三度頭を下げてくるマミゾウに、燐は気まずさしか感じられなかった。先ほどの悪夢が、脳裏に蘇ってくる。
――あたいは、謝られるような身分じゃないんだよ。
「もういいよ。あたいはさっさと帰るからさ」
「いや、じゃが」
引き留めようとするマミゾウを振り切ろうと、燐は猫又になってベッドからひょいと飛び降りた。
「にゃああ」
じゃあね、と猫語で挨拶をすると、脈動する頭痛に責められながら、一直線に森の中を突っ切っていった。
地霊殿に戻ってくると、燐はすぐ自室のベッドに潜り込んだ。頭が痛すぎて――併発している倦怠感も手伝って――何もする気になれなかった。
マミゾウの用意してくれた草のベッドも心地良かったが、やっぱり自分が愛用しているものが一番だ。どんな一級品より落ち着けるから。
よほど調子が悪かったのか、眠りはすぐに訪れた。
目覚めを手伝ってくれたのは、明るい部屋と、衣擦れの音だった。たっぷり半日は寝ていたかもしれない。頭痛も、どこかへいってしまったようだった。
うんと両足を伸ばし、何気なく首だけを伸ばしてみると、入り口付近にさとりが立っていた。燐は慌てて起き上がった。
「起きてしまいましたか」
「にゃあ」
すみません、と鳴いて人型になろうとすると、
「そのままで結構ですよ。ここ、借りますね」
言って、さとりは木造の硬い椅子に腰を下ろした。
椅子はベッドの近くに配置していて、猫型で寝るときにベッドに乗る際の階段代わりに使っているものだった。
「どうでした? 自分探しの旅は」
どきりとした。そう言えば、さとり様にお休みを貰っていたんだ、と今更に思い出して。
「その通りですよ。計三日も休んだのですから、それなりに考えはまとまったでしょう」
いきなりのことで燐は逡巡した。
悪夢の中身を話したら幻滅されるかもしれない。それは己の浅ましさを語るようで嫌だった。
けれど、さとりに嘘は通用しない。迷いが生じた時点で、観念して全てを告白してしまうほかなかった。
心に、あらゆる情景を描いては並べていく。さとりには言葉で説明するより、こっちの方がずっと効果的だ。心に浮かべたことを、背景まで読み取ってしまえるから。
「なるほど」
頷くさとりは微笑していた。
「調査だけでなく、夢にまで出てきたと。まるでお告げのようですね」
笑い事ではないです。
そう拗ねると、
「お燐、夢は所詮夢ですよ」
静かにそう言った。
「夢というのは、その者の深層を映し出す鏡も同然。そういう悪夢を見たということは、お燐はよほど心配だったのですね」
自分の存在意義が。地底の妖怪という立場が。
「悩みすぎるから変な夢として現れるのですよ。ほら、今までそんな夢など見たことなかったでしょう?」
その通りだったので、燐は鳴いて応えた。
「ほら、考えもしない、思いもしないことは夢には現れないのです。夢というのはそういうものです」
なんとも説得力のある台詞に、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、心が軽くなった。
「それから話の途中にあった、おくうから聞いたという『己が火車であることを忘れていっているようだ』発言ですが、そんな意味で言ったのではありませんよ」
本当の意味はこう。
「ペットとしての火車ではなく、一匹の火車として立派になってきた。そろそろ独り立ちしていきそうでなんだか寂しい」である。
燐はぽかんとしてしまった。
意味が全然違うじゃないか!
