楽園の確率~Paradiseshift.第3章 怨霊の聲 怨霊の聲 第2話
所属カテゴリー: 楽園の確率~Paradiseshift.第3章 怨霊の聲
公開日:2017年06月12日 / 最終更新日:2017年06月12日
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第3章
怨霊の聲 第2話
パルスィ達と入れ替わるように、居酒屋『どん底』の前で一人の小鬼が足を止める。
頭には短い二本の角を生やし、前髪のひと房が獣の舌のように赤く染まった小鬼の少女は、全く噛み合わない乱杭歯を口から覗かせながら、小さく下卑た笑い声を上げている。
「鬼か、河童か、どっちがいいかなぁ」
彼女は腰に提げた金箔貼りの小槌に手を当てると、提灯よりも赤い目を爛々と光らせつつ、店に向かい足を踏み出した。
暖簾に手を掛け、挨拶も無くそれをくぐると、開きっぱなしの戸口の向こうから猜疑の念に満ちた眼差しが、一斉に小鬼の方を向く。
唯一、田道間だけがカウンターに向いたまま、水気を失った唇を盃に付けている。
「見ない顔だね?」
一番に声を掛けたのは勇儀。まとめ役と言うだけあって、この地底に住まう者は殆ど知っている。
地底には在しても旧都に訪れたことも無い、より深い淀みに居座り続ける者や、旧都の奥の高台に建つ屋敷のペット達までも。
逆に、勇儀の顔を知らぬ者もまず居ない。
天狗すらも下に見て妖怪の山に君臨し続けた頃からも更に遡って、幻想郷が隔絶されるよりもはるか以前、平安時代より鬼の四天王と呼ばれ人間を震え上がらせていた頃より、人妖に広く知られた彼女であるが故だ。
その勇儀が知らない妖怪。彼女の顔を見た小鬼の反応も、およそ想像できる範囲の物。
「あんたがここらの顔かい?」
不遜な面持ちのまま、問いかけに対して問いで返す小鬼に、勇儀の取り巻き達は一様に憤って彼女を囲む。
勇儀は、双方の動きにかかずらわず、改めて問いかける。
「まずはお前から名を聞かせな」
問いかけと言うより、命じたに等しい。
「ヤなこった。と言いたいとこだけど、話を進めたいから名乗ってやる。私の名は鬼人正邪。見ての通りのご同類だよ」
正邪はニッと口角を上げ、歯を剥きながら笑って見せるが、目は少しも笑っていない。
ますますの傲岸不遜な態度に、辺りは「名乗り方も知らないのか」「知らぬなら教えてやろう」と、新顔の“鬼”に息巻くが、彼女は少しも動じず「今度はあんたの番だ」と、勇儀に求める。
「私は星熊勇儀。お前が言う風な、この旧都の顔役と思ってもらっていい」
正邪は、勇儀の名乗りに「そうかいそうかい」と生返事をし――て更に周囲の怒りを買い――つつ、カウンターに向かう。ちょうどヤマメが座っていた席が空いていた。
「ほう、新たな鬼が来るなんて、どれぐらいぶりかな」
これまで静かに話に耳を傾けていた田道間が、隣に座った正邪に、初めて話しかける。
「また小汚い爺さんだな。それにしても、こっちでも鬼ってのは珍しいのかい?」
正邪の隣の豹頭の男が「失敬な奴だ」と咎めて正邪の肩を掴んだのを、田道間は手振りで解かせながら、彼女に答える。
「地上の鬼はすっかりこっちに来てしまっているし、新たに鬼が生まれるなんて事も、そうそう無いからなあ。主、この嬢ちゃんにも一杯やってくれ、ワシの奢りだ」
続いて店主にもそう言いながら、田道間は正邪の方を向く。
正邪はその焦点の合わない眼差しに気付き、また問いかける。
「おや、爺さん。あんた、目が見えないのか?」
「その通りだ。飯も歳も、食うだけは食ったからなぁ」
「そうかいそうかい、そいつは難儀だなぁ」
自分の見立てが当たっていたのも少しばかり嬉しかったのか、正邪は誰の心中を推し量る事もせず、下卑た笑い声を上げる。
新顔の馴れ馴れしい態度に、誰も彼もが不快そうな表情を浮かべる。
