こちら秘封探偵事務所外伝 宇佐見菫子の革命 宇佐見菫子の革命 第6話
所属カテゴリー: こちら秘封探偵事務所外伝 宇佐見菫子の革命
公開日:2018年06月16日 / 最終更新日:2018年05月17日
【宇佐見薫、妹を語る――2014年9月】
受験勉強の何が辛いって、これだけやれば大丈夫、という基準がどこにもないことだ。
本番のセンター試験と二次試験が終わるまで、ひたすら賽の河原で石を積み上げるような勉強が続く。どれだけ勉強しても絶対の安心はない。終わりは試験当日の到来を待つほかない。いや、合格通知をもらうまで、か。
高校三年の秋の休日。夕方、いよいよ追い込みの受験勉強に疲れた俺は、家の近所を散歩していた。たまには気分転換でもしないとやってられない。夏コミの新刊も、ラノベの新刊も我慢しているのだ。幻コレの新作が今年は出なかったのはもっけの幸いである。
ああ、灰色の受験生生活。これをもう一年続けるのだけは絶対に嫌だ。せめて第二志望には引っかかって、大学生活を始めたいものである。合格さえしてしまえば、何の気兼ねもなく同人誌もラノベも読める。それが俺の希望だ。
そんなことを思いながら、ぶらぶらとコンビニへ向かう道を歩いていた俺は、不意にその公園に行き当たった。子供の頃よく遊んだ児童公園だ。今見ると、本当に小さい。小学生の頃はここが無限の遊び場に見えたものだけれど――。
その公園に、見慣れた顔があり、俺は目を見開いた。
「菫子?」
俺が公園に足を踏み入れて呼びかけると、公園の遊具――揺れるパンダの乗り物に腰を下ろしていた妹は、ふっと顔を上げて、どこか眩しそうに俺の方へ目を細めた。
「なんだ、兄者か」
「なんだとはご挨拶だな、受験生に向かって。つうかお前も受験生だろ。こんなとこで何やってんだ」
「兄者と違って、私は今更あくせく勉強するまでもありませんから」
「この野郎。――まあ、お前ならどこの高校でも一発だろうが。つうか、そういえばどこ行くとか聞いてなかったな」
パンダの隣にある馬の乗り物に腰を下ろして、俺は菫子に向き直る。
「お前、どこ行くんだ? お茶の水か、慶応か、筑波か?」
「ん、――東深見かな」
思わぬ名前に、俺は虚を突かれて言葉を無くす。東深見?
「東深見……って、神奈川じゃねーか。そりゃそれなりに進学校だけど、お前なら都内のもっと上の高校だって余裕だろ? だいいちこっからじゃ遠いぞ」
「先生と同じこと言わないでよ。まあ、別にどこでもいいのよ。家を出られればね」
「は? お前、家を出るって――マジかよ」
「マジよ。大マジ。あ、別に兄者が嫌になったわけじゃないから安心して」
「お前な……父さんや母さんには話し……てねえよな、まだ」
「うん、これから。まあ、反対されるだろーけどねー」
「そりゃそうだ。大学ならともかく、高校から独り暮らしはうちの親が許さねーだろ。ただでさえお前、放っておいたら何しでかすか解らねーんだから」
「ひどいなあ兄者。優等生の鑑に向かって何たる言いぐさ」
「それとも、親となんかあったのか」
「ううん、兄貴が受験勉強にかまけてる間に家庭崩壊が起きてたわけでもないから」
「じゃあ、なんで家を出るんだよ」
「それが兄者、常識に縛られてるってことよ。私ももう年が明ければ十五歳。世が世ならお嫁に行ってる歳よ。独り立ちしなきゃ、兄者みたいに親のすね囓ってオタク趣味に明け暮れるような駄目人間になっちゃう」
「うるせー」
「ま、それは冗談としても。やりたいことがあるのよ」
「やりたいこと? 家にいたら出来ないことなのか」
「まあ、そういうものだと思ってもらえれば。兄者には迷惑かけないから、心配しないで」
「お前な――」
俺はため息をつく。こいつはいつもこうだ。自分で勝手に決めて、自分のしたいようにしか動かない。その手綱を握るのは、そもそも不可能なのだけれども。
「親を説得するもっともらしい理屈はいくらでも考えるから、兄者にはできれば援護射撃してほしいんだけど。お願いしていい?」
「……ひとり暮らしして、何をしたいのか言え。それによっては協力してやる」
「言わなきゃだめ?」
「妹の犯罪行為の共犯にはなりたくねーからな」
「法には触れないってば。ただ――」
「ただ?」
そこで不意に、菫子は言葉を切って、パンダの遊具を揺らした。
「……兄者、覚えてる? 私が四歳のとき」
「何だ急に。いつの話だよ」
「覚えてないよね、兄者も七歳だし。私と兄者と、兄者の友達とでこの公園で遊んでて、兄者が私のこと忘れて友達とどっか行っちゃったことがあったの」
「…………あったか、そんなこと」
「あったの。兄者、そのまま私のこと忘れて家に帰って、めちゃくちゃ怒られたって」
「あ、あー、そんなこともあった……ような」
七歳のときのことなんて、さすがに覚えてない。だが、確かにそういえば、親にめちゃくちゃ怒られて、泣きそうになりながらこの公園に向かって走ったような記憶が微かにある。
「あのとき、私これにまたがってて。気が付いたら兄者も兄者の友達もいなくなってて、この公園にひとりぼっちになってた。夕暮れの、逢魔が時。世界にひとりぼっちになったみたいで、私は呆然とパンダにまたがって、ゆらゆら揺れる世界を見ていた――」
「…………」
「そうしたら、不意に知らない人に声を掛けられたの。……なんて呼びかけられたのかはもう覚えてない。だけど、その人の姿だけは、すごく鮮明に覚えてる。――金色の髪をした、日傘を差したお姉さんだった」
「……それが、どうしたんだよ」
「話は最後まで聞く。その人が誰だったのかも、どんな話をしたんだったかも、もう思い出せないんだけど。あのとき、何かが変わったの。私の中で何かが――」
「…………」
菫子は、いったい何を言いたいのだろう。
解らないまま、俺は妹の話に耳を傾けるしかない。
「だから私は……いや、ううん、違う、そうじゃない……」
「何だよ。オチはないのか。ちゃんと喋ること決めてから喋れ」
「ごめん。なんでこんな話始めたんだろ。……ええと、独り暮らしする理由だよね?」
「だからその話だって言ってるだろ」
俺がため息をつくと、菫子は笑って、「実はね――」と指を立てた。
「親に隠れて、幻コレで同人活動をするのよ!」
「――――――は?」
