小さな兵隊さんが十人、ご飯を食べにいったら
一人がのどをつまらせて、残りは九人
―1―
――全ての始まりは、彼女の大叔母についての話だった。
「すみれこ、さん?」
「そう、宇佐見菫子。私から見れば大叔母さん――お祖父ちゃんの妹さんなんだけどね」
酉京都駅を発車したヒロシゲ36号は、卯東京駅へ向けての53分の旅の中にあった。今日のカレイドスクリーンは地方のローカル線仕様らしく、のどかな田園風景をゆっくり走る鈍行列車気分の映像がスクリーンに流れている。所詮はそれも作り物なのだけれども。
その車内で、私――マエリベリー・ハーンは、我が相棒、宇佐見蓮子と顔を突き合わせている。スナック菓子をつまみながら、相棒はカレイドスクリーンの作り物の自然風景には目もくれず、私の顔を覗きこむようにして話を続ける。
「私も、最近までそんな人が存在したこと自体、知らなかったんだけど――」
と、声を潜めて、相棒は耳打ちするように私へと顔を近づけた。
「彼女は、不思議な力を持っていたらしいの」
「夜空を見て時間を呟くような?」
「全然、その程度じゃなくて。――有り体に言えば、サイキック。超能力者だったらしいのよ」
「はあ」
今更、この相棒が何を言い出しても驚かないつもりではいたけれど――遠縁の親戚が超能力者だったというのは、いささか陳腐な話ではないだろうか。蓮子が存在自体知らなかったような大叔母というからには、おそらく既に亡くなっているのだろうし。
私が露骨に半信半疑の顔をしているのに気付いたか、蓮子は軽く頬を膨らませる。
「ちょっとメリー、信じてないわね?」
「そりゃ、いきなりサイキックなんて言われてもね。その大叔母さんの生まれた頃なら、たぶん西澤保彦や宮部みゆきが超能力ミステリ書いてた頃だからいいでしょうけど、今じゃ手垢がつきすぎじゃない?」
「いやまあ、私もこの目で見たわけじゃないし、お祖父ちゃんの単なる妄想か誤解だった可能性は否定できないんだけど。でも菫子さんって大叔母さんがいたのは戸籍調べて確かめたから間違いないわ」
「で、その人が持っていたかもしれない不思議な力を調べるのが、今回の東京行きの目的っていうわけ?」
「端的に言えば、そういうことね」
私は小さく嘆息する。伝聞情報だけを頼りに、夏休み早々、ヒロシゲに乗せられて東京くんだりまで行く羽目になるとは、全く《秘封倶楽部》も楽じゃない。
まあでも――と、目の前の相棒の楽しそうな顔に、私は頬杖をつきながら小さく笑みを漏らす。こうやって蓮子に振り回されるのを、本気で嫌だと思っているなら、こんな風にわざわざ東京行きまで付き合ったりはしないのだ。蓮子にはそんなことは言ってあげないけれど。
――秘封倶楽部。それは私とこの相棒、宇佐見蓮子が所属するオカルトサークルの名である。サークルと言っても会員は私と蓮子の2名。そもそも相棒が、私と一緒に禁じられた結界暴きに耽る口実として名乗りだしたものでしかなく、無論のこと大学非公認、まともな霊能活動などしていない不良サークルである。
大学入学直後、ひょんなことから私はこの相棒と知り合い、お互いの眼の持つ奇妙な能力を知った。そのへんの話は長くなるのでここでは語らないが――世界の裂け目、彼岸と此岸の境界を視る私の眼に相棒はいたく興味を示し、その相棒に引きずられて、私たちは日々、境界の向こう側にある不思議な世界を追い求める遊惰な大学生活を送っていた。
今回の東京旅行も、そんなサークル活動の一環――の、はずだった。
さて、そもそもの発端は、2週間前、相棒が祖父危篤の報を受け帰郷したことであった。
東京出身の蓮子は、実家の両親や親類が皆東京に住んでいる。ヒロシゲに乗って飛んで帰った相棒は、祖父の死に目になんとか間に合い、葬儀と遺品の整理を手伝ってから京都へ戻ってきた。そうして私の元にやってくると開口一番、こう言い放ったのである。
『メリー! 夏休みに入ったら東京に行くわよ!』
かくして詳しい事情も知らされぬまま、学期末の試験とレポートを片付けた私たちは、ほとんどその足でヒロシゲに飛び乗り、東京を目指している。
私は東京に行くのは、昨年蓮子のお彼岸の帰省についていって、蓮子のご家族に挨拶して以来2回目である。ろくすっぽ準備もせずの東京行きなので、盛り上がりに欠けること甚だしい。
そんな私のテンションの低さを察してか、蓮子は大仰に肩を竦めてみせた。
「メリー、私がその程度の情報だけでメリーをわざわざ東京まで引っ張り出すと思う?」
「それ以下の情報で既に色んなところに連れ回された前科があるんですけど」
「今回は別よ。この件は、私たちにも無関係じゃないんだから」
私は眉を寄せる。生まれてこの方、東京に行ったのは去年一度きりの私が、生きているとしても御年70か80かの蓮子の大叔母さんとどんな関係があるというのか。
「というのはね――」
わざとらしく声を潜めて、蓮子は傍らのバッグからモバイルと、もうひとつ小さな何かを取りだした。なんと遥か昔の記録媒体、その名もUSBメモリである。存在は知っていたが、実物は初めて見たかもしれない。
「USBメモリ? そんなの読み込めるの?」
「専用のコンバータがちゃんとあるのよ」
相棒がモバイルに接続したコンバーターに、USBメモリを差し込む。モバイルの画面を覗きこむと、何かのファイルが確認できた。どうやら原始的な文書ドキュメントであるらしい。
「お祖父さんの遺品?」
「そゆこと。お祖父ちゃんが若い頃、ウェブに書いてた日記やら何やらは、とうの昔に電子の海に消え去ってるんだけど――そういった不特定多数の目に触れない、ごく私的なメモ書きのようなものが、USBに保存されて実家の机の奧で埃を被ってたわけ」
蓮子がファイルを開くと、文書が表示される。
「まあ、全部読んでたら東京に着いちゃうから、かいつまんで説明するけど。――大叔母さん、菫子さんが妙な力を持っていることを知っていたのは、どうもお祖父ちゃんだけだったみたい。当の菫子さんが幼い頃から巧妙に隠してたから、決定的な確証はなかったらしいんだけど、思い当たることはいくつもあったみたいね。ものを触れずに動かしたり、瞬間移動としか思えない現れ方をしたり、ババ抜きや神経衰弱では明らかに手加減されないと勝てなかったり」