「己が単なるペットであることを忘れるくらいに成長してきたって意味だったのですが、いやはや、話す相手を間違えました」
おくうもぽけっとせず、独り立ちできるくらい精神的に成長して欲しい、という意味を込めての発言だったのだという。
おくうの一言でかなりの精神的ダメージを受けたあたいは何だったんだ、と燐は脱力した。
「でも、おかげで色々と考えられてよかったじゃないですか」
それは、まあそうだ。されこうべ一つとっても、今まで考えなさすぎた。特に怨霊たちには罪悪感いっぱいだ。
「ちょっと刺激が強すぎたみたいですけどね」
くすくすと忍び笑いされ、急に背がむずむずとしてきた。ヒゲもぴくぴくとして、燐は思わずさとりに飛びついた。
「ふふ。褒めた途端、これですか」
しょうがないじゃないか。あたいは長いことさとり様のペットだったんだから。
「それもそうですね。私も、お燐がいなくなったら寂しいですし」
あたいら、家族だものね。家族は一緒にいるものだものね。
さとりに抱かれ、喉が鳴りっぱなしになる。たった二日離れただけなのに、ひどく懐かしい抱擁に思えた。
燐は久しぶりに地霊殿の外で一夜を過ごした。
これで二日連続気まずい思いをすることになったが、一昨日の徹夜がかなり響いていたので、兎にも角にもゆっくりと身体を休めたかった。地霊殿に戻れば、二人の目を気にしなくてはならなくなる。それを避けたかったのだ。
正体をなくすほどに眠り込んだ翌日、燐は細心の注意を払い、黒猫の姿で鈴奈庵へと足を運んだ。ぐっすり眠れたおかげか、足取りも気分も軽かった。
独特なデザインをした看板の下を、辺りをよくよく確認した上で一気にすり抜ける。猫の姿であっても、二股に裂けた尻尾が目立ってしまうので、人と遭遇しないことが第一だった。
店舗の中に入り込むと、人型のときには気にも留めなかった、すえた臭いが鼻腔を刺激してきた。本が陳列されている棚に近づけば近づくほど、臭いがきつくなっていく。
もしやこの臭い、本のせいなのか?
帰ったら手持ちの本を嗅いでみよう、と思い巡らせながら、棚の影から首だけを出してテーブルの方を窺ってみる。
と、ぎょっとしてヒゲがぴんと張り詰めた。
目に飛び込んできたのは、テーブルに突っ伏した小鈴だった。筆を握ったままぴくりとも動かない。
まさか、と燐は慌ててテーブルへとジャンプをした。そこそこの高さがあるように見えたが、実際は一旦椅子に飛び乗らずともいけるくらいの高さだった。
着地の際、少しばかりテーブルが揺れたが、小鈴は不動のままだ。燐は背筋に嫌なむず痒さを感じながらも、にゃあ、と鳴いてみた。
小鈴に変化はない。もう一度、今度はもう少し大きな声で鳴いてみよう。そう意気込んで肺に空気を送り込んだときだった。
「邪魔するぞい」
――この声、マミゾウ?
首をよじって出入り口の方を見ると、いかにも気怠そうな目を、丸メガネの奥から覗かせたマミゾウが立っていた。縦長の暖簾を手で払い、今にも入店しようとしているところで固まってしまっている。
「み」
自分が今、猫であることを忘れていた燐は「あ」と言ったつもりだった。
「なんじゃお主、来ておったん――」
語尾の方が掠れ、掻き消えた。マミゾウの視線が、横の空間に注がれている。
肉球が、きゅうっと締め付けられる。いっぺんに血の気が引いたせいか、妙に腹の底が冷えた。
マミゾウの目に生気が宿った。と思う間に、大股で近寄ってくる。テーブルにまで辿り着くと、彼女はいきなり燐の首根っこ目がけて手を伸ばしてきた。
あまりの素早さに、避けることは叶わなかった。首を鷲掴みにされ、呼吸が一瞬止まる。
視界が激しくぶれて、気が付けば天井が見えていた。
何事、と脳が悲鳴をあげるのと同時に、背に形容しがたい衝撃を受けていた。まるで背中が硝子のように砕け、身体が散り散りになってしまったような衝撃だった。
「何をしたんじゃ」
意識が朦朧とする中、耳はそんな言葉を拾っていた。
◇
遠くから、ぼそぼそと哀切なる声が聞こえてきた。
――ああ哀しや。
何が悲しいのか。
問いかけてみたが、返ってきたのは、
――哀しや哀し、恨めしや恨めし。
という、より痛ましい声だった。
どうしたんだい? 何が恨めしいんだい?