勇儀と、馴れ馴れしくされた田道間だけがそんな感情を持っていないのか、顔色を変えずに酒を飲み続け、なみなみと酒が注がれた五合升を差し出す店主も、その二人に倣ってかプロ根性でか、無表情を保っている。
「ひひっ、ありがたいねぇ。礼と言っちゃなんだけど、その目、治してやろうか?」
言いながら正邪は、腰に提げた袋から小さな木槌を取り出す。彼女はそれを、目の見えない田道間にではなく、辺りの鬼達に見せつける風に掲げた。
何の変哲も無さそうな、何をするにも使えそうにない、ただの小槌。
「こいつに願えば何でも叶うんだ。爺さんの目を治すなんて、朝飯前さ」
その小槌よりも正邪の言葉に、まず勇儀が、次いで何人かの鬼が目を見張る。
これを横目で認めた正邪は、田道間から視線を外してそちら側に向き直る。
「そう、何でも叶うんだよ。そうだな例えば、お前らをこんな地底に押し込めている奴らを叩きのめして、地上を支配するとかねぇ」
口の端を上げ、気怠そうな濁った視線を右に左にと流しながらそんな事を言う様は、ここに居る誰よりも、地底の住人に相応しいあくどさを覗かせている。
客達がにわかにどよめきの声を上げる中、始めに話を持ちかけられた田道間が、一拍遅れた今になって正邪に答える。
「そいつは助かるなぁ。でもワシはいい、要らんよ」
「妙なことを言うジジイだな。あんた、生まれついての盲(めしい)って訳でもないだろ。見えた方が色々と楽だろうに」
「いや、いいんだよ。それにしても、随分と大それた話をしてくれるなぁ」
「言うほど大それた事かい?」
鬼の力は何者にも勝る。各々が、その総身に溢れる怪力乱神を振るえば、地上を治めるなど容易いはずである。もとより誰の力も借りる必要が無いほどに。
正邪の言葉は、明確にこれを意識した物。
「残念だけど断るよ。私達は地下に住み始めてからこっち、この通り地獄のへりの一箇所に留まって来たんだ。今はその地獄も移転したし、地上の妖怪どもとの間には、お互いに攻め寄せないって約定も交わしてる。
この地底こそ私達の楽園さ。今になって、地上をどうこうする気は無いんでね」
勇儀は真っ向から「否」と答えた。無論、誰も異議は唱えない。
「そうかい。でも、あんた方が良くても、他の奴らはどうなのかね」
それは旧都の総意ではなかろうに。そんな意図の言葉を放ち、現在進行形で自らの敵地を作り出しながら正邪が言い放つと、
「ははは、旧都に居る者はどいつも独立独歩を旨としてるが、皆、星熊殿を信じている。星熊殿がそう答えるからには、ここではこれ以上、話は動かないよ」
ここは諦めて、ゆっくり酒でも呑んでいなさいと、田道間は出されていたお通しを正邪に示しながら説く。
彼に言われたとおり、この場ではこれ以上何を言っても無駄だろうと、正邪はふて腐れた風に手の中で小槌を転がしながら、勇儀達に背を向ける。
「フン。おっと親父、あたしはお通しなんて要らなかったんだけどね」
「お代はワシが持つと言ったろう? 頂戴しときな」
小槌を収め、田道間に促されるままに飲み食いを始める正邪。
勇儀も、取り巻きや他の客の苛立ちを尻目に、ゆっくりと朱の盃を飲み干した。
∴
「……メ、マノメ……」
土蜘蛛の採掘現場の一角。
地底に新たな鬼と名乗る妖怪、正邪が訪れた事など全く耳にもしないまま、いつも通りに現場に赴いて――居眠りしているいるヤマメ。
「起きて下さいよ、ヤマメさん」
土蜘蛛の男が、煤だらけの顔でヤマメを揺り起こす。彼女の顔も同じく煤まみれ。
一度「ふが」と息を止め、大あくびを上げてから目をこする。手を染めていた煤がなお顔に塗り込まれ、右目の周りが更に真っ黒に染まる。
「あのね。私がいようがいまいが、何か変わるわけじゃないでしょ?」
体を動かすのはいくらでもやるから、話し合いやら頭を動かすのは勝手にやって欲しいと、また寝入ろうとする。
「いや、もっと自覚持ってくれよ……」
実のところ彼女、土蜘蛛としては最も古い時代にこの地に住み着いた者である。
