楽園の確率~Paradiseshift.第3章 怨霊の聲 怨霊の聲 第4話
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公開日:2017年06月26日 / 最終更新日:2017年06月26日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第3章
怨霊の聲 第4話
正邪は、勇儀が初めて会った時よりもなお大仰に、ニイッと口角を上げている。
土蜘蛛達には、その三日月型に開いた口から不揃いに生える乱杭歯は、彼女の意気揚々とした腹の中を表しているかに見えた。
その中に在って、正邪には初めて会うはずのヤマメは――
(こいつ、あまんじゃく……?)
――しかし、その姿に既視感を覚え、本性にも思い当たった。
あまんじゃくとは“あまのじゃく”の、いくつかある訛った語の一つである。
大同小異の呼び名はさておき、一括りに天邪鬼と呼ばれるモノの伝承は、本邦の津々浦々に散らばっている。これは天狗や鬼、土蜘蛛といった古い妖怪達にも言える事なのだが、およそ似通った風体のこちらとは異なり、天邪鬼自体は大同小異と言い難いほどその姿形まで全く異なる言い伝えが広がっている。
そんな数多な伝承の中、ヤマメが知る天邪鬼というのは紛れもなく、目の前の正邪の姿。
鬼とは名ばかりの、ちんけな、さもない妖。
土蜘蛛どころか河童にも力負けするであろうほどの非力さ。取り柄は弱い者いじめと他者を誑かすこと。それに、誰が言うことも望むことも一切をひっくり返して捉え、命令などは決して聞かないことだ。
他の妖怪も弱者を餌食にするのは同じ。弱った獲物を狙うのは獣だって変わらない。
天邪鬼の何が特異かと言えば、そのあくどさ。全く必要の無い場面でも悪意を振りまき、弱者は徹底していじめ抜こうとする点か。
強者に従わないと言う点では鬼や土蜘蛛とも共通するのに、彼女(亜種も含めた同種の複数の個体が確認されないため、種族とは見ず、あくまで“彼女”である)がそちらと一切相容れないのは、彼女が何も生み出さない種族であるからだ。
いや、生み出すものはある。言ってしまえばそれは、諍い事や争い、それに広義の不幸。
その点土蜘蛛は、もとより今し方の事故を振り返ってみればいわずもがな、鬼もさして変わらず。獄卒として金棒を振るうイメージは、彼らが激しく槌を打ち震わす所より現れたとされるほど古くより鉄と関わり、山間にて悪事を働きつつも武力を保っていた。
他の妖怪もおよそ、その手に職を付け、この閉じられた地の底で生計を立てている。
少なくとも旧都に在る限り、妖怪がお化けだろうと、仕事も病気も無いとはいかない。この天邪鬼や、地底にあってもスラムとされる場所を根城にする者達以外は。
――とりあえず、そんなけったいなモノが現れた。しかもこの騒ぎの中で。
ヤマメ達だけでなく勇儀も、土蜘蛛らの進路に正邪に胡乱げな視線を向ける。
「お前、天邪鬼だね?」
天邪鬼だからと言って、何が何でも嘘をつく訳ではない。それでもヤマメの問いに、肯定の言葉だけは返らない。
「そうならどうだってんだ? 土蜘蛛」
彼女は挑発的にそう言い放ったきり、答えを求める素振りすら見せず、怪我人が寝かせられた戸板へと小走りで近寄る。
「おい、来るな!」
ずっと戸板を引いて来た土蜘蛛は後方の運び手に平衡を任せると、犬でも追っ払う風に正邪を片手で制する。怪しさしか無いこんな輩を同胞に近づけさせるかと、他の者達も集まり、正邪の四周を包囲。
「けけっ、まあ落ち着きなよ。聞けば医者が居なくて困ってるみたいじゃないか」
言って、右手に持った小槌をチラつかせる。
