こちら秘封探偵事務所外伝 宇佐見菫子の革命 宇佐見菫子の革命 第3話
所属カテゴリー: こちら秘封探偵事務所外伝 宇佐見菫子の革命
公開日:2018年05月26日 / 最終更新日:2018年05月17日
【宇佐見薫、妹を語る――2013年7月】
―1―
菫子に大学生の友達ができたらしい。
マイシスターは小学校の頃から色んな意味で有名であったので、同じ小中学校の連中は当然のように、妹のことはよく知っている。現在の高校にも小学校時代からの同級生は何人かおり、そいつらのひとりが目撃情報を密告してきたのだ。
「あすこのゲーセンあんじゃん。ドラマニの名物女子大生プレイヤーがいるんだけどさ。めちゃくちゃうめーの」
「それが菫子と一緒にいたって?」
「そーそー、こないだもカラオケで見たんだよ」
「あいつが他人とカラオケ……? ヒトカラなら解るけどなあ」
兄としては意外の念を禁じ得ない。カラオケで誰かと歌って盛り上がる、なんて行為は、菫子には似つかわしくない。いや、盛り上がること自体はあいつは嫌いではないのだろうが、周囲に合わせて空気を読んで盛り上げる、ということにはあいつは絶対に価値を見出さない。
小学校低学年の頃から、通信簿に「協調性に欠けます」と書かれてきた菫子である。あいつが他人とカラオケに行くとすれば、よほどその女子大生に心を許したか、あるいは何か悪巧みをしているか。後者だろうな、と俺はため息を漏らす。
「やっぱ菫子ちゃんぐらいになると、大学生ぐらいが相手じゃなきゃつまらないんだろうな」
「なんだお前、妹のこと狙ってんのかこのロリコン」
「いやいやいや、俺が好きなのはロリババアだからロリコンじゃない。クランちゃんは五〇〇歳だから合法」
「逮捕されちまえ」
友人と馬鹿なことを言い合いつつ、帰ったら妹に聞いてみるか、と俺は息を吐いた。
パソ研の部室でだらだらと過ごし、陽が落ちてから帰宅すると、菫子はまだ帰っていなかった。母者に聞いてみると、「このところ毎週木曜は帰りが遅いのよねえ」と首を傾げる。
「学校で友達が出来て遊んでるならいいんだけど、話してくれないし」
「中学生にもなって親にいちいち友達のこと報告してたら、そっちのが問題じゃね?」
「それもそうだけど。ちゃんとした友達ならいいんだけどねえ」
母者はため息をつく。菫子に友達がいないことは、母の長年の悩みでもあるのだった。
「まあ、少なくとも変な男に引っかかるほどバカじゃないっしょ、菫子は」
「そうねえ……薫、あんたちょっと菫子から話聞いてみてくれない?」
言われなくてもそのつもりである。生返事をしていると、「ただいまー」と当の妹が帰ってきた。「おかえり。晩ご飯は?」「食べるー」そこは、いらない、じゃないのか普通は。
とまれ、帰りの遅い父者を置いて母者と妹者と三人で夕飯。母者は菫子に何か話しかけようとしていたが、妹者は心ここにあらずという調子で生返事を繰り返していた。
食後、一度自室に戻った俺は、本棚を確かめてから妹の部屋に向かう。あいつが持っていったままのラノベと漫画が何冊かある。それの取り立てが口実としては無難だろう。
「おーい、菫子」
部屋のドアをノックすると、「禁書なら明日返す」と返事。
「お前、他にも持っていってんだろ。まとめて返せ」
「えー」
「嫌なら、大学生と付き合ってるって、母さんに教えてやろうか」
声を潜めてそう言うと、ドアが開き、呆れ顔で菫子が顔を出した。
「なんだ、兄者、その話しに来たの? いいよ、入って」
促され、妹の部屋に足を踏み入れる。入ったのは久々だが、相変わらず世間一般的な女の子らしさのかけらもない部屋だ。ぬいぐるみやファンシーグッズはほとんどなく、本棚に並んでるのはいかにも胡散臭い都市伝説や黒魔術やファンタジー辞典とかその類い。ベッドサイドにパンダのぬいぐるみが鎮座しているのが、辛うじてファンシーな要素だろうか。
「で? どんなガセネタを仕入れてきたの?」
「いやなに、実妹が歳の差百合に走ったと聞いてな。実に喜ばしい」
「百合じゃないし。喜ぶな百合厨」
「まあ百合じゃなくても、お前に他人とカラオケに行くなんて協調性が芽生えたってのは人間的に大きな進歩だろ。母者が聞いたら泣いて喜ぶぞ。相手が同性の恋人だって言われたら別の意味で泣くかもしれんが。母者も百合厨になればいいんだがな」
「だから百合じゃないってば。ちょっと意気投合しただけ」
「ちょっと意気投合、ねえ。それこそ宇佐見菫子にあるまじき発言だな」
「人を何だと思ってるの、兄者」
「一年生になったら〜、一年生になったら〜、友達ひとりはできるかな〜」
「兄者ぐらいのレベルの人間なら、百人ぐらいの同類はすぐ見つかるんでしょうねえ。有象無象の凡人という名の」
呆れ顔で言う菫子。相変わらずの傲岸不遜ぶりに草も生えない。
「じゃあ、天才、宇佐見菫子様に同類認定を頂いたそのドラマニの達人は何者なんだよ?」
「――――」
菫子が、少し変な顔をして俺の顔を見上げた。
「堀川雷子さん。明治の二年だって言ってた」
「明治? お前が意気投合する相手なら、てっきり東大だと思ってたが」
「別に知性の面で意気投合したわけじゃないから」
「じゃあなんだ。やっぱり百合か。お前にも人を愛する心が芽生えたか。それはめでたい、人間になれる日も近いぞ、菫子二十八号」
「人をロボットか何かみたいに言うな兄者。あと実の妹で百合妄想も禁止」
「孤独な天才少女を包み込むのは純朴な天使の笑顔と包容力だよなあ」
「だから妄想しないでってば。兄者が弟でもうちょっとショタっぽい見た目なら、女装させて姉妹百合ごっこしたかもしれないけど」
「いや、TSや女装趣味はないぞ」
「うん、兄者にあんまり性癖拗らせられても困るしねえ。おっぱい星人ぐらいの健全さに留めておいてもらえると妹としても助かります」
