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楽園の確率~Paradiseshift.第6章『パラダイスの格率』   パラダイスの格率 第5話

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公開日:2018年07月23日 / 最終更新日:2018年07月23日

楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第6章
パラダイスの格率 第5話



 人事不省のままの清蘭を後ろに見てから、椛は視線をやや上に向ける。戦うべき相手を、紛うことない敵を、その浄天眼の先に見据えていた。
「瘴気を纏っていない。やはり――」
 左手の盾を放り、抜き打ちに不向きなはずの三尺五分の大太刀に両手を掛けると、腰を落とし、迫り来る敵に備える。
「――あなた達か!」
 右後方に転身しつつ、間合いを隠したまま片手で切り払う。
 そちらの戦果は手応えだけで確認し、今度は左へ。慣性を斬撃の抵抗と膂力で押さえつけ、元の方へ向けて白刃を返すと、両手で目に見えぬ襲撃者を迎え撃つ。
 これが妖怪の山の支給品、刃長の揃えられた法力刀だったなら、彼らは間違いなく今の一合をすんでで躱し、椛に絶望的な致命の一撃を加えていただろう。だがここに携えるのは、常から愛用するただの鋼の大太刀。
 姿を穏したままの敵は、僅かに血しぶきを散らすと、それ以上は何の痕跡も残さずかき消える。それぞれ一刀のもとに命を絶ち切っていた。
「さあ、相手はたかだか白狼一匹だぞ。慢心して掛かって来い!」
 第二波の姿はまだ先の先。これで仕留められると考えていたなら当然だろう。その大元にいよう真に見透すこと叶わぬ相手へのこの宣戦の言葉は、椛自身への奮起の発破。
 敵は術が使えるはずなのにそれを使わなかったのは、自身を舐めたからだと椛は判じる。
 そしてそれが幸いであったとも思う。二人同時の襲撃が甘く見た結果かは定かでないが。
 卑妖の亡骸の周辺は激しい戦闘の為か、あるいは“食事”そのものが激しかったのか、雪が溶けて地面が露出している。また上方は木々の梢が遮ってくれている。
 気休め程度だが、千里眼を駆使して地上で迎え撃ち続けるなら、ここに陣取るのが最善と考えた。
 飛び散っていたはずの卑妖の血飛沫などは既に雪と共に流れていったか、地面には今まで雪の底にあった草や地衣類が見られるだけ。
《椛、何があった!》
 敵の正体については既に確信に至っている。これを公にすれば、幻想郷での妖怪の山の立場は大きく揺らごう。いや、新参者の清蘭すら、団子屋の営業というさもない対価にも責務を全うしようとした。己がそれをしなくてどうする。
 だからこそ、伝えるべき相手に対して、この箱庭全てに伝わるだけの大声で。
「……文さん! 敵の正体が分かりました!」
 椛には相手を絞った以心の術など使えない。ほぼ無差別のブロードキャスト。だがあくまでもこれは、文に対してだけの言葉だ。
 どうしようもなく腹に据えかねる、腐れ縁の鴉天狗に向けて椛は吠える。
「敵の! 首謀者達の正体は――」
《鞍馬様、鬼一法眼以下の鞍馬衆。そうだね?!》
 とことんの腐れ縁か。あんなに必死に飛び回っていたのに、この静かな大地に隠棲してからは六分の力でしか事を為そうとしないほど怠惰になってしまった鴉天狗とは。
「そうです……間違いありません! 天邪鬼蜂起からこの一言主事案まで、裏で糸を引いていたのは、妖怪の山首脳の一尊! 鞍馬僧正坊とその一派!」
 己の役目は果たしたか。満足感と高揚感に包まれながら、新たに迫ろうとする敵を認識。今度も二人、しかし先のようには退けられまい。
「清蘭さん、申し訳ありません。月仕込みの甘味にも興味はあったんですが……」
 やはり目標は二手に分かれて飛翔、複数方向からの襲撃を試みようとしている。次こそは、確実に同時の攻撃が加えられるだろう。それかまず、清蘭を確実に仕留めるのか。
 早まる鼓動が、澄ました自身の耳にも響く。
 それは突然に爆ぜた。
「撃ち方やめ! 降下! 集結、雁行隊形まま!」
 上空から見慣れた影が降り立つのを、椛は安堵と興奮を以て迎える。
「椛、無事か!?」
「真噛様に、井三郎様達も!」
「さーて、守護天使の降臨だ!」
 真噛を“眼”とした四人の火仗衆の牽制に、鞍馬衆と思しき寄せ手は一旦稜線の向こうに姿を隠す。地上にある限り、複雑な起伏を持つ地形は障害であり、盾にもなろう。
 危機からの安堵が勝ってしまいしばらく声が出せずにいた椛は、ようやくと振り絞る。
「さっきの以心の術、届きましたでしょうか?」
「ああ、射命丸殿の以心も確かに。しかし驚くべきか、鞍馬殿の無事を喜ぶべきか?」
「少なくとも喜ぶのはありませんて。アキハ二六、アキハ二一は同一二と合流した。これよりアキハ二三及び二四にイーグル〇一を後送させる。そちらはそのまま当方に加われ」
 井三郎が飛ばした指示に、それぞれから「了解」の声が返る。
「文様は暴走した百舌の制御に手を取られています。合流にはしばし時間がかかるかと」