木槌に関わる逸話は、ヤマメを始めとした火の国の出の土蜘蛛皆が知っている。ただ、中には打ち出の小槌の逸話を知る者も居る。
その小槌に対しては、いずれの解釈も各々に思い浮かべるが、誰も彼も、正邪への不信感を正面に出した態度だけは変わらない。
「そんなお粗末なまがい物で何をするつもりだい?」
本物の『打ち出の小槌』を知る勇儀は、これを明らかな偽物だと断じた。
「当然――
『手負いたるこれなハシヒトの、いみじ痛ましきを差し除けさせたまへ』
――打ち出の小槌よ!」
その器物の名を呼び、宙で乱暴に打ち振るう正邪。
何も起きるはずが無い、どんなペテンを用いるのか。止める間もなく為されてしまった業(わざ)の前に、土蜘蛛も鬼も、揃って怪我人の様子を見守る。
古い時代に振るわれた魔力が、振るうべき者が居ないここに有ろうはずも無い。しかし、もし今それがここに有ったならどうであろうか。
皆、信じてはいないのに期待してしまっていた。
十を数える間も無い内に、異常が起きる。業を受けた土蜘蛛が激しく咳き込み始めた。
「お前っ……!」
やはりそんな物など無いのだ。一刻一秒どころか、もっと長い時間が奪われた。こんな所で旧い同胞が果てようとしている、己の誤りのせいで。
すかさずヤマメの手が伸び、正邪にのど輪を食らわしながらその身を持ち上げる。
彼女は空気を吐き出す事しか出来ないまま、辛うじて声帯を震わせる。
「へっ、よく、見なよ……」
咳き込んでいた土蜘蛛の、咳と共に吐き出されたいた血泡が止まり、彼はすっかり呼吸を落ち着けている。折れていたかした手足も真っ直ぐに伸び、火傷の跡すらも無くなった。
これが打ち出の小槌の力か、それとも別の術による物か。その別は誰にも分からないが、一人の土蜘蛛が命を救われたという事実だけがそこにあった。
「ヤマメ、離してやんな」
勇儀に言われてはたと気付き、ヤマメは正邪を解放する。
天邪鬼であれば、ここは悪態の百や二百はついてくるであろうか。こんな奴に何を言われても痛くは無いし、元より同胞を救ってもらって詫びもしなければ、何の筋も通らない。
ヤマメは頭を垂れ、
「すまない。本当に申し訳ない。叶うなら、他の奴も助けてやってくれ……」
懇願する。
それでは足りないだろうと、膝を着き、普段から「中身が詰まってない」と自虐的に言っているその頭を、百貫の錘より激しく地面に落とし、額ずく。
それは、神仏にかしずいているかの様でもある。土蜘蛛である彼女が。
ヤマメにだけそうさせていられないと、怪我人を運ぶ者以外は、それに倣い頭を下げる。
駆け引きなど無い。ただそうするのが筋であり、あるいは同胞を救う道でもあると、彼女らは頭を下げ続ける。
「ちょっとヤマメ」
そんな醜態を辞めさせようと咎めるパルスィ。その肩に手が触れる。
「やめな、パルスィ」
勇儀だった。
手に力は篭もっていない。パルスィを止めるには、それで十分だからだ。
「だって、土蜘蛛が頭を下げるなんて、どういう事かわかる!?」
服(まつろ)わず、下らず、叛骨の性と共に底に在るのが、彼女ら土蜘蛛。
パルスィの目の前に広がる光景は、今の彼女らのありようが、ごっそりねじ曲げられているように映っている。
「ああ、分かってるよ。それだけの重大事ってことだ」
いつの間にか現れ、いつの間にか消えてきた。鬼も土蜘蛛も、地上でも地底でも。
それが帰天とも呼べる中での事なら納得できるだろう。だが、こんなくだらないことで同胞を失いたくはない。自業自得などという言葉を用いて切り捨てるより、このちんけな小鬼に頭を下げた方が万倍マシなのだ。
「鬼と土蜘蛛が違うのはここだね。私らなら絶対、こんな真似はしないさ」
独立独歩の鬼とは、大いに異なる点。
勇儀の言葉、軽蔑ではない。各々に斯くの如く持つ“ありよう”を、十分意識しての物。むしろそれすら押して同胞を救おうと頼む彼ら彼女らへ、敬意にも似た念を抱いている。
