東方二次小説

こちら秘封探偵事務所第1章 紅魔郷編   紅魔郷編 第8話

所属カテゴリー: こちら秘封探偵事務所第1章 紅魔郷編

公開日:2015年09月05日 / 最終更新日:2015年09月05日

紅魔郷編 第8話
小さな兵隊さんが三人、動物園を歩いたら
一人が大きなクマにだきしめられて、残りは二人






―23―


「痛てててて……ちぇっ、不覚をとったぜ」
 決着がつくとともに、先ほど撃墜された魔法使いがふらふらと巫女さんの元に飛んできた。あ、生きてた、と私は間の抜けた感想を漏らす。巫女さんは肩を竦める。
 ――と、次の瞬間、時計台にお嬢様が墜ちてきた。時計台の屋根にぶつかって、私たちのいるところに転がってきたお嬢様に、咲夜さんが一瞬で駆け寄り、パチュリーさんや美鈴さんもそちらに集まってくる。
「お嬢様」
「……やれやれ、悔しいけれど負けたようね」
 目を開けたお嬢様は、思いのほか元気そうだった。差し伸べられた咲夜さんの手を払って立ち上がり、サバサバした表情で、こちらへ舞い降りてくる巫女さんを見上げる。
 巫女さんはお嬢様の眼前に降り立つと、「この霧を引っ込めてもらうわよ」と告げた。
「仕方ないわね。パチェ、手伝って」
「はいはい」
 パチュリーさんが小脇に抱えていた本を開き、お嬢様とともに何かを唱える。次の瞬間、潮が引いていくように、空を覆っていた紅い霧が晴れていった。紅く大きな月も、いつの間にか普通のサイズの欠けた月となって、暗い夜空に青白く光っている。
「これでいいかしら?」
「そうね。今度またこんな騒ぎを起こしたら、容赦なく叩きのめすわよ」
「望むところね。――あなた、面白い人間ね。気に入ったわ」
「吸血鬼に気に入られたって嬉しくないわよ。そこのメイドと、魔法使いかしら? 自分とこのお嬢様のしつけぐらい、しっかりやって頂戴」
 咲夜さんとパチュリーさんを睨んで、巫女さんはそう言い――それからくるりと振り向いて、私たちに訝しげな顔を向けた。
「あんたたち――人間? あの吸血鬼の手下?」
 つかつかとこちらに歩み寄り、巫女さんはじろじろと私たちを見つめる。改めて間近で見てみると、巫女さんは私たちより年下のようだが、年齢はよく解らない。見ようと思えば、小学生にも高校生にも見える。10代なのは間違いないと思うが。
「いえいえ、今のところはまだ、お嬢様の配下にはなっておりませんわ」
「――何者よ、あんたたち。吸血鬼の手下じゃないなら、なんでこんなところにいるの」
「いやあ、それには深い事情がありまして」
「たまたま迷い込んだんです。たぶん、こことは別の世界から……」
 蓮子の言葉を遮って、私はそう答える。放っておいたら、蓮子は面白がって誤解を呼びそうなことを言い出しかねない。蓮子が口を尖らせたが、私は無視。
 私の言葉に、巫女さんは「なんだ、外来人か」と息を吐く。
「こんなところにいたら、命がいくつあっても足りないわよ。外の世界に帰る気があるなら、案内してあげるけど?」
「――帰れるんですか」
 私たちは思わず顔を見合わせる。巫女さんは「それも私の仕事だからね」と息を吐いた。
「お嬢さん、ついでにこいつら連れて行くわよ」
「好きになさいな。私は疲れたから寝るわ。咲夜」
「かしこまりました。すぐに支度を」
 あっけらかんとしたものである。お嬢様は遊びに飽きた子供のように欠伸を漏らし、巫女さんはただ呆れたように鼻を鳴らすだけだ。紅い霧を引っ込めさせた時点で、巫女さんの仕事は終わりということらしい。もっと徹底的に殺し合うのかとも思ったが、血腥い事態にならなくて平凡な人間としては何よりである。
「魔理沙、あんたも帰って寝たら?」
「ちぇ、美味しいとこだけ持っていきやがって。ま、いいか」
 魔理沙と呼ばれた魔法使いも、星屑を散らして箒にまたがり飛んでいった。つい数分前まで、華やかな戦いが繰り広げられていたとは思えない、祭りの後のような寂しさ。その中で、巫女さんはもう一度私たちをじろじろと見つめた。
「……なーんか、あんたの顔どっかで……まあ、いいか。名前は?」
 私の顔を覗きこんで眉を寄せながら、不意に巫女さんはそう問うた。
「あ、ええと、マエリベリー・ハーンです」
「……舌噛みそうな名前ねえ」
「それなら、メリーで」
「メリー、ね。そっちは?」
「宇佐見蓮子と申しますわ。メリーとは唯一無二、一心同体の相棒です」
「蓮子、ね。何でもいいけど――とりあえず、人里まで案内するわ」
 と、巫女さんは私たちの手を急に掴み、それから思い出したように「飛べる?」と訊いてきた。私たちは当然、首を横に振る。「ま、外来人ならそうよね」と納得したように頷き、
 次の瞬間、私と蓮子の身体は、巫女さんと一緒に宙に浮いていた。
「――――」
 眼下の紅魔館がみるみる小さくなり、私は息を飲む。私の身体は地面を離れ、巫女さんと手を繋いだまま中空にある。それは水の中に浮いているような感覚だった。
「飛んでる――飛んでるわ、メリー!」
「い、言われなくても見れば解るわよ」
 はしゃいだ声をあげる蓮子。私としては、足元のおぼつかなさと視点の高さでそれどころではない。できれば下を見たくないので、ぎゅっと目を瞑る。
「手、離したら落ちるから気をつけてね」
 巫女さんはそんな怖いことを言って、宙を蹴った。途端、ぐっと私たちの身体は加速して、紅魔館がみるみる遠ざかっていく。
 ああ、咲夜さんたちにお別れの挨拶をしそびれた――と気付いたときには、もう紅魔館はすっかり小さくなって、私たちは風を切って夜空をまっすぐ飛び続けていた。
「あ、ところで、巫女さんのお名前は?」
「ん?」
 はしゃいだ蓮子の脳天気な質問に、巫女さんは「名乗ってなかったっけ」と首を傾げた。
「博麗霊夢。妖怪退治が仕事の巫女よ。霊夢でいいわ」