「そっちは仕方ないか。しかしこれは非道い有様だな……」
 射線を保ったままの井三郎が卑妖の亡骸に視線を向けるのにつられ、椛もそちらを見る。よくよくすれば、それはまだ熱を失っておらず、この冷気の中で僅かに湯気を上げていた。
 百舌が捉えた汚穢とは瘴気ではなく、この亡骸達が最期に絞り出した物なのだろう。ろうそくの火が、最後に眩く光るかのように。そして一言主らの存在は偶然ではなく必然。
 なぜ卑妖がこうして惨たらしい亡骸を晒しているのかは不明だが、何か理由があるはず。ただ獣や狗賓に襲われるような相手ではない。
 降り立った他の者と共に片膝を立てて据銃する井三郎が、椛に尋ねる。
「先の検非違寮による――結局は偽装工作だった――人里調査。あの時、鞍馬衆が何人前進していたか分かるか?」
「僧正坊様やはたてさんを除いても、約五十人になります」
 それだけの鞍馬衆に攻め寄せられたら――それも穏形しており椛と真噛にしか視認できない状況では――火仗だけでなくあらゆる術を用いたとしても、勝負にならない。
「真噛殿、椛、現状あちらの手勢は?」
「どうやら瘴気の影響下にある模様です。五町先で視界が遮られます」
「こちらも同じく」
 真噛がこの現状を通報するも、妖怪の山――八葉堂からの応答は無い。
 僧正坊が敵対者と判明したが故の混乱か。それともこれが事実であるか分析しているのか。たかだか白狼一匹と“裏切り者”の鴉天狗が言っているだけだ、無理も無かろう。
 これはひとまず退くべきか、いや折角尻尾を掴んだのだ。現場だけでもこう判断が割れる。合流した火仗衆と入れ替えに後送されてゆく清蘭を見つつ、椛は言う。
「可能な限り、追跡しましょう。今回の発見は偶然でなく、ある程度の事前情報に基づいた調査によるものでした。ここで逃せば次の当てはありません」
 百舌が役に立ったかどうかは兎も角、千載一遇の機会に掴んだ敵を逃す手は無い。可能なら全力を投入しても然るべき状況でもある。
《アキハ二一。トウショウ二一は突撃する。手柄は頂くぞ!》
 既に上空から目視できるほどに瘴気が発散されていた。そこに向かって鈴瑚と早苗の護衛も兼ねて前進していた第二梯隊の八名が急降下しつつ術による射撃を開始する。
「だっから、術を撃ち込んでも無駄だって言ってるのに。アキハ二一以下火仗衆、トウショウ二一の援護に回る」
 井三郎の宣言に真噛もすぐさま応じ、彼らに促された椛も続いて飛び立つ。
 木々の上にまで上昇した椛達が見たのは瘴気に射掛ける日光衆の姿。案の定それは効果が無い。ただ鞍馬衆も瘴気の中に居る限り、あらゆる方術の行使は不能のはず。
「十時方向、一本杉の生えた岩場に降下。射撃タイミングを計る」
 井三郎の指示に、椛も含めた全員が整斉と従い降下。僅か二町前進して岩場に陣取る。
 次いで、更に降り立つ影。
「射命丸参上!」
 文はほとんど減速せず、火仗衆の布陣する岩場に己の足を叩き付ける。
 別れの挨拶のつもりで情報を送っていた椛は、やや恥ずかしい気持ちになりながらも、それを迎えた。
「文様、鞍馬衆の件は一体どこで知ったんですか?」
「私のアプローチはあくまでも小槌のパワーソースになれたか否か。後は、ここでの不穏な動きを教えてくれた自称仙人さんのお陰よ」
 より以前の、正邪が妖怪の山に討たれに来た事も判断材料になったと文は付け加える。
「それであなたは?」
「実は博麗神社襲撃の折、河童台場に襲撃を掛けた一名を撃ち落としました。あの時は姿が曖昧だったのですが、今思えば旧型の隠れ蓑を使っていたものと」
 隠れ蓑は主に河童が制作、使用している物だが、慣例的に妖怪の山にも納められている。鞍馬衆は人里調査に当たってそれを持ちだしたのだろうと椛は言う。
「比較的新しい型はやや科学的駆動での迷彩効果を得る物だと、河童の技術者が言っていました。対して旧型は、水妖エネルギーによる動作が主だとも。ちなみに目視での迷彩効果は前者の方が圧倒的ですが、旧型は千里眼の視界が歪められ不鮮明になるんです」
 水妖エネルギー動作の隠れ蓑が瘴気の中で使えたとは考えにくいが、そこから出た上で穏形の術まで重ねられれば、逆にあらゆる視界からの隠蔽が可能になろう。
 それは知らなかったと真噛も含めて感心するが、そうしている場合ではない。
「千里眼は術の穏形を看破できる?」
「術者によるのですが、およそは可能です」
 ならば瘴気の中から飛び出て来る鞍馬衆の警戒が優先だと、文は真噛と椛に言う。
《アキハ二一、トウショウ二一。援護はどうした!》
「勝手に飛び出ておいてそれを期待すんなって――トウショウ二一、現在目標を精査している。しばし待たれよ!」
《承知した、急いで頼む》
 ただ飛び回っているだけになっている日光衆だが、少なくとも追跡の役には立っている。
「そうだ忘れてた。射命丸、これ持っとけ」
 井三郎がひょいと布に包まれた棒状の物体を放る。長さからして火仗にしか見えない。
 これは秋葉衆として正式に迎えられたという証なのか。そう心を高揚させながら包みを解く文に、彼は補足する。
「それな、火仗じゃないんだと。だからお前が持ってろって八郎様がな」
