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こちら秘封探偵事務所第1章 紅魔郷編   紅魔郷編 第4話

所属カテゴリー: こちら秘封探偵事務所第1章 紅魔郷編

公開日:2015年08月08日 / 最終更新日:2015年08月29日

紅魔郷編 第4話
小さな兵隊さんが七人、まき割りしたら
一人が自分を真っ二つに割って、残りは六人





―10―


 霧のせいか、はたまた不穏な空気のせいか。肌寒さを覚えて、私は小さく身を震わせた。
 ますます濃くなっていく赤い霧のせいで、ぼんやりと見えていた館の姿ももはや覚束ない。このままでは、この四阿に取り残されて、屋敷の庭で遭難しかねない勢いである。
 咲夜さんや美鈴さんは、どこへ行ってしまったのだろう――。私が視線を巡らせると、彼女はまた、例によってひどく唐突にその場に出現した。
「失礼いたします」
 霧の中から忽然と現れた咲夜さんは、その手にコートとストールを抱えていた。
「霧で気温が下がっておりますので、お召し物をお持ちしました」
 と、咲夜さんは私にストールを、蓮子にはトレンチコートを差し出す。ストールを肩にかけると、その温かさに思わず吐息が漏れた。蓮子はコートに袖を通した自分の姿を見下ろして、小さく肩を竦める。ワイシャツに赤いネクタイの蓮子がトレンチコートを羽織ると、その姿はまるで、あたかも――。
「私立探偵みたいね」
「いくらなんでも、あまりにステレオタイプすぎるわよ」
「よくお似合いですわ、宇佐見様」
 咲夜さんに笑ってそう言われ、蓮子は憮然と口を尖らせる。しかし、実際中性的な蓮子にはトレンチコートがよく似合う。私は思わず笑みを漏らした。
「電柱の影に隠れて煙草に火でも点ければいいのかしら」
 呆れ混じりに蓮子はそう言い、それからすっかり霧に隠れた館の方を振り仰ぐ。
「この霧は――」
「人間の身体に害はないはずですので、ご安心ください」
「やっぱりお嬢様の仕業ですね?」
 蓮子の問いに、咲夜さんはただ薄く微笑んで答えた。
「――ていうか、それってつまり蓮子のせいじゃないの?」
 私は思わず口を挟む。これだけ濃い霧が出ていては、たとえ夜が明けても、太陽の光は届かないかもしれない。レミリア嬢が本当に吸血鬼なら、この霧の目的はつまり、そういうことに違いないだろう。昼でも夜でも構わず外を出歩くため、陽光をこの霧で遮ったのだ。
「あらメリー、犯罪教唆みたいに言わないでよ。私はただ、弱点多き吸血鬼のお嬢様に、快適なライフスタイルを提案してみただけよ」
「自分の家を霧で包むだけならそれでもいいでしょうけど……」
 私は門の方を見やる。紅の霧に包まれてほとんど何も見えないが、この霧の本体は明らかに湖の方から漂ってきた霧だし、館の外まで霧に包まれてしまったら、色んな動植物が迷惑を被りそうな予感しかしないのだが。
「……大丈夫なんですか、こんなことして」
 思わず私がそう問うと、咲夜さんはただ小さく肩を竦めた。
「さて――怒られるかもしれませんが、その時はその時ですわ」
 それでいいのだろうか。というか、誰が怒りに来るのだろう。警察? いやいや、ここはやはり吸血鬼ハンターだろうか。吸血鬼を殺す吸血鬼とか。
「ところで、食後のお茶をお淹れしましょうか」
「あ、お願いします」
「かしこまりました」
 また一礼した咲夜さんは、予想通り何もないところからティーポットとカップを出現させ、紅茶を注いで私たちの前に差し出した。もう驚くにも値しないのだが、しかし――。
「……テレポーテーション、ですか?」
 私は、意を決してそう訊ねる。瞬間移動や、手元にないものをすぐ呼び寄せる、それは普通に考えれば、テレポーテーション能力だと考えるのが妥当だろう。
 だが、咲夜さんはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、惜しいですが違います」
「え? じゃあ――」
「時間操作能力、ですね?」
 そう口を挟んだのは、蓮子だった。私は目を見開き、咲夜さんは不敵な笑みを浮かべる。
「これはこれは――まさか見抜かれるとは思いませんでした」
 時間操作。その四文字の意味が、ようやく私の頭にも染み渡る。つまり――咲夜さんが今まで見せていた瞬間移動や、何もないところから物を取り出す手品は全て、時間を止めてその間に行動していた、というのか?
 フィクションでは非常によく見る類いの特殊能力だが、それを現実にやってみせられても、にわかには信じがたい。いや、それをこの館で言い出したらキリがないのだろうが。
「宇佐見様、おそれながら、どのあたりで見抜かれました?」
「料理にしろお茶にしろ、準備が早すぎますもの。テレポーテーションで省略できるのは移動時間のみ。肉を焼いたりお湯を沸かしたりする時間は省略できない。そうでしょう?」
「ごもっとも、でございますわ。では、ついでにもうひとつ手品を」
 と、次の瞬間、咲夜さんの手にリンゴがひとつ出現する。と思ったら、さらに次の瞬間にはリンゴは綺麗に皮を剥かれ、切り分けられてフォークとともにお皿に載せられていた。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
 優雅にお皿を差し出す咲夜さん。私たちの眼から見れば摩訶不思議な手品だが、停止した世界でわざわざリンゴを取りに行き、せっせと剥いて切り分けていたのだ――と考えると、なんだか微笑ましい気がして、私は思わず笑みを漏らしていた。
 しゃく、とリンゴを囓り、その酸味混じりの甘みに一息ついていると、蓮子が霧に煙る夜空を見上げ、小さく首を傾げている。
「どうしたの?」
「いや――まあ、大したことじゃないわ」
 帽子を被り直して、蓮子もリンゴを口に放り込む。この相棒の目に何が見えているのか、私にはいつも解りようもない。こうして相棒が妙に口ごもるときは、考えをまとめているときだ。何を考えているのか、そのうち教えてもらえるだろう。私はそう考えて、リンゴを食べるのに集中することにした。