【宇佐見菫子の独白――2014年9月】
親に隠れて同人活動をするため。
独り暮らしの理由として、兄者向けの説明としては、これ以上のものはあるまい。
別に、うちの親はガチガチにオタク趣味を締め付ける方ではない。そうだったら兄者が堂々と幻コレ厨でいられるわけがない。むしろそのへんは放任主義だ。
それでも、同人活動をするとまで言えば、あまりいい顔はしないだろう。本を作るには大金が動くし、うちの親も締め付けないだけでガチの二次元オタクではないから、コミケはエロい本ばかりみたいな偏見はきっとある。
だから、公然と同人活動をするには、独り暮らしが手っ取り早い。
去年から幻コレについて調べまくったことが功を奏した。兄者は目を白黒させていたが、「本気なら、まあ、そうだな、応援するぞ」と言ってくれた。
ごめん兄者、方便です。でも、そんな兄者だから愛してる。
だって、幻想郷に行く、と言ったって、兄者は真面目に受け取ってくれないだろう。
兄者にとって、幻想郷はあくまで幻コレというフィクションの舞台であり、そこに行けるとは初めから思っていない。兄者はどこまでも凡人で、常識の鎖に囚われている。
それでいい。そういう兄者がいてくれることが、わりとありがたい。
私が向こうに行っても、兄者がいてくれれば、帰ってこられる気がするから。
あと兄者、どうせなら私に対抗して自分でも本作るといいよ。
子供の頃、兄者の作るお話、これでも結構好きだったんだから。内緒だけど。
ま、それはさておき。私は、幻想郷を目指そうと思う。
ただ行くだけか、それとも結界の破壊を目指すか。
いずれにせよ、私はこの世界の裏側に封じられた秘密を暴きに行く。
そこに閉じ込められた希望を、解き放つために。
この世界に、夢と幻想を取り戻すために。
家に帰ると、スマホが鳴った。雷子さんからだった。そういえば久しぶりだ。
「もしもし、お久しぶりです」
『やあ、ご無沙汰。元気してた?』
「はい。雷子さんもお忙しそうで」
『おかげさまでね。菫子ちゃんは受験生でしょ? 時間大丈夫?』
「余裕ですから」
『お、言ったなー。このー』
そんなとりとめのない言葉をしばし交わしたあと、不意に彼女が切り出した。
『実はね、菫子ちゃん。――例のドラムの件なんだけど』
「あ、はい。何かありました?」
『それがね――』
と、困ったように息を吐いて、雷子さんは続けた。
『実は、テレキネシス使わなくても、見えるようになっちゃって』
「……あの世界が、ですか?」
『うん。練習中は問題ないんだけど、ライブ中とかステージで叩いてると、見えちゃうのよ。ただ、見えるのはどうも同じようなステージで、あの誰かもやっぱり観客の前でドラム叩いてるみたいで……だから、あんまり演奏そのものには影響ないっていうか、むしろあれが見えてるときは会心の演奏ができるというか――何なんだろうね?』
――易者さんは、わたしの超能力を、この世界における魔力だと言った。
私は、超能力者ではなく、魔法使いだったのだろうか? そしてあるいは、雷子さんも。
しかし、雷子さんのドラムが幻想郷に干渉しているとして、テレキネシスを使わなくても干渉が為されるというのは――。
雷子さんがドラムを叩くという行為自体が、魔力を帯び始めているということなのか。
『菫子ちゃん?』
「あ、いえ――ひょっとしたら、なんですけど」
『なにか思いつくこと、あるの?』
「ええ。――つまり、雷子さんの演奏が、テレキネシスを使わなくても、テレキネシスを使ってるときのレベルに達したってことなんじゃないですか」
『ええー? じゃあ、あれが見えるのはテレキネシスのせいじゃなく、演奏技術の問題? 演奏が上手くいってトランス状態になった結果見えてるとかそういう話?』
「かも、しれません」
『でも、それだと菫子ちゃんに見えた説明がつかなくない?』
「それは――」
何と説明したものか、と考え、私はふっと笑う。
ああ――そうか、単純な話だ。
音楽を奏でるということは――それ自体が、一種の魔法なのだ。
ただの空気の振動が、人の心を動かす。それが魔法でなくて何だろう。
「それはたぶん、私があのときもう、雷子さんのドラムの魔法に掛かってたからです」
『――なにそれ、気障なこと言っちゃって。何もでないよ』
電話越しに、私たちは笑い合った。
――幻想郷に行ったら、向こうのドラム奏者にも、出逢えるだろうか?
通話を終え、スマホを机に置いて、私はベッドに身を投げ出した。
――さっき、兄者と公園で話したとき。なんで私は、急にあんな話をしたんだろう。
四歳の時の記憶。夕暮れの公園にひとり取り残された、あのとき――。
静まりかえった世界に、不意にあの人は現れた。
金色の髪が、夕焼けに照らされて、きらきらと輝いていたのを覚えている。
何歳ぐらいの人だったのだろう。記憶ではすごく大人の女性だったような気がするが、当時の感覚だから、雷子さんぐらいだったのかもしれない。そもそももう、顔立ちすら記憶の奥底に沈んで、曖昧模糊として思い出せない。
いや――あの人はそもそも、日傘に顔を隠していたんだったか……。
そう、日傘だ。確かあれは春のことだった。まして夕暮れだ、日傘を差すような時間ではない。どうしてこのひとは傘を差しているんだろうと、疑問に思ったような記憶がある。
それから――それから、そう、彼女は紫色のワンピースのような服を着ていた……。その紫色が、夕暮れの空に溶けていきそうだったような……まるで蜃気楼のように、彼女の印象はどこまでも曖昧模糊として、つかみどころが無い。
いったい彼女は、なんと私に話しかけたのだろう。
すごく大事なことを聞いた気がするのに、どうして思い出せないのだろう。
――それは、私のこの力に関することだったような、そんな気がするのだけれど。
そう、だから私は、雷子さんがあの人のことを知らないかと思ったのだ。
この超能力がもし、生まれつきの突然変異ではなく、後天的に授けられたなら。
それはあのときの、日傘の彼女との出会いがきっかけだったのではないかと――。
金色の髪をした彼女が、私にこの超能力を授けたのではないかと。
どうしてか、私はそんな想像をしてしまうのだ。
――ひょっとしたら、彼女もまた、幻想郷の住人だったのではないか?