「つうか話が逸れてる。その女子大生は何者なんだ?」
「ん? ドラマー」
「ドラマニの達人ってだけじゃなくて、本職か?」
「みたいね。バンドやってるって聞いた」
「ウェイ系リア充か。ますますお前とは縁のなさそうな相手だなあ。何を企んでんだ?」
「なに、別に悪巧みなんてしてないってば。ちょっと興味を持っただけ」
「興味? 何に」
「そりゃあ、乙女の秘密よ、兄者」
――この妹が他人に興味を示す。それだけで天変地異レベルの一大事ではないか。
ドラマニの達人の女子大生の何が、妹の興味をひいたのだろう。本当に意気投合したとすれば、オカルト趣味でか? それとも、あるいは――いや、まさかな。
「……お前に言うのも何だが、そのせいで変な奴に絡まれないように気をつけろよ」
「なに兄者、バンドの男どもに妹が食い物にされるとか心配してる?」
「兄だからな」
「優しいねえ。ま、心配ご無用。不埒な輩はとっちめるから」
「――――」
超能力で、か? その問いを呑み込んで、代わりに俺はため息を吐き出す。
菫子は間違いなく、俺が気付いていることを把握している。そうでなければああも無防備に俺の部屋からテレポートしたりはすまい。ならば俺は、気付いた時点で「お前、超能力者だろ」と妹に言ってやるべきだったのだろう。しかしタイミングを失った今となっては、気付かないふりをすることが身体に染みついてしまっている。
「気をつけろよ、色んな意味でな」
結局、俺が菫子に言えることは、ただそれだけなのだった。
――あるいは、俺は怖がっているのかもしれない。
妹が完全に、非日常の存在であることを、認めてしまうのを。
菫子を、自分のいる日常の住人として、繋ぎ止めておきたいのだろうか。
自分でも、よくわからない。
―2―
菫子の友人(?)だという女子大生と初めて顔を合わせたのは、夏休みに入ってすぐだった。
別に、妹から紹介されたのではない。街を友人とぶらついていたら、ばったり妹と女子大生のコンビに出くわしたのである。
「げっ、兄者!」
「よお、妹者」
「なーんでこんなところで出くわすかなー」
「お兄さん?」
隣にいた女性が菫子にそう訊ねる。彼女が噂の女子大生らしい。ネクタイの似合う中性的な赤毛の女性だった。
「幻コレ厨でニコ厨でラノベオタという度しがたい文字通りの愚兄です」
「お前な。どうも、妹がお世話になってます。兄の薫です」
「堀川雷子です。高校生?」
「二年です」
「菫子ちゃんといい、若くていいなあ」
「今のうちからそんなこと言ってたら早く老けますよ、雷子さん。プラシーボ効果同様、個人の認識は物理的影響力を持つんですから」
「おお、くわばらくわばら。――薫くんだっけか。大変ね、こんな妹さん持つと」
「全くで」
「ひどーい」
そんなことを言い合い、それから堀川雷子女史は「そうだ、今度ライブやるから聴きに来てよ」とチラシを押しつけて、妹とともに去って行った。ロックバンドらしい。ライブハウスなんてウェイ系リア充の巣窟みたいな場所、俺には一生縁が無いと思ってたのだが。
「なーにデレデレしてんだよ、宇佐見」
「してねーよ」
「お前には菫子ちゃんがいるだろ」
「シスコンでもねーよ!」
「本当かぁ?」
「当たり前だろが!」
嫌らしい笑みを浮かべる友人に、俺はため息をつく。変な設定を流布されてはたまらない。
「で、宇佐見、それ行くのか?」
「ん、ああ、行ってみるかなあ……お前も来るか?」
「パス。興味ないバンドのライブ聴くぐらいならアニラジ聴くわ。どうせライブハウスなんてリア充のすくつだろ? 生きて帰れねーよ」
「圧倒的に正しいな」
俺も本来なら、こんなチラシは丸めて捨てるのが正しいだろう。しかし、妹が関わっているとなればまた話は別である。いや、妹はバンドに関わってはいないのだろうが――。
あの菫子が関心を覚えたという、堀川雷子という女性が何者なのか。
俺にとって目下最大の問題はそれであるが故に、俺はチラシを畳んでポケットに入れた。
そう、行くつもりはあったのである。
しかし、非リアのオタクにひとりライブハウスというのはいささかハードルが高すぎた。世のリア充どもはヒトカラやひとり映画を高難度ぼっち案件みたいに言うが、こっちの方がよほど高難度ではないだろうか。いや、単にリア充連中は「ひとりで何かをする」ということ自体に耐えられないのだろうけれども。便所飯なんてのも「ひとりでいる」ことを過剰に恥ずべきとする、群れなければという強迫観念の産物だろう。そう考えると哀れな連中かもしれない。
「慣れないことはするもんじゃねーな……」
一応、入ろうとはしたのである。だがその場の雰囲気に呑まれ、そそくさと退散してきてしまった。あんなリア充パワーの充満した空間にいたら窒息して死んでしまう。例大祭の行列の方がよっぽど居心地がいいわ、あれなら。
かくして堀川雷子女史の正体を見極めようという俺の計画はあえなく頓挫。調査とはコミュニケーションであるからして、非リアに探偵の真似事は所詮不可能だ。奇人変人名探偵は現実なら通報されるかTwitterで晒されRT稼ぎに使われるのが関の山だろう。
ライブハウス外のベンチに座って、俺はため息。堀川雷子のバンドのライブ終了予定時間まではまだかなりある。オッサンなら煙草でも吸って時間を潰すのだろうが、俺は未成年だし、だいたい煙草の煙は苦手だ。ポケットに忍ばせてきたラノベはあっさり読み終わってしまって、仕方ないからスマホで時間を潰すことにする。
そうして無為な時間をやり過ごすことしばし。ライブハウスから客がぞろぞろと外に出てきた。時間を見ると、どうやらライブが終わったらしい。妹の姿を客の中に探すと――。
「あれ? 兄者、来てたの?」
先に菫子の方が俺を見つけて、声を掛けてきた。
「ああ、まあな」