―11―


 霧に包まれた四阿での夕食のあと、館に戻った私たちは、咲夜さんに客間へと案内された。
「部屋はおふたつにいたしますか?」
「いえ、メリーと一緒の部屋でお願いします」
 咲夜さんの問いに、私が口を挟む間もなく蓮子はそう答える。「かしこまりました」と歩き出す咲夜さんの後を追いながら、私は小声で蓮子に抗議した。
「ちょっと蓮子、勝手に決めないでよ」
「あらメリー、吸血鬼の館で独り寝する気だったの? 意外と度胸あるじゃない」
「――――」
「咲夜さんたちを信用しないわけじゃないけど、何かあったときのために、一緒の部屋の方が安心でしょう?」
 そう言われてしまえば、返す言葉はない。ため息をつきながら歩いていると、廊下の向こうからまた見覚えのない顔がいくつか現れた。咲夜さんよりもう少し野暮ったいメイド服に身を包んだ、幼い少女たちである。見た目は子供の小間使いさん――という風情なのだが、
「……羽根?」
 その子たちの背中には、透き通った羽根が生えている。今度はどんな妖怪だというのか。
「妖精メイドですわ。屋敷の雑用をしています。あまり役には立ちませんが」
「妖精ですか……何でもありですね」
「ここ、幻想郷はそういう世界ですので。人間と妖怪、神様に妖精。外の世界で忘れられたものたちが共存する世界――だ、そうですわ」
 咲夜さんに会釈してすれ違っていく妖精メイドさんたち。妖精といえば子供の目にしか見えないのが定番だけれども、この世界ではそういうこともないのか、それとも私たちが未だに子供っぽいのか。後者の可能性を否定しきれないのが辛いところである。
「ええと……咲夜さん」
「はい、ハーン様」
「結局、このお屋敷に住んでいるのは、お嬢様と咲夜さん、パチュリーさんと美鈴さん、小悪魔さんと妖精メイドさんたち……で、いいんでしょうか」
「――ええ、概ねそれで間違っておりませんわ」
 概ね? と疑問に思ったが、それを問う前に咲夜さんが足を止め、部屋のドアを開ける。蓮子と部屋の中に足を踏み入れ、私は思わず感嘆の声を漏らした。最初に案内された応接間にも劣らぬ、超高級ホテルのような豪奢な部屋である。大きなダブルベッド、座り心地の良さそうなソファー……己の語彙の貧弱さが恨めしい。窓がないため部屋全体が仄暗いが、そのために真紅の内装も落ち着いた色になっている。どう考えても貧乏大学生には縁の無い部屋だ。こんな部屋なら、何日でも滞在してもいいかもしれない。
「メリー、ふかふかよこのベッド」
「蓮子、はしたないわよ」
 ベッドに子供のようにダイブして、ぼふん、と跳ねる蓮子。恥ずかしいのでやめてほしいが、咲夜さんは顔色ひとつ変えず「コートをお預かりいたしますわ」と蓮子からトレンチコートを脱がせ、部屋の隅のドレッサーに仕舞う。
「シャワーはそちらです。着替えはドレッサーにあるものをご自由にお使いください。何かありましたら、そちらのベルを鳴らしていただければ参ります。何なりとお申し付けを。では、ごゆっくりおくつろぎくださいませ」
 そう言い残して、咲夜さんは去って行く。私はソファーに腰を沈めて、小さく息を吐き出した。ベッドに寝転がる蓮子は、「ん~~~っ」と呻くような声をあげる。
「あー、気持ちいい……」
「自分の部屋みたいにまったりしないでよ。これからどうするの?」
「どうもこうも、ねえ。パチュリーさんに結界の外に出してもらえるか相談するにしても、せっかくだから今晩ぐらいはゆっくりしていかない? 気になることもあるし」
「気になることって? 物理屋的にはやっぱり咲夜さんの能力とか?」
「まあ、いろいろとね」
「実際、時間操作能力なんて物理的に成立するの?」
「さて、タイムマシンは人類の見果てぬ夢だけれど。この世界の物理法則が私たちの世界と同一とは限らない以上、客観的に観測された現象から分析し類推・検討するしかないわ。こんな世界で科学世紀の常識に凝り固まっても仕方ないし。現状の理論で説明つかないものを切り捨てるのではなく、再現性を求め研究し、客観的に観測されればそれを組み込む新たな理論を考え出すのが真に科学的な態度というものよ」
 帽子をくるくると回しながら楽しげに言う蓮子に、私はため息。
「そのためには、この世界そのものも、どんな世界なのか、もっと見て回りたいし――個人的には夏休みの間、ここで過ごしてもいいぐらいの気分だけど」
「呑気ねえ。ご両親とか心配してるわよ、きっと。私たち、急にいなくなったわけだから」
「そこはそれ、連絡が取れるわけでもないんだから、諦めるしかないじゃない? ま、いろいろ見て回ってるうちに、メリーの目が帰り道を見つけてくれる気もするしね」
「頼られても困るわ」
 私は目元に手を当てる。そういえば、この世界に迷い込んで以来、結界の裂け目を視ていない。ただ――。
「結界といえば、ね。蓮子」
「うん?」
「この館全体に、どうも何か強い結界が張られている感じがするのよ」