―24―


 博麗霊夢――霊夢さんに抱えられて、月の下を飛ぶことしばし。
 紅魔館のあった湖から流れる川に沿うように進んでいくと、月明かりの中に、ほどなく集落のシルエットが見えて来た。なんとなく鄙びた山村のようなものを想像していたが、意外と大きな集落のようである。瓦屋根が建ち並び、遠くには煙突らしきシルエットもある。意外と近代的なのかもしれない。
 霊夢さんは集落の上空をしばらく飛んで、それからゆっくりと地面に降り立った。集落の中心部あたりなのか、広い通りの真ん中で、私たちは久々に地面を踏みしめる。宙に浮かぶ覚束ない感覚から解放され、私はほっと一息。
「この時間じゃ阿求は寝てるだろうし……慧音なら起きてるかしら」
 私たちの知らない名前を呟いて、霊夢さんは近くの灯りのともった建物に近付き、戸をノックする。と、引き戸を開けて中からひとりの女性が姿を現した。長い銀髪に、変な形の帽子を被った女性である。私たちより少し年上だろうか。
 女性は霊夢さんを見やると、安堵したように相好を崩した。
「ああ、霊夢か。霧が収まったから、異変は解決したんだろうとは思っていたが、良かった、心配したぞ」
「別に心配されるほどのことはないわよ。湖の方の吸血鬼をとっちめてきたわ」
「また吸血鬼か。いい加減大人しくなってほしいものだが――しかし、本当に大丈夫か? 天狗から、解決に向かったと聞いて以来、数日も音沙汰がなかったから、もしかしたらやられてしまったのかと――」
「は? 数日? 何言ってんの、一晩でサクッと解決したわよ」
「なに? いやしかしだな――」
 と、そこで変な帽子の女性は、私たちに気付いて訝しげに眉を寄せる。
「そちらは? 外来人か?」
「ああ、吸血鬼の館に迷い込んでたから連れてきたわ。蓮子とメリー、だっけ」
「それは、よく無事だったな」
 変な帽子の女性は、感心したような、呆れたような顔で、私たちに歩み寄る。そして、その顔に柔和な笑みを浮かべると、右手を差し出した。
「ようこそ、幻想郷へ。この人間の里で歴史家と自警団員をしている上白沢慧音だ。今この瞬間から、君たちを保護すべき人間として、里は受け入れる」
「はあ――」
 慧音さんと名乗った女性の手を握り返し、私はそう間抜けな声をあげる。一方、相棒の目は相変わらず好奇心に輝いていた。
「初めまして、宇佐見蓮子です」
「あ、マエリベリー・ハーンです。メリーと呼んでください」
「蓮子殿にメリー殿、だな。迷い込んだばかりで色々と疑問はあるだろうが、まずはゆっくり身体を休めるといい。それとも、何か食事を用意しようか?」
「いえ、紅魔館でお食事は頂いたので大丈夫ですわ」
「そうか。じゃあ仮眠室に布団を敷くから、そこで休むといい。もう夜更けだ、話は朝になってからでも、いくらでもできるからな」
「わかりました。お言葉に甘えますわ。ね、メリー」
「え、ええ」
 とりあえずは、慧音さんに従うべきだろう。まさか今更とって食われることもあるまい。
「じゃ慧音、そいつらはとりあえず任せたわよ。帰るって言うようなら明日の夕方にでも神社に連れて来て。私は帰って寝るわ」
「ああ、おやすみ。ご苦労様」
「おやすみ」
 軽く手を振って、霊夢さんは夜空に飛び去って行く。
 それを見送って、私たちは慧音さんに促され、自警団の駐在所らしい建物に足を踏み入れた。





