「また珍しいのが来たわね」
一瞥をくれるだけで、安楽椅子から降りようともしないパチュリー。読書の最中だったのだろう、眩暈がするほどに分厚い本が、開いた状態で手中に収まっている。
そういえばこんなやつだったね、と燐は今頃になって思い出した。
「ちょっとパチュリー様。お客様の前なのに」
小悪魔が抗議しても知らぬふりを貫く紫の魔女の姿が、人間を前にするときのさとりにどこか似ていた。憮然としていて、瞳には冷め切った色しか浮いていない。
「私の客じゃないでしょう。用件はこぁにあるんじゃなくて?」
紅魔館の人々は、小悪魔のことをこぁと呼ぶ。
本名らしいが、どこか愛称っぽい響きがあり、燐はまだ彼女をこぁと呼べずにいた。
「違いますよ。私の用件なら、ここには通しませんって」
それもそうか、とパチュリーは小さく――本当に囁くような小ささで――呟き、本を閉じた。
「で?」
面倒臭そうに顎を突き出す彼女に、燐はどう切り出したもんかと髪を掻いた。
「ちょっと訊きたいことがあってね」
「何? 手短に頼むわ」と、パチュリーは目頭を揉んだ。
「ええと」
手短に話そうにも、まとめるのが難しい。困ってしまって小悪魔を頼ろうとしたけれど、素知らぬ顔をされてしまった。
「ちょっと長くなるんだけど」
即座にムスッとされてしまったが、止められはしなかったので、内容を小出しにして打ち明けた。
実は昨晩、燐は一睡もしていない。大好きなさとりの膝元で丸くなることもしなかった。おくうとのやりとりが尾を引き、ずっと考え込んでいたからだ。
おくうに言われるまで、人間について深く考えたことはなかった。使い道の多い、凄く便利な道具だという認識しかなかった。死体は燃料になるし、魂には栄養がたっぷりだ。怨霊は武器にもなる。
そこで燐は、あることに気が付いた。
これまでの自分にとって人間とは、死んだ人間のことを指していなかったか?
でも、小鈴は生きている。そして自分は、生者について考察したことが、一度としてなかったのではないか? 関わり合いをもったことすらなかったのだから、当然といえば当然かもしれないけれど。
だからおかしくなっちゃったんじゃないか?
あたいは妖怪で、火車で、ともすれば死体をかっ攫うだけが存在意義みたいなもんなのに。生きて言葉を交わす人間と接触してしまったから、妖怪として間違った方向に傾いていってしまったんじゃないか?
散々悩んで、これでもかというくらい手持ちの本も動員してみたけれど、解は得られなかった。しょせんは火車一匹だ、どれだけ脳みそをフルに動かしてみたところでたかが知れている。
となると、自分より圧倒的に頭が良くて知識も豊富な御仁に相談するしかない。もうそれしかない。その一心で今日、紅魔館の門を叩き、本好き物知り魔女さんで知られるパチュリーに会いに来たのだった。
だからというわけでもないが、燐としては、悩んだ分だけ説明もうまくできると思っていた。ここに来るまでの間に情報も頭の中であらかた整理していたし、どんな風に話していこうかと筋道も立てていたから。
ところがどっこい、いざ話してみるとつっかえつっかえになって、終いには叱咤が飛んできた。
「ああもう、うだうだとうざったいわね!」
声とともに、パチュリーが安楽椅子から飛び降りた。乗り手を失った椅子が、ぐわん、ぐわんと大きく揺れる。
燐は目をしばたたくことしかできなかった。小悪魔も同様に、ぎょっとした顔を主人に向けているだけだ。
「結局何がいいたいのよ、あんたは」
びしっ、と極太の本を向けられた。
「え? いや、だから、」
「その猫耳と猫尻尾を引きちぎって欲しいってこと? それとも邪神と取引をしてでも、もっと強力な妖力が欲しいってこと?」
「ひ、引きちぎるって……」
尻尾の毛先一本にまで冷たい電気が流れて、ぞぞっと逆立った。
「言っておくけど、人間を滅ぼすことは無理よ。奴らのしぶとさと言ったら、他種族の追従を許さないほどだから」
「そんなことは言って、」
「じゃあ何、人間を改悛させたいって? 妖怪を生み出す心の闇を祓ってやりたいって?」
あのねえ、とパチュリーは大仰に肩を竦ませた。
「何を勘違いしているのかはしらないけど。妖怪ってのは、なにも人間の心の闇から生まれる化け物、というわけではないわよ」
「え?」燐は目を瞠った。
耳を疑う発言だ、今の。
「当たり前でしょ。もしそうなら、気ままに機械を作っているにとりはどうなるのよ。新聞ばかり作ってる文はどうなるのよ。私のように本ばかり読んでいる妖怪はどうなるのよ」
「う」燐はたじろいだ。「言われてみれば、そうだね」