「嘘だぁ。どうせ中のリア充パワーにあてられて外で時間潰してたんでしょ」
「…………」
「図星?」
「うるせー馬鹿。お前こそリア充パワーの中でよく生きてられたな」
「いやー、無理無理。隅っこでオレンジジュース飲んでたわ」
「だろうな。つか、中学生の分際でこんなところ居たら補導されるぞ。さっさと帰ろうぜ」
「ん」
駐輪場まで歩き、自転車を取り出す。菫子も自転車で来ていたらしい。自宅までの夜道を、自転車二台、併走して急ぐ。青春なら二人乗りだが、妹相手に青春も何もあったものではない。
「てゆか兄者、実際なんで来たの?」
「あ? いや、別に」
「なに? 妹のこと心配してくれた? バンドのヤンキーにハイエースされないかって」
「ばーか。わざわざお前のことハイエースする趣味の悪いヤンキーがいるかよ」
「あっ、ひど! 大学生のお姉さんに鼻の下伸ばしてオタクのくせにリア充ごっこしようとして爆死したって言いふらしてやる」
「デマを広めるな。つーかお前に言いふらす友達なんざいねーだろ!」
「ばれたか」
舌を出す菫子に、俺はため息。――実際、心配していたと言えばそうなのかもしれない。いや、仮に菫子が本当に超能力者なら、ハイエースされても逃げ出せるだろうけれども。それでも妹に悪い虫がつきそうと言われると黙っていられない俺はやはりシスコンなのだろうか。ああっお兄ちゃーん、という趣味はないつもりなのだが。
「……つうか、お前は例の女子大生、放ってきてよかったのか」
「ん? まあ私も雷子さん個人に興味があるんであって、バンドには興味ないし」
「そうか。やっぱり百合か。女子大生が女子中学生を誑かす事案か。キマシの塔が建つな」
「だーから百合じゃないってば!」
「じゃあ、例の女子大生の何が、お前の興味を惹いたんだよ?」
俺の問いに、自転車を漕ぎながら、菫子はちょっと変な顔をした。
けれど次の瞬間、その顔にはいつものふてぶてしい、猫のような笑みが浮かんでいる。
「――彼女は、私の同族だからね」
「同族?」
「ま、兄者が幻コレ仲間を見つけたようなもんよ」
そう言って、菫子は強くペダルを濃いで、俺の前に出てしまう。
――同族。それはつまり、あの女子大生も――菫子と同じ?
「……一匹見たら三〇匹だっけか? ゴキブリじゃねーんだから」
とはいうものの、確かにウチの妹が世界にただひとりの突然変異だと考えるよりは、同類が実は何人も隠れていると考えた方が自然かもしれない。じゃあなんでそれらが一切表に出てこず、超能力は眉唾なオカルトとして扱われているかといえば、結局は俺たちが常識としてそういうものだと刷り込まれているからではないか。
テレビの超能力特集はみんなヤラセだと思って見ているし、ニコ動やYouTubeに動画が上がっていても合成やトリックでないことを証明する術はない。仮にその中に本物が紛れていたとしても、悪貨は良貨を駆逐するように(使い方はこれで合ってるのか?)、無数の偽者の中にごく一部の本物は紛れ込んで、俺たちには区別がつけられないということかもしれない。
「超能力者、ねえ……」
ぼそりと妹に聞こえないように呟いて、俺はため息をつく。やっぱり、凡人でしかない俺にはそんな問題は手に余る。異世界に行って特殊な力が覚醒でもしないことには、超能力者としての妹の考え方など理解できないのかもしれない。
――これで菫子が、国家を裏で操る超能力集団にスカウトされたりしたらどうしようか。事実は小説より奇なりというより、現実はフィクションより安っぽいということになり、笑い話にもならない。まあ、オタクサイドの人間としてはフィクションの方が現実より格上であってほしくはあるのだけれども。
何にしても兄にできるのは、やはり妹の様子を観察し続けることだけのようである。
【宇佐見菫子の回想――2007年3月】
私が初めて、自分以外の超能力者と出会ったのは、小学一年生の春休みだった。
そのとき私たちは、家族で信州旅行に出かけたのである。どうして行き先が信州だったのか
は覚えていない。七歳になったばかりの頃の記憶なんてそもそも曖昧なものだが、御柱祭の年でもないし、御神渡りを見る季節でもない。まして軽井沢で避暑でもない。いったい何を目当てに春先の長野に行ったのだったか、両親に聞いてみないことにはよくわからない。
まあ、しかしともかく。そんなよくわからない時期に信州旅行を計画した両親には、私は感謝しなければならないだろう。
あのとき――諏訪湖のほとりで彼女に出会わなければ、私は今よりもさらにひねくれ、世を拗ね、この超能力を悪事に濫用して国家的秘密組織に命を狙われていたかもしれないからだ。
彼女――あの頃はとても大人の女性に見えたが、今思えば高校生ぐらいだったのだろうか。
そういえば私は、彼女の名前も知らない。私が知っているのは、彼女が見せてくれたその超能力と、その変わった髪飾りだけだ。
だけど、たったそれだけでも、彼女は私にとって忘れがたい存在である。
四歳の春、あの公園で出会ったあのひとと同じぐらいに――。
あのとき、私は兄者と一緒に、ひどく退屈していた。
両親は諏訪大社をほうほうと拝んでいたが、小学生には神社仏閣の味わい深さなどまだわかるべくもない。兄者と境内を走り回るのにも飽きて、DSでマリオカートか何かをやっていた記憶がある。
そのあと、私たちの退屈に気付いた両親が諏訪湖のほとりに連れて行ってくれて、四人でアヒルボートに乗った。両親が漕ぎ、私は兄者と湖面を見下ろして、魚でもいないかなと探していたのだが――。
水の中に魚影が見えた。そのとき私は、テレキネシスで魚を捕まえようと思ったのだ。その頃にはもう、自分が触れずにものを動かせることを理解していた。ただそれを生き物相手に使ったことはなくて、魚を跳ねさせて、ボートに飛び込ませて、両親を驚かせてやろう――みたいなことを企んでいたのだと思う。