―25―


 ――目を覚ましたら、元の京都の自分の部屋、なんてことはなかった。
 見慣れない天井に目をしばたたかせて、そうだ、紅魔館から別の集落に連れられてきたんだった、と思い出す。畳の上の薄い布団から身を起こすと、紅魔館での疲労が思った以上に身体に残っているのか、ひどくだるい。できればもうしばらく寝ていたいが、窓から差し込む朝の光は眩しくて、二度寝を決め込むには暑かった。
 隣の布団を見やれば、相棒が脳天気な顔で寝こけている。どんな状況でも豪快に熟睡できるこの相棒の剛胆というか無神経というか、そのお気楽さが羨ましい。
 顔を洗おう、と私は蓮子を起こさないように立ち上がり、仮眠室を出る。お手洗いはどこだろう――と視線を巡らせていると、別の部屋から顔を出した慧音さんと目が合った。
「ああ、起きたか。おはよう」
「あ――おはようございます。あの、お手洗いは」
「厠か? そこの突き当たりだ。外来人には不便だと思うが、我慢してくれ」
 苦笑混じりに言われてそちらに向かう。厠、と書かれた戸を開けると、強烈な臭気が鼻を刺して思わずたじろいだ。大きな水瓶が置かれているが、ひょっとしてここが洗面所なのだろうか。その向こう、さらに薄い戸を開けると――床に穴が開いているだけのトイレがそこにあった。――これが歴史の授業でしか見たことのない、ぼっとん便所というものか。水洗トイレしか知らない科学世紀の人間には、この臭気は耐えがたい。そそくさと水瓶の水で顔だけをざっと洗って退散する。
 厠を出ると、慧音さんが「朝食の前にお茶でも飲むか」と誘ってくれたので、ご相伴にあずかることにした。慧音さんのいる部屋(自警団の詰所らしい)に足を踏み入れると、もうひとり見知らぬ顔がある。着物を着た小柄な少女だ。
「あ、おはようございます~」
「……おはようございます」
 どちら様だろう、と疑問に思っていると、慧音さんが「部下の小兎姫だ」と湯飲みを差し出しながら紹介してくれる。「小兎姫と申します。よろしくお願いします~」と間延びしたしゃべり方で楚々と頭を下げる少女に、私も会釈を返す。慧音さんの部下ということは、この子も自警団員なのか。自警団というのはもっとこう、目つきの悪い男性がやるものではないのだろうか?
 疑問に思いつつお茶を啜っていると、「あ、いたいた、メリー。おふぁよう」と眠そうに目を擦りながら蓮子が現れる。寝癖が立ったままだ。みっともない。
「おはよう、蓮子。お茶飲む?」
「いただくわ……ふぁぁ、ねえメリー、なんか妙に疲れが残ってない?」
「慣れない布団と枕で寝たせいじゃないの?」
「そうかしらねえ。――あ、おはようございます」
 湯飲みを受け取りつつ、蓮子は如才なく慧音さんと小兎姫さんに会釈する。
 しばらく言葉もなくお茶を啜って、ぼんやりしていた意識がはっきりしたところで、「さて」と慧音さんが改まって、小兎姫さんに視線を向けた。
「小兎姫、朝食の準備を頼む。4人分な」
「わかりました~」
 小兎姫さんが出て行くのを見計らって、慧音さんは私たちに向き直る。