私が幻想郷を目指すのも、あるいはあのとき、彼女からそう仕向けられたのでは――。
なんのために?
なぜ、私に幻想郷を見せる?
なぜ、私に幻想郷の住人と交信させる? 易者さんと――。
わからない。私にはなにひとつ。
だからやはり、確かめるしか無いのだ。幻想郷へと向かうことで。
問題は、どうやって幻想郷とこの世界を隔てる結界に干渉するか、だ。
調べるべきことは多い。考えるべきことは、もっと多い。時間はいくらあっても足りない。
「よし」
私は起き上がり、机に向かう。受験勉強よりも大事なことだ。調査、研究、理論構築、そして実践。まずは、結界が物理的に存在する証拠を集めなければならない。
コックリさんで結界に干渉できたとすれば、他のオカルトアイテムでも結界に干渉できないだろうか? タロットカード。水晶。魔道書。タリスマン。アミュレット――。
何か良さそうなものはないか、と私は机の引き出しを漁るが、これといったものが見当たらない。こっちには何かなかったか――と押し入れを開け、目に付いた段ボール箱を開けた。
――その一番上に、それは、私を待っていたように置かれていた。
それは、虫の封じられた琥珀だった――。
【秘封倶楽部活動日誌――2015年5月】
今日この日を、世界が変わる第一歩となった日として、記録しておかねばなるまい。
いよいよだ。いよいよ私の計画はスタートする。この世界に幻想を取り戻すプロジェクトが。
夕刻、十八時半。私は堀川雷子さんとともに、彼女の高級マンションの屋上にいた。
「お忙しいところ、すみません」
「いいけど――こんな天気の日に、なんでまたこんなところに? 天体観測する天気じゃないし、だいいちなんでドラムなんか。それと、そのマント何?」
「かっこいいでしょ?」
「まあ、似合ってはいるけど」
マントを翻し、私は雷子さんに笑いかけ、それから上空を見やった。
雨は降っていないが、空は黒雲に覆われ、夕日も届かず既に暗い。遠くで雷鳴が響いている。都内に雷注意報が出ていた。――こういう天気の日を、待っていたのだ。
テレキネシスとエレベーターで運んで来た、雷子さんのドラムセットを見やる。超能力はこういうとき便利である。
「こんな天気だから、絶好の機会なんです。ほら、雷が鳴ってる」
「雷って――え? ちょっと待って菫子ちゃん」
雷子さんは、ドラムセットと私を見比べて、目を見開く。
「……何を企んでるの?」
「たぶん、雷子さんが想像しているようなことです」
「――あの光景と同じような状況をこっちで再現して……」
「そう、道を付けるんですよ。あちらとこちらの間に」
唖然とした顔で口を開く雷子さん。
「そういえば菫子ちゃん、あれはどこか異世界の光景じゃないかって言ってたけど……」
「雷子さん、その異世界に、行ってみたいと思いません?」
「いやいや待って待って、ちょっとそれは洒落にならなくない?」
「大丈夫です。今回はまだ生身で行くつもりはないですから。向こうに送り込みたいものがあるので、それを送りこむだけです。雷子さんに危険はないですよ。……たぶん」
「たぶんって。ちょっとお、そういうことは先に言ってよ」
「先に言ったら協力してくれました?」
「…………」
「すみません、巻き込んでしまって。でも、雷子さんしか頼れる人がいないんです」
「……まあ、あの光景の場所に行ってみたい気持ちはわかるけど。それだけだよね? 単に、あの光景を実地で見てみたいってだけよね?」
「もちろんです」
ごめんなさい雷子さん、嘘をつきました。許して。
ごろごろごろ、と大きな雷鳴が轟いた。一瞬身を竦めた雷子さんは、大きくため息を吐き出して、「要するに、私にドラムを叩けってわけね」と言った。
「はい。是非、向こうの世界まで轟くような、雷にも負けないビートを。それとも、雷子さんのドラムは、異世界の魂には響かない程度のものですか?」
「……そう言われちゃドラマーとして、尻尾巻くわけにはいかないなあ。ずるいよ」
「雷子さんのドラマーとしての腕を高く評価しているんです」
「物は言い様だねえ。――私のドラムが異世界へ通じる扉になるかも、か。いいじゃない、やってみようじゃない」
「いいんですか?」
「ここまで誘っておいて何よ。――実際、私もね。なんで自分にこんな超能力が芽生えたのか、ずっと疑問だったわけよ」
掌の上にスティックを浮かばせて、雷子さんは呟く。
「異世界への扉を開くため、ってのは、なかなかロマンのある理由じゃない?」
「さすが雷子さん、話の解る御方。じゃあ、私も手の内を明かしましょう」
私はそう言って、マントの仲からじゃらりと袋を取りだした。
「なにそれ?」
「色んな伝手を辿って、日本各地から集めたパワーストーンです」
「パワーストーン?」
「そのへんの店で売ってるのとは格が違いますよ。恐山の霊石、熊野速玉大社のゴトビキ岩の破片などなど、霊験あらたかなものばかりです」
「そんなものを、どうする気?」
「向こうの世界に送りこむんですよ。――ちょっとした噂と一緒に」
私がニヤリと笑ったところで、閃光が走った。数秒後に轟音。雷鳴が近付いている。
「いい感じですね。始めましょう、雷子さん。シンバルは私が」
「――もう、どうなっても知らないからね。なんまいだぶ、なんまいだぶ」
念仏を唱えながら、雷子さんはドラムセットの前に腰を下ろし、リズムを刻み始める。
ドラムの音と、響く雷鳴が、不可思議なアンサンブルを奏で始めた。私もテレキネシスで、そのビートに合わせてシンバルを叩く。
そして、その始原のビートと、自然のビートのセッションが。
不意に、完全なシンクロを果たした、そのとき。
――世界の境界は、揺らいだ。
さあ、ゆけ、オカルトボールよ!
