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楽園の確率~Paradiseshift.第6章『パラダイスの格率』   パラダイスの格率 第1話

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公開日:2018年06月18日 / 最終更新日:2018年06月17日

パラダイスの格率 第1話
楽園の確率 ~ Paradise Shift. 第6章
パラダイスの格率 第1話



 天狗。
 その単語を聞いて、多くの人は一人の英傑と、彼にまつわるモノを思い起こすだろう。
 源九郎判官こと源義経を。そして幼き彼を鍛え上げたという、鞍馬山の天狗を。
 しかしその天狗の名を知る者などごく僅か。それも仕方の無いことだ。
 彼女は誰でも無く、何者でも無い、無銘の兵器として作り出されたのだから。
 だが私は知っている。今は物語の中にだけ刻まれるだけの、麗しきその名を。
 義経の天狗――水面をたゆたう白き鵠の如く猛く優しき天狗は、名を『皆鶴』と言った。

 かつてこの国を震わせた戦があった。
 西と東。東夷(あずまえびす)とそしられた者達、坂東武者と、皇統と並び立ち、ついにその外戚となった平家との間に。俗に言う源平合戦、治承じしょう)・寿永(じゅえい)の乱だ。
 私達は坂東軍の中でそれぞれに飛んだ。
 皆鶴は英傑義経の天狗として。私は……大軍勢を率いるだけの、ある凡将の天狗として。
 多くの人妖を倒すために飛んだその血腥い日々はしかし、私達にとっては輝ける日々だった。既に人よりも長く生きていた私達の想いを、眩い悲しみを結晶化させた日々だった。
 そして、その日々の中で成立した『鎌倉』という物は、多くの意義を持っていた。
 合議の上に成り立つ日ノ本の本営は、武士という存在を権門の爪牙から、地下(じげ)から解き放ち、僅かながらに奴隷的存在の開放を前に進めたのだ。
 それを成り立たせた鎌倉殿、源頼朝に如何なる存念があったのかは知りようも無いが、皆鶴は義経を殺したそれらを憎み続け、私は最期までそこで凡将としての役目を果たした“彼”の思いを抱き――私達は再び、一つの空を飛んだ。
 そうして、この国の時代は一歩だけ進んだ。
 皇統への疵と、天津走狗の零落という足跡を深く刻み込んでから。

      ∵

 皆鶴ならば、もし彼女がこの世に在れば、打ち出の小槌のパワーソースになれただろう。己が造物主の鞍馬僧正坊すら上回る神通力を誇る、護法にして“鬼神”たる彼女ならば。
 ただ、これも知る者は僅かだが、今も彼女の娘が幻想郷にいる。姫海棠はたてがそうだ。
 はたて本人は皆鶴の入滅の時にすらそれを知らなかったし、皆鶴も最期までそれを語らなかった。それでもあらゆる傍証が、彼女達の関係が確かであると示していた。だが生憎――仕方が無いとも言うべきか――はたてには、そこまでの通力は無い。
 皆鶴は一言主を用いて冥途より娘を迎えに来たのか?
 同時に、己を勝手に作り出し、縛り続けた僧正坊への復讐を成し遂げたのではあるまいか?
 否、断じて否。彼女の魂は、今や自身の思い出の中にだけあると、文は確信していた。
 何より現在幻想郷を覆う事態が何者かの企みだとしても、それは文と皆鶴と、数多の戦う者達が刻んだ一歩からは余りに遠い物。
 ただの隷属よりおぞましい、己が身を別の何者かに勝手されるなどという理こそを、無銘の兵器として縛られ続けた彼女はこの国から除こうとしていた。彼女は我が子のために、そして文は、一人の凡将の思いを継いで。
(鶴の恩返しならぬ鴉の恩返し、か。ああ、思えばなんて、長い恩返しなんだろう)
 射命丸となった理由、神事の流れ矢に撃ち落とされた情け無い鴉を救ってくれたのが、凡将となる前の、御厨(みくりや)育ちの心優しい少年だった。
 彼の名は蒲冠者(かばかじゃ)、源範頼(のりより)。
 彼は文達と共に源平の戦いを乗り越えたがしかし、確立したばかりの鎌倉に起こった動乱の中で、鎌倉存続のためにあえて討たれる道を選んだ。(その行いが、文が今も自死という行為を強く嫌う理由にもなっている)
 彼ら彼女らの命を賭した祈り――鎌倉から始まった武家政権の先、武士達が大政奉還を果たし、権力から切り離されて久しくなった権威と信仰の長たる皇と臣の下へ公武合体を叶えた時、それら祈りは成就したであろう。
 はたてが文達の後を追って深山幽谷への隠棲を選んだという、大いなる誤算を除けば。