 私の言葉に、蓮子が身を起こした。
「どういうこと?」
「それは解らないけど。――私の眼に映る結界の裂け目って、要するに結界同士の相互干渉による破れ目、っていう説明は前にしたわよね? 世界には薄い薄い、意識しても気付かないような透明なヴェールがかかっていて、他の結界とそれがぶつかりあった結果ほつれた箇所が、私の眼には裂け目として映る。そこを覗きこむと、そこから繋がった違う世界が視える」
「で、メリーが私の眼に触れてくれれば、私もそのビジョンを共有できる、と」
「そうね。――で、なかなか気付かなかったんだけど、よく考えてみるとこの館の中、その裂け目が全然視えないのよ。建物自体がもともと一種の結界なんだから、この世界の結界とぶつかり合ってどこか緩んでいても良さそうなのに、全く緩みがない。それはこの世界全体の結界がよほど強固なのか、あるいは――この館自体が完全に強固な結界で覆われているか」
 私は、あの夕餉の庭を思い出す。館を囲む高い塀。あれも一種の結界だ。家というものは本質的に、他者を排斥する閉鎖領域としての意味を持つ。しかし同時に人が頻繁に出入りする場所でもあるから、その結界は高い柔軟性をもつ。故に、人が住んでいる家というものはまず結界は他の結界と軋轢を生じることもなく、安定しているものなのだ。
 だが、その結界も例外的に不安定になる箇所がある。――出入口だ。
「この館の敷地をひとつの結界だと見なしたとき、それが一番不安定な箇所はどこかしら?」
「――門、ね?」
「正解」
 そう、どんな領域も、その出入口は結界が緩まざるを得ない。世界の結界が揺らぐのは、大抵はそういう場所だ。特に異界に通じやすいのは、やはり神社の鳥居だろう。トンネルや森が異界に通じているというのも、つまりそこが外から入っていく場所だからだ。
 だから、どんなに強固な結界が張られていても、出入口は必ず結界が揺らいでいる。結界の裂け目を関知する私の眼は、その結界の、裂け目に至らない程度の揺らぎもおぼろげに感じることができる。結界が薄くなっているところは、なんとなく感覚的にわかるのだ。
 この館なら、美鈴さんが守っているという門がそれにあたるはずだ。館の出入口。紅魔館という結界の緩む場所。――そのはずなのに。
「庭から見た限り、門のあたりまで、結界は揺るぎもしていなかったわ」
「つまり、この館は完全に閉ざされている、ってことかしら?」
「そうね――そうとも言っていいと思う。まるで何かを怖れて閉じこもっているみたい……」
「でも、そのわりには霧で太陽を隠そうとしたり、お嬢様はアグレッシブだけど」
「ただの印象だから、あんまり当てにされても困るわ」
 私が口を尖らせると、「いやいや」と蓮子は猫のような笑みを浮かべて私を見つめる。
「なかなか興味深い見解だったわ。この館には、まだまだ色々と隠れた秘密がありそうね。たとえば――咲夜さんがさっき隠した、もうひとりの住人とか」
 不意に思わぬ言葉が蓮子の口から漏れ、私は目を見開く。
「もうひとりの住人?」
「咲夜さん、さっきメリーに館の住人について聞かれて、概ねそれで合ってるって言ってたでしょ。あれは、大っぴらには口にしづらい住人がいるってことだわ」
「ああ――」
 なるほど、確かに咲夜さんのあの言い方は私も引っかかっていたのだ。
 レミリアお嬢様、咲夜さん、パチュリーさん、美鈴さん、小悪魔さん、妖精メイドたち。それ以外にも、客人には見せたくない住人がいるのは、そう不思議なことではないだろう。
「正確には、少なくとももうひとり、ね。いや、一匹と言うべきなのかしら」
「一匹?」
「たぶん、咲夜さんが隠した住人は――吸血鬼よ」
 相棒の言葉に、私は眉を寄せる。
「この館の吸血鬼が、あのお嬢様だけじゃないっていうの?」
「パチュリーさんが、最初に咲夜さんを呼び出したとき、こう言っていたのよ。『レミィのパイにでもするか、妹様の遊び相手でもさせるか』――ってね」
 そういえば、パイ云々の衝撃が強すぎて後半を聞き流していたが、確かにそんなことを言っていた気がする。……しかし、妹様?
「パチュリーさんは、レミリア嬢のことを《レミィ》って呼んでたけれど――この館に彼女が他に様付けで呼ぶような相手はいなさそうだから、お嬢様の妹さんなんでしょうね」
「……あのお嬢様の妹さん、ね。案外素直な良い子だったりして」
「だといいけど……お嬢様のためのパイにするか、妹様の遊び相手にするか、ってのが同列に語られてるのが、蓮子さんとしては気になるところね」
「…………」
 ええと、それはつまり。
「吸血鬼の遊び相手って、人間に務まるかしら」
「……想像したくないから、やめて頂戴、蓮子」
 子供が人形を投げつけて壊してしまうかのように、人間を投げつけて壊してしまう少女の姿が浮かんで、背筋に嫌な汗が流れた。
 ――その想像が、さほど外れていなかったことを知るのは、この少しあとのことである。






