―22―
――ねえ蓮子。
月面ツアーが高くて無理ならば、何か別の方法で月に行けないか考えてみない?
いつだったか、もう遠い昔の話だけれど、私たちがまだ外の世界の京都にいた頃に、蓮子と大学でそんな話をした記憶がある。月面旅行ツアーが高額過ぎて私たちのお財布では行けない、という話だったか。あのときも蓮子は、月には隠された文明があるとか言っていたはずだ。
結局京都にいる間に月面に直に降り立つ機会はなかったが、私の目の力を使って、衛星トリフネで無重力体験をしたりキマイラに襲われたりした。まあそれは、ここでは余談である。
そんな、民間月面ツアーが実現した科学世紀の外の世界でも行くことのなかった月面に、今、私たちはぼんやりと立ち尽くして、空に浮かぶ地球を見上げていた。
水がある。目の前に海がある。呼吸できる空気がある。ついでに言うと、重力もたぶん1Gである。頭上に地球が浮かんでいなければ、ここが月とは到底思えない環境だが……。
「……ねえ蓮子、ここって本当に月なのかしら? 状況証拠的には、あの地球が何かの映像だと考えた方が現実的じゃない?」
「メリーが現実を語ってどうするのよ」
「だって、月の都の存在を信じてたのは蓮子の方じゃない」
「それはメリーの目なら見つけられるだろうって話よ。月の結界に隠された都を。――いやでも、まさか本当に来ちゃうとはね……。ちょっと展開が唐突すぎるのが問題だけど。もう少し心の準備をさせてほしかったわ」
蓮子は帽子の庇を弄りながら、腕を組んで周囲を見回す。
「つまり、ここは幻想郷側の月ってこと?」
「でしょう? ここはきっと、八意先生や輝夜さんや鈴仙ちゃんが暮らしていた月よ。海があり、大気があり、体感1Gの重力があるのは、つまりここが、外の世界における月の本当の姿が知られる前の、地球を基準に想像された幻想の月だからなんだわ」
「兎が餅をついてると信じられていた時代の月、ね」
「そゆこと。天体の運行が神の論理に支配されていた時代の月。ガリレオが望遠鏡で月が凹凸だらけの不細工な天体だと明らかにする前の、アイザック・ニュートンが万有引力の法則でその論理を地上に引き戻す前の、あるいはニール・アームストロングが人類にとって偉大な一歩の足跡をつける前の月ね」
「鈴仙さんって、アポロの月着陸を怖れて幻想郷に逃げてきたんじゃなかった?」
「だから、月の都は外の世界の科学の目が月に注がれて、幻想の月の結界が破壊されることを怖れたんじゃない? 明治時代に日本の妖怪が西洋科学によって駆逐されそうになって幻想郷に引きこもったみたいに。それが鈴仙ちゃんが怖れた地上との戦争だったのよ、きっと」
そう言って、蓮子は改めて周囲を見回す。と言っても、あるのはやはり海と桃の木ばかりだ。驚き桃の木山椒の木とは言うが、月に山椒の木は生えているのだろうか?
「さて、ここが輝夜さんや八意先生や鈴仙ちゃんの故郷たる月の都だとして。たぶんその琥珀とメリーの目の力で、ひょいっと結界超えちゃったってことなんでしょうけど」
「軽く言うわね」
「軽く言うしかないぐらい唐突な展開なんだから仕方ないじゃない」
全くだ。私は手にした琥珀を見下ろして溜息をつく。
――たぶん、私たちの知るのとは別の宇佐見家にあった、この琥珀。
これは果たして、私たちが幻想郷に迷い込んだあのとき、宇佐見菫子さんの部屋で見つけたそれなのだろうか?
春雪異変のとき、私は妖怪の賢者によって外の世界に送り出され、幼い宇佐見菫子さんにこの琥珀を預けたはずだ。それがあの部屋にあった琥珀だとして……ううん、考えてもさっぱりわからない。というか、これをあの場所に残していったあのふたつの声は……。
「何にしたって、ここでじっとしていたってしょうがないわ!」
「そう言うと思ったわ。とりあえず、兎でも探してみる?」
「そうねえ。ここが月の都なら、たぶん鈴仙ちゃんのお仲間の玉兎はいるはずだし――」
蓮子がそう言って、さくさくと砂を踏みしめて歩き出す。私もその後を追った。とりあえず行く手は海か桃の木の森しかないわけで、森の方へ進むしかない。
「うーん、分け入っても分け入っても桃の森」
「種田山頭火だっけ?」
「月の都はすべて桃の中である」
「島崎藤村ね」
能天気なことを言いながら、鬱蒼とした桃の木の森に足を踏み入れる。茂みを掻き分けるように歩を進めつつ、手頃なところに成っていた桃をもいでみた。美味しそうな匂いがする。
「メリー、今度は夢から桃を持ち帰る気? 月の桃は天界の桃みたいに身体にいいのかしら」
「蓮子も食べる? 美味しそうよ」
「夢の中で食べてもお腹は膨れないと思うけどねえ」
私が差し出した桃を、蓮子が受け取ろうとした、そのとき。
足音がした。近くの茂みがざわめいた。――そして。
蓮子の背後に、ひとつの影がすっくと立ち――手にした得物を、蓮子へ突きつけていた。
「動くな! ためらいなく撃つぞ!」
ヘルメットを貫通する兎の耳。どこかでよく見たような、ブレザーの制服めいた服装。手にしたのは、太平洋戦争の時代に使われていたような古式ゆかしい銃剣。
青い髪をお下げにした、赤い瞳の兎の少女が――蓮子の背に、その切っ先を向けていた。
「おっ、お前たち、いったい何者だ!」
その上ずった誰何の声に、私はそろそろと両手を挙げる。蓮子も私の表情と動作から、何か凶器を向けられていることは察したようで、私から受け取った桃を手にしたまま両手をホールドアップした。
「月の民じゃない――まさか、地上人? う、動くな! 動くと撃つ! しょうがないから撃つぞ! 邪魔しなくても撃つぞ!」
困ったことに、私たちの方はといえば、妖怪に脅されるのは慣れたものなのである。結果、明らかに武器を持っている方がテンパっている。私は蓮子と顔を見合わせ、唇の動きで『兎』と伝えた。蓮子は頷く。
「あのー、兎さん? 振り向いてもいいかしら?」
「ううっ、動くな!」
「いやでも、背中向けたままじゃ会話もしにくいし」
「ためらいなく撃つぞ!」
声が裏返っている。非武装の民間人相手に、武器を持ったままそこまでテンパらないでほしい。銃の暴発が心配である。
「おーいセイラン、ちょっと落ち着きなよ」
と、茂みの中から別の声。
「リンゴ! いるなら手伝ってよ!」
「手伝ってるよー。不審人物を調査のため観察中」