「いや、だって……」
あんな妖に頭を下げた所で、足下を見られ、何を求められるか分かったものではない。この行為、徒労に終わればただの醜態に過ぎない。この懸念ゆえにパルスィは、ヤマメ達の心中を推し量りつつも、止めにかかろうとしたのだ。
「これが駄目なら月人の薬師頼みだ。どっちみち、頭を下げるのは変わらないよ」
いや、あちらは本領を果たすであろうが、
「だから、あっちとこっちじゃ――」
「ああいいよ。怪我人全員ここに並べな。ちゃんと治してやるよ」
正邪はそこらの木の棒でそうするかのように、小槌で肩を叩きながら答える。造作も無いことだと、余裕を見せつけている。
「有り難い。礼には何を用意すればいい?」
ヤマメは覚悟を決めていた。
同胞の命を救うためならば、己の裁量の限りいくらでもそれに応えようと。正邪の要求がそれに留まるとは思ってもいないが。
「あーん? 今だってタダで治してやったじゃないか。私だって、これからここで暮らしてくつもりなんだ。挨拶がてらのボランティアだ」
言うが早いか、先ほどと同じく、詞を放ちながら正邪は小槌を振るう。
怪我人達が負った傷は、全てが嘘のように、軽重問わずすっかり癒やされていく。
「タダより高い物は無いよ。ヤマメ」
土蜘蛛達が同胞を失わずに済んだことに喜ぶ中、体を起こしてもうつむき続ける彼女の背に、勇儀は小さく呟いた。
一旦は事が収まり、旧都全体に波及していた浮き足だった空気も落ち着いく中、土蜘蛛達は天井から落ちてきた岩石の撤去や、被害を受けた建屋の修繕見積もりを立てるなどに奔走する。治療を受けたばかりの土蜘蛛達などは、他の者よりも一層の働きを見せている。
ヤマメはと言えば、先ほどまで呑んでいた『末げん』で、白湯が注がれた湯飲みを前に黙して待機していた。
しばらくすれば、土蜘蛛の長老衆などもこちらに降りて来るであろうが、それまではここに居る土蜘蛛のとりまとめや、旧都の妖怪達への対応の窓口も勤める必要があるからだ。
「まあ、なんだかんだでもさ、仲間が治ったならいいじゃない」
正邪に頭を下げたこと、そもそも彼らが事故を起こしたこと。パルスィは、そういったネガティブな言葉を避け、当たり障り無く語りかける。
しかしヤマメは「うん」と短く頷くだけ。
こりゃ参ったと頭をかくパルスィ。その悩みを察したのか、勇儀がずいっと身を乗り出し、二人の間に割り込む。
「ちょっくらお邪魔するよ、ご両人」
「ああ、姐さん。本当にすいません、こんな大事やらかして」
詫びを受けた勇儀の表情は明るい。
旧都では建物の被害こそ出たものの、幸いにして誰彼が死んだ、怪我をしただのといった話は皆無。ただし、勇儀の笑顔の理由はそれだけではない。
「いやいや、みんな助かったし何よりさ。そんな事より、私も色々と見誤ってたしねぇ」
そういった懸念の払拭から浮かばせていた始めの笑顔を、半ば誤魔化し笑いに変える。
「色々ね。あれが天邪鬼だったって事と、打ち出の小槌のこと?」
「そうそ、それだね。さすがパルスィ」
そんな無意味な世辞はどうでもいいからとっとと話せと、パルスィは極めてうざったそうに手を振る。
「姐さん。じゃあやっぱりアレは、本物の小槌なんですか?」
「いや、天邪鬼が持っていたのは偽物だと思ってる。でもああいった真似は、打ち出の小槌じゃなきゃ無理だね。天邪鬼が何でもひっくり返す能力を持ってるってのは聞いたことがあるけど、怪我まで嘘にすることが出来るほど便利なもんじゃないからねぇ」
「そうですね。私が知ってるだけの話になりますけど、あのあまんじゃくが出来ることと言えば、精々が敵の天地をひっくり返す事や、人の心をねじ曲げるぐらいです」