幻想郷を、こちらの世界の魔力で満たせ!
そして、結界を破壊し、この世界に幻想を取り戻すのだ!
果てしなき深秘の世界は、すぐそこにある!
【秘封倶楽部活動日誌――2085年7月】
祖父が亡くなった。八十九歳だったから、大往生と言うには少し足りないが、充分に長生きした方だと思う。ここ数年さすがに足腰が効かなくなり、ほとんど寝たきりのようになっていたから、死因は肺炎とはいえ、ごく自然に天寿を全うしたと言うべきだろう。
「八十九かあ。二十世紀生まれって想像もつかないわ」
葬儀の後の、精進落としの宴会。京都から駆けつけた私は、何かと声をかけてくる親戚をどうにかこうにかやり過ごし、両親や祖母のテーブルでようやく一息ついた。
「爺さんは東京が首都だった頃の生まれだからな」
「うわ、そう聞くとますます時代を感じる。歴史って身近に生きてるのね」
父の言葉に、私は頬杖をついて息を吐く。祖父が青春時代を過ごした今世紀初頭というのは、歴史の授業では日本経済がどん底まで落ち込み、閉塞感に満ちていた暗黒時代と教わるけれど、こんなことなら当時がどんな時代だったか、もう少し祖父に聞いておけば良かった。
「確かに、暗い時代でしたけどねえ」
と、頬に手を当てておっとりと口を開いたのは、祖父の五歳下、八十四になる祖母である。腰は曲がっているが、今でもかくしゃくとしたものだ。
「薫さんは、いつでも楽しそうに生きてましたよ。私が出会った頃からずっと」
「あ、そういえば、おばあちゃんとおじいちゃんの馴れ初めって聞いたことない」
私が身を乗り出すと、祖母は少し恥ずかしそうに笑った。
「あらやだ。恥ずかしい話ですけどね……おじいさんは、小説を書いていたんですよ」
「え? おじいちゃんって作家だったの?」
初めて聞いた。私が首を傾げていると、「いえいえ」と祖母は笑う。
「アマチュアですよ。昔、幻想コレクションってゲームがありましてね。薫さんはそれの二次創作を書いていたんです。コミケは蓮子ちゃんもご存じでしょう?」
「サブカルチャーの世界祭典の?」
「今はそうなんですよねえ。私が若い頃は、アマチュア創作の一大イベントでした。みんな、自分で作った本やCDやゲームを持ち寄って売る。今のコミケでもそういうスペースはありますでしょう? 昔はそれがメインだったんですよ。薫さんもそこで、自分で書いた小説を本にして売っていたんです」
「ははぁー……知られざるおじいちゃんの歴史。父さん知ってた?」
「聞いたことはある。俺が物心ついた頃にはもうやめてたはずだが」
「おばあちゃんも本を作ってたの?」
「あらやだ恥ずかしい。私は絵を描いていたんですよ。本を作るのにはあまり興味がなくて、ネット上で発表するだけだったんですが……。薫さんの書く本が好きでねえ……イベントのたびに差し入れを持っていったりして、感想を伝えたりしたものです。そうしたら薫さんから、新刊の絵を描いてくれませんかって頼まれてしまいまして。いつの間にか、そうして一緒に本を作って、薫さんのスペースで一緒に売ったりしているうちに……ふふふ」
うっとりした顔で思い出を語るおばあちゃんは、控えめに言って非常に可愛かった。
しかし、私の知るおじいちゃんからは想像もつかない過去には驚くしかない。
「ほへー。いわゆるオタクってやつだったんだ……意外。あ、でもオタクって要するにマニアだから、サブカルチャーの学者みたいなものか。それなら父さんが生まれたのも納得かなあ」
「そうですねえ。薫さんは何かと凝り性でしたから」
ちなみに、うちの父は理論物理学の権威である。
「おじいちゃんってどんな小説書いてたの?」
「女の子同士の恋愛ものですよ。当時は百合って言いましたけれど」
「……はあ」
いや、おじいちゃん何書いてんの。あのおじいちゃんが女の子同士の嬉し恥ずかしキャッキャウフフをどんな顔して書いてたんだろう……。想像もつかない。
私が腕を組んで唸っていると、父が「そういえば」とビールを飲みながら口を開いた。
「あの部屋はどうするんだ」
「ああ……そうですねえ。そろそろ潮時かもしれませんねえ」
「あの部屋?」
「蓮子ちゃんも覚えているでしょう。我が家の二階の開かずの間」
「ああ――」
言われて思い出す。祖父母の古い家の二階には、いつも鍵の掛かって入れない開かずの間があった。あの部屋が何なのか、子供の頃に祖父母に尋ねたけれど、はぐらかされていたっけ。
「あの部屋は、薫さんの妹さんの部屋だったんですよ」
「――妹? おじいちゃん、妹がいたの?」
「ええ。もう亡くなられてますけど。――菫子さんという妹さんが」
【――『こちら秘封探偵事務所 紅魔郷編』へ続く】
受験勉強の何が辛いって、これだけやれば大丈夫、という基準がどこにもないことだ。
本番のセンター試験と二次試験が終わるまで、ひたすら賽の河原で石を積み上げるような勉強が続く。どれだけ勉強しても絶対の安心はない。終わりは試験当日の到来を待つほかない。いや、合格通知をもらうまで、か。
高校三年の秋の休日。夕方、いよいよ追い込みの受験勉強に疲れた俺は、家の近所を散歩していた。たまには気分転換でもしないとやってられない。夏コミの新刊も、ラノベの新刊も我慢しているのだ。幻コレの新作が今年は出なかったのはもっけの幸いである。
ああ、灰色の受験生生活。これをもう一年続けるのだけは絶対に嫌だ。せめて第二志望には引っかかって、大学生活を始めたいものである。合格さえしてしまえば、何の気兼ねもなく同人誌もラノベも読める。それが俺の希望だ。
そんなことを思いながら、ぶらぶらとコンビニへ向かう道を歩いていた俺は、不意にその公園に行き当たった。子供の頃よく遊んだ児童公園だ。今見ると、本当に小さい。小学生の頃はここが無限の遊び場に見えたものだけれど――。
その公園に、見慣れた顔があり、俺は目を見開いた。
「菫子?」
俺が公園に足を踏み入れて呼びかけると、公園の遊具――揺れるパンダの乗り物に腰を下ろしていた妹は、ふっと顔を上げて、どこか眩しそうに俺の方へ目を細めた。
「なんだ、兄者か」
「なんだとはご挨拶だな、受験生に向かって。つうかお前も受験生だろ。こんなとこで何やってんだ」
「兄者と違って、私は今更あくせく勉強するまでもありませんから」
「この野郎。――まあ、お前ならどこの高校でも一発だろうが。つうか、そういえばどこ行くとか聞いてなかったな」
パンダの隣にある馬の乗り物に腰を下ろして、俺は菫子に向き直る。
「お前、どこ行くんだ? お茶の水か、慶応か、筑波か?」
「ん、――東深見かな」
思わぬ名前に、俺は虚を突かれて言葉を無くす。東深見?
