小さな兵隊さんが九人、夜ふかししたら
一人が寝ぼうして、残りは八人
―3―
まず、どすん、とお尻に衝撃。続いて、ばさばさばさ、という音とともに、頭上から何かが降りそそいでくる。固い。痛い。ついでにもうもうと埃だか煙だかが舞いあがり――そして、ようやく静寂。
「あ痛たたたた……」
気が付けば、私は本に埋もれていた。どうやら本棚の本が、私たちの上に崩れ落ちてきたらしい。お尻と頭をさすりながら立ち上がり、蓮子の姿を探す。「うー」と蓮子は本の下敷きになってもがいていた。「大丈夫?」と私が手を差し伸べると、「うう、酷い目に遭ったわ」とぼやきながら相棒は立ち上がり、本の中から帽子を掘り出して埃を払った。
どうやら、私も蓮子も怪我はなさそうである。ほっとひとつ息を吐き出しかけたところで、違和感に気付き、私は思わず視線を巡らせた。――そして、愕然と息を飲んだ。
「……ねえ、蓮子」
「うん?」
「ここ、どこ?」
「え? ――あれ?」
蓮子もようやく状況を把握したのか、狼狽えたように周囲を見回した。
私たちを取り囲んでいるのは、無数の本が詰め込まれた書棚。だが――それは先ほどまで、私たちがいた、宇佐見菫子さんの部屋ではない。ひどく薄暗いのは変わりないが、もっと広大な、図書館のような空間だった。天井がやたらに高く、どうやってあんな高いところの本を取り出すのだろう、と疑問に思うしかない高さまで本で埋まっている。
天井からつり下げられたおぼろな光源と、本棚の上の壁に掛けられたランプが、私たちの周囲を淡く照らしている。蛍光灯ともLEDともどこか違う、不思議な光だ。足元はすり切れかけた絨毯。よく見れば書棚の足元にも、入りきらなかった本が積み上げられている。私たちの足元に散らばっているのも、そうやって積まれていた本が混ざっているらしい。
ともかく、いずれにしても、私には見覚えのない場所である。蓮子も同様らしい。菫子さんの部屋で意識を失ったとしても、なぜ見知らぬ図書館で本に埋もれていなければならないのか。とすれば――あのときの境界の揺らぐ感覚を思い出せば、答えはひとつだ。
「メリー、これ、ひょっとして――私たち、何か変な境界越えちゃったのかしら」
「……たぶん」
あの瞬間、どこかへの道がついてしまい、私たちはそこをくぐってしまったのだ。それは普段私たちが目で視るだけの境界ではない、もっとはっきりした物理的な道である。実存主義者の相棒さえ巻き込んでしまうほどに物理的な。
私の答えに、瞬時に蓮子の目が輝く。と、駆け出すように蓮子は周囲を探り始めた。私は呆気にとられたまま、とりあえず足元に散らばった大量の本を積み直す。本が床に散らかっているのを見ると、どうにも我慢がならない質なのである。状況はそれどころではない気がするが、こういう性癖は無意識のうちに出てしまうらしい。
ページの広がってしまった本は閉じて、とりあえず平積みで積み上げる。棚に勝手に戻すのは良くなさそうだ。本棚は所有者の美意識の塊であるからして。目に付く範囲の本を積み終わると、周囲をうろうろしていた蓮子が戻ってきた。
「携帯は圏外、時刻表示はとりあえず正常だけど、ここの時間と合ってるかは外が見えないから不明ね……ってメリー、なに、片付けてたの? こんな時まで律儀ねえ」
「こんな時だからこそ、よ。下手に動いて何が出てくるか解ったものじゃないんだから。またキマイラに襲われても知らないわよ?」
いつぞや、衛星トリフネにふたりで潜入したときのことだが、それはまた別の話である。
私の言葉に、相棒はひとつ首を傾げ――「そういえば妙ね」と呟いた。
「メリー、あのとき私の目に触れてなかったわよね?」
「……そうね。だから、ここが境界の向こう側の別世界なら、私たちは物理的に境界を越えたと考えた方がいいわ。今度は蓮子だってキマイラに襲われたらどうなるか」
「怖いこと言わないでよ。てことは、夢じゃないってことよね、今のこれって」
蓮子は身を震わせる。――普段、境界の向こう側を蓮子と覗き見るときは、私がこの目で捉えた視覚を、蓮子の目に触れることで蓮子と共有していた。蓮子にとって、それは夢を視ているのと同じことという認識のようだったが――衛星トリフネのキマイラだって、本当は歴とした現実だったのだ。だから私は怪我をしたし、サナトリウムに入院する羽目にもなったわけで。
「じゃあメリー、ひょっとして私たち、戻れない?」
「……これが夢じゃないなら、ね」
「うわあ」
蓮子は天を仰ぐ。ため息をつきたいのは私も一緒だ。いったい、宇佐見菫子さんの部屋で何が起こったのかも定かでないが、いずれにしても私たちがどこか見知らぬ場所に迷い込んでしまったのは確かである。さて、こういうときは普通は下手に動かないのが得策だと思うのだが。
「よし、じゃあメリー、とりあえずここがどこなのかを調べましょ!」
これである。私は思わず大げさにため息をついた。
「蓮子、自分から危険に突き進むのはいいけど、私まで巻き添えにしないで欲しいわ」
「こんなところでじっとしてたって仕方ないじゃない。動いたって動かなくなって、バケモノがいればいずれ襲われるのは一緒よ。それなら自分から動いて状況を把握した方が建設的だわ」
「動いたことで余計な災厄を呼び寄せなきゃいいけど」
「やらずに後悔するよりやって後悔しろと先人も言っているわよ、メリー」
ああ言えばこう言う。こんな流れになったとき、相棒を説き伏せる言葉を私は持たない。かくして私は宇佐見蓮子に引きずり回されるわけであり、それが私たち秘封倶楽部のいつもの形である。そうとなれば、私も腹を括るしかないだろう。
「解ったわよ。でも、危なくなったら蓮子を見捨てて逃げるからね」
「ひどいわメリー。私たちは一心同体、ふたりでひとつの秘封倶楽部だっていうのに」
「勝手に一蓮托生にしないでよ」
「まあ、どっちにしたって図書館にキマイラはいないわよ、きっとね。ほら、行くわよ」
きゅっと相棒が私の手を掴む。その手の柔らかさに、私は小さく息を吐き出す。――全く、この手にはどうにも抗いようがないのである。それもまた、私たち秘封倶楽部の代わり映えのしない姿だった。
「それにしても、怖ろしく広い図書館ね。どこまで続いているのかしら」
「いくら本の虫とは言っても、図書館で迷ってのたれ死には嫌よ」
蓮子と手を繋ぎ、私たちは立ち並ぶ書棚の間を彷徨っていた。もう随分長いこと歩き回っているような気もするが、携帯電話の時刻表示を見ると、まだ十数分しか経っていない。いや、普通に考えれば十数分歩き回って、建物の端から端まですら辿り着いていないという時点で十分におかしいのだが――。
「メリー、どうせ圏外なんだから携帯は電源切っておいた方がいいわよ」
「……それもそうね、充電できるかどうかも解らないし」
蓮子の忠告に従い、携帯電話の電源を切る。腕時計でもしていれば良かったなあと思ったが、後の祭りだ。まあ、夜になれば相棒が時計代わりになるけれど、相棒の目の引き算がこの世界でも通用するかは未知数である。
「ここ、図書館というよりどこかの倉庫なのかもね」
「問屋さん? 並んでる本からすれば超巨大古書店かしら」
「さて――ちょっと呼びかけてみますか。おーい、誰かいませんかー」
蓮子がそう声を張り上げる。図書館ではお静かに、という注意書きも見当たらないし、ここは勘弁してもらおう。蓮子の声は反響もせず吸い込まれるように空間に消えていく。やはり返事はない――。
「――あらら?」
いや、あった。その声は、どんな反響の具合なのか、私たちの頭上から聞こえてきた。私でも蓮子でもない、第三者の、女性の声。
私たちは咄嗟に頭上を振り仰ぐ。だが、頭上には果てしなく天井まで伸びる書棚と、ランプの光の向こう、闇に沈んだ天井が見えるばかり。じゃあ今の声はいったい――。
「すみませーん、誰かいるんですか?」
蓮子が再びそう呼びかける。――と。
「……侵入者? いつの間に? 珍しいこともあるわね」
今度は、背後からまた別の声が聞こえてきた。気怠そうな、掠れた少女の声。私たちは振り返り――そして、自分たちが間違いなく、境界を越えて見知らぬ世界に、科学世紀の論理が通用しない場所に来てしまったことを、知った。
その少女は、空を飛んでいた。いや、宙に浮いていた、という表現の方が正確だろう。紫がかった長い髪。病的に白い肌。眠そうに細められた目――それは明らかに人間の少女の顔だ。だが、違う。論理ではなく本能の部分で、私の中の何かが違和感を訴えている。違う。この少女は――人間とは、何かが決定的に異質な存在だと。
それは彼女の、ふっくらとしたネグリジェめいた衣裳の裾から伸びて、床を踏みしめているべき足が、床上30センチほどのところを浮遊していたから――だけではない。たとえ彼女が床を踏みしめて立っていたとしても、私は同じ印象を抱いただろう。それほどまでに、目の前にいる少女の存在は、何かが私たちとは違っている。何かが――。
ふわり、とネグリジェの裾をはためかせて、その少女は床に降り立った。床に立ってみると、私たちよりもだいぶ小柄だ。人間ならば中学生ぐらいだろうか? 人間ならば――その形容をごく自然に思い浮かべている自分に気付き、私は愕然とする。
私の本能は、即ちこう認識しているのだ。目の前の少女は人間ではない――と。
「人間? いったいどこから入り込んだのかしら。門番は何をしているんだか。この図書館には盗む価値のあるような蔵書はないわよ」
小脇に分厚いハードカバーを抱えたまま、彼女はじろじろと不躾な視線を私たちに向ける。人間、と彼女は言った。――やはり、人間ではないのか? じゃあ、いったい何だと言うのだ?