もう一度問いかけたところで、燐はふと違和感を覚えた。
問いかけているはずなのに、自分の声が聞こえない。五感を研ぎ澄ませているはずなのに、視界は真っ暗だ。
――苦しや苦し、昏しや昏し。
ごう、と何かの音。それが断続的に聞こえてくる。
ごう、ごうと、こちらに近づいていくるのがわかる。
光はおろか、何もかもが黒く塗りつぶされている世界の中、燐は音を頼りにそちらを見た。
奥のまた奥に、仄かな白色が浮いている。ごま粒ほどの大きさしかないが、そこだけは黒くない。
音が近づいてくるのに従って目玉大になり、拳大になってくると、白色ではなく赤色であることが判明した。赤い何かが音を響かせながら、奥からやってくる。
根気よく待っていると、またあの声が聞こえてきた。
――悔しや悔し、憎しや憎し。
恨み言を募り続ける相手に、燐は苛立って仕方がなかった。何が言いたいんだ、もっと具体的に言っておくれよと歯ぎしりまでする。
その苛立ちに呼応するかのように、目の前で炎が立ち上った。ぼっ、と景気よく、爆ぜるように。一つや二つではなく、円状にいくつも――ざっと十は超えている――現われた。
音が止むと、炎の群れは乱れなく一つの輪となっていた。しかも、それはただの輪ではなかった。輪の内側、その中心に向かって、細い線が何本もはしっている。
まるで車輪だ、と燐は思った。
あたいは今、炎でできた車輪の側面を見ているんだ、と口をぽっかりと開けて眺める。
炎の車輪が前進する。
回転する際に、小さく、きぃ、と軋む。ごう、ごうと炎の揺らめきとともに進む一輪の車輪。
合間に、例の声があがる。
――熱しや熱し、痛しや痛し。
そのとき、燐ははっきりと見た。揺らめく炎の中に、人の顔が浮き出ているのを。
なんだ? なんで人の顔なんかが?
最初は見間違いかと思った。もしくは炎の形が、偶然人の顔になったのではないかと思った。だが、目を凝らして穴が空くほどに睨み続けても、顔は間違いなく炎の中にある。
ぞっとして目を逸らそうとした。しかしどうしたことか、できなかった。瞼を下ろそうと試みても、どうにもうまくいかない。
車輪の回転が止まる。
すると、まるで見せつけてやろうとばかりに、炎のひとつひとつが膨れあがってきた。併せて中の顔も肥大し、表情が読み取れるまでになった。
顔はみな、同じ表情をしていた。影のような黒い何かで形作られた目や口が、これ以上は無理だというところまで垂れ下がっている。
言葉にも表れているように、訴えているのは主に苦痛なのだろう。顔を見た瞬間こそ、燐の胸には悲しみの色がぽっと滲んだが、表情をよく見てみると、すぐにそうではないということに気が付いた。
そうして悟った。
これが本物の火車なのだ、と。
火車は、生ける者も死せる者も乗せてはしる車だ。乗せる者たちの身を、魂を、懐を焼いてはしる車だ。そして火車を火車たらしめている車輪の炎は、彼らの魂を焼くことで燃え盛っている。
なんて業の深い妖怪なんだ、と燐は身震いした。
あたいはこんなにも怖ろしい妖怪と同列とされているのか。ひたすら苦痛を与え、どうしようもない、殺してくれても構わないから早く解放してくれと願われるほどの責め苦を与える存在として、人間から畏れられているのか。
いやだ。そんなのは、絶対にいやだ。
あたいは単なる死体好きの、単なる猫又にすぎないんだよ――
「本当にそうなのか?」
どこからか声が湧いてきた。男の、嗄れた声だ。
何者かと訊ねることなく燐は反論した。
「そうだよ!」
今度はきちんと声になった。腹から力強い声が出る。
「本当に?」
次に湧いてきた声は、女の嗄れ声だった。
「本当だって! 信じておくれよ」
叫ぶように嘆願すると、車輪を成していた炎の一体が、ゆらゆらと右に左に揺れながら燐の目の前までやってきた。
そいつは、「嘘だろう」と言ってきた。
「嘘じゃない!」
「いいや嘘だね」嘲笑された。
目も口も垂れ下がったままで苦しげだが、嫌な笑い方をしているであろうことが一見してわかる。
「では訊こう」