 姿を現したのはどう見ても火仗なのだが、一体何が違うと言うのか。それよりもその口振り、やはり善八郎には己を秋葉衆として迎える気は無いのかと、文は僅かな期待を持っていた自分を心の中で叱りつける。
「善八郎様の考えは分かりました……いいですよ、存分に活躍して見せます!」
 先頭に立たせて「戦って死ね」とでも言いたいのかと、自棄気味で戦列に加わる文。
 改めて構えてみれば、重量七斤程度のそれは考えていたより重かった。博麗神社の時は無我夢中だったし、東塔から持ち出した時は操作習熟のため。こうして戦いの場で意識して構えてみると違うものかと、また思ってみる。が、
「あ、なんか知らんがそれだけ若干重いんだ。取り回し注意しろよ」
 またも虚を突かれた心持ちになりながら、前を見据える。ともかく集中。
 ただでさえ舞い上がる雪で視界が悪い上に、濃密な瘴気によりそこから先の視程は皆無。
 こちらもあちらも、下手に動くと位置を暴露させ、相手を有利に導きかねない。上空を旋回する日光衆も含めて膠着状態。
 その睨み合いは、全く予想していなかった勢力が打ち破る。
「井三郎様。後方から尋常でない妖力の塊が……いえ、これは神力?」
 彼が何者かと椛に尋ねようとしているうちに、それは激しく地から沸き上がる。上空からではなく大地から現れたのだ。
 岩場や林の向こうに辛うじて認めたその姿は――
「守矢神社の、祭神!?」

『手長足長さま』

 スペル宣言ではない。洩矢諏訪子の神威の顕現だ。
 その小さな身体はたちまちのうちに十尺骨長の花崗岩の腕を、八束を遙かに上回る脛を持つ厳の脚を携える。拳同士をぶつけて打ち鳴らすと大地を重々しく揺らして駆け始めた。
「一言主ぃ! 我が山河を勝手に売り、貶めた大悪人! 今こそ我らの怒りを受けよ!」
 彼女が言う悪行とは、やがて諏訪侵攻に繋がった国譲りの事か。一言主にも習合される事代主(ことしろぬし)が、天津神にそれを承諾したとされる、神代のその出来事を言っているのか。
 文は彼女の言葉に、己が貫かれている気がした。国譲りは本邦の歴史の必然だったのかも知れない。だがかつての己の行いは果たして必要であったのかと。
 いや、歴史にifは無い。そもそも今は、それに思い悩む場面でもない。文達の側を脇目も振らずに駆け抜けて行く巌の巨人を、文達はただ見送る。
 彼女を呼んだのは早苗に違いない。文の依頼も、こうした思惑があって受けたのかも知れない。祭神の希望もあったのだろうが、これが由々しき事態であるのに変わりはない。
「こりゃちょっと、誰が統制取って報告すればいいんだ……」
 井三郎すら困惑してそれを滞らせているうちに、応答の無い妖怪の山に向けて上空を旋回する日光衆が通報。彼らはそのまま一旦距離を取る。手柄争いなどはどうとでも、彼女の戦いに割って入れる者はここにおるまい。
 諏訪子は迷わず瘴気の内に入って行く。岩塊の巨体は瘴気に触れて表面から霧散しようとするが、彼女にはその影響も言霊の束縛も無しと見える。
 流石は坤の神、流石は土着神の頂点。
 既に肉薄し、組まれた巨岩の手が、砲弾すら上回る勢いで振り下ろされる。その風圧だけで瘴気は吹き飛び、瘴気の内に居た者達の姿が露わになった。
 周りには卑妖の姿が若干数、しかし鞍馬衆らしき姿が見当たらない。
 それより――
「あれを、受け止めた……!?」
 巨竜が頭を振るったが如き一撃すら受け止めるのか。
 文達の驚愕の中核に在ったのはしかし、一言主ではなかった。
「やはり鞍馬様で間違いないか!」
「いや、鬼一殿と言った方がいいかも知れません」
 法衣に半袈裟を下げていた姿は、大陸風の道士様の装束に変わっている。何より服装こそ異なるが、博麗神社で見た時のような化けの皮は被っていない。文と椛に看破され、それが盛大に叫ばれた今、もはや姿を偽る必要も無くなったか。
 そして側にはやはり、上古の武者に似た一言主の姿もあった。
 庇われるばかりと思われた一言主は、腰に提げた膝丸の写しに手を掛けると、鬼一法眼が支える巌の腕に向けて刃を振るう。
 刃長も間合いも無視して、それは『手長』の腕を両方とも断ち切った。
「おのれ一言主この怨霊め! 今こそ、今こそ!」
 諏訪子は残った『足長』の足で踏み付けようとするがしかし、返す太刀によってまたも易々と軸足を切り裂かれ、巌の巨人は呆気なく転倒する。
「トウショウ! 今が機だ!」
 井三郎が声と念話で同時に叫ぶと、彼らは隊形を整えて降下し、弾幕を張る。その中で反撃を受けているのか、複数人が被弾し、落伍して後退して行く。
 諏訪子を巻き込むのも厭わない激しい射撃に雪煙が上がり、一言主と鬼一法眼をも覆う。
「鞍馬衆らしき姿を捉えました。既に撤退の体制にあります」
 椛の知らせ。ここでまた逃げを打つ意味は何か。目的は果たしたのか、ならば目的はなんだったのか。
 ただしんがりとなる最強戦力がいずれも健在。迂闊に追撃は掛けられない。
「諏訪子さんの救助、行きます!」
 彼女自身の身はともかく、早苗が悲しむような事態は招きたくない。
 文が飛び立とうとその背に黒き光の翼を負う間に、一言主の刃が諏訪子に迫っていた。
 瞬時に最大推力。
(間に合えっ!)