「君たちは、吸血鬼の館に迷い込んだのだったな。あそこの住人は、私も未だよく知らないのだが、君たちはこの世界について、どの程度知っている?」
「どの程度、と言われても――」
 私は困って蓮子に視線を向ける。蓮子は愉しげな笑みを浮かべて湯飲みを置いた。
「人間が空を飛び、吸血鬼や魔法使いや妖怪が跋扈する、私たちの住んでいた世界とは別の世界――幻想郷、というのでしたか」
「そうだ。正確には、君たちのいた世界とは地続きだがな。結界で外の世界から隔離された、日本のどこかの隠れ里――と思って貰えればいい」
「日本……なんですか、ここ?」
「一応は、な。明治時代に隔離されてから120年ほどになる。地続きとはいえ、博麗大結界は普通に超えようと思っても人間には不可能だ。所定の手続きを経るか、結界が緩んだところにうっかり足を踏み入れるかしないと、出入りはできない。君たちが迷い込んだのは後者だな。いわゆる神隠しというやつだ」
 ――神隠し。私たちが普段、秘封倶楽部の活動として行っている境界の向こう側を除く行為も神隠しの一種だろうが、肉体的にも完全にこちら側に来てしまった今、私たちは蓮子の実家のあの部屋から文字通り消え失せた状態なのだろうか。だとすれば早めに戻らないと、蓮子のお祖母さんやご家族に心配をかけてしまう。
 私がそんなことを考えていると、蓮子が「――慧音さん」と難しい顔で不意に言った。
「今、明治時代から120年と仰いました?」
「ん? ああ、隔離されたのは明治18年だ。それから、正確には118年になる」
「――嘘」
 蓮子が目を見開いて、息を飲む。蓮子が何に驚いているのか一瞬解らず、私は首を傾げ――そして次の瞬間、その計算上の食い違いに気付いて、「えっ」と声をあげた。
「どうした?」
 慧音さんが不思議そうに私たちを見やる。私たちは顔を見合わせた。
「今は、明治18年の118年後――なんですよね?」
「ああ、そうだ」
「……ねえメリー、1885+118はいくつ?」
「……2003よね」
「80年以上前じゃない!」
 蓮子が悲鳴を上げる。私も指を折って何度も確かめ、計算に間違いがないことに途方に暮れた。――どうやら私たちは、境界を越えた拍子に、過去の世界にやって来てしまったらしい。
 あの部屋で見つけた虫入りの琥珀を思い出す。古代の生物がそのままの姿で封じられたあの琥珀が、結界に干渉するパワーストーンだったとすれば――永い時間の封じられた琥珀には、時間のくびきを越える力が宿っていたのかもしれない。
「……君たちは、未来から来たのか?」
「ええ――おそらくは」
 蓮子の答えに、慧音さんも難しい顔で腕を組んだ。
「未来から来た外来人というのは、さすがに私も初めてだな……未来の世界に戻してやれるのか、霊夢に訊いてみないことには、ちょっと解らない」
 ――もし外の世界に戻れたとしても、そこが80年前の過去では、異世界に飛ばされるのと同じことだ。もちろん、過去の世界を垣間見てみたいという気持ちはあるが、それ以前に、元の世界に戻れるという可能性が急激にしぼんでいくショックに、私たちはただ天井を仰ぐしかなかった。