群れで過ごせど、確たる組織や上下関係なども持たない土蜘蛛だが、長老衆や、彼女ら古くからの入植者である者は、それなりの格を以て扱われている。
――以前、地底から怨霊が吹き出た異変の折に地上から訪れた闖入者(地上の人間)に対し、土蜘蛛の誰にも先駆け、あるいは代表する形で彼女が当たったのも、それ故だ――
現在、あえて採掘現場で会同が行われているのも割合重要な案件であるからだし、そこに意思決定が必要だからこそ、そんな彼女が同席しているのだ。
そもそもの話――
ここで行われている会合が何かと言えば、
「だってこれ、炭鉱でしょ? 却下」
石炭採掘の可否の判断。
古くは燃石(もえるいし)と呼ばれ、かつてヤマメ達が住んでいた火の国(肥後国、今の熊本県)からも多く掘り出されていたそれは、今でこそ地上の外の世界では需要が下火となったが、幻想郷では十分有用な燃料。
そしてそれは、この地底でも変わらない。
だが石炭の採掘には、他の鉱脈にも恒常的に起こりうる落盤や地下水の流入や、ガスの噴出に起因する火災や酸欠などよりも、更に余計なリスクを伴う。
石炭の塵、炭塵が空間にある範囲の濃度で充満し、火種が加って起こる劇的な爆発がそれだ。
付随する酸欠や有毒ガスの発生だけならば、土蜘蛛であれば辛うじて耐えられるものだが、メタンなどの可燃性ガスの爆発がここに加われば、鬼ですら爆圧に押し潰されてしまう。
それに、この縦坑から縦横に伸びる鉱脈群でそんな事が起これば、旧都天蓋の崩落などが起こらないとも限らない。
こういったリスクを顧みて、炭鉱の他、周囲に甚大な危険を及ぼしかねない坑道の掘削は、徹底した管理の下で行われている。
「ろ・〇八番の坑道だって尽きかけてるんですよ。そろそろ新しい鉱脈の開拓を――」
「じゃあそれを本当に掘り尽くして、態勢が整ってからだね」
現行の石炭掘削場の名を挙げ、必要性を説く彼の論を、ヤマメはまたも即断で否決。
ヤマメが責任を持ってゴーサインを出せば、彼らはすぐにでも動き出せる。しかし彼女が再三にわたって否と答えるなら、これは諦めるほか無いのだ。
ヤマメも、何か起こった時は己が全ての責を負うべきだとの覚悟があるからこそ、今はこうして否定しているのだ。当初から里で決めているとおりの方針に従って。
「だからそこをヤマメさんの裁量で……どうにかなりませんか?」
「私が一番話しやすいからこうして案を持ちかけたって言うのは、それは分かるよ。でもね、このお話は誰にしても同じだよ。やるなら、今の鉱脈をホントに掘り尽くしてから」
もうこれ以上は話す余地も無いとまた突っぱねると、持ち込んでいた坑道封印のための資材の山を指し示すと、彼らもこうまで言われればしょうがないと、ヤマメの指示に従う。
「じゃあ、この件はお開きって事でいいかな? これが終わったらまた旧都の方でおごるから、みんな機嫌を直してよ」
足取りや顔色を重くしていた彼らも、この一言でキビキビと動き始める。
これも地底の者達の常だった。
旧都への入り口となる橋。
いつも通りにその袂に立つパルスィに、仲間の土蜘蛛達を先に送り出したヤマメが「そんな事があってさー」などと、坑道での争議を語る。
傍から聞くとすると苦労話に思えるが、ヤマメにとってはただの話のタネでしか無い。
「ったく。そういう、自分は偉いんだぞアピールは――」
「妬ましい?」
パルスィの反応の先がどうなるのか承知した上での会話だったため、先んじてそう返す。
彼女も、毎度の事なので「もういい」と盛大に溜め息を吐き出す。
「苦労しているのは、貴女だけじゃないのよ」
「そりゃ分かってるよ。橋守のお仕事が閑職だなんて、私は言ってないじゃない」
「そう思ってるから、いっつも呑みに誘うんじゃないの?」
「だって誘わずに素通りしたら、それはそれで後ろから色々ぶっ刺してくるじゃん」
相手は嫉妬の鬼、橋姫。
今のところは嫉妬の視線だけに留まっているが、刀子や五寸釘が刺さった所で不思議は無い――と言う冗談でもある。