テレキネシスは念力であるから、動かす対象をイメージして意識を集中させる必要がある。水の中の魚影にテレキネシスを向けようと、私はボートから身を乗り出した。「菫子、あぶないって」と兄者が背後で言ったそのとき、ボートが少し揺れた。それは些細な揺れだったのだろうけれど、小学二年生の私の身体のバランスを崩すには充分だった。
一瞬で私は、水に落ちる、と理解し、覚悟した。
迫り来る危険に、感覚がスローモーションになった気がした。近付いてくる水面が、まるで止まって見えるように――。
――いや、それは本当に止まっていたのだ。
一瞬だったが、私の身体は、どう考えてもそのまま落ちるしかない角度のままで止まっていた。何か、目に見えない力が私の身体を支えているみたいに。
だけどそれは一瞬で、次の瞬間には「あぶない!」と兄者の手が私を抱えていた。
両親が慌てて振り向き、私と兄者を抱えてボートの中に引っ張り込む。身を乗り出したらダメ、と両親に思い切り叱られたはずだが、私は全く聞いていなかった。自分の身体を支えた、不思議な力のことだけが気になっていた。
あたたかな――何かに包まれているような、柔らかな力。
誰かが、自分が落ちそうなのを見て助けてくれたのだと、私はそう思った。
また落ちそうにならないかと心配した両親が、時間が残っていたけれど方向転換して乗り場に戻り、代わりにソフトクリームを買ってくれた。それを兄者と舐めながら湖のほとりを歩いていると――不意に、その人の背中が、私の目に飛び込んできた。
それは文字通り、飛び込んできたと言っていい。突然そこに出現したかのように、全く唐突に彼女は私の世界に現れたのだ。
彼女の周りだけが、何か柔らかな光に包まれていた。慈しみのような穏やかな光。それが彼女の超能力が発するオーラだったのか、それとも私の錯覚だったのかはわからない。ただ、私は彼女の背中を見た瞬間に確信した。――このひとだ、と。
さっき、湖に落ちそうになった自分を助けてくれたのは、このひとだ、と。
だから私は、慌てて彼女の背中に向かって走り出した。両親や兄者の止める声など聞こえなかった。けれど、その背中が近付いてきたところで、私は何かにつまづいてバランスを崩した。
転ぶ――。そう思った瞬間、また、何かが私の身体を支える感触がした。
「大丈夫?」
次の瞬間、私の身体はしゃがんだ彼女に受け止められていた。
私の目に、彼女の髪に絡みつくような蛇の髪飾りが、やけに鮮烈に飛び込んだ。
そう、今にして思えば、明らかにおかしい。
私は七歳だった。身長は一二〇センチぐらいだっただろう。そんな小さな子供が、背後で転びそうになったとして、即座に振り向き、しゃがんで、その身体を受け止める――なんて芸当は、どう考えても人間業ではない。私が近付いてきて転ぶことを予期していなければ、絶対に間に合わない。
ではなぜ、彼女は私をしゃがんで受け止めることができたのか。
――たぶん私は、彼女に無意識にテレキネシスを飛ばしていたのだ。彼女に気付かれたくて。
だから彼女は、同じ超能力者が近付いてくることに気付いていた。子供の足音にも敏感になっていた。振り向く前から私に意識を向けていたのだろう。そうして、私が転びそうになった瞬間、その超能力で私の身体を受け止め、振り向き、しゃがんで私を受け止めた。
家族の目には、どう映ったのだろう。おそらくたまたま振り向いた彼女が私を咄嗟に受け止めた、程度に認識していたのではないか。彼女が私の身体を止めたのはおそらく一瞬に近い時間だったはずだ。だけどそれでも、私ははっきりと感じた。
このひとだ。間違いない。さっきと同じ感触だ――と。
「大丈夫?」
私を受け止めた彼女は、優しく微笑んでそう言った。
ぽかんと見つめた私の頭を撫でて、彼女は私を立たせ、立ち上がった。
「菫子! ああ、すみません」
「いえいえ、転ばなくて何よりでした」
謝った両親に、彼女は笑って首を振り、それから私の元にしゃがみこんだ。
「菫子ちゃんっていうの?」
「……」
「ほら菫子、ありがとうは?」
「……あ、ありが、と」
「どういたしまして。転ばないように気をつけてね」
よしよし、ともう一度私の頭を撫でて――それから彼女は、続けて、私だけに聞こえる声で、こう囁いた。
「……ボートから身を乗り出すのも、人に向かって見えない力を使うのも、あぶないから、もうやっちゃだめよ」
「――――」
ぽかんと見上げた私に微笑んで、それから両親に頭を下げ、彼女は踵を返して立ち去った。
私はただ、その彼女の背中をぼーっと見つめていたのだが。
「なんだ菫子、転びそうになってもソフトクリームは守ったのかよ、食いしん坊」
兄者がそう言って、私は自分の手にしたソフトクリームが、地面に落ちもせず、そのままコーンに乗って手の中にあることに気付いた。
おかしい。さっき転びかけたとき、手を放した気がするのに――。
そう思うとなんだか食べる気がしなくなって、私はソフトクリームを兄者に差し出す。
「なんだよ、急に」
「あげる」
「いらねーの? どうしたんだよ食いしん坊。ま、じゃあもらうけど」
食いしん坊言うな。むっとした私は、兄者の顔をソフトクリームまみれにしてやろうと、兄者の手にあるソフトクリームへ向けてテレキネシスを飛ばして――。
だけどそれは、振り払われたように弾かれた。私は思わずたたらを踏む。
何が起こったのかわからなかった。テレキネシスが弾かれたのなんて、初めてだった。
兄者は何も気付かず、ソフトクリームをほおばる。
私は視線を彷徨わせて――そして、彼女が振り向いて、首を横に振っているのを見た。
あぶないから、だめって言ったでしょ。彼女はそう言っているのだと、私は理解した。
だとすれば、今私のテレキネシスが弾かれたのも――彼女が?