そんな疑問をぐるぐると頭の中で渦巻かせている私の横で、こういう時に先に動くのは、いつもマイペースな我が相棒と相場は決まっている。
「これはどうも、勝手に上がり込んでしまってすみません。実は――どこから入り込んだのかと言われても、私たち自身がよく解らなくて。ここはいったいどこなんです?」
蓮子の言葉に、少女はますます訝しげに眉間に皺を寄せる。と、そこへ、「パチュリー様~」と別の声が割り込んだ。先ほど、頭上から聞こえてきた声だ。
その声の主は、黒い羽根を揺らしながら、私たちの頭上から舞い降りてきた。
赤髪の少女である。白いワイシャツに黒いブレザーを羽織り、赤いネクタイをした――と書けばどこかの学生のようだが、その背中とこめかみのあたりから、黒いコウモリのような羽根が生えている。それがぱたぱたと動いて身体を宙に浮かせている以上、ただの飾りではあるまい。――悪魔、という単語が脳裏に浮かぶ。随分と可愛らしい悪魔だが――。
そのコウモリ羽根の少女は、パチュリーと呼ばれた少女の傍らに舞い降りると、小声で何か耳打ちした。パチュリーさんはその耳打ちに、眉間の皺を深くする。
「私が開けた結界の穴に? 外からあれに介入するなんて――同族には見えないけれど。貴方たち、魔法使い?」
「まほ――いやいや、ただの人間ですわ。ちょっとばかり変な力はなくもないですが」
相棒はちらりと私の方を見やって言う。私は憮然と睨み返した。引き算を能力と言い張る蓮子に、変な目とか言われる筋合いは全くないのである。
「ふうん――どっちにしろ、外の世界の人間ということね」
「外の世界?」
私たちがそう問い返したところで、少女は急にゴホゴホと咳き込んだ。まるで喘息の発作でも起こしたかのように。
「パチュリー様」
「……大丈夫。何にしても、説明が面倒だわ」
コウモリ羽根の少女が心配そうに背中をさするのを遮って、パチュリーさんは顔を上げた。
「咲夜、いるかしら?」
「――はい、パチュリー様、お呼びでしょうか」
空飛ぶ人間じゃなさそうな少女をふたりも見かけたのだ。何が出てきても今度は驚かないつもりだったが――一瞬前まで何もなかったパチュリーさんの背後に、突然もうひとつの人影が現れたのには、流石に息を飲んだ。文字通りその場にいきなり出現したように、その女性――あるいは少女は、そこに跪いていた。
一言でいえば、メイド服の少女である。フリルのついた純白のエプロンとヘッドドレス。鮮やかな銀髪を顔の両側で2本の三つ編みにして、緑のリボンで結んでいる。跪いたまま微動だにしないその姿は、それ自体が怜悧な彫像のようだ。
――その姿に、不意に私は既視感を覚える。私は、この人を見たことがある。いや、見ただけではない。会って話をしたことがある――。あれは、そう、確か。
「人間の侵入者2名を発見したわ。外来人のようね。うちのお嬢様に手を出そうという手合いでは無さそうだから、とりあえずは飛び入りの客人扱いでもしてあげて頂戴。何かあったらレミィのパイにするか、妹様の遊び相手でもさせるか、レミィと貴方の判断に任せるわ」
「かしこまりました」
「あとはよろしくね。それと、こぁ。穴はしっかり塞いでおきなさい」
「わかりました~」
コウモリ羽根の少女が、羽根をぱたぱたとさせながら飛んでいき、パチュリーさんもまたふわりと浮かび上がって書棚の向こうに消えていく。あとには私たちと、咲夜と呼ばれたメイド服の少女だけが残された。咲夜さんは立ち上がり、私たちに歩み寄る。
ああ、と私は彼女の顔に、既視感の正体を悟って、ひとつ息を吐いた。そうだ、間違いない。彼女は以前、夢で視た赤いお屋敷で、私にクッキーをくれたあのお手伝いさんだ。
だが、彼女は私を覚えていなかったのか、私の顔を見ても顔色ひとつ変えることなく、瀟洒に腰を折って一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。パチュリー様のお申し付けにより、貴方様がたをまずはご客人として歓迎いたします。私、この紅魔館のメイド長、十六夜咲夜と申します」
「――はじめまして、宇佐見蓮子です」
「あ、ま、マエリベリー・ハーンです」
丁重な挨拶に、私たちは慌てて返礼とともに名前を名乗る。そういえば、以前に夢の中で会ったときはお互い名前を名乗らなかったっけ。十六夜咲夜――また随分と芝居がかった名前でなあ、と私は嘆息する。そもそもこのメイド服自体が芝居がかっているし、それを言い出したら今私たちが置かれている状況そのものがフィクションとしか思えないのだが――。
「こうまかん、ですか? どなたかのお屋敷です?」
「はい。我が主、レミリア・スカーレットお嬢様の館、紅魔館。ここはその地下、パチュリー様の大図書館にあたります。――まずは客間へご案内申し上げます。宇佐見様、ハーン様、こちらへどうぞ」
くるりと優雅に踵を返し、彼女は音もなく歩き出した。私は蓮子と顔を見合わせる。ともかく、今は彼女についていく他あるまい。私たちは慌てて、彼女の後を追った。
―4―
あんなに広大に感じた図書館から、咲夜さんの後に続くとあっという間に外に出てしまう。狐に化かされたような気分を味わいながら、私たちは薄暗い階段を上り、館の廊下へ足を踏み出した。瞬間、目の前に広がった光景に、私は、ああ、と納得する。
赤。いや、真紅、という方が正確かもしれない。壁も床も敷かれた絨毯も、鮮やかな真紅に統一されている。ランプの光が照らすその真紅は、はっとするほど眩く見えたかと思えば、乾いた血のように暗く闇に沈んでいく。この赤さはやはり――あの夢で視た館なのだ。
あのときは外から、正確には門のところで話をしただけだから、内装までは知らなかったけれど、中まで赤い館だったらしい。主の趣味なのだろうか?