「言うほど刺してるつもりは無いんだけど。それにそのしつこいお誘いをたまたま受けた結果が、この前の小鬼の侵入なんだけどね」
「あー、あれはねぇ、こっちも気付かずあっさり通しちゃったみたいだし……ホントごめん!」
土蜘蛛達もパルスィも、侵入者を絶対通さないという心づもりの強固な守りを敷いているのではないし、もとより誰かからそれを依託されたのでもない。あくまで各々の住まう地がその様な場所であるため、いつからかそんな役割を負っているだけ。
正邪侵入の件にしても、細々と「誰彼の怠慢があったから」などという話が軽口程度に挙がりはしても、本気でヤマメら土蜘蛛やパルスィを責めるような物とは違う。
「それにさ、姐さんも気にすんなって言ってたじゃん」
「勇儀がそう言っても、取り巻き共が面倒なのよ……」
相当の事が無い限りその力を振り回さない勇儀の代わりが、近衛気取りで勇儀に付いて回る彼らである。(彼らは勝手に思っているらしいが)
「そうねぇ。あんまりしつこく言うようなら、姐さんに相談してみたら?」
「ハァ……真っ平」
何を気に入ってか、少しでも近寄ればべったりな勇儀に、パルスィは良い感情を抱いていない。
「そこはそれ、利用できる物は何でも利用すればいいのに。姐さんだって、それにかこつけて言い寄ろうなんてしないだろうし」
勇儀がパルスィを本気で囲うつもりなら、この橋にも直接現れて、どうにかしてくるであろう。
だがこれまで、彼女がそんな我が侭を振りまいた試しは無い。
「だから真っ平だって、そう言ってるのよ」
「ふぅん、難しいねぇ」
朴念仁に見えて、意外とそういう機微に聡いヤマメ。こうは言いながら、自覚の無いパルスィには悪戯っぽい微笑みを向けている。
「ええ難しいでしょうよ、ヤマメみたいなおばさんには!」
ぶんむくれ、そう言い放つパルスィ。これ以上はマズいかと、ヤマメは話題を変える。
「うわ、酷いこと言わないでよぉ、ゴメンよぉ。でもさ、やっぱり気にならない?」
「何、その小鬼のこと?」
「とーぜん」
件の小鬼――正邪は、居酒屋『どん底』に訪れた後、旧都の外れ、地獄鴉が日がな一日ギャアギャアとわめく『鳥辺野』と呼ばれる地に根城をもうけたと言う。
所在はいい、新顔にはお似合いの場所であろうし。それよりも、彼女がまず旧都の顔と言える勇儀と邂逅した事が、ヤマメ達には気になる点だった。
溢れる妖気を頼りにしたのか、それともただの偶然かで、事情は大きく違ってくる。
「どうなのかな。少しだけ噂で聞いたけど、「地上を攻めよう」だなんて嘯いていたみたいだし。今まで地上のどこかに潜んで、準備を進めていたのかもね」
それをなぜ地底に持ちかけたかというのは、二人にも、ある程度まで理解できる。
「地上の何が気にくわないのかまでは知らないけど、やるなら勝手にやって欲しいねぇ」
世のいざこざからなるべく離れたいが故に、ここに隠れ住むことを決めた土蜘蛛の、その最も古い意思を持つヤマメらしい感想。
「ふぅん……ちょっと前に、地上に戻ったお寺さんに、獲物を探しに行った奴とは思えない台詞ね」
パルスィの機嫌はまだ直っていないようで、ヤマメとしても汚点と思うところを突いた口撃が、容赦なく加えられる。
「いやあれはその、確かに仰る通りだけど、色々事情があったのよ。それよりさ――」
ヤマメは一歩踏み出し、パルスィに背を向けながら街道の明かりに向かい始める。
誘蛾灯ならぬ赤提灯に引かれる蟲妖の背に、パルスィのうんざりとした問いが投げかけられる。
「またあの懲りない面々の所に行って、直接その小鬼の話を聞こうって言うの?」
「そうそう、今日もちょうど『どん底』に居るって聞いてね。ウチの奴らも今頃はそこ」
「ったく、こういう時に限ったその準備の良さは――」
「妬ましい?」
「いや、そういう話に食いつく所が、やっぱりおばさんくさい」
「だからゴメンってー」