―12―


 落ち着いてしまうと、急に手持ちぶさたになった。蓮子と普段のような益体もない雑談をする気分でもないが、かといって現状について話し合う種もまださほど多くない。当の蓮子はベッドに寝転がり、帽子を顔に被せて、何事か思索にふけっているようだ。いや、あるいは単に寝てしまっているのかもしれないけれど。
 普段なら、することがないときは本を開くのだが、東京旅行に持って来た本は、蓮子の実家に置いてきてしまった。この客間には残念ながら、本棚がないのである。
 咲夜さんが呼び出し用と言っていたベルを手に取る。ごく普通のベルにしか見えない。これで、館のどこかにいる咲夜さんに聞こえるのだろうか? 疑問に思いながら、そのベルをちりんちりんと鳴らしてみる――と。
「お呼びでしょうか」
 次の瞬間には、咲夜さんが部屋の中に出現していた。心臓に悪いから止めてほしい。
「あ、あの――本を、取りに行きたいんですが」
「図書館にでしょうか?」
「いえ、あの……最初に通された、あの応接間に、クリスティーの『そして誰もいなくなった』の原書があったんですが、それを」
「かしこまりました。お持ちいたします」
 咲夜さんは一礼し――次の瞬間、彼女の手には緑色のハードカバーがあった。
「こちらでよろしいでしょうか」
「あ、ありがとうございます」
 本を受け取ると、「では」と咲夜さんは今度は見えるようにドアから出て行く。私が本を手にソファーに腰を下ろすと、蓮子がむくりと起き上がった。
「あら、さっきのクリスティー、取ってきてもらったの?」
「うん。することないし、原書で読んでみようかなあって」
「こんなフィクショナルな状況で、わざわざさらにフィクションの世界に行くこともないんじゃない? することだっていくらでもあるわよ、館の探検とか」
「ここが私にとって現実である以上、私はなるべく平常通り、平穏に過ごしたいの」
「全く、引きこもり気質なんだから、メリーってば」
「悪ぅございました」
 蓮子を無視して、私は本のページを開く。五年以上前に一度日本語で読んだきりなので、犯人は覚えているが細部の記憶は怪しい。犯人の心理描写を、クリスティはいったいどういう風に叙述していたんだっけ――そんなことを思いながら、私は英文を目で追い始める。
 ……のだが。
「――――」
 うろうろと、蓮子が私の座るソファーの周囲を、落ち着きなく歩き回り始める。気にせず読み進めようとするが、視界の端に引っかかる蓮子の姿が、英文への私の集中力を削いでいく。
 ああもう。私は本を閉じて顔を上げ、蓮子を軽く睨んだ。
「ちょっと蓮子、少し落ち着いたら?」
「メリーが落ち着きすぎなのよ。頭脳労働が一段落した今、宇佐見蓮子さんのこの頭脳はあらゆる事象への好奇心ではちきれんばかりよ。世界の秘密を暴く秘封倶楽部ともあろうものが、吸血鬼の館てじっと穏やかな夜を過ごしていいものかしら!」
「好奇心は猫を殺すわよ、蓮子」
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、よ」
 ああ言えばこう言う。こうなったときの蓮子は止めようがないのは、経験上痛いほど理解している。こんな状況で、蓮子が長時間じっとしてなどいられないことも。
 クローゼットからコートを取りだし、ばさりと蓮子は羽織る。どうやらトレンチコートの探偵スタイルが気に入ったらしい。建物の中でコートを着て歩くのはどうかと思うが。
「危なくなったら、蓮子を見捨てて逃げるからね」
「あらひどい。秘封倶楽部はふたりでひとつ、私たちの運命は一蓮托生よ、メリー?」
「勝手に巻き込んでおいて一蓮托生にされたらたまらないわ」
 そんなことを言い合いつつも、結局私は蓮子のペースに巻き込まれ、連れ回されるのである。秘封倶楽部のいつもの展開は、別の世界にやって来たぐらいでは変わりようもないのだった。