「赤い館――といえば、ミルンの古典的名作ミステリだけど」
「『赤い館の秘密』ね」
そんなことを小声で言い合いながら、足音を吸い込む絨毯の上を、私たちは咲夜さんの後にしたがって歩いていく。図書館も広かったが、廊下も随分長く見える。どこまで続いているのだろう――と咲夜さんの肩越しに先を見通そうとして、ふと違和感を覚えた。
「ねえ、蓮子。この廊下――窓が無くない?」
「……そういえば、無いわね。まだ地下なのかしら」
私たちが進む廊下の、右手側にはドアが並んでいる。左手側にもドアが並ぶなら、窓が見当たらなくても不思議はないのだが――左手側は、延々と壁だけが続いているのだ。ところどころ、それを誤魔化すかのように額縁に入った絵が飾られてはいるが――廊下全体がひどく薄暗いのは、外の光が入ってこないからなのだ。
「ここは地上です。窓がないのは、お嬢様が陽の光をお嫌いだからですわ」
咲夜さんが短くそう答える。陽光が嫌い? それではまるで――。
「吸血鬼みたいですね」
蓮子が冗談めかして言うと、咲夜さんは不意に立ち止まり、くるりとその場で振り向いた。
その顔に浮かんだ微笑に、私はなぜだが、ぞっと背筋が寒くなるのを感じ、思わず相棒の腕を掴む。相棒もぐっと押し黙り、私の手を握り返してきた。
「……こちらへどうぞ」
咲夜さんは、蓮子の冗談には答えず、廊下のドアのひとつを開き、私たちを招き入れた。私は我知らず安堵の息を吐き出しながら、その部屋を覗きこむ。随分と広い客間だった。相変わらず赤で統一されているが、革張りのソファー、マホガニーとおぼしきテーブル、頭上にはシャンデリア。豪勢なお屋敷と聞いて思い浮かべるような内装が、そのまま再現されている。
「お嬢様はまだお休みのお時間ですので、しばしこちらでお待ちくださいませ。紅茶でもお持ちいたしましょうか」
ふかふかのソファーに腰を下ろした私たちに、咲夜さんはそう訊ねる。私たちは顔を見合わせ、「じゃあ、いただきます」と頷いた。すると――。
「かしこまりました。では」
と、咲夜さんが瀟洒に一礼した次の瞬間、その手にはポットとカップの載ったトレイが出現していたのだ。まるで手品のように、文字通り一瞬で、虚空から出現したかのように。
「え、えっ?」
何が起こったのか理解できずに混乱する私たちを尻目に、咲夜さんはカップに紅茶を注ぐと、「それでは、何かございましたらいつでもお呼び下さいませ」と言い残し――気が付いた瞬間には、その姿が部屋の中から消えていた。ドアを開け閉めする音さえ立てずに。
ぽかんと、咲夜さんの消えたドアを見つめていた私たちは、それからこわごわとカップを手に取る。まさか毒が入っているなんてことはないとは思うが――決死の覚悟で口をつけると、豊穣な香りが広がり、鼻腔をくすぐった。
「あ、美味しい」
「あらホント」
温かい紅茶を口にしたことで、ようやく人心地ついた気分で、私は息を吐く。そして、向かいに座る蓮子に改めて向き直った。知った人に出会えた気楽さはあるものの、未だ何が何だか解らないことだらけで、頭が追いつかない。とにかく現状を、一度整理する必要がある。
「蓮子。いったい、何がどうなってるのかしら」
「私に訊かれても困るわよ。ここに来たのはメリーの能力のせいじゃないの?」
「違うわよ、あれは――」
私は眉を寄せ、記憶を掘り返す。菫子さんの部屋で見つけたノート。そこからこぼれ落ちた虫入りの琥珀。その瞬間、結界が大きく揺らいで――。
はっと、私はポケットを探った。だが、あの虫入りの琥珀はどこにもない。蓮子も手ぶらで、どう見てもあのノートを持っているようには見えなかった。
「……あれは、たぶん、元からあの部屋にあった結界の亀裂が、何かの拍子に開いたんだわ」
「つまり、うちの大叔母さんのせいだってこと?」
「さあ――でも、無関係ではないと思うけど」
私の言葉に、蓮子は腕を組んでひとつ唸る。それから、蓮子は自分の頬を急につねった。夢かどうか確認する手段としては古典的すぎやしないか、それは。
「私は今、実体としてこの世界に来ているのよね。今までメリーと視てきた夢と違って」
「蓮子がそう思ってないだけで、今までだってあれは現実だったのよ」
「そのへんの相対性精神学的議論はこの際保留よ。ともかくこれが現実で、トリフネのときなんかと違って帰還の手段が無いなら、まずはそれを何とかしなきゃ」
「何とかって、どうするの?」
「それこそ、結界の裂け目を見つけるメリーの仕事じゃない」
「そんなこと言われても――この館の中に、少なくともそんな大きな揺らぎは見当たらないわ。館全体には、何かこう、よくわからない違和感があるけど――」
そう、図書館のあの異様な広さ、廊下の奇妙な長さ――あれは本当に現実だったのだろうか。
いや、それ以前に、まずもっと現実性を疑わなければならない現象はいくつもあるのだが。
「違和感と言ったら、それ以前に奇妙なことだらけだわ、この館は」
相棒は後頭部で腕を組んで、天井のシャンデリアを見上げる。
「大叔母さんの部屋から、なぜ私たちはこの館の地下の図書館に飛ばされたのか。パチュリーと呼ばれてた宙に浮いてるあの子と、コウモリの羽根をつけた空飛ぶ少女は何者か、そもそも人間なのか。あの咲夜さんにしたって、妙な手品を使うし――」
「手品、なのかしら」
「手品じゃなかったら、超能力ね。テレポーテーションかしら?」
「……菫子さんは超能力者なんじゃなかった?」
「む。大叔母さんの関係者? いやいやまさか」
蓮子はひとつ唸って首を傾げる。
「まあ、何にしても、まずはお嬢様とやらにお目通り願うのが先決かしら。何者なのか知らないけれど――まあ、お嬢様も普通の人間じゃないんでしょうね。……生きて帰れるかしら?」
「そういえば、あのひと――パチュリーさんが何か妙なこと言ってたわね。確か――」
――レミィのパイにするか、とかなんとか。
私がそう言うと、相棒は眉間に皺を寄せてテーブルに肘を突く。
「レミリア、って言ってたっけ。お嬢様の名前。レミィは愛称かしらね。……パイにするって、何を? パイって、お菓子のパイよね?」
「……私たちを、じゃないの?」
「…………」
肉料理とかではなく、お菓子というところがかえって想像するだに怖ろしい。いったいこの館の〝お嬢様〟とやらはどんな存在なのだ?
「怖いこと言わないでよ、メリー」
「現状が既に冷静に考えれば相当怖ろしいんだから仕方ないじゃない。得体の知れない館、人間の姿だけど人間じゃなさそうな住人、超能力者のメイドさん。哀れな仔羊は注文の多い料理店のごとく、美味しく食卓に並べられてしまってもおかしくないわよ」
「うう、くわばらくわばら。せめてお嬢様が話の解る相手であることを祈りましょ」
大げさに身を震わせてみせる蓮子が、どこまで本気で怖がっているのか、私にはよく解らない。私自身も、危機感を掴み兼ねているというのが正直なところだ。少なくともここに迷い込んでから、まだ明確に命の危険を感じてはいないわけだし。ただ、現状が〝わからない〟ことに対する漠然とした不安が、じわじわと首を絞めているだけで。
「――ところでメリー」
「うん?」
「今思い出したんだけど……前に、夢で視た赤い館でクッキーを貰ってきたって話、しなかったかしら?」
「あら、覚えてたの?」
てっきり蓮子は忘れていると思って、口にしないでいたのだが。
「ひょっとして」
「そう、クッキーをくれたのはあの咲夜さんよ。間違いないわ」
「――それで咲夜さんが現れたとき、妙な顔してたわけね。納得したわ」
紅茶を啜りながら、蓮子は「しかし」と鼻を鳴らす。
「咲夜さんはメリーを見ても無反応だったけど、覚えてなかったのかしら?」
「じゃないかしら。……そうね、門の前でクッキーを貰っただけだし……」
「ともかく、その夢の話、覚えてる限りでもう一回聞かせてくれない? 現状、何か手掛かりがあるとあすれば、メリーの夢しかないわ」
「覚えてる限りでって言われてもね――」
私は首を捻り、随分前に見た夢の記憶を探る。夢なんて普通は目覚めた瞬間に忘れていくものだろうが、あの頃立て続けに見て、そこから何かを持ち帰った夢の記憶は、今も鮮明だ。だからこそ、夢と現実の区別があの時期、ひどく曖昧になってしまったのだが――。