そう思ったときにはもう、彼女はまた背を向け、歩き出していた。
たったそれだけの出会いである。
私は彼女の名前も知らない。どこの誰だったのかもわからない。
だけど彼女が、二度も私を助けてくれた――おそらくはその超能力で――のは、私にとっては紛れもない事実だった。
だから私は、そのときに刷り込まれたのだと思う。
この力は、自分が正しいと思ったことのために使おう、と。
無闇やたらと使うのではない。使うべきときのために使うのだ、と。
この力はそういうものなのだと――私はたぶん、彼女に教わったのだ。
諏訪湖のほとりにいた、翡翠のように緑がかった長い髪の少女。
蛇の形の髪飾りをしていたことと、背中ばかりが強く印象に残っていて、もう顔もはっきりとは思い出せないのだけれど。
もしもう一度彼女に会えたら、聞いてみたいと思う。
貴女はいったい、何者だったのですか――と。
―1―
菫子に大学生の友達ができたらしい。
マイシスターは小学校の頃から色んな意味で有名であったので、同じ小中学校の連中は当然のように、妹のことはよく知っている。現在の高校にも小学校時代からの同級生は何人かおり、そいつらのひとりが目撃情報を密告してきたのだ。
「あすこのゲーセンあんじゃん。ドラマニの名物女子大生プレイヤーがいるんだけどさ。めちゃくちゃうめーの」
「それが菫子と一緒にいたって?」
「そーそー、こないだもカラオケで見たんだよ」
「あいつが他人とカラオケ……? ヒトカラなら解るけどなあ」
兄としては意外の念を禁じ得ない。カラオケで誰かと歌って盛り上がる、なんて行為は、菫子には似つかわしくない。いや、盛り上がること自体はあいつは嫌いではないのだろうが、周囲に合わせて空気を読んで盛り上げる、ということにはあいつは絶対に価値を見出さない。
小学校低学年の頃から、通信簿に「協調性に欠けます」と書かれてきた菫子である。あいつが他人とカラオケに行くとすれば、よほどその女子大生に心を許したか、あるいは何か悪巧みをしているか。後者だろうな、と俺はため息を漏らす。
「やっぱ菫子ちゃんぐらいになると、大学生ぐらいが相手じゃなきゃつまらないんだろうな」
「なんだお前、妹のこと狙ってんのかこのロリコン」
「いやいやいや、俺が好きなのはロリババアだからロリコンじゃない。クランちゃんは五〇〇歳だから合法」
「逮捕されちまえ」
友人と馬鹿なことを言い合いつつ、帰ったら妹に聞いてみるか、と俺は息を吐いた。
パソ研の部室でだらだらと過ごし、陽が落ちてから帰宅すると、菫子はまだ帰っていなかった。母者に聞いてみると、「このところ毎週木曜は帰りが遅いのよねえ」と首を傾げる。
「学校で友達が出来て遊んでるならいいんだけど、話してくれないし」
「中学生にもなって親にいちいち友達のこと報告してたら、そっちのが問題じゃね?」
「それもそうだけど。ちゃんとした友達ならいいんだけどねえ」
母者はため息をつく。菫子に友達がいないことは、母の長年の悩みでもあるのだった。
「まあ、少なくとも変な男に引っかかるほどバカじゃないっしょ、菫子は」
「そうねえ……薫、あんたちょっと菫子から話聞いてみてくれない?」
言われなくてもそのつもりである。生返事をしていると、「ただいまー」と当の妹が帰ってきた。「おかえり。晩ご飯は?」「食べるー」そこは、いらない、じゃないのか普通は。
とまれ、帰りの遅い父者を置いて母者と妹者と三人で夕飯。母者は菫子に何か話しかけようとしていたが、妹者は心ここにあらずという調子で生返事を繰り返していた。
食後、一度自室に戻った俺は、本棚を確かめてから妹の部屋に向かう。あいつが持っていったままのラノベと漫画が何冊かある。それの取り立てが口実としては無難だろう。
「おーい、菫子」
部屋のドアをノックすると、「禁書なら明日返す」と返事。
「お前、他にも持っていってんだろ。まとめて返せ」
「えー」
「嫌なら、大学生と付き合ってるって、母さんに教えてやろうか」
声を潜めてそう言うと、ドアが開き、呆れ顔で菫子が顔を出した。
「なんだ、兄者、その話しに来たの? いいよ、入って」
促され、妹の部屋に足を踏み入れる。入ったのは久々だが、相変わらず世間一般的な女の子らしさのかけらもない部屋だ。ぬいぐるみやファンシーグッズはほとんどなく、本棚に並んでるのはいかにも胡散臭い都市伝説や黒魔術やファンタジー辞典とかその類い。ベッドサイドにパンダのぬいぐるみが鎮座しているのが、辛うじてファンシーな要素だろうか。
「で? どんなガセネタを仕入れてきたの?」
「いやなに、実妹が歳の差百合に走ったと聞いてな。実に喜ばしい」
「百合じゃないし。喜ぶな百合厨」
「まあ百合じゃなくても、お前に他人とカラオケに行くなんて協調性が芽生えたってのは人間的に大きな進歩だろ。母者が聞いたら泣いて喜ぶぞ。相手が同性の恋人だって言われたら別の意味で泣くかもしれんが。母者も百合厨になればいいんだがな」
「だから百合じゃないってば。ちょっと意気投合しただけ」
「ちょっと意気投合、ねえ。それこそ宇佐見菫子にあるまじき発言だな」
「人を何だと思ってるの、兄者」
「一年生になったら〜、一年生になったら〜、友達ひとりはできるかな〜」
「兄者ぐらいのレベルの人間なら、百人ぐらいの同類はすぐ見つかるんでしょうねえ。有象無象の凡人という名の」
呆れ顔で言う菫子。相変わらずの傲岸不遜ぶりに草も生えない。
「じゃあ、天才、宇佐見菫子様に同類認定を頂いたそのドラマニの達人は何者なんだよ?」
「――――」
菫子が、少し変な顔をして俺の顔を見上げた。
「堀川雷子さん。明治の二年だって言ってた」
「明治? お前が意気投合する相手なら、てっきり東大だと思ってたが」
「別に知性の面で意気投合したわけじゃないから」
「じゃあなんだ。やっぱり百合か。お前にも人を愛する心が芽生えたか。それはめでたい、人間になれる日も近いぞ、菫子二十八号」
「人をロボットか何かみたいに言うな兄者。あと実の妹で百合妄想も禁止」
「孤独な天才少女を包み込むのは純朴な天使の笑顔と包容力だよなあ」
「だから妄想しないでってば。兄者が弟でもうちょっとショタっぽい見た目なら、女装させて姉妹百合ごっこしたかもしれないけど」
「いや、TSや女装趣味はないぞ」
「うん、兄者にあんまり性癖拗らせられても困るしねえ。おっぱい星人ぐらいの健全さに留めておいてもらえると妹としても助かります」
「つうか話が逸れてる。その女子大生は何者なんだ?」
「ん? ドラマー」
「ドラマニの達人ってだけじゃなくて、本職か?」
「みたいね。バンドやってるって聞いた」
「ウェイ系リア充か。ますますお前とは縁のなさそうな相手だなあ。何を企んでんだ?」
「なに、別に悪巧みなんてしてないってば。ちょっと興味を持っただけ」
「興味? 何に」
「そりゃあ、乙女の秘密よ、兄者」
――この妹が他人に興味を示す。それだけで天変地異レベルの一大事ではないか。
ドラマニの達人の女子大生の何が、妹の興味をひいたのだろう。本当に意気投合したとすれば、オカルト趣味でか? それとも、あるいは――いや、まさかな。
「……お前に言うのも何だが、そのせいで変な奴に絡まれないように気をつけろよ」