「それは見てるだけって言うの! ふたりいるんだからそっちの金色の方なんとかして!」
「えーめんどくさい。見たとこ武器も持ってないし弱そうだし、セイランひとりでだいじょぶ、だいじょぶ」
「いやこいつら地上人なら突然この月に現れるなんて絶対ただ者じゃないって!」
「だから捕まえて依姫様に引き渡せば大手柄じゃん。それを譲ってあげてるんじゃん。感謝されこそすれ責められる覚えはないなあ」
「いいから手伝えー!」
セイランと呼ばれた青い髪の兎が、悲鳴のように叫ぶ。その声に、「しょーがないなあ」と渋々といった様子で、茂みから別の兎が姿を現した。
やはり同じ――鈴仙さんのあのブレザーを着て、兎耳はヘルメットを貫通せずに横からはみ出している。金色の髪と赤い瞳をした、リンゴと呼ばれたその兎は、だるそうに銃剣を担いで、その赤い眼を細めて私たちを見つめた。
「ま、そーゆーわけだから、ここは大人しく捕まってくんない? 不審人物さんがた」
―23―
妖怪たちの本拠地に迷い込んで、捕まって引っ立てられると書けば、全くもっていつも通りの展開である。違いは異変らしい異変がまだ起こっていない(はず)ということぐらいか。
ともあれ、こういう場面は相棒に任せるに限る。私が視線で促すと、相棒は小さく肩を竦め、それからリンゴと呼ばれた金髪の兎に顔を向けた。
「あらあら――そう言う貴方たちは、月の玉兎兵さんがたかしら? ふうん、月の玉兎兵はみんなその格好してるのね」
「うげ、リンゴ! やっぱりこいつら侵略者よ! 月の情報がどっかからダダ漏れしてる!」
相変わらずテンパっているセイランさんを無視して、リンゴさんは眉根を寄せて蓮子を見やる。とんとんと担いだ銃剣で肩を叩きながら、ひとつ鼻を鳴らし、
「んー? 穢れの気配が感じられないんだけど、でも月の都じゃ見ない顔だし……あんたたちほんとに地上人?」
「一応、地球から来たつもりですわ。どうやって来たかは企業秘密」
「ふうん。随分丁寧に禊ぎでもしてきたのかなあ。まあいいや、それより地上人だってんなら、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「あら、なあに?」
「――ここに来たのはひょっとして、月からの脱走兵の兎の手引き?」
そのリンゴさんの問いに、セイランさんがびくりと身を竦める。
ははあ、と蓮子はホールドアップしたまま。その問いにひとつ首だけで頷いた。
「ということはやっぱり貴方たち、鈴仙ちゃんのお仲間なわけね」
「ちょまっ、えっ、レイセン!? あのレイセンの知り合い!?」
「セイランうるさい。ちょっと黙って」
リンゴさんにじろりと睨まれ、セイランさんは耳をへなへなとさせながら黙りこむ。
肩を竦めたリンゴさんは、手にしていた銃剣を私たちに向けた。
「こーゆーのはあんまやりたくないんだけどなあ……。あのレイセンはいるの?」
「あら、鈴仙ちゃんがいたらどうなるのかしら」
「さあ、処分は依姫様が決めることだけど――レイセンはいるの? いないの?」
「残念ながら、私たちふたりだけですわ。少なくとも今私たちがここにいることについて、鈴仙ちゃんは完全無欠に無罪よ。貴方の言ってるのが私の知ってる鈴仙ちゃんなら、だけど」
「地上の侵略に怯えて月から逃げだしたヘタレの玉兎兵。ヘタレると耳がしなしなになる」
「ああ、それは確かに私たちの知ってる鈴仙ちゃんだと思うわ」
「今ここにはいないのね?」
「いないわよ」
「……じゃあ、あの子、月に帰るつもりあるかどうか聞いてる?」
「さあねえ。鈴仙ちゃんの本心はわからないけど、私の見てる限りだと、もうすっかり地上に馴染んで、地上の兎になってる印象だけど。地上に居場所もできてるしね」
蓮子のその答えに、セイランさんが複雑な顔をし、リンゴさんは無表情に息をついた。
「そっかー、あいつ本格的に裏切ったかー。マジかー」
「り、リンゴ、どうするの?」
「どーもこーも。こいつらの言うこと、どこまで信用していいかはわからないけど、少なくとも地上のレイセンの知り合いなのは間違いなさそうだし。私ら玉兎兵の手には余るわー。依姫様の指示を仰ぎましょ」
「う、うん、わかった」
「じゃ、私は仲間呼んでくるから、セイラン見張りよろしく」
「ちょっ、リンゴ! あーもう、動くな! しょうがないから撃つぞ!」
やけっぱちのようにセイランさんが銃剣を構え直し、リンゴさんは飄々とこちらに背を向けて、「あーもしもし、こちらリンゴ。サキムニ聞こえる? 不審人物を捕獲したって依姫様に伝えてくんない?」と何処かへ通信している。
その様子を見ながら、相棒は両腕を上げたまま視線だけでセイランさんを振り向く。
「うーん、ホールドアップしてるのも疲れてきたから腕下ろしていい? 何もしないから」
「動くなってばー!」
蓮子が飄々と言うと、ますますセイランさんは慌てふためいてふらふらと銃剣の切っ先を彷徨わせる。もう見てるだけであまりに危なっかしくて見てられない。
「セイランちゃん、もうちょっと落ち着かないと危ないわよ」
「黙れー! ホントに撃つぞ!」
「いやいや、撃っちゃダメよ撃っちゃ。だって穢れを嫌う月の都で地上の民を傷つけたりしたら、地上の穢れが撒き散らされちゃって大変でしょう? 撃っちゃったら大変なのは私たちよりセイランちゃんたちの方よ」
「――――――」
「ほらほら、そんな危ないものは下ろして。こっちも徒手空拳だから、月の都に穢れを撒き散らさないように、理性的に話し合いましょ」
「う、あ、え」
もうセイランさんは完全にパニックになっている。ぷしゅー、と頭から湯気を噴きそうなぐらいに混乱しているのが見てとれた。頼むから銃剣は手から放してほしい。
と、そこで通信を終えたらしいリンゴさんがこちらに戻って来て、いっぱいいっぱいになったセイランさんを見て溜息をついた。
「あーもう、セイラン相手に口先で議論なんて野蛮なことしないでよ。せっかくこっちが穏便に暴力で解決しようとしてるってのに」
「あら、なかなか含蓄のあるお言葉」
「自分を傷つければ月に穢れが撒き散らされる、か。随分とまあ月のことに詳しい地上人だね。こっちの穏便な暴力を野蛮な議論で粉砕してくれちゃって。これだから地上人は」
と、リンゴさんは制服のポケットから団子をひとつ取り出すと、口に放り込んでもぐもぐと食べ始めた。なんだろう、黒桃太郎の奇美団子か?