ようやくまともに応じ始めたヤマメに、勇儀は安心した風に答える。
「おや、奴に興味ありかな。確かに、奴の術で治したとは思えないね」
「でも打ち出の小槌は偽物って、どういうこと?」
「どういうことなんだろうねぇ……」
パルスィに問われた勇儀は、そのまま首を傾げる。答えを用意していなかったのだ。
「そこでさ、知恵を欲しいんだ」
三人寄ればなんとやらとは言うが、鬼と土蜘蛛と橋姫が揃った所で、一体何が出てくることか。パルスィは肩をすくめるが、知恵を出したのは意外にもヤマメだった。
「姐さん。地上の、人間の黒白魔法使いって覚えてます?」
かつて怨霊が地底から湧き出した異変の際に、旧地獄の奥底にまで赴いて蛮勇をふるった、普通の人間の魔法使い、霧雨魔理沙。
「ああ、覚えてるよ。地霊殿の核鴉も吃驚の火力バカだったからね」
人里出身の人間の英雄か、はたまた地上の妖怪にとっての便利屋か。侵入を受けた旧地獄の者からの、彼女に対する認識などそんな程度だが。
「火力バカなのはその通りでしたけどね。あの子、結構頭いいんですよ」
「そうじゃなきゃ、魔法使いなんてやってられないだろうからねぇ。で、その心は?」
「類感って、呪術でそういう種類のがあるらしいんです」
形代をして、本身の力を借り受ける。そういう種類の術だ。
「なるほど、昔の陰陽師もそんな術を使ってたわね。あっちは呪(しゅ)とか言って、和歌の掛詞みたいに、一つ一つの単語もそういうのに使ってたけど」
つまりはどういうことか。
「なるほど。あれは形だけを真似た偽物、写し身で、本物の打ち出の小槌は別にあるって事か」
「それだけじゃない。相応の力を持って、打ち出の小槌を振るえる奴もそこに居るわね」
それは地上に、であろう。
嘘ばかりの天邪鬼だが、幻想郷をひっくり返す為にここに来たというのは、どうやら嘘では無さそうだ。
しかしもしそうならば、地上にそんな力の持ち主が居るのになぜ、あえて旧地獄にそんな事をそそのかしに来たのか。また別の謎も、三人の中に浮かぶのだった。
怨霊の聲 第4話
正邪は、勇儀が初めて会った時よりもなお大仰に、ニイッと口角を上げている。
土蜘蛛達には、その三日月型に開いた口から不揃いに生える乱杭歯は、彼女の意気揚々とした腹の中を表しているかに見えた。
その中に在って、正邪には初めて会うはずのヤマメは――
(こいつ、あまんじゃく……?)
――しかし、その姿に既視感を覚え、本性にも思い当たった。
あまんじゃくとは“あまのじゃく”の、いくつかある訛った語の一つである。
大同小異の呼び名はさておき、一括りに天邪鬼と呼ばれるモノの伝承は、本邦の津々浦々に散らばっている。これは天狗や鬼、土蜘蛛といった古い妖怪達にも言える事なのだが、およそ似通った風体のこちらとは異なり、天邪鬼自体は大同小異と言い難いほどその姿形まで全く異なる言い伝えが広がっている。
そんな数多な伝承の中、ヤマメが知る天邪鬼というのは紛れもなく、目の前の正邪の姿。
鬼とは名ばかりの、ちんけな、さもない妖。
土蜘蛛どころか河童にも力負けするであろうほどの非力さ。取り柄は弱い者いじめと他者を誑かすこと。それに、誰が言うことも望むことも一切をひっくり返して捉え、命令などは決して聞かないことだ。
他の妖怪も弱者を餌食にするのは同じ。弱った獲物を狙うのは獣だって変わらない。
天邪鬼の何が特異かと言えば、そのあくどさ。全く必要の無い場面でも悪意を振りまき、弱者は徹底していじめ抜こうとする点か。
強者に従わないと言う点では鬼や土蜘蛛とも共通するのに、彼女(亜種も含めた同種の複数の個体が確認されないため、種族とは見ず、あくまで“彼女”である)がそちらと一切相容れないのは、彼女が何も生み出さない種族であるからだ。