「サイコキネシスにテレポーテーションにESP? それちょっと盛りすぎじゃない?」
「お祖父ちゃんの言ってることだから、とりあえずそういうものとして受け取って頂戴。ま、ともかくお祖父ちゃんは、どうも妹は特殊な力を持った人間らしい、ということに薄々勘づいていたから、菫子さんのことを気に掛けていたようなの。当の菫子さんは、まあなんていうか、そういう自分の才能に溺れて、天上天下唯我独尊みたいな性格になって、全然友達もいなかったらしくて。妹がまともに社会生活を送れるようになるのか、を心配してたみたい」
「微妙に耳が痛いわ」
「私も。ともかく、お祖父ちゃんの心配を余所に、菫子さんは高校に進学すると家を出て、独り暮らしを始めちゃったから、お祖父ちゃんも高校で菫子さんがどんな風に過ごしていたのかは詳しく知らなかったらしいんだけど――」
と、蓮子はテキストをスクロールして、一箇所で止める。
「ある日、お祖父ちゃんたち家族の元に、菫子さんの学校から連絡が入ったの。もう3日も学校を無断欠席しているって。慌てて家族が菫子さんのアパートに駆けつけると――そこには、懇々と眠り続ける菫子さんの姿があった。それ以前から、菫子さんは遅刻や授業中の居眠りが目立つようになっていたらしいんだけど――その日、家族が駆けつけて叩き起こすまで、彼女は丸3日、眠り続けていたらしいの」
私は思わず目を細める。それはいくらなんでも、尋常の事態ではない。
「叩き起こされた菫子さんは、ひどく支離滅裂なことを口走って、また眠りに落ちた。栄養失調になりかけてたこともあって、菫子さんはそのまま病院に担ぎ込まれたんだけど……そのまま、1日の大半をベッドで点滴を受けながら眠って過ごし、日に数時間目を覚ましている間は意味のよくわからない話をするようになった。身体的には何の異常もなく、医者もほとんど匙を投げたそうよ」
「……それで、どうなったの?」
「たぶん、メリーの想像してる通りよ。――そうしているうちに、菫子さんはとうとう目を覚まさなくなった。意識だけがこちらの世界に戻ってくることを拒否しているみたいに、夢の中の世界に閉じこもってしまったの」
――不意に、ヒロシゲ車内の温度がすっと下がったような錯覚を、私はおぼえた。
思わず自分の目を覆い、私は小さく呻く。――まさか、そんなことがあり得るのか?
私の、この目。この世の境界を視てしまう、奇妙な目。こんな目を持っているせいか、私はよく、夢の中で不思議な世界に迷い込む。相対性精神学的に言えば、夢の中にいるとき、私の主観においてはそれこそが現実だ。だから、夢の中で自分が死んでしまえば、現実の自分も同時に死んでしまう。今ヒロシゲの車内にいる私こそが夢であるかもしれない以上、その境界は私の主観においては定めようがない。
宇佐見菫子さんは70年は昔の人間だ。まだ相対性精神学が学問としても確立していなかったような、霊的研究と精神学の未発達だった時代。しかしその頃においても、現代における相対性精神学的世界認識を、彼女が持っていたとしたら――。
彼女の夢と現実は、入れ替わってしまったのか?
「菫子さんは――じゃあ、まだ、生きているの?」
私の問いに、しかし蓮子は首を横に振る。
「そのまま、20年間目を覚ますことなく眠り続け、静かに亡くなったそうよ」
「――――」
何と言ったらいいのか解らず、私は押し黙る。
確かにそれは、妙な夢をよく視る私にとっては、他人事ではない話だ。夢の中で奇妙な生物に襲われたり、不思議な館に迷い込んだり――そんな体験を何度もしているけれど、一歩間違えば私も、宇佐見菫子さんのようになっていたのかもしれない。
「じゃあ、亡くなられたのは50年ぐらい前?」
「そうなるわね。――さて、本題はここから。この前お祖父ちゃんが亡くなって、遺品を整理してたんだけど。お祖父ちゃん家はいわゆる旧家でね。何度も改築してるけど、家自体は築80年ぐらいの歴史があるのよ。そして、お祖父ちゃんのご両親は物持ちのいい人たちだった」
「……ということは、じゃあまさか」
「そう。菫子さんが昏睡に陥ってから、家族はいつ目を覚ましてもいいようにしていたんだけれど、結局そのまま彼女は亡くなってしまって。菫子さんの部屋を、今更片付ける気にもなれなかったらしくて、そのまま封印しちゃったの。私も小さい頃に覚えがあるわ。お祖父ちゃんの家の開かずの間。その中には、彼女の遺品が、当時のまま、結構な量、残ってるらしいのよ。半世紀以上も放置されて、ね」
「――――それは、すごいことね」
私は、そう答えるしかなかった。50年――私たちが生まれる遥か以前に亡くなった人の生活空間が、当時のまま保存されているとすれば、その空間は完全に時間の流れから隔絶されて存在している。それ自体がある意味で、境界の向こう側のようではないか。
「というわけで、菫子さんの遺品を調べるのが、今回の東京行きの目的よ。なぜ彼女は目を覚ますことを拒絶して、夢の中で生きることを選んだのか。彼女の持っていたという超能力は本物だったのか。そして――彼女の身に何があったのか。半世紀以上も封じられていた秘密を探り出す、まさしく秘封倶楽部に相応しい調査だと思わない?」
にっ、と猫のような笑みを浮かべる相棒に、私は曖昧に頷く。
半世紀も前に亡くなった人について調べることを、不謹慎だ、などと言うつもりはない。私たちに――特に私自身にとって、他人事でないのも解る。70年前に、宇佐見菫子さんに何があったのか。夢と現実の境界を、彼女は踏み越えてしまったのか――。
だがしかし、他人事でなさすぎるのが、私の気を重くする。嫌な予感がする、と言い換えてもいい。何か、触れてはいけないものに触れてしまうのではないか。開けてはならないパンドラの箱に、蓮子は無警戒に手を伸ばそうとしているのではないか?