「ま、それならそれで、穢れを撒き散らさない程度に痛めつけるって選択肢もあるよ? 私はあんまそういうのは好きじゃないんだけどさあ」
「それに関しては私も同感だから、地上人の野蛮な議論に付き合ってもらえる?」
「口先なら負けないって顔してるねえ。生意気な地上人だなあ」
二つ目の団子を口に放り込むリンゴさん。もぐもぐとそれを咀嚼しながら、肩を竦める。
「どーしよっかなあ。めんどくさいから依姫様が来るまで黙らせとこうかなあ。セイランもこれだもんなあ……。――ん、ちょい待ち。なにサキ。え、依姫様いない? マジで? じゃーせめて援軍寄越してよ。キュウでもシャッカでも誰でもいーからさ。もう向かってる? あーそう、お早い手配感謝。……ってかもう来ちゃったか」
と、リンゴさんが肩を竦めた次の瞬間。
ざざざっ、と私たちの周囲を、多数の足音が取り囲んで――。
同じく、制服を着てヘルメットを被った、銃剣を構える兎の集団が、私たちを取り囲んだ。
―24―
「セイラン、リンゴ、大丈夫?」
私たちを囲んだ十数の兎たちの中から、桃色の髪をした兎の少女が、リンゴさんに駆け寄る。
「おーさすがはサキムニ、判断が早いね。とりあえずセイランが使い物にならなくなっちゃったから、下げといてくれる?」
「わ、わかった。キュウ、お願い」
「あいよー。ほらセイラン、しっかりしなって」
「うーん、動くと撃つ、撃つと動く、ためらいなく動く、撃つからしょうがない……」
髪の短い兎が、混乱状態のセイランさんを引きずっていく。他の兎たちは怯えたような顔をしながら、遠巻きに私たちを取り囲みつつ、銃剣の先端を向けていた。
「……確かに不審人物ね。どう見ても月の住人じゃない」
「お、シャッカ。でしょー? 不審不審」
眼鏡を掛けた黒髪おかっぱの兎が、リンゴさんの横に出てきて私たちを不躾に眺めた。サキと呼ばれた桃色の兎は、困ったように私たちとリンゴさんとを見比べる。
「地上の人間がどうしてここに……?」
「それがこいつら、レイセンの知り合いらしいのよ」
「ええっ!?」
リンゴさんの言葉に、私たちを取り囲んだ兎たちが一斉にざわめき――その視線が、私たちではなく、仲間の兎のうちの一匹に向いた。その視線を向けられた、空色の髪をした小柄な兎は、「え? え?」と狼狽して視線を彷徨わせる。
「あー、そっちじゃなくて、前に地上に逃げた方」
「レイセン!? レイセンは地上で元気にしてるの!?」
その言葉に大きく反応したのはサキムニさんだった。他の兎たちもざわめき、なぜか視線を集められた空色の兎はひどく居心地悪そうにしている。
「はいはい落ち着いてサキ。気持ちは解るけどさ、レイセンはもうこっちに戻る気なさそうだって。地上が居心地いいみたい」
「…………」
リンゴさんになだめられ、サキムニさんは俯いて唇を噛む。……どうやら彼女、鈴仙さんの月時代の友人(友兎?)らしい。
「あの裏切り者、地上人を月に送りこんでくるなんて、何を企んでるの」
と冷たく言ったのは、眼鏡のシャッカさん。リンゴさんは肩を竦める。
「いや、レイセンとは関係ないらしいんだけど」
「……なにそれ。意味がわからないんだけど」
「こっちもそうだよ。だから依姫様呼んだのに、どこ行ってるの?」
「さ、さあ……豊姫様もいなくて」
サキムニさんが困ったように首を振る。さっきから名前の出てくる《依姫様》とやらが、どうやら彼女たち玉兎兵のボスのようだ。兎ではなく八意先生のような月の民なのだろう。
「で、どーする? ここで尋問する? それとも屋敷まで連れてく?」
リンゴさんの言葉に、兎たちは顔を見合わせる。
「そんなこと言われても」
「連れて行けばお手柄じゃない?」
「でも地上人だよ? 穢れてるかも」
「地上の穢れ持ち込んだら」
「怒られるじゃないですかー!」
「やだー!」
がやがや。まとまりなく狼狽える兎たちに、リンゴさんが肩を竦め、眼鏡のシャッカさんが溜息をついた。短髪のキュウと呼ばれた兎が、ぱんぱんと手を叩く。
「はいはい混乱するのはセイランだけにしなって。リンゴ、見つけたのはあんたでしょ? あんたが判断しなよ。あんたの判断ならみんな従うからさ」
「うえー。そーゆー責任押しつけるのやめてくんないかなー。責任取りたくないからサキに声掛けてみんな呼んだのに」
「自分で言うな、そういうこと」
露骨に嫌そうな顔をするリンゴさんに、シャッカさんが呆れ顔でツッコミを入れる。
「そう言わないで、リンゴ。何かあったら責任は私が取るから、ね?」
「またサキはそうやってリンゴを甘やかす。昔のレイセンだってそうやってサキが甘やかすから、いつまでたってもヘタレのままで逃げ出したんじゃないの」
「シャッカ……」
「そう言いなさんなってシャッカ。サキもそんな顔しない。ほらほら、いいよもう連帯責任で。だからリンゴ、ちゃっちゃと決めちゃってよ。それとも他に何か意見ある奴いる?」
「…………」
キュウさんの問いに、他の兎たちは沈黙する。リンゴさんは嫌そうに首をすくめた。
なるほど、この兎集団の力関係が見えてきた。サキと呼ばれている桃色髪のサキムニさんが穏和なリーダー、短髪のキュウさんが調整役、黒髪眼鏡のシャッカさんが毒舌担当で、リンゴさんは一目置かれている風来坊というところか。
「解った解りましたよ。じゃあ、最悪依姫様でも豊姫様でもなくていいから、誰かこの件について判断できそうなお偉いさん呼んできて。その間、海岸でこいつらの尋問しよう。呼びにいくのは……シャッカ、頼んでいい? あんた、昔のレイセンの話とかどーでもいいでしょ?」
