鈴奈庵に行こうと縦穴から出ると、真っ青な空が広がっていた。雲は薄く、今にも消えてなくなってしまいそうなものしか浮いていない。
「天気いいなあ」
鈴奈庵に出向くときはいつも好天な気がする。気のせいかもしれないけれど。
縦穴からある程度離れると、燐は猫型になった。マミゾウの言う、完全なる人型とやらになれるようになるまでは、この姿の方が安全だろうという腹積もりだ。
鈴奈庵には、きちんと縦長の暖簾がかかっていた。例の、庵の字が傾いでいる看板も健在だ。
二日前と同じように辺りを窺い、人がいないことを確認してからぴゃっと店内に突入する。
さっそくすえた臭いが鼻についた。
小鈴はどこかな、と足をそっと動かすと、すぐに見つかった。一番奥の棚の前で両手に本を持ち、見比べているところだった。
よかった、今日は起きてる。
胸を撫で下ろし、燐は一鳴きした。「にゃあ」
「えっ?」
勢いよく振り向く小鈴に、重ねて鳴いてやる。「にゃあ」
「お燐さん!」
歓喜の声が店内に響いた。こんなにも喜んでくれるとは思ってもみなかったので、嬉しさ倍増だった。
「お体は大丈夫ですか?」
ぱたぱたと駆け寄ってくる。燐は人型になって迎えた。
「ども」
「心配したんですよ。なんか私のせいで酷い目にあったみたいで」
本当に心配していたのだろう、眉尻と目尻がみるみるうちに下を向いていく。
「大丈夫、大丈夫。妖怪の身体は頑丈だから」
頭痛にやられたことは伏せて、背中をさすって見せた。
「お元気そうで安心しました」
「たいしたことないって。今、話しても大丈夫だったかい?」
商売の邪魔になるようならさっさと引き揚げようと思っていたのだが、
「えーっと、そうですね」
小鈴は店から出て行ってしまった。
なんでだろうと不思議がっていると、すぐに中に戻ってきて、引き戸を閉めた。がちゃりと鍵のかかった音が後に続く。
「今日は閉店にしちゃいます」
「ええ?」
いくらなんでもそれはやりすぎじゃないか? まだお日様も高いのに。
「どのみち、この時間はあんまりお客さん来ないですから」
「そうなんだ」
考えてみれば、今日は平日だから子供は寺小屋に行っているだろうし、大人は仕事をしているだろう。
「飲み物をお持ちしますね」
「あっ、気にしな、」
言い切らないうちに、店の奥へと消えていく小鈴。
「そそっかしいねえ」
猫以上かもしれないね、と燐は内心に呟いた。
小鈴が用意してくれたのは、よく冷えた緑茶だった。小さな皿に三、四粒ほどのクルミが添えられている。そそっかしいことはそそっかしいが、商売人というだけあって気配りは素晴らしかった(猫舌的な意味で)。
「へえ。それは怖いですね」
昏倒している間に見た夢の内容を語ると、小鈴は眉間にしわを寄せ、唇を尖らした。「ちょっとしたホラーですよ、それ」
「だよねえ。あたいも相当怖い思いをしたし」
「阿求に聞かせたら喜びそうなネタですね」
「勘弁しておくれよ」燐は眉をハの字にした。「ただでさえ相性悪いんだから」
もう二度と、屋敷にも近づくまいと決めたくらい、苦手な相手となってしまった。
「話してみれば案外打ち解けられるかもしれないですよ」
「無理無理。話し合う前に斬り殺されちゃう」
彼女の顔を思い浮かべようとすると、きらりと光る薙刀の刃も一緒に現われる。話し合いなんてとてもじゃない。
「でも、火車の車輪が魂でできているというのは、説として斬新ですね」
「そうなのかい」
「私は初耳です。火車を引く生き物とか、火車そのもののお話ならいくつか知ってますけど」
「だとしたら、それこそさとり様の言った通りだね」
夢は、自分の心の深い部分を映し出している。
「でもお燐さん、いい人ですから。こんなこと言ったら失礼かもしれませんが、本当に火車なんかじゃないのでは?」
「あー……それを言われちゃうと凹むねえ」
死体を運ぶ仕事には、それなりの誇りを持っていたのだけれど。
「凹まないでくださいよ」
小鈴はからからと笑って、
「そうじゃなくて、違う妖怪かもしれない、って意味ですよ」
「違う妖怪?」素っ頓狂な声が出てしまった。