「……ご家族の許可は取ってるのよね?」
「もちろん、そのあたりはぬかりありませんわ。メリーが来ることも伝えてあるから、卯東京駅に着いたらそのままお祖父ちゃんの家に直行ね」
こうしていつも私は、この相棒に手を引かれてあちこち振り回されることになるわけで。
それは全くいつも通りの秘封倶楽部の形だったのだけれど――そのとき私は、今までにない漠然とした不安のような何かを、そこに感じ取っていた。言語化のしようのないそれを、相棒に伝えることはできなかったのだけれど。
――結果から言えば、私の懸念はものの見事に的中していた。
もちろん、この時点でそんなことは、私には知りようもなかったのであるが。
―2―
魔都・東京の下町に、宇佐見家の古い一軒家はひっそりと佇んでいた。
蓮子のお祖母さんに挨拶を済ませてから、軋む板張りの階段を上る。2階の廊下の突き当たりに、そこだけがひどく薄暗く沈むような木目の扉。――私は小さく息を飲んだ。
視界がゆらゆらと蜃気楼のように揺れる。微かな頭痛。これは――明らかに。
「どう、メリー。ここからでも何か視える?」
「……具体的にどうこう、じゃないけど……結界が不安定になっている気配が、はっきりと感じ取れるわ。何か――何かが、磁場を歪ませてるみたいに……」
それはおそらく、結界同士の干渉によるものではないか。この世界にはありとあらゆる場所に異界への霊的結界が存在するが、それとは別に、人為的に作り上げられる結界がある。神社の注連縄がそうだし、領土、私有地という概念も一種の結界だ。そもそも、家、部屋というものもまた他者を排斥する結界として機能する。
本来、そうした人為的な結界というのはごく弱いものだ。だが、神社や山林のような霊場の結界などは強固で、そのぶんだけ元からこの世界にある結界とぶつかり合い、歪みを生じさせる。私の目が境界の裂け目を視るのはいつも神社仏閣関係だと指摘したのは蓮子だが、つまりそれは結界同士の軋轢によって境界が生じるからなのだ。
ひるがえって、この部屋である。半世紀も封じられていた開かずの間。そんなところには、霊場ではない人為的な結界としては考え得る限り最高クラスの結界が自然発生していると考えていい。そんな結界が、元から世界にある結界と反発しないはずがない。
私としては、このまま回れ右をして引き返したいぐらいだった。本能が危険を告げている。この部屋はまずい。どう考えても結界が緩んでいる。ここではないどこかへ、ふとした瞬間に完全に道がついてしまいかねない――そんな圧倒的な不安を、私の心に想起させる。
だが、そんな私の不安は、この相棒にとっては好奇心を倍加させるスパイスに過ぎない。
「それは有望ね。さあ、鬼が出るか蛇が出るか、確かめるわよ、メリー」
「本気?」
「当たり前じゃない。私たちは秘密を暴くもの、秘封倶楽部なんだから!」
その言葉ととともに、相棒はその引き戸に手を掛け、がらりと開け放った。
――その先は既に異界に通じていた、などということはなかった。薄暗い書庫のような部屋の中、もうもうと舞いあがった埃が、カーテンの隙間から差し込む陽光に煌めいている。相棒はハンカチで口を押さえながら、部屋の中に足を踏み入れた。私はその敷居ぎわでしばし躊躇したが、蓮子に半ば引きずり込まれるように手を引かれ、埃の積もった室内に足を踏み入れる。
「本棚を見ればその人物が解るっていうけど――これは、壮観ねえ」
部屋の壁という壁を埋めた書棚を見上げながら、相棒が言った。私も並ぶ背表紙を見上げて、感嘆とも呆れともつかない息を吐く。神秘主義、黒魔術、超能力、都市伝説――今世紀初頭の時代まで、オカルティズムとして一括りにされていたあらゆるものに関する膨大な蔵書が、部屋を埋め尽くしている。2080年代――21世紀も終盤の現在から見れば、現状の霊的研究において認められているものと、眉唾物として排斥されたものとが混在していて、玉石混淆というか、酷く混沌とした印象を受ける本の並びだった。
「ねえ蓮子、菫子さんが昏睡に陥ったのって高校生の頃なのよね?」
「そうね。高校生でこの蔵書量はまあ、常軌を逸しているわね」
蓮子も半ば呆れたように呟いた。全く、私も蓮子も大概本の虫だけれども、70年前の人とはいえ年下がこれだけの本を揃えて――しかも超能力者だったという話を信じるならば、これらは彼女にとってインテリアではなく実用書だったのかもしれない――いるというのは、にわかに信じがたい。そもそも購入資金はどこから出ていたのだろう。まあ、誰かから譲って貰ったと考えるのが無難なのだろうが――。
しかし、と私は部屋の中を見回して、ひとつ首を傾げる。本当にこの部屋は、半世紀以上も封印されていたのだろうか。それにしては、妙に――。
「凄いでしょう。私も初めて見たときは驚いたものですよ」
不意に背後から声をかけられ、私たちは振り向く。蓮子のお祖母さんがそこに佇んでいた。
「お祖母ちゃん、この部屋入ったことあったの?」
「ええ、そりゃあここは私の家ですからね。何年かに一度、掃除はしていましたとも」
ああ、やはりそうだったのか。私は得心して頷く。半世紀も完全に開かずの間だったのなら、埃の量はこんなものではないだろうし、もっと部屋全体が荒れ果てていたはずだ。
お祖母さんはどこか懐かしそうに部屋の中を眺め、「きっと、この部屋も蓮子さんたちを待っていたんでしょうねえ――」と呟いた。
「お祖母ちゃん、それ、どういう意味?」
「私は、菫子さんのことは昏睡状態になってからのことしか知りませんがね。――この部屋をそのまま保存することは、菫子さんの遺言のようなものだったのですよ」
「――え?」
思わぬ言葉に、私は相棒の顔を見やる。相棒もきょとんとした顔でお祖母さんを見つめた。
「お祖父さんから聞いた話ですけどねえ――菫子さんが昏睡状態に陥ったあと、お祖父さんが菫子さんの部屋を探ると、菫子さんの伝言がそこに残っていたんだそうです。『もし、自分に何かあったとしても、可能な限りこの部屋をそのまま保存し続けてほしい』――と。お祖父さんは妹さんのその遺言を、死ぬまで守り続けたんですよ」
蓮子もこの話は初耳だったらしい。愕然とした顔の孫娘に、お祖母さんは微笑んで、「ああ、そうそう、菫子さんの遺言には続きがありましたね、確か――」と続けた。
「そう――『いつか、秘密を暴くものたちが、私の見つけた秘密を暴いてくれるから』……でしたかしら」
「――――」
今度こそ私たちは、言葉もなく顔を見合わせるしかなかった。