 とはいえ、可能性の話で希望を抱いたり絶望したりしていても始まらない。そもそも、そう都合良くすぐ戻れる方がおかしいといえばおかしいのである。
「君たちが本当に未来人なら、歴史家として訊ねてみたいことはいろいろあるが――まあ、まずは君たちにこの世界を説明するところからだな」
 慧音さんはそう言って、朝食のあと、私たちを連れて外へ出た。
 朝の人里には、夜中とは全く違う活気が溢れていた。広い通りを、作務衣姿の男性や着物姿の女性、そして子供たちが行き交い、いくつかの商店らしきところは既に商売を始めているのか、威勢の良い呼び込みの声がしている。下町情緒でもいうのだろうか、科学世紀の京都では見られない光景だった。
「この幻想郷は、外の世界で忘れ去られたものたちが流れ着く世界だ。人間の他に、妖怪、妖精、八百万の神といった存在が、独自のルールのもとで共存している。この人間の里は、幻想郷で唯一の、人間が安全に暮らせる集落だ」
 すれ違う人々と挨拶を交わしながら、慧音さんは先に立ってゆっくりと歩く。私たちは見慣れない光景に、観光客のようにきょろきょろと視線を巡らせる。
「見ての通り、君たち外来人から見れば、文明的には遅れているだろう。しかし、慣れれば住み心地の良い世界だ。外の世界の人間はちょくちょく迷い込んでくるのだが、その中にはこの里に定住してしまった者もそれなりにいる。大半は元の世界に帰ってしまうがな」
「安全に暮らせる集落、と言いましたよね。つまりここ以外は危険と?」
「そうだな。この集落の内部は、人間の自治区。それ以外は治外法権と考えてくれていい。里の外は妖怪の世界、迂闊に出歩いたら、襲われても文句は言えない。里の人間は襲ってはならない、というルールはあるが、見境のない野良妖怪はいるからな。君たちも、里を囲った柵の外にはなるべく出ないことだ。特に夜はな」
「了解です。――外の世界との行き来がないということは、生活用品や食糧は全て里の中で生産しているんですか?」
「物による。結界は普通の人間は通れないが、越える手段はいくつかあるからな。必要だけれど幻想郷ではどうしても手に入れようがないものを、結界の管理者が外の世界からいろいろと仕入れてくることは、たまにある」
「結界の管理者――」
「この世界を作った妖怪の賢者だ。私はまだお目に掛かったことがないがな」
 霊夢さんとはどうやら違うらしい。
 やがて私たちは広場に辿り着いた。その中央に、龍を象った石像が置かれている。通りがかる人々が、その石像に手を合わせていた。信仰対象か何かなのだろう。慧音さんに訊いてみると、「龍神像だ。幻想郷の最高神の形代で、瞳が七色に変化して天気を知らせてくれる」とのこと。文明レベルから考えれば、天気予報が有り難がられるのも解る気がする。
「そういえば、博麗霊夢さんは何者なんですか? 普通に空飛んでますけど、人間ですよね?」
「私も飛べるぞ。――霊夢は、東にある博麗神社の巫女だ。妖怪退治の専門家だな。昨晩まで一週間近く続いた紅い妖霧のように、妖怪の起こした異変を解決するのが彼女の仕事だ。あの霧は、君たちが迷い込んだ館の吸血鬼の仕業だったのだろう?」
「ええ――」
 蓮子がまた眉を寄せて、何かを考え込む。慧音さんは気付かず、言葉を続けた。
「それなら、君たちも見たんじゃないか。博麗霊夢が戦う姿を」
「……あの、光弾の応酬ですか。弾幕ごっこ、とかいう」
 蓮子が黙ってしまったので、私がそう返す。慧音さんは頷いた。
「そもそもこの幻想郷は、外の世界で科学によって妖怪の存在が否定され始め、妖怪たちが力を失っていったため、彼らのための楽園として隔離された場所だ。妖怪は、人間にその存在を信じられ、畏れられないと存在していられない。この人間の里に暮らす人間たちは、妖怪にとっては自分たちの存在を支えるレゾンデートルなんだ。だから、妖怪が闇雲に人間を襲うと妖怪自身を滅ぼすことになる。それで、この里の人間は襲ってはならないというルールができた」
「……つまり、妖怪は人間に忘れられると存在できない、ということですか」
「基本的には、な。ある程度以上の力を持てば、その限りでないはずだが」
「それはまた……相対性精神学の考え方がそのまま力を持つ世界なんですね」
「相対……なんだって?」
「あ、いえ、こっちの話です」
 外の世界で私が専攻していた学問、相対性精神学について、少し説明しておかねばなるまい。相対性精神学とは、主観と客観の相克についての学問である。誰にとっても、世界は己の主観を通してしか認識され得ない。私たちの見ている世界は五官から送られる信号を通して脳が作り上げたヴァーチャルに過ぎない。そして個人の主観が相互不可侵である以上、自分に見えている世界と他人に見えている世界の同一性は決して保証され得ない。そんな曖昧な主観的世界における、自己と他者の精神の相対関係から生じる客観という虚像について考えるのが、相対性精神学だ。