 祈りながら文が飛び立つと同時に、膝丸の切っ先を何かが逸らす。
 見れば一振りの剣が回転して飛翔してゆく。文が目で追うそれが戻る先に居たのは――
「ハッハー! 鞍馬殿、ずいぶんと装いが変わりましたなぁ!」
 ――上空から躍りかかろうとする玄庵だった。上方を見れば彼が率いる、英彦山衆と思われる編隊の姿もある。
 彼は背負った鞘に戻った剣ではなく、また別の三鈷柄(さんこづか)剣を手にしている。その三鈷柄剣もただ三鈷杵(さんこしょ)を象った柄ではなく、本物の三鈷杵の中央の刃を剣に変えるという、罰当たりとも非実用的とも思える無理矢理な作り。
 彼の験力を活かすにはそれだけの呪具が必要なのか。そう思わせる程の法力を剣から溢れさせ、「チェスト」と号して大上段から鬼一法眼に振り下ろす。
 鬼一法眼は無手のまま、右手の食指と中指だけを立ててそれを受ける。
「流石は陰陽大僧殿、この程度では敵いませんか」
 文は二人の対峙の隙に諏訪子の側に降り立ち、彼女の身体を支える。
「あいててて。なんだ今のは、ありゃ本当に一言主の業(わざ)なのか?」
「ともかく、飛びます」
 彼女が狂乱の内に無かったのを幸いと思いながら、後方で続く鍔迫り合いに目をやる。
「この程度、私には通じんよ」
 薄目のまま妖艶に微笑む鬼一法眼と対照的に、玄庵はニッと歯を剥いて笑ってみせる。
「ならば、御身や一言主が貶めた鈴鹿の魔鍛冶の技、とくと味わってみますかな。征け!征夷の刃の妻よ、『顕妙蓮(けんみょうれん)』!」
 そう号され再び鞘から抜けた剣は、すぐに回転して飛翔を始め、鬼一法眼の不意を突く。
 その刃が敵と決めた相手を切り裂こうとする、刹那だった。
「破邪、顕正!」
 鬼一法眼が右手で組んだ印、破邪顕正(はじゃけんしょう)の利剣(りけん)が三鈷柄剣を弾き、次に顕妙蓮を迎え撃とうとする。
 それが僅かに叶わず後方に身を躱した鬼一法眼の胸元が、皮一枚だけ切られた。
「おいおい、御八葉ってのは男の天狗だけじゃなかったのかい?」
「ええ、そのはず、だったんですけれど……」
 鬼一法眼の、裂かれた衣から覗く胸は、どう見ても女の物。
「付いてる物が付いてるのは知ってますから、見えても嬉しくはないです、なぁっ!」
 再び顕妙連を鞘に収め、また三鈷柄剣で切り付けようとしながら玄庵が叫ぶのを聞き、また急加速で離脱。これが人間、早苗だったらもっと気を使う所だが、災害レベルの祟り神は多少扱いを荒くしても問題無い。(奉る扱いを荒くしていいという話ではない)
 先の彼の言っていた意味。半ばまで分かるが、その半ばから先が理解不能。
「とりあえず平気だから離してくれるかな?」
 充分に距離を取った地点で諏訪子も独自に飛行を始める。坤の神ではあるが、飛行はこちらに来たばかりの時期の早苗よりは得手の様子。
「諏訪子さん。こんな事をすれば、責めを受けるのは早苗さんなんですよ……」
 この乱入。許しを得てここに同行し、実際に事態を伝えた早苗が責を負う羽目になるだろう。足並みを乱した妖怪の山の住人として。
「そりゃ仕方ないね。いっそあの子を天狗の抜け穴から放り出してもらえないかな」
 予定通りだとでも言うのか。二柱を祀る風祝が去ってしまえば守矢神社は立ち行くまいに。
「……早苗さんを外の世界に帰そうと言うのですか。いやそれより天狗の抜け穴の存在は誰から聞いたんです」
「坤の神に地象を隠蔽するなんて無理だって。彼方と此方に渡って結構負荷がかかるんだよ、アレは。力の不均衡な者を通せば地も歪むからあんまり軽々に使わないほうがいいよ。あと早苗はずっと戻す訳じゃない。この事態の解決に役立てようと思ってね。調査する必要があるんだろ? あのインチキ一言主の実態を」
 避難させる気が無いとは言わないのか。いずれにしても文にとって願ったり叶ったりだが。ただ外の世界から相応の生け贄をこの修羅場に連れ戻す必要があるのだが。いや――
「一言主が、インチキですって?」
「ありゃ我らの怨敵本体じゃないね。瘴気だ支配者の言霊だのの威徳は確かに、かの荒神の孫達の筆頭にも準ずるけど、威力がおかしすぎる。一言主は顕界から見れば既に幽棲の者で、幻想郷ですらあんな出鱈目ができる存在じゃなくなってるはずなんだ」
 最後まで顕界に残り、神力の限りに世界を見続け、受肉してここに在る神のセリフだ。信ずるに足るものであろう。ならば、予定を大幅に変更する必要がある。生け贄の選定、マミゾウへの新たな協力の要請。それに――
「おーい、もっと離れた方がよくないかい? 奴がまた瘴気を吐き出し始めたぞ」
 瘴気にも言霊にも耐えられる彼女は泰然と飛ぶ。
「いや、そう言えば玄庵殿は」
 彼はそのまま瘴気に飲まれる輩でもない。文が目で追うよりも早く、彼は火仗衆と向かいの山肌に英彦山衆や日光衆を率いて降り立っている。
 そう言えば彼にも言霊は通用していないのか。諏訪子なら分かる。本邦最後の王国を統べた神は、紛い物の支配者の性(しょう)など受け付けまい。だが彼の場合は何がそれを退けたのか。
《フヨウ、ヤシャだ。瘴気を吐き出されたので一旦後退した。それにしてもやはり、あれは鞍馬殿、鬼一法眼で間違いなかったぞ。これで文句はありますまい》
 全力投入の進言か。一言主の言霊の影響力が曖昧なこの状況下でその判断は正しいのか。
《フヨウ、アキハ二一。アキハ二一射撃開始!》
 文の思考は火仗の音が弾き飛ばす。
 瘴気がその姿を完全に隠してしまう前に、集中砲火で仕留めようという意図だろう。
「なぜ飛んで上から撃たないんですか。まだ目標が確実に目視できますが」