ともかく……そう、最初は確か、薄暗い森の中だった。
―5―
――薄暗い森を抜けたとき、私の視界を包み込んだのは、一面の白い霧だった。
まとわりつくような霧は、視界どころか五感さえも遮断するみたいに、私の世界を白く埋め尽くす。霧の中を泳ぐように、私は足を進めた。
その乳白色の闇の中に、ぼんやりと浮かび上がったのは、真っ赤な影。
焦点を失ってぼやけていたその赤は、やがて大きなお屋敷という輪郭を露わにしていく。
不意に風が吹いて、霧が薄らいだ。私はいつの間にか、大きな湖の畔に佇んでいた。その対岸に、その赤いお屋敷は静寂を背負って佇立している。
山の緑を背負い、湖から流れてくる白い霧に煙る、真っ赤なお屋敷。その子供の絵のような原色のアンバランスさが、どこか逆に風景にしっくりと馴染んでいるような気がした。作り物めいた光景こそが、夢の中には相応しいのかもしれない。
いったい、この館にはどんな住人が暮らしているのだろう? 私は好奇心に駆られ、館へと足を向けた。
ちょっと寄ってみようかしら。突然訪れても、失礼じゃないかしら。そもそも、目の前のお屋敷は私を受け入れてくれるかしら? ――って、何を夢の中で怖じ気づいているのかしら。
そんな自問自答を繰り返しながら、門の前まで辿り着く。閉ざされた鉄の門は、侵入者を拒むように冷たく、固く、重い。掴んで揺さぶってみたけれど、私の力ではびくともしなかった。やっぱり、飛び入りで上がり込めるようなお屋敷ではないようだ――。
と、門の向こうに、メイド服を着た女性の姿が見えた。玄関ホールから、色とりどりの花が咲き乱れる花壇の間の石畳を渡って、こちらへ向かってくる。お手伝いさんだろうか。
銀色の髪を三つ編みにした、背の高い女性。瀟洒、という言葉が思い浮かぶ優雅な立ち居ぶるまいは、この大きなお屋敷に相応しいものにも見えた。
ごめんください、と私は彼女に呼びかける。
彼女は、私の姿を見留めて、その怜悧な顔にふっと柔らかな笑みを浮かべた。
あら、こんにちは。彼女はどこか親しげに、そう私に微笑みかけてくる。
門の鉄柵越しに、ご主人様にお目にかかりたいのですけれど、と私は呼びかける。
残念ですが、とメイドさんは首を傾げた。お嬢様はまだお休みの時間ですわ。
私は空を見上げる。蒼天は眩く、陽は高い。こんな昼間に眠っているなんて、お嬢様とやらは随分と優雅なご身分のようだ。
今日はおひとりですか、とメイドさんが私に問うた。少しおかしな問いだと思ったけれど、私は、はい、と頷く。そうですか、と頷いたメイドさんは、ポケットから小さな袋を取りだして、門の隙間から私に差し出した。
騒がしいのは嫌だから、眠っている間は客人を入れないように、とはお嬢様の命ですので、申し訳ありませんが、今はお引き取り頂けますか。お嬢様に御用でしたら、また夕刻にでもいらしてくださいませ。
微笑んで、私の手のひらに袋を落とし、メイドさんは微笑む。
手の中でかさりと音を立てた袋の中身は、どうやらクッキーのようだった。
わかりました、と私は少し残念な心持ちで頷く。メイドさんは小首を傾げ、こう言った。
お嬢様も、妹様も、皆、貴方たちでしたら歓迎いたしますわ――。
―6―
「そのクッキーって、結局どうしたんだっけ」
「食べたじゃない、ふたりで。異界の食べ物を口にしたら戻れなくなるとか私のこと脅したくせに、自分から食べたのよ、蓮子ってば」
「あー、そうそう、美味しかったわねアレ。そっか、彼女の作ったものだったのね」
納得したように頷き、「そのせいってことはないわよね?」と蓮子は頬杖をついて呟く。
「ここに迷い込んだのはクッキーを食べたせい? いくらなんでも時間差すぎると思うけど」
「そうよねえ。でも、ここがメリーの夢の中なら、クッキーを私が食べたことも無関係ではない気もするけれど――それだと大叔母さんの部屋からここに飛ばされたことに説明がつかないか。ううん――」
首を振り、蓮子は考え込む。私は息を吐いて、改めて部屋の中を見回した。
――目に留まったのは、部屋の隅に鎮座する書棚だった。ソファーから立ち上がり、私はその書棚に歩み寄る。さっき図書館で無数の本の迷宮を彷徨ったというのに、本の気配を感じるとついつい気になって見に行ってしまうのは、やはり本好きの性である。
並んでいるのはやはり、それ自体がインテリアめいた分厚い革張りの洋書である。そもそも背表紙にタイトルが見えない。辞典か何かの全集か――そんなことを思いながら書棚に目を走らせていくと、その片隅に、明らかに他の本とは不釣り合いなものが1冊紛れ込んでいた。緑色の古びたハードカバーである。それ故に目に付いたその本を、私は手に取る。
「何か面白いものでもあった?」
私の肩越しに、相棒がその本を覗きこみ、「あら」と声をあげる。
「クリスティーの原書じゃない。『TEN LITTLE NIGGERS』――」
「『そして誰もいなくなった』ね。しかも1939年のイギリスの初版だわ」
言わずと知れた世界最大のベストセラー作家、アガサ・クリスティーの代表作中の代表作である。原題は『AND THEN THERE WERE NONE』とされていることが多いが、それはアメリカで出版された際にNIGGERが差別語だとして改題されたタイトルで、イギリスで刊行されたときの原題はこちらなのだ。
「懐かしいわね。中学生のときに読んで以来だわ」
「メリーはやっぱり原書で?」
「ううん、青木久惠訳の日本語で。蓮子も読んだのは青木訳でしょ?」
「自慢じゃないけど、誤訳問題が気になって、原書と清水訳と三種類読み比べたわよ」
「それは物好きのすることだわ」
私は呆れ混じりにそうため息をつく。最初に日本で邦訳されたときの清水俊二の訳に誤訳が指摘され、21世紀になってから改訳されたという話は私も知ってはいるが、私は青木訳で一度読んだきりである。
「ねえ蓮子、もしこの館の住人が8人いたら、私たち入れて10人よね?」
「そして誰もいなくなるって? だから怖いこと言わない。まあ、この大きいお屋敷に、住人が8人じゃバランスが悪い気はするけど――」
とは言うものの、今のところ出会ったのはたった3人である。うちふたりは人間なのかどうかも怪しいが。
「だいたい、空を飛んだり瞬間移動する住人のいる館で、本格ミステリも何も無いわね」
「そんなこと言ったら西澤保彦に怒られるわよ」
「生憎、私たちはチョーモンインじゃなく秘封倶楽部なのよ、メリー」
そんな益体もないことを言い合っていると――不意に、部屋のドアがノックされた。
「失礼いたします」
現れたのは咲夜さんである。私たちが本を置いて振り向くと、咲夜さんはドアを開けて、退出を促すように手を差し伸べた。
「お嬢様がお目覚めになられまして、おふたりとお会いになられるそうです」
私たちは、思わず顔を見合わせた。
一人が寝ぼうして、残りは八人
―3―
まず、どすん、とお尻に衝撃。続いて、ばさばさばさ、という音とともに、頭上から何かが降りそそいでくる。固い。痛い。ついでにもうもうと埃だか煙だかが舞いあがり――そして、ようやく静寂。
「あ痛たたたた……」
気が付けば、私は本に埋もれていた。どうやら本棚の本が、私たちの上に崩れ落ちてきたらしい。お尻と頭をさすりながら立ち上がり、蓮子の姿を探す。「うー」と蓮子は本の下敷きになってもがいていた。「大丈夫?」と私が手を差し伸べると、「うう、酷い目に遭ったわ」とぼやきながら相棒は立ち上がり、本の中から帽子を掘り出して埃を払った。
どうやら、私も蓮子も怪我はなさそうである。ほっとひとつ息を吐き出しかけたところで、違和感に気付き、私は思わず視線を巡らせた。――そして、愕然と息を飲んだ。
「……ねえ、蓮子」
「うん?」
「ここ、どこ?」
「え? ――あれ?」
蓮子もようやく状況を把握したのか、狼狽えたように周囲を見回した。
私たちを取り囲んでいるのは、無数の本が詰め込まれた書棚。だが――それは先ほどまで、私たちがいた、宇佐見菫子さんの部屋ではない。ひどく薄暗いのは変わりないが、もっと広大な、図書館のような空間だった。天井がやたらに高く、どうやってあんな高いところの本を取り出すのだろう、と疑問に思うしかない高さまで本で埋まっている。