 説明が小難しいだろうか。もっとざっくばらんに言えば、「私が現実だと思えば夢でも仮想でもそれが現実」とするのが相対性精神学的立場である。つまり、世界が主観的にしか認識できない以上、自分の主観的認識のみが絶対であるということだ。そして、たとえば個人の妄想であっても、それが複数の主観の間で共有されれば、それはそのコミュニティ内での客観的真実になり得る。いわゆる集団ヒステリーの類いも、その集団内においては歴とした客観的現実であるのだから、それと二〇世紀的な科学的客観性の間に本質的な違いはない。
 たとえば神の存在を自明の事実として認識し、信仰を共有している集団にとって、「世界は神が創ったのではなく、宇宙の始まりはビッグバンによる」という外部の科学的客観性は全く無価値な誤謬だ。同様に「宇宙はビッグバンで始まった」と信じる人間にとって、神による創造論は全く無価値な誤謬である。そして、その両者は、神を信仰するか、科学を信仰するかというだけの差異でしかない。どれだけ客観的とされる観測データを集めたところで、最終的にそれを認識するのは主観でしかないのだ。
 そんな絶対的主観主義を採る相対性精神学においては、認識するということが何物にも勝る力を持つ。逆に言えば、認識されないものは存在しないのと同義だ。認識の共有という共同幻想においてのみ世界は成り立つ。たとえば科学世紀において、山彦が実際は音の反射であるというように、科学的に妖怪の存在が否定されたというのは、科学という共同幻想が社会の共通認識になったということに過ぎない。音の反射という科学的認識が存在しなかった世界においては、山彦という妖怪によってその現象は合理的に説明されていた。それはつまり、山彦はその世界においては確かに存在していたということだ。
 だとすればこの幻想郷という世界は、相対性精神学における共同幻想こそが物理的に力を持つ世界ということになる。だからこそ吸血鬼も妖怪も魔法使いも時間能力者も存在しうる――。存在が認識に依拠する世界。それがこの幻想郷ということか。
 自分の領域に引きつけて納得する私の傍らで、慧音さんの話は滔々と続く。
「だが、それで妖怪たちは好きに暴れることができなくなって、不満が溜まったんだな。そんな中、半年ほど前、吸血鬼がこの幻想郷にやって来て、周囲の妖怪を巻き込んで大暴れした。吸血鬼異変と呼ばれる出来事だが――それは妖怪の賢者が吸血鬼を懲らしめて解決したんだが、そのとき妖怪のガス抜きのために、人間と妖怪が対等に戦える決闘方法が博麗霊夢と一部の妖怪によって編み出された。それが弾幕ごっこだ」
「……霊夢さんや吸血鬼と対等に戦えるのって、空を飛べる人間ぐらいでは」
「いやいや、要は取り決めの問題だ。何も霊力や魔力を使うだけじゃない。君たちだって、そのへんの小石を拾って投げるだけでも、相手との合意があればそれは弾幕ごっこになる。とにかく何らかの手段で弾幕を発生させ、その攻撃によって相手が戦意を失えば勝ち、後腐れなし。物理的に避ける手段が一切ない攻撃は原則禁止、というルールさえ守れば、人間も妖怪も対等で、その美しさは見る者の娯楽にもなる。それが弾幕ごっこという決闘方式なわけだ」
 何か詭弁のような気がしたが、そういう認識がこの世界で共有されているならば、つまりそのルールがこの世界において力を持つということだろう。レミリア嬢があっさり負けを認めたのも、そういうルールの上での決闘だったから、と理解すれば納得がいく。咲夜さんがルール云々言っていたのもそういうことなのだろう。
「……慧音さん、さっき、紅い霧は1週間近く続いた、と言いましたよね?」
 と、不意に蓮子がそう問うた。慧音さんは目をしばたたかせ、「今度は何だ」と首を傾げる。
「ああ、確かに、紅い霧は湖の方に広がり始めてから、昨晩に収まるまで一週間ほどかかったな。霊夢が3日前に動き出したと天狗から話を聞いたんだが、音沙汰のないうちに霧は人里の方にまで流れてきて、体調を崩す人間が何人も出た。迂闊に家の外にも出られない状況だったから、ほら、みんな霧が消えて晴れ晴れとした顔をしているだろう」
 慧音さんは通りを行き交う人々を示して言う。なるほど、この活気はあの霧が消えた喜びもあるのか――とそこまで考えて、私もその疑問に思い至る。
「……1週間、ですか?」
「あ、ああ。それがどうかしたのか? そういえばゆうべ、霊夢も妙なことを言っていたが」