 そんなわけで、客間を抜け出した私たちは、足音を忍ばせながら館の廊下を歩いていた。
「さっき庭に出たときの外観と、図書館からお嬢様の広間までの上り下りの回数からして、館は全体としては三階建て。お嬢様のいた広間が館の中央、時計台の斜め下に見えていたベランダ部分のところでしょうね。最初に通された応接間は一階、入口から向かって左手。私たちにあてがわれたあの客間は、その上の二階」
「……ええと、館を上から見下ろせば、アルファベットのIを横倒しにした感じかしら?」
「正確にはEに近いと思うわ。図書館の天井がたぶん地上に突き出ているはずだから」
 なるほど。確かにあの図書館の天井の高さは、地下一階のものではなかった。館の一階に上がるために上った階段の高さより、どう考えても天井の方が高い。
 館を見下ろした形は、漢字の山の字、と言った方が適切か。私たちがいるのは、その横棒の左半分あたりのはずである。真ん中の縦棒部分が地下図書館の天井だとすれば、実質的にはやはり、この館はアルファベットのIか、カタカナのコの字を横にした格好なわけだ。
「それにしても、住人の数のわりに広すぎないかしら、この館」
 私がそう呟くと、蓮子は建物の中だというのにわざわざ被った帽子の庇を弄りながら、「そう、広すぎるのよね、館も図書館も……」と独り言のように呟いた。
「図書館もやたらと広かったわね、そういえば」
 そんなことを言いながら、代わり映えのしない廊下を歩くうちに、ふっと違和感に囚われる。まるで同じところで延々足踏みしているかのように、歩いても歩いても廊下が終わらないような、そんな錯覚――。
 私は思わず背後を振り返る。薄闇に沈む背後の廊下が、どこまでも果てしなく続いているかのように見えて、不意にぞっと背筋が寒くなった。――何か、おかしい?
「……蓮子」
「メリー、今頃気付いたの? そうよ、この館の広さは明らかに不自然だわ。外に出たときに見た外見より、明らかに廊下が長すぎるし、図書館も広すぎる」
「どういうこと?」
「さて、吸血鬼の館だから、誰かに幻覚を見せられてる可能性もなきにしもあらずだけど――」
 そういえば、図書館でも咲夜さんと一緒だとすぐに出口に辿り着いたっけ。侵入者を迷わせる仕掛けが館に為されているのかもしれない。私が視た結界もそれなのだろうか?
「パチュリーさんの魔法か、それともお嬢様の特殊な能力か、はたまた咲夜さんの仕業か。何にしても、館の中が見かけより拡張されているのは確かだと思うわ」
「咲夜さん? 時間を操る能力で、どうやって館を広げるの?」
「時間と空間は不可分なのよ、メリー。文系のメリーにもわかりやすいようにかみ砕いて説明すれば――そうね、空間には必然的に距離という概念が付随するでしょう? 幅、奥行き、高さ。三次元空間はその三つの距離から為る。そして、距離と時間は決して切り離せない。距離の移動に時間を要するからこそ、距離という概念が成立するのよ」
「……言いたいことはなんとなくわかるけど」
「でも、時間を止められる咲夜さんには、距離という概念が見かけ上存在しない。だから彼女の行動はテレポーテーションに見える」