《それについては、戦術研究中だったんだよ。こうして座って撃っても当てるの難しいのに、飛びながら当てられると思うか?》
 実際にやってみれば早いかと、文も――火仗でないとされる――銃を構え、発砲する。弾丸はそのまま地面に突き刺さった。確かに条件を整えなければ狙いを付けるのも難しい。
《フン、手柄を取られてたまるかよ》
 ここまで瘴気が拡散すれば、既に術は通じまい。しかし彼は両腕で直拳作って前に突き出している。一見して弾指(魔払い)を応用した遠当てに見えるが、それなら無力化されるはず。
 やはり指を弾き、何かが打ち出された。それらは一言主と鬼一法眼それぞれに極めて正確に飛んで行く。まず鬼一法眼はそれを利剣の印で弾き、一言主は青銅の甲にそれを受ける。いずれもダメージを受けた風には見えないが、どういうことか確かに命中はした。
 まず物理的な礫を飛ばしたのだと分かった。火仗をも上回る、常識外れな恐るべき精度。
 発射は妖力で行ったとしても、与えた慣性は無力化されない道理か。空力的な挙動は弾体の形状に依るが、瘴気に入ってしまえば誘導もされまい。なのにである。
 しかし次弾も無い。今の方術、文が知る限りなら速射も可能であろうに。
 見れば玄庵は何かを受け止める姿勢を取っていた。あちらからの反撃があったのか。
「あ。おい馬鹿やめろ!」
 銃先を一言主に向け続ける火仗衆に玄庵が叫ぶが、そちらは構わず射撃を継続。
 音速の倍を超えて銃口から放たれ、ちらほらと降る雪の中に螺旋を描く鉛弾の一つが、飛翔を安定させて一言主に迫る。命中と同時に、鉛と青銅の衝突の火花が僅かに散った。
 しかし次の一拍後、倒れていたのは初めて火仗で一言主を捉えたはずの射手だった。
《おいアキハ、火仗衆! 射撃は中止だ! 手柄争いどころではない、やめろ!》
 何が起こったのかは分からないながらも火仗衆は反撃を認識し、より確実な掩蔽(えんぺい)を図りつつ射撃を継続。
 しかし火を吹き続ける火仗の銃先は、次々にあらぬ方向に向く羽目になった。
《何のつもりか玄庵殿!》
「やめろと言うに、何故撃つ!」
 彼は先ほど放った弾指を、威力を弱めて火仗に放ったのだった。
 さしもの井三郎も手下(てか)へ射撃中止を指示。
 何が起きたのか。上空で滞空する文は興味を引かれる。ある程度の確信はあったため、それに備えながら下方へ向けて据銃。通常はあり得ない射撃姿勢。
 一言主達の頭上も瘴気に覆われようとしている。どのみち今弾倉に収めた弾薬を撃ってしまえばそれ以上の矢弾は無い。
 照門から照星、更に向こうへピントを移しながらその先に一言主を置き、自然に呼吸を止め、引き金をゆっくりと引き、絞る。一旦は静寂が戻った渓谷にまた銃声がこだました。
《射命丸、玄庵殿が――》
《文ちゃーん、拙僧お願いするからやめてくれー》
 構わず、二発、三発と改めて呼吸を落ち着けて引き絞る。
 命中。文は、音速での戦闘にも耐える動体視力でそれを認識すると、戦果確認などより先に空中で身を翻す。
「こらブン屋! 何か企んでたなら先に言ってくれ!」
 僅か上方を飛ぶ諏訪子からの抗議。どうやら流れ弾が飛んで行ったらしい。
「すいません。しかしあれが『返し矢』的な現象だと分かりました」
「返し矢だって? あれが天意を纏う存在だとでも言うのか」
――返し矢とはこうだ。
  葦原中国(あしはらのなかつくに)平定のため、天がアメノワカヒコなる神を使わせたが、あろうことか、彼は大国主命よりシタテルヒメを娶り、その地を己の掌中に納めようと企んだ。
  一向にして進まない平定に業を煮やしたタカミムスビが雉鳴女を使わすと、アメノワカヒコの側女のアメノサグメは「射殺してしまえ」と言う。
  彼は天より賜った『天之羽々矢(アメノハバヤ)』を同じく賜った『天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)』で以て雉鳴女を射抜き、それはタカミムスビの下まで射上がって行った。
  タカミムスビがアメノワカヒコの叛意の有無を天之羽々矢に占わせると、それはそのまま叛意を持つアメノワカヒコの胸を射抜いた。――
 仏の言葉なら「俯仰天而唾(天を仰いで而も唾せん)、唾不至天(唾天に至らずして)、還従己墜(却つて己が身に落ちる)」即ち『天に唾する』の道理。
 事代主を起こりとするならそれは国津神であるし、葛城襲津彦を起こりとする一言主には天意天道も何もあるまい。なのに、確かにその現象は起こったのだ。
 あれはいつ、その力を得たのか。元からその力があれば、博麗神社での河童の砲撃を弾いていても然るべきであるのに。
 何よりも、一言主には火仗すら通用しないと判明したのが一大事と言える。
《文さん、無事ですか!?》
 椛が心底不安そうな念話を投げかける。かつて文が同じ様な無茶をしたのを見たからだ。
「大丈夫、予想が付いていたから避けられたよ。井三郎殿――」
《――は? 返し矢? アメノワカヒコのアレ? なら俺達が賊軍って事になるのか?》
「そう判じるのは早計ですが、少なくとも奴がそれを起こしたのは事実です」
 瘴気の塊が移動を始める。次に鬼一法眼がこの煙幕の内で穏形の術を練り、瘴気の回収と同時に行方を眩ませる気だろう。やはりここで逃す訳にはいかない。
《返し矢がなんだ! 拙僧がやってやろう!》
 先ほど射撃を止めさせたのとはちぐはぐな、玄庵の発言。あれが天意であると聞いての反逆心か。まるで天邪鬼のようだ。
 彼は顕妙連を手に取ると、それを放り投げながら方術『顕妙蓮』を行使。高速回転する刃が瘴気の中心に向かって飛ぶ。しかしそれは瘴気に飲まれたまま、姿を現さなかった。