いや、生み出すものはある。言ってしまえばそれは、諍い事や争い、それに広義の不幸。
その点土蜘蛛は、もとより今し方の事故を振り返ってみればいわずもがな、鬼もさして変わらず。獄卒として金棒を振るうイメージは、彼らが激しく槌を打ち震わす所より現れたとされるほど古くより鉄と関わり、山間にて悪事を働きつつも武力を保っていた。
他の妖怪もおよそ、その手に職を付け、この閉じられた地の底で生計を立てている。
少なくとも旧都に在る限り、妖怪がお化けだろうと、仕事も病気も無いとはいかない。この天邪鬼や、地底にあってもスラムとされる場所を根城にする者達以外は。
――とりあえず、そんなけったいなモノが現れた。しかもこの騒ぎの中で。
ヤマメ達だけでなく勇儀も、土蜘蛛らの進路に正邪に胡乱げな視線を向ける。
「お前、天邪鬼だね?」
天邪鬼だからと言って、何が何でも嘘をつく訳ではない。それでもヤマメの問いに、肯定の言葉だけは返らない。
「そうならどうだってんだ? 土蜘蛛」
彼女は挑発的にそう言い放ったきり、答えを求める素振りすら見せず、怪我人が寝かせられた戸板へと小走りで近寄る。
「おい、来るな!」
ずっと戸板を引いて来た土蜘蛛は後方の運び手に平衡を任せると、犬でも追っ払う風に正邪を片手で制する。怪しさしか無いこんな輩を同胞に近づけさせるかと、他の者達も集まり、正邪の四周を包囲。
「けけっ、まあ落ち着きなよ。聞けば医者が居なくて困ってるみたいじゃないか」
言って、右手に持った小槌をチラつかせる。
木槌に関わる逸話は、ヤマメを始めとした火の国の出の土蜘蛛皆が知っている。ただ、中には打ち出の小槌の逸話を知る者も居る。
その小槌に対しては、いずれの解釈も各々に思い浮かべるが、誰も彼も、正邪への不信感を正面に出した態度だけは変わらない。
「そんなお粗末なまがい物で何をするつもりだい?」
本物の『打ち出の小槌』を知る勇儀は、これを明らかな偽物だと断じた。
「当然――
『手負いたるこれなハシヒトの、いみじ痛ましきを差し除けさせたまへ』
――打ち出の小槌よ!」
その器物の名を呼び、宙で乱暴に打ち振るう正邪。
何も起きるはずが無い、どんなペテンを用いるのか。止める間もなく為されてしまった業(わざ)の前に、土蜘蛛も鬼も、揃って怪我人の様子を見守る。
古い時代に振るわれた魔力が、振るうべき者が居ないここに有ろうはずも無い。しかし、もし今それがここに有ったならどうであろうか。
皆、信じてはいないのに期待してしまっていた。
十を数える間も無い内に、異常が起きる。業を受けた土蜘蛛が激しく咳き込み始めた。
「お前っ……!」
やはりそんな物など無いのだ。一刻一秒どころか、もっと長い時間が奪われた。こんな所で旧い同胞が果てようとしている、己の誤りのせいで。
すかさずヤマメの手が伸び、正邪にのど輪を食らわしながらその身を持ち上げる。
彼女は空気を吐き出す事しか出来ないまま、辛うじて声帯を震わせる。
「へっ、よく、見なよ……」
咳き込んでいた土蜘蛛の、咳と共に吐き出されたいた血泡が止まり、彼はすっかり呼吸を落ち着けている。折れていたかした手足も真っ直ぐに伸び、火傷の跡すらも無くなった。
これが打ち出の小槌の力か、それとも別の術による物か。その別は誰にも分からないが、一人の土蜘蛛が命を救われたという事実だけがそこにあった。
「ヤマメ、離してやんな」
勇儀に言われてはたと気付き、ヤマメは正邪を解放する。
天邪鬼であれば、ここは悪態の百や二百はついてくるであろうか。こんな奴に何を言われても痛くは無いし、元より同胞を救ってもらって詫びもしなければ、何の筋も通らない。
ヤマメは頭を垂れ、
「すまない。本当に申し訳ない。叶うなら、他の奴も助けてやってくれ……」
懇願する。