 ああ、それなら理解できる。A地点で咲夜さんが時間を止め、B地点まで移動して時間停止を解除した場合、他者からの見た目の上では、咲夜さんにとってAからBまでの距離は存在しないのと同じことだ。
「つまり、時間に干渉するっていうことは距離、すなわち空間に干渉するっていうことになるわけ。咲夜さんが時間を止めるだけじゃなく、圧縮したり拡張したりもできるなら、同様に空間を圧縮したり拡張したりもできる、という理屈になるわ」
「……でも、そんな大勢が暮らしているわけでもない館を広げる意味なんてあるのかしら」
「さあ、それは咲夜さんに聞いてみないことにはなんとも、ね」
 そんなことを言いながら、蓮子は不意に足を止める。そこにはいつの間にか階段が出現していた。上へ向かうか、下へ向かうか。蓮子はひとつ首を傾げ、下へ降りる階段に向かう。
「下に行くの? 外に出る気?」
「さて。――人目に触れさせたくない存在を閉じ込める場所は、地下か塔の二択よね。時計台はお嬢様の広間に近付かないと行けなさそうだから、とりあえずは地下が狙い目かしら」
 蓮子の言葉の意味を、私は一瞬掴みかね――そして、思い切り眉を寄せる。
「ちょっと、まさか蓮子――」
「まだ会ってないもうひとりの住人にも、ご挨拶しなきゃ、礼を失するというものでしょ?」
 ――この相棒、どうやら本気で〝妹様〟とやらを探す気らしい。
「蓮子。お嬢様みたいに話の通じる相手だって保証、どこにもないのよ?」
「ヤバそうだったらすぐ逃げるわよ」
「人間が吸血鬼から逃げ切れると思うの?」
「まあ、そもそも客人がそう簡単に見つけられる場所には隠してないでしょうけど――」
 と、踊り場で折り返そうとしたところで――。
 ずん、と館全体が大きく揺れた。
「地震!?」
 咄嗟に私たちは踊り場に身を伏せる。だが、揺れはその一瞬だけで、再びその場に静寂が戻って来る。おそるおそる顔を上げ、私たちは同時に息を吐いた。何だったのだろう、今のは。
「地震、じゃなさそうね――」
「下から突き上げるみたいな衝撃だったわね。やっぱり地下に何かいるんじゃないかしら?」
 蓮子は目を輝かせる。いやちょっと待て、本当に地下に何かいるにしても、館全体を揺らすような存在ならば、身の危険を覚えて逃げ帰る方が自然だろう。私は帰りたい。
「これはますますもって地下に行ってみなきゃ。ねえメリー」
「蓮子――むが」
 私が止めようと口を開きかけたところで、急に蓮子の手が私の口を塞ぐ。「しっ」と息をひそめ、踊り場の手すりに身を隠しながら、蓮子は階段の下を伺った。
「……むぐ。なに、蓮子」
「――美鈴さんが今、慌てた様子で歩いていったわ」
「美鈴さんが?」
「さて、行き先は門か、図書館か、お嬢様のところしら? それとも――」
 先ほどの揺れの発生源――隠された〝妹様〟のところか。
「追うわよ、メリー」
「――小さな兵隊さんみたいに、ハチの巣をいたずらして死なないといいけど」
 つい小脇に抱えて持ってきてしまった『そして誰もいなくなった』に引用されている、マザーグースの一節を不意に思い出して、私はそう呟いた。
 いざとなったら、このハードカバーが、せめて盾にでもなってくれればいいのだけれど。
 あまりに心許ない盾だったが、自分の身を守る術は、それぐらいしか思いつかなかった。