 そればかりか、予想した通り博麗神社で消えた時と同様の手品でそれらは姿を消す。手品と言ってみるがそれは演出だけ。この規模の穏形を為すなど、鬼一法眼にしか為せまい。
「クソッ、顕妙連まで持って行かれるとは。フヨウ、ヤシャ。白狼による追跡は?」
《駄目だ玄庵さん。白狼達には護摩焚かせてまで視させたけど、鞍馬さんの遁走と同時にぜーんぶ行方を追えなくなっちゃったよ》
 東光坊自らの返信に、玄庵は特に何の感情も起こしていない様子。ただ現状を見ている。
「承知した、拙僧もこれより戻る。日光衆、それと秋葉衆に負傷者が出ている。癒術を使える者を待機させておいて下され。これも引き揚げた駐屯吏にいるはずだ」
 それを以て、元通りの『フヨウ』念話通信手から、百舌回収に向かった者以外の全員に対して帰投の指示が下る。
「玄庵様、私は卑妖の亡骸の調査をしてから戻りたいと思います。よろしいでしょうか?」
 椛が雪に膝と拳を埋もれさせながら頭を下げる。
「どうせ狗賓と争った後だろうし、他に何も出んだろうが。椛ちゃんの頼みなら、まあ」
 言って飛び立つ彼らを火仗衆は見送り、椛と文、それに諏訪子もその場に残る。
「椛、一体どうしたの。わざわざ調べるなんて」
 玄庵が示した狗賓と卑妖の争いとの理由は、この惨状に妥当に思える。それならこれ以上調べる理由など無い。必要があるのはどれだけの狗賓が取り込まれたかの確認だけ。
「文様、人間は好きですか?」
 不意に椛が問う。奇しくも、ついこの間はたてからされた物と同じだ。
 突然の問いだが、あの時からここまで、認識を大きく変えるようなことなど無かった。
「ええ、好きですよ。だからと言って、この事態への対応をどう――」
「私は好きじゃないです」
 椛は亡骸の側に落ちていた、遺品であろう血濡れのかんざしを手にそう呟いた。

      ∴

「早苗さん。残念ですが、私達ではあなたを庇うことができません」
 文が東塔まで訪れた早苗にそう告げると、彼女は人差し指を左右に振って明るく答える。
責める気持ちよりも、祭神の意思を守った彼女に同情する気持ちが遙かに強い。
「ではって、私も反省してますよ。でも久しぶりの外界ライフを楽しんで来ます! それに玄庵さんが、守矢神社が正しく功績を上げれば、恩赦もあるって言ってくれましたし」
 実は別にもこちらに帰ってくるすべはあるのだと早苗が耳打ちすると、それはしたたかなことだと、ようやく二人で笑い合う余裕も生まれた。
 諏訪子(もしかしたら神奈子もかも知れない)が早苗を外の世界に送り出すよう画策したのは、調査のためだけではない。ましてや避難のためなどではない。
 未だに一言主がどうやって結界を越えるつもりかは不明ながら、奴らは確実にそれに向けて動いているはず。そしてもしそれが達成されれば、最前線は外の世界に移る。そこでの戦力としても、諏訪子達は早苗に期待しているのだろう。そうさせる気は文にも無いが。
 古風な旅行鞄に旅道具を満載した早苗は、既に外来人らしい、外の世界の装いになっている。チョイスはせめて今の流行に近い物をと、三尺坊が外界の通信網を通して調べ、(コーディネートサービスという物があるらしい)選定した物。
 普段の巫女服も可愛らしいが、これはずいぶん綺麗系だと文は感心している。
「どうしました?」
「いや、変な虫が付かないか不安で……あー、保護者みたいなこと言ってすいません!」
「大丈夫、浮気なんてしませんよ」
 それはどういう意味だ。早苗の答えを推し量る内に、東塔の担当者が訪れてしまった。
「では早苗さん。色々と大変ですけれどお気を付けて」
 出来れば、肉親や友人達と穏やかに過ごして欲しい。しかし事がいつ動き出すか分からない現在、今こうしている寸暇すら惜しい状況でもある。
 期待を込め、東塔の者に連れて行かれる早苗を見送り、帰途に就く。
 構造物も尽きた山道に、行く手を遮る影。まだ日も高い、闇討ちという訳でもあるまい。
「早苗嬢の見送りご苦労だな、文ちゃん。仲睦まじいことで拙僧も妬けるぞ」
「何のご用でしょうか。心当たりが多すぎて分かりません」
 相手にせず通り過ぎようとする文。玄庵は引き留めず後に続いて語り掛け続ける。
「のうのう、拙僧とお話してくれんか?」
「上機嫌ですね。一体何を聞きたいのか具体的に、まどろっこしい殿方は嫌われますよ」
 極めて不機嫌な文から見て、彼は今まで見たことが無いほどの上機嫌。
 妖怪の山への一言主浸透、鬼一法眼こと鞍馬僧正坊の裏切り。これが幻想郷中に響き渡った時点で、妖怪の山の立場はかなり悪化していた。妖怪の山は、なんとしても自力で決着をつける必要がある状況に追いやられた。なのに、である。
「いやな、あのお方の真実を聞きたいと思ってなぁ。文ちゃんの表向きの悪行もそうだが、はたて嬢の身の上についても限られた者しか知らなくてな。いずれもある一人のお方に係るものらしいが、これ以上は東光坊様すら喋ってくれんでな」
 文も歩みを止める。何が聞きたいのかは分かった。
「実は拙僧、先般の中山谷での合戦まで、そのお方が再臨されるのではと期待しておったのよ。だが現れたのはあの鬼一殿。正直ガッカリしたが別に確信したこともあってな」
「そのお方とは、どなたの事でしょう」
 ブラフとも考えられる、軽々しく答えるつもりは無い。が、次の言葉に耐えられなかった。