一拍の間を開けて、
「火焔猫燐。どうしてお前は、怨霊をはべらせているのだ?」
質され、燐は息を呑んだ。いや、息を呑むことしかできなかった。
――まさか。
まさかこの炎は。この炎たちは。
「答えてくれ」
「答えて頂戴」
「お前には答える義務がある」
わらわらと、炎たちが火の玉と化してあちらこちらに彷徨い、車輪の軸は闇に溶けてゆく。
燐は答えられない。なぜなら燐にとって、彼ら怨霊はコレクションであり、集めたいから集めた、というほどのものでしかないからだ。
されこうべを抱いていると落ち着くから、という理由で手にしているのと同じで、怨霊は癒しとして傍に置いているだけ。深い理由などない。強いて挙げるならば、されこうべも怨霊も、好きだから手元に置いている。
「火焔猫燐。やはりお前は根っからの火車なのだよ」
そうだとも。お前は長生きをして妖怪化したというだけの猫又ではない。
死体を攫い、喰らい、魂を怨霊に変え、その怨霊を車輪に仕立てあげる、立派な火車だ。
精気を吸い上げ、財物を焼き、怨嗟の声を集めて概念を――化生をも侵す、無情で非道な火車なのだよ。
「違う……違う!」
ぎゅっと目を瞑り、耳を塞いでしゃがみこんでしまいたかった。何も聞きたくない。何も考えたくない。そっとしてよ。みんな消えて、お願いだから。
しかしそれは許されず、今もなお焼かれ続け、苦しみ悶えながらも呪いを炎という形に変えて自らごと燃やし続ける魂たちが、様々な怨嗟を吐いていく。
燐は耐えかね、絶叫した。
「やめておくれよぉ……っ!」
◇
底知れぬ恐怖のせいか、覚醒には激しい頭痛が伴った。ずき、ではなく、びき、という音が似合うような、頭が割れるような痛みだった。
「おう、起きたか」
声をかけられ、燐は目だけをそちらに動かした。
いたのはマミゾウだった。メガネを外し、持ち前の大きな狸尻尾の上にあぐらをかいて乗っており、似合いもしない神妙な顔つきをしている。
「……にゃ?」
見たこともない場所だった。
太陽光が遮られるほどに葉が茂った樹木が、辺りを囲うように何本も生えている。
それに、身体がとても柔らかい何かに抱かれていて心地が良かった。
「何はともあれ、死んでなくてよかったわい。ほれ、さっさと人型にならんかい。話もできんじゃろ」
なあ、と燐は生返事をし、疼痛へと切り替わった頭痛を堪えて人型に変化する。
途中、半端ではない倦怠感にも蝕まれていることに気が付いた。
「さて。まずは詫びる方が先じゃろうな」
すまなかった、といきなりマミゾウが頭を下げてくる。
「どうして?」
困惑して訊くと、彼女も困ってしまったようだった。
「どうしてって」
「ごめんよ、ちょっと頭が痛くてね」
「背中から入ったと思ってたが、まさか頭を打ったのか」
眉間に縦皺が入る。
「いやあ、ちょっと。前後の記憶があやふやで」
マミゾウに説明を求めると、すぐに記憶が戻ってきた。大雑把にだが事の全容も掴めた。頭が痛い理由も、寝心地の良い木の葉のベッドに寝かされている理由も解した。
彼女は、燐が小鈴に何かやったのではないかと思ったらしい。で、燐の首根っこを掴んで放り投げた、というわけだ。
でも、誰だってあの現場を見たらそう思うだろう。真相としては、夜更かしをした小鈴が、物音にも気づけないほど爆睡していただけらしいのだが。
「すまんかった」
三度頭を下げてくるマミゾウに、燐は気まずさしか感じられなかった。先ほどの悪夢が、脳裏に蘇ってくる。
――あたいは、謝られるような身分じゃないんだよ。
「もういいよ。あたいはさっさと帰るからさ」
「いや、じゃが」
引き留めようとするマミゾウを振り切ろうと、燐は猫又になってベッドからひょいと飛び降りた。
「にゃああ」
じゃあね、と猫語で挨拶をすると、脈動する頭痛に責められながら、一直線に森の中を突っ切っていった。
地霊殿に戻ってくると、燐はすぐ自室のベッドに潜り込んだ。頭が痛すぎて――併発している倦怠感も手伝って――何もする気になれなかった。