『天狗から、解決に向かったと聞いて以来、数日も音沙汰がなかったから、もしかしたらやられてしまったのかと――』
『は? 数日? 何言ってんの、一晩でサクッと解決したわよ』

 そうだ――やはりおかしい。時間の流れが、明らかに。
 レミリア嬢が、蓮子の提案で紅い霧を広げたのは、いつのことだったのだ?
 私たちはどう考えたって、紅魔館で1週間を過ごしてなどいないはずだ。
 そして霊夢さんたちも、紅魔館で数日など過ごしていないはずなのだ――。

感想をツイートする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

この小説へのコメント

  1. 時軸の乱れが起きているのかな?だとすればそれがどのくらいの規模なのか。もしそれがこの作品全体に関わるものだとしたら・・・
    想像力が止まりません。次回も楽しみにしております。

  2. 6話目の更新時くらいから読み始めました。

    プロローグの冒頭あたりでは、幻想郷に迷い込んだ蓮子とメリーが、東方キャラたちの関わる「日常の謎」的なものを解決していく内容の物語かと思いましたが、紅魔郷編を読み進めるにつれて、これはもしかすると、浅木原さんなりに東方世界そのものを解題しようとするような、そんな主旨の作品なのではないか? と感じられるようになりました。
    それはともかく、今後も楽しみにしています。

    小兎姫が慧音の部下という設定は、「自警団上白沢班~」シリーズからのもの?
    10月12日の「科学世紀のカフェテラス」に既刊を持って来られるようなら、この機会に未読だった同シリーズを読んでみようかと考えています。

  3. 子兎姫さんがいた事に感動した自分である。フランちゃんの家に迷い込んだときもそんな感じの事言ってましたけど、関係性があるの?…。次も楽しみです

  4. 今回のキーワードは『時間軸』ですかね・・・?
    次回が楽しみです!!

  5. 毎週とても楽しく読ませて頂いてます!
    幻想郷内での時間のズレは究極的には「異変」として霊夢達が解決できるとしても、科学世紀、幻想郷間での時間のズレは恐らく霊夢の管轄外(と予想される)であり、となると紫に出張って貰うしか無い。しかし、紫と秘封倶楽部との接触はあまり好ましくないのでは?
    というところまで至って今後どうなるのか楽しみです!!

一覧へ戻る