「なに兄者、バンドの男どもに妹が食い物にされるとか心配してる?」
「兄だからな」
「優しいねえ。ま、心配ご無用。不埒な輩はとっちめるから」
「――――」
超能力で、か? その問いを呑み込んで、代わりに俺はため息を吐き出す。
菫子は間違いなく、俺が気付いていることを把握している。そうでなければああも無防備に俺の部屋からテレポートしたりはすまい。ならば俺は、気付いた時点で「お前、超能力者だろ」と妹に言ってやるべきだったのだろう。しかしタイミングを失った今となっては、気付かないふりをすることが身体に染みついてしまっている。
「気をつけろよ、色んな意味でな」
結局、俺が菫子に言えることは、ただそれだけなのだった。
――あるいは、俺は怖がっているのかもしれない。
妹が完全に、非日常の存在であることを、認めてしまうのを。
菫子を、自分のいる日常の住人として、繋ぎ止めておきたいのだろうか。
自分でも、よくわからない。
―2―
菫子の友人(?)だという女子大生と初めて顔を合わせたのは、夏休みに入ってすぐだった。
別に、妹から紹介されたのではない。街を友人とぶらついていたら、ばったり妹と女子大生のコンビに出くわしたのである。
「げっ、兄者!」
「よお、妹者」
「なーんでこんなところで出くわすかなー」
「お兄さん?」
隣にいた女性が菫子にそう訊ねる。彼女が噂の女子大生らしい。ネクタイの似合う中性的な赤毛の女性だった。
「幻コレ厨でニコ厨でラノベオタという度しがたい文字通りの愚兄です」
「お前な。どうも、妹がお世話になってます。兄の薫です」
「堀川雷子です。高校生?」
「二年です」
「菫子ちゃんといい、若くていいなあ」
「今のうちからそんなこと言ってたら早く老けますよ、雷子さん。プラシーボ効果同様、個人の認識は物理的影響力を持つんですから」
「おお、くわばらくわばら。――薫くんだっけか。大変ね、こんな妹さん持つと」
「全くで」
「ひどーい」
そんなことを言い合い、それから堀川雷子女史は「そうだ、今度ライブやるから聴きに来てよ」とチラシを押しつけて、妹とともに去って行った。ロックバンドらしい。ライブハウスなんてウェイ系リア充の巣窟みたいな場所、俺には一生縁が無いと思ってたのだが。
「なーにデレデレしてんだよ、宇佐見」
「してねーよ」
「お前には菫子ちゃんがいるだろ」
「シスコンでもねーよ!」
「本当かぁ?」
「当たり前だろが!」
嫌らしい笑みを浮かべる友人に、俺はため息をつく。変な設定を流布されてはたまらない。
「で、宇佐見、それ行くのか?」
「ん、ああ、行ってみるかなあ……お前も来るか?」
「パス。興味ないバンドのライブ聴くぐらいならアニラジ聴くわ。どうせライブハウスなんてリア充のすくつだろ? 生きて帰れねーよ」
「圧倒的に正しいな」
俺も本来なら、こんなチラシは丸めて捨てるのが正しいだろう。しかし、妹が関わっているとなればまた話は別である。いや、妹はバンドに関わってはいないのだろうが――。
あの菫子が関心を覚えたという、堀川雷子という女性が何者なのか。
俺にとって目下最大の問題はそれであるが故に、俺はチラシを畳んでポケットに入れた。
そう、行くつもりはあったのである。
しかし、非リアのオタクにひとりライブハウスというのはいささかハードルが高すぎた。世のリア充どもはヒトカラやひとり映画を高難度ぼっち案件みたいに言うが、こっちの方がよほど高難度ではないだろうか。いや、単にリア充連中は「ひとりで何かをする」ということ自体に耐えられないのだろうけれども。便所飯なんてのも「ひとりでいる」ことを過剰に恥ずべきとする、群れなければという強迫観念の産物だろう。そう考えると哀れな連中かもしれない。
「慣れないことはするもんじゃねーな……」
一応、入ろうとはしたのである。だがその場の雰囲気に呑まれ、そそくさと退散してきてしまった。あんなリア充パワーの充満した空間にいたら窒息して死んでしまう。例大祭の行列の方がよっぽど居心地がいいわ、あれなら。
かくして堀川雷子女史の正体を見極めようという俺の計画はあえなく頓挫。調査とはコミュニケーションであるからして、非リアに探偵の真似事は所詮不可能だ。奇人変人名探偵は現実なら通報されるかTwitterで晒されRT稼ぎに使われるのが関の山だろう。
ライブハウス外のベンチに座って、俺はため息。堀川雷子のバンドのライブ終了予定時間まではまだかなりある。オッサンなら煙草でも吸って時間を潰すのだろうが、俺は未成年だし、だいたい煙草の煙は苦手だ。ポケットに忍ばせてきたラノベはあっさり読み終わってしまって、仕方ないからスマホで時間を潰すことにする。
そうして無為な時間をやり過ごすことしばし。ライブハウスから客がぞろぞろと外に出てきた。時間を見ると、どうやらライブが終わったらしい。妹の姿を客の中に探すと――。
「あれ? 兄者、来てたの?」
先に菫子の方が俺を見つけて、声を掛けてきた。
「ああ、まあな」
「嘘だぁ。どうせ中のリア充パワーにあてられて外で時間潰してたんでしょ」
「…………」
「図星?」
「うるせー馬鹿。お前こそリア充パワーの中でよく生きてられたな」
「いやー、無理無理。隅っこでオレンジジュース飲んでたわ」
「だろうな。つか、中学生の分際でこんなところ居たら補導されるぞ。さっさと帰ろうぜ」
「ん」
駐輪場まで歩き、自転車を取り出す。菫子も自転車で来ていたらしい。自宅までの夜道を、自転車二台、併走して急ぐ。青春なら二人乗りだが、妹相手に青春も何もあったものではない。
「てゆか兄者、実際なんで来たの?」
「あ? いや、別に」
「なに? 妹のこと心配してくれた? バンドのヤンキーにハイエースされないかって」
「ばーか。わざわざお前のことハイエースする趣味の悪いヤンキーがいるかよ」
「あっ、ひど! 大学生のお姉さんに鼻の下伸ばしてオタクのくせにリア充ごっこしようとして爆死したって言いふらしてやる」
「デマを広めるな。つーかお前に言いふらす友達なんざいねーだろ!」
「ばれたか」
舌を出す菫子に、俺はため息。――実際、心配していたと言えばそうなのかもしれない。いや、仮に菫子が本当に超能力者なら、ハイエースされても逃げ出せるだろうけれども。それでも妹に悪い虫がつきそうと言われると黙っていられない俺はやはりシスコンなのだろうか。ああっお兄ちゃーん、という趣味はないつもりなのだが。
「……つうか、お前は例の女子大生、放ってきてよかったのか」
「ん? まあ私も雷子さん個人に興味があるんであって、バンドには興味ないし」
「そうか。やっぱり百合か。女子大生が女子中学生を誑かす事案か。キマシの塔が建つな」
「だーから百合じゃないってば!」
「じゃあ、例の女子大生の何が、お前の興味を惹いたんだよ?」
俺の問いに、自転車を漕ぎながら、菫子はちょっと変な顔をした。
けれど次の瞬間、その顔にはいつものふてぶてしい、猫のような笑みが浮かんでいる。
「――彼女は、私の同族だからね」
「同族?」
「ま、兄者が幻コレ仲間を見つけたようなもんよ」
そう言って、菫子は強くペダルを濃いで、俺の前に出てしまう。
――同族。それはつまり、あの女子大生も――菫子と同じ?