それでは足りないだろうと、膝を着き、普段から「中身が詰まってない」と自虐的に言っているその頭を、百貫の錘より激しく地面に落とし、額ずく。
それは、神仏にかしずいているかの様でもある。土蜘蛛である彼女が。
ヤマメにだけそうさせていられないと、怪我人を運ぶ者以外は、それに倣い頭を下げる。
駆け引きなど無い。ただそうするのが筋であり、あるいは同胞を救う道でもあると、彼女らは頭を下げ続ける。
「ちょっとヤマメ」
そんな醜態を辞めさせようと咎めるパルスィ。その肩に手が触れる。
「やめな、パルスィ」
勇儀だった。
手に力は篭もっていない。パルスィを止めるには、それで十分だからだ。
「だって、土蜘蛛が頭を下げるなんて、どういう事かわかる!?」
服(まつろ)わず、下らず、叛骨の性と共に底に在るのが、彼女ら土蜘蛛。
パルスィの目の前に広がる光景は、今の彼女らのありようが、ごっそりねじ曲げられているように映っている。
「ああ、分かってるよ。それだけの重大事ってことだ」
いつの間にか現れ、いつの間にか消えてきた。鬼も土蜘蛛も、地上でも地底でも。
それが帰天とも呼べる中での事なら納得できるだろう。だが、こんなくだらないことで同胞を失いたくはない。自業自得などという言葉を用いて切り捨てるより、このちんけな小鬼に頭を下げた方が万倍マシなのだ。
「鬼と土蜘蛛が違うのはここだね。私らなら絶対、こんな真似はしないさ」
独立独歩の鬼とは、大いに異なる点。
勇儀の言葉、軽蔑ではない。各々に斯くの如く持つ“ありよう”を、十分意識しての物。むしろそれすら押して同胞を救おうと頼む彼ら彼女らへ、敬意にも似た念を抱いている。
「いや、だって……」
あんな妖に頭を下げた所で、足下を見られ、何を求められるか分かったものではない。この行為、徒労に終わればただの醜態に過ぎない。この懸念ゆえにパルスィは、ヤマメ達の心中を推し量りつつも、止めにかかろうとしたのだ。
「これが駄目なら月人の薬師頼みだ。どっちみち、頭を下げるのは変わらないよ」
いや、あちらは本領を果たすであろうが、
「だから、あっちとこっちじゃ――」
「ああいいよ。怪我人全員ここに並べな。ちゃんと治してやるよ」
正邪はそこらの木の棒でそうするかのように、小槌で肩を叩きながら答える。造作も無いことだと、余裕を見せつけている。
「有り難い。礼には何を用意すればいい?」
ヤマメは覚悟を決めていた。
同胞の命を救うためならば、己の裁量の限りいくらでもそれに応えようと。正邪の要求がそれに留まるとは思ってもいないが。
「あーん? 今だってタダで治してやったじゃないか。私だって、これからここで暮らしてくつもりなんだ。挨拶がてらのボランティアだ」
言うが早いか、先ほどと同じく、詞を放ちながら正邪は小槌を振るう。
怪我人達が負った傷は、全てが嘘のように、軽重問わずすっかり癒やされていく。
「タダより高い物は無いよ。ヤマメ」
土蜘蛛達が同胞を失わずに済んだことに喜ぶ中、体を起こしてもうつむき続ける彼女の背に、勇儀は小さく呟いた。
一旦は事が収まり、旧都全体に波及していた浮き足だった空気も落ち着いく中、土蜘蛛達は天井から落ちてきた岩石の撤去や、被害を受けた建屋の修繕見積もりを立てるなどに奔走する。治療を受けたばかりの土蜘蛛達などは、他の者よりも一層の働きを見せている。
ヤマメはと言えば、先ほどまで呑んでいた『末げん』で、白湯が注がれた湯飲みを前に黙して待機していた。
しばらくすれば、土蜘蛛の長老衆などもこちらに降りて来るであろうが、それまではここに居る土蜘蛛のとりまとめや、旧都の妖怪達への対応の窓口も勤める必要があるからだ。
「まあ、なんだかんだでもさ、仲間が治ったならいいじゃない」