「人間の心にわだかまっている闇が妖怪を生むんじゃない。心そのものが妖怪を生むのよ。簡単に言ってしまえば――」
願望よ、とパチュリーが声を張る。
「妖怪は人間たちの願望から生まれる。彼らの願いが、容なきモノに姿を与え、力を与えるのよ」
「願い……?」
「そう、願い。といっても、わからないことに対しての願い、という意味だけれどね」
パチュリーは一度咳払いをして、
「たとえば、高熱で死にそうな子供がいたとする。その両親はどうしても助けたい。でも、やれることを全部やってみても、よくなる兆しはない。どうしてよくならないのかもわからない」
その「どうして」が、妖怪を生む。
「きっとこれは妖怪の仕業だ。妖怪がこの子を連れて行こうとしている、ってね。そう願うのよ」
僕らがこんなに頑張っても駄目なのは、みんな妖怪のせいだからだ。そうじゃなきゃおかしい。
「妖怪が相手なら、本人を含めた周りの諦めもつくってものよね。ぶっちゃけてしまうなら、妖怪は捌け口として受け止めてくれる存在として願われ、生み出されるってわけ。このたとえの場合なら、熱病だから、生み出されるのは熱に関わる妖怪ね。もしくは病に関わる妖怪か。どちらにせよ、妖怪のせい、という文句が通るなら、なんだって構わない。不明を良しとしない人間は、妖怪と言う名の原因さえ作ってしまえればそれでいいの。不満をそちらに逃がせるから」
「な、なるほど」
「火車にだって色々と逸話があるでしょう。死体の近くに猫を寄せてはいけない、とか。それと一緒で、実体験であろうと創作であろうと関係なく妖怪は生まれるのよ。こうであって欲しいという願望さえあればね」
そこらじゅう妖怪まみれなのはこのせいよ、とパチュリーは辺りに目配りした。
「願いから生まれたのが妖怪、ねえ。じゃあ妖怪が嫌われる理由って――」
腕を組んで唸った燐に、パチュリーは悪人のように口端を歪めて、
「簡単なことよ。彼らはね、自分達が持ち得ないものを妖怪が持っているからこそ、畏れているのよ。さっき言ったように、妖怪は人間の願望を具現化した存在。つまり自分達が願うしかなかったものを、同じように肉体を持つ身でありながら具えている妖怪が羨ましいの。妬ましいの」
さとりの能力をご覧なさい、と鼻で笑う。
「他人の心を読むというのは、人間が渇望していて、けれどいまだに成就していない能力よね。きっと、永劫手に入れられないでしょうけど」
だからこそ、不満や妬みが集中する。なんでアイツだけ、と。妖怪のくせに、と。
「これが奪う側として生み出された妖怪――貴方もそうよね――が相手になると、次も奪われてしまう、でもどうすることもできやしない、って無力感に苛まされる。だから罵られ、恨まれ、憎まれるのよ」
アイツのせいで、と。血も涙もない妖怪のせいで、と。
「ほら、妖怪というだけでも嫌われる要素一杯でしょ?」
両手を広げて楽しそうに言うパチュリーに、燐は閉口するしかなかった。
「わかった? これが妖怪と人間の構図よ。これだけ言えば、もう十分でしょう」
だからあんたの悩みは、そもそも的外れなのよ――とは口にしなかったが、そう匂わせて、パチュリーは颯爽と部屋から出て行ってしまった。
「行っちゃいましたね」と小悪魔。
「そうさねえ」
とりあえずメモがしたいな、と燐は空の安楽椅子のくぼみを眺めた。
一日が終わる。
妖怪の山へと続く路地が、夕焼けの紅に染まっている。どこかでカラスがカア、カアと鳴いている。
辺りに人影はない。あるのは自分から伸びている影だけだ。一歩を踏み出すたび、一歩分先に進んでしまうその影を目で追いながら、燐は縦穴――地獄の出入り口――を目指してひたすら歩き続けていた。
そして、ずっと考えていた。
自分について。火車について。地獄での日々について。
元々燐は、地獄で生まれたというだけの、何の力も取り柄もないただの黒猫だった。おくうも一緒で、元はただの鴉である。燐たちは、人間より更に貧弱な身体であった。
だから地獄の厳しい環境を生き抜くのはまこと至難であり、命がけだった。特に飢えをしのぐのは容易なことではなかった。そもそも地獄は、生き物が生活するには向かない。亡者を落とすための場所に、食物が育つ必要なんてないのだから。
弱くも懸命に生きていた者の中には、その巨大すぎる絶望に触れ、挫けてしまった者も少なからずいる。彼らは生きることを放棄し、横たわって動かないまま枯れるように死んでいった。こんなにひどい場所に、どうして生まれてしまったんだろう、と恨みを募らせながら。