それはまるで――70年後の私たちの来訪を、予言しているかのようではないか。
半世紀前にいなくなった人の影が、不意にこの部屋の暗がりの中に差し込んできたような錯覚をおぼえて、私はぶるりと背筋を震わせた。いや――宇佐見菫子という少女は今もこの部屋に生きているのかもしれない。概念だけの存在のようなものになって――。
下にいるので何かあったら呼んでくださいね、と言い残し、蓮子のお祖母さんは姿を消した。残された私たちはしばし呆然と、途方に暮れたように部屋の中を見回していたが、相棒は意を決したように押し入れに歩み寄り、そこを開け放った。
「……なにこれ、公園のパンダの遊具?」
押し入れの下段に、なぜか児童公園にあるようなパンダの乗り物が鎮座ましましている。その横には通行止めの標識。なぜこんなものが押し入れの中にあるのだ。
上段にあった小さな箱を開けると、古典的なESPカードが入っていた。もちろんそれが、彼女が超能力者であったことを立証するものではないのだが――それにしてもこの脈絡のない物品はいったいどうしたことだろう。
埃のせいか、軽い頭痛を覚えながら、私は本棚の方に戻る。やはり本を眺めている方が心が落ち着く――そんなことを思いながら背表紙を流し見ていた私は、その中にひとつ、明らかに場違いな背表紙があるのに気が付いた。立派なハードカバーに混じって、明らかに薄いノートのような背表紙がある。
好奇心から、私はその薄い冊子を取りだして――表紙に書かれた、薄れて消えかけた文字を読み取った瞬間、衝撃のあまりに、そのノートを取り落とした。床の埃が舞いあがる。
「どしたの、メリー?」
押し入れを調べていた蓮子が振り向いてこちらに歩み寄る。私は床に落ちたノートを拾い上げ、埃を払ってもう一度表紙に記された文字を確かめた。その文字は何度見ても同じ単語を記している。――だが、なぜだ。なぜその名前が、こんな古いノートに記されているのだ?
「……ねえ、蓮子。ひとつ訊きたいんだけど」
「なに?」
「《秘封倶楽部》っていうサークル名――蓮子が考えたものじゃ、なかったの?」
そこには。
その、今にも崩れ落ちそうなボロボロのノートの表紙には、こう記されていたのだ。
――《秘封倶楽部活動日誌》と。
「嘘――そんな馬鹿な!」
蓮子はひったくるように私の手からノートを奪い、まじまじとその文字を見つめた。
それから、自分のこめかみに指を当てて唸り――ゆるゆると首を横に振る。
「そんなこと……秘封倶楽部は、私が考えた名前のはず……」
「……菫子さんが名乗っていたのを、どこかで聞いていた、とかじゃなくて?」
「そうなのかもしれない、けど――」
可能性としては、それしかないだろう。このノートが菫子さんのものなら、彼女は70年前に《秘封倶楽部》を名乗っていて、蓮子はお祖父さんあたりからその話を幼い頃に聞いていた。深層意識にすり込まれたその名前を、私とオカルトサークルを結成する際に知らず知らず使っていた――そう考えるのが自然だろう。
だが、蓮子にしてみればそれは相当なショックだったらしい。呆然とした顔のまま、蓮子はそのノートを開こうとして――その瞬間、ノートのページの間から、何かがこぼれ落ちて、床に固い音をたてて転がった。
私は反射的にそれを拾い上げる。小さな琥珀だった。中に何か虫が封じられている――。
次の瞬間。――ぐるり、と世界が歪んだ。
私は咄嗟に目元を手で覆う。だが、指の隙間から、それは視界を埋め尽くさんばかりに溢れ出して、私の世界を飲みこもうとする。――世界の裂け目。結界の亀裂。この世の向こう側へ通じてしまう――扉。
まずい。結界の揺らぎがあまりに大きい。このままでは呑み込まれる――。
「蓮子――」
私は咄嗟に、相棒の手を掴んだ。いや、相棒をこの結界の裂け目から逃そうと、突き飛ばそうとしたのかもしれない。だが、いずれにせよ――私は相棒の手を掴んでしまった。
「メリー――」
すぐ隣にいるはずの相棒の声が、ひどく遠い。
世界が蜃気楼のようにゆらめき、幻のように霞んで、砂のように崩れ落ちていく。
長すぎた夢から覚めるかのように、世界が一瞬にしてその色を失い、かき消えていく。
結界の裂け目が、私たちを食らうように、頭から呑み込んでいく。
互いの手を強く握りしめたまま――私たちは、彼岸と此岸の境界を踏み越える。
時の封じられた、虫入りの琥珀を握りしめたまま。その意味もわからずに。
――――そして、暗転。
一人がのどをつまらせて、残りは九人
―1―
――全ての始まりは、彼女の大叔母についての話だった。
「すみれこ、さん?」
「そう、宇佐見菫子。私から見れば大叔母さん――お祖父ちゃんの妹さんなんだけどね」
酉京都駅を発車したヒロシゲ36号は、卯東京駅へ向けての53分の旅の中にあった。今日のカレイドスクリーンは地方のローカル線仕様らしく、のどかな田園風景をゆっくり走る鈍行列車気分の映像がスクリーンに流れている。所詮はそれも作り物なのだけれども。
その車内で、私――マエリベリー・ハーンは、我が相棒、宇佐見蓮子と顔を突き合わせている。スナック菓子をつまみながら、相棒はカレイドスクリーンの作り物の自然風景には目もくれず、私の顔を覗きこむようにして話を続ける。
「私も、最近までそんな人が存在したこと自体、知らなかったんだけど――」
と、声を潜めて、相棒は耳打ちするように私へと顔を近づけた。
「彼女は、不思議な力を持っていたらしいの」
「夜空を見て時間を呟くような?」
「全然、その程度じゃなくて。――有り体に言えば、サイキック。超能力者だったらしいのよ」
「はあ」
今更、この相棒が何を言い出しても驚かないつもりではいたけれど――遠縁の親戚が超能力者だったというのは、いささか陳腐な話ではないだろうか。蓮子が存在自体知らなかったような大叔母というからには、おそらく既に亡くなっているのだろうし。
私が露骨に半信半疑の顔をしているのに気付いたか、蓮子は軽く頬を膨らませる。
「ちょっとメリー、信じてないわね?」
「そりゃ、いきなりサイキックなんて言われてもね。その大叔母さんの生まれた頃なら、たぶん西澤保彦や宮部みゆきが超能力ミステリ書いてた頃だからいいでしょうけど、今じゃ手垢がつきすぎじゃない?」
「いやまあ、私もこの目で見たわけじゃないし、お祖父ちゃんの単なる妄想か誤解だった可能性は否定できないんだけど。でも菫子さんって大叔母さんがいたのは戸籍調べて確かめたから間違いないわ」