「火車というのも、役割が似ていたからそう呼ばれるようになっただけなんですよね」
「まあ、そうさね」
詳しくは聞いていないけれど。地獄の温度調整を担っていたから、結果としてそういうことになるのではないか、という推測でしかないけれど。
「だったら、元から違うのかもしれないじゃないですか。似ているだけで」
「それは、」
そうかもしれない。具体的な妖怪像は描けないけれど。火車として働いていた時間が長すぎて、アンテナが錆び付いてしまっている。
「それに、お燐さんは今から色々と改めるんですよね? それって、火車ではなくなるってことなんじゃないですか?」
夢の話に入る前に、少しだけ彼女には今後について話をしていた。
怨霊やされこうべを蒐集することをきっぱりやめると。いたずらに魂を弄ぶことも、もうしないと宣言していたのだ。
「ということは、新種の妖怪になる可能性も高いってことですよね」
まさかの指摘に、燐は小鈴を見つめるくらいしかできなかった。目が点になるとはこのことだ。
「死体集めはお仕事だから仕方がないかもしれないですけど。もしかしたらそのうちに座敷わらしみたいに、人間にありがたられる妖怪になるかもしれないですよ」
「座敷わらし?」
「座敷わらしは名前の通り、座敷にいるわらしの妖怪なんですけど」
神様になっちゃった妖怪なんです。
「は、神?」
「初めは家の中に棲み着いて、悪戯を働くだけの迷惑な妖怪だと思われていたんですけど」
座敷わらしは違った。相当な悪戯を働く代わりに、満足すればその家に幸福をもたらしてくれる存在だったのだ。
「だから神様扱いってことかい」
「ちょっと虫の良い話かもしれませんけど。人間にとっていいことをすれば、それだけで神様になれるわけですよ」
つまりあたいがこれから善行を積みまくれば、新種の妖怪――もとい、神様になれるってことかい? そんなことが、本当に起こせるのかい?
「ほら、お稲荷様っているじゃないですか」
「本物はみたことないけどねえ」
図鑑の中にいたのは覚えている。あとは石像でのみしか見たことがない。
「あのお稲荷様だって、最初は物の怪じゃあ、化生じゃあと言われていたのに、今では神様扱いになんですから」
「ふんふん。つまりどんな妖怪にも、神様になるチャンスがあるってことだね」
妖怪から神様に昇華してしまったら、それはそれで性格なんかも変わってしまいそうな気がするけれど。
でも、と燐は思い直した。
たとえ性格どころか存在そのものが変わってしまったとしても、あたいは――あたいという意識が残っていれば、それでいいんじゃないか? 特性が変わるだけで、死んでしまうわけじゃないんだから。
「招き猫みたく、福を寄せられるようになれば間違いなく神様になれると思います」
「招き猫、ねえ……」
頭の中で、片手に小判を持ち、反対側の手を顔の真横にまで上げて、愛想良く微笑んでいる陶器の猫の姿が浮かんできた。
――いやあ、あれにはなれないっしょ。白いし。
「福寄せは極端な例ですけど。別にささやかでも、みんなの役立つこととか、喜ぶことをすればいいと思いますよ」
「役立つことに喜ぶこと」
燐は腕を組んで唸った。
これまで気ままに生きてきただけのあたいには難しいよ。死体運びくらいしかやったこともないし。
「別に、いますぐどうこうしなきゃいけないってわけでもないですし、ゆっくり考えてみてもいいんじゃないでしょうか」
「そうさね」
「なんなら、役に立ちそうな本、持って行きます?」
小鈴に微笑まれ、燐は勢いよく頷いた。
鈴奈庵から出るとすぐ、物陰に潜んだ。
本を借りたはいいが、手に持っていては猫型になれない。どうしたもんかと弱っていると、突然、頭上から声をかけられた。
「それで隠れたつもりかい」
「誰だ――って、マミゾウか」
マミゾウは、鈴奈庵のすぐ隣の家屋にいた。青瓦屋根の上であぐらをかき、手持ち酒瓶を二本並べて脇息代わりにしている。メガネもかけていた。
「ちょいとあがってこんか?」
人差し指を来い来いとさせる。今なら誰もおらんからはよせい、と付け加えて。