「八百年前の、朝廷の威光に致命の疵を与えた戦の折。西国の空に姿を隠した陰陽兵器――護法鬼神と呼ばれたお方よ。あの方が秋葉山に身を寄せていた際、文ちゃんが宗門を裏切り西国へ密告。鞍馬殿を始めとする西国の天狗の追討を受けた。という話になってるな」
 護法鬼神、名すら厳重に秘匿されている。流布された話の中での文は、ただ人間の軍勢の西上を報せに駆けたことにしかなっていない。
 文は弾かれたように玄庵の目前に飛び込み、間髪入れずに自分よりずっと背の高い彼の胸倉を掴むと、側にそびえる白樺の木に叩き付ける。僅かに積もった雪が二人を覆う。
 彼はやや驚いた貌をしているが、それ以上には動揺した様子も無く文を見下ろしている。
「兵器などと。あいつを、そう呼ぶな……!」
 この文の言葉に、彼は初めて動揺の様子を見せる。挑発にも近い己の発言に対して文が某かの動きを見せるのまでは予想していたのだろうが、この返しは予想外だったのだ。
「あいつは護法鬼神でも、ましてや陰陽兵器などでもない。あいつの名は、皆鶴だ」
 玄庵は知らないのか。それが、文と共通して知るモノ自身が上げた名乗りであるのを。
「……げほっげほっ、あー痛い。なんて乱暴なおなごだ。いい加減離してくれんか、これでは拙僧でも満足に話ができん」
 容易く振りほどけように、おちゃらけながらそう言う彼に、文も冷静になって手を離す。
「驚いたな。お主の中にそんな激情が眠っていたとは。それに護法……いや皆鶴、御前を御存じだったか。しかしなるほど、皆鶴との名、なるほどなぁ」
 初めて聞いたであろう皆鶴との名を、彼は幾度も噛みしめるように呟く。なぜ彼が皆鶴を知っているのか文が知り得ないように、文と皆鶴に面識がある理由は彼も知るまい。
「拙僧、姫海棠嬢の身の上は知っていたつもりだったが、それも確かなのか」
「いえ、それも私が知るのは全て状況からの推察のみ。確たる素性は存じ上げません」
 しかしお互いに確信はあるのだ。その縁を以て、玄庵は話を続ける。
「全て聞かせてもらえんか。絶対に秘する。お主がこれまで誰にも秘してきた以上に」
 文が何をしたか、どんな大罪を犯したのか。不可分なそれまでも含めて語る必要がある。
 諏訪子は国譲りを激しく非難したが、それを悪行とするなら、文の所業も大罪だろう。
「ええ、承久の乱。あの戦に先だち私は秋葉山より単独で進出し、皆鶴を墜としました」
 九郎義経が瀬田を駆け、激しく戦って朝日将軍足る木曽勢を追い落とした、その上空。東雲果てる処の空に、射命丸文は最期に『はたて』と名乗った皆鶴を打ち破ったのだ。
 はたて。決して望まぬ天上の旗手とも、永久に義経の弓箭の一部を為す者であろうとの意も込めていたであろう。彼女自身は、皆鶴の名を我が子に譲ろうとしていたが。
「なんだと?! ならば、本来官軍――西面(さいめん)を始めとする後鳥羽上皇軍の前に立ち、鎌倉軍に相対するはずだった西国の天狗達を、散々に蹴散らしたモノというのは……」
「ええ、私です。ただ速く飛ぶだけしか出来なかった私にあんな所業が叶ったのは、某かただならぬ方の加護に依ったとしか考えられませんが」
 彼が知っていたのは真逆の出来事だ。秋葉山より叛乱を起こそうとしていた護法鬼神と、それを売った秋葉山の出の法師という。しかし皆鶴は最後まで、官軍のみならず、並べて朝廷に関わる人妖の切り札として飛んでいた。
 そして己を文に討たせることで、叛乱を成し遂げたのだ。
 彼女はずっと叛乱の機会を窺っていた。その身は鬼一法眼により勝手に作り出され、命じられるままにしか動かすこと叶わない物。それでも類い希な妖力通力を誇った彼女は、その間隙にあらゆる謀略を画策していたのだろう。
 皆鶴を、西国の天狗の勢力を大幅に失した上皇軍と、正に朝日の勢いで上る鎌倉軍との戦力差は歴然としていた。上皇が北条追討の院宣を発しても、それは埋まらなかったのだ。
 そうして朝廷が東夷(あずまえびす)の武力の前に屈し、真なる武家政権が成立した。これが皇統に刻まれた疵であり、朝廷の影に在って叡山を通し“天意”を伝えた鞍馬山を、天狗の地位を、大きく貶めた出来事だった。
 そんな中央の天狗の立ち位置など地方の者には関係ないとも思えるが、実際にそれは波及した。その後の天狗は従来の寺社勢力とは別に、ある時は戦乱の中で身売りし、ある時は東西に、南北にと摩する大名や武将との力関係に巻き込まれざるを得なくなった。
 これが御八葉が知る、文の大逆の真実だった。

「ついでに言ってしまえば、あの時ご本尊様が梅雨時期の天竜川の流れをあれこれして、東海道の鎌倉本軍の西上を助けたのも、秋葉衆が睨まれる原因になったんですよね……」
「その『本尊』は皮肉か? 勘弁してくれ。それを言ったらお前なんて中山道(なかせんどう)でこっそり、と言うかごっそり、西国から前進していた天狗衆を討っただろう。後で聞いて驚いたぞ」
 文机の前で背を丸め、ノートパソコンのキーボードを叩き続けながら、三尺坊は椛に応じる。
 側に控えて彼を補佐する真噛などは生まれも育ちも坂東の者。かつての二人の行動については、今も好意的に捉えている。
 そんな重大な雑談をしていた三尺坊は、画面に現れたポップアップに気付き声を掛ける。
「おや? 真噛殿、これはお主のスマホのメアドかな。と言うかまだキャリアなのか」
「はい、確かに私のです。と言うかまだキャリアしか選択肢が無いのです。中々、我が山麓の奥まで届くバンドまでカバーするMVNOがありませんので」
 椛には全く意味不明な会話だが、新たな動きがあったのだけは理解する。
「ふむ。どうやら風祝殿が無事あちらに着いたようだ」
「となると、これから一悶着ですね」