 やはりこの事態の背後には何者かの企みがあるはずだ。
 はたてや鞍馬に浅からぬ縁のある者。それこそが一言主と共に斃すべき敵であろうと、まだ見ぬその存在を、文は雪雲の底に見据えていた。

     * * *

 一言主がその“軍”ごと、博麗神社の社を目前にして姿を消した後の境内には、倒れ伏した博麗の巫女、博麗霊夢と、傷付いた多くの人妖が残された。
 また、参道や獣道を進んでいた秋葉衆の火仗隊も合流しつつある。
 あくまでも人間としての戦いを強いられた彼らも、少なくない犠牲を出していた。数人が複数の火仗を手にしている。亡骸すら残さず喪われた者達の、最後まで戦った証だった。
「死んだ卑妖や人里からの与力衆は、瘴気の影響を拡散する恐れからその場に埋葬、か」
 およそ手傷を負わず、しかし弾は撃ち尽くしたのか血濡れの銃剣を火仗に着剣したままの男、天竜坊善八郎は、負い紐を袈裟懸けして火仗を背負う射命丸文に確認する。
「はい、そう報告させて頂きました」
 文の飛ばす以心の術は、特定の相手に絞れるものではないため、他勢力や野辺のはぐれ妖怪に傍受される恐れからそうせざるを得なかった。
 この状況下、己一人の独善と独断に巻き込まれても最後まで戦った彼らの勲しをどれだけ叫びたかったことか。人の変じた卑妖を斃さざるを得なかったのを、どれだけ嘆きたかったことか。それらを抑え、いくつかの思惑を退けるための配慮を交えながら、文は粛々と報告するだけしか出来なかった。
「そうか。ときに――」
「ところで――」
 発言がかち合い、一旦言葉を止める二人。先に再び口を開いたのは善八郎。
「ときに、星熊様が直々にお出ましと言ったのは、本当か?」
「はい。一言主の振るった『蜘蛛切(くもきり)』の前に手傷を負い、他の負傷者と共に手当をしています。傷は深いですが命に別状は無い模様です」
 妖怪の山の旧支配者。今は旧地獄に住まう鬼の頭目。妖怪の山に勤める二人の認識はこう。ただならぬ相手ではあるが、地上と地底との間に横たわる不可侵の約定は生きている。
 鬼に横道非ず、即ち嘘は無い。それが四天王と謡われた鬼の一角、星熊勇儀の性(さが)だ。
 その勇儀が確固として定められた約定を反故にしたなど、如何な理由によるのか。たった一人で幻想郷の覇権を奪いに上がって来たなどとは、まず考えられない。
 相応の理由があるはず。善八郎が勇儀の臨場に問いたいのはそれだろう。
 安易に勇儀の名を報告に上げるのは拙(まず)いかと文も一時は考えたが、これ以上の隠し事は今以上に三尺坊以下秋葉衆の立場を悪化させかねなかったため、已む無く伝えたのだ。
「土蜘蛛は従前の通り、瘴気の操作を試みさせようと霧雨嬢が招いたと申し開きもしよう。だが星熊様のお出ましには然るべき理由も見当たらないし、俺達が擁護する故も無いな」
 もし、彼の言う“申し開き”が何者に対する物かと問われれば、難癖を付ける者全てに対しての物だと答えるべきか。
 勢力を為すモノも為さぬモノも、およそ他者のこういった痛点を突こうと、虎視眈眈と眼を光らせている。賢者と言われる者達もそこに並ぶだろう。
「善八郎様、それよりも」
「はたての事か? それならば捨て置け」
 その件も話したい事の一つだった。
 僅かなりと秋葉衆と縁があり、共に過ごした時期もある彼女。持参した蜘蛛切の写しは大蜘蛛の姿を取っていた一言主に通じず、あまつさえそれを勇儀を深く切り付けるほどの凶器とされてしまった上に、一言主と共に姿を消してしまった。
 善八郎は口喧しいが冷徹な人物ではない。ここでこうも突き放すのは憤りゆえ。自分達が過酷な戦いをあえて受け入れ、同胞にも守るべき卑妖化した人間にも犠牲者を出す中、奔放に飛んで来てしまった彼女への。そんな彼女を留め、あるいは守ることが出来なかった己への。