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この小説へのコメント

  1. 霧を出した理由があっさりで肩透かし。……と思ったけど、まだなにか隠された理由があるのかなー

  2. しっかりと自分の置かれている場所の特性を考えて「メリーと一緒の部屋でお願いします」と瞬時に答えられる蓮子さんさすがです。

    次はいよいよ妹様とご対面でしょうか?二人の安否が心配です

  3. 次回は妹様の話になりそうですね。もしかして、引きこもり状態を解決してしまうのも蓮子たちだったりして……。楽しみです!

  4. 蓮子が魔理沙みたいなたいぷじゃないと危険行為すぎるw
    次も楽しみにしてます!

  5. 次回フラン回ですかヤッター!!
    それにしても二人とも頭の回転速いなwww

  6. 秘封の二人は旅は道連れ世は情けって感じに見えます。次回の展開に期待。

  7. 咲夜さんの能力をローレンツブースト的に解釈した所が面白かったです。
    蓮子の頭の回転の早さにも中々驚かされていますけれども。
    そろそろこの章も全貌が見えてきそうですね、楽しみに待っております。

  8. そういえば紅魔郷EXでフランちゃんがなぜ結界を解いて出られたか気になりますね。

  9. 吸血鬼を殺す神父を忘れてますよメリーさん
    それにしてもホント面白いなこれ。最高ですわ

  10. 世界の秘密を暴く秘封倶楽部ともあろうものが、吸血鬼の館て→館で かと

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