「東深見……って、神奈川じゃねーか。そりゃそれなりに進学校だけど、お前なら都内のもっと上の高校だって余裕だろ? だいいちこっからじゃ遠いぞ」
「先生と同じこと言わないでよ。まあ、別にどこでもいいのよ。家を出られればね」
「は? お前、家を出るって――マジかよ」
「マジよ。大マジ。あ、別に兄者が嫌になったわけじゃないから安心して」
「お前な……父さんや母さんには話し……てねえよな、まだ」
「うん、これから。まあ、反対されるだろーけどねー」
「そりゃそうだ。大学ならともかく、高校から独り暮らしはうちの親が許さねーだろ。ただでさえお前、放っておいたら何しでかすか解らねーんだから」
「ひどいなあ兄者。優等生の鑑に向かって何たる言いぐさ」
「それとも、親となんかあったのか」
「ううん、兄貴が受験勉強にかまけてる間に家庭崩壊が起きてたわけでもないから」
「じゃあ、なんで家を出るんだよ」
「それが兄者、常識に縛られてるってことよ。私ももう年が明ければ十五歳。世が世ならお嫁に行ってる歳よ。独り立ちしなきゃ、兄者みたいに親のすね囓ってオタク趣味に明け暮れるような駄目人間になっちゃう」
「うるせー」
「ま、それは冗談としても。やりたいことがあるのよ」
「やりたいこと? 家にいたら出来ないことなのか」
「まあ、そういうものだと思ってもらえれば。兄者には迷惑かけないから、心配しないで」
「お前な――」
俺はため息をつく。こいつはいつもこうだ。自分で勝手に決めて、自分のしたいようにしか動かない。その手綱を握るのは、そもそも不可能なのだけれども。
「親を説得するもっともらしい理屈はいくらでも考えるから、兄者にはできれば援護射撃してほしいんだけど。お願いしていい?」
「……ひとり暮らしして、何をしたいのか言え。それによっては協力してやる」
「言わなきゃだめ?」
「妹の犯罪行為の共犯にはなりたくねーからな」
「法には触れないってば。ただ――」
「ただ?」
そこで不意に、菫子は言葉を切って、パンダの遊具を揺らした。
「……兄者、覚えてる? 私が四歳のとき」
「何だ急に。いつの話だよ」
「覚えてないよね、兄者も七歳だし。私と兄者と、兄者の友達とでこの公園で遊んでて、兄者が私のこと忘れて友達とどっか行っちゃったことがあったの」
「…………あったか、そんなこと」
「あったの。兄者、そのまま私のこと忘れて家に帰って、めちゃくちゃ怒られたって」
「あ、あー、そんなこともあった……ような」
七歳のときのことなんて、さすがに覚えてない。だが、確かにそういえば、親にめちゃくちゃ怒られて、泣きそうになりながらこの公園に向かって走ったような記憶が微かにある。
「あのとき、私これにまたがってて。気が付いたら兄者も兄者の友達もいなくなってて、この公園にひとりぼっちになってた。夕暮れの、逢魔が時。世界にひとりぼっちになったみたいで、私は呆然とパンダにまたがって、ゆらゆら揺れる世界を見ていた――」
「…………」
「そうしたら、不意に知らない人に声を掛けられたの。……なんて呼びかけられたのかはもう覚えてない。だけど、その人の姿だけは、すごく鮮明に覚えてる。――金色の髪をした、日傘を差したお姉さんだった」
「……それが、どうしたんだよ」
「話は最後まで聞く。その人が誰だったのかも、どんな話をしたんだったかも、もう思い出せないんだけど。あのとき、何かが変わったの。私の中で何かが――」
「…………」
菫子は、いったい何を言いたいのだろう。
解らないまま、俺は妹の話に耳を傾けるしかない。
「だから私は……いや、ううん、違う、そうじゃない……」
「何だよ。オチはないのか。ちゃんと喋ること決めてから喋れ」
「ごめん。なんでこんな話始めたんだろ。……ええと、独り暮らしする理由だよね?」
「だからその話だって言ってるだろ」
俺がため息をつくと、菫子は笑って、「実はね――」と指を立てた。
「親に隠れて、幻コレで同人活動をするのよ!」
「――――――は?」
【宇佐見菫子の独白――2014年9月】
親に隠れて同人活動をするため。
独り暮らしの理由として、兄者向けの説明としては、これ以上のものはあるまい。
別に、うちの親はガチガチにオタク趣味を締め付ける方ではない。そうだったら兄者が堂々と幻コレ厨でいられるわけがない。むしろそのへんは放任主義だ。
それでも、同人活動をするとまで言えば、あまりいい顔はしないだろう。本を作るには大金が動くし、うちの親も締め付けないだけでガチの二次元オタクではないから、コミケはエロい本ばかりみたいな偏見はきっとある。
だから、公然と同人活動をするには、独り暮らしが手っ取り早い。
去年から幻コレについて調べまくったことが功を奏した。兄者は目を白黒させていたが、「本気なら、まあ、そうだな、応援するぞ」と言ってくれた。
ごめん兄者、方便です。でも、そんな兄者だから愛してる。
だって、幻想郷に行く、と言ったって、兄者は真面目に受け取ってくれないだろう。
兄者にとって、幻想郷はあくまで幻コレというフィクションの舞台であり、そこに行けるとは初めから思っていない。兄者はどこまでも凡人で、常識の鎖に囚われている。