 そこには文へ向けられた怒りは無い。しかし文こそ、忸怩たる思いを抱えていた。
(任されたのは、私だったのに……)
 この地に辿り着く前、彼女へ血を分けた者から託され、己はそれにしかと答えたのに。
 文はこれらの思惟を振り払い、しれっとした様で別の問いを投げかける。
「ああ、いえ。三尺坊様からの以心の術は届きましたでしょうか?」
「いや。それはお前にのみ向けられた物だったのではないかな」
「そうでしたか。報告に前後して、三尺坊様から一件、重大なお話がありましたので」
 御八葉に祀られて早々、秋葉三尺坊大権現は更なる重大事に打ち当たったようだと伝える。
「クーデターだと?! こんな時に如何な不埒者が!」
「落ち着いて下さい。以心の術の上では三尺坊様も落ち着いたご様子でしたし、わざわざ[誤解を恐れず言えば]などと注釈されていましたので、早合点は禁物かも知れません」
 落ち着いてみれば、戦いが終わって状況が終息するどころか、懸念事項は膨らむ一方。そもそも倒すべき一言主すら潜伏中なのだから。
 成果と言えば、彼のモノの企みと見られる結界破り、即ち[外の世界への侵攻]を挫いた事だけ。しかしこれも、今後の事の運びによっては秋葉衆を苦境に留め置く要素となる。
「それも帰ってからか。それと後は、河童の乱入だな。椛はどうした?」
「河童へ向けての指示を御山に仰がせました。河童衆の長老達への詰問では、あれも桜坊様のご指示だったそうで、河童達に厳しい沙汰が下される事は無いと思いますが――」
「大旦那様の、か。かねてより河童と懇意だったし、実際はどうかな。とまれあの方もどこまで事態を掌握していたのやら。それより、そうなると真噛殿の立場が心配だな……」
 同じ武蔵御岳を本拠地とする間柄だ。彼も場合によっては、秋葉衆と同じく無理難題を押し付けられる状況に追いやられかねない。
 天狗の抜け穴からの放逐など、今も大口真神の神格を保ち、外の世界に社を構える彼にとっては、刑罰にもならないであろうし。
「桜坊様への意趣返しに真噛殿へ遠回しの連座。あり得ますね」
 とてもではないが、彼の永遠の許婚者(はたて談)である椛の前で出来る話ではない。もっとも椛とてそれなりに聡いため、その程度の考えには既に及んでいるだろう。
 自分たちの手元に収まる限りの事態ならまだいいが、今思い浮かぶだけでも、幻想郷全体レベルに広がる物が含まれている。やはり幻想郷の管理者側、博麗の巫女や――
「ご苦労様でしたね。ゴシップ屋さん」
「新聞屋です。結界修復は終わったんですか?」
 話の区切りを見計らったのか、神出鬼没のスキマ妖怪、八雲紫が亜空より姿を現す。
 ――そう、管理者側である彼女の前で事態を詳らかにし、一定の判断を得るべきだろう。境界を操る事こそ彼女の本領、その境界を線引きさせるのだ。
「全然。けれど目処だけは立ったから、ひとまず式神達に任せてこうして出て来たんです。今のうちにしておきたい話もありますので」
 そう彼女は涼しい顔で言って片足からふわりと降り立つと、社務所兼住居の方へ足を向ける。勝手知ったるお社だ、己に付いて来いとでも言いたげな足取りで。
「善八郎様。それでは私は先に御山に」
「待て。便宜上ここに居る天狗はお前だけだ。それに今回の働きの奉行はお前だったろう。お前がおらねば話が通じん」
「では善八郎様が先にお戻りに?」
「いや、お前達の会合の成り行きを見てから発つ。俺は避難所へ帰らずには……顔も出さずには帰れないし、どのみち帰着は明日になるだろう」
 紫がどの程度の話し合いを想定しているのかは不明だが、先に妖怪の山に帰るのは己になるかと文は納得する。
 いつも居所不明の相手が用事のある時に出て来てくれたのだ。これまで灰色だった事象をハッキリさせるのにいい機会だと、二人は紫の後に続くのだった。