言葉を交わすことはかなわなかったが、燐には彼らの気持ちが手に取るようにわかった。自分もそうだったから。世界の理不尽さを、涙を流すほどに恨めしいと思っていたから。
おくうに出逢ったのは、何匹目になるかわからない弱者の一匹を見送っていたときのことだった。
そいつは奇しくも燐と同じ黒猫だった。尻尾が兎のように丸まっている点と、雄である点を除けば、傍目では区別が付かないほどの姿形をしていた。おくうはそいつの死骸をついばみに来たのだった。
別段、それは珍しい光景ではなかった。狼のようなヤツが死骸を喰っている姿なんてものは日常茶飯事だったし、鳥が鼠の死骸を持ち去っていく様を見かけたことだってある。燐だって、本当に飢えて死にかけたとき、腐りかけた鼠の死骸を喰った経験くらいある。
だが、そのときはどうしてだか、怒りに震えて頭が真っ白になった。同族を辱められるということが、あまりにもショックだったからかもしれない。燐は半ば衝動的に、雄猫の腹部をつつくおくうに向かって跳びかかっていた。
もつれ合いになり、足の爪で引っ?かれて耳の中を怪我してしまってもなお止まらなかった。おくうの翼を両足で押さえ込んでしまうと、このまま喉笛を食い破ってやる、と牙を剥き出しにして襲いかかろうとした。
だがそこから先には行けなかった。
泣いてる――。
鴉が泣いているところを見たのは初めてだったので、つい怯んでしまった。おくうは諦めを全身に纏い、ぐったりと、静かに涙をこぼしていた。
ここまで頑張ったけど、もう駄目みたい。でもまあいっか。生きるのにも疲れちゃったし。こんな世界で生きていてもしょうがないしね――そう心に浮かべているのだと、燐は覇気のないおくうの目を覗き込みながら思った。
翼を踏みつけている両足から力が抜けていく。にゃあぁ、と無意識に鳴いていた。あたいも同じなんだよ。あんたと同じなんだ。
次第に全身からも力が抜けてきて、立っていられなくなった燐は、おくうの側に足を放り出して寝転んだ。
もう嫌だ、こんなのばっかり。どうしてこんなに辛い思いばかりしなきゃなんないのさ。
きっとあいつらもこんな気持ちで死を選んだんだね。餌がなくて、同族同士で共食いしなきゃならなくなるのが堪えたんだね。
燐もおくうも、しばらくはそのまま動かなかった。
今襲われたらひとたまりもないだろうけれど、死んだっていいと割り切っていたから恐怖はなかった。生に執着していたときは、あれだけ外敵が気になっていたのに。
結局、起き上がるまでの間に襲われることはなかった。
燐が身体を起こすのに合わせておくうも起きると、二人は見つめ合った。種族が違うから声は通じない。それでも確かに、絆が通った感覚があった。
二人は歩み寄り、おくうが先に挨拶をした。嘴を軽く燐の頭にこつ、こつと二度当てて。燐も猫手でおくうの背中をさすり、挨拶として返した。
こうして交友が始まった。
それからは、燐は何をするにもおくうと一緒に動いた。その方が生き延びられる確率も増えたし、純粋に楽しかったから。一人でいるよりずっと充実した毎日を送れたから。それに、弱々しいおくうを護ってやりたいという欲求も芽生えた。まるで妹ができたみたいで嬉しかったのだ。
やがて地獄に、変なヤツがやって来た。
胸に大きな目玉をくっつけた女が二人。
「初めまして。私はさとりといいます」
女の一人に、ふて腐れた態度で自己紹介され、燐は大いに苛ついた。なんだこいつ、偉そうに。
けれど次に彼女が吐いた台詞のせいで、心臓が止まりかけた。
「偉そうですみませんね。もっとも、少なくともあなたよりは偉いですよ」
燐はすぐさま臨戦態勢に入った。おくうをかばうように前に出て。
こいつ、なんだかヤバイ!
「おや……ネコがカラスを庇っている?」
おくうは状況が読めないのか、嬉しそうにカアと鳴いた。
するとさとりは神妙に頷き、
「なるほど。あなたはこの子が好きなんですね」
もう一度、おくうが鳴き声を上げる。今度は翼もはためかせた。
「お姉ちゃん、気に入ったなら飼っちゃえば?」
傍らに立っていた、もう一人の女がそんなことを言う。
なんだ、なんの話をしてるんだ?
フーッ、と燐は威嚇した。背の毛がぞぞっと逆立つ。おくうは騙せてもあたいは騙せないよ!
と、いきなり誰かにすくい上げられた。前足の関節に手を回されたせいで、腕が突っ張ってしまって力が入れられなくなってしまった。
「怒っている動物を相手に、よく抱っこなんてできますね」
「怒ってなんかないもんねー?」
いや、怒ってるから。優しい声音で訊いてきたって、あたいは騙されない!