「で、その人が持っていたかもしれない不思議な力を調べるのが、今回の東京行きの目的っていうわけ?」
「端的に言えば、そういうことね」
私は小さく嘆息する。伝聞情報だけを頼りに、夏休み早々、ヒロシゲに乗せられて東京くんだりまで行く羽目になるとは、全く《秘封倶楽部》も楽じゃない。
まあでも――と、目の前の相棒の楽しそうな顔に、私は頬杖をつきながら小さく笑みを漏らす。こうやって蓮子に振り回されるのを、本気で嫌だと思っているなら、こんな風にわざわざ東京行きまで付き合ったりはしないのだ。蓮子にはそんなことは言ってあげないけれど。
――秘封倶楽部。それは私とこの相棒、宇佐見蓮子が所属するオカルトサークルの名である。サークルと言っても会員は私と蓮子の2名。そもそも相棒が、私と一緒に禁じられた結界暴きに耽る口実として名乗りだしたものでしかなく、無論のこと大学非公認、まともな霊能活動などしていない不良サークルである。
大学入学直後、ひょんなことから私はこの相棒と知り合い、お互いの眼の持つ奇妙な能力を知った。そのへんの話は長くなるのでここでは語らないが――世界の裂け目、彼岸と此岸の境界を視る私の眼に相棒はいたく興味を示し、その相棒に引きずられて、私たちは日々、境界の向こう側にある不思議な世界を追い求める遊惰な大学生活を送っていた。
今回の東京旅行も、そんなサークル活動の一環――の、はずだった。
さて、そもそもの発端は、2週間前、相棒が祖父危篤の報を受け帰郷したことであった。
東京出身の蓮子は、実家の両親や親類が皆東京に住んでいる。ヒロシゲに乗って飛んで帰った相棒は、祖父の死に目になんとか間に合い、葬儀と遺品の整理を手伝ってから京都へ戻ってきた。そうして私の元にやってくると開口一番、こう言い放ったのである。
『メリー! 夏休みに入ったら東京に行くわよ!』
かくして詳しい事情も知らされぬまま、学期末の試験とレポートを片付けた私たちは、ほとんどその足でヒロシゲに飛び乗り、東京を目指している。
私は東京に行くのは、昨年蓮子のお彼岸の帰省についていって、蓮子のご家族に挨拶して以来2回目である。ろくすっぽ準備もせずの東京行きなので、盛り上がりに欠けること甚だしい。
そんな私のテンションの低さを察してか、蓮子は大仰に肩を竦めてみせた。
「メリー、私がその程度の情報だけでメリーをわざわざ東京まで引っ張り出すと思う?」
「それ以下の情報で既に色んなところに連れ回された前科があるんですけど」
「今回は別よ。この件は、私たちにも無関係じゃないんだから」
私は眉を寄せる。生まれてこの方、東京に行ったのは去年一度きりの私が、生きているとしても御年70か80かの蓮子の大叔母さんとどんな関係があるというのか。
「というのはね――」
わざとらしく声を潜めて、蓮子は傍らのバッグからモバイルと、もうひとつ小さな何かを取りだした。なんと遥か昔の記録媒体、その名もUSBメモリである。存在は知っていたが、実物は初めて見たかもしれない。
「USBメモリ? そんなの読み込めるの?」
「専用のコンバータがちゃんとあるのよ」
相棒がモバイルに接続したコンバーターに、USBメモリを差し込む。モバイルの画面を覗きこむと、何かのファイルが確認できた。どうやら原始的な文書ドキュメントであるらしい。
「お祖父さんの遺品?」
「そゆこと。お祖父ちゃんが若い頃、ウェブに書いてた日記やら何やらは、とうの昔に電子の海に消え去ってるんだけど――そういった不特定多数の目に触れない、ごく私的なメモ書きのようなものが、USBに保存されて実家の机の奧で埃を被ってたわけ」
蓮子がファイルを開くと、文書が表示される。
「まあ、全部読んでたら東京に着いちゃうから、かいつまんで説明するけど。――大叔母さん、菫子さんが妙な力を持っていることを知っていたのは、どうもお祖父ちゃんだけだったみたい。当の菫子さんが幼い頃から巧妙に隠してたから、決定的な確証はなかったらしいんだけど、思い当たることはいくつもあったみたいね。ものを触れずに動かしたり、瞬間移動としか思えない現れ方をしたり、ババ抜きや神経衰弱では明らかに手加減されないと勝てなかったり」
「サイコキネシスにテレポーテーションにESP? それちょっと盛りすぎじゃない?」
「お祖父ちゃんの言ってることだから、とりあえずそういうものとして受け取って頂戴。ま、ともかくお祖父ちゃんは、どうも妹は特殊な力を持った人間らしい、ということに薄々勘づいていたから、菫子さんのことを気に掛けていたようなの。当の菫子さんは、まあなんていうか、そういう自分の才能に溺れて、天上天下唯我独尊みたいな性格になって、全然友達もいなかったらしくて。妹がまともに社会生活を送れるようになるのか、を心配してたみたい」
「微妙に耳が痛いわ」
「私も。ともかく、お祖父ちゃんの心配を余所に、菫子さんは高校に進学すると家を出て、独り暮らしを始めちゃったから、お祖父ちゃんも高校で菫子さんがどんな風に過ごしていたのかは詳しく知らなかったらしいんだけど――」
と、蓮子はテキストをスクロールして、一箇所で止める。
「ある日、お祖父ちゃんたち家族の元に、菫子さんの学校から連絡が入ったの。もう3日も学校を無断欠席しているって。慌てて家族が菫子さんのアパートに駆けつけると――そこには、懇々と眠り続ける菫子さんの姿があった。それ以前から、菫子さんは遅刻や授業中の居眠りが目立つようになっていたらしいんだけど――その日、家族が駆けつけて叩き起こすまで、彼女は丸3日、眠り続けていたらしいの」
私は思わず目を細める。それはいくらなんでも、尋常の事態ではない。
「叩き起こされた菫子さんは、ひどく支離滅裂なことを口走って、また眠りに落ちた。栄養失調になりかけてたこともあって、菫子さんはそのまま病院に担ぎ込まれたんだけど……そのまま、1日の大半をベッドで点滴を受けながら眠って過ごし、日に数時間目を覚ましている間は意味のよくわからない話をするようになった。身体的には何の異常もなく、医者もほとんど匙を投げたそうよ」
「……それで、どうなったの?」
「たぶん、メリーの想像してる通りよ。――そうしているうちに、菫子さんはとうとう目を覚まさなくなった。意識だけがこちらの世界に戻ってくることを拒否しているみたいに、夢の中の世界に閉じこもってしまったの」
――不意に、ヒロシゲ車内の温度がすっと下がったような錯覚を、私はおぼえた。
思わず自分の目を覆い、私は小さく呻く。――まさか、そんなことがあり得るのか?