 博麗神社社務所の一室。霊夢が床に伏す畳の間では、実に様々な面々が居並んでいた。
 衣の代わりに上半身を真白な包帯で覆う一本角の鬼に、戦った跡は多くあれど深手は負っていないヤマメ。そして――妖力を遮断する瘴気のためか――先頃まで全くその存在を感知できなかった橋姫の姿もある。
 ヤマメはともかく、他は誰が招いたでもない。
 そして部屋の中央には、この社の主である霊夢と――
「なんで病人の寝てる所に、こんなにわんさと人……人? が、集まってんのよ……」
「お前抜きじゃ出来ない話をするんだと。我慢してゆっくり寝ててくれ」
 ――友人が五体満足であるのを心から喜ぶ魔理沙の姿もあった。
 仕組みは難解だが、引き渡したスペルの発動条件ごと霊夢を引き戻させた程だ。普通の人間の魔法使いなどとは称しているが、やはり博麗の巫女とこうして並び立つだけの並々ならぬ実力の持ち主。
 しかし何よりもそれ以上に、友人なのだろう。
「あーん? 決まった話だけ聞かせてよ。私は舐めてかかって、初っ端からしくじって、大蜘蛛の中で寝かされてただけ。何にも知らない、ただの被害者なんだから」
 魔理沙は霊夢を指差しつつ、ちょうど入室した紫に苦笑いを向ける。こいつはこう言ってるけどどうする、と言う代わりに。
「早く回復してもらわないと困るし、私も面倒はとっとと終わらせたいのに同感だけれど、居るだけでいいの。しばらくは我慢しててもらえるかしら」
「あーはいはい。これでも凄く、具合が悪いのよ。眠っちゃっても文句言わないでよ」
 卑妖と化し、一言主の配下とされるのに比べたら、具合が悪いで済むだけ幸いだろう。
「霊夢、無理して喋らなくていいぜ。息苦しいはずだろ?」
 魔理沙が諫めるのに、霊夢は咳をして答える。呼吸器へのダメージもだが、身体中に瘴気が回り、全身が酸欠症状を呈しているはず。普通なら意識を保っているのすら奇跡。
 卑妖化し、濃密な瘴気に曝された後に文の方術で難を逃れた天狗、井伊谷の井三郎も、命蓮寺の者に後送されるまで不調を訴え続けていた。やはり霊夢には加護があるのだろう。
(卑妖化させられなかったのは、結界を越えるためだったかも知れないけれど……)
 ただ博麗の巫女を除いても、紫が結界の修復に専念する間はそれを越えられなかったのか。故に一言主たちは、博麗の巫女のインチキ――結界破りの力を必要としたのかも知れない。単に形骸をすげ替えてしまえば、博麗霊夢は博麗の巫女ではない何かに堕ち、その力が失われていた恐れもあった。そのためだ。
 もしかしたら僧正坊の半卑妖化も、彼の智恵や神通力を戦力として用いようとする一言主の策だったのかもと考えられる。もっとも、その一言主自体に相応の知性があると思しき様子は今以て見えないが。
 そう考える文の目の前の霊夢は、床に伏す以外はいつも通りに見える。瘴気に曝されたのすら嘘のように。精々、感冒に罹って擱座している程度にしか。
 紫は霊夢が観念したのを認めてから、傷をさする勇儀に向き直る。
「全く、こういう時に面倒を増やしてくれるんですから。それも旧地獄の鬼の頭を勤める貴女が。そちらでは不干渉の約定をどれだけ軽視してくれてるんです?」
 文を含む地上の妖怪などはかつての異変で、地底調査にわざわざ人間を都合して派遣したというのに。(その人間、霊夢はともかく、魔理沙は欲に釣られた結果でもあったが)
「いや、どうにも腹に据えかねる話を聞いちまってね。居ても立っても居られなくなってすっ飛んで来たんだ。せめて奴を潰せれば掟破りもチャラにしてもらえるかも、なんて考えてたんだけどね……ホンットすまない!」
 結果として勇儀が出て来た意味は、旧地獄を不利にする以外に全く無い。斬られて倒れて、すんでをヤマメに救われたという、信じられない体たらくを晒しただけだった。
 彼女は自身の行いについては全面的に非を認め、あっさりと頭を下げると「あいててて」と声を漏らす。人間なら即死でもおかしくないし、妖怪であっても致命傷になりかねない程の傷を負っているのだ。霊夢と枕を並べていても当然という状況でこうしていられるのも、流石は鬼の四天王と言ったところか。
「功罪相殺、ね。で、腹に据えかねたお話とは?」
 閉じた扇子の先を向け、勇儀に面を上げるよう鷹揚に促しながら問う紫。それには橋姫、水橋パルスィが答える。勇儀の有様に大きく嘆息してから。
「誰かの“ありよう”を、形骸を、根元から歪めてきた者。やがて大蜘蛛となったモノ。私がそれを知っていた。それに思い当たって口に出しただけ、だったんだけど――」