天井からつり下げられたおぼろな光源と、本棚の上の壁に掛けられたランプが、私たちの周囲を淡く照らしている。蛍光灯ともLEDともどこか違う、不思議な光だ。足元はすり切れかけた絨毯。よく見れば書棚の足元にも、入りきらなかった本が積み上げられている。私たちの足元に散らばっているのも、そうやって積まれていた本が混ざっているらしい。
ともかく、いずれにしても、私には見覚えのない場所である。蓮子も同様らしい。菫子さんの部屋で意識を失ったとしても、なぜ見知らぬ図書館で本に埋もれていなければならないのか。とすれば――あのときの境界の揺らぐ感覚を思い出せば、答えはひとつだ。
「メリー、これ、ひょっとして――私たち、何か変な境界越えちゃったのかしら」
「……たぶん」
あの瞬間、どこかへの道がついてしまい、私たちはそこをくぐってしまったのだ。それは普段私たちが目で視るだけの境界ではない、もっとはっきりした物理的な道である。実存主義者の相棒さえ巻き込んでしまうほどに物理的な。
私の答えに、瞬時に蓮子の目が輝く。と、駆け出すように蓮子は周囲を探り始めた。私は呆気にとられたまま、とりあえず足元に散らばった大量の本を積み直す。本が床に散らかっているのを見ると、どうにも我慢がならない質なのである。状況はそれどころではない気がするが、こういう性癖は無意識のうちに出てしまうらしい。
ページの広がってしまった本は閉じて、とりあえず平積みで積み上げる。棚に勝手に戻すのは良くなさそうだ。本棚は所有者の美意識の塊であるからして。目に付く範囲の本を積み終わると、周囲をうろうろしていた蓮子が戻ってきた。
「携帯は圏外、時刻表示はとりあえず正常だけど、ここの時間と合ってるかは外が見えないから不明ね……ってメリー、なに、片付けてたの? こんな時まで律儀ねえ」
「こんな時だからこそ、よ。下手に動いて何が出てくるか解ったものじゃないんだから。またキマイラに襲われても知らないわよ?」
いつぞや、衛星トリフネにふたりで潜入したときのことだが、それはまた別の話である。
私の言葉に、相棒はひとつ首を傾げ――「そういえば妙ね」と呟いた。
「メリー、あのとき私の目に触れてなかったわよね?」
「……そうね。だから、ここが境界の向こう側の別世界なら、私たちは物理的に境界を越えたと考えた方がいいわ。今度は蓮子だってキマイラに襲われたらどうなるか」
「怖いこと言わないでよ。てことは、夢じゃないってことよね、今のこれって」
蓮子は身を震わせる。――普段、境界の向こう側を蓮子と覗き見るときは、私がこの目で捉えた視覚を、蓮子の目に触れることで蓮子と共有していた。蓮子にとって、それは夢を視ているのと同じことという認識のようだったが――衛星トリフネのキマイラだって、本当は歴とした現実だったのだ。だから私は怪我をしたし、サナトリウムに入院する羽目にもなったわけで。
「じゃあメリー、ひょっとして私たち、戻れない?」
「……これが夢じゃないなら、ね」
「うわあ」
蓮子は天を仰ぐ。ため息をつきたいのは私も一緒だ。いったい、宇佐見菫子さんの部屋で何が起こったのかも定かでないが、いずれにしても私たちがどこか見知らぬ場所に迷い込んでしまったのは確かである。さて、こういうときは普通は下手に動かないのが得策だと思うのだが。
「よし、じゃあメリー、とりあえずここがどこなのかを調べましょ!」
これである。私は思わず大げさにため息をついた。
「蓮子、自分から危険に突き進むのはいいけど、私まで巻き添えにしないで欲しいわ」
「こんなところでじっとしてたって仕方ないじゃない。動いたって動かなくなって、バケモノがいればいずれ襲われるのは一緒よ。それなら自分から動いて状況を把握した方が建設的だわ」
「動いたことで余計な災厄を呼び寄せなきゃいいけど」
「やらずに後悔するよりやって後悔しろと先人も言っているわよ、メリー」
ああ言えばこう言う。こんな流れになったとき、相棒を説き伏せる言葉を私は持たない。かくして私は宇佐見蓮子に引きずり回されるわけであり、それが私たち秘封倶楽部のいつもの形である。そうとなれば、私も腹を括るしかないだろう。
「解ったわよ。でも、危なくなったら蓮子を見捨てて逃げるからね」
「ひどいわメリー。私たちは一心同体、ふたりでひとつの秘封倶楽部だっていうのに」
「勝手に一蓮托生にしないでよ」
「まあ、どっちにしたって図書館にキマイラはいないわよ、きっとね。ほら、行くわよ」
きゅっと相棒が私の手を掴む。その手の柔らかさに、私は小さく息を吐き出す。――全く、この手にはどうにも抗いようがないのである。それもまた、私たち秘封倶楽部の代わり映えのしない姿だった。
「それにしても、怖ろしく広い図書館ね。どこまで続いているのかしら」
「いくら本の虫とは言っても、図書館で迷ってのたれ死には嫌よ」
蓮子と手を繋ぎ、私たちは立ち並ぶ書棚の間を彷徨っていた。もう随分長いこと歩き回っているような気もするが、携帯電話の時刻表示を見ると、まだ十数分しか経っていない。いや、普通に考えれば十数分歩き回って、建物の端から端まですら辿り着いていないという時点で十分におかしいのだが――。
「メリー、どうせ圏外なんだから携帯は電源切っておいた方がいいわよ」
「……それもそうね、充電できるかどうかも解らないし」
蓮子の忠告に従い、携帯電話の電源を切る。腕時計でもしていれば良かったなあと思ったが、後の祭りだ。まあ、夜になれば相棒が時計代わりになるけれど、相棒の目の引き算がこの世界でも通用するかは未知数である。
「ここ、図書館というよりどこかの倉庫なのかもね」
「問屋さん? 並んでる本からすれば超巨大古書店かしら」
「さて――ちょっと呼びかけてみますか。おーい、誰かいませんかー」
蓮子がそう声を張り上げる。図書館ではお静かに、という注意書きも見当たらないし、ここは勘弁してもらおう。蓮子の声は反響もせず吸い込まれるように空間に消えていく。やはり返事はない――。
「――あらら?」
いや、あった。その声は、どんな反響の具合なのか、私たちの頭上から聞こえてきた。私でも蓮子でもない、第三者の、女性の声。
私たちは咄嗟に頭上を振り仰ぐ。だが、頭上には果てしなく天井まで伸びる書棚と、ランプの光の向こう、闇に沈んだ天井が見えるばかり。じゃあ今の声はいったい――。
「すみませーん、誰かいるんですか?」
蓮子が再びそう呼びかける。――と。
「……侵入者? いつの間に? 珍しいこともあるわね」
今度は、背後からまた別の声が聞こえてきた。気怠そうな、掠れた少女の声。私たちは振り返り――そして、自分たちが間違いなく、境界を越えて見知らぬ世界に、科学世紀の論理が通用しない場所に来てしまったことを、知った。
その少女は、空を飛んでいた。いや、宙に浮いていた、という表現の方が正確だろう。紫がかった長い髪。病的に白い肌。眠そうに細められた目――それは明らかに人間の少女の顔だ。だが、違う。論理ではなく本能の部分で、私の中の何かが違和感を訴えている。違う。この少女は――人間とは、何かが決定的に異質な存在だと。
それは彼女の、ふっくらとしたネグリジェめいた衣裳の裾から伸びて、床を踏みしめているべき足が、床上30センチほどのところを浮遊していたから――だけではない。たとえ彼女が床を踏みしめて立っていたとしても、私は同じ印象を抱いただろう。それほどまでに、目の前にいる少女の存在は、何かが私たちとは違っている。何かが――。
ふわり、とネグリジェの裾をはためかせて、その少女は床に降り立った。床に立ってみると、私たちよりもだいぶ小柄だ。人間ならば中学生ぐらいだろうか? 人間ならば――その形容をごく自然に思い浮かべている自分に気付き、私は愕然とする。
私の本能は、即ちこう認識しているのだ。目の前の少女は人間ではない――と。
「人間? いったいどこから入り込んだのかしら。門番は何をしているんだか。この図書館には盗む価値のあるような蔵書はないわよ」
小脇に分厚いハードカバーを抱えたまま、彼女はじろじろと不躾な視線を私たちに向ける。人間、と彼女は言った。――やはり、人間ではないのか? じゃあ、いったい何だと言うのだ?