「……物凄く怒っているようですが」
「そんなことないもんねー?」
なんなんだ、こいつ。
するすると、身体中から力が抜けていった。空怖ろしくなり、抵抗する気すら湧いてこなくなってしまった。
「ほーら、大人しくなったじゃない」
「大人しくなったことはなりましたが、それは諦めた、ってやつですよ」
すったもんだの末、流れでさとりたちに飼われることになった。それからだ、燐が積極的に死体を喰らうようになったのは。
古明地さとり――彼女に、燐とおくうはこう教えられた。
「生きている者が難しいなら、死体を食べなさい。魂を食べなさい。そうすればあなたたちも妖怪になれるから」
妖怪になれなければ、よくて短い寿命を全うするだけになる。最悪、ちょっとでも強いヤツに遭遇してしまったら、その時点で命を諦めなければならない。今まで生き延びることができたのは、単なるまぐれなのだと、さとりは厳しい口調で説明をくれた。
燐は、おくうに出逢ってからずっと、死にたくないと祈ってきた。それはおくうも同じだったろう。だから二人でせっせと死体を、魂を喰った。食い荒らした、という表現がぴったりなくらいに、どん欲に。
特に生前強かった者の死体を見つけたときは興奮したものだ。これで一気に妖怪に近づけるぞ、と。そういうやつは大抵が死体の中で己の魂を自縛し、怨霊になりかけていたから、燐にとっては二重の意味で美味しい獲物だった。
そうして妖怪化を先に果たしたのは、燐だった。
さとりは、鴉に比べて猫のが魂の吸収効率が良いからのではないかと言ったが、燐の意見はそうではなかった。純粋に食べる量がおくうの倍以上あったからだというのが持論だ。鳥類は小食なのだ。
初めて妖怪として人型になったときは、嬉しさが爆発して自分でもどうしたらいいかわからないくらいに暴走した。生まれ変わりを果たしたらこんな気持ちになるのかもしれない。蛇の脱皮もこれくらい気持ちいいのかと想像しながら、おくうを頭に載せて駆け回った。幸せだと、確かに感じていた。
遅れておくうも妖怪化すると、二人はさとりから仕事を任されるようになった。本格的に火車として生きることになったのもこのときだ。今まで喰うだけだった死体を、火を絶やさないための燃料として運んでくる。それが燐に課せられた仕事だった。
最初こそ、一生懸命に一体ずつ担いで運んでいたのだが、あまりに体力を消耗するのと、効率が悪いというのとで、自分で台車を作ることにした。おくうに手伝ってもらい、できたのが現在も愛用している猫車である。
もしかしたら、この猫車を作ってしまったが故に火車として完成してしまったのかもしれない。死体を運ぶだけの化け猫なら、火車とは呼ばれなかったはずだからだ。車がないのに火車なんて名前は付けられまい。
「――あれ」はたと燐は足を止めた。
突き詰めてみると、さとりが言ったという「己が火車であることを忘れていっているようだ」という発言自体がおかしい。
燐は後天的に妖怪となった身だ。人間の闇が――パチュリー曰く、願いが――生み出した、意義深き先天的な妖怪ではない。
化け猫で、猫車を引いて死体を運んでいるという側面が火車と同一だから、便宜上「火車」となっているだけで、人間の願いから生まれたであろう、生粋の火車ではないのだ(もちろん、火車としての自負はあるけれど)。
夢に現われた、牛頭馬頭が引いていたアレこそが本物の火の車なのだ。火車なのだ。生まれながらに悪人を懲らしめるための火を盛らせ、運ぶための車輪を持っている彼が本分を忘れてしまうのは確かに問題がある。存在を否定することになるから。
だが燐は、火車の本分など持ち合わせていない。
死体を喰らって妖怪の身体を手に入れたというだけで、仕事として死体を運んでいるというだけで、本分も何もあったものではない。死体と怨霊が好きなだけの、ただの猫又風情にそんなものがあるものか。
「そうだ」燐は顔を上げた。
あたいは一体何を悩んでいたんだろう。まがりなりの妖怪の肉体を手にしたというだけの、エセ火車の分際なのに。
萎れていた尻尾が、瞬く間に元気を取り戻した。
行く先を照らしている夕陽の紅色が、紅魔館の廊下にも見える。深みのある紅蓮の絨毯、あれにそっくりだ。
気分の晴れた燐は、その紅い光の絨毯の上を上機嫌に歩んでいった。自分でも気付かないうちに、頭上や背後といった、いたるところに怨霊をはべらせて。
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妖怪の発生や“ありよう”を語りつつ、人間その物を語っているように見て取れますね。
奥が深い。