 それをいつもの酒場の衆目の中で聞いた勇儀が、パルスィを連れて飛び出し、博麗神社で待ち伏せたのまでが、今ここに至るまでの流れ。
 一旦は先行して神社の防御に回ろうとしていたヤマメがこちらに留まらず、魔理沙と共に卑妖の捕縛を続けたのも、勇儀の存在をここに確認したからだった。
 ともかくパルスィには、かの大蜘蛛が己の知るモノと等しい存在だとの確信がある様子。
「それがあの葛城山一言主、と?」
「ええ。尤も、私が知る奴の最後の姿は、誰かにもたらすべき呪詛を己が被ってしまった、愚かなあやかしに過ぎないはず。だった……」
 かつては己こそ皇に並び立つ者と声高に叫んだ神格は、時を経た果てにただの憑き物としての存在にまで堕とされた。挙げ句には、なんの呵責か大蜘蛛という形骸まで携えて。
「神格、葛城山一言主と先の大蜘蛛の一言主、これらが同一。ただし別の時期に地位を変えて存在していたモノである。という認識を橋姫さんは持っているのかしら?」
 紫の問いに、パルスィは然りと頷く。
「段階を追って堕ちて行った“奴”の姿を、私は知っている。けれど最初に現れた大蜘蛛、そしてその皮を破って人型の奴が現れたのは、元に戻ろうとしているようにも見えたわ」
 蚕が絹の繭を纏い、やがては飛ぶことを忘れた翼を震わすように、ただのオカルトに堕ちていた一言主が、某かの術を以て大蜘蛛という蛹を成し、やがては一言主の神格をこの地に顕現させたのか。
「一言主。事代主(ことしろぬし)とも習合される、神託を下される古い神ね。オカルトとしての姿を持ってるなんて話こそ、むしろ初めて聞いたんだけど」
 寝ると宣言していた霊夢が口を開く。こういった事物への造詣はやはり巫女と言えよう。
「そうですか? 私が読んだ妖怪本には、一言主って『憑き物』の一種だって紹介されてましたけど。あっと霊夢、無事でよかった。はいこれお見舞い」
 幻想郷のもう一人の巫女が、異常しかないこの場で何事も無かったかのように身形を整え、果物の入ったバスケットを縁側に降ろす。ついでに、妖怪本と言っても妖怪を紹介した外の世界の本だ、との補足も添えて。
「早苗さん、なんでここに!」
「文さんも、ご苦労様です。いえ、さっきの文さんの念話を聞いた諏訪子様が、凄い剣幕で「すぐに行くぞ」とか言い出して、それを神奈子様が止めてる間に、ひとまず私だけでもこっちに出向けって話になって。ついでにお見舞いをしようと」
 仏教の発展も最も遅かったといわれる、本邦最後の独立王国、諏訪。その滅亡に一言主が関与していたとでも言うのか。直接攻め寄せたのは八坂神奈子その人であったはずだが。
「こちらも似たようなものだな」
「布都さんまで」
 更なる闖入者に文だけが嘆息する。天狗以外の者は頭数が多い方がいいと思っているようだが、事はそう簡単ではない。一言主という者を囲む思惑も様々だろうし、更には幻想郷においてどれだけ活躍するか、ひいては人気合戦再びと考えている者も多く在る。
 卑妖への対応という最も厄介な事態を静観してから押っ取り刀で赴いて、美味しい所だけ掠って行くつもりか、と言う気はひとまず無い。少なくとも彼女らには。
 布都などは始めからこの件に関わってもいる上に、パルスィと同様、赴くに相応の理由もあるらしい。また早苗には避難民の援助をして貰っていた手前もある。
「我は……素直に汚名挽回のために勇んで来たと言っておこう。ところで一言主か。建内宿禰(たけしうちのすくね)を祖とし、葛城山周辺、葛木上郡(かつらぎのかみのこおり)を本拠とした葛城氏。建内宿禰の男(むすこ)である葛城長江曾津毘古(かつらぎのながえのそつびこ)、即ち葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)から葛城氏は他の氏族を圧倒する勃興を見せた――」
 その襲津彦の神格こそが一言主であったと、布都は付け加える。
「若旦那さん。布都さんの言ってることは確かですか?」
 文の耳打ちに、善八郎は「分からない」と呟いてから、改めて以心の術で返す。
《記紀それぞれの記述に、恐らく独自の縁起まで入り混じっている。どのみち俺どころか三尺坊様すらお生まれになっていない上古の話だ。当時の者の言う事としてだけ聞こう》
 布都の言葉にパルスィが自身の話を繋げる。
 それは彼女のみならず、多くの旧きあやかしにもまつわる、一言主の所業だった。

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