などと言いつつ、パルスィも興味を引かれている。
どうせ新たな侵入者も無かろうと、彼女もヤマメの後に続くのだった。
怨霊の聲 第2話
パルスィ達と入れ替わるように、居酒屋『どん底』の前で一人の小鬼が足を止める。
頭には短い二本の角を生やし、前髪のひと房が獣の舌のように赤く染まった小鬼の少女は、全く噛み合わない乱杭歯を口から覗かせながら、小さく下卑た笑い声を上げている。
「鬼か、河童か、どっちがいいかなぁ」
彼女は腰に提げた金箔貼りの小槌に手を当てると、提灯よりも赤い目を爛々と光らせつつ、店に向かい足を踏み出した。
暖簾に手を掛け、挨拶も無くそれをくぐると、開きっぱなしの戸口の向こうから猜疑の念に満ちた眼差しが、一斉に小鬼の方を向く。
唯一、田道間だけがカウンターに向いたまま、水気を失った唇を盃に付けている。
「見ない顔だね?」
一番に声を掛けたのは勇儀。まとめ役と言うだけあって、この地底に住まう者は殆ど知っている。
地底には在しても旧都に訪れたことも無い、より深い淀みに居座り続ける者や、旧都の奥の高台に建つ屋敷のペット達までも。
逆に、勇儀の顔を知らぬ者もまず居ない。
天狗すらも下に見て妖怪の山に君臨し続けた頃からも更に遡って、幻想郷が隔絶されるよりもはるか以前、平安時代より鬼の四天王と呼ばれ人間を震え上がらせていた頃より、人妖に広く知られた彼女であるが故だ。
その勇儀が知らない妖怪。彼女の顔を見た小鬼の反応も、およそ想像できる範囲の物。
「あんたがここらの顔かい?」
不遜な面持ちのまま、問いかけに対して問いで返す小鬼に、勇儀の取り巻き達は一様に憤って彼女を囲む。
勇儀は、双方の動きにかかずらわず、改めて問いかける。
「まずはお前から名を聞かせな」
問いかけと言うより、命じたに等しい。
「ヤなこった。と言いたいとこだけど、話を進めたいから名乗ってやる。私の名は鬼人正邪。見ての通りのご同類だよ」
正邪はニッと口角を上げ、歯を剥きながら笑って見せるが、目は少しも笑っていない。
ますますの傲岸不遜な態度に、辺りは「名乗り方も知らないのか」「知らぬなら教えてやろう」と、新顔の“鬼”に息巻くが、彼女は少しも動じず「今度はあんたの番だ」と、勇儀に求める。
「私は星熊勇儀。お前が言う風な、この旧都の顔役と思ってもらっていい」
正邪は、勇儀の名乗りに「そうかいそうかい」と生返事をし――て更に周囲の怒りを買い――つつ、カウンターに向かう。ちょうどヤマメが座っていた席が空いていた。
「ほう、新たな鬼が来るなんて、どれぐらいぶりかな」
これまで静かに話に耳を傾けていた田道間が、隣に座った正邪に、初めて話しかける。
「また小汚い爺さんだな。それにしても、こっちでも鬼ってのは珍しいのかい?」
正邪の隣の豹頭の男が「失敬な奴だ」と咎めて正邪の肩を掴んだのを、田道間は手振りで解かせながら、彼女に答える。
「地上の鬼はすっかりこっちに来てしまっているし、新たに鬼が生まれるなんて事も、そうそう無いからなあ。主、この嬢ちゃんにも一杯やってくれ、ワシの奢りだ」
続いて店主にもそう言いながら、田道間は正邪の方を向く。
正邪はその焦点の合わない眼差しに気付き、また問いかける。
「おや、爺さん。あんた、目が見えないのか?」
「その通りだ。飯も歳も、食うだけは食ったからなぁ」
「そうかいそうかい、そいつは難儀だなぁ」
自分の見立てが当たっていたのも少しばかり嬉しかったのか、正邪は誰の心中を推し量る事もせず、下卑た笑い声を上げる。
新顔の馴れ馴れしい態度に、誰も彼もが不快そうな表情を浮かべる。
勇儀と、馴れ馴れしくされた田道間だけがそんな感情を持っていないのか、顔色を変えずに酒を飲み続け、なみなみと酒が注がれた五合升を差し出す店主も、その二人に倣ってかプロ根性でか、無表情を保っている。
「ひひっ、ありがたいねぇ。礼と言っちゃなんだけど、その目、治してやろうか?」