私の、この目。この世の境界を視てしまう、奇妙な目。こんな目を持っているせいか、私はよく、夢の中で不思議な世界に迷い込む。相対性精神学的に言えば、夢の中にいるとき、私の主観においてはそれこそが現実だ。だから、夢の中で自分が死んでしまえば、現実の自分も同時に死んでしまう。今ヒロシゲの車内にいる私こそが夢であるかもしれない以上、その境界は私の主観においては定めようがない。
宇佐見菫子さんは70年は昔の人間だ。まだ相対性精神学が学問としても確立していなかったような、霊的研究と精神学の未発達だった時代。しかしその頃においても、現代における相対性精神学的世界認識を、彼女が持っていたとしたら――。
彼女の夢と現実は、入れ替わってしまったのか?
「菫子さんは――じゃあ、まだ、生きているの?」
私の問いに、しかし蓮子は首を横に振る。
「そのまま、20年間目を覚ますことなく眠り続け、静かに亡くなったそうよ」
「――――」
何と言ったらいいのか解らず、私は押し黙る。
確かにそれは、妙な夢をよく視る私にとっては、他人事ではない話だ。夢の中で奇妙な生物に襲われたり、不思議な館に迷い込んだり――そんな体験を何度もしているけれど、一歩間違えば私も、宇佐見菫子さんのようになっていたのかもしれない。
「じゃあ、亡くなられたのは50年ぐらい前?」
「そうなるわね。――さて、本題はここから。この前お祖父ちゃんが亡くなって、遺品を整理してたんだけど。お祖父ちゃん家はいわゆる旧家でね。何度も改築してるけど、家自体は築80年ぐらいの歴史があるのよ。そして、お祖父ちゃんのご両親は物持ちのいい人たちだった」
「……ということは、じゃあまさか」
「そう。菫子さんが昏睡に陥ってから、家族はいつ目を覚ましてもいいようにしていたんだけれど、結局そのまま彼女は亡くなってしまって。菫子さんの部屋を、今更片付ける気にもなれなかったらしくて、そのまま封印しちゃったの。私も小さい頃に覚えがあるわ。お祖父ちゃんの家の開かずの間。その中には、彼女の遺品が、当時のまま、結構な量、残ってるらしいのよ。半世紀以上も放置されて、ね」
「――――それは、すごいことね」
私は、そう答えるしかなかった。50年――私たちが生まれる遥か以前に亡くなった人の生活空間が、当時のまま保存されているとすれば、その空間は完全に時間の流れから隔絶されて存在している。それ自体がある意味で、境界の向こう側のようではないか。
「というわけで、菫子さんの遺品を調べるのが、今回の東京行きの目的よ。なぜ彼女は目を覚ますことを拒絶して、夢の中で生きることを選んだのか。彼女の持っていたという超能力は本物だったのか。そして――彼女の身に何があったのか。半世紀以上も封じられていた秘密を探り出す、まさしく秘封倶楽部に相応しい調査だと思わない?」
にっ、と猫のような笑みを浮かべる相棒に、私は曖昧に頷く。
半世紀も前に亡くなった人について調べることを、不謹慎だ、などと言うつもりはない。私たちに――特に私自身にとって、他人事でないのも解る。70年前に、宇佐見菫子さんに何があったのか。夢と現実の境界を、彼女は踏み越えてしまったのか――。
だがしかし、他人事でなさすぎるのが、私の気を重くする。嫌な予感がする、と言い換えてもいい。何か、触れてはいけないものに触れてしまうのではないか。開けてはならないパンドラの箱に、蓮子は無警戒に手を伸ばそうとしているのではないか?