「……解った。じゃあ、ひとっ走り行ってくる」
リンゴさんに言われ、シャッカさんが踵を返して森の奥へと走って行く。それを見送って、兎たちは改めて私たちに銃剣を向けて取り囲んだ。
「じゃ、そーゆーわけだから、詳しく尋問させてくれない?」
是非もない。私は蓮子と顔を見合わせて、ただ肩を竦めるばかりだった。
そんなわけで、銃剣を構えた兎たちに追い立てられて、元の海岸に逆戻りである。
私と蓮子を中心に、兎たちは車座になって取り囲む。尋問担当として前に出てきたのは、リンゴさん、サキムニさん、キュウさん、それから復活したセイランさんと、後ろにくっついてきた小柄な空色の兎だった。
「んじゃま、自己紹介しましょうか。私は宇佐見蓮子、こっちは相棒のメリー。地上で探偵をやってる人間よ」
「たんてー?」とセイランさん。
「世界の謎を解くお仕事。ま、調べ物が仕事みたいなものね。えーとそちらはリンゴちゃんに、セイランちゃん、サキムニちゃん、キュウちゃん、で、そっちの子は?」
蓮子に指され、サキムニさんの背後に隠れていた小柄な子がびくりと身を竦める。
「あー、この子は今のレイセン」とリンゴさん、
「今の? そういえば地上の鈴仙ちゃんのこと、昔のレイセンって言ってたわね」
「そ。昔のレイセンがいなくなったから、その後に入ってきたこの子に、依姫様がレイセンの名前を与えたの」
リンゴさんの言葉に、レイセンさんがこくこくと頷く。なるほど、そういうことか。月の民にとっては、新しいペットに死んだペットの名前をつけるような感覚なのかもしれない。・しかし鈴仙さんとレイセンさんでどうにもややこしい。
「うーん、同じ名前だと話がややこしいわね。じゃあ、地上の鈴仙ちゃんの方は今の名前に従って、ウドンゲちゃんと呼ぼうかしら」
「うどんげ?」サキムニさんが首を傾げる。
「地上の鈴仙ちゃんは、今は『鈴仙・優曇華院・イナバ』って名前つけられてるの」
蓮子が砂浜に『鈴仙』の文字を書く。兎たちが興味津々という顔でその字を覗きこんだ。さすがに『優曇華』は画数が多すぎて砂には書けない。
「へー、漢字で鈴仙か。いいなあ」キュウさんが羨ましそうに言う。
「みんなの名前は漢字は当てられてないの?」
蓮子が問うと、兎たちはこくこくと頷く。
「あらら、セイランちゃんなんかてっきり『青嵐』かと思ってたのに。まあでも、その髪の色で『青嵐』じゃそのまんますぎるわね。じゃあ、ちょっと捻って――『清蘭』とか」
蓮子がその字を砂に書くと、セイランさんは大きく目を見開いて、周囲の兎たちもざわめく。
「どう?」
「……か、かっこいい!」
「あら、気に入ってもらえたようで何より」
目を輝かせるセイランさんに、蓮子はにっこり微笑む。
「あ、じゃあ私も私も!」手を挙げるのはキュウさん。
「キュウちゃんよね? キュウ……はいろんな字があるけど、そうねえ。『穹』とかどう?」
「おおおおおおおー!」
「サキムニちゃんは……ちょっと難しいわねえ」
「え、わ、私も?」
「うーん、『咲夢丹』?」
「それは凝り過ぎじゃない?」思わず私も口を挟む。
「じゃあ愛称のサキちゃんとして『皐期』。春の花みたいな綺麗な髪してるしね」
「……あ、え、ええと、ありがとうございます」
「ふふ、リンゴちゃんは……そうねえ。そのまんま『林檎』じゃ芸がないし、『鈴瑚』とかどうかしら?」
「……ふうん、面白いこと考えるねえ」
リンゴさんはその字を見下ろして、興味深そうに頷いている。私はそれを見ながら肩を竦めた。全く、蓮子もよくわからないところにこだわるものだ。月の兎だからって、何も無理に月の字を入れなくてもいいだろうに。『キュウ』はさすがに思いつかなかったようだが。
と、それを見ていた他の兎たちも、我も我もと名前の漢字表記を求め始めて、蓮子は結局レイセンさんと、この場にいないシャッカさんを除く全員分の名前の漢字を考える羽目になった。やれやれ。
ともあれ――これで兎たちの警戒心はだいぶ薄れたらしい。その後は尋問というには和気藹々とした、蓮子の地上トークに突入した。サキムニさんは特に鈴仙さんの情報を求めていたようで、話題は主に鈴仙さんの近況報告である。
「じゃあ、レイセンは地上で元気にしてるんだ……」
「ええまあ、地上の飼い主さんに苦労させられてるようだけどね」
「あいつはちょっとぐらい苦労する方がいいって」
そんな話を、もうひとりのレイセンさんは気まずそうに聞いていた。同じ名前の知らない相手の話となれば、居心地は悪かろう。私は心の中だけで同情する。
――なお、八意先生や輝夜さんの名前を出すと話がややこしくなりそうなので、相棒はその名前を伏せていた。賢明な判断と言えよう。
そうして、しばしの時間が過ぎ、蓮子がそろそろ月の都についての情報収集を切り出そうとウズウズし始めた頃――。
「あ、ちょっと待って。……シャッカが戻ってきたみたい」
不意にサキムニさんが兎耳に手を当て、そう言った。ほどなく、森の方からこちらに近付いてくる足音。私たちはそちらを振り向く。
「……お待たせ」
戻って来たシャッカさんは、ひとつの人影を連れている。その姿に、兎たちが一斉にざわめいた。シャッカさんよりもだいぶ背の高いその人は――片側だけの、天使のような美しい白い羽根を背負っていた。片翼の天使――そんな言葉が思い浮かぶ。
「………………」
口元に手を当てた、銀色の髪のその女性は。
感情の見えない眼差しで、私たちを見つめていた。
――ねえ蓮子。
月面ツアーが高くて無理ならば、何か別の方法で月に行けないか考えてみない?