言いながら正邪は、腰に提げた袋から小さな木槌を取り出す。彼女はそれを、目の見えない田道間にではなく、辺りの鬼達に見せつける風に掲げた。
何の変哲も無さそうな、何をするにも使えそうにない、ただの小槌。
「こいつに願えば何でも叶うんだ。爺さんの目を治すなんて、朝飯前さ」
その小槌よりも正邪の言葉に、まず勇儀が、次いで何人かの鬼が目を見張る。
これを横目で認めた正邪は、田道間から視線を外してそちら側に向き直る。
「そう、何でも叶うんだよ。そうだな例えば、お前らをこんな地底に押し込めている奴らを叩きのめして、地上を支配するとかねぇ」
口の端を上げ、気怠そうな濁った視線を右に左にと流しながらそんな事を言う様は、ここに居る誰よりも、地底の住人に相応しいあくどさを覗かせている。
客達がにわかにどよめきの声を上げる中、始めに話を持ちかけられた田道間が、一拍遅れた今になって正邪に答える。
「そいつは助かるなぁ。でもワシはいい、要らんよ」
「妙なことを言うジジイだな。あんた、生まれついての盲(めしい)って訳でもないだろ。見えた方が色々と楽だろうに」
「いや、いいんだよ。それにしても、随分と大それた話をしてくれるなぁ」
「言うほど大それた事かい?」
鬼の力は何者にも勝る。各々が、その総身に溢れる怪力乱神を振るえば、地上を治めるなど容易いはずである。もとより誰の力も借りる必要が無いほどに。
正邪の言葉は、明確にこれを意識した物。
「残念だけど断るよ。私達は地下に住み始めてからこっち、この通り地獄のへりの一箇所に留まって来たんだ。今はその地獄も移転したし、地上の妖怪どもとの間には、お互いに攻め寄せないって約定も交わしてる。
この地底こそ私達の楽園さ。今になって、地上をどうこうする気は無いんでね」
勇儀は真っ向から「否」と答えた。無論、誰も異議は唱えない。
「そうかい。でも、あんた方が良くても、他の奴らはどうなのかね」
それは旧都の総意ではなかろうに。そんな意図の言葉を放ち、現在進行形で自らの敵地を作り出しながら正邪が言い放つと、
「ははは、旧都に居る者はどいつも独立独歩を旨としてるが、皆、星熊殿を信じている。星熊殿がそう答えるからには、ここではこれ以上、話は動かないよ」
ここは諦めて、ゆっくり酒でも呑んでいなさいと、田道間は出されていたお通しを正邪に示しながら説く。
彼に言われたとおり、この場ではこれ以上何を言っても無駄だろうと、正邪はふて腐れた風に手の中で小槌を転がしながら、勇儀達に背を向ける。
「フン。おっと親父、あたしはお通しなんて要らなかったんだけどね」
「お代はワシが持つと言ったろう? 頂戴しときな」
小槌を収め、田道間に促されるままに飲み食いを始める正邪。
勇儀も、取り巻きや他の客の苛立ちを尻目に、ゆっくりと朱の盃を飲み干した。
∴
「……メ、マノメ……」
土蜘蛛の採掘現場の一角。
地底に新たな鬼と名乗る妖怪、正邪が訪れた事など全く耳にもしないまま、いつも通りに現場に赴いて――居眠りしているいるヤマメ。
「起きて下さいよ、ヤマメさん」
土蜘蛛の男が、煤だらけの顔でヤマメを揺り起こす。彼女の顔も同じく煤まみれ。
一度「ふが」と息を止め、大あくびを上げてから目をこする。手を染めていた煤がなお顔に塗り込まれ、右目の周りが更に真っ黒に染まる。
「あのね。私がいようがいまいが、何か変わるわけじゃないでしょ?」
体を動かすのはいくらでもやるから、話し合いやら頭を動かすのは勝手にやって欲しいと、また寝入ろうとする。
「いや、もっと自覚持ってくれよ……」
実のところ彼女、土蜘蛛としては最も古い時代にこの地に住み着いた者である。
群れで過ごせど、確たる組織や上下関係なども持たない土蜘蛛だが、長老衆や、彼女ら古くからの入植者である者は、それなりの格を以て扱われている。
――以前、地底から怨霊が吹き出た異変の折に地上から訪れた闖入者(地上の人間)に対し、土蜘蛛の誰にも先駆け、あるいは代表する形で彼女が当たったのも、それ故だ――