「……一匹見たら三〇匹だっけか? ゴキブリじゃねーんだから」
とはいうものの、確かにウチの妹が世界にただひとりの突然変異だと考えるよりは、同類が実は何人も隠れていると考えた方が自然かもしれない。じゃあなんでそれらが一切表に出てこず、超能力は眉唾なオカルトとして扱われているかといえば、結局は俺たちが常識としてそういうものだと刷り込まれているからではないか。
テレビの超能力特集はみんなヤラセだと思って見ているし、ニコ動やYouTubeに動画が上がっていても合成やトリックでないことを証明する術はない。仮にその中に本物が紛れていたとしても、悪貨は良貨を駆逐するように(使い方はこれで合ってるのか?)、無数の偽者の中にごく一部の本物は紛れ込んで、俺たちには区別がつけられないということかもしれない。
「超能力者、ねえ……」
ぼそりと妹に聞こえないように呟いて、俺はため息をつく。やっぱり、凡人でしかない俺にはそんな問題は手に余る。異世界に行って特殊な力が覚醒でもしないことには、超能力者としての妹の考え方など理解できないのかもしれない。
――これで菫子が、国家を裏で操る超能力集団にスカウトされたりしたらどうしようか。事実は小説より奇なりというより、現実はフィクションより安っぽいということになり、笑い話にもならない。まあ、オタクサイドの人間としてはフィクションの方が現実より格上であってほしくはあるのだけれども。
何にしても兄にできるのは、やはり妹の様子を観察し続けることだけのようである。
【宇佐見菫子の回想――2007年3月】
私が初めて、自分以外の超能力者と出会ったのは、小学一年生の春休みだった。
そのとき私たちは、家族で信州旅行に出かけたのである。どうして行き先が信州だったのか
は覚えていない。七歳になったばかりの頃の記憶なんてそもそも曖昧なものだが、御柱祭の年でもないし、御神渡りを見る季節でもない。まして軽井沢で避暑でもない。いったい何を目当てに春先の長野に行ったのだったか、両親に聞いてみないことにはよくわからない。
まあ、しかしともかく。そんなよくわからない時期に信州旅行を計画した両親には、私は感謝しなければならないだろう。
あのとき――諏訪湖のほとりで彼女に出会わなければ、私は今よりもさらにひねくれ、世を拗ね、この超能力を悪事に濫用して国家的秘密組織に命を狙われていたかもしれないからだ。
彼女――あの頃はとても大人の女性に見えたが、今思えば高校生ぐらいだったのだろうか。
そういえば私は、彼女の名前も知らない。私が知っているのは、彼女が見せてくれたその超能力と、その変わった髪飾りだけだ。
だけど、たったそれだけでも、彼女は私にとって忘れがたい存在である。
四歳の春、あの公園で出会ったあのひとと同じぐらいに――。
あのとき、私は兄者と一緒に、ひどく退屈していた。
両親は諏訪大社をほうほうと拝んでいたが、小学生には神社仏閣の味わい深さなどまだわかるべくもない。兄者と境内を走り回るのにも飽きて、DSでマリオカートか何かをやっていた記憶がある。
そのあと、私たちの退屈に気付いた両親が諏訪湖のほとりに連れて行ってくれて、四人でアヒルボートに乗った。両親が漕ぎ、私は兄者と湖面を見下ろして、魚でもいないかなと探していたのだが――。
水の中に魚影が見えた。そのとき私は、テレキネシスで魚を捕まえようと思ったのだ。その頃にはもう、自分が触れずにものを動かせることを理解していた。ただそれを生き物相手に使ったことはなくて、魚を跳ねさせて、ボートに飛び込ませて、両親を驚かせてやろう――みたいなことを企んでいたのだと思う。
テレキネシスは念力であるから、動かす対象をイメージして意識を集中させる必要がある。水の中の魚影にテレキネシスを向けようと、私はボートから身を乗り出した。「菫子、あぶないって」と兄者が背後で言ったそのとき、ボートが少し揺れた。それは些細な揺れだったのだろうけれど、小学二年生の私の身体のバランスを崩すには充分だった。
一瞬で私は、水に落ちる、と理解し、覚悟した。
迫り来る危険に、感覚がスローモーションになった気がした。近付いてくる水面が、まるで止まって見えるように――。
――いや、それは本当に止まっていたのだ。
一瞬だったが、私の身体は、どう考えてもそのまま落ちるしかない角度のままで止まっていた。何か、目に見えない力が私の身体を支えているみたいに。
だけどそれは一瞬で、次の瞬間には「あぶない!」と兄者の手が私を抱えていた。
両親が慌てて振り向き、私と兄者を抱えてボートの中に引っ張り込む。身を乗り出したらダメ、と両親に思い切り叱られたはずだが、私は全く聞いていなかった。自分の身体を支えた、不思議な力のことだけが気になっていた。
あたたかな――何かに包まれているような、柔らかな力。
誰かが、自分が落ちそうなのを見て助けてくれたのだと、私はそう思った。
また落ちそうにならないかと心配した両親が、時間が残っていたけれど方向転換して乗り場に戻り、代わりにソフトクリームを買ってくれた。それを兄者と舐めながら湖のほとりを歩いていると――不意に、その人の背中が、私の目に飛び込んできた。
それは文字通り、飛び込んできたと言っていい。突然そこに出現したかのように、全く唐突に彼女は私の世界に現れたのだ。