いつだったか、もう遠い昔の話だけれど、私たちがまだ外の世界の京都にいた頃に、蓮子と大学でそんな話をした記憶がある。月面旅行ツアーが高額過ぎて私たちのお財布では行けない、という話だったか。あのときも蓮子は、月には隠された文明があるとか言っていたはずだ。
結局京都にいる間に月面に直に降り立つ機会はなかったが、私の目の力を使って、衛星トリフネで無重力体験をしたりキマイラに襲われたりした。まあそれは、ここでは余談である。
そんな、民間月面ツアーが実現した科学世紀の外の世界でも行くことのなかった月面に、今、私たちはぼんやりと立ち尽くして、空に浮かぶ地球を見上げていた。
水がある。目の前に海がある。呼吸できる空気がある。ついでに言うと、重力もたぶん1Gである。頭上に地球が浮かんでいなければ、ここが月とは到底思えない環境だが……。
「……ねえ蓮子、ここって本当に月なのかしら? 状況証拠的には、あの地球が何かの映像だと考えた方が現実的じゃない?」
「メリーが現実を語ってどうするのよ」
「だって、月の都の存在を信じてたのは蓮子の方じゃない」
「それはメリーの目なら見つけられるだろうって話よ。月の結界に隠された都を。――いやでも、まさか本当に来ちゃうとはね……。ちょっと展開が唐突すぎるのが問題だけど。もう少し心の準備をさせてほしかったわ」
蓮子は帽子の庇を弄りながら、腕を組んで周囲を見回す。
「つまり、ここは幻想郷側の月ってこと?」
「でしょう? ここはきっと、八意先生や輝夜さんや鈴仙ちゃんが暮らしていた月よ。海があり、大気があり、体感1Gの重力があるのは、つまりここが、外の世界における月の本当の姿が知られる前の、地球を基準に想像された幻想の月だからなんだわ」
「兎が餅をついてると信じられていた時代の月、ね」
「そゆこと。天体の運行が神の論理に支配されていた時代の月。ガリレオが望遠鏡で月が凹凸だらけの不細工な天体だと明らかにする前の、アイザック・ニュートンが万有引力の法則でその論理を地上に引き戻す前の、あるいはニール・アームストロングが人類にとって偉大な一歩の足跡をつける前の月ね」
「鈴仙さんって、アポロの月着陸を怖れて幻想郷に逃げてきたんじゃなかった?」
「だから、月の都は外の世界の科学の目が月に注がれて、幻想の月の結界が破壊されることを怖れたんじゃない? 明治時代に日本の妖怪が西洋科学によって駆逐されそうになって幻想郷に引きこもったみたいに。それが鈴仙ちゃんが怖れた地上との戦争だったのよ、きっと」
そう言って、蓮子は改めて周囲を見回す。と言っても、あるのはやはり海と桃の木ばかりだ。驚き桃の木山椒の木とは言うが、月に山椒の木は生えているのだろうか?
「さて、ここが輝夜さんや八意先生や鈴仙ちゃんの故郷たる月の都だとして。たぶんその琥珀とメリーの目の力で、ひょいっと結界超えちゃったってことなんでしょうけど」
「軽く言うわね」
「軽く言うしかないぐらい唐突な展開なんだから仕方ないじゃない」
全くだ。私は手にした琥珀を見下ろして溜息をつく。
――たぶん、私たちの知るのとは別の宇佐見家にあった、この琥珀。
これは果たして、私たちが幻想郷に迷い込んだあのとき、宇佐見菫子さんの部屋で見つけたそれなのだろうか?
春雪異変のとき、私は妖怪の賢者によって外の世界に送り出され、幼い宇佐見菫子さんにこの琥珀を預けたはずだ。それがあの部屋にあった琥珀だとして……ううん、考えてもさっぱりわからない。というか、これをあの場所に残していったあのふたつの声は……。
「何にしたって、ここでじっとしていたってしょうがないわ!」
「そう言うと思ったわ。とりあえず、兎でも探してみる?」
「そうねえ。ここが月の都なら、たぶん鈴仙ちゃんのお仲間の玉兎はいるはずだし――」
蓮子がそう言って、さくさくと砂を踏みしめて歩き出す。私もその後を追った。とりあえず行く手は海か桃の木の森しかないわけで、森の方へ進むしかない。
「うーん、分け入っても分け入っても桃の森」
「種田山頭火だっけ?」
「月の都はすべて桃の中である」
「島崎藤村ね」
能天気なことを言いながら、鬱蒼とした桃の木の森に足を踏み入れる。茂みを掻き分けるように歩を進めつつ、手頃なところに成っていた桃をもいでみた。美味しそうな匂いがする。
「メリー、今度は夢から桃を持ち帰る気? 月の桃は天界の桃みたいに身体にいいのかしら」
「蓮子も食べる? 美味しそうよ」
「夢の中で食べてもお腹は膨れないと思うけどねえ」
私が差し出した桃を、蓮子が受け取ろうとした、そのとき。
足音がした。近くの茂みがざわめいた。――そして。
蓮子の背後に、ひとつの影がすっくと立ち――手にした得物を、蓮子へ突きつけていた。
「動くな! ためらいなく撃つぞ!」
ヘルメットを貫通する兎の耳。どこかでよく見たような、ブレザーの制服めいた服装。手にしたのは、太平洋戦争の時代に使われていたような古式ゆかしい銃剣。
青い髪をお下げにした、赤い瞳の兎の少女が――蓮子の背に、その切っ先を向けていた。
「おっ、お前たち、いったい何者だ!」
その上ずった誰何の声に、私はそろそろと両手を挙げる。蓮子も私の表情と動作から、何か凶器を向けられていることは察したようで、私から受け取った桃を手にしたまま両手をホールドアップした。
「月の民じゃない――まさか、地上人? う、動くな! 動くと撃つ! しょうがないから撃つぞ! 邪魔しなくても撃つぞ!」
困ったことに、私たちの方はといえば、妖怪に脅されるのは慣れたものなのである。結果、明らかに武器を持っている方がテンパっている。私は蓮子と顔を見合わせ、唇の動きで『兎』と伝えた。蓮子は頷く。
「あのー、兎さん? 振り向いてもいいかしら?」
「ううっ、動くな!」
「いやでも、背中向けたままじゃ会話もしにくいし」
「ためらいなく撃つぞ!」
声が裏返っている。非武装の民間人相手に、武器を持ったままそこまでテンパらないでほしい。銃の暴発が心配である。
「おーいセイラン、ちょっと落ち着きなよ」
と、茂みの中から別の声。
「リンゴ! いるなら手伝ってよ!」
「手伝ってるよー。不審人物を調査のため観察中」
「それは見てるだけって言うの! ふたりいるんだからそっちの金色の方なんとかして!」
「えーめんどくさい。見たとこ武器も持ってないし弱そうだし、セイランひとりでだいじょぶ、だいじょぶ」
「いやこいつら地上人なら突然この月に現れるなんて絶対ただ者じゃないって!」
「だから捕まえて依姫様に引き渡せば大手柄じゃん。それを譲ってあげてるんじゃん。感謝されこそすれ責められる覚えはないなあ」
「いいから手伝えー!」
セイランと呼ばれた青い髪の兎が、悲鳴のように叫ぶ。その声に、「しょーがないなあ」と渋々といった様子で、茂みから別の兎が姿を現した。
やはり同じ――鈴仙さんのあのブレザーを着て、兎耳はヘルメットを貫通せずに横からはみ出している。金色の髪と赤い瞳をした、リンゴと呼ばれたその兎は、だるそうに銃剣を担いで、その赤い眼を細めて私たちを見つめた。
「ま、そーゆーわけだから、ここは大人しく捕まってくんない? 不審人物さんがた」
―23―
妖怪たちの本拠地に迷い込んで、捕まって引っ立てられると書けば、全くもっていつも通りの展開である。違いは異変らしい異変がまだ起こっていない(はず)ということぐらいか。
ともあれ、こういう場面は相棒に任せるに限る。私が視線で促すと、相棒は小さく肩を竦め、それからリンゴと呼ばれた金髪の兎に顔を向けた。
「あらあら――そう言う貴方たちは、月の玉兎兵さんがたかしら? ふうん、月の玉兎兵はみんなその格好してるのね」
「うげ、リンゴ! やっぱりこいつら侵略者よ! 月の情報がどっかからダダ漏れしてる!」
相変わらずテンパっているセイランさんを無視して、リンゴさんは眉根を寄せて蓮子を見やる。とんとんと担いだ銃剣で肩を叩きながら、ひとつ鼻を鳴らし、
「んー? 穢れの気配が感じられないんだけど、でも月の都じゃ見ない顔だし……あんたたちほんとに地上人?」
「一応、地球から来たつもりですわ。どうやって来たかは企業秘密」
「ふうん。随分丁寧に禊ぎでもしてきたのかなあ。まあいいや、それより地上人だってんなら、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「あら、なあに?」
「――ここに来たのはひょっとして、月からの脱走兵の兎の手引き?」
そのリンゴさんの問いに、セイランさんがびくりと身を竦める。
ははあ、と蓮子はホールドアップしたまま。その問いにひとつ首だけで頷いた。
「ということはやっぱり貴方たち、鈴仙ちゃんのお仲間なわけね」
「ちょまっ、えっ、レイセン!? あのレイセンの知り合い!?」
「セイランうるさい。ちょっと黙って」
リンゴさんにじろりと睨まれ、セイランさんは耳をへなへなとさせながら黙りこむ。
肩を竦めたリンゴさんは、手にしていた銃剣を私たちに向けた。
「こーゆーのはあんまやりたくないんだけどなあ……。あのレイセンはいるの?」
「あら、鈴仙ちゃんがいたらどうなるのかしら」
「さあ、処分は依姫様が決めることだけど――レイセンはいるの? いないの?」
「残念ながら、私たちふたりだけですわ。少なくとも今私たちがここにいることについて、鈴仙ちゃんは完全無欠に無罪よ。貴方の言ってるのが私の知ってる鈴仙ちゃんなら、だけど」
「地上の侵略に怯えて月から逃げだしたヘタレの玉兎兵。ヘタレると耳がしなしなになる」
「ああ、それは確かに私たちの知ってる鈴仙ちゃんだと思うわ」
「今ここにはいないのね?」
「いないわよ」
「……じゃあ、あの子、月に帰るつもりあるかどうか聞いてる?」
「さあねえ。鈴仙ちゃんの本心はわからないけど、私の見てる限りだと、もうすっかり地上に馴染んで、地上の兎になってる印象だけど。地上に居場所もできてるしね」
蓮子のその答えに、セイランさんが複雑な顔をし、リンゴさんは無表情に息をついた。
「そっかー、あいつ本格的に裏切ったかー。マジかー」
「り、リンゴ、どうするの?」
「どーもこーも。こいつらの言うこと、どこまで信用していいかはわからないけど、少なくとも地上のレイセンの知り合いなのは間違いなさそうだし。私ら玉兎兵の手には余るわー。依姫様の指示を仰ぎましょ」
「う、うん、わかった」
「じゃ、私は仲間呼んでくるから、セイラン見張りよろしく」
「ちょっ、リンゴ! あーもう、動くな! しょうがないから撃つぞ!」
やけっぱちのようにセイランさんが銃剣を構え直し、リンゴさんは飄々とこちらに背を向けて、「あーもしもし、こちらリンゴ。サキムニ聞こえる? 不審人物を捕獲したって依姫様に伝えてくんない?」と何処かへ通信している。
その様子を見ながら、相棒は両腕を上げたまま視線だけでセイランさんを振り向く。
「うーん、ホールドアップしてるのも疲れてきたから腕下ろしていい? 何もしないから」
「動くなってばー!」
蓮子が飄々と言うと、ますますセイランさんは慌てふためいてふらふらと銃剣の切っ先を彷徨わせる。もう見てるだけであまりに危なっかしくて見てられない。
「セイランちゃん、もうちょっと落ち着かないと危ないわよ」
「黙れー! ホントに撃つぞ!」
「いやいや、撃っちゃダメよ撃っちゃ。だって穢れを嫌う月の都で地上の民を傷つけたりしたら、地上の穢れが撒き散らされちゃって大変でしょう? 撃っちゃったら大変なのは私たちよりセイランちゃんたちの方よ」
「――――――」
「ほらほら、そんな危ないものは下ろして。こっちも徒手空拳だから、月の都に穢れを撒き散らさないように、理性的に話し合いましょ」
「う、あ、え」
もうセイランさんは完全にパニックになっている。ぷしゅー、と頭から湯気を噴きそうなぐらいに混乱しているのが見てとれた。頼むから銃剣は手から放してほしい。
と、そこで通信を終えたらしいリンゴさんがこちらに戻って来て、いっぱいいっぱいになったセイランさんを見て溜息をついた。
「あーもう、セイラン相手に口先で議論なんて野蛮なことしないでよ。せっかくこっちが穏便に暴力で解決しようとしてるってのに」
「あら、なかなか含蓄のあるお言葉」
「自分を傷つければ月に穢れが撒き散らされる、か。随分とまあ月のことに詳しい地上人だね。こっちの穏便な暴力を野蛮な議論で粉砕してくれちゃって。これだから地上人は」
と、リンゴさんは制服のポケットから団子をひとつ取り出すと、口に放り込んでもぐもぐと食べ始めた。なんだろう、黒桃太郎の奇美団子か?
「ま、それならそれで、穢れを撒き散らさない程度に痛めつけるって選択肢もあるよ? 私はあんまそういうのは好きじゃないんだけどさあ」
「それに関しては私も同感だから、地上人の野蛮な議論に付き合ってもらえる?」
「口先なら負けないって顔してるねえ。生意気な地上人だなあ」
二つ目の団子を口に放り込むリンゴさん。もぐもぐとそれを咀嚼しながら、肩を竦める。
「どーしよっかなあ。めんどくさいから依姫様が来るまで黙らせとこうかなあ。セイランもこれだもんなあ……。――ん、ちょい待ち。なにサキ。え、依姫様いない? マジで? じゃーせめて援軍寄越してよ。キュウでもシャッカでも誰でもいーからさ。もう向かってる? あーそう、お早い手配感謝。……ってかもう来ちゃったか」
と、リンゴさんが肩を竦めた次の瞬間。
ざざざっ、と私たちの周囲を、多数の足音が取り囲んで――。
同じく、制服を着てヘルメットを被った、銃剣を構える兎の集団が、私たちを取り囲んだ。
―24―
「セイラン、リンゴ、大丈夫?」
私たちを囲んだ十数の兎たちの中から、桃色の髪をした兎の少女が、リンゴさんに駆け寄る。
「おーさすがはサキムニ、判断が早いね。とりあえずセイランが使い物にならなくなっちゃったから、下げといてくれる?」
「わ、わかった。キュウ、お願い」
「あいよー。ほらセイラン、しっかりしなって」
「うーん、動くと撃つ、撃つと動く、ためらいなく動く、撃つからしょうがない……」
髪の短い兎が、混乱状態のセイランさんを引きずっていく。他の兎たちは怯えたような顔をしながら、遠巻きに私たちを取り囲みつつ、銃剣の先端を向けていた。
「……確かに不審人物ね。どう見ても月の住人じゃない」
「お、シャッカ。でしょー? 不審不審」
眼鏡を掛けた黒髪おかっぱの兎が、リンゴさんの横に出てきて私たちを不躾に眺めた。サキと呼ばれた桃色の兎は、困ったように私たちとリンゴさんとを見比べる。
「地上の人間がどうしてここに……?」
「それがこいつら、レイセンの知り合いらしいのよ」
「ええっ!?」
リンゴさんの言葉に、私たちを取り囲んだ兎たちが一斉にざわめき――その視線が、私たちではなく、仲間の兎のうちの一匹に向いた。その視線を向けられた、空色の髪をした小柄な兎は、「え? え?」と狼狽して視線を彷徨わせる。
「あー、そっちじゃなくて、前に地上に逃げた方」
「レイセン!? レイセンは地上で元気にしてるの!?」
その言葉に大きく反応したのはサキムニさんだった。他の兎たちもざわめき、なぜか視線を集められた空色の兎はひどく居心地悪そうにしている。
「はいはい落ち着いてサキ。気持ちは解るけどさ、レイセンはもうこっちに戻る気なさそうだって。地上が居心地いいみたい」
「…………」
リンゴさんになだめられ、サキムニさんは俯いて唇を噛む。……どうやら彼女、鈴仙さんの月時代の友人(友兎?)らしい。
「あの裏切り者、地上人を月に送りこんでくるなんて、何を企んでるの」
と冷たく言ったのは、眼鏡のシャッカさん。リンゴさんは肩を竦める。
「いや、レイセンとは関係ないらしいんだけど」
「……なにそれ。意味がわからないんだけど」
「こっちもそうだよ。だから依姫様呼んだのに、どこ行ってるの?」
「さ、さあ……豊姫様もいなくて」
サキムニさんが困ったように首を振る。さっきから名前の出てくる《依姫様》とやらが、どうやら彼女たち玉兎兵のボスのようだ。兎ではなく八意先生のような月の民なのだろう。
「で、どーする? ここで尋問する? それとも屋敷まで連れてく?」
リンゴさんの言葉に、兎たちは顔を見合わせる。
「そんなこと言われても」
「連れて行けばお手柄じゃない?」
「でも地上人だよ? 穢れてるかも」
「地上の穢れ持ち込んだら」
「怒られるじゃないですかー!」
「やだー!」
がやがや。まとまりなく狼狽える兎たちに、リンゴさんが肩を竦め、眼鏡のシャッカさんが溜息をついた。短髪のキュウと呼ばれた兎が、ぱんぱんと手を叩く。
「はいはい混乱するのはセイランだけにしなって。リンゴ、見つけたのはあんたでしょ? あんたが判断しなよ。あんたの判断ならみんな従うからさ」
「うえー。そーゆー責任押しつけるのやめてくんないかなー。責任取りたくないからサキに声掛けてみんな呼んだのに」
「自分で言うな、そういうこと」
露骨に嫌そうな顔をするリンゴさんに、シャッカさんが呆れ顔でツッコミを入れる。
「そう言わないで、リンゴ。何かあったら責任は私が取るから、ね?」
「またサキはそうやってリンゴを甘やかす。昔のレイセンだってそうやってサキが甘やかすから、いつまでたってもヘタレのままで逃げ出したんじゃないの」
「シャッカ……」
「そう言いなさんなってシャッカ。サキもそんな顔しない。ほらほら、いいよもう連帯責任で。だからリンゴ、ちゃっちゃと決めちゃってよ。それとも他に何か意見ある奴いる?」
「…………」
キュウさんの問いに、他の兎たちは沈黙する。リンゴさんは嫌そうに首をすくめた。
なるほど、この兎集団の力関係が見えてきた。サキと呼ばれている桃色髪のサキムニさんが穏和なリーダー、短髪のキュウさんが調整役、黒髪眼鏡のシャッカさんが毒舌担当で、リンゴさんは一目置かれている風来坊というところか。
「解った解りましたよ。じゃあ、最悪依姫様でも豊姫様でもなくていいから、誰かこの件について判断できそうなお偉いさん呼んできて。その間、海岸でこいつらの尋問しよう。呼びにいくのは……シャッカ、頼んでいい? あんた、昔のレイセンの話とかどーでもいいでしょ?」
「……解った。じゃあ、ひとっ走り行ってくる」
リンゴさんに言われ、シャッカさんが踵を返して森の奥へと走って行く。それを見送って、兎たちは改めて私たちに銃剣を向けて取り囲んだ。
「じゃ、そーゆーわけだから、詳しく尋問させてくれない?」
是非もない。私は蓮子と顔を見合わせて、ただ肩を竦めるばかりだった。
そんなわけで、銃剣を構えた兎たちに追い立てられて、元の海岸に逆戻りである。
私と蓮子を中心に、兎たちは車座になって取り囲む。尋問担当として前に出てきたのは、リンゴさん、サキムニさん、キュウさん、それから復活したセイランさんと、後ろにくっついてきた小柄な空色の兎だった。
「んじゃま、自己紹介しましょうか。私は宇佐見蓮子、こっちは相棒のメリー。地上で探偵をやってる人間よ」
「たんてー?」とセイランさん。
「世界の謎を解くお仕事。ま、調べ物が仕事みたいなものね。えーとそちらはリンゴちゃんに、セイランちゃん、サキムニちゃん、キュウちゃん、で、そっちの子は?」
蓮子に指され、サキムニさんの背後に隠れていた小柄な子がびくりと身を竦める。
「あー、この子は今のレイセン」とリンゴさん、
「今の? そういえば地上の鈴仙ちゃんのこと、昔のレイセンって言ってたわね」
「そ。昔のレイセンがいなくなったから、その後に入ってきたこの子に、依姫様がレイセンの名前を与えたの」
リンゴさんの言葉に、レイセンさんがこくこくと頷く。なるほど、そういうことか。月の民にとっては、新しいペットに死んだペットの名前をつけるような感覚なのかもしれない。・しかし鈴仙さんとレイセンさんでどうにもややこしい。
「うーん、同じ名前だと話がややこしいわね。じゃあ、地上の鈴仙ちゃんの方は今の名前に従って、ウドンゲちゃんと呼ぼうかしら」
「うどんげ?」サキムニさんが首を傾げる。
「地上の鈴仙ちゃんは、今は『鈴仙・優曇華院・イナバ』って名前つけられてるの」
蓮子が砂浜に『鈴仙』の文字を書く。兎たちが興味津々という顔でその字を覗きこんだ。さすがに『優曇華』は画数が多すぎて砂には書けない。
「へー、漢字で鈴仙か。いいなあ」キュウさんが羨ましそうに言う。
「みんなの名前は漢字は当てられてないの?」
蓮子が問うと、兎たちはこくこくと頷く。
「あらら、セイランちゃんなんかてっきり『青嵐』かと思ってたのに。まあでも、その髪の色で『青嵐』じゃそのまんますぎるわね。じゃあ、ちょっと捻って――『清蘭』とか」
蓮子がその字を砂に書くと、セイランさんは大きく目を見開いて、周囲の兎たちもざわめく。
「どう?」
「……か、かっこいい!」
「あら、気に入ってもらえたようで何より」
目を輝かせるセイランさんに、蓮子はにっこり微笑む。
「あ、じゃあ私も私も!」手を挙げるのはキュウさん。
「キュウちゃんよね? キュウ……はいろんな字があるけど、そうねえ。『穹』とかどう?」
「おおおおおおおー!」
「サキムニちゃんは……ちょっと難しいわねえ」
「え、わ、私も?」
「うーん、『咲夢丹』?」
「それは凝り過ぎじゃない?」思わず私も口を挟む。
「じゃあ愛称のサキちゃんとして『皐期』。春の花みたいな綺麗な髪してるしね」
「……あ、え、ええと、ありがとうございます」
「ふふ、リンゴちゃんは……そうねえ。そのまんま『林檎』じゃ芸がないし、『鈴瑚』とかどうかしら?」
「……ふうん、面白いこと考えるねえ」
リンゴさんはその字を見下ろして、興味深そうに頷いている。私はそれを見ながら肩を竦めた。全く、蓮子もよくわからないところにこだわるものだ。月の兎だからって、何も無理に月の字を入れなくてもいいだろうに。『キュウ』はさすがに思いつかなかったようだが。
と、それを見ていた他の兎たちも、我も我もと名前の漢字表記を求め始めて、蓮子は結局レイセンさんと、この場にいないシャッカさんを除く全員分の名前の漢字を考える羽目になった。やれやれ。
ともあれ――これで兎たちの警戒心はだいぶ薄れたらしい。その後は尋問というには和気藹々とした、蓮子の地上トークに突入した。サキムニさんは特に鈴仙さんの情報を求めていたようで、話題は主に鈴仙さんの近況報告である。
「じゃあ、レイセンは地上で元気にしてるんだ……」
「ええまあ、地上の飼い主さんに苦労させられてるようだけどね」
「あいつはちょっとぐらい苦労する方がいいって」
そんな話を、もうひとりのレイセンさんは気まずそうに聞いていた。同じ名前の知らない相手の話となれば、居心地は悪かろう。私は心の中だけで同情する。
――なお、八意先生や輝夜さんの名前を出すと話がややこしくなりそうなので、相棒はその名前を伏せていた。賢明な判断と言えよう。
そうして、しばしの時間が過ぎ、蓮子がそろそろ月の都についての情報収集を切り出そうとウズウズし始めた頃――。
「あ、ちょっと待って。……シャッカが戻ってきたみたい」
不意にサキムニさんが兎耳に手を当て、そう言った。ほどなく、森の方からこちらに近付いてくる足音。私たちはそちらを振り向く。
「……お待たせ」
戻って来たシャッカさんは、ひとつの人影を連れている。その姿に、兎たちが一斉にざわめいた。シャッカさんよりもだいぶ背の高いその人は――片側だけの、天使のような美しい白い羽根を背負っていた。片翼の天使――そんな言葉が思い浮かぶ。
「………………」
口元に手を当てた、銀色の髪のその女性は。
感情の見えない眼差しで、私たちを見つめていた。
第14章 深秘録編 一覧
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深秘録前の話って事は紺珠伝のプロローグ辺りかな?
夢の世界に逃げ込んだ後だとしたらメリー達が月面にたどり着けるのも納得できる。ただサグメがいる事の説明がつかないけど…
レイセンが依姫の元に居るってことはこの月の都は儚月抄が起こった世界の月の都なのかな?
それとも何か別の理由があるのだろうか?
しかし綿月姉妹がいないからとはいえサグメ様連れてくるとは…本当に月の都のオカルトボールを蓮メリに手渡すのかな。
これは深秘と紺珠の繋がりかな?
深秘~紺珠の本編外の番外的な。
でも、肝心の二人が月の都に跳んだ原因がわからん。
ドレミーか紫か。ってか綿月姉妹がそろっていないあたり、この時点で紺珠の異変が始まりつつあったのか?
来た! あおりんご来た! 紺珠伝編はやらないと思っていたからこれはうれしい。
それにしても玉兎たちはぽんこつ可愛い。その中でも飛び抜けてぽんこつな清蘭とひとり冷静な鈴瑚の大物感が大好きです。
どんな大長編になってもいいから、これまでのキャラみんな出てほすぃ
月の話はやらないと思ってたので嬉しい
深秘録編なわけだから、憑依華とも関係してるはずよね。てことはやっぱりドレミーが結構重要になりそうな気がするけど…
【おしらせ】
いつもコメントありがとうございます。作者です。
本日4/10の更新はまたしても作者都合によりお休みです。
次回更新は4/17(土)の予定です。
展開も更新も牛歩で申し訳ありません。今後もよろしくお願いします。
綿月姉妹いないからもしやと思ったけど、片翼の天使…
会話…できる?w