それでいい。そういう兄者がいてくれることが、わりとありがたい。
私が向こうに行っても、兄者がいてくれれば、帰ってこられる気がするから。
あと兄者、どうせなら私に対抗して自分でも本作るといいよ。
子供の頃、兄者の作るお話、これでも結構好きだったんだから。内緒だけど。
ま、それはさておき。私は、幻想郷を目指そうと思う。
ただ行くだけか、それとも結界の破壊を目指すか。
いずれにせよ、私はこの世界の裏側に封じられた秘密を暴きに行く。
そこに閉じ込められた希望を、解き放つために。
この世界に、夢と幻想を取り戻すために。
家に帰ると、スマホが鳴った。雷子さんからだった。そういえば久しぶりだ。
「もしもし、お久しぶりです」
『やあ、ご無沙汰。元気してた?』
「はい。雷子さんもお忙しそうで」
『おかげさまでね。菫子ちゃんは受験生でしょ? 時間大丈夫?』
「余裕ですから」
『お、言ったなー。このー』
そんなとりとめのない言葉をしばし交わしたあと、不意に彼女が切り出した。
『実はね、菫子ちゃん。――例のドラムの件なんだけど』
「あ、はい。何かありました?」
『それがね――』
と、困ったように息を吐いて、雷子さんは続けた。
『実は、テレキネシス使わなくても、見えるようになっちゃって』
「……あの世界が、ですか?」
『うん。練習中は問題ないんだけど、ライブ中とかステージで叩いてると、見えちゃうのよ。ただ、見えるのはどうも同じようなステージで、あの誰かもやっぱり観客の前でドラム叩いてるみたいで……だから、あんまり演奏そのものには影響ないっていうか、むしろあれが見えてるときは会心の演奏ができるというか――何なんだろうね?』
――易者さんは、わたしの超能力を、この世界における魔力だと言った。
私は、超能力者ではなく、魔法使いだったのだろうか? そしてあるいは、雷子さんも。
しかし、雷子さんのドラムが幻想郷に干渉しているとして、テレキネシスを使わなくても干渉が為されるというのは――。
雷子さんがドラムを叩くという行為自体が、魔力を帯び始めているということなのか。
『菫子ちゃん?』
「あ、いえ――ひょっとしたら、なんですけど」
『なにか思いつくこと、あるの?』
「ええ。――つまり、雷子さんの演奏が、テレキネシスを使わなくても、テレキネシスを使ってるときのレベルに達したってことなんじゃないですか」
『ええー? じゃあ、あれが見えるのはテレキネシスのせいじゃなく、演奏技術の問題? 演奏が上手くいってトランス状態になった結果見えてるとかそういう話?』
「かも、しれません」
『でも、それだと菫子ちゃんに見えた説明がつかなくない?』
「それは――」
何と説明したものか、と考え、私はふっと笑う。
ああ――そうか、単純な話だ。
音楽を奏でるということは――それ自体が、一種の魔法なのだ。
ただの空気の振動が、人の心を動かす。それが魔法でなくて何だろう。
「それはたぶん、私があのときもう、雷子さんのドラムの魔法に掛かってたからです」
『――なにそれ、気障なこと言っちゃって。何もでないよ』
電話越しに、私たちは笑い合った。
――幻想郷に行ったら、向こうのドラム奏者にも、出逢えるだろうか?
通話を終え、スマホを机に置いて、私はベッドに身を投げ出した。
――さっき、兄者と公園で話したとき。なんで私は、急にあんな話をしたんだろう。
四歳の時の記憶。夕暮れの公園にひとり取り残された、あのとき――。
静まりかえった世界に、不意にあの人は現れた。
金色の髪が、夕焼けに照らされて、きらきらと輝いていたのを覚えている。
何歳ぐらいの人だったのだろう。記憶ではすごく大人の女性だったような気がするが、当時の感覚だから、雷子さんぐらいだったのかもしれない。そもそももう、顔立ちすら記憶の奥底に沈んで、曖昧模糊として思い出せない。
いや――あの人はそもそも、日傘に顔を隠していたんだったか……。
そう、日傘だ。確かあれは春のことだった。まして夕暮れだ、日傘を差すような時間ではない。どうしてこのひとは傘を差しているんだろうと、疑問に思ったような記憶がある。
それから――それから、そう、彼女は紫色のワンピースのような服を着ていた……。その紫色が、夕暮れの空に溶けていきそうだったような……まるで蜃気楼のように、彼女の印象はどこまでも曖昧模糊として、つかみどころが無い。
いったい彼女は、なんと私に話しかけたのだろう。
すごく大事なことを聞いた気がするのに、どうして思い出せないのだろう。
――それは、私のこの力に関することだったような、そんな気がするのだけれど。
そう、だから私は、雷子さんがあの人のことを知らないかと思ったのだ。
この超能力がもし、生まれつきの突然変異ではなく、後天的に授けられたなら。
それはあのときの、日傘の彼女との出会いがきっかけだったのではないかと――。
金色の髪をした彼女が、私にこの超能力を授けたのではないかと。
どうしてか、私はそんな想像をしてしまうのだ。
――ひょっとしたら、彼女もまた、幻想郷の住人だったのではないか?
私が幻想郷を目指すのも、あるいはあのとき、彼女からそう仕向けられたのでは――。
なんのために?
なぜ、私に幻想郷を見せる?