「……ご家族の許可は取ってるのよね?」
「もちろん、そのあたりはぬかりありませんわ。メリーが来ることも伝えてあるから、卯東京駅に着いたらそのままお祖父ちゃんの家に直行ね」
こうしていつも私は、この相棒に手を引かれてあちこち振り回されることになるわけで。
それは全くいつも通りの秘封倶楽部の形だったのだけれど――そのとき私は、今までにない漠然とした不安のような何かを、そこに感じ取っていた。言語化のしようのないそれを、相棒に伝えることはできなかったのだけれど。
――結果から言えば、私の懸念はものの見事に的中していた。
もちろん、この時点でそんなことは、私には知りようもなかったのであるが。
―2―
魔都・東京の下町に、宇佐見家の古い一軒家はひっそりと佇んでいた。
蓮子のお祖母さんに挨拶を済ませてから、軋む板張りの階段を上る。2階の廊下の突き当たりに、そこだけがひどく薄暗く沈むような木目の扉。――私は小さく息を飲んだ。
視界がゆらゆらと蜃気楼のように揺れる。微かな頭痛。これは――明らかに。
「どう、メリー。ここからでも何か視える?」
「……具体的にどうこう、じゃないけど……結界が不安定になっている気配が、はっきりと感じ取れるわ。何か――何かが、磁場を歪ませてるみたいに……」
それはおそらく、結界同士の干渉によるものではないか。この世界にはありとあらゆる場所に異界への霊的結界が存在するが、それとは別に、人為的に作り上げられる結界がある。神社の注連縄がそうだし、領土、私有地という概念も一種の結界だ。そもそも、家、部屋というものもまた他者を排斥する結界として機能する。
本来、そうした人為的な結界というのはごく弱いものだ。だが、神社や山林のような霊場の結界などは強固で、そのぶんだけ元からこの世界にある結界とぶつかり合い、歪みを生じさせる。私の目が境界の裂け目を視るのはいつも神社仏閣関係だと指摘したのは蓮子だが、つまりそれは結界同士の軋轢によって境界が生じるからなのだ。
ひるがえって、この部屋である。半世紀も封じられていた開かずの間。そんなところには、霊場ではない人為的な結界としては考え得る限り最高クラスの結界が自然発生していると考えていい。そんな結界が、元から世界にある結界と反発しないはずがない。
私としては、このまま回れ右をして引き返したいぐらいだった。本能が危険を告げている。この部屋はまずい。どう考えても結界が緩んでいる。ここではないどこかへ、ふとした瞬間に完全に道がついてしまいかねない――そんな圧倒的な不安を、私の心に想起させる。
だが、そんな私の不安は、この相棒にとっては好奇心を倍加させるスパイスに過ぎない。
「それは有望ね。さあ、鬼が出るか蛇が出るか、確かめるわよ、メリー」
「本気?」
「当たり前じゃない。私たちは秘密を暴くもの、秘封倶楽部なんだから!」
その言葉ととともに、相棒はその引き戸に手を掛け、がらりと開け放った。
――その先は既に異界に通じていた、などということはなかった。薄暗い書庫のような部屋の中、もうもうと舞いあがった埃が、カーテンの隙間から差し込む陽光に煌めいている。相棒はハンカチで口を押さえながら、部屋の中に足を踏み入れた。私はその敷居ぎわでしばし躊躇したが、蓮子に半ば引きずり込まれるように手を引かれ、埃の積もった室内に足を踏み入れる。
「本棚を見ればその人物が解るっていうけど――これは、壮観ねえ」
部屋の壁という壁を埋めた書棚を見上げながら、相棒が言った。私も並ぶ背表紙を見上げて、感嘆とも呆れともつかない息を吐く。神秘主義、黒魔術、超能力、都市伝説――今世紀初頭の時代まで、オカルティズムとして一括りにされていたあらゆるものに関する膨大な蔵書が、部屋を埋め尽くしている。2080年代――21世紀も終盤の現在から見れば、現状の霊的研究において認められているものと、眉唾物として排斥されたものとが混在していて、玉石混淆というか、酷く混沌とした印象を受ける本の並びだった。
「ねえ蓮子、菫子さんが昏睡に陥ったのって高校生の頃なのよね?」
「そうね。高校生でこの蔵書量はまあ、常軌を逸しているわね」
蓮子も半ば呆れたように呟いた。全く、私も蓮子も大概本の虫だけれども、70年前の人とはいえ年下がこれだけの本を揃えて――しかも超能力者だったという話を信じるならば、これらは彼女にとってインテリアではなく実用書だったのかもしれない――いるというのは、にわかに信じがたい。そもそも購入資金はどこから出ていたのだろう。まあ、誰かから譲って貰ったと考えるのが無難なのだろうが――。
しかし、と私は部屋の中を見回して、ひとつ首を傾げる。本当にこの部屋は、半世紀以上も封印されていたのだろうか。それにしては、妙に――。
「凄いでしょう。私も初めて見たときは驚いたものですよ」
不意に背後から声をかけられ、私たちは振り向く。蓮子のお祖母さんがそこに佇んでいた。
「お祖母ちゃん、この部屋入ったことあったの?」
「ええ、そりゃあここは私の家ですからね。何年かに一度、掃除はしていましたとも」
ああ、やはりそうだったのか。私は得心して頷く。半世紀も完全に開かずの間だったのなら、埃の量はこんなものではないだろうし、もっと部屋全体が荒れ果てていたはずだ。
お祖母さんはどこか懐かしそうに部屋の中を眺め、「きっと、この部屋も蓮子さんたちを待っていたんでしょうねえ――」と呟いた。
「お祖母ちゃん、それ、どういう意味?」
「私は、菫子さんのことは昏睡状態になってからのことしか知りませんがね。――この部屋をそのまま保存することは、菫子さんの遺言のようなものだったのですよ」
「――え?」
思わぬ言葉に、私は相棒の顔を見やる。相棒もきょとんとした顔でお祖母さんを見つめた。
「お祖父さんから聞いた話ですけどねえ――菫子さんが昏睡状態に陥ったあと、お祖父さんが菫子さんの部屋を探ると、菫子さんの伝言がそこに残っていたんだそうです。『もし、自分に何かあったとしても、可能な限りこの部屋をそのまま保存し続けてほしい』――と。お祖父さんは妹さんのその遺言を、死ぬまで守り続けたんですよ」
蓮子もこの話は初耳だったらしい。愕然とした顔の孫娘に、お祖母さんは微笑んで、「ああ、そうそう、菫子さんの遺言には続きがありましたね、確か――」と続けた。
「そう――『いつか、秘密を暴くものたちが、私の見つけた秘密を暴いてくれるから』……でしたかしら」
「――――」
今度こそ私たちは、言葉もなく顔を見合わせるしかなかった。
それはまるで――70年後の私たちの来訪を、予言しているかのようではないか。
半世紀前にいなくなった人の影が、不意にこの部屋の暗がりの中に差し込んできたような錯覚をおぼえて、私はぶるりと背筋を震わせた。いや――宇佐見菫子という少女は今もこの部屋に生きているのかもしれない。概念だけの存在のようなものになって――。
下にいるので何かあったら呼んでくださいね、と言い残し、蓮子のお祖母さんは姿を消した。残された私たちはしばし呆然と、途方に暮れたように部屋の中を見回していたが、相棒は意を決したように押し入れに歩み寄り、そこを開け放った。
「……なにこれ、公園のパンダの遊具?」
押し入れの下段に、なぜか児童公園にあるようなパンダの乗り物が鎮座ましましている。その横には通行止めの標識。なぜこんなものが押し入れの中にあるのだ。
上段にあった小さな箱を開けると、古典的なESPカードが入っていた。もちろんそれが、彼女が超能力者であったことを立証するものではないのだが――それにしてもこの脈絡のない物品はいったいどうしたことだろう。
埃のせいか、軽い頭痛を覚えながら、私は本棚の方に戻る。やはり本を眺めている方が心が落ち着く――そんなことを思いながら背表紙を流し見ていた私は、その中にひとつ、明らかに場違いな背表紙があるのに気が付いた。立派なハードカバーに混じって、明らかに薄いノートのような背表紙がある。
好奇心から、私はその薄い冊子を取りだして――表紙に書かれた、薄れて消えかけた文字を読み取った瞬間、衝撃のあまりに、そのノートを取り落とした。床の埃が舞いあがる。
「どしたの、メリー?」
押し入れを調べていた蓮子が振り向いてこちらに歩み寄る。私は床に落ちたノートを拾い上げ、埃を払ってもう一度表紙に記された文字を確かめた。その文字は何度見ても同じ単語を記している。――だが、なぜだ。なぜその名前が、こんな古いノートに記されているのだ?