そんな疑問をぐるぐると頭の中で渦巻かせている私の横で、こういう時に先に動くのは、いつもマイペースな我が相棒と相場は決まっている。
「これはどうも、勝手に上がり込んでしまってすみません。実は――どこから入り込んだのかと言われても、私たち自身がよく解らなくて。ここはいったいどこなんです?」
蓮子の言葉に、少女はますます訝しげに眉間に皺を寄せる。と、そこへ、「パチュリー様~」と別の声が割り込んだ。先ほど、頭上から聞こえてきた声だ。
その声の主は、黒い羽根を揺らしながら、私たちの頭上から舞い降りてきた。
赤髪の少女である。白いワイシャツに黒いブレザーを羽織り、赤いネクタイをした――と書けばどこかの学生のようだが、その背中とこめかみのあたりから、黒いコウモリのような羽根が生えている。それがぱたぱたと動いて身体を宙に浮かせている以上、ただの飾りではあるまい。――悪魔、という単語が脳裏に浮かぶ。随分と可愛らしい悪魔だが――。
そのコウモリ羽根の少女は、パチュリーと呼ばれた少女の傍らに舞い降りると、小声で何か耳打ちした。パチュリーさんはその耳打ちに、眉間の皺を深くする。
「私が開けた結界の穴に? 外からあれに介入するなんて――同族には見えないけれど。貴方たち、魔法使い?」
「まほ――いやいや、ただの人間ですわ。ちょっとばかり変な力はなくもないですが」
相棒はちらりと私の方を見やって言う。私は憮然と睨み返した。引き算を能力と言い張る蓮子に、変な目とか言われる筋合いは全くないのである。
「ふうん――どっちにしろ、外の世界の人間ということね」
「外の世界?」
私たちがそう問い返したところで、少女は急にゴホゴホと咳き込んだ。まるで喘息の発作でも起こしたかのように。
「パチュリー様」
「……大丈夫。何にしても、説明が面倒だわ」
コウモリ羽根の少女が心配そうに背中をさするのを遮って、パチュリーさんは顔を上げた。
「咲夜、いるかしら?」
「――はい、パチュリー様、お呼びでしょうか」
空飛ぶ人間じゃなさそうな少女をふたりも見かけたのだ。何が出てきても今度は驚かないつもりだったが――一瞬前まで何もなかったパチュリーさんの背後に、突然もうひとつの人影が現れたのには、流石に息を飲んだ。文字通りその場にいきなり出現したように、その女性――あるいは少女は、そこに跪いていた。
一言でいえば、メイド服の少女である。フリルのついた純白のエプロンとヘッドドレス。鮮やかな銀髪を顔の両側で2本の三つ編みにして、緑のリボンで結んでいる。跪いたまま微動だにしないその姿は、それ自体が怜悧な彫像のようだ。
――その姿に、不意に私は既視感を覚える。私は、この人を見たことがある。いや、見ただけではない。会って話をしたことがある――。あれは、そう、確か。
「人間の侵入者2名を発見したわ。外来人のようね。うちのお嬢様に手を出そうという手合いでは無さそうだから、とりあえずは飛び入りの客人扱いでもしてあげて頂戴。何かあったらレミィのパイにするか、妹様の遊び相手でもさせるか、レミィと貴方の判断に任せるわ」
「かしこまりました」
「あとはよろしくね。それと、こぁ。穴はしっかり塞いでおきなさい」
「わかりました~」
コウモリ羽根の少女が、羽根をぱたぱたとさせながら飛んでいき、パチュリーさんもまたふわりと浮かび上がって書棚の向こうに消えていく。あとには私たちと、咲夜と呼ばれたメイド服の少女だけが残された。咲夜さんは立ち上がり、私たちに歩み寄る。
ああ、と私は彼女の顔に、既視感の正体を悟って、ひとつ息を吐いた。そうだ、間違いない。彼女は以前、夢で視た赤いお屋敷で、私にクッキーをくれたあのお手伝いさんだ。
だが、彼女は私を覚えていなかったのか、私の顔を見ても顔色ひとつ変えることなく、瀟洒に腰を折って一礼する。
「ようこそいらっしゃいました。パチュリー様のお申し付けにより、貴方様がたをまずはご客人として歓迎いたします。私、この紅魔館のメイド長、十六夜咲夜と申します」
「――はじめまして、宇佐見蓮子です」
「あ、ま、マエリベリー・ハーンです」
丁重な挨拶に、私たちは慌てて返礼とともに名前を名乗る。そういえば、以前に夢の中で会ったときはお互い名前を名乗らなかったっけ。十六夜咲夜――また随分と芝居がかった名前でなあ、と私は嘆息する。そもそもこのメイド服自体が芝居がかっているし、それを言い出したら今私たちが置かれている状況そのものがフィクションとしか思えないのだが――。
「こうまかん、ですか? どなたかのお屋敷です?」
「はい。我が主、レミリア・スカーレットお嬢様の館、紅魔館。ここはその地下、パチュリー様の大図書館にあたります。――まずは客間へご案内申し上げます。宇佐見様、ハーン様、こちらへどうぞ」
くるりと優雅に踵を返し、彼女は音もなく歩き出した。私は蓮子と顔を見合わせる。ともかく、今は彼女についていく他あるまい。私たちは慌てて、彼女の後を追った。
―4―
あんなに広大に感じた図書館から、咲夜さんの後に続くとあっという間に外に出てしまう。狐に化かされたような気分を味わいながら、私たちは薄暗い階段を上り、館の廊下へ足を踏み出した。瞬間、目の前に広がった光景に、私は、ああ、と納得する。
赤。いや、真紅、という方が正確かもしれない。壁も床も敷かれた絨毯も、鮮やかな真紅に統一されている。ランプの光が照らすその真紅は、はっとするほど眩く見えたかと思えば、乾いた血のように暗く闇に沈んでいく。この赤さはやはり――あの夢で視た館なのだ。
あのときは外から、正確には門のところで話をしただけだから、内装までは知らなかったけれど、中まで赤い館だったらしい。主の趣味なのだろうか?
「赤い館――といえば、ミルンの古典的名作ミステリだけど」
「『赤い館の秘密』ね」
そんなことを小声で言い合いながら、足音を吸い込む絨毯の上を、私たちは咲夜さんの後にしたがって歩いていく。図書館も広かったが、廊下も随分長く見える。どこまで続いているのだろう――と咲夜さんの肩越しに先を見通そうとして、ふと違和感を覚えた。
「ねえ、蓮子。この廊下――窓が無くない?」
「……そういえば、無いわね。まだ地下なのかしら」
私たちが進む廊下の、右手側にはドアが並んでいる。左手側にもドアが並ぶなら、窓が見当たらなくても不思議はないのだが――左手側は、延々と壁だけが続いているのだ。ところどころ、それを誤魔化すかのように額縁に入った絵が飾られてはいるが――廊下全体がひどく薄暗いのは、外の光が入ってこないからなのだ。
「ここは地上です。窓がないのは、お嬢様が陽の光をお嫌いだからですわ」
咲夜さんが短くそう答える。陽光が嫌い? それではまるで――。
「吸血鬼みたいですね」
蓮子が冗談めかして言うと、咲夜さんは不意に立ち止まり、くるりとその場で振り向いた。
その顔に浮かんだ微笑に、私はなぜだが、ぞっと背筋が寒くなるのを感じ、思わず相棒の腕を掴む。相棒もぐっと押し黙り、私の手を握り返してきた。
「……こちらへどうぞ」
咲夜さんは、蓮子の冗談には答えず、廊下のドアのひとつを開き、私たちを招き入れた。私は我知らず安堵の息を吐き出しながら、その部屋を覗きこむ。随分と広い客間だった。相変わらず赤で統一されているが、革張りのソファー、マホガニーとおぼしきテーブル、頭上にはシャンデリア。豪勢なお屋敷と聞いて思い浮かべるような内装が、そのまま再現されている。
「お嬢様はまだお休みのお時間ですので、しばしこちらでお待ちくださいませ。紅茶でもお持ちいたしましょうか」
ふかふかのソファーに腰を下ろした私たちに、咲夜さんはそう訊ねる。私たちは顔を見合わせ、「じゃあ、いただきます」と頷いた。すると――。
「かしこまりました。では」
と、咲夜さんが瀟洒に一礼した次の瞬間、その手にはポットとカップの載ったトレイが出現していたのだ。まるで手品のように、文字通り一瞬で、虚空から出現したかのように。
「え、えっ?」
何が起こったのか理解できずに混乱する私たちを尻目に、咲夜さんはカップに紅茶を注ぐと、「それでは、何かございましたらいつでもお呼び下さいませ」と言い残し――気が付いた瞬間には、その姿が部屋の中から消えていた。ドアを開け閉めする音さえ立てずに。
ぽかんと、咲夜さんの消えたドアを見つめていた私たちは、それからこわごわとカップを手に取る。まさか毒が入っているなんてことはないとは思うが――決死の覚悟で口をつけると、豊穣な香りが広がり、鼻腔をくすぐった。