マミゾウの用意してくれた草のベッドも心地良かったが、やっぱり自分が愛用しているものが一番だ。どんな一級品より落ち着けるから。
よほど調子が悪かったのか、眠りはすぐに訪れた。
目覚めを手伝ってくれたのは、明るい部屋と、衣擦れの音だった。たっぷり半日は寝ていたかもしれない。頭痛も、どこかへいってしまったようだった。
うんと両足を伸ばし、何気なく首だけを伸ばしてみると、入り口付近にさとりが立っていた。燐は慌てて起き上がった。
「起きてしまいましたか」
「にゃあ」
すみません、と鳴いて人型になろうとすると、
「そのままで結構ですよ。ここ、借りますね」
言って、さとりは木造の硬い椅子に腰を下ろした。
椅子はベッドの近くに配置していて、猫型で寝るときにベッドに乗る際の階段代わりに使っているものだった。
「どうでした? 自分探しの旅は」
どきりとした。そう言えば、さとり様にお休みを貰っていたんだ、と今更に思い出して。
「その通りですよ。計三日も休んだのですから、それなりに考えはまとまったでしょう」
いきなりのことで燐は逡巡した。
悪夢の中身を話したら幻滅されるかもしれない。それは己の浅ましさを語るようで嫌だった。
けれど、さとりに嘘は通用しない。迷いが生じた時点で、観念して全てを告白してしまうほかなかった。
心に、あらゆる情景を描いては並べていく。さとりには言葉で説明するより、こっちの方がずっと効果的だ。心に浮かべたことを、背景まで読み取ってしまえるから。
「なるほど」
頷くさとりは微笑していた。
「調査だけでなく、夢にまで出てきたと。まるでお告げのようですね」
笑い事ではないです。
そう拗ねると、
「お燐、夢は所詮夢ですよ」
静かにそう言った。
「夢というのは、その者の深層を映し出す鏡も同然。そういう悪夢を見たということは、お燐はよほど心配だったのですね」
自分の存在意義が。地底の妖怪という立場が。
「悩みすぎるから変な夢として現れるのですよ。ほら、今までそんな夢など見たことなかったでしょう?」
その通りだったので、燐は鳴いて応えた。
「ほら、考えもしない、思いもしないことは夢には現れないのです。夢というのはそういうものです」
なんとも説得力のある台詞に、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、心が軽くなった。
「それから話の途中にあった、おくうから聞いたという『己が火車であることを忘れていっているようだ』発言ですが、そんな意味で言ったのではありませんよ」
本当の意味はこう。
「ペットとしての火車ではなく、一匹の火車として立派になってきた。そろそろ独り立ちしていきそうでなんだか寂しい」である。
燐はぽかんとしてしまった。
意味が全然違うじゃないか!
「己が単なるペットであることを忘れるくらいに成長してきたって意味だったのですが、いやはや、話す相手を間違えました」
おくうもぽけっとせず、独り立ちできるくらい精神的に成長して欲しい、という意味を込めての発言だったのだという。
おくうの一言でかなりの精神的ダメージを受けたあたいは何だったんだ、と燐は脱力した。
「でも、おかげで色々と考えられてよかったじゃないですか」
それは、まあそうだ。されこうべ一つとっても、今まで考えなさすぎた。特に怨霊たちには罪悪感いっぱいだ。
「ちょっと刺激が強すぎたみたいですけどね」
くすくすと忍び笑いされ、急に背がむずむずとしてきた。ヒゲもぴくぴくとして、燐は思わずさとりに飛びついた。
「ふふ。褒めた途端、これですか」
しょうがないじゃないか。あたいは長いことさとり様のペットだったんだから。
「それもそうですね。私も、お燐がいなくなったら寂しいですし」
あたいら、家族だものね。家族は一緒にいるものだものね。
さとりに抱かれ、喉が鳴りっぱなしになる。たった二日離れただけなのに、ひどく懐かしい抱擁に思えた。
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