現在、あえて採掘現場で会同が行われているのも割合重要な案件であるからだし、そこに意思決定が必要だからこそ、そんな彼女が同席しているのだ。
そもそもの話――
ここで行われている会合が何かと言えば、
「だってこれ、炭鉱でしょ? 却下」
石炭採掘の可否の判断。
古くは燃石(もえるいし)と呼ばれ、かつてヤマメ達が住んでいた火の国(肥後国、今の熊本県)からも多く掘り出されていたそれは、今でこそ地上の外の世界では需要が下火となったが、幻想郷では十分有用な燃料。
そしてそれは、この地底でも変わらない。
だが石炭の採掘には、他の鉱脈にも恒常的に起こりうる落盤や地下水の流入や、ガスの噴出に起因する火災や酸欠などよりも、更に余計なリスクを伴う。
石炭の塵、炭塵が空間にある範囲の濃度で充満し、火種が加って起こる劇的な爆発がそれだ。
付随する酸欠や有毒ガスの発生だけならば、土蜘蛛であれば辛うじて耐えられるものだが、メタンなどの可燃性ガスの爆発がここに加われば、鬼ですら爆圧に押し潰されてしまう。
それに、この縦坑から縦横に伸びる鉱脈群でそんな事が起これば、旧都天蓋の崩落などが起こらないとも限らない。
こういったリスクを顧みて、炭鉱の他、周囲に甚大な危険を及ぼしかねない坑道の掘削は、徹底した管理の下で行われている。
「ろ・〇八番の坑道だって尽きかけてるんですよ。そろそろ新しい鉱脈の開拓を――」
「じゃあそれを本当に掘り尽くして、態勢が整ってからだね」
現行の石炭掘削場の名を挙げ、必要性を説く彼の論を、ヤマメはまたも即断で否決。
ヤマメが責任を持ってゴーサインを出せば、彼らはすぐにでも動き出せる。しかし彼女が再三にわたって否と答えるなら、これは諦めるほか無いのだ。
ヤマメも、何か起こった時は己が全ての責を負うべきだとの覚悟があるからこそ、今はこうして否定しているのだ。当初から里で決めているとおりの方針に従って。
「だからそこをヤマメさんの裁量で……どうにかなりませんか?」
「私が一番話しやすいからこうして案を持ちかけたって言うのは、それは分かるよ。でもね、このお話は誰にしても同じだよ。やるなら、今の鉱脈をホントに掘り尽くしてから」
もうこれ以上は話す余地も無いとまた突っぱねると、持ち込んでいた坑道封印のための資材の山を指し示すと、彼らもこうまで言われればしょうがないと、ヤマメの指示に従う。
「じゃあ、この件はお開きって事でいいかな? これが終わったらまた旧都の方でおごるから、みんな機嫌を直してよ」
足取りや顔色を重くしていた彼らも、この一言でキビキビと動き始める。
これも地底の者達の常だった。
旧都への入り口となる橋。
いつも通りにその袂に立つパルスィに、仲間の土蜘蛛達を先に送り出したヤマメが「そんな事があってさー」などと、坑道での争議を語る。
傍から聞くとすると苦労話に思えるが、ヤマメにとってはただの話のタネでしか無い。
「ったく。そういう、自分は偉いんだぞアピールは――」
「妬ましい?」
パルスィの反応の先がどうなるのか承知した上での会話だったため、先んじてそう返す。
彼女も、毎度の事なので「もういい」と盛大に溜め息を吐き出す。
「苦労しているのは、貴女だけじゃないのよ」
「そりゃ分かってるよ。橋守のお仕事が閑職だなんて、私は言ってないじゃない」
「そう思ってるから、いっつも呑みに誘うんじゃないの?」
「だって誘わずに素通りしたら、それはそれで後ろから色々ぶっ刺してくるじゃん」
相手は嫉妬の鬼、橋姫。
今のところは嫉妬の視線だけに留まっているが、刀子や五寸釘が刺さった所で不思議は無い――と言う冗談でもある。
「言うほど刺してるつもりは無いんだけど。それにそのしつこいお誘いをたまたま受けた結果が、この前の小鬼の侵入なんだけどね」
「あー、あれはねぇ、こっちも気付かずあっさり通しちゃったみたいだし……ホントごめん!」