「……ねえ、蓮子。ひとつ訊きたいんだけど」
「なに?」
「《秘封倶楽部》っていうサークル名――蓮子が考えたものじゃ、なかったの?」
そこには。
その、今にも崩れ落ちそうなボロボロのノートの表紙には、こう記されていたのだ。
――《秘封倶楽部活動日誌》と。
「嘘――そんな馬鹿な!」
蓮子はひったくるように私の手からノートを奪い、まじまじとその文字を見つめた。
それから、自分のこめかみに指を当てて唸り――ゆるゆると首を横に振る。
「そんなこと……秘封倶楽部は、私が考えた名前のはず……」
「……菫子さんが名乗っていたのを、どこかで聞いていた、とかじゃなくて?」
「そうなのかもしれない、けど――」
可能性としては、それしかないだろう。このノートが菫子さんのものなら、彼女は70年前に《秘封倶楽部》を名乗っていて、蓮子はお祖父さんあたりからその話を幼い頃に聞いていた。深層意識にすり込まれたその名前を、私とオカルトサークルを結成する際に知らず知らず使っていた――そう考えるのが自然だろう。
だが、蓮子にしてみればそれは相当なショックだったらしい。呆然とした顔のまま、蓮子はそのノートを開こうとして――その瞬間、ノートのページの間から、何かがこぼれ落ちて、床に固い音をたてて転がった。
私は反射的にそれを拾い上げる。小さな琥珀だった。中に何か虫が封じられている――。
次の瞬間。――ぐるり、と世界が歪んだ。
私は咄嗟に目元を手で覆う。だが、指の隙間から、それは視界を埋め尽くさんばかりに溢れ出して、私の世界を飲みこもうとする。――世界の裂け目。結界の亀裂。この世の向こう側へ通じてしまう――扉。
まずい。結界の揺らぎがあまりに大きい。このままでは呑み込まれる――。
「蓮子――」
私は咄嗟に、相棒の手を掴んだ。いや、相棒をこの結界の裂け目から逃そうと、突き飛ばそうとしたのかもしれない。だが、いずれにせよ――私は相棒の手を掴んでしまった。
「メリー――」
すぐ隣にいるはずの相棒の声が、ひどく遠い。
世界が蜃気楼のようにゆらめき、幻のように霞んで、砂のように崩れ落ちていく。
長すぎた夢から覚めるかのように、世界が一瞬にしてその色を失い、かき消えていく。
結界の裂け目が、私たちを食らうように、頭から呑み込んでいく。
互いの手を強く握りしめたまま――私たちは、彼岸と此岸の境界を踏み越える。
時の封じられた、虫入りの琥珀を握りしめたまま。その意味もわからずに。
――――そして、暗転。
第1章 紅魔郷編 一覧
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なんかワクワクしてきました
次回も期待しています
秘封倶楽部の2人が踏み込んだ秘密の始まりに引きこまれ、ドキドキしました。
続きを楽しみにしています。
まさかの菫子さんが絡んでくる話になるとは。
続きがとっても気になります!毎週の楽しみが増えました。
とても引き込まれました!
次回も楽しみにしています
話の書き方、見せ方、次の話への続けかた、全て素晴らしかったです!
次回も期待して待ってます!
菫子さんが出てくるんで正直びっくりしてしまいました。
次回以降の二人の活躍が気になってしまいます。
頑張って完結させてください
続きが非常に楽しみになってきました。
あっという間に独特な世界観へと引き込まれていく、この感覚!
凄いと思います。
続きが楽しみだと思ったのは久しぶりです。次回からどうなるのかワクワクしてきました!頑張ってください!
いや~面白い、第一章から引き込まれてしまいました。
二人の秘封らしい掛け合いもそうですが、世界観が細かい部分までしっかり作りこまれてるな~、と
「21世紀も終盤の現在から見れば、現状の霊的研究において認められているものと、眉唾物として排斥されたものとが混在していて」なんて凄くそれっぽいww
こんな密度の高いお話を週一更新で読めるのは、読者としてはとても嬉しいです。
大変だと思いますが、今後も楽しみにしています!
連載待ってました。
董子は祖母と課みたいに直系じゃなくて叔母にしたんですね。
次回以降も楽しみにしてます
引き込まれますね。続きを楽しみにしております。
すごくワクワクしながら読ませていただきました!
次回も楽しみに待っています
今後が楽しみですね!
次回も気になります!
とても面白いです!楽しみにしています!
宇佐見菫子の名前が出た時ミスチー肌でした。続きが気になってワクワクします。
読み進めていくごとに鳥肌が止まらなくなり、あまりに興奮したせいか涙が出てくるほどでした(笑)
追い求めていた秘封ワールドが見つかった瞬間です!
この続きもじっくりと味あわせていただきます。
まだ読んでます
イイっすね〜
革命読んでから冒頭読み返したら何かもうぼろぼろ泣いた。
兄貴はさぞ無念だったろうなあ。
コメントさせていただきます。秘封好きの私にとってはこれ以上なく魅力的なストーリーです。
この先二人がどのようにして幻想郷の異変にかかわっていくのか楽しみに読み進めていこうと思います。
ふふっ、私もまた、掘り出し物を見つけてしまったようだ!
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東方を、あまり知らないのですが、とても、面白くて引き込まれました。
続きも、楽しく読ませていただきます!!!
こんなものがあったとは…!