 言いながら椛は早速立ち上がり、直ちに出発の準備をする。
 行き先は東塔。何が起こるのかは既に把握していた。

「では私から聞かせて下さい。玄庵殿、あなたはなぜ、今のこんな状況下で、この様な混乱を招く事態を引き起こしたのです。何を思って」
「さっきも言ったように、この地に皆鶴御前が再臨するのではとの期待があった。迎えるに相応しい“国”をこしらえようとしたのよ。言葉のままの御山の大将でもな。それと、拙僧が唯一御大将と奉った方への手土産も作ろうとした」
 御大将なる者について興味が無いでもない。それよりも文は、彼の“国”に反駁する。「国などと。そんな物こそ、幻想郷には必要無いんですよ。大結界という帳(とばり)を降ろしたこの大地で最も古い天狗となった私だからこそ言います。この大地に支配者など要らない! 此方も彼方も無く、少なくとも本邦の、人々の“ありよう”を歪めてきたそれは、常識と非常識の界面に張り付くだけのものになった。それこそ、皆鶴が為した大業だ!」
 文にはこれを、アナーキストなどの論理を除いて語れた。
 ここに要らないのは支配者だ。統べる者も居ない無軌道な世界を望んでいるのではない。為政者が立つならそれがいい。
 彼女だけではない、その多くを為したのはただの人だ。名を上げた者も、名も無き者も。
「実に人間視点なセリフだな」
「ええ、これまで善き人間も悪しき人間も見てきましたが、私が見いだしたのは、それら善意の総和が悪意の総和を上回るという事。確かな倫理を持った人間の。だから、私は」
 人間が好きなのだ、とはここでは言わない。
「善意の総和か。それは皆鶴御前も信じた物かな?」
「分かりません。ただあいつが作ろうとしたのは御簾を除き高御座(たかみくら)を崩し、皆でそこに座れる国でした。当然地下(じげ)も殿上(でんじょう)も、人妖すらなく。故に、妖怪の山を国にしようとするならそれは歪であり、皆鶴の目指した国とは大きく異なる無意味な物だと断じて言えます」
「そうよな、拙僧があのお方に、御大将に見いだしたのもそれだったはずだ。あそこにはヤマノメも居たのに、なぜそれを忘れていたんだろうなぁ」
 ヤマメを知っているのか。かつて鎮西に在していた者同士であれば、どこかのみちすがらで袖振り合う以上の縁があったのかも知れない。
 文はこれを奇貨と見て、提案する。
「玄庵様。あなたが、皆鶴が夢を見た世界に興味があるなら、ひとつ提案があります」
 彼は物思いに耽り、憂えるような表情から――未だにそれが欺瞞か本性の一つか知れない――いつもの堕落した破戒天狗の貌になって答える。要は鼻筋を伸ばしながらだ。
「文ちゃんにそう言われたら拙僧も断れそうに無いなぁ。で、なんだ?」
「あなたが今その名を口にした――」
 山道を駆け抜けて来た影を認め、文は言葉を止める。同時に玄庵もそちらに振り向く。
「なぜ玄庵様がこちらに!?」
 行く手に二人を見た椛は急停止。文も彼女が駆けて来た理由は分かっている。文に直接早苗の外界到着を伝え、これからの対応への準備をさせようとしていたのだ。
 椛にとって、彼の臨場は極めて拙(まず)いという認識のままのはずだろうが。
「椛、構わないから続けて。早苗さんが外界へ着いたの?」
「え。あ、はい。先ほど連絡がありました」
 どうやってそれを伝え、あちらで何があったのか。椛はその点を語らない。
「そうか、早苗嬢は無事に避難してくれたか」
「早苗さんは逃がされたのではありません。あちらではあちらでの戦いもあります」
「外の世界での調査。それと万一、一言主が外界へ進出した際の備え。そんな辺りか?」
 文がそれに肯定の言葉を返す前に、玄庵は僅かに表情を変える。個別の以心の術が届いたのだろうというのが容易に察せられた。
「東塔。抜け穴からの連絡でしょうか?」
「今のは東光坊様からだが、大元はそっちになるか。文ちゃーん、中々やるのぉ」
 言って、また文から意識を逸らす玄庵。文にはどう返答したのかだけが気になる。
「ここで拙僧に会ったのは都合が良かったな。外来人は秋葉衆に預けるよう東光坊様に連絡した。文ちゃん達がそちらに着く頃には、東塔にもその旨伝わるはずだ。何を画策しているのかは問わんが、この程度は日光・英彦山連合のハンデにも足りんだろう」
 ハンデとの言葉、手柄争いはまだ継続中という認識か。つくづく食えない相手だ。事態の打開に必要と見たなら謀も黙認というのは、却って油断ならない。
「おおそうだ、さっきのヤマノメがなんとかは?」
「八雲紫の提案で旧地獄が隔離された件は御存じでしょうか?」
「それは知らんな、隠し事はよくないぞ。が、先の博麗神社での状況では、そうせねば納得しない勢力もあろうな。そこでヤマノメが何か?」
「あなたが言うヤマノメ。今は黒谷ヤマメと名乗る、魔法使い霧雨の招きで上がって来た土蜘蛛と相違ないという認識で提案します。彼女は人質として、八雲紫の勝手で私に預けられました。今は命蓮寺に留め置いております彼女を、一言主にぶつけようかと」
「地底の勢力に活躍の場を与えるか。拙僧は一向に構わぬ。それも秋葉衆の手柄にするつもりなら、ようやっとちょうどいいハンデにもなるだろうし」
 火仗に外来人、旧地獄の勢力。これだけでは、現状健在な最大勢力である日光・英彦山連合に対しアドバンテージが得られると思えない。そもそも手柄争いどころではあるまい。
 彼も腹に何を抱えているのか。それはひとまず、文は椛を引き連れて東塔へと向かった。

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