土蜘蛛達もパルスィも、侵入者を絶対通さないという心づもりの強固な守りを敷いているのではないし、もとより誰かからそれを依託されたのでもない。あくまで各々の住まう地がその様な場所であるため、いつからかそんな役割を負っているだけ。
正邪侵入の件にしても、細々と「誰彼の怠慢があったから」などという話が軽口程度に挙がりはしても、本気でヤマメら土蜘蛛やパルスィを責めるような物とは違う。
「それにさ、姐さんも気にすんなって言ってたじゃん」
「勇儀がそう言っても、取り巻き共が面倒なのよ……」
相当の事が無い限りその力を振り回さない勇儀の代わりが、近衛気取りで勇儀に付いて回る彼らである。(彼らは勝手に思っているらしいが)
「そうねぇ。あんまりしつこく言うようなら、姐さんに相談してみたら?」
「ハァ……真っ平」
何を気に入ってか、少しでも近寄ればべったりな勇儀に、パルスィは良い感情を抱いていない。
「そこはそれ、利用できる物は何でも利用すればいいのに。姐さんだって、それにかこつけて言い寄ろうなんてしないだろうし」
勇儀がパルスィを本気で囲うつもりなら、この橋にも直接現れて、どうにかしてくるであろう。
だがこれまで、彼女がそんな我が侭を振りまいた試しは無い。
「だから真っ平だって、そう言ってるのよ」
「ふぅん、難しいねぇ」
朴念仁に見えて、意外とそういう機微に聡いヤマメ。こうは言いながら、自覚の無いパルスィには悪戯っぽい微笑みを向けている。
「ええ難しいでしょうよ、ヤマメみたいなおばさんには!」
ぶんむくれ、そう言い放つパルスィ。これ以上はマズいかと、ヤマメは話題を変える。
「うわ、酷いこと言わないでよぉ、ゴメンよぉ。でもさ、やっぱり気にならない?」
「何、その小鬼のこと?」
「とーぜん」
件の小鬼――正邪は、居酒屋『どん底』に訪れた後、旧都の外れ、地獄鴉が日がな一日ギャアギャアとわめく『鳥辺野』と呼ばれる地に根城をもうけたと言う。
所在はいい、新顔にはお似合いの場所であろうし。それよりも、彼女がまず旧都の顔と言える勇儀と邂逅した事が、ヤマメ達には気になる点だった。
溢れる妖気を頼りにしたのか、それともただの偶然かで、事情は大きく違ってくる。
「どうなのかな。少しだけ噂で聞いたけど、「地上を攻めよう」だなんて嘯いていたみたいだし。今まで地上のどこかに潜んで、準備を進めていたのかもね」
それをなぜ地底に持ちかけたかというのは、二人にも、ある程度まで理解できる。
「地上の何が気にくわないのかまでは知らないけど、やるなら勝手にやって欲しいねぇ」
世のいざこざからなるべく離れたいが故に、ここに隠れ住むことを決めた土蜘蛛の、その最も古い意思を持つヤマメらしい感想。
「ふぅん……ちょっと前に、地上に戻ったお寺さんに、獲物を探しに行った奴とは思えない台詞ね」
パルスィの機嫌はまだ直っていないようで、ヤマメとしても汚点と思うところを突いた口撃が、容赦なく加えられる。
「いやあれはその、確かに仰る通りだけど、色々事情があったのよ。それよりさ――」
ヤマメは一歩踏み出し、パルスィに背を向けながら街道の明かりに向かい始める。
誘蛾灯ならぬ赤提灯に引かれる蟲妖の背に、パルスィのうんざりとした問いが投げかけられる。
「またあの懲りない面々の所に行って、直接その小鬼の話を聞こうって言うの?」
「そうそう、今日もちょうど『どん底』に居るって聞いてね。ウチの奴らも今頃はそこ」
「ったく、こういう時に限ったその準備の良さは――」
「妬ましい?」
「いや、そういう話に食いつく所が、やっぱりおばさんくさい」
「だからゴメンってー」
などと言いつつ、パルスィも興味を引かれている。
どうせ新たな侵入者も無かろうと、彼女もヤマメの後に続くのだった。
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