彼女の周りだけが、何か柔らかな光に包まれていた。慈しみのような穏やかな光。それが彼女の超能力が発するオーラだったのか、それとも私の錯覚だったのかはわからない。ただ、私は彼女の背中を見た瞬間に確信した。――このひとだ、と。
さっき、湖に落ちそうになった自分を助けてくれたのは、このひとだ、と。
だから私は、慌てて彼女の背中に向かって走り出した。両親や兄者の止める声など聞こえなかった。けれど、その背中が近付いてきたところで、私は何かにつまづいてバランスを崩した。
転ぶ――。そう思った瞬間、また、何かが私の身体を支える感触がした。
「大丈夫?」
次の瞬間、私の身体はしゃがんだ彼女に受け止められていた。
私の目に、彼女の髪に絡みつくような蛇の髪飾りが、やけに鮮烈に飛び込んだ。
そう、今にして思えば、明らかにおかしい。
私は七歳だった。身長は一二〇センチぐらいだっただろう。そんな小さな子供が、背後で転びそうになったとして、即座に振り向き、しゃがんで、その身体を受け止める――なんて芸当は、どう考えても人間業ではない。私が近付いてきて転ぶことを予期していなければ、絶対に間に合わない。
ではなぜ、彼女は私をしゃがんで受け止めることができたのか。
――たぶん私は、彼女に無意識にテレキネシスを飛ばしていたのだ。彼女に気付かれたくて。
だから彼女は、同じ超能力者が近付いてくることに気付いていた。子供の足音にも敏感になっていた。振り向く前から私に意識を向けていたのだろう。そうして、私が転びそうになった瞬間、その超能力で私の身体を受け止め、振り向き、しゃがんで私を受け止めた。
家族の目には、どう映ったのだろう。おそらくたまたま振り向いた彼女が私を咄嗟に受け止めた、程度に認識していたのではないか。彼女が私の身体を止めたのはおそらく一瞬に近い時間だったはずだ。だけどそれでも、私ははっきりと感じた。
このひとだ。間違いない。さっきと同じ感触だ――と。
「大丈夫?」
私を受け止めた彼女は、優しく微笑んでそう言った。
ぽかんと見つめた私の頭を撫でて、彼女は私を立たせ、立ち上がった。
「菫子! ああ、すみません」
「いえいえ、転ばなくて何よりでした」
謝った両親に、彼女は笑って首を振り、それから私の元にしゃがみこんだ。
「菫子ちゃんっていうの?」
「……」
「ほら菫子、ありがとうは?」
「……あ、ありが、と」
「どういたしまして。転ばないように気をつけてね」
よしよし、ともう一度私の頭を撫でて――それから彼女は、続けて、私だけに聞こえる声で、こう囁いた。
「……ボートから身を乗り出すのも、人に向かって見えない力を使うのも、あぶないから、もうやっちゃだめよ」
「――――」
ぽかんと見上げた私に微笑んで、それから両親に頭を下げ、彼女は踵を返して立ち去った。
私はただ、その彼女の背中をぼーっと見つめていたのだが。
「なんだ菫子、転びそうになってもソフトクリームは守ったのかよ、食いしん坊」
兄者がそう言って、私は自分の手にしたソフトクリームが、地面に落ちもせず、そのままコーンに乗って手の中にあることに気付いた。
おかしい。さっき転びかけたとき、手を放した気がするのに――。
そう思うとなんだか食べる気がしなくなって、私はソフトクリームを兄者に差し出す。
「なんだよ、急に」
「あげる」
「いらねーの? どうしたんだよ食いしん坊。ま、じゃあもらうけど」
食いしん坊言うな。むっとした私は、兄者の顔をソフトクリームまみれにしてやろうと、兄者の手にあるソフトクリームへ向けてテレキネシスを飛ばして――。
だけどそれは、振り払われたように弾かれた。私は思わずたたらを踏む。
何が起こったのかわからなかった。テレキネシスが弾かれたのなんて、初めてだった。
兄者は何も気付かず、ソフトクリームをほおばる。
私は視線を彷徨わせて――そして、彼女が振り向いて、首を横に振っているのを見た。
あぶないから、だめって言ったでしょ。彼女はそう言っているのだと、私は理解した。
だとすれば、今私のテレキネシスが弾かれたのも――彼女が?
そう思ったときにはもう、彼女はまた背を向け、歩き出していた。
たったそれだけの出会いである。
私は彼女の名前も知らない。どこの誰だったのかもわからない。
だけど彼女が、二度も私を助けてくれた――おそらくはその超能力で――のは、私にとっては紛れもない事実だった。
だから私は、そのときに刷り込まれたのだと思う。
この力は、自分が正しいと思ったことのために使おう、と。
無闇やたらと使うのではない。使うべきときのために使うのだ、と。
この力はそういうものなのだと――私はたぶん、彼女に教わったのだ。
諏訪湖のほとりにいた、翡翠のように緑がかった長い髪の少女。
蛇の形の髪飾りをしていたことと、背中ばかりが強く印象に残っていて、もう顔もはっきりとは思い出せないのだけれど。
もしもう一度彼女に会えたら、聞いてみたいと思う。
貴女はいったい、何者だったのですか――と。
外伝 宇佐見菫子の革命 一覧
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リア充が屯するバンドは正に地獄ですね…。私も行けないや。
しかしここであの娘と菫子が出会っていたとは。この出会いが向こうで彼女と会った時どうなるのか。気になります。
風祝の神々しい後ろ姿が目に浮かぶ・・・
案外諏訪の先代かもしれない。