「しょうがないねえ」
燐は一足でマミゾウの隣まで跳んだ。着地の際に瓦がカン、と高い音を立てたが、家からは誰も出てくる様子はなかった。
「気にせんでも、人間はカラスでも飛んできたか、くらいにしか思っとらんよ」
「そうだといいけどねえ」
「なんじゃ、猫は細かいことを気にしないんじゃなかったか?」
「猫によるよ」
屋根の上は、眠たくなってくるほどに麗らかだった。最高の寝日和だ、と燐はあくび混じりに背を伸ばした。
「一献どうじゃ」
どこからか、マミゾウがお猪口を出してきた。
「あたいは酒が苦手なんだよ」
「そうなんか。勿体ないのう」
「すぐに酔っちゃうからねえ」
それより用件は、と訊くと、
「一昨日は逃げられてしまったからのう」
「逃げたというか、頭痛がね」
「だからって、あの逃げようはひどいじゃろう」
逃げたのは事実だ。そこを突かれるとばつが悪い。
「いいじゃないか。人を犯人扱いしてぶん投げたんだから、おあいこだよ」
「いま思い出したわい」マミゾウは溜め息をついて、「猫は執念深いんじゃったな」
「そうさ。――で? その執念深い猫を捕まえて、何を話したかったんだい?」
燐としては、さっさと帰路について、今し方小鈴から出された宿題をやってしまいたい気持ちでいっぱいだった。おかげで言い方もぞんざいになる。
「せっかちは嫌われるぞい」
マミゾウは前髪にくっつけた、葉っぱを模した髪飾りを一撫ですると、酒瓶から手を離し、背筋を伸ばした。
「小鈴から大体の話は聞いた」
「……ふーん」
ちょっと――いや、だいぶ嫌な気持ちになったが、一騒動起こせば釈明もいるだろう。小鈴としても、他人事ではなかっただろうし。どこまで話したのか非常に気になったが、燐は何でもない体を繕った。
「お前さん、悩み事があるそうじゃないか」
にやりとするマミゾウを見て、燐は確信を持った。
こいつ、絶対に楽しんでる。
「そうでもないよ。それだけ? じゃあ、あたいはこれで」
早口で言い、立ち上がる。昼から飲んだくれている狸とお喋りするほど暇じゃないんだよ、あたいは。
「まぁまぁ、落ちつかんかい。大先輩が相談に乗ってやろうと言っておるのに」
「そういうのをお節介っていうんだよ。それにもう、半分以上は解決してることなんだ」
「そうか? 小鈴から聞いた話では、そう簡単に解決する類のものではなかった気がするんじゃが」
「何を聞いたのかは知らないけど、ちゃんと自分でどうにかするから」
ここまで言えば、普通はすんなりと引っ込むものだが、マミゾウはしつこかった。
「手伝えることがあれば儂も手伝うぞい。ささ、詳しく話してみせい」
なんて鬱陶しいんだ、と燐は呆れた。
まるで、要らないとはっきり断っているのに売りつけてくる、質の悪い人間の商売人のようだ。
――そう言えばこいつ、商いの道に通じているとか云々言ってなかったっけ? だとしたら、そのまんまじゃないか! 人間という部分が妖怪に変わっただけで。
「いやぁ……」
燐は後ろ髪を掻きながら、必死で突破口を探した。
このまま拒否を繰り返しても、そのたびにあれやこれやと理由を捏ねらて延々と迫られるだけだ。
何か逃れられる口実はなかろうか――
「あ、そうだ」
記憶の片隅に落ちていたものを放ってやる。「火車の、今日は我が門を遣り過ぎて、哀れ何処へ巡りゆくらむ」
「はぁ?」
何を言い出すんじゃこの小娘、という意思がひしひしと伝わってくるような顔の歪み方だった。
「歌だよ。知らないかい? 『拾玉集』とかいう歌集に納められているらしいんだけど」
「しゅうぎょくしゅう……しゅうぎょくしゅう……」
ぶつぶつと同じことを呟き続けるマミゾウ。
好機と捉えた燐は立ち上がって、
「どんな意味の歌なのか、わかったら教えておくれね。今一番困ってることだから」
本を抱えて、ひょいと地面に身を投げた。着地と同時に、人目も気にせずひたすら地霊殿へと走る。
声すら追ってはこなかった。
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