「あ、美味しい」
「あらホント」
温かい紅茶を口にしたことで、ようやく人心地ついた気分で、私は息を吐く。そして、向かいに座る蓮子に改めて向き直った。知った人に出会えた気楽さはあるものの、未だ何が何だか解らないことだらけで、頭が追いつかない。とにかく現状を、一度整理する必要がある。
「蓮子。いったい、何がどうなってるのかしら」
「私に訊かれても困るわよ。ここに来たのはメリーの能力のせいじゃないの?」
「違うわよ、あれは――」
私は眉を寄せ、記憶を掘り返す。菫子さんの部屋で見つけたノート。そこからこぼれ落ちた虫入りの琥珀。その瞬間、結界が大きく揺らいで――。
はっと、私はポケットを探った。だが、あの虫入りの琥珀はどこにもない。蓮子も手ぶらで、どう見てもあのノートを持っているようには見えなかった。
「……あれは、たぶん、元からあの部屋にあった結界の亀裂が、何かの拍子に開いたんだわ」
「つまり、うちの大叔母さんのせいだってこと?」
「さあ――でも、無関係ではないと思うけど」
私の言葉に、蓮子は腕を組んでひとつ唸る。それから、蓮子は自分の頬を急につねった。夢かどうか確認する手段としては古典的すぎやしないか、それは。
「私は今、実体としてこの世界に来ているのよね。今までメリーと視てきた夢と違って」
「蓮子がそう思ってないだけで、今までだってあれは現実だったのよ」
「そのへんの相対性精神学的議論はこの際保留よ。ともかくこれが現実で、トリフネのときなんかと違って帰還の手段が無いなら、まずはそれを何とかしなきゃ」
「何とかって、どうするの?」
「それこそ、結界の裂け目を見つけるメリーの仕事じゃない」
「そんなこと言われても――この館の中に、少なくともそんな大きな揺らぎは見当たらないわ。館全体には、何かこう、よくわからない違和感があるけど――」
そう、図書館のあの異様な広さ、廊下の奇妙な長さ――あれは本当に現実だったのだろうか。
いや、それ以前に、まずもっと現実性を疑わなければならない現象はいくつもあるのだが。
「違和感と言ったら、それ以前に奇妙なことだらけだわ、この館は」
相棒は後頭部で腕を組んで、天井のシャンデリアを見上げる。
「大叔母さんの部屋から、なぜ私たちはこの館の地下の図書館に飛ばされたのか。パチュリーと呼ばれてた宙に浮いてるあの子と、コウモリの羽根をつけた空飛ぶ少女は何者か、そもそも人間なのか。あの咲夜さんにしたって、妙な手品を使うし――」
「手品、なのかしら」
「手品じゃなかったら、超能力ね。テレポーテーションかしら?」
「……菫子さんは超能力者なんじゃなかった?」
「む。大叔母さんの関係者? いやいやまさか」
蓮子はひとつ唸って首を傾げる。
「まあ、何にしても、まずはお嬢様とやらにお目通り願うのが先決かしら。何者なのか知らないけれど――まあ、お嬢様も普通の人間じゃないんでしょうね。……生きて帰れるかしら?」
「そういえば、あのひと――パチュリーさんが何か妙なこと言ってたわね。確か――」
――レミィのパイにするか、とかなんとか。
私がそう言うと、相棒は眉間に皺を寄せてテーブルに肘を突く。
「レミリア、って言ってたっけ。お嬢様の名前。レミィは愛称かしらね。……パイにするって、何を? パイって、お菓子のパイよね?」
「……私たちを、じゃないの?」
「…………」
肉料理とかではなく、お菓子というところがかえって想像するだに怖ろしい。いったいこの館の〝お嬢様〟とやらはどんな存在なのだ?
「怖いこと言わないでよ、メリー」
「現状が既に冷静に考えれば相当怖ろしいんだから仕方ないじゃない。得体の知れない館、人間の姿だけど人間じゃなさそうな住人、超能力者のメイドさん。哀れな仔羊は注文の多い料理店のごとく、美味しく食卓に並べられてしまってもおかしくないわよ」
「うう、くわばらくわばら。せめてお嬢様が話の解る相手であることを祈りましょ」
大げさに身を震わせてみせる蓮子が、どこまで本気で怖がっているのか、私にはよく解らない。私自身も、危機感を掴み兼ねているというのが正直なところだ。少なくともここに迷い込んでから、まだ明確に命の危険を感じてはいないわけだし。ただ、現状が〝わからない〟ことに対する漠然とした不安が、じわじわと首を絞めているだけで。
「――ところでメリー」
「うん?」
「今思い出したんだけど……前に、夢で視た赤い館でクッキーを貰ってきたって話、しなかったかしら?」
「あら、覚えてたの?」
てっきり蓮子は忘れていると思って、口にしないでいたのだが。
「ひょっとして」
「そう、クッキーをくれたのはあの咲夜さんよ。間違いないわ」
「――それで咲夜さんが現れたとき、妙な顔してたわけね。納得したわ」
紅茶を啜りながら、蓮子は「しかし」と鼻を鳴らす。
「咲夜さんはメリーを見ても無反応だったけど、覚えてなかったのかしら?」
「じゃないかしら。……そうね、門の前でクッキーを貰っただけだし……」
「ともかく、その夢の話、覚えてる限りでもう一回聞かせてくれない? 現状、何か手掛かりがあるとあすれば、メリーの夢しかないわ」
「覚えてる限りでって言われてもね――」
私は首を捻り、随分前に見た夢の記憶を探る。夢なんて普通は目覚めた瞬間に忘れていくものだろうが、あの頃立て続けに見て、そこから何かを持ち帰った夢の記憶は、今も鮮明だ。だからこそ、夢と現実の区別があの時期、ひどく曖昧になってしまったのだが――。
ともかく……そう、最初は確か、薄暗い森の中だった。
―5―
――薄暗い森を抜けたとき、私の視界を包み込んだのは、一面の白い霧だった。
まとわりつくような霧は、視界どころか五感さえも遮断するみたいに、私の世界を白く埋め尽くす。霧の中を泳ぐように、私は足を進めた。
その乳白色の闇の中に、ぼんやりと浮かび上がったのは、真っ赤な影。
焦点を失ってぼやけていたその赤は、やがて大きなお屋敷という輪郭を露わにしていく。
不意に風が吹いて、霧が薄らいだ。私はいつの間にか、大きな湖の畔に佇んでいた。その対岸に、その赤いお屋敷は静寂を背負って佇立している。
山の緑を背負い、湖から流れてくる白い霧に煙る、真っ赤なお屋敷。その子供の絵のような原色のアンバランスさが、どこか逆に風景にしっくりと馴染んでいるような気がした。作り物めいた光景こそが、夢の中には相応しいのかもしれない。
いったい、この館にはどんな住人が暮らしているのだろう? 私は好奇心に駆られ、館へと足を向けた。
ちょっと寄ってみようかしら。突然訪れても、失礼じゃないかしら。そもそも、目の前のお屋敷は私を受け入れてくれるかしら? ――って、何を夢の中で怖じ気づいているのかしら。
そんな自問自答を繰り返しながら、門の前まで辿り着く。閉ざされた鉄の門は、侵入者を拒むように冷たく、固く、重い。掴んで揺さぶってみたけれど、私の力ではびくともしなかった。やっぱり、飛び入りで上がり込めるようなお屋敷ではないようだ――。
と、門の向こうに、メイド服を着た女性の姿が見えた。玄関ホールから、色とりどりの花が咲き乱れる花壇の間の石畳を渡って、こちらへ向かってくる。お手伝いさんだろうか。
銀色の髪を三つ編みにした、背の高い女性。瀟洒、という言葉が思い浮かぶ優雅な立ち居ぶるまいは、この大きなお屋敷に相応しいものにも見えた。
ごめんください、と私は彼女に呼びかける。
彼女は、私の姿を見留めて、その怜悧な顔にふっと柔らかな笑みを浮かべた。
あら、こんにちは。彼女はどこか親しげに、そう私に微笑みかけてくる。
門の鉄柵越しに、ご主人様にお目にかかりたいのですけれど、と私は呼びかける。
残念ですが、とメイドさんは首を傾げた。お嬢様はまだお休みの時間ですわ。
私は空を見上げる。蒼天は眩く、陽は高い。こんな昼間に眠っているなんて、お嬢様とやらは随分と優雅なご身分のようだ。
今日はおひとりですか、とメイドさんが私に問うた。少しおかしな問いだと思ったけれど、私は、はい、と頷く。そうですか、と頷いたメイドさんは、ポケットから小さな袋を取りだして、門の隙間から私に差し出した。
騒がしいのは嫌だから、眠っている間は客人を入れないように、とはお嬢様の命ですので、申し訳ありませんが、今はお引き取り頂けますか。お嬢様に御用でしたら、また夕刻にでもいらしてくださいませ。
微笑んで、私の手のひらに袋を落とし、メイドさんは微笑む。
手の中でかさりと音を立てた袋の中身は、どうやらクッキーのようだった。