なぜ、私に幻想郷の住人と交信させる? 易者さんと――。
わからない。私にはなにひとつ。
だからやはり、確かめるしか無いのだ。幻想郷へと向かうことで。
問題は、どうやって幻想郷とこの世界を隔てる結界に干渉するか、だ。
調べるべきことは多い。考えるべきことは、もっと多い。時間はいくらあっても足りない。
「よし」
私は起き上がり、机に向かう。受験勉強よりも大事なことだ。調査、研究、理論構築、そして実践。まずは、結界が物理的に存在する証拠を集めなければならない。
コックリさんで結界に干渉できたとすれば、他のオカルトアイテムでも結界に干渉できないだろうか? タロットカード。水晶。魔道書。タリスマン。アミュレット――。
何か良さそうなものはないか、と私は机の引き出しを漁るが、これといったものが見当たらない。こっちには何かなかったか――と押し入れを開け、目に付いた段ボール箱を開けた。
――その一番上に、それは、私を待っていたように置かれていた。
それは、虫の封じられた琥珀だった――。
【秘封倶楽部活動日誌――2015年5月】
今日この日を、世界が変わる第一歩となった日として、記録しておかねばなるまい。
いよいよだ。いよいよ私の計画はスタートする。この世界に幻想を取り戻すプロジェクトが。
夕刻、十八時半。私は堀川雷子さんとともに、彼女の高級マンションの屋上にいた。
「お忙しいところ、すみません」
「いいけど――こんな天気の日に、なんでまたこんなところに? 天体観測する天気じゃないし、だいいちなんでドラムなんか。それと、そのマント何?」
「かっこいいでしょ?」
「まあ、似合ってはいるけど」
マントを翻し、私は雷子さんに笑いかけ、それから上空を見やった。
雨は降っていないが、空は黒雲に覆われ、夕日も届かず既に暗い。遠くで雷鳴が響いている。都内に雷注意報が出ていた。――こういう天気の日を、待っていたのだ。
テレキネシスとエレベーターで運んで来た、雷子さんのドラムセットを見やる。超能力はこういうとき便利である。
「こんな天気だから、絶好の機会なんです。ほら、雷が鳴ってる」
「雷って――え? ちょっと待って菫子ちゃん」
雷子さんは、ドラムセットと私を見比べて、目を見開く。
「……何を企んでるの?」
「たぶん、雷子さんが想像しているようなことです」
「――あの光景と同じような状況をこっちで再現して……」
「そう、道を付けるんですよ。あちらとこちらの間に」
唖然とした顔で口を開く雷子さん。
「そういえば菫子ちゃん、あれはどこか異世界の光景じゃないかって言ってたけど……」
「雷子さん、その異世界に、行ってみたいと思いません?」
「いやいや待って待って、ちょっとそれは洒落にならなくない?」
「大丈夫です。今回はまだ生身で行くつもりはないですから。向こうに送り込みたいものがあるので、それを送りこむだけです。雷子さんに危険はないですよ。……たぶん」
「たぶんって。ちょっとお、そういうことは先に言ってよ」
「先に言ったら協力してくれました?」
「…………」
「すみません、巻き込んでしまって。でも、雷子さんしか頼れる人がいないんです」
「……まあ、あの光景の場所に行ってみたい気持ちはわかるけど。それだけだよね? 単に、あの光景を実地で見てみたいってだけよね?」
「もちろんです」
ごめんなさい雷子さん、嘘をつきました。許して。
ごろごろごろ、と大きな雷鳴が轟いた。一瞬身を竦めた雷子さんは、大きくため息を吐き出して、「要するに、私にドラムを叩けってわけね」と言った。
「はい。是非、向こうの世界まで轟くような、雷にも負けないビートを。それとも、雷子さんのドラムは、異世界の魂には響かない程度のものですか?」
「……そう言われちゃドラマーとして、尻尾巻くわけにはいかないなあ。ずるいよ」
「雷子さんのドラマーとしての腕を高く評価しているんです」
「物は言い様だねえ。――私のドラムが異世界へ通じる扉になるかも、か。いいじゃない、やってみようじゃない」
「いいんですか?」
「ここまで誘っておいて何よ。――実際、私もね。なんで自分にこんな超能力が芽生えたのか、ずっと疑問だったわけよ」
掌の上にスティックを浮かばせて、雷子さんは呟く。
「異世界への扉を開くため、ってのは、なかなかロマンのある理由じゃない?」
「さすが雷子さん、話の解る御方。じゃあ、私も手の内を明かしましょう」
私はそう言って、マントの仲からじゃらりと袋を取りだした。
「なにそれ?」
「色んな伝手を辿って、日本各地から集めたパワーストーンです」
「パワーストーン?」
「そのへんの店で売ってるのとは格が違いますよ。恐山の霊石、熊野速玉大社のゴトビキ岩の破片などなど、霊験あらたかなものばかりです」
「そんなものを、どうする気?」
「向こうの世界に送りこむんですよ。――ちょっとした噂と一緒に」
私がニヤリと笑ったところで、閃光が走った。数秒後に轟音。雷鳴が近付いている。
「いい感じですね。始めましょう、雷子さん。シンバルは私が」
「――もう、どうなっても知らないからね。なんまいだぶ、なんまいだぶ」
念仏を唱えながら、雷子さんはドラムセットの前に腰を下ろし、リズムを刻み始める。
ドラムの音と、響く雷鳴が、不可思議なアンサンブルを奏で始めた。私もテレキネシスで、そのビートに合わせてシンバルを叩く。
そして、その始原のビートと、自然のビートのセッションが。
不意に、完全なシンクロを果たした、そのとき。
――世界の境界は、揺らいだ。
さあ、ゆけ、オカルトボールよ!
幻想郷を、こちらの世界の魔力で満たせ!
そして、結界を破壊し、この世界に幻想を取り戻すのだ!
果てしなき深秘の世界は、すぐそこにある!