正邪に頭を下げたこと、そもそも彼らが事故を起こしたこと。パルスィは、そういったネガティブな言葉を避け、当たり障り無く語りかける。
しかしヤマメは「うん」と短く頷くだけ。
こりゃ参ったと頭をかくパルスィ。その悩みを察したのか、勇儀がずいっと身を乗り出し、二人の間に割り込む。
「ちょっくらお邪魔するよ、ご両人」
「ああ、姐さん。本当にすいません、こんな大事やらかして」
詫びを受けた勇儀の表情は明るい。
旧都では建物の被害こそ出たものの、幸いにして誰彼が死んだ、怪我をしただのといった話は皆無。ただし、勇儀の笑顔の理由はそれだけではない。
「いやいや、みんな助かったし何よりさ。そんな事より、私も色々と見誤ってたしねぇ」
そういった懸念の払拭から浮かばせていた始めの笑顔を、半ば誤魔化し笑いに変える。
「色々ね。あれが天邪鬼だったって事と、打ち出の小槌のこと?」
「そうそ、それだね。さすがパルスィ」
そんな無意味な世辞はどうでもいいからとっとと話せと、パルスィは極めてうざったそうに手を振る。
「姐さん。じゃあやっぱりアレは、本物の小槌なんですか?」
「いや、天邪鬼が持っていたのは偽物だと思ってる。でもああいった真似は、打ち出の小槌じゃなきゃ無理だね。天邪鬼が何でもひっくり返す能力を持ってるってのは聞いたことがあるけど、怪我まで嘘にすることが出来るほど便利なもんじゃないからねぇ」
「そうですね。私が知ってるだけの話になりますけど、あのあまんじゃくが出来ることと言えば、精々が敵の天地をひっくり返す事や、人の心をねじ曲げるぐらいです」
ようやくまともに応じ始めたヤマメに、勇儀は安心した風に答える。
「おや、奴に興味ありかな。確かに、奴の術で治したとは思えないね」
「でも打ち出の小槌は偽物って、どういうこと?」
「どういうことなんだろうねぇ……」
パルスィに問われた勇儀は、そのまま首を傾げる。答えを用意していなかったのだ。
「そこでさ、知恵を欲しいんだ」
三人寄ればなんとやらとは言うが、鬼と土蜘蛛と橋姫が揃った所で、一体何が出てくることか。パルスィは肩をすくめるが、知恵を出したのは意外にもヤマメだった。
「姐さん。地上の、人間の黒白魔法使いって覚えてます?」
かつて怨霊が地底から湧き出した異変の際に、旧地獄の奥底にまで赴いて蛮勇をふるった、普通の人間の魔法使い、霧雨魔理沙。
「ああ、覚えてるよ。地霊殿の核鴉も吃驚の火力バカだったからね」
人里出身の人間の英雄か、はたまた地上の妖怪にとっての便利屋か。侵入を受けた旧地獄の者からの、彼女に対する認識などそんな程度だが。
「火力バカなのはその通りでしたけどね。あの子、結構頭いいんですよ」
「そうじゃなきゃ、魔法使いなんてやってられないだろうからねぇ。で、その心は?」
「類感って、呪術でそういう種類のがあるらしいんです」
形代をして、本身の力を借り受ける。そういう種類の術だ。
「なるほど、昔の陰陽師もそんな術を使ってたわね。あっちは呪(しゅ)とか言って、和歌の掛詞みたいに、一つ一つの単語もそういうのに使ってたけど」
つまりはどういうことか。
「なるほど。あれは形だけを真似た偽物、写し身で、本物の打ち出の小槌は別にあるって事か」
「それだけじゃない。相応の力を持って、打ち出の小槌を振るえる奴もそこに居るわね」
それは地上に、であろう。
嘘ばかりの天邪鬼だが、幻想郷をひっくり返す為にここに来たというのは、どうやら嘘では無さそうだ。
しかしもしそうならば、地上にそんな力の持ち主が居るのになぜ、あえて旧地獄にそんな事をそそのかしに来たのか。また別の謎も、三人の中に浮かぶのだった。
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