わかりました、と私は少し残念な心持ちで頷く。メイドさんは小首を傾げ、こう言った。
お嬢様も、妹様も、皆、貴方たちでしたら歓迎いたしますわ――。
―6―
「そのクッキーって、結局どうしたんだっけ」
「食べたじゃない、ふたりで。異界の食べ物を口にしたら戻れなくなるとか私のこと脅したくせに、自分から食べたのよ、蓮子ってば」
「あー、そうそう、美味しかったわねアレ。そっか、彼女の作ったものだったのね」
納得したように頷き、「そのせいってことはないわよね?」と蓮子は頬杖をついて呟く。
「ここに迷い込んだのはクッキーを食べたせい? いくらなんでも時間差すぎると思うけど」
「そうよねえ。でも、ここがメリーの夢の中なら、クッキーを私が食べたことも無関係ではない気もするけれど――それだと大叔母さんの部屋からここに飛ばされたことに説明がつかないか。ううん――」
首を振り、蓮子は考え込む。私は息を吐いて、改めて部屋の中を見回した。
――目に留まったのは、部屋の隅に鎮座する書棚だった。ソファーから立ち上がり、私はその書棚に歩み寄る。さっき図書館で無数の本の迷宮を彷徨ったというのに、本の気配を感じるとついつい気になって見に行ってしまうのは、やはり本好きの性である。
並んでいるのはやはり、それ自体がインテリアめいた分厚い革張りの洋書である。そもそも背表紙にタイトルが見えない。辞典か何かの全集か――そんなことを思いながら書棚に目を走らせていくと、その片隅に、明らかに他の本とは不釣り合いなものが1冊紛れ込んでいた。緑色の古びたハードカバーである。それ故に目に付いたその本を、私は手に取る。
「何か面白いものでもあった?」
私の肩越しに、相棒がその本を覗きこみ、「あら」と声をあげる。
「クリスティーの原書じゃない。『TEN LITTLE NIGGERS』――」
「『そして誰もいなくなった』ね。しかも1939年のイギリスの初版だわ」
言わずと知れた世界最大のベストセラー作家、アガサ・クリスティーの代表作中の代表作である。原題は『AND THEN THERE WERE NONE』とされていることが多いが、それはアメリカで出版された際にNIGGERが差別語だとして改題されたタイトルで、イギリスで刊行されたときの原題はこちらなのだ。
「懐かしいわね。中学生のときに読んで以来だわ」
「メリーはやっぱり原書で?」
「ううん、青木久惠訳の日本語で。蓮子も読んだのは青木訳でしょ?」
「自慢じゃないけど、誤訳問題が気になって、原書と清水訳と三種類読み比べたわよ」
「それは物好きのすることだわ」
私は呆れ混じりにそうため息をつく。最初に日本で邦訳されたときの清水俊二の訳に誤訳が指摘され、21世紀になってから改訳されたという話は私も知ってはいるが、私は青木訳で一度読んだきりである。
「ねえ蓮子、もしこの館の住人が8人いたら、私たち入れて10人よね?」
「そして誰もいなくなるって? だから怖いこと言わない。まあ、この大きいお屋敷に、住人が8人じゃバランスが悪い気はするけど――」
とは言うものの、今のところ出会ったのはたった3人である。うちふたりは人間なのかどうかも怪しいが。
「だいたい、空を飛んだり瞬間移動する住人のいる館で、本格ミステリも何も無いわね」
「そんなこと言ったら西澤保彦に怒られるわよ」
「生憎、私たちはチョーモンインじゃなく秘封倶楽部なのよ、メリー」
そんな益体もないことを言い合っていると――不意に、部屋のドアがノックされた。
「失礼いたします」
現れたのは咲夜さんである。私たちが本を置いて振り向くと、咲夜さんはドアを開けて、退出を促すように手を差し伸べた。
「お嬢様がお目覚めになられまして、おふたりとお会いになられるそうです」
私たちは、思わず顔を見合わせた。
第1章 紅魔郷編 一覧
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とりあえず全部読みました。
すごくつまらなかったです。
よくこんなの公開する気になりましたね。
プロ志望? だとしたら一生無理ですよ。
ついに幻想郷メンバーと遭遇しましたね。こちらもドキドキしながら読ませていただきました。
新たな謎も出てきて、これからの展開が気になります。
次回も楽しみに待ってます!
いい感じに原作の出来事も織り交ぜていて、物語もとてもおもしろかったです。
次回の二人の安否が気になります…果たして無事なのだろうか…
何がつまらないのかすら具体的に書けない批評家モドキのことは気にせず続きをよろしく。
これからの展開が気になります。
次回も楽しみに待ってます。
二人がパイになるのか?ならないのか?
最初から全部読みました!!
原作設定を織り交ぜつつ、それを知らなくても類推出来るような文がちりばめられていて面白かったです。(ー5ーの最後の方とか)
来週の公開も楽しみにしています。
プロ志望ですか?だとしたら十分狙えますよ!
とても面白いです
続き、楽しみにしてます
これからも頑張って下さい
いよいよお嬢様とご対面ですか。次回はどんな展開になるのか楽しみにしております。
あぁ、続きが気になる…w
二話目にして秘封倶楽部、幻想郷到着。
東方の各作品の知識を有する読み手からすると、幻想郷のキャラとのファーストコンタクトは
どうしても読んでいてニヤニヤしてしまいました。
次回は恐らくお嬢様の登場…
二次創作ではとても幅広いキャラ付けをされる彼女がどのような振る舞いをするのか、とても楽しみです。
読んでみましたが、原作の内容がちりばめられていて
面白かったです。
次回を楽しみにしています。
足らぬ所は補完しながら、
状況と言葉が素晴らしいタイミングで綴られている所に感銘を受けました。
また”時間”の使い方がお上手で
なるほど、などと驚かされてしまいました。
来週もまた楽しみに待っております。
いよいよ舞台は紅魔館に移りましたね。原作の設定やエピソードを散りばめつつストーリーに仕立てるところはさすがだと思います。冒頭に出てくるマザーグースも気になりますね~。「そして誰もいなくなった」といえばフランちゃんですからね!
続きを楽しみにしています!
原作も大切にしつつ独自の解釈を展開する、こういう作品を待ってました!
これから秘封の二人が幻想郷の住民とどのように絡んでいくのか、楽しみにしています。
すごく面白いです。
この作品の秘封倶楽部の雰囲気がとても好きです。
こんな作品が読みたいと思っていました。
応援しています!
楽しく読ませて貰っています!
これからも投稿頑張って下さい!
最初の歌詞何処かで聞いた気が…
確か何処かの国の民謡だった気が…
これは毎週土曜日が楽しみ。
原作を生かしつつ、物語に芯がある浅木原さんの作品は、二次創作における一つの完成系だと思います。
少女秘封録と合わせて続きを待ってます。
一気に全部読みました。
すごく面白かったです。次回以降の更新も楽しみに待ってます!
とても読みやすく、面白くて
毎週土曜日が待ち遠しいです!(というか待ちきれず定期的に読み返してます)
文章からその風景や情景を想像するのがとても楽しい作品です。
次の瞬間、その次の瞬間がどうなるのかと気になります!!
そして誰もいなくなったの元ネタがあるとは知りませんでした。読んでみたいなと思いました。
とりあえず騒ぎたいアンチ野郎は、置いといて。
とても面白いです!
とても面白かったです!(小並感
読み始めるのくっそ遅いですが全て読みたくなるほど続きが気になる書き方で時間はかかりますが、今出てる最新作(?)まで読んでいきたいですね
これからも頑張ってください!
正直者が8人楽園に迷い込んだ。
もう誰一人として、戻ってくることは無かった。
(初版「蓬莱人形
〜 Dolls in Pseudo Paradise.」
付属ブックレットより)
最近見つけて読ませていただいておりますが、
一文一文の表現がとても丁寧で、原作の設定に忠実な所は、読んでいて気持ちのいいものです。
「そして誰もいなくなった」 あれを読んだりテレビ鑑賞したからでしょうか、この物語がどうしても気になります。忙しい身では有るのですがやはり早く読みたい、と。
どんな結末を迎えていくのか、どんなストーリーになるのか、色々と楽しみにさせて頂きますね。
レベルの低いアンチなど気にする必要はありません。
あなたの好きなように頑張って下さい(*´∀`*)
神主本人かと見紛うほどの文才。これだから秘封は辞められない。