【秘封倶楽部活動日誌――2085年7月】
祖父が亡くなった。八十九歳だったから、大往生と言うには少し足りないが、充分に長生きした方だと思う。ここ数年さすがに足腰が効かなくなり、ほとんど寝たきりのようになっていたから、死因は肺炎とはいえ、ごく自然に天寿を全うしたと言うべきだろう。
「八十九かあ。二十世紀生まれって想像もつかないわ」
葬儀の後の、精進落としの宴会。京都から駆けつけた私は、何かと声をかけてくる親戚をどうにかこうにかやり過ごし、両親や祖母のテーブルでようやく一息ついた。
「爺さんは東京が首都だった頃の生まれだからな」
「うわ、そう聞くとますます時代を感じる。歴史って身近に生きてるのね」
父の言葉に、私は頬杖をついて息を吐く。祖父が青春時代を過ごした今世紀初頭というのは、歴史の授業では日本経済がどん底まで落ち込み、閉塞感に満ちていた暗黒時代と教わるけれど、こんなことなら当時がどんな時代だったか、もう少し祖父に聞いておけば良かった。
「確かに、暗い時代でしたけどねえ」
と、頬に手を当てておっとりと口を開いたのは、祖父の五歳下、八十四になる祖母である。腰は曲がっているが、今でもかくしゃくとしたものだ。
「薫さんは、いつでも楽しそうに生きてましたよ。私が出会った頃からずっと」
「あ、そういえば、おばあちゃんとおじいちゃんの馴れ初めって聞いたことない」
私が身を乗り出すと、祖母は少し恥ずかしそうに笑った。
「あらやだ。恥ずかしい話ですけどね……おじいさんは、小説を書いていたんですよ」
「え? おじいちゃんって作家だったの?」
初めて聞いた。私が首を傾げていると、「いえいえ」と祖母は笑う。
「アマチュアですよ。昔、幻想コレクションってゲームがありましてね。薫さんはそれの二次創作を書いていたんです。コミケは蓮子ちゃんもご存じでしょう?」
「サブカルチャーの世界祭典の?」
「今はそうなんですよねえ。私が若い頃は、アマチュア創作の一大イベントでした。みんな、自分で作った本やCDやゲームを持ち寄って売る。今のコミケでもそういうスペースはありますでしょう? 昔はそれがメインだったんですよ。薫さんもそこで、自分で書いた小説を本にして売っていたんです」
「ははぁー……知られざるおじいちゃんの歴史。父さん知ってた?」
「聞いたことはある。俺が物心ついた頃にはもうやめてたはずだが」
「おばあちゃんも本を作ってたの?」
「あらやだ恥ずかしい。私は絵を描いていたんですよ。本を作るのにはあまり興味がなくて、ネット上で発表するだけだったんですが……。薫さんの書く本が好きでねえ……イベントのたびに差し入れを持っていったりして、感想を伝えたりしたものです。そうしたら薫さんから、新刊の絵を描いてくれませんかって頼まれてしまいまして。いつの間にか、そうして一緒に本を作って、薫さんのスペースで一緒に売ったりしているうちに……ふふふ」
うっとりした顔で思い出を語るおばあちゃんは、控えめに言って非常に可愛かった。
しかし、私の知るおじいちゃんからは想像もつかない過去には驚くしかない。
「ほへー。いわゆるオタクってやつだったんだ……意外。あ、でもオタクって要するにマニアだから、サブカルチャーの学者みたいなものか。それなら父さんが生まれたのも納得かなあ」
「そうですねえ。薫さんは何かと凝り性でしたから」
ちなみに、うちの父は理論物理学の権威である。
「おじいちゃんってどんな小説書いてたの?」
「女の子同士の恋愛ものですよ。当時は百合って言いましたけれど」
「……はあ」
いや、おじいちゃん何書いてんの。あのおじいちゃんが女の子同士の嬉し恥ずかしキャッキャウフフをどんな顔して書いてたんだろう……。想像もつかない。
私が腕を組んで唸っていると、父が「そういえば」とビールを飲みながら口を開いた。
「あの部屋はどうするんだ」
「ああ……そうですねえ。そろそろ潮時かもしれませんねえ」
「あの部屋?」
「蓮子ちゃんも覚えているでしょう。我が家の二階の開かずの間」
「ああ――」
言われて思い出す。祖父母の古い家の二階には、いつも鍵の掛かって入れない開かずの間があった。あの部屋が何なのか、子供の頃に祖父母に尋ねたけれど、はぐらかされていたっけ。
「あの部屋は、薫さんの妹さんの部屋だったんですよ」
「――妹? おじいちゃん、妹がいたの?」
「ええ。もう亡くなられてますけど。――菫子さんという妹さんが」
【――『こちら秘封探偵事務所 紅魔郷編』へ続く】
外伝 宇佐見菫子の革命 一覧
感想をツイートする
ツイート
【あとがき】
毎度、ここまでお読みいただきありがとうございました。作者の浅木原です。
というわけで、2015年10月に頒布した『こちら秘封探偵事務所外伝 宇佐見菫子の革命』の全文公開でした。
「菫子はどうやって幻想郷のことを知ったのか」をメインにした深秘録前日譚として書きました。
菫子に幻想郷を教えたのが誰だったのか、で驚いていただけたなら狙い通りです。うふふ。
あと本文では言及のしようがなかったので一応補足しておくと、
堀川雷子さんは、雷鼓ちゃんが新たな依代として手に入れた外の世界のドラムの外の世界での奏者です。
本編の連載ですが、次は『非想天則編』をやります。マジか。マジだ。
1週空けて6/30(土)から連載開始するために絶賛準備中です。がんばります。
これからも『こちら秘封探偵事務所』をよろしくお願いします。
お疲れ様です。
深秘の前日単、実に面白かったです!というわけでまた最初に戻って読み返します。
これは、原作順で進んでいくと蓮子が菫子に深秘録の話で会うのかな?
というか、菫子が会ったのって、メリーだったような…
妖々夢編でメリーが菫子に会った時は
メリーは紫の日傘持たされて紫に半ば操られてたからね
紫にそっくりな外見で紫っぽい言動してれば紫に見えるのは自然な成り行き
問題はなぜ紫がメリーにやらせたのか
メリーと紫の外見は藍も見紛うレベルでそっくりな上に日傘なんて特徴まで敢えて持たせてる
菫子が紫を見れば「あの時の人じゃね?」と思う可能性は大
お疲れ様でした。
前日譚とても楽しめました。非想天則編がどうなるのか想像つかないです。楽しみにしてます。
薫くんはオタ充ライフを満喫して幸せだったのね……よかった。
薫くんが何らかの形で